コトリ×コトリ
コトリ×コトリ
著: 神方山 祈
イラスト: おうぎまこと
初出: 2009/10/11

<あらすじ>

 村外れの森から響く、おぞましい人喰い妖怪の歌声。甘美な旋律に誘われるように、寺子屋の子供たちが夜毎に一人ずつ消えてゆく。だが朝になっても騒ぎは起こらず、教室の机だけが一つ減っている――まるで、何事もなかったかのように。
 ただ一人、寺子屋の異変を知る少女“ケイ”は、妖怪の歌を恐れて森へ近付こうとはしなかった。大好きな先生と過ごす温かい時間が、ケイにとっての唯一の希望だった。しかしながら、周囲の子供たちの失踪は続き、やがて少女の幸福にも終焉が訪れる。

プロローグ
プロローグ  この世界は無秩序で、矛盾しているとよく言われる。  無秩序であるという意見、これは大きな間違いだ。確かに、この『幻想郷』と呼ばれる世界は、巨大な結界によって外界との関係を遮断された空間であることを除けば、数え切れぬほどの役立たずの規則によってがんじがらめに縛られている、ということがない。  しかし、実際のところ、この世界は無秩序であるというわけではない。  言うなれば、そう――単純に、自由なのだ。  自由であることと、無秩序であることを、取り違えてはならない。  それに、自由であるとはいえ、この世界にはきわめて厳正なルール――平和のために役立ち、誰をも縛り付けることがないルールが、確かなものとして存在している。それも、ほとんど暗黙の了解のような形になっているのにもかかわらず、多くの人間や人間であることをやめた者たち、果てには神様や夜の闇に潜む妖怪たちまでもが規則正しく守っている素晴らしいルールである。  この世界、もしくはこの世界を認識できる近しい世界に住む者ならば、誰しもが守っている絶対的な規則――『スペルカードバトル』と呼ばれる画期的な決闘のルールが出来上がってから、人間と妖怪の単純に相容れない方向へと傾いていた関係は、もはやすっかり解消されてしまった。  とはいえ、矛盾は確かに存在する。だからこそ、その矛盾を混沌と捉え、「この世界は無秩序である」などという評価を下す者が多いのであろう。  例えばそれは、人間を守る妖怪であったり、妖怪を守る人間であったり、はびこる矛盾をひとつひとつ挙げてゆけばきりがないもので、すべてを語り終える頃には、外の世界の大きな時代の区分がふたつみっつ終わっているだろう。  すきま妖怪――強大な力を有する妖怪の賢者いわく、この世界は矛盾に溢れていても構わないらしい。この世界と外界との狭間を大いなる結界で分かち、境界というものを知り尽くした妖怪の賢者にとって、そういう矛盾こそが、ある種の動力源となっているようだ。されども、世界のバランスを保つために活躍している妖怪が矛盾を食い物にしているとあれば、「金剛の杵でも割れぬ石頭」とかいったような小賢しい皮肉を投げつけられようとも、それこそがそもそも大きな矛盾なのではないかという指摘をしたくもなる。  まあ、喰うか喰われるかの赤黒い緊張に満ち溢れた世の中であるよりは、適度な平和が約束されている現状、それを否定しようとは思わないし、むしろとても良いことであると思う。外の世界はもっと理不尽な矛盾だらけで、ひとたび穏便という名のついた札をめくれば、その裏側は殺伐とした色にまみれている場合が多い。それでも、すべてが悪辣としているわけではない、という救済的な否定の意見は添えておきたいところであるが。  そんなことはさておき、私がなぜ、矛盾などという七味唐辛子くらい腹の足しにもならない要素を取り上げて思考しているのかと言えば、つまり、こういうことなのだ。 「けーね先生」  夜の静けさには似つかわしくない、甲高い呼び声を受けて、私は背筋にコンニャクでも投げつけられたかのような面持ちで振り返り、深い溜息をつく。実際は、振り返るよりも先に溜息をついたかもしれないが、首を回したほうに想像したとおりの憎たらしい微笑を認めた時、どちらが先であったかという小さな疑問には、ただちに「至極どうでもよい」という結論が下される運びとなった。 「ねえ、上白沢先生。どこへ行くの?」  慇懃無礼もはなはだしい。  上白沢慧音――カミシラサワ・ケイネというのが、私の名だ。そんなことは知っている。だからこそ、ご丁寧にもわざわざ名字で呼び直してくるあたり、憎たらしくて仕方がないのであった。 「ああ、もう。まったく」私は二度目の溜息をつき、可能なかぎりの皮肉と恨めしさを声音に浮かべて言う。「お前は、そんなに私の説教が好きなのか?」  振り返った先には、好奇心を惜しげもなく放っている少女の笑顔があった。  昼間の学び舎であれば、このような笑顔が存在していても違和感がないどころか、たいへん似つかわしい光景であることはまず間違いない。けれども、深い森に至る獣道の手前、しかも日が沈みきってから数刻が経過している暗闇の中で出会う一コマとしては、それはあまりにも相応しくないものであると言える。  ただ、私はそのことが矛盾した事象であると判断して、矛盾についての思考を提起したわけではない。それはこの場に似つかわしくないというだけで、矛盾していると言えるものではないだろう。 「夜の森には近寄るなと。何度言えば解るんだ、お前は」  こうして私は、簡潔な謳い文句として形骸化した説教を投げつける。  私のお説教など、子供たちにとっては七味唐辛子のほうがまだ腹の足しになろうものだ。それでも、腹はともかく、キッチリと頭の足しにはして頂かないと困る。「骨折り損のくたびれもうけ」という言葉があるが、『くたびれ』というやつが腹の足しにもならない要素であることを、私は身をもって理解しているのだ。  つまり、私が夜の森へ向かおうとすると、たった今この場に繰り広げられている状況とまったく同じように、しばしばこの少女に足止めさせられてしまうのである。  子供だましのお化け屋敷もさながらに、背後からコンニャクみたいな言葉を投げつけてきたこの憎たらしい少女にとって、教師たる私のありがたい小言は、少しも頭の足しになってはいないらしい。むしろ、似たようなやり取りを何度か繰り返しているうちに、唐突にコンニャクを投げつけても憤ることがなく、呆れて溜息をつくだけだという私のお決まりの反応ばかりを頭の足しにして、余計に調子づいているようにさえ思える。  聞かん坊の石頭なのか、それとも私の言いつけが理解できないコンニャク頭なのか判然としかねる前代未聞の問題児に対し、私の溜息の回数は増えるばかりである。私はもう何度目になるのか解らない『三度目の溜息』を吐き出したのち、芳しい成果が期待できないことが明白な宇宙人とのコミュニケーションに、致し方ないと言わんばかりの神妙な顔つきで臨むことにした。 「帰れ」 「やだ」一応、日本語は通じているらしい。 「……はあ。お前は、料理がヘタクソだな」 「私、お料理したことないよ」 「もし、料理をつくったら、きっとヘタクソだ」 「どうして?」 「『くたびれ』は、腹に溜まらない」そして、味もよろしくないのだ。 「先生、疲れてるの?」  問題児は、これ見よがしに首を傾げる。首を傾げるコンテストで発表をしたら、それなりの結果は残せるだろう。 「そうだな。私は、疲れているんだ」 「やっぱりね」 「お前さんが帰ってくれたら、元気になる」 「やだ」 「ああ、解っている」  この場合、解っている、という言葉には、「納得した」という含みは一切ない。「予想通りの反応だ」程度のニュアンスである。  それから私は、再三言いつけてあるはずの『夜の森に潜む危険性』について、いま一度もっともらしく諭してみせたのだが、別に先生のお説教が大好物であるというわけではないらしいこの問題児の両耳の穴はトンネル状につながっているらしく、焼け石に水をかけているような、やるせない気分になるばかりである。「右耳から入ってきた小言は左耳から出しなさい」などという言葉は、かの有名な異教にも謳われていないはずだが、どうやら宇宙にはそういう教えが存在するらしい。 「もう一度言うぞ。夜の森は危ないから、おうちに帰りなさい」  私はそう言ってから、すかさず「やだ、は禁止」という制約を付け足した。対策にぬかりはない。ここは地球なのだ。 「先生、質問です」すると少女は、右腕を真っ直ぐに伸ばして言った。問題児のくせに、優等生みたいな動作ができるというのは、目玉焼きにマヨネーズをかける嗜好の人間くらいには興味深い。  それでも、この宇宙人は、どうせ面倒なことを言い出すに決まっているのだ。まあ、コーラを飲んだらゲップが出る、というくらいには、確実であると思う。私は無言で腕を組み、続きは聞いてやらないぞという意思をこめて、精一杯の偉そうな態度で上から睨み付けてやった。  しかしながら、この少女の頭は人一倍、物事を自分の都合のいいように解釈するように出来ているらしい。小さな宇宙人は私のジェスチャーを「聞いてやらないこともない」という意味に受け取ったらしく、慇懃無礼に問うてくる。 「先生は、夜の森に入ろうとしていますよね。危ないのにさ。どうして?」  訂正。しっかりと頭の中に焼き付けているくせに、この小賢しいのは、私の小言をこすい方向ばかりに運んでいく。そして私の心が矛盾という名の七味唐辛子にさいなまれる原因こそが、まさにこれなのであった。  ――夜の森は危険に満ち溢れているから、決して足を踏み入れてはならない。  私はいつも、生徒たちにそう教えている。  それなのに、そのように注意を促しているはずの私自身が、積極的に危険な場所へ踏み込もうとしている。この事実が矛盾以外の何ものでもないということは、小さな子供たちはもちろん、猿でも解ることであろうし、ともすれば、湖の氷精にだって指摘されてしまうかもしれない。 「夜の森は危ない」私は、自分に言い聞かせるように話した。「しかし、先生はそういう場所に、あえて踏み込まなければならない」 「どうして?」 「危ないからだ」 「危ないから、入っちゃだめ、って言ってたけど」 「先生は、危ないから入るんだ」 「どうして?」 「夜の森を調べて、何がどう危険なのかということを、里のみんなに具体的に知らせるのが、先生の役目だからだ」  私はもっともらしく話したのち、我ながら素晴らしいことを言うものだと思い、二回ほど小さくうなずいた。自分に酔っているわけではないが、少なくとも、今の言葉はメインディッシュとして客にふるまっても恥ずかしくないだろう。しっかりと腹の足しになるからだ。 「暗くて、足下がよく見えない。転んで怪我をするかもしれない」私は人差し指を立てて説明する。「でも、そんなことは誰にだって解るだろう。私が言いたいのは、そういうことじゃない」 「じゃあ、どういうこと?」 「夜の森には、妖怪が出る」私は両手を前に掲げて、さも恐ろしげに、十本の指をばらばらに動かした。  だが、迫真の演技だと自負していたのにもかかわらず、少女はくすくすと笑いながらこちらを見ている。ピアノを弾くジェスチャーか、もしくは、ダンゴムシの脚のモノマネに見えたのかもしれない。  どうにも納得しがたい反応であったが、私は咳払いをして、続きを話した。 「どういう妖怪が出て、どんな恐ろしいことをしてくるのか、里の者たちに具体的に教えてやる必要がある。妖怪の中には人間に化けて接近してくる者がいるし、信憑性のない噂だけでは、興味本位の度胸試しで森に踏み入る者が出てくるからな」  そこまで話すと、私は苦虫を噛み潰して、目の前の問題児を睨みつけた。いかに身をもって危険性を伝えようとも、こんなふうに、面白がって近寄る奴がいるのだ。 「先生」少女は再び、鉄パイプみたいな挙手をした。 「……何だ」 「それは、教師の仕事じゃないと思うんだけど」  私は小さく舌打ちをした。溜息の回数と同じように、舌打ちの回数を通算して確認するなら、星の数をかぞえたほうが早いかもしれない。実のところ、この状況――私が夜の森に踏み入ることに関する、コンニャク頭とのアマノジャクなやり取り自体も、果たしてもう何度繰り返されているのか、かぞえていたらきりがないくらいなのだ。 「とにかく。危ないから、今日はもう帰りなさい」  私は少女に歩み寄って、肩をつかみ、強引に回れ右をさせた。自身が矛盾した行動をとっていることが否定できず、話すことさえもどかしいので、力業に頼らざるをえない。そういう行動をとってしまえば、それはそれで、いい大人が子供に翻弄されていることを認めているようで、なんだか苛立たしく感じる。しかし、ひとたび開き直ったならば、もういっそとことん大人げなく振舞ってやろうと思うもので、もはやその程度の苛立ちは、ほとんど苦にならない。大雨の日に傘を忘れて、ずぶ濡れになってしまった腹いせに、池の水に飛び込むようなものだろう。  しかしながら、このように子供には決して理解し難いであろう高度な思索が展開されていることなど露知らず、小賢しい問題児は、同い年の友人を見るような目で、肩越しにこちらを見上げて問うてきた。 「先生、危険を調べるなんて、嘘でしょう?」 「あのなあ、私は教師として」 「先生の嘘つき。本当は、誰かに会いに行くんだ」 「な」しまった、と思ったが、もう遅い。「な、何を言っている。そんなわけ、ないだろう」  わずかな動揺であっても、見せつけてしまった時点で、相手の指摘を肯定しているようなものだ。そして、そのことを見逃さない程度には、この少女はよくできた悪ガキなのである。 「だって、嬉しそうに夜の森へ行くなんて、変だもの」  その言葉を受け、私は反射的に頬に触れた。そうしてから、じわじわと恥ずかしさが込み上げてくる。 「わ……私は、そんなに嬉しそうだったか?」 「うん」少女は心底おかしそうに笑って、うなずいた。「スキップしてたよ」 「…………」 「どうして? ねえ、先生、どうして?」  再び、舌打ち。ドウシテ星人は、さっさとドウシテ星に帰ればいいのに、と思う。  私は森の暗がりに視線を投げつけて、その中から上手な返答を拾い出そうと思案した。しかしながら、無事に逃げ道を見つけ出す前に、悪ガキの言葉が先回りして、私の頭を強く打ち付けたのである。 「ひょっとして、妖怪のお友達がいるの?」 「――――」  どうやら私は、顔に出やすいタイプらしい。そのことは以前から重々承知していたはずであったが、直そうとしても、なかなか直らないのが、癖というやつである。  私は何度、このやり取りを繰り返せば気が済むのだろうか。いや、こんなことを考えている時点で、気が済むとか、そういう類の話ではない。これもまた、矛盾であると言えるかもしれない。  何にせよ、私は、「妖怪のお友達がいる」ということを認めてしまった。少なくとも、目の前の少女が相手では、今から態度を改めて誤魔化せるとは到底思えない。  さて、奇々怪々のはびこる幻想郷であるが、私が何よりもおかしいと思うのは、この後のことだ。 「すごい! 先生、妖怪のお友達がいるんだ!」  不思議なことに、この悪ガキは、いや、あえて言い換えよう、この阿呆は、恋にときめくお姫様みたいに両手の指を胸の前で組み合わせて、こちらを見つめる瞳といえば、宝石みたいに輝いている。いや、単に月光を受けてそう見えているだけなのだが、それにしても、要らぬ演出をしてくれる月だ。 「ああ、解った、解った。……認めよう。私には、確かに、妖怪の友達がいる」私は、先程とは正反対の方向へ開き直ることにした。「しかし、だ。何故、お前は怖がらない? 教師の秘密を知ってしまった生徒が、怯えながら両親や友人たちに触れ回って、私の社会的生命が大ピンチ、という筋書きになるのが普通だろう」  妖怪とは、すなわち、人を喰うモノだ――私は、生徒たちにそう教え込んできた。  それなのに。  それなのに、この悪ガキときたら。 「だって、かっこいいじゃない! 妖怪と友達だなんて、先生、すごい!」  こいつの頭の中は、コンニャクという名のミステリーだ。  私の心はもう、すっかり諦めの色に染まっていた。どのような色かと言えば、まあ、灰色である。白い心の中に黒い意見を汲み取って混ぜた、妥協の色とも言えるかもしれない。大体、コンニャクと似たような色なので、私の頭のなかも、コンニャクにされてしまったのかもしれない。 「ああ、もう……解った、解った」何が解ったというのか、自分で自分を問い質したくなるような物言いである。「この際、正直に話してやろう」 「やったあ!」  そして、この笑顔である。もはや溜息は、呼吸と見分けがつかないくらいに、きわめて自然にこぼれ出た。 「妖怪のお友達のことでしょう? ねえ、どんな妖怪なの? どんなお名前なの? 私も、妖怪さんに会いたい!」 「残念ながら、これから会いに行く奴は、妖怪じゃない」  立て続けに投げつけられる質問を、私はその一言で跳ね返した。  これは嘘ではない。私には、確かに妖怪の友達がいるけれど、これから会いに行くのは、それとはまったく別の人物なのだ。  対する少女は、ものすごく落胆してしまったようで、がっくりと肩を落とすと、ほとんど凍りついたように停止してしまった。ざまあみろ、と言ってやろうかとは思ったが、ここまで反応が極端だと、むしろ申し訳ない気持ちのほうが強くなってくる。 「どうして? 夜の森に、普通の人はいないよ?」 「ああ。普通の人は、いない」  私はニヤリと笑ってみせて、少女のほうへ歩み寄った。それから、しゃがみ込んで、目の高さを合わせる。  結局、いつもこうなるのだ。  懲りない悪ガキが、私の後を追ってきたので、洗いざらい打ち明ける。私が、誰かに話したいから、こうなるようにしているのだ。  時々、この話を知らない誰かに話さなければ、自分の中で破裂して、心のどこかが崩れてしまうような気がしてならないのだ。  これは、歯を磨いたり、髪を洗ったりするのと同じこと。  自ら筋書きを用意しておきながら、自らそれを阻止しようとする行いこそ、矛盾していると言えるかもしれない。  まあ、儀式みたいなものだ。  歯を磨く前に、歯ブラシを水で洗う。  石鹸を絡める前に、髪を水で濡らしておく。  そして、そういう儀式の段階は、もう済んだのだ。  だから。 「聞かせてやろう」  私は態度を一変させて、わざとらしいくらいに、穏やかに語りかける。  これは、秘密の話だ。  だからといって、別に、相手の口が堅くなくたっていい。  むしろ、頭が柔らかいくらいが、ちょうどいい。  秘密の話なのだから。  ほとんど誰もが、知らない話なのだから。  私がこれから語るのは、普通ではない物語。  普通ではない人間。  普通ではない妖怪。  最初に普通だった者さえ、行き着く場所は普通ではない。  不気味で、  陰気で、  凄惨で。  悪夢のような、本当の話。  赤くて、  黒くて、  血みどろで。  関わった人間は、皆、死んだ。  今宵は貴殿の普通ではない神経を称えて、とくべつにお聞かせしよう。  普通ではない、この物語を。  普通ではない、私の歴史を。  コトリと、コトリと――コトリの話を。
第一章
第一章 小鳥      1  ハクタクというものについて、私は先生からよく聞かされていた。  中国に古来より伝わる、『白澤』という名の妖怪の話だ。  九つの目と、六本の角を持つ獣。  万物を知り尽くし、人の言葉を人よりも理解し、徳高き治世にのみ現れ、為政者を助けるという神獣。具体的には、すべての妖怪の危険について、その知識をもって人に知らしめ、退ける――そう、妖怪というよりは、人間を護る神に近い存在。  私の先生は、ハクタクという妖怪は、歴史にもよく精通していると教えてくれた。  ハクタクは、歴史を喰う。  ハクタクは、人を喰う代わりに、人の歴史を喰って生きる妖怪なのだという。だからこそ、ハクタクという生き物は、ありとあらゆる歴史の実情を知り尽くしていなければならないのかもしれない。たとえば、誰だって、採ってきたキノコに毒が入っていないかどうか、見分けがつかなければ、決して食べようとは思わないだろう。  歴史を知り、人を救うために現れる。  それはもう、普通ならば、妖怪とは呼べない存在なのかもしれない。  だからこそ、人は時に、ハクタクを『神の獣』という名で呼び、崇めるのだ。  ただ、それほどまでに多くの信仰を集めているのにもかかわらず、ハクタクはなおも『歴史喰いの妖怪』と呼ばれることが多い。それはきっと、ハクタクが徳の高い者しか護らないからだろう――先生は、そう言っていた。そして、徳の高い人間というのは、少なくとも今の世には滅多に現れるものではなく、それゆえに、信仰が形になりにくいのかもしれない、と。  しかし私は、その考え方に疑問を抱く。  先生は、ハクタクという妖怪が好きだから、ハクタク自身が神になりたがっていないとは考えないのだ。誰かが好んでいてくれることは、ハクタクにとってはとても嬉しいことではあるけれど、一方的に崇められることは、少なからず不本意だ。 「ハクタクは、ただ美味しいものを食べようとして、生きているだけです」  だって、自分が安穏に生きるために、人間を襲わずに歴史を喰っていた。それだけの話なのだ。だから、すべての人間を助けようとはしない。  西日の射す、夕刻の教室。私はその日も、いつものように一日の授業がぜんぶ終わって、みんなが教室から出て行った後で、先生にこの考えを話した。  そうしたら、案の定、喧嘩になった。 「何を言うか、馬鹿者。ハクタクは、さような低俗な生き物ではないよ」  先生は、てっぺんに蝶々結びの赤い布がついた、お弁当箱みたいな形をした帽子を脱ぐと、静かに机の上に置いた。本当は叩きつけようとしたのかもしれないが、それでは大人げないと思って、途中で諦めたのだろう。 「ハクタクだって、生き物ですよ、先生」私は、帽子に落としていた視線を戻して、先生の顔を見上げた。「しかも、人間よりも賢い。美味しいものを食べたい気持ちだって、人間よりもずっと大きい」 「人間よりも賢いからこそ、物を欲しがらずに生きてゆく術も、よく知り得ているのだろう。われわれ人間にあてがう小さな物差しで、神の獣の性格を測ってはだめだ」 「いいえ。人間よりも賢いから、徳政の世に現れたのです。悪政の世に顔を出しても、メリットがない」 「それは、どういう意味だ」先生は、小鳥のように首をかしげた。  こういう動作は、可愛らしい。いつもの頑固な態度からの落差が、私の胸に小さな温もりを芽生えさせる。こういうことを考えるのが人間らしいと言えるならば、先生はきっと、私のことを『見た目は可愛いくせに、中身はちっとも可愛くない娘』と認識していることだろう。外見が可愛いという評価は、いわゆるナルシシズムのようなものではなく、日常的に接している十一名による客観の統計だ。  私は、先生の可愛さに気を取られすぎないように注意しながら、質問に対する解答を投げ渡す。 「人間よりも賢いから、美味しいものを食べるために、徳の高い者の傍につく。有能で人望のある為政者は、綺麗な歴史をつくると考えたからです。先生は、綺麗な水と、泥水があったら、どちらを飲みますか」 「それとこれとは、話が違うだろう」 「同じです」 「違う」 「同じです」 「違う」 「お、な、じ、で、す」 「ちがう、ちがう、ちがう!」  先生は、真面目な顔で地団太を踏んだ。腰まである、純白の長い髪が、机の向こう側で大きく揺れている。こうしていると、どちらが教師で、どちらが生徒なのか、判ったものではない。これは私自身が下した評価なので、客観とは呼び難いかもしれないが、他の誰に聞いたとしても、返ってくる答えは明白だろう。  先生の家系は、先祖代々ハクタクを祀っていて、だから、名字もハクタクに似ている。ハクタクの話は、おばあちゃんからよく話して聞かされたそうだ。先生のおばあちゃんは、そのおばあちゃんから。先生のおばあちゃんのおばあちゃんは、そのまたおばあちゃんから、ずっと聞かされ続けてきたお話だという。  でも、それは所詮、人間が勝手につくりあげたハクタクのイメージにすぎない。そんなものを頑なに信じて、否定されれば地団太を踏んで、子供のように怒る。そんな先生のことを、私はとても可哀そうだと考えている。  それでも――だからこそ、可愛い、とも思える。  私の先生は、とても可愛い。  だから、嫌いになりたくはない。  だから、嫌いになってほしくはない。  でも、これは、矛盾した願い。  私はふと、つぶやいた。 「本当の意味で徳の高い者なんて、存在しないのかもしれない」  沈黙。  先生には、少し、申し訳ない。  先生は、可愛い人だから。  先生は、愛しい人だから。  だからこそ、私はここに居たい。  せめて、迷惑を掛けないようにしながら、私はここに居ようと思う。  二人とも、「ハクタクなど存在しない」とは、決して言わない。  ここが、幻想郷だから。  ここが、当たり前のように、妖異に溢れた土地だから。  いや――そういうことではない。  私は、先生のことが好きで。  先生は、ハクタクのことが好きだから。  だから、ハクタクの話をする。  放課後の教室で、こんな子供っぽい会話を、真剣に受け止め合って、納得したり、批判したり、時には怒ったりもしながら、飽きずに続けることができる。  それでも、不真面目な生徒である私は、先生に嘘をつき続けなければならない。 「そうかもしれない」  先生は、寂しそうに言った。  私は一瞬、自分の思考を見透かされたのかと思って、ドキリとした。そうしてから、その小さな肯定が、さっき私がつぶやいた言葉に対する答えなのだと理解する。  本当の意味で徳の高い者なんて、存在しないのかもしれない。  私の考え方によれば、ハクタクだって、決して徳の高い生き物ではない。  何だか同情してくれたようで、だけれど、それは矛盾にしかならなくて――私は、胸が痛くなった。  それでも、もう、止めることはできない。  橙色の夕日が照らす、がらんどうの教室。  並べられた机の数は、十一脚。  この教室には、初めは三十名の生徒がいたはずなのだ。  生き残らなければならないことが、怖かった。  何より私は、先生に嫌われてしまうことが、いちばん怖かったのだ。      2 「おはよう、ケイちゃん」  寺子屋の玄関、下駄箱の前にしゃがみ込んで靴を脱いでいる最中に、前のほうから声を掛けられた。ふと見上げると、想像した通りの顔があったので、私は脱ぎ終えた靴を持って立ち上がりながら、そちらへ声を返した。 「おはよう、レイちゃん」  レイちゃんは、この学び舎において、友達として親しんでくれるただ一人の貴重な人間だ。黒いおかっぱ頭に、綿織物の和服は素朴な土色で、手には唐草模様の風呂敷包み。絵に描いたように素朴で、真面目な女の子である。 「今日も、おしゃれだね」レイちゃんはそう言って、朝顔みたいに微笑んだ。 「そうかな。普通だよ」  さて、私はと言うと、赤紫色の短い髪、それから、絵の具に浸けたみたいに鮮やかな青色の着物姿。しかも、帯より下はスカートの形にアレンジされており、フリルまでついている始末である。目立った柄が載っていないことが救いではあるものの、レイちゃんの服装と比較してみれば、三本足の蛇と同じくらい派手であることは一目瞭然で、「普通だよ」とは言ったものの、それは謙遜か、あるいは否定できない羞恥心の表れにすぎなかった。  レイちゃんが下駄箱に草履を入れるのを待ってから、私たちは二人並んでヒノキの廊下のうえを歩いた。  これは、比較的珍しい状況であると言える。普段ならば、レイちゃんが誰よりも早く教室に到着して、私が生徒の中ではいちばん最後に――先生よりも後になる場合も少なくはない――教室の扉を開け、適当に挨拶をしたのち、静かに着席する、という展開が繰り広げられているはずだ。  私が早起きして、いつもよりだいぶ早く到着した、というわけではない。私は普段どおりに、いたってマイペースな心境で授業を受けに来たつもりだ。まあ要するに、レイちゃんがうっかり寝坊をして、朝の行動時間がいつもよりだいぶ押してしまい、教室外での遅刻魔人との鉢合わせもやむなし、というのが現在の状況なのだ。私たちは、教室までの短い道のりで、寝坊してしまったのかしら、ええそうなのよね、とか、そんな解りきったようなことを軽く確認し合った。  さて、茶色い引き戸を開けると、案の定、教室の中はすでに雑談の声で煙っており、整然と並べられた机の中で空いている、席は窓際の二つぶん、すなわち私とレイちゃんの指定席しか存在しなかった。席取りゲームではないから、早く来なければ空きが埋まってしまう、ということは決してない。だからこそ、私は毎朝のんびりと教室までやってくるのだ。  先生は、まだ教室に来ていない。前方に着席した後ろ姿が、肩を落としているのは気のせいではないだろう。到着した時間は朝礼に間に合っており、遅刻ではないとはいえ、規則正しい生活を心掛けているレイちゃんにとっては、寝坊してしまったこと自体がそれなりに屈辱であったようだ。  そうして、レイちゃんが小さく溜息をつき、身体をこちらへ向けたのを皮切りに、先ほど廊下で話したことの続きが始まった。 「昨日の夜、遅くまでご本を読んでいてね」レイちゃんは机のうえの空中で、本のページをめくる動作をした。「あとちょっとだけ、ちょっとだけ、と思うのだけれど。そういう考えが、こう、ズルズルと。ね?」 「いやぁ。それ、解るよ」私は腕を組んで、うんうんと首を縦に三度振った。 「ねぇ。あるよねぇ。どうにも夢中になって、やめられなくなっちゃってさ」 「どんなご本を読んでいたの?」 「ほら、例の、謎解きのご本だよ」  それからレイちゃんは、半年ほど前から里で話題になっている、推理小説作家の名前を挙げた。時の人であると同時に、レイちゃんが現時点で最も支持している作家でもある。そういえば、「絶対に発売日に手に入れたい」と言っていたな、と思い返しながら、昨日発売したばかりの最新刊の書名が口に出されるのを聞いていた。仏頂面の工学研究者が、好奇心旺盛な助手と共に殺人事件を消極的に解決するという、なんとも珍妙で偏屈な物語である。 「だったら、寝坊しちゃうのも、無理ないか」  レイちゃんは、謎解きが好きなのだ。だから、推理小説をたくさん読んでいるし、ましてや大好きな作家の待望の最新刊となれば、夢中になって時を忘れてしまうのも仕方がない。カタルシスとかいって、モヤモヤしていたものがハッキリとしてくる爽快な感覚が、やみつきになる理由なのだという。  今まで知らなかったことを、新たに自分の知識として頭の中に加えてゆく安心感は、私にもよく解った。本を読む、という行為は崇高だ。ページを繰り、文字に目を走らせ、手間を掛けて知識や物語を吸収していく。こういうことは、私の本能的な欲求にまで語りかけてくる、何ものにも代えがたい娯楽であると言える。 「……あの、歌」  ――では、歌はどうだろう。  レイちゃんの言葉に釣られて、私はそんなことを考えた。  実際のところ、そうして頭を働かせてみるまでもなく、自問に対する自答がいかなるものなのかということは、火を見るよりも明らかなのであった。私にとっては、この場合、『考える』という行為自体が大切なのである。一日三食のあいだに、おやつを食べるようなものだ。  とはいえ、何を考えても、考えなくても、結局のところ、答えは同じである。  歌は、好きではない。  そんな私の冷徹な感想をよそに、レイちゃんは、恍惚とした表情で言った。 「昨日も、聞こえたの」  毎晩聞こえる、歌の話だ。  里の外れに、恐ろしい妖怪が棲むといわれ、立ち入りを禁じられた森がある。近頃、夜になると、その森のほうから美しい少女の歌声が響いてくるという噂で、世間は持ちきりなのだ。その歌声の主は、妖怪だとか、妖精だとか、様々な憶測が飛び交っている。何にしても、なまじ美しすぎる歌唱であるがゆえに、森に住まう歌姫は人間を誘って喰うつもりなのだ、という意見が噂話の大半を占め、単純に美しい声であるという評価を除いては、平和的な話題として語られることは少ない。  子供たちが誤って危険な場所に立ち入らないように、私たちの通う寺子屋は里の中心に位置している。しかし、レイちゃんの家は、里の中でも比較的、例の森に近い場所にあった。だから、森の中から聞こえてくる歌声の噂についても、その歌を実際に耳にした当事者として、よく知っているのだ。 「素敵な歌声だったわ。聴いているだけで、まるで、天に昇ってゆくみたいで」  レイちゃんは、目を輝かせながら語った。間接的に伝え聞いた者と、当事者とでは、噂に対する評価に大きな差が生じるらしい。 「そのまま、死んじゃったらどうするつもり?」私は、冷ややかな視線を送る。 「そんなこと、ないよ。宝石みたいに、透き通った歌声なんだもの」 「人間を誘い込んで、食べるために歌っているんだから、当たり前だよ。純粋な欲望だからこそ、かえって、宝石みたいに汚れがないんだ」 「そんな、難しいこと、ううん、ひどいこと、言わないでよ」レイちゃんは、悲しそうな顔をした。「あのね、ケイちゃんだって、実際に聴いてみたら、素敵だねって、言ってくれるに違いないんだから」 「そうかな」私は、わざとらしく小首を傾げた。 「絶対、そうだよ」 「ありえないよ」  歌は、好きではない。歌は、私の邪魔をするからだ。  私にとって、歌とは、ただ邪魔な存在。それ以外の、何物でもない。  歌は、私に生きることをやめろと言うのだ。  そんなものを、娯楽と呼ぶわけにはいかない。  耳障りな音。  芸術とも呼びがたい。 「狂った妖怪の歌なんて、喜んで聴くものじゃないよ」 「そんなことないもん」レイちゃんは頬を膨らませて、首を左右に振った。「みんな、自分で聴いたことがないから、そう言うんだ」 「それじゃあ、お父さんとお母さんは、何て言ってるの?」 「それは。その……」  レイちゃんは続ける言葉も見つからぬまま、黙ってうつむいてしまった。ちょっと意地悪しすぎたかもしれない。 「ま。いいでしょう」私はハァと息を吐いて、つかの間の沈黙を破った。「とにかく、その歌のお陰で、今朝は寝坊したのだということはよく解った」 「ああ……ケイちゃんは、何でもお見通しだね」  レイちゃんは、読書のためにちょっと夜更かししたくらいで寝坊してしまうような愚か者ではない。どこからともなく聞こえてきた、歌というやつの魔力に引き込まれて、眠りが深くなりすぎてしまったのだ。  そういうことがあるので、比較的珍しいと述べたレイちゃんの寝坊も、近頃では少しずつ平均的な行為に近付きつつある。レイちゃん自身、この傾向に危機感を抱いて、歌を聴きすぎないように気を付けてはいるものの、どうしても、我慢できずに耳を傾けてしまう時があるらしい。どうして、それほどまでに歌に魅了されるのか、やはり私には理解できない。 「なんだか懐かしい感じもするんだ。あの透き通った歌声、どこかで聞いたことがあるような気がしてさ」 「気のせいだよ。そう思わせるのも、妖怪の策のうちなんだ、きっと」  私が断固たる主張を放った直後に、ちょうど教室の扉が開いて、先生が入ってきた。その純白の長い髪か、もしくは穴の開いたロングスカートか、はたまたお弁当箱みたいな形をした帽子を目に入れるや否や、レイちゃんを含め、皆ことごとく黒板のほうを向いて、姿勢を正してゆく。そうして、教室内の喧騒は、たちまちのうちに収まってしまった。  先生が、黒表紙の出席簿を教卓の上に置いた。  ゴォン――と、わずかに遅れて、始業を告げる鐘の音が聞こえてくる。日直を任された男子がきびきびと声を発し、それに続いて、椅子を引く音がまばらに鳴り響いた。  生徒たちは、規則正しく起立し、先生に向かって三角定規みたいな礼をする。軍隊のように訓練された動作ではあったが、客観的には、無機質であるというよりも、よくまとめられた温かい集団、というプラスの印象のほうが大きいだろう。私語ひとつなく、それでいて厳格なしきたりの存在も感じさせず、いたって平和な学級であると言える。  ――私の大好きな先生が教えているのだから、そんなことは当たり前なのだけれど。 「おはよう。早速だが、出席をとるぞ」  先生は朗らかにそう言ったが、誰が見ても空席など存在しない。これは、あくまで儀式的な行為にすぎないのだ。  この教室に通っている全員が、必ず名前を呼ばれる儀式。  そう、必ず。  全員が呼ばれるということが、解りきっている。  ――怖い。  それでも、私は怖かった。  もしも、先生に嫌われてしまったら、と想像する。  もしも、私だけが呼ばれなくなったら、と想像する。  恐怖が、思考を握りつぶそうとする。  私は、心に痛みを感じていた。  通っている者は、名前を呼ばれる。  通わない者が、名前を呼ばれることはない。  死んでしまったら、呼ばれなくなる。  生きていても、呼ばれなくなるかもしれない。  そのことが、嫌で、嫌で、仕方がない。  怖くて、怖くて、仕方がないのだ。  やがて、先生が名簿の名前を呼び終える。 「よし。全員いるな」  今日も、私の名前はちゃんと読み上げられた。  先生に名前を呼ばれることが、この上なく嬉しい。  腹の底から湧き出る安堵を噛み締めながら――同時に、申し訳ない気持ちになる。  机の数は、教卓を除いて十脚。  昨日と比べて、一つ減っていた。  けれども、先生は、嘘をついてなどいない。  この教室に通っている者は、全員、確かに着席している。  ――しがらみのない先生の言葉が、すべてをなかったことにしてくれる。  とても怖かったけれど、私には、そんな気がした。  生き続けたい私にとって、ただそのことばかりが、唯一の救いなのであった。      3  幻想郷。  妖異溢れるこの世界において、特別な力を持たない普通の人間たちが、田畑を耕し、軒を連ねて物を売り、白米と味噌汁と漬物と、時には川で獲れた魚を焼いて――いたって普通に生活しているのが、いわゆる『人間の里』と呼ばれる地域である。  人里には、子供たちが知識を身につけるために通う寺子屋もいくつかあり、中でも私の通う寺子屋は、掃除などの雑用を担当している二人の用務員を除けば、白い髪の美人がたった一人で取り仕切っていることで有名だった。  寺子屋とは言うが、ひと昔前と比較すれば、その内実は大きく変容している。  生徒たちは、畳敷きに座布団の教室ではなく、木製の机と椅子を使って授業を受ける。教師は黒板に白墨を走らせ、教授すべき事柄を見やすく書き表す。和綴じの教科書は、今でも時に『往来物』と呼ばれるが、そういった名残も徐々に霞みつつある。  ただ『寺子屋』という古めかしい呼称だけが、消えることなく、昔を懐かしむように残されている。『学校』という言葉を知る者が存在しないわけではないが、少なくとも、私の通学先に関して言うなら、里の真ん中、一人の教師と一つの教室、さして多くの生徒を抱えることもなく、丘の上に木造の小ぢんまりとした学び舎がポツリと居座っている有り様で、確かに『学校』よりも『寺子屋』という呼び方のほうが相応しいと思う。  この教室に通う生徒たちの年齢はまばらで、平均してちょうど十歳程度。春先に、学びたい者が好きなように申請して、一年間の課程を修了するまで通う。授業の内容は、古語、算数、社会常識から生活の知恵までさまざまあり、今は、私の大好きな歴史の授業の時間だった。 「――して、不比等らは大宝律令を完成させたのだ。先ほどチラッと説明したが、リツリョウの『律』とは、刑罰に関する規定のこと。どのような悪さをしたら、どのような罰を与えられるのか、ということを決めたのだ。例えば、授業中に堂々とお舟を漕いでいる林太郎には」  先生は唐突に言葉を切ると、片目だけをうっすらと開いた。そうして、厳かに組まれた腕の先には開いた教科書を持ったまま、前から二番目の席で机に突っ伏している少年のもとへ、ゆっくりと歩み寄る。  純白の長い髪を優雅に揺らしながら、夢という名の大海原にて遠洋航海実施中の偉大なる冒険家の横で立ち止まると、先生は一瞬だけ顔をしかめて、すぐさま何食わぬ表情に戻した。  それから、おもむろに教科書を丸め、  ポン、ポン。  手のひらで、軽くもてあそんでから、  ゆっくりと、  大きく、  振りかぶって――  スパァァァンッ! 「……こうやって、教科書ビンタの罰を与えるといったふうにな」  先生の仏頂面が、音の高低を一切つけずに言い放った。「イッテー」という悲痛なうめき声に続き、教室じゅうにどっと笑いが巻き起こる。  先生は、何事もなかったかのように黒板の前に戻り、リツリョウの『令』の説明を始めた。簡潔に言うなれば、古代の民法のことである――何の気なしに続けられた解説が、破裂したような笑い声をあっという間に鎮めてしまった。  とはいえ、その沈黙に水を打ったような冷たさはない。  皆、先生の授業を真剣に楽しんでいるのだ。  先生も私も、歴史の授業がいちばん好きだ。けれども、この幸せな時間に、藤原不比等についての解説がなされていることは、私にとって、多少なりとも不服であった。  藤原氏の栄華のいしずえをつくりあげた、遠い昔の公卿。四人の息子たちは後世の政治を担い、五人の娘の中からは、史上初めて王家の外から皇后となる者が現れた。  だが、私には、どうしても引っ掛かるところがある。  藤原不比等。世にこの者と等しく優れ、比ぶ者なし――フヒトという偉ぶった名前は、どうにもいけ好かない。  それでも、今が私にとっての悦楽の時間であることに変わりはない。  先生は、歴史が好きだから、歴史に嘘をつかないのだ。  まるで、ハクタクみたいだと思う。  だから私は、先生も、先生の授業も大好きだった。  自分で言うのも妙な話ではあるが、私はこの教室でいちばんの問題児として扱われている。  そういうふうに言われ始めたのが、夏の初め頃からなので、まだ問題児の勲章は新しく、傷も汚れもなきに等しい。それまでは、周囲の生徒たちと比較的平凡な付き合いをしていたことになっているが、ちょっと大人びた立ち振る舞いを見せてからというもの、いつしか誰も寄り付かなくなっていたのである。  高度な議論で先生と渡り合えることも、気味悪がられたのだろう。いや、実際のところ、私が先生との間で行っているのは、きわめて子供っぽい喧嘩であり、高尚な科学的議論などまったくしているつもりはないのだが、それでも、まだ十年ばかりしか生きていない平凡な子供たちにとっては、それなりに難解なやり取りに見えたのだろう。  教室じゅうの生徒たちが、普通ではないものを避け、触れないようにした結果、私は仲間外れにされてしまった。しかしながら、そこには、いわゆる『いじめ』の意思など存在しない。むしろ、私がみんなをいじめたせいで、こういう状況になっていると言える。  先生はそのことを気に掛けていたが、私はむしろ、このままでいいと思っている。  大好きな先生に気に掛けてもらえることが、私にとって何よりも至福なのだ。  そこには、他の生徒たちにはとうてい越えるができない巨大な壁があって、私はその壁によって区切られた崇高な知識の世界で、先生と二人きりで対話することができる。可愛らしく、愛おしい先生と、二人きりで語り合えることは、読書のような小さな娯楽を超えた、もはや至高の快楽と言ってもいい。  問題児として、たった一人、特別に扱われることが、私にとっての至福。  大好きな先生を、独り占めにできる。  ああ、なんて素敵なことだろう。  だが――例外はある。  レイちゃんだけは、優しいのか、鈍感なのか、いまひとつよく解らないが――私が問題児扱いされ始めてからも、親しみをもって接してくれている。  初めこそ、私と先生の二人きりの世界にとって、それは迷惑に他ならないと思っていた。しかしながら、友人のように会話を重ねてゆくにつれ、レイちゃんのような存在が、本来ならば隔絶されているはずの生徒たちとの間に小さな抜け穴をつくってくれることが、むしろ有難いとさえ感じるようになったのである。  ゴォン――  ふと、私の頭を直接叩いたみたいに、大きな鐘の音が鳴り響く。先生の姿を眺めてぼうっとしたり、考え事をしたり、つまるところ、授業で教えられる内容とは関係のないことに気をとられていたら、終わりの鐘が鳴っていた。  昼休みだ。  何というか、やってしまった感があるが、授業の内容よりも、先生を見つめていることのほうがずっと重要であったので、満足な気持ちのほうが大きい。 「ケイちゃん。お弁当食べよ」  鼻血が出ていないかどうか確かめていると、レイちゃんが椅子をこちら側に方向転換させて、私の机の上に風呂敷包みを載せてきた。  お昼は、いつも二人で食べている。その理由は言うまでもなく、私が生粋の問題児であり、生徒たちの輪の外にいるからだ。それでも、要領が良いためか、人当たりの良い性格からか、私とつるんでいることの多いレイちゃんまでが気味悪がられて、仲間外れにされることはなかった。  先生は、「今日は帽子にどんなおかずを入れて来たの」と茶化してくる生徒をいなしながら、教室の外へ出て行った。職員室で昼食をとるのだ。この寺子屋に教師は一人しかいないのだが、あくまで『教員室』ではなく『職員室』なのであり、すなわち、二人の用務員と一緒に食事をしているのだ。  正直な話、私はレイちゃんよりも、先生と二人で食事をしたい。しかし、それでは生徒たちの輪だけでなく、完全に教室の外側に追いやられてしまうことになりかねない。そこまでいくと、さすがの私も居心地が悪いと感じるだろうし、何よりも、他の生徒たちと接する機会が失われてしまうことは、きわめて不都合である。そればかりは避けたかった。  昼くらいは、教室の一部に徹して、弁当箱をつついていてもいい。白米と卵焼きと、鳥の唐揚げとほうれん草の炒め物。こんなものでは私の胃袋は満たされないが、皆が同じようなものを食べているのだから仕方がない。  昼食をとりながら、レイちゃんとは、少しだけ授業の話をした。とは言っても、居眠りには教科書ビンタを、というところが中心であり、主だった授業内容についてはほとんど触れられない。そうしてわずかに談笑した後は、他の生徒たちが賑やかに言葉を交わしている中で、特に会話もなく、黙々と箸を進めていく二人なのであった。  私にとっては特にもどかしくもない沈黙であったが、唐揚げだけを先に食べ終えてしまい、さてどうしよう、と逡巡しながら白米を口に放り込んだ直後に、何やらそわそわしている様子であったレイちゃんが、唐突に箸を机の上に置いた。 「ねえ、ケイちゃん」 「ん」  私は竹筒の水を飲み下しながら、レイちゃんの言葉の続きを待った。 「今夜、森に行かない?」  だから私は、思わず噴き出しそうになった。  レイちゃんがそんなことを言い出すなんて、九割九分程度には予想外だったから。 「夜の森で、歌姫を捜すの」レイちゃんの目が、金剛石みたいに輝いている。「あの綺麗な歌を、一体どんな子が歌っているのか、私たちで見つけ出すのよ」 「馬鹿馬鹿しい。見つけて、どうするのよ」 「それは……うん、会うこと自体が目的でしょう」 「そうは言うけどね」私は溜息をつく。「会って、終わりじゃないでしょう」 「まあ、そうだけど、さ。そうしたら、例えば、お名前を一筆ちょうだいするとか、私の好きな曲を歌ってもらうとか」  レイちゃんは、調子よさげにそう言って、にっこりと笑った。  何ということだ。  もはや、正気の沙汰ではない。 「私は、反対だからね」 「ええっ」  レイちゃんは、あからさまに眉根を寄せる。見てみぬふりして、私は白米をもう一口だけ咀嚼した。 「行こうよ……ケイちゃんには、あの歌を直接聴いてほしいし」 「夜の森は、危ないよ。そいつだって、危ないし」そいつとは、歌姫のことだ。 「二人なら、大丈夫だって。そんなに奥のほうまで、行かなければいいんだから。それに、歌が大好きな人に、悪い人はいないって。それどころか、あんなに綺麗に歌を紡げる人なんだもの」 「そういう問題じゃない」私はもう一度、深い溜息をついた。「夜の森には危険がいっぱいだって、先生がいつも言っているじゃない。それを一番よく知っているのは、レイちゃんでしょう?」  森の近くの家に住んでいるからこそ、その危険性を誰よりも把握している。私は、レイちゃんのことをそういうふうに理解していたつもりだ。 「だから、そんなこと言い出すなんて、レイちゃんらしくないんだよ」  そう。  らしくない。  真面目なレイちゃんが、いたずらっ子みたいに危険な提案をするなんて、どう考えてもおかしい。  そういうことは、むしろ問題児である私の役目である。  そうだ、おかしいのだ。  ――歌の魔力に、囚われてしまったに違いない。  そうでなければ、夜の森に入るだなんて、危険なことを言い出すはずがない。  レイちゃんの心が、歌に壊されてゆく。  そうして、歌のトリコにされてゆく。  だとしたら、私は、どうすればいいのだろう。  その答えは、単純で。  それでも、不本意で。  私はまだ、少しだけ迷っている。  歌が、私の生き方を、めちゃくちゃにしてゆく。  ――だから、歌は嫌いなんだ。  それでも、レイちゃんはまた、歌の話を始める。  綺麗な歌。  素敵な歌。  崇高な歌。  そうして、何でもないことみたいに、笑っている。  ――なぜ?  その疑問が、いま一度だけ、私の決断を揺るがした。  レイちゃんとは、少しばかり、話しすぎてしまったのかもしれない。  箸を持ち、白米をつかむ。  私は、何も考えていないふりをする。  もう食べるのか、  まだ食べないか。  わずかな迷い。  何にしたって、同じことだ。  それでも、結論は変わらないだろう。  レイちゃんが、歌の話をやめないから。  レイちゃんが、私を失望させてゆくから。  ――どうして?  それは、とても愚かなことなのに。  次は、自分が消えてしまうかもしれないのに。  だとしたら、私は、どうすればいいのだろう。  その答えは、単純で。  それでも、不本意で。  どうすればいいのか、と問うても、  私には、どうしようもないのだから。  それが、単純にして、不本意な解答。  ただ生きてゆくだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。  米を食べても、空腹は満たされない。  満たされぬ空腹に、水を注いで誤魔化そうとする。  けれども、持ち上げた竹筒は、すでに空っぽで。  ――そうだ。こんなふうに、少しずつ。  気付かないほどに少しずつ減って、いつの間にか、消えてしまうのだろう。  レイちゃんの笑顔が、机の向こうでぼんやり揺れている。  それだって、いつかは霞んで、消えてしまうのだ。      4  人里の外れ。  濃紺色の空に白く染み渡る上弦の月の真下、うっそうと生い茂るあやかしの森は、ビロードみたいに滑らかな光を受けて、あまりにも広大に、それでいて密やかに、うっすらとたたずんでいた。  みずみずしさを失い、徐々に色付きつつある樹木は、今は夜空の色を受けて深い青色に染まり、辺りの空気を震わせているのは、腹を空かせたふくろうの溜息と、多様な虫たちの鳴き声ばかりである。スズムシと、コオロギと、クツワムシと――後は混ざりに混ざって、何の音だかよく解らない。  夜のあいだは、人喰い妖怪が侵入してきたり、誰かが誤って森に迷い込んだりすることがないように、人里の出口へ続く道は封鎖され、昼間よりも厳重な見張りが置かれている。しかし、私たちは、見張りの大人たちが詰めている番小屋をあっさりとやり過ごし、堅固な鉄柵の向こう側へと難なく抜け出してしまった。番小屋を囲う竹垣の隅に、背の高い雑草に隠れるように壊れた箇所があって、私たちくらいの子供なら何とか通ることが出来る。その抜け穴から、森のほうへ出て行く方法を、レイちゃんが知っていたのだ。  もしかしたら、レイちゃんは毎晩、こういうことをしているのかもしれない。歌を聴きたくて、歌にとりつかれて、血眼になって秘密の抜け道を探したに違いない。  だとしたら、普通ではない。 「……結局、来てしまった」  普通ではない。  それに付き合う、私自身も。  レイちゃんの説得に、納得したわけではない。  ただ、あまりに強情なことに根負けして、本当はそうしたくはなかったけれど、もう諦めて、ここまで来てしまったのだ。  ここまで来ると、周辺には建物らしい建物もなく、人間の生活するにおいも、まったくと言っていいほどに感じられない。ここから先は、妖怪の世界だからだ。 「怖いね……」  言いだしっぺのレイちゃんが、震える声で、怯えの言葉を漏らした。  まあ、至極当然の感想ではある。それでも、毎晩来ているのだとしたら、よほどの怖がりか、演技をしているだけなのか、そのどちらかだ。後者だとしたら、十中七点くらいはつけてあげてもいい。 「あら、そう」私は溜息をつく。「だったら、帰ろうよ」 「それは、嫌だ」 「強情だね」 「だって、まだ、歌を聴いていないし」  私たちは、森の手前で立ち止まって、あと一歩を踏み切れずにいた。厳密に言うならば、私はちっとも恐れを感じてはいないのだけれど、レイちゃんが怖がって、なかなか進もうとしないのだ。やはり、演技である可能性は、限りなくゼロに近い。  そうまでして、歌を聴くことに、果たして何の意味があるというのだろうか。  恐怖にすくみ、レイちゃんは、迷っている。  踏み入るか、諦めるか。  人間的な迷いだ。  もしかしたら、それは反対で、  迷えるから、人間的なのかもしれない。  レイちゃんはまだ、消えていない。  きっと、私も迷っているのだと思う。  私も、人間的なのだろうか。 「ケイちゃん!」  突然、レイちゃんが叫んだので、私は思わず身を硬くしてしまった。叫んだ、とだけ言うと、少し語弊があるかもしれない。実際のところ、ヒソヒソ声ではあったが、険しい面持ちで刺すように名を呼ばれたので、私を驚かすにはじゅうぶんだった。  私は続きの言葉を待とうと思ったが、レイちゃんは説明するより前に、私の着物の袖をつかんで、近くの木の陰に引っ張っていった。 「どうしたの?」  わけのわからぬままに私が問うと、レイちゃんはほとんど反射的に人差し指をくちびるの前に当てて、「シイッ」と息を吐いた。混乱していて一瞬気付けなかったのだが、反対側の手の指は、向こうの道のほうを指していた。つまり、私たちが、森の前まで来るのに通ってきた道のことだ。 「あっ」  そちらを見て、私は思わず声を出してしまった。ただちに自分の口をふさぎながら、レイちゃんが私の発声をとがめたわけを理解する。  向こうの道から、先生が歩いてくるのが見えたのだ。 「何のご用だろう」レイちゃんが、声をひそめて言った。  こんな所に、こんな時間に、どうして、と言いたいのであろう。それを言うなら、私たちこそ何のご用なのか、と笑いたくなるのを抑えながら、私は木の陰から顔を覗かせて、こちらへ歩いてくる先生の姿をじっと観察した。  月明かりを照り返す純白の髪が、昼間に見るより、ずっと美しく感ぜられる。 「どうして、ここまで来られたのかな」レイちゃんが、疑問を口にした。 「先生は、通行証を持っているんだよ。見せてもらったことがある」 「でも、どうして? 夜の森は危ないって言っていたのは、先生じゃない」 「それは」私は一瞬、言葉に詰まった。「見回りに来ているとか」 「こんなところまで、見回りに来るのかな」 「来るよ。レイちゃんのおうちだって、森の近くにあるんだから」  私がそう言うと、レイちゃんは目をそらして、少しうつむいた。もしも巡回のために来ているのだとすれば、それはまさに、今の私たちのような行いをとがめるための行為に他ならない。先生を裏切っているのだという想像をして、少なからず、罪悪感を抱いているのだろう。  実のところ、私自身、先生の行為が巡回であるなどとは思っていない。  レイちゃんには、その理由が判らないだろう。  いつも先生のことを見ている私には、よく判る。  だって、そうだとしたら、あんなにも嬉しそうな顔をしているはずがないからだ。  表情はほとんど変わらないが、雰囲気がまったく異なっている。今にも駆け出してしまってもおかしくないくらい、何らかの期待を胸に秘めていることが、私の目にはハッキリと映った。  だから、いつもと同じ表情でも、私には、とても嬉しそうな顔に見えるのだ。  先生は、散歩するみたいにゆるやかな足取りで、あやかしの森に近づいてくる。やがて森の直前に到達すると、一瞬たりともためらうことなく、木々の隙間の闇のなかへ、溶けるように消えていった。  沈黙。  私は飛び出したくなる衝動を抑えて、先生の姿を見送った。今ここで出て行ってしまったら、もう私が私でいられなくなってしまうような気がしたからだ。  それでも私は、せめて、先生がいかなる期待を抱いて暗黒の世界に向かってゆくのか、その理由を知りたかった。  少なくとも、先生の行く先に待っているものは、私ではない。  私は、ここに居て。  先生は、向こうへ行ってしまう。  何かを求めて。  誰かを求めて。  私よりも重要な何かが、あるというのだろうか。  私よりも大切な誰かが、いるというのだろうか。  それは、私にとって、何よりも許せないことであった。 「先生」  だから、私は追いかける。  暗闇に溶けた、先生の背中を。  見つからないように。  消えてしまわないように。  気付かれないように。  どこまでも、  どこまでも、  追いかけるのだ。 「待って!」  ふと。  後ろから、震えた声が飛んできて、私の背中を小突いた。  振り返ると、暗がりの中にレイちゃんの姿があった。膝に手を掛けてうなだれ、肩で息をしている。  暗がりの中に、というのも、当たり前である。一瞬遅れて気が付いたことだが、周囲には暗闇しか存在しない。黒みがかった視界に違和感を覚え、ちょっと頭上へ視線をやると、空から降りそそぐはずの月明かりは、分厚い枝葉の天井によってほとんど遮断されてしまっていた。先生の姿を追い求め、私はいつしか、あやかしの森の中へと身を投じてしまっていたのだ。 「ケイちゃん、大丈夫?」  心配そうな顔をしながら、レイちゃんが歩み寄ってくる。その声は、やっぱり震えていて、恐怖を隠しきれていないのに、私のことを気にかけてくれているのだ。  けれども私には、その優しさにかまっている余裕はなかった。 「先生……」  先生を、見失った。  いや、見失ったと言うならば、先生が森に入っていった時点から、すでにその行方は明らかではなかった。結局、ここまで追いかけてくる最中にも、一度もその背中を目にすることはできていない。確証はいっさい持たずに、ただ憶測で追いかけてきただけなのだ。  がむしゃらに、ほとんど無意識に進んできたせいで、果たして今いる場所が森のどの辺りなのか、その深さを推測することもできない。 「どこへ行ってしまったの……」  私は、終わりのない暗闇の先をじっと見つめていた。そうしていれば、先生がひょっこりと姿を現してくれるかもしれないという、根拠のない期待があった。  だが、そんなことは起こらない。  私は、下を向いて、寂しさをこらえた。  沈黙。  虫の鳴き声が収まっている。  ふくろうの溜息も聞こえない。  風が木の葉を揺らす音だけが、ざわざわと響いている。  ――おかしい。  森が、異様なまでに静まり返っている。  まるで、これから嵐でも来るみたいに。  私は周囲を見回した。  青黒い木々の暗闇はただ、冷たい静寂をたたえているのみだ。  焦りを抱きながら、振り返る。  レイちゃんが、私のことを見つめていた。  ぼうっと、虚ろな目で、  疲れたように。  憑かれたように。  ツカレタヨウニ。 「レイちゃん?」  どうしたの、と問おうとして、私は息を呑んだ。その言葉は、途中で呑み込むしかなかったのだ。  笑っていたから。  レイちゃんの顔には、先ほどまでの青ざめた怯えもなく、ただ、どこかの螺子が外れてしまったみたいな恍惚とした笑みがあるのみだった。 「うた」  一言。  息を吐くように、レイちゃんは言った。  歌。  そうだ。聞こえる。  歌だ。  静寂を打ち破り、美しい歌声が森に反響している。  美しくて、気味の悪い――耳障りな歌声が。 「素敵」  レイちゃんは言った。  頬を火照らせて、私の顔を見ている。  否。  私の肩より向こう側の、暗闇を見据えているのだ。 「ケイちゃん。ほら、聞こえるでしょう。素敵な歌でしょう」  そう言って、レイちゃんが歩み寄ってくる。  歌声が、冷えた空気を振動させている。  私は気分が悪くなった。  本当はお腹が空いているはずなのに、今すぐ何かを食べることができない。  それくらいに、気持ちが悪い。 「歌を、歌っているのは、誰かしら」  レイちゃんは、虚ろな視線を暗闇の先へ固定したまま、ゆっくりと、こちらへ歩み寄ってきた。  ――まるで、歌を食べてしまう妖怪みたいだ。  餌を求めて、本能的に、歩んでくる。  このままでは、私も食べられてしまうのではないかとさえ、想像した。  ゆっくりと、ゆっくりと。  少しずつ、接近。  しかし、レイちゃんは、私の横を通り過ぎる。  私のことなんか、見えていないみたいに。  そうして、一歩、一歩、森の奥へと向かってゆく。  不気味な歌の聞こえるほうへ。 「だめ」  私は、素朴な服の袖をつかんで、こちらへ引き戻そうとした。  レイちゃんが、振り返る。  目の形が、変化する。  その目は、虚ろで、しかし、鋭く。  私のことを、射殺すように睨んでいた。 「邪魔、しないで?」 「――――」  何ひとつ、言い返すことができなかった。  怖い。  歌が怖い。  レイちゃんが怖い。  私が怖い。  すべてが怖い。  透き通った歌声が、近づいてくる。  妖怪の歌声が、少しずつ、でも確実に、近づいてくる。  そうだ、近づいてくるのだ。  このままでは、すべてが破綻してしまう。  このままでは、消えてなくなってしまう。  もう二度と、先生に会えなくなってしまう。  だが、少し出遅れた。  私が先生に気を取られていなければ、もっと早いうちに、この状況を回避することができたのだ。  私にはもう、どうすることもできない。 「レイちゃん!」  もう一度、袖を引っ張った。  それでも、レイちゃんは、向こうへ行こうとする。  歌の聞こえるほうへ、強力な磁石で引き寄せられるみたいに。 「うた」  それだけ言って、身をひるがえす。  袖をつかんだ私の手は、強い力であっけなく振り切られてしまう。  レイちゃんはもう、私のほうを見ずに、闇だけを見据えて歩んでゆく。  もっと、強引な手段をとるべきか。  今からでも、遅くはないだろうか。  私は迷った。  人間的であることが、ひどく邪魔であると感じる。  歌が、近づいてくる。  おぞましい妖怪の歌声が、誰かを誘うように響いてくる。  私は迷った。  もう本当に、どうすることもできないのか。  ゆっくりと、ゆっくりと。  レイちゃんが、木々の隙間に溶けてゆく。  じわり、じわりと消えてゆき、やがて、真っ黒に塗り潰される。  それから、わずかに間を置いて――  私は、思い切り駆け出した。      5  ふくろうの鳴き声と、虫たちの喧騒が戻ってきた。 「……はぁ」  私は、何をやっているのだろう。  そのまま説明するならば、森の入口で、溜息をついている。  その実を言うと、逃げてきた、ということになる。  レイちゃんを置いて。  とんでもない賭けだった。  消えてしまうかもしれないのに。  それでも、私が森を出るまでに、歌は止んでいだ。  レイちゃんは、あの妖怪に出会っていないかもしれない。  その可能性に賭けるしかない。  だとすれば、消えてしまうこともない。  ふう、と息を吐く。今度は溜息ではなく、深呼吸だった。  まずは、気持ちを落ち着けることが最優先だ。  レイちゃんには申し訳なかったが、お腹が空いたので、食事を済ませて戻ってきた。  そうしなければ、落ち着かなかったからだ。  ――森の中で、独りぼっちで迷子になって、今ごろ怖くて寂しい思いをしているに違いない。  そんなことは、誰に言われずとも解っていた。それでも、空腹を抑えきれぬあたり、私の身体はものすごく罰当たりだと思う。先生に知られたら、きっと教科書ビンタじゃ済まされないだろうな、と場違いなことを考えてしまった。  先生のことが、心配だ。  先生も、レイちゃんも、  このまま消えてしまうのだろうか。  それでは、元も子もない。  歌の妖怪に出会っていない可能性すら、意味がなくなってしまう。  ――できることなら、捜しに行きたい。  それでも私は、あの妖怪が怖くて、もう森には入れないのだ。  美しい歌をうたう妖怪に、見つかってしまうかもしれない恐怖。  そうしたら、きっと、自分も消えてしまうから。 「ふぅ」  私は何度、息を吐いたのだろう。  どれくらい、時間が経ったのだろう。  濃紺色の空を見上げると、半分の月が傾いて、平らな線が斜めになっていた。  なんだか疲れたので、近くの木に寄りかかった。そうしていても、やがて脚が落ち着かなくなり、私はいよいよ地面に腰を落とす。着物が汚れてしまうことなど、最初からこれっぽっちも気にしていない。  草いきれの中から、コオロギが這い出してきた。  次第に、眠くなってきた。  目が覚めたら、先生が戻ってきているだろうか。  目が覚めたら、レイちゃんが戻ってきているだろうか。  そうであってほしい。  そうでなければならない。  不確実な希望。  不確定な未来。  ただ一つ、言えることは、誰かが一人、消えているということ。  目が覚めたら、また一人、減っている。  私にとっての未来とは、過去との因果関係によって成る、曖昧な空想にすぎない。  それでも、過去と今だけは、何がどうなろうとも、ずっと私のものだった。      6 「おはよう、ケイちゃん」  寺子屋の玄関で、声を掛けられた。よく聞き慣れた、素朴な女の子の声だ。 「レイちゃん」  私は驚いて、脱いだばかりの靴を取り落としてしまった。  昨晩、森の入口の木に寄りかかったまま、不覚にも眠ってしまった。先生も、レイちゃんも戻ってこないうえに、もう空が白み始めていたので、私は心配な気持ちを拭い去りきれぬままに、着替えて寺子屋に行く準備をした。そうすれば、すべてが元に戻ると思ったからだ。それは、確実な未来ではなかったけれど、他の方法は選択できなかった。私にはただ、日常の行為に徹することしかできなかったのである。  ただ、誰ひとり、歌姫に出会わぬことを願いながら。  可能性は、あまりにも低い。  もし、そうなったら、また別の居場所を探さなければならない。  それは、とても嫌なことだった。  やがては、そうしなければならないということは、知っていた。  それでも、避けたかった。できるだけ、その時を遅らせたかった。  何よりも、先生が居るこの場所が、いちばん大切だったのだ。  そんな、薄氷のような望みだったが――なんと、私の希望の通りに現れたレイちゃんは、いつものように笑いかけてきて、当たり前のように話し出したのである。  私は、昨日とは違う、ススキの柄の着物姿だったけれど、レイちゃんは、昨日とまったく同じ服を着ていた。似たような服しか持っていないのかもしれないし、本当に、同じ服なのかもしれない。 「昨日は、ごめんね。気が付いたら、はぐれちゃってて」 「ううん」私は首を左右に振った。「良かった。もう、戻ってこないかと思った」 「私も、もう戻ってこられないかと思ったよ」言って、レイちゃんは溜息をついた。  そうだ。それが普通なのだ。  妖怪の森に迷い込んで、子供ひとりで無事に戻ってくることなど、普通はできない。  不可解な沈黙。  記憶に新しい恐怖心が、レイちゃんの言葉を止めたのか。  それとも、レイちゃんが、何か隠し事をしているのか。  下駄箱に靴を入れ、口を結んだまま、二人で教室へ移動する。  扉を開けると、机の数は、九つ。  一つ、減っている。  それこそ、当たり前であるかのように。  私たちは、外側の窓にいちばん近い席に座る。そうして、前方のレイちゃんの背中にわずかに不審なものを感じながら、私は次の言葉を待っていた。  教室の生徒たちは、皆揃っている。  まだ、先生は来ていない。  来るかどうかは、解らない。 「昨日さ」レイちゃんは、唐突に、しかし振り返らずに言った。 「うん」 「結局、歌姫には、会えなかったんだ」  レイちゃんの言葉は、明らかに落胆の色を見せていた。  私はその言葉を聞いて、ようやく穏やかな溜息をつくことができた。まだ、消える必要がない、ということが、緊張した私の心に安らぎを与えたのだ。 「すぐに、歌が止んじゃってね」そう言ってはじめて、レイちゃんはこちらへ身体を向けてきた。「もう少しで、会えると思ったんだけど」 「そう」 「それでね。私、歌がなくなったら、急に怖くなっちゃってさ。夜の森で、お空も見えなくて、もうだめかなって思ったよ」 「ごめんね」私は、素直に謝った。「置いていっちゃってさ」 「ううん。私が、勝手にいなくなったんだ。だから、私が悪いの。ケイちゃんも、怖かったんでしょう?」 「……うん」  怖かった。  それは、取り繕うまでもなく、純粋な事実である。 「どこへ行ったらいいのかも、解らなくて。当てもなく歩き続けるしかなかった」  私は筆記用具を取り出し、授業の支度をしながら、黙って聞いていた。その実、もうほとんど聞き流すみたいにしていたのだ。レイちゃんが、歌姫に遭遇することなく、無事に戻ってこられたのならば、ひとまずはそれで良かった。 「だけどね、助けてもらったの」 「えっ?」  その言葉を聞いて、はっと顔を上げる。  嫌な予感がした。  夜の森に迷い込んだ人間の少女を、誰が助けるというのだろうか。見張りこそ置かれてはいるものの、森の中に足を踏み入れてまで巡回している大人はいないはずだ。 「私、いつの間にか、森の端まで来ていたみたいで。そこに、竹林があったのよ」 「竹林」  妖怪の森の向こうに、さらに広大な竹林が存在することを、私は知っていた。しかしながら、レイちゃんの口から、そういう言葉が出るとは思わなかった。 「そこでね、白い髪の人に会ったんだ」 「――――」  息を呑む。  白い髪の人。  その言葉から、私には、あの人の姿しか思い浮かばない。  純白の、長い髪。よく見慣れた、あの姿。 「先生?」  まさか、森を抜けた先で、先生に出会ったと言うのだろうか。  レイちゃんと、先生と、二人で会っていたと言うのだろうか。  そうだとすれば、それは、誰かの生命の危機には直結しないかもしれないけれど、少なくとも、私の嫉妬心には火をつけかねないことである。 「違うよ。先生じゃないよ」  そう言って、レイちゃんは、ひとたび口をつぐんだ。  巡回ということで無理やり納得させたつもりであったが、やはりレイちゃんは、先生が何のために森へ入ったのか、ずっと疑っていたのだろう。  一方で、安堵している私がいる。もしも、私の心を覗いている者がいたならば、馬鹿馬鹿しい、と思ったかもしれない。それでも、構わなかった。 「その人がね、助けてくれたの。私を森の外まで連れてきてくれて」 「それはまた、親切な妖怪がいるね」私は皮肉をこめて言った。 「違うよ。人間だって」  私には、レイちゃんの言っていることが、本当のことかどうか疑わしく思えた。暗闇のなかを適当に歩き回っているうちに、運良く戻ってくることができたに違いないし、誰かに助けてもらったというのも嘘で、実際は、歌に惑わされて混乱しているうちに、幻でも見ていたのだろう。  しかし、私の想像に反発するかのように、レイちゃんは言葉を続けた。 「その人が、自分で言っていたから。私は人間だけど、悪い妖怪は近づかないって」 「どうして、人間なのに、妖怪が近づかないの」 「それは」レイちゃんは、少しだけ、言葉を詰まらせた。「きっと、強いからだよ」 「刀とか、銃とか、持っていたの?」私は、筋肉質で、白髪まじりの頭を角刈りにした、壮齢の山男のような風体を想像した。 「違うよ。御札みたいなリボンをいっぱいつけて、赤いモンペをはいてる人」 「そっか」私は小さくうなずいた。  レイちゃんの言葉を受けて、うなずいたのではない。自分の中で、先入観による間違いに気付いたからだ。  男ではなく、女だったのだろう。レイちゃんのような少女が、夜の森で出会って、安心して近づけるような相手としては、そのほうが納得できる。それにしては変な服装だなと思ったが、妖怪なんて、みんな変な服装をしているものだ。 「名前は、聞かなかったの?」 「あっ」  何とはなしに私が問うと、レイちゃんは口を開けて、忘れていた、という大きな文字を顔一面に浮かべた。 「ますます怪しいなあ」 「そんなこと、ないって」レイちゃんが、頬を膨らませる。 「そうかなあ」 「この辺りには妖怪がたくさんいて、危ないからって、送ってくれたんだよ。妖怪は鼻が利くやつが多くて、特に人間の子供のにおいを嗅ぎ付けるんだって」 「へえ。よく知っているね」 「物知りな人だったよ。ちゃんと送り届けてくれたし、あの人は妖怪じゃないよ」 「本当だ。妖怪のことを、よく知っている人なんだね」私は、レイちゃんを見据える目を細めた。「まるで、自分のことみたいに」 「ずっと、竹林に住んでいるらしいから。それに、あの人も、妖怪に襲われたことがあるんだって。人を食べて、消してしまう妖怪に」 「何、それ」私は、詳細を追求するための疑問ではなく、どうでもいい、という体を装って、そのように言った。  その実、私には、「人を食べて、消してしまう」という言葉が、あまりにも重い響きをともなって聞こえていた。  怖い。  とても、怖い。  どろどろとした、得体の知れない恐怖。  解らない。  喰われて、死んで、消えてゆく。  だとすれば、どうして、そいつは生きているのだろう。  どうして、そいつは、消えていないのだろう? 「歌姫のことは、知っているみたいだったけど、あまり教えてくれなかったなぁ」 「何を聞いたの?」私は、自分で馬鹿馬鹿しくなるくらい、真剣に問い返した。 「『私が焼いた鳥だ』って。小鳥の姿をした妖怪なんだって。歌が好きだから、人を喰ったりはしない、って」そこまで言って、レイちゃんは、得意げな顔をした。「ほらね。私の言った通りだったでしょう?」 「何が?」 「もう。とぼけないでよ」 「だったら、その白い髪の妖怪は」このままでは話が逸れてしまいそうだったので、私はレイちゃんの言葉を無視して、きっぱりと言った。「小鳥と一緒になって、レイちゃんを狙っているんだ。また歌を聴いて、森に来た時に、つつがなく、安心して食べられるように」  あの森は静かで、人間は近寄らない。だから、食事の場所にちょうどいいのだ。  そのうえ、人の形をとって、信用させて、逃げられる可能性を消し去ったところでガブリ、なんてのは、妖怪の常套手段である。 「そんなことはないよ」 「ソンナコトハナイ。レイちゃんは、ずいぶん変わった声で鳴く鳥さんだね」  私がそう言うと、レイちゃんは再び、風船みたいに頬を膨らませる。このままでは、いつか破裂してしまいそうだったので、冗談だよと言って謝った。 「あまり、歌に感化されてはだめだ、とは言われたけれど。妖怪の歌だから、人によっては、刺激が強すぎるかもしれない、って」 「それだって、怪しいじゃない。人間に味方をするふりをしているだけかも」 「違うよ。あの人は、妖怪じゃないよ。もしそうだとしても、優しい妖怪だよ」 「なんだ、それ」私は、鼻で息をした。「もう、どっちでもいいよ」  優しい妖怪、などという言葉を聞いた瞬間、内心では動揺していたはずの私にとって、レイちゃんのお話はたちまちに虚言にすぎないものに成り変わってしまった。  妖怪の森の、さらに奥地の竹林に、人間が住んでいるということが、私には不思議で仕方がなかった。人間ばなれした人間、妖怪退治の専門家の巫女だって、ひなびた神社ではあるものの、開けた場所にしっかりと居を構えている。  だから、もしもレイちゃんの話が本当であるとするならば、人間であるというのは間違いで、白い髪のそいつはきっと、本当は妖怪であるに違いない。そうだとすると、妖怪のくせに、人間を助けるというのが不気味であった。  そう考えると、妖怪ではないということになるわけで、そうすると、そいつは人間でもないのだから――そこには、明らかな矛盾が発生してしまう。  矛盾。  要するに、虚言なのだ。  恐怖の中で、導き出された虚言。  歌に惑わされた、レイちゃんの虚言。  そんなものに、付き合わされていただけ。  それでも、白い髪の人に、歌姫のことを教えられたという点については、どうにも気にかかった。  本当に、虚言なのだろうかと、疑いを抱かせる。 「……先生が、妖怪なのかもしれない」  レイちゃんが、神妙な面持ちで、そう漏らした。  あまりに突然のことだったので、私は思わずピクリと耳を揺らして、凍りついたように固まってしまう。 「そんなわけ、ないじゃない」私は取り繕って、笑みを浮かべた。 「だって、ケイちゃんも見たでしょう。先生が、夜の森に入っていくのを」 「だから、それは夜の巡回で」 「でも、おかしいよ。あんなところに、あんな時間に、たった一人で、嬉しそうに」 「――――」  今、何と言ったのだろう。  嬉しそうに?  そんな。  レイちゃんにも、解っていたのか。  先生の、いつもとは違う、嬉しそうな表情が。  その差異を、見比べることができていたのか。  それは、私にしか、解らないことであるはずだったのに。 「先生は、本当は妖怪で、人間を食べているのかもしれない」 「そんな」  私だって、先生がハクタクみたいだと思ったことはある。あんなふうに、真っ白な髪の人も珍しいし、何より、歴史に嘘をつかないからだ。  でも、それはあくまで冗談にすぎなくて、先生が妖怪であるなどという想像は、あまりにも非現実的であった。  しかしながら、私にとってはむしろ、レイちゃんがそんなことを言い出した事実そのものよりも、自分以外に先生のことをよく理解している者がいる、ということのほうが重要であった。  そんなことが、あってはならない。 「昼間のうちに、子供をさらって、森に隠しておく。そうして、夜、静かになってから、森へ行って、食事をする。だから、あんなに嬉しそうだったんだ」 「そんなことしたら、すぐにばれちゃうよ」私は、平静を装って反発する。 「うん。それは、もっともだ。だから、一度だけ、自分でさらった子供を、自分で連れ戻してきたんだ。子供を助けたふりをして、毎晩森へ行くための口実をつくったんだよ。番小屋の通行証だって、きっと、あの時にもらったんだ」  レイちゃんの話を、私は黙って聞いていた。  否。  何も言い返すことが、できなかった。 「ああ……」沈黙している私に気付いて、レイちゃんが申し訳なさそうに言う。「ごめんね。嫌なこと、思い出させちゃったかな」  レイちゃんは、謎解きの本が好きだから。  だから、こういう思考によって、こういう結論に至るのも、仕方がない。  そんな言い訳も、すでに意味を成さなかった。  私は、怖かった。  この恐怖は、もう拭い去ることはできないだろう。  もう、諦めるしかない。 「思い出したくなかったよね。妖怪にさらわれたことなんて」  レイちゃんは、眉根を寄せて、小さく頭を下げた。  そうだ。  妖怪にさらわれたという、まだ新しい過去。  先生に助けられたという、確かに在る過去。  大好きな、私の先生。  愛すべき、私の先生。  レイちゃんは、先生のことを理解したうえで、妖怪なのかもしれない、と言う。  もしかしたら、レイちゃんの言うとおり、先生は本当に妖怪なのかもしれない。  そうでなければ、妖怪たちがうごめく闇夜の森へ、一人で入ってゆけるはずがない。  私は嫉妬していた。  もし本当にそうだとすれば、レイちゃんのほうが、私よりも先生のことをよく知っていることになるからだ。  そんなことが、あってはならない。  先生は、人間なのだろうか?  先生は、妖怪なのだろうか?  前者であれば、私のほうが。  後者であれば、レイちゃんのほうが。  先生のことを、理解していることになる。  それでも、私は嫉妬していた。  レイちゃんは、いつか、私の知らない先生を見つけ出してしまうかもしれない。  そうなったら、謎解きが好きな、素朴な女の子ではなくなってしまう。  先生が、人間だとしても、  先生が、妖怪だとしても、  もう、どちらでもよかった。  もう、諦めるしかない。  少なくとも、そればかりは、確かな決定事項だ。  会話は、止まったまま、動かない。  もう潮時だな、と思った時に、ちょうど教室の扉が開いた。  レイちゃんが、身体をくるりと前へ向ける。  私は夢から覚めたみたいに、慌てて意識をそちらへ向けた。  そうして、私は安堵する。  てっぺんに赤い布を結んだ、お弁当箱みたいな、奇妙な形の帽子が見えたのだ。  次に息を吸った時にはもう、純白の長い髪が、教卓の前でなめらかに揺れている。  ――夜の森に溶け込んで、そのまま消えてしまったのかもしれない。  そんな心配をしていたのが、つまらないことに思えるくらい、清々しい登場だった。 「おはよう。早速だが、出席をとるぞ」  当たり前のように、いつものように。  先生は、黒表紙の出席簿を開いて、生徒の名前を読み上げる。  明日には消えてしまう、誰かの名前も。  いつかは消えてしまう、私の名前も。      7  時が経った。  私以外の生徒が皆帰った、茜色の教室。  今、ここに居るのは、二人だけだ。 「先生は、妖怪なの?」  私は思い切って、問いかけた。  今、ここにいるのは、先生と私だけだから、優等生である私の、子供っぽい言葉を誰かに聞かれて、馬鹿にされることはない。 「はぁ?」先生は、ポカンと口を開けてから、苦笑いをする。「まったく。何を言い出すのかと思えば」  本当に妖怪だったら、何となく、解りそうなものだったけれど。  ただ、そのことだけは、直接確かめておきたかった。 「私は、人間だよ」 「本当に? ハクタクではない?」  私は、先生に疑いの目を向けるのが嫌だった。けれどもそれは、どうしても聞いておきたいことであったので、痛みをこらえるようにしながら、精一杯質問した。 「私が……ハクタク、か」  先生は、噛み締めるようにそう言って、斜陽の射す窓のほうを見た。その視線の先には、よく見慣れた庭の草木があるだけだったけれど、もっと別の、何か輝かしいものを望むような、そんな眼差しであった。  歴史を喰う妖怪。  人を助ける神獣。  そういうふうに、言われている生き物。 「そうだとしたら」先生は、机越しに、私のほうへ向き直った。「それはそれで、面白いかもしれないな」  そして――  笑顔。  夕日みたいに、輝いていた。  こんな素敵な笑顔は、私以外には、向けられることはないだろう。  そう思うと、私も、しぜんと笑顔になる。  ひょっとすると、今まででいちばん、子供だましの会話であったかもしれない。  少なくとも、私はそう思っていた。  先生も、そう思っていただろうか。  そうだとしたら、それは私にとって、この上なく幸福なことであった。  先生と同じように考えて、同じように笑うことができる。  私も、最初から解っていたのだ。  ただ、一度だけ、聞いておきたかっただけで。  先生が妖怪だったとしても、そうでなかったとしても。  私は、先生のことが大好きで、この至福の時間が揺らぐことは、絶対にない。  私は、先生を愛して。  先生も、私を愛してくれるのだ。  そんな素敵な世界が、壊れてしまうことは絶対にない。  絶対に、あってはならない。 「絶対に」  私は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。  周囲を見回す。  小さな教室が、日に日に広くなってゆく。  机の数は、あと四つ。  最後にレイちゃんと話してから、五日が経っていた。  怖い。  もうすぐ、皆、消えてしまう。  そうしたら、今みたいに、先生と話すことができなくなってしまう。  絶対に、そんなことがあってはならないのに。  先生のことが、大好きなのに。  怖い。  もうすぐ、皆、消えてしまう。  今の私の世界も、消えてしまう。  どう足掻いても、止めることができない。 「おい。どうした」  先生が、私の顔を心配そうに覗き込んだ。  自分の頬に触れてみて、その理由に気付く。  いつの間にか、涙が流れていたのだ。  先生の笑顔が、あまりにも美しかったからだろう。  けれども、私には、先生のせいだよ、とは言えなかった。  私の唇は、先生の唇の上に重なっていたからだ。  ずっと、こうしていたかった。  それは無理な話であると、解っていた。  けれども、少しでも長い間、こうしていたかった。  そのために、私には、しておくべきことがあった。  私には、私の世界が壊れてしまう前に、やらなければならないことがあったのだ。      8  それから、四つめの晩。  私は、寺子屋の窓の外から、真っ暗な教室を覗いていた。  机と、教卓が、一つずつ。  夜空には、子供たちを幾人も食べて太ったみたいに、まあるい満月が輝いていた。  ――今日で、最後になるだろう。  明日になれば、私はもう、この教室に通うことはできない。  今日まで、生き残ることができたことに、感謝しなければならない。  誰に、感謝するのだろうか。  先生に?  レイちゃんに?  他の子供たちに?  解らなかったけれど、とにかく私は、誰でもない誰かに感謝したかった。  窓越しに、先生が、廊下を歩いて行くのが見えた。それに合わせて、私も玄関のほうへ移動する。扉が横に開いて、先生が出てゆくところを、私は隅のほうに隠れて見守っていた。  純白の長い髪と、夜空みたいな青色の背中が、月明かりに映えている。緑色の服を着てきてしまったことを、少しだけ後悔した。私も、青にしておけば、先生とおそろいだったのに。  私は気付かれないように、先生の後をつけていった。  軒並みに明かりの落ちている家々の間を通り過ぎ、やがて、人里の端っこで煌々と目を光らせている番小屋の前にたどり着く。先生が見張りの男と話している間、私は、レイちゃんと一緒に通った竹垣の隙間から、向こう側へと抜け出した。  先回りして、先生を待つ。  真っ黒な森の片隅で、私は木の陰に隠れながら、先生がゆるやかな下り坂を歩いてくるのを見ていた。いつもの仏頂面に、少しだけ色をつけたような顔ではあったが、それは私が思っていたとおり、明らかに嬉しそうな表情だった。  胸が痛い。  締め付けられるような苦しみにさいなまれながら、私は、機会をうかがっていた。  そうして、森の暗闇のなかへ、溶けていく直前。 「先生」  私は木の陰から飛び出して、背後から、声を掛けた。  長い髪が大きく揺れて、顔の肌色がこちらを向いた。  驚きに目をむいたまま、私のことをじっと見ている。 「どこへ行くの?」  私は、知りたかった。  先生の友達が、妖怪であるのか、人間であるのかを。  それこそが、私が最後にやらなければならないことなのであった。      9  森に、歌声が響き渡っている。  ――素敵な歌。  レイちゃんの言っていたことは、未だに理解できずにいた。  美しさは感じても、不気味に思うだけで、素敵であるとは思えない。  もっと違う出会い方をしていたならば、好きになれたかもしれない。 「良い歌だな」  先生が、そんなことを言ったので、私は頬をぶたれたような衝撃を受けた。綺麗な歌だな、という感想ならば、同じであったけれど、良い歌だな、という感想は、私が抱いているものとは異なる。私はそう考えて、今はもう、どこにもいないレイちゃんに対して、一瞬ばかり嫉妬心を燃やしてしまった。 「知っているか? 小鳥の妖怪が、歌っているんだ。これ」  先生は、何でもないことみたいに、そう言った。  だいぶ遠いけれど、少しずつ、だが確実に、歌が近づいてくる。  私は反射的に、怖くなった。  でも、どうせ消えてしまう今であれば、気にせずにいても、同じことだった。 「先生の友達は、小鳥の妖怪?」  私は、湧き上がる恐怖心を抑え込みながら、当たり前のように、そう聞いた。 「違うよ」 「小鳥の妖怪には、会ったことがある?」 「ないんだ」暗闇を見据えたままで、先生は言った。「焼いた鳥だと言われたから、一度、会ってみたいんだが」  その言葉は、どこかで聞いたことがある。  そうだ。レイちゃんも、同じようなことを言っていた。  これからどんな人に会いに行くのか、私には、おおかた予想できていたのかもしれない。 「私の友達は、もっと、先にいる」  疑問も、不満も、いくつかある。  少なくとも、私を森へ連れてきてくれたことには、感謝しなければならないだろう。  お腹が空いたけれど、食べ物は何もない。  先生の頭のお弁当箱には、何かが入っているのかもしれない。でも、それを問うことができるだけの勇気が、今の私にはなかった。  歌声が、森へ染み渡るように響き続けている。  やがて私たちは、妖怪の森とは異なる風景の場所に出た。  青く、細く、月明かりを照り返しながら立ち並ぶもの。  竹林だ。 「おや。まだ、来ていないのか」  辺りを見回してから、先生はそう言った。  それから先生は、竹林には踏み入ることはせずに、近くの岩に腰掛けた。それにならって、私も、その横に寄りかかる。まるで、こうして腰掛けられるように、誰かが埋めておいたみたいな岩だった。  さっきまでは、森の木々に遮られていたけれど、ここではもうすっかり、夜空が展望できるようになっていた。  満月が、ゆったりと輝いて、こちらを見下ろしている。  先生と。  私と。  真夜中の森で、二人きり。  不思議な時間だった。 「今宵の歌は、ずいぶんと長く続くなぁ」  先生が、月を見上げてつぶやいた。  依然として歌声は止まず、次第にこちらへ近づいてくる。  まるで、誰かを捜しているみたいに。  けれども、私には、そんなことはもうどうでも良かった。 「先生」  私は、呼びかける。  先生が、こちらを向いた。  それだけで、もう何も、まともに考えることができない。  月が、照らす。  先生が、月を照らしているのだ。  肌も、  瞳も、  唇も、  艶やかに、きらめいて。  吐息が、近づく。  先生が、何か言おうとした。  けれども私は、それを遮る。  ぐっと。  唇が、重なる。  濡れた感覚。 「んっ」  舌が、混ざり合って、  私の舌が、  先生の舌で、  先生の舌が、  私の舌で、  ぐちゃぐちゃに、  どろどろに、  溶け合って、  同じになって、  もう判らない。  もう解らない。 「んはっ」  私も、  皆も、  消えて、  なくなって、  すべてが、同じになる。  すべてが、ゼロになる。  近づいてくる歌声さえも、唾液のなかに溶け込んでゆく。 「あっ」  私は、先生の両脚のあいだに、手を差し入れる。  やっぱり、可愛い。  先生のことが、とても愛おしい。  頭の中は、  熱くて、  真っ白で。  真っ白なのは、先生の髪。  美しく、輝いて。  ああ、  これが、  この幸せが、  最後になるのだろう。  本当は、ただ、  身を委ねていられれば、良かったのに。  お腹が空いた。  先生の頭のお弁当箱には、何が入っているのだろう。  私は、考えたくもないことを考えていた。  でも、どうにもならない。  どうにかなるのであれば、こうはならなかっただろう。  だから、仕方のないことなのだ。  これで、おしまい。  すべて、おしまい。  そうであるならば、  せめて、最後まで。  ずっと、最後まで。 「先生、先生」  一緒に、  幸せに。  二人で、  愛し合って、  抱き合って、  溶け合って、  等しくなる。  だから、  私は、  それでも、  私は、  ああ、  だめ、  それは、できない。  私には、できない。  もう、いいんだ。  最初から、解っていたのかもしれない。  最初から、諦めていたのかもしれない。  だから、このまま。  せめて、このまま。 「好き」  先生、  大好き。  先生、  愛してる。  ずっと、  ずっと、  このまま、ずっと。  ――ガツン!  頭の後ろに、強い衝撃。  痛い。  振り返ると、  あの歌声が、  混ざって、  とろけて、  狂って、  そうして―― 「ミツケタ」  もう、おしまいの時間になった。
第二章
第二章 古鳥      1  私がそいつと出会ったのは、梅雨の湿り気の色濃く残った、夏の初めのことだ。  私がいちばん嫌いな季節だったので、そいつに対する印象だって、暑さと湿気に塗りつぶされて、最悪なものになっていてもおかしくはなかった。けれども、そいつのなめらかな白い髪も、仏頂面だけれど物知りで、割と人当たりの良いところも、さっぱりとしていて、涼しいやつだなぁと感じることができたので、高温多湿を忌避していた私にとっては、空から扇子が落ちてきたみたいにちょうど良く、かえって必要以上の好印象を抱かせたのだ。  その夜は、なんだか里のほうが遅くまでずっと明るくて、妖怪の森も騒がしかったので、竹林から出て、ちょっと様子を見に行こうとしていた。だから、森と竹林の境目のところで、そいつと私は、偶然出会った。 「助けてくれ」 「……はぁ?」 「私の、生徒を。助けてくれ」  そいつは、出会いがしらにそう言った。  お手本みたいに、くそ真面目な表情だった。  きっと、私のことを妖怪か何かだと想像したに違いない。そういう答えがもう出ていたから、私が何者なのか、ということについては、追究しなかった。その上で、いきなり「助けてくれ」という言葉が出てくるあたり、藁どころか、髪の毛一本にもすがるような思いだったのだろう。  そいつは初め、妖怪にさらわれた子供を捜しに、一人で森へやって来たのだと言った。まことに信じ難いことであった。人喰い妖怪たちのうごめく夜の森に、人間の女が、たった一人で飛び込んできたのだから。 「ここは、森ではないんだが」  頭を掻きながら、私は言った。それは、相手のことを測りかねていたため、自分なりの警戒心からくる態度であった。しかしながら、その実、そっけさなの理由としては、単に動揺していたということのほうが大きかったのかもしれない。  私がそいつと出会ったのは、厳密には森の中ではなくて、竹林の端でのことだった。私の住まいがその竹林なのだから、まあ、森の中よりは、竹林のほうが、私と誰かが出会う確率は高いと言える。そうだとしても、女一人で森を抜けて、竹林まで迷い込んできたということが、私には驚嘆せざるをえない事実であった。  私に出会ったことで、そいつは命拾いしたと言える。竹林に迷い込んだら、普通の人間は、まず助からない。それは、ここが人を迷わせる竹林だからである。こんな狂いきった土地には、妖怪たちを除けば、私のように厭世的な流れ者や、月の光が届かない場所に隠居を希望するような、変な奴らしか住みつかない。 「手伝ってやる義理はないよ」  私は、吐き捨てるように言った。  本当に、そう思っていた。里の事情には、関わりたくない。人間というやつが面倒くさいから、私はこのようなヘンピな場所に住んでいるのだ。  それでも、どうしてだか、そいつの瞳を見ていると、胸を締め付けられるような気持ちになるのであった。 「……そうか」そいつは、しおれたナメクジみたいに残念そうな表情で、一言、つぶやくようにして謝った。「すまなかった」  それから、そいつはきびすを返して、反対方向へ歩き出した。  小さな背中が、森の暗闇に溶けていく。  胸が痛い。  私はそれが、罪悪感なのだと気付いた。  大事な生徒なのだと、そいつは言った。  奇しくも、同じ白い髪の持ち主だった。むしろ、私のほうが、そいつのことを妖怪であると思ってしまったくらいに、奇妙なまでに美しい容貌だった。 「待て」  気が付いたら、声を掛けていた。  その時点では、助けになろうとか、はっきりと考えていたわけではない。  私にとって、人里の事件など、対岸の火事のようにどうでもよいことであった。  けれども――振り返ったそいつの目元に、大粒の涙が浮かんでいるのを見た途端、私には、見捨てるという選択をするわけにはいかなくなってしまったのである。 「お前、それじゃあだめだ」私は、わざとらしく溜息をついた。「妖怪に、食べてくださいと言っているようなもんだ」  私はしゃがみ込んで、モンペのすそを引き千切った。  そうしてから、歩み寄って、出来上がったばかりの、赤い布切れを手渡す。 「これを持ってけ」 「これ、は……?」そいつは、両手で涙を拭って、問う。 「森の妖怪どもは、私のにおいには絶対に近づかない」  私は、つとめて淡々と話した。  妖怪たちは、力の差を知っているから。  近づいてはいけない者のにおいを、知っているから。 「だから、これは御守りだ」  手を伸ばす。  しかし、困惑しているのか、なかなか受け取ってはもらえない。  だから私は、ためらっているそいつの腕に、赤い布を無理やり押し付ける。  私の断片を、託す。  これは、自分なりの敬意のつもりであった。 「ありがとう」  そいつは、赤い布をぎゅっと握り締めると、満月みたいに綺麗な顔で笑った。  それから、再び森へ向かって行く。  今度は、確かな足取りで。  一方で、私は、反対を向いて、竹林のほうへ歩み出す。  そうしながらも、最後に見た笑顔を、頭の中で何度も思い描いている。  ありがとう、という言葉が繰り返し反響して、私の脳みそをとろかしていく。  胸が痛い。  私はそれが、罪悪感なのだと気付いていた。  私はそれが、罪悪感なのだと思っていたのだ。      2  私はその夜、少女を助けた。  少女と言っても、背中から翼を生やしたそいつは、どこからどう見ても、妖怪であるとしか思えなかった。森の中で倒れていたところを、私が拾った。ああ、まったくその通りで、助けた、と言うよりは、拾った、と表現したほうが、より適切であるように思う。弱肉強食の夜の森で、傷ついた妖怪を助けてやる義理など、私はこれっぽっちも持ち合わせていない。  そもそも、白い髪の教師に出会ったことも、そいつの生徒が妖怪にさらわれたことも、何もかもを知らなかったことにして、竹林に帰ってもよかったのだ。それなのに、どういうわけか、私の足は森のほうへ向かって、駆け出していた。きっと、罪悪感のせいなのだろう。  とにかく私は、衰弱した妖怪の少女を見つけて、医者のところへ連れて行くことにした。迷子の特徴は聞いていなかったが、青い翼を生やしたこの少女こそ、あの教師の捜していた生徒に違いない、などという、阿呆みたいな楽観を抱いたわけではない。衰弱しきった妖怪を拾って、口を利けるくらいには回復させてやらなければならない、大きな理由があったのだ。  医者というのは、竹林の奥の屋敷に住んでいる、クスリシ、もとい、万能薬師のことだ。私の知り合い、というか、間接的な腐れ縁であり、私が大嫌いなやつの付き人であり、私が屋敷を訪ねると、いつも驚いたような顔をする――まあ要するに、変な女だ。  とにかく、そういったいきさつで、私は薬師一派の住まい、棲み処、巣窟、きわめて居心地の悪い屋敷の一室において、畳の上に腰を下ろしたきり、手持ちぶさたになるという、蜘蛛の巣に自分から引っ掛かってしまったモンシロチョウみたいな、面白くない状況下に置かれていた。  障子の向こう側は、まだ丑三つ時の気配であり、月明かりのみがうっすらと射し込んでくる。とはいえ、十回呼吸をするごとに、その障子が開いて、兎の妖怪が硬い座布団を持って来たり、明かり用の蝋燭を五十本ほど灯しに来たり、この世の終わりみたいに不味い茶をいれて来たりしてくれたので、室内は昼のように明るく、それなりに騒がしかった。この兎が、客人に失礼のないように、精一杯もてなそうとしてくれているのはよく解ったし、その努力と誠実さに拍手を送りたいほどであったのだが、さすがにうっとうしくなってきたので、六度目に来たときに、肩を揉ませてから追い返した。  そうして、話し相手もすっかりいなくなったので、私は少女の顔を見つめることに専念した。翼をたたみ、笹の葉柄の布団の中で眠る、赤紫の髪をもつ少女。ひと通りの診断と治療は終えているが、その後もずっとこんな調子で、もう半刻は目を覚まさない。床にふした妖怪を置いて、とっとと屋敷から退散し、連中に迷惑がられるのも一興であったかもしれない。だが、具体的な目的を有して、わざわざ拾ってここまで運んできてやったのであるから、そうするわけにもいかなかった。どうしても、聞いておくべきことがあったのだ。  茶色い服に、鳥の翼を背負った、赤紫色の髪の少女。  もしかしたら、こいつが子供をさらったのかもしれない、と考えたのだ。だから、そのことを問うつもりで、私はこの少女が目を覚ますのを辛抱強く待っていた。 「……ん」  小さなうなり声。  うっすらと、まぶたが開く。  半眼から、やがて、瞳の円形があらわになる。  その円形が、こちらを向く。  つまり、私と、少女と。  目が合って、停止する。  はて。さて。困ったな。  何と声を掛けるべきか。  そうして、考えあぐねていると、 「んんっ」 「は? って、うわっ」  飛びつくように、抱きつかれた。 「ちょっと、待った。おい、おい、放せ!」  そうは言いながらも、私には、無理やり引き剥がすようなことはできなかった。胸に擦り寄ってくる健気な少女からは、私に迷惑を掛けようという意思は、少しも感じられなかったのだ。 「ふわぁ」  警戒心のかけらもない。  刷り込み、というやつだろうか。鳥の雛が卵からかえって、最初に見たものを親だと思い込む。そういうことが、妖怪にもあるのだろうか。  しばらくすると、少女は名残惜しそうな表情で、私の胸から離れた。だが、その代わりに、今度はこちらの顔を上目遣いで見つめてくるようになった。  やがて、少女は何も言わず、ニコニコと笑い始めた。私が拾ってやった時に着ていた服は、例の医者が預かって、洗濯してくれている。そういうわけで、現在は素朴な水色の衣装、ともすれば幽霊じみた着物姿なのだが、身につけている少女自身は、ついさっきまで死んだように眠っていたのが嘘みたいに思えるくらい、きわめて対照的に明るく元気なのであった。 「何だってんだ、まったく……」  我慢できずに、私は視線を逸らす。この少女に心を鷲掴みにされているみたいで、非常に落ち着かなかった。私の心は玉のように握りやすい形をしておらず、とげとげしく歪んだ形状であるはずなのだが、視界の端に映る糸のように細められた両目を見るかぎり、この少女はそんなこともお構いなしといった様子なのである。  さて、少女が目を覚ましたからには、さっさと用事を済ませて退散したい。素直に退散するか、もしくは、しかるべき処置を行ってから、退散するか、いずれにせよ、質問をしないことには始まらないのだ。  つまり――お前が、あいつの生徒を喰ったのか、と。  そういうわけだから、よそ見している場合ではない。私は意を決して、翼を生やした妖怪に視線をぶつけた。  そのまま思い切って、質問を繰り出そうとしたのだが。 「おはようございます」 「おま、あう、え」私は小さく咳払いをして、喉まで出かかっていた言葉を放棄した。「おはよう」  先手を取られた。と、言うか、完全に、出鼻をくじかれてしまった。これでは、とんだ恥さらしである。障子は締め切ってあるし、私と少女を除いて、現状を観察できる者はいなかったけれど、なんだかとても情けなく思えたので、私はひどく赤面してしまった。  対する少女は、相変わらず、朝顔みたいにニコニコしている。どうにもじれったく、気が揉める状況であった。少女に対して、と言うよりは、自分に対して苛立っているのだ。目を逸らしているばかりでは、何の進展も期待できないというのに、なぜか視線を逸らしたくなる、そんな自分自身が腹立たしくて仕方がない。  そういう心境であったから、私は、静かな部屋に突如響き渡った「ぐう」という鳴き声が、煮立った自分の腹から飛び出したものかと勘違いした。 「せんせい」 「……は?」反射的に背後を振り返るが、そこには何者の姿もない。 「せんせい、おなかすいた」 「はぁ」いよいよ私は、己の呆けた顔面に人差し指を向けて、言葉尻を上げた。「私か?」  先生、というのが、果たして誰のことを指しているのか、見当もつかなかった。それでも、ちょっと考えてみれば、そんなことはすぐに理解できようものだ。この部屋に、少女と、私と、二人しか存在しないということは、つい先ほど確認したばかりではないか。 「おべんとうのじかん、まだ?」 「ちょっと、待て」命令というよりは、焦燥が口をついて出たような調子で言う。「その前に、私の質問に答えろ」 「はい。せんせい」  妖怪の少女は、素直に居住まいを正すと、引っ込んでいたはずの笑みを再び顔いっぱいに咲かせた。  それを見て、私はなぜか言葉に詰まってしまうが、ここで引き下がってしまっては堂々めぐり。視線を逸らすわけにもいかない。しかしながら、この時点で、投げかけるべき質問は、当初の意思とはまったく異なる内容にすり替わってしまっていた。 「お前、名前は?」 「みすてぃあ」発音するのも難しそうに、そう言った。 「みすてぃあ? 変わった名前だな」 「あれ」 「……どうした?」私は、少女と同じ角度で首を傾げる。 「みすてぃあ、じゃ、ないかも」 「はあ?」  あまりにも不可解な返答に、私は思わず間抜けな顔をつくる。化け狐につままれたとしても、ここまで腑抜けた表情はできないだろう。 「かが、み? ろく、う、う、れい、ら?」  少女は、数えごとのように両手の指を折り曲げながら、何やら呪文のような言葉をつぶやき始めた。そうして全部の指を折り曲げたら、今度は順番に持ち上げていって、両の手のひらが開ききった後で、ついにこんなことを言い出したのである。 「せんせい、わたしのなまえがわかりません」 「何だぁ、そりゃあ」  もはや、溜息も出ない。自分の名前が解らないとは、どういうことだろう。  思案した結果、妖怪に生まれて、名を与えられていない、という可能性に行き着いた。そういえば、この少女は、言葉遣いも妙に舌足らずで、幼い。生まれて間もない妖怪が、誰にもその存在を知られていないとすれば、自分で自分に名をつけるようなことがない限りは、名を持たぬままであるのも当然と言えば当然である。  そう考えて、私は軽率に、下らぬ思い付きを口にした。 「だったら、上の名前が『みすてぃあ』で、下の名前が『ろうれいら』、なんじゃないか」  少女の独り言から、文字を拾って、名づけた。  はっきり言って、変な名前である。そういう感想を抱いておきながら、何食わぬ顔でそんな提案をするのは、毒水だと知っていて差し出すようなものだ。つまり、これは人間の敵であるべき妖怪に対する、私なりのちょっとしたいたずら心に他ならない。 「みすてぃあ、ろうれ、らい」少女が復唱した名は、私の提案とは、少しだけ文字の配列が異なっていた。 「おい。ちょっと、違うんだが」私はそこまで言って、特に訂正する意味もないことに気が付いた。「まあ、いいか」 「ミスティア・ローレライ」  少女は、与えられた名を、嬉しそうに復唱した。何度も何度も、あまりにも幸せそうな顔で言うので、悪ふざけで名づけてしまったことに、私の良心がチクリと痛んだ。こんなことなら、もう少し、ましな名前を与えてやれば良かったかもしれない。かと言って、嬉々として口ずさんでいるところへ、今さら横槍を入れるのも忍びない。  ミスティア・ローレライ。気に入っているようだし、こいつの名前はそれでいいだろう。  呑気にそんなことを考えていたが――ふと、我に返る。  こいつが、子供を喰った可能性。  私は、それを問いただすために、この妖怪が目覚める時を待っていたのだ。  もしかしたら、ミスティアは、生まれて間もないのではなく、子供を喰って、頭がおかしくなっているのかもしれない。人間の子供の肉というやつは、妖怪にとって美味の極致であり、麻薬のような幻覚症状をもたらす、とも考えられる。  私は気を取り直して、質問を投げかけるべく、腹から威圧的な声を出した。 「おいっ」 「ぐう」 「…………」  出鼻をくじかれた後だから、いったい何をくじかれたのか解らない。例えば、突き指、いや、肋骨を折られたとか、それくらいの表現を用いても、決して大げさではないと言えるだろう。 「せんせい、おなかすきました」 「そうか」私は無心で首肯した。 「おべんとうのじかんは、まだですか?」 「はあ……」  どうやら飯を食わせないことには、これ以上の質問を重ねても、思わしい返答には期待できないらしい。そうとは理解しつつも、私はあえて一つだけ、厳粛に問いただそうとするのではなく、純粋な好奇心で聞いてみることにした。 「なあ」 「はい」 「どうして、私が先生なんだ?」 「?」ミスティアは小首を傾げて、当たり前のようにこう言った。「さあ?」  解らないらしい。大方、想定していた通りの答えであった。同じ手を二度も食らっていてはたまらない。  ひとまず、私のすべきことは決定した。青い翼を背負った妖怪の少女に、飯を与えてやることだ。不可解な問答に疲れたのか、私も腹が減っていた。この屋敷に、腹の足しになるものがあるといいのだが。 「ちょっと、ここで待っていろ」  私はおもむろに立ち上がった。そうして畳の上を歩いてゆき、障子に手をかけたところで、ひとつだけ、つまらないことを思いつく。  振り返ると、ミスティアのつぶらな瞳が、期待に輝きながらこちらへ向けられている。苦笑いを返しながら、障子を開ける前に、私は一言だけ、投げつけた。 「人を、喰うなよ」 「?」  釘は刺さらなかった。  どうやら、外してしまったらしい。      3  数日後の夜、私は再び、白い髪の教師に会った。 「何だ、そりゃ」 「可愛いだろう」 「まあ、面白くはあるかな」  彼女は、私が託した赤い布切れを、弁当箱みたいな形をした帽子のてっぺんに結んでいた。  いつもかぶっているものらしいが、初めて会った夜には、こんな帽子を見た覚えはない。あの時は、必死になって生徒を捜していたので、帽子をかぶってくることなど忘れていたのだろう。  彼女は、わざわざ礼を言いに来たのだ。つまり、妖怪を退けるために、モンペの切れ端をプレゼントしたことに対してだ。私がしたことなど、米粒よりも些細であるというのに、並の人間ならば恐怖で立ち入ることもできない夜の森を抜け、会えるかどうかも解らない根無し草の私を捜して、再び竹林を訪れてくれた。  純粋に、嬉しかった。  感謝されたからといって、あの時、面と向かって協力を放棄した罪悪感が晴れるわけではない。それでも、私に会いに来てくれたという事実そのものに対して、心の底から喜びを感じていたのだ。  私自身、ここ数日のあいだ、彼女が再び会いに来てくれることに期待して、何度も竹林の外れまで足を運んでいた。相変わらず、人里まで足を運ぶ気にはなれなかったが、私の小さな行動は、見事に功を奏したと言えるだろう。  私たちは、あの夜の出来事を話した。  彼女は、無事に生徒を見つけて、里まで送り届けることができたと話してくれた。何でも、さらわれた子供が妖怪の棲み処から自力で逃げ出してきたところを、運良く保護することができたのだという。その少女の衣服はところどころ擦り切れていて、血を流した跡もあったけれど、怪我は小さなものばかりで、命に別状はなかったそうだ。  噂に聞く、妖怪退治の巫女のところへは、男衆が事情を伝えに行っていたという。けれども、それから捜すのでは遅いからと、彼女は自らの身を挺して、夜の森へと飛び込んできたのだ。 「無鉄砲」  私がいたずらっぽく言うと、彼女は頭を掻いて苦笑した。 「その言い草は、ひどいな」 「否定はしない?」 「ああ」  私たちは、顔を見合わせて、笑った。  今度は私が、翼を持つ少女を拾ったことを話す番だった。  ミスティアは、薬師一派の屋敷に預けられている。療養期間というわけだ。それが終わったら、森へ帰してもらえるそうなのだが、どうしてだか、私には、あいつがちゃんと森でやっていけるかどうかが心配だった。そういう話もしたかったので、不本意ながらも、あの屋敷に足しげく通う日々が続いていた。  ミスティアが変な奴だということは、初めから知っていたが、日を重ねて付き合っていると、もっと変な奴であることが解ってきた。私のことを『先生』と呼ぶのをいっこうに改めようとはしないし、妖怪になる前の、普通の小鳥だった頃の名残なのか、時折、ちん、ちん、という奇妙な声で鳴く。そのくせ歌が大好きで、いざ真剣に歌唱を始めると、この世のものとは思えぬほどの美声で聴き手の心を癒してくれるのだ。 「妖怪は好きじゃないが、ミスティアは別だ」 「妖怪が好きな奴なんて、そうそういないだろう」 「そりゃあ、そうだろう。だけど、私が焼いた鳥だからな。悪さなんかするはずがない」 「なるほど、焼き鳥か。面白い話だ」  彼女は興味深げにうなずいて、白い髪を波打たせた。  それを受けて、私は複雑な心境になる。  面白い話とは言うが、どうにも私自身が、興味の対象から一歩、距離を置かれている気がするのだ。  どうして、私のことを聞いてくれないのだろうか?  私自身のことは、さして面白くないと思われているのだろうか?  気の揉める日々が、幾日も続いた。  私は、ミスティア・ローレライのことを話して、彼女は、三十人の生徒たちの話をした。  私のことは、話題にのぼらない。心の中で煙がくすぶっているみたいで、もどかしかった。けれども、自分から身の上話を切り出したり、私のことを知りたくないかと質問したりするのは、ひどく情けないことのように思えた。  それでも、次の夜、また次の夜と、何度も会って、会話を重ねてゆくうちに、私たちの心は近づき合い、互いに積極的になっていった。気恥ずかしさはあったけれど、それはもう遠慮などではなく、親密さに由来する不思議な感覚なのであった。少なくとも、私はそう感じているし、彼女だって、同じように感じているに違いない。 「なあ」 「何だ?」 「お前、面白いやつだよな」  私はいつも、彼女のことを見ながら、そういう感想を漏らすようになっていた。そうすると、彼女はいつも、苦笑しながら、このように返してくる。 「また、それか。私は、見世物ではないのだがね」  もちろん、彼女が興行の旅芸人などではなく、ましてや、世にも珍しい真珠の実る黄金の枝でもないことを、私は知っている。しかしながら、寺子屋の教師は見世物ではないのかと問われれば、どうにも返答しかねるのだが。  寺子屋というのは、子供たちに勉強を教えるところだ。私が小さかった頃には、似たような目的で用意された施設ならばあったが、そういう呼び方をされているような場所は、まだなかったと記憶している。 「面白いよ。先生」  真っ赤なモンペに両手を突っ込んだまま、私は何食わぬ顔で話しかける。先生、という呼び方は、何となく気に入っていたが、あまり使いすぎると、からかうなと言って怒られるので、たまに冗談程度に言うことにしていた。自分も、そう呼ばれる立場にあるので、気持ちは解る。 「お前はいつから、私の生徒になったんだ」 「さあ」 「だいたい、それを言うなら」彼女は、私のことを指差した。「お前のほうが、私なんかよりずっと面白いぞ」 「そうかな」 「そうだよ」  教師とは思えないくらい、子供だましの会話だった。私だって、歳を数えるならば、相当なものである。外見は、ずっと少女のままで、変わらないけれど。  別れ際、先に「また会おう」と言うのは、私ではなく、彼女のほうだった。  そのことが、とても嬉しかった。  彼女が、私に興味を抱いてくれたと思った。  私が抱える歴史でも、私の身体の秘密でもなく。  私という人間に、純粋に興味を抱いてくれたから。  だから私は――彼女のことを、好きになってしまったのかもしれない。初めて会った時に、胸のうちに湧き起こった思いは、罪悪感だけではなかったのだ。私はようやく、そのことに気が付いた。 「おい」 「ん?」私は針でつつかれたように、顔を上げた。 「何を考えていた?」 「ああ。……いや、別に」  こんなふうに、彼女は今宵も、嬉しそうな顔で、私に会いに来てくれた。  きっと明日も、同じように、私に会うために、ここまで来てくれるに違いない。  森のほうから、澄んだ歌声が聞こえてくる。  寝ぼすけの小鳥の妖怪が、今日もまた、真夜中に目を覚ましたのだろう。まったく、森に帰されてからというもの、あいつはいつもこんな調子であった。      4 「うーさーぎーおーいし、かーのーやーまー」 「……わざと、やっているだろう」  でこぼこの土のうえを鞠が跳ねるように、不安定な歌声。 「こーぶーなーつーりし、かーのーかーわー」  ちゃんと唄えば、本当に川のせせらぎの音が聞こえてきてもおかしくはないくらいの美声の持ち主なのに、この少女は時折、ふざけてこういう唄い方をするのだ。ミスティアに言わせれば、綺麗に唄おうとするばかりではなく、たまには思い切り声を出して、空気の流れに身をゆだねて唄うことも、また一興、らしい。そもそも、歌というものが不得手である私には、こいつのそういう考え方が、いまひとつ解らなかった。  チヨコレイトという西洋菓子を食べたことがあるが、今のミスティアは、あの菓子によく似た色の服を着ている。たった一度きり、食べたことがあるだけであったが、あれはとてつもなく美味であった。そういう感想を胸を張って語れるくらい、空前絶後の衝撃を舌の上に受けたので、記憶という名の煩雑な砂れきの中にありながら、ただひとつだけ異質な輝きを放ち続ける金剛石のごとく、均整のとれた外見から、口の中に広がるまろやかな甘みまで、私はチヨコレイトのことをよく覚えているのだ。  そういう色の服と、それから、どんぶりみたいな形の帽子。そのどちらにも、鳥の翼の飾り物があしらわれている。もっとも、背中に負った本物の翼と比べてみれば、それらが装飾用に簡略化されていることは、一目瞭然である。  私が森で拾った時と、同じ服装だった。つまり、これがミスティアの私服なのだろう。  円卓を置き、椅子を並べて、隅には布団がたたんである。そんなふうに、きわめて簡素な部屋を、蝋燭の明かりが昼間のように煌々と照らしている。奥には調理場があるけれど、私は滅多にそちらへ行かない。  ここは、妖怪の森のなかでも、ひときわ齢を重ね続ける、いかめしい大樹の群生する地域である。荘厳に立ち並ぶ樹木のうちのひとつを棲み処に選び、ミスティア・ローレライは、まるで妖精のような暮らしをしていた。 「先生」  ひと通り唄い終えるやいなや、ミスティアはいつものように、私のことを奇妙な肩書きで呼びつけた。 「何だ」 「兎は、美味しいのかな?」 「知らん」  どうでもいいと言わんばかりに吐き捨てると、円卓の向こうの小鳥は、がっくりと膝を落としてしまった。そこまで落ち込まれるは思っていなかったので、私は慌てて、適当な言葉を継ぎ足した。 「そうだな……山で食べたら、美味しいんじゃないか」 「本当?」途端に顔を上げて、目を輝かせるミスティア。 「かの山って、どこの山だろうな。それにもよる」 「うーさーぎーおーいし、かーのーやーまー」 「おい。あれは、喰うなよ」  聞こえているのかいないのか、ミスティアは同じ歌をもう一度、今度はよだれを垂らしながら唄った。今の私には、ミスティアの考えていることが、手に取るように解る。頭の中では、間違いなく、薬師一派の屋敷で飼われている兎たちの姿を思い描いているに違いない。あの屋敷からモノを盗ったら、どれほど惨たらしい仕返しが来るのか想像もつかないし、あんなところの兎、薬漬けにされていそうで、とてもじゃないが食べられたものではない。  私はしばしば、こうしてミスティアの家に足を運んでいる。白い髪の教師だって、さすがに毎日欠かさず来てくれるというわけではないので、彼女が来なかった時は、こちらに遊びに来るようにしているのだ。彼女に会ってから、ミスティアに会いに来る日もあるのだが、晴れの日はそうしようとか、具体的な規則を定めているわけではなく、それはまあ、気分次第なのであった。 「美味いな」  私は木製の円卓に着き、ミスティアの珍妙な歌舞を眺めながら、香ばしいきのこスープをすすっていた。  例の屋敷で療養しているあいだ、ミスティアは、薬師たちから料理を教えてもらったらしい。この小鳥が、まだ経験の乏しい、生まれたての妖怪であるということを見越した上で、そうしてくれたのだ。森に帰ってからも一人で生活していけるようにと、炊事、洗濯、食料の確保など、様々なことを教わったという。人付き合いの項目がなかったのは、らしいといえばらしい。それは、私にも教えられないことだった。  ミスティアの作る料理は、とても美味い。「美味い」というのにも、種類があるもので、この場合、腹に溜まるというよりは、酒に合いそうなものばかりなのだ。しかしながら、私もミスティアも、酒の造り方を覚えていないので、そればかりがいまひとつ、惜しいところではあった。 「屋台でも、始めたらどうだ」  冗談っぽくそう言ってみるが、内心では、わりかし真面目な提案であった。料理は美味くて酒に合いそうだし、小鳥の屋台だなんて、斬新で面白いではないか。例えば、それが焼鳥屋であったりすれば、なおのこと、噂を聞いた者の興味を惹きつけるに違いない。客は妖怪ばかりになるだろうけれど、そういう店が一軒くらい、森の中にあってもいいと思う。  我ながら、驚くべき発想であった。  発想の奇抜さを自賛しているのではない。私が、妖怪に心を開こうとしていることが、驚きなのだ。蒸気機関と同じくらいには、刺激的であると思う。  しかしながら、私の気持ちとは対照的に、ミスティアは放屁のような歌声を止めると、寂しげな表情でうつむいてしまった。 「……できるわけ、ないよ」  そうつぶやいて、私のほうへチラリと視線をよこす。 「どうしてだ?」 「だって」ミスティアは、再び下を向く。「恥ずかしいから」  想像どおりの返事だった。  この少女は、人見知りなのだ。  私は初め、屋台と舞台を、取り違えて言っているのではないかと錯覚した。けれども、ミスティアにとっては、どちらも同じようなものなのだろう。  美しい歌声と、素晴らしい料理の腕前の持ち主でありながら、それを披露する機会を自ら潰してしまう――私の勝手な言い分ではあるけれど、それは、非常にもったいないことであると思う。 「まあ、やりたくなったら、好きなことをやればいい」  私は、口元からこぼすようにして、そう言った。 「好きなこと」 「そうだね」私は、鼻で息をしてから、しかつめらしく言い渡す。「例えば、いつか舞台をつくって、たくさんの人に歌を聴いてもらう。何でもいいんだ。目標を立てて、そのために努力するといい。そうやって、夢中になっていれば、人見知りもきっと治る」  適当に生きていては、だめだ。  復讐に生きていても、だめだ。  私は、自らの生き方を省みながら、強くそう思った。  ミスティアには、私のようにはなってほしくない。  愚昧なる終わりなきいばらの道を、血まみれになって進み続けるような奇人には、絶対になってほしくはないのだ。  どのみち、妖怪の身だ。先は長いし、やりたいことさえ見つければ、努力次第で何でもできるに違いない。  それは、私自身ができないことの押し付けにすぎなかったが、せめて反面教師でいてやることこそが、私にできる唯一の激励であると思っていた。 「先生」  ミスティアは、すっかり顔を上げて、こちらを見ていた。 「ん」そ知らぬ顔で、私は応える。  そんな私に――ミスティアは、純粋な言葉をくれた。 「ありがとう」  そして、笑顔。  夜雀のくせに、朝顔みたいな笑い方だった。 「……おう」  私は、急に照れくさくなって、鼻っ面を手でこすった。  今のは、ちょっぴり、先生らしかったかもしれない。いや、そうは言ってみるけれど、そもそも私は、教師ではない。けれども、白い髪の彼女が、いつもこんなふうにして、子供たちにものを教えているのかな、と考えてみたら、旨のうちにしぜんと嬉しさがこみ上げてきたのだ。 「あーきのゆーうーひーにー」  ミスティアは、別の歌を唄い始めた。どうやら、おふざけはまだ続くらしい。  さじを動かしてみたが、きのこスープの椀は、もう空だった。私は苦笑しつつ、至極当然といったふうな口調で、短い指摘をはさんだ。 「まだ、夏だぞ」 「もうすぐ、秋だよ、先生」 「ありゃ」私は口元に手をあてた。「そうだったかな」 「うん。虫の声を聞けば、解るよ」  ミスティアはそう言って、にっこりと笑った。料理が上手いのは、妖怪らしく、においや味に敏感だからだとは思うけれど、こいつは歌が好きだから、声だとか、音だとか、そういう概念との結びつきのほうが、特に強いものなのだろう。だから、少しでも変化があれば、すぐに気付くのだ。  そういえば、夕空にアキアカネが飛んでいるのを見たし、夜になれば、コオロギの鳴き声が聞こえるようになった。  ――もう、夏も終わりか。  根無し草の暮らしを続けていると、およそ時間の感覚というものがなくなってしまう。木々や虫たちが教えてくれる季節の変化だけが、私の中で動き続けている、唯一の時間なのであった。  それでも、ただ延々と暑い日が続いてゆくだけの無機質な例年に比べて、今年の夏は、刺激的なことがたくさんあったように思う。  白い髪の教師に出会い、そして、ミスティアに出会った。  避けていた人里にも、嫌っていた妖怪にも、気がつけば、一歩、二歩と、次第に近づいているように思う。  何よりも、私自身が、こういうのも悪くはないかな、などと思うようになっていた。  ひょっとすると、いや、ひょっとしなくても、私は、他人との付き合いに、前向きになっているのかもしれない。そればかりは、絶対に、永遠にないことだろうと思っていたのに、これは私にとって、驚くべき変化であった。海の向こうの科学者に由来した、コペルニクス的転回、という言葉があったけれど、今の私の心境には、その表現がぴったりと当てはまるような気がする。  ふと気付くと、いつしか小鳥は、一切の冗談を排して、その歌声を精緻な芸術へと切り替えていた。  よどみのない歌声が、乾ききった砂れきを潤わせる湧き水のように、私の頭の中に優しく染み渡ってゆく。  停止していた時間の歯車が、流れ込んでくる歌声によって、水車を回すみたいに、ゆっくりと動き始めたような気がした。      5  森の木々も色づき始めた、半分の月の夜。  その少女は、ぼうっとした顔で、私のところへ迷い込んできた。 「あの」  おかっぱ頭に、土色の和服を着た、素朴な少女だった。 「歌姫を、知りませんか?」  その日は、二人目の来客だった。白い髪の彼女はもう、他愛もない話を終えて帰った後で、つい先刻まで夜の空気を麗かに震わせていた小鳥の歌声も、今ではもうすっかり聞こえなくなっていた。  私は驚いた。こういう場合、まず相手を妖怪であると疑うことは、もうずっと昔からの癖であった。ましてや、このように幼い娘が、一人で夜の森から出てくるはずがない。出てくるとしても、それは青い翼を背負ったやつで、そいつのことならば、私はよく知っていたし、まず見間違えるはずがなかった。 「知っているけど」  少女の言う、歌姫というのが、まさに、その翼の生えたやつのことだった。曖昧な判断で、知ったような口を利いているわけではない。この辺りで『歌姫』と言われれば、小鳥の妖怪の姿しか思い浮かばないのだ。 「歌姫を、知っているの?」少女は、途端に目を輝かせた。 「ああ」 「素敵」 「素敵?」  変な感想だ、と思った。素敵なのは、私ではなくて、あいつの歌声だろう。 「歌姫は、どんな人?」 「私が焼いた鳥だよ」 「鳥?」 「鳥の妖怪だ」 「妖怪なの?」 「まあね」私は肩をすくめる。「私が、世話を焼いたんだ」  溜息と一緒に、そんな言葉を漏らした。立て続けに繰り出される質問には、うんざりしてしまいそうだ。しかしながら、この少女を放っておくわけにもいかないので、私は仕方なく言葉を返してやっているのであった。 「ねえ、歌姫に会わせて」 「は?」  少女がそんなことを言い出したので、私は思わず呆けたような声を漏らしてしまった。そいつは妖怪だと説明したのに、会いたがるなんて、頭の螺子が外れているとしか思えなかったからだ。 「だめだ」 「どうして?」 「妖怪がいて、危ないからだ」 「知っているよ。だって、妖怪に会いに行くんだもの」 「そういうことじゃあ、ないだろう」  ――もしかして、この少女が妖怪なのではないだろうか。  心のどこかで、私はそういう懸念を抱いていた。そうであるならば、夜の森にひそむ妖怪に対して、恐怖を抱かないのもうなずける。  しかし、そのような気配は感じない。これまでに数多くの妖怪たちを見てきたので、もしも相手が妖怪であるならば、そういうことは、雰囲気だけで何となく判るのだ。  ここには、適当な大きさの岩があったので、おかっぱ頭の少女をそこに座らせて、私も隣に腰掛けた。 「あれは、聴き手によっては、刺激が強すぎる歌声だ。あまり、感化されるなよ」  そう言ってから、森に棲む妖怪たちの危険性について、私は具体的に諭していった。つまり、どういう妖怪がいて、どんな恐ろしいことをしてくるか、ということを話し聞かせたのだ。 「私も、妖怪に襲われたことがある」 「えっ」少女の顔面が、一気に青ざめる。「それは……どんな、妖怪に?」 「恐ろしい獣さ。人を喰って、消してしまう」 「消える……?」 「ああ。消される」 「何にだって、食べられたら、消えちゃうよ」 「違う」私はかぶりを振った。「この世界から、消されるんだ。誰にも悲しまれることさえなく、独りで喰われて死んでいく。初めからいなかったみたいに、きれいさっぱり、忘れられる。友達からも。家族からも」  自らの過去を顧みながら、私は語りに没頭していた。最後の部分だけ、少し力を入れてしまったかもしれない。  ふと我に返ると、おかっぱ頭の少女が、怯えたような上目遣いでこちらを見ている。場違いな感想であるが、小動物のようで、可愛らしい。 「……まあ、そいつは、この森には棲んでいないけどね」  少し、言い過ぎたか――そう思って、一言付け足した。  もしもあいつが棲んでいるならば、私はとっくに殺しにかかっている。  肉体を喰われると、人の心から消えてしまう。  魂を喰われると、自分の心まで消えてしまう。  そういうモノに――私は、喰われた。  大好きな父上の顔に泥を塗った、それが仕打ちであった。  解っていたけれど、私は今でも、私を喰った妖怪を恨んでいる。その想いは、父上に恥をかかせた黒髪の女に対する、燃えたぎるような怨恨に比べれば、はるかに劣るものであろう。それでも、恨みの念を消さずに灯し続けているあたり、私はよほど根に持つ性格らしい。 「怖い」  私の話を聞いているうち、少女はまるで、今まですっかり忘れていたことのように、子供らしい恐怖心をあらわにしていった。どうやら本当に妖怪などではなく、何かの間違いで、人間の子供が迷い込んできただけのようだ。  歌姫に会いに行くという行為の危険性を諭され、少女は納得し、諦めてくれたらしい。それから、少女はふと思いついたように、こんな質問を投げかけてきた。 「あなたは、誰?」  今さらか、と思ったが、よく考えてみれば、私のほうから名乗ることなんて滅多にない。そもそも、初対面でまともに会話できる相手に遭遇する機会が、ほとんど存在しなかった。現在のこれだって、まともな会話だとは言い難いような気がする。 「私か?」どう答えるべきか、少しだけ逡巡したのち、いちばん面白いと感じた返答を選んだ。「焼鳥屋だ」  それから少女は、私のことについての質問を重ねてきたが、そのたびに適当なことを言って、のらりくらりとはぐらかした。ミスティアや、白い髪の教師にだってまだ打ち明けていないことを、今宵出会ったばかりの子供に教えるわけにはいかない。 「私は人間だけど、悪い妖怪は近づかない」  結局、そのように説き伏せて、強引に納得させた。少なくとも、私自身が妖怪であると疑われることはなくなった。  今度は、私が少女に質問する番だった。  どうやら、この少女は、歌に惹かれて森へ迷い込んできたらしい。確かに、あいつの歌は、聴く者によっては刺激が強すぎる。事実、私と話している最中も、落ち着きがなく、少し混乱しているようであった。  少女はあの歌声が大好きだと話してくれたが、残念ながら、ミスティア・ローレライに会わせるわけにはいかない。  私はミスティアの棲み処を知っているが、だからといって、いきなり部外者を連れて行くのは忍びない。あいつは人見知りだし、そもそも、妖怪の棲み処を人間に教えるなんて、退治して下さいと言っているようなものだからだ。ミスティアの歌声について、里でどのような噂が立っているか、私は教師の口から聞き及んでいた。  そうでなくとも、子供に夜の森を歩かせるという行為が、あまりにも危険である。無論、気は進まなかったものの、私が付き添って、人里まで送り届けてやるつもりである。だから、ひとまず、歌姫に会わせるわけにはいかないということについては、納得してくれて助かった。寄り道をすればするほど、危険が増えてしまうからだ。  しばらく話しているうち、この素朴な少女は、次第に冷静さを取り戻していった。少女の話を要約すると、何でも、友達と一緒に、歌を聴くために里を抜け出して来たけれど、途中ではぐれてしまったそうだ。 「そいつは、困ったな」私は頭を掻いた。  子供が森で行方不明になっているとすれば、これは大事件だ。この少女は、よほど巧妙に抜け出してきたのか、人里のほうからは、今のところ騒々しさのようなものは伝わってこない。しかし、ひとたび事が知られれば、そういうわけにもいかなくなるだろう。 「だけど、ケイちゃんなら、心配いらないような気がする」  しかし、少女がこんなことを言い出したので、私は動揺を押し殺しながら、あえて軽い調子で言葉を返した。 「そりゃまた。どうしてだ?」 「ケイちゃんなら、森の外へ出る道を、知っていると思うし」少女は、人差し指を立てて、説明した。「一度、妖怪にさらわれて、無事に帰ってきたような子だから」  それを聞いて、思い出した。そういえば、あの白い髪の教師が助け出した生徒が、そのような名前であったと記憶している。そうなると、この少女も、彼女の生徒なのだろうか。だとしたら、なおのこと一大事である。  私の懸案事項は二つ。この少女の友人であり、白い髪の教師が大切にしている生徒。その命の危険は言うまでもなく、今の森に人間たちの手が及べば、ミスティアまでもが危険にさらされる可能性もあるのだ。  ミスティアは、まだ森での生き方を覚えたばかりの妖怪である。人を喰わず、身を守る術も知らず、歌だけ唄って正直に生きているような妖怪が、ひとたび人間たちに棲み処を発見されようものなら、何が起こったのかも理解できぬままに、一方的に駆除されてしまうに違いない。  ミスティアの心配はともかくとしても、この少女には何故、「心配いらない」などということが言えるのだろう。いかなる理由で森に入ったことがあるにしても、まだ子供である。あの時は、教師が身を挺して捜索していたから、無事に帰ってくることができたのであり、一度助かったからといって、二度目があるとは限らない。  それなのに、この少女の態度には、およそ焦燥感というものがない。時間の経過と私の説得の成果で、もはや歌に惑わされて妙な発言をしている様子はないし、友人が無事であると信じたいがための、やせ我慢のような意思も感じられないのだ。 「ケイちゃんは、妖怪にさらわれてから、おかしくなったんだ」少女は、唐突にそう言った。 「どういうことだ?」私は、驚きのままに問い返した。 「今までと、態度が違ってた」  それから、少女はひどく寂しそうに、語り始めた。 「ケイちゃんのおうち、お金持ちだから、いつもおしゃれな服を着てくるんだ。それでも、そういうこと自慢したりしないから、寺子屋でも、お友達たくさんいて、人気者だったのに」 「急に、金持ちを鼻にかけるようになったのか。それで、嫌われたとか」 「ううん。違うの」少女は首を横に振った。「何て言うか、冷めた、って言うか」 「冷めた?」 「子供っぽさが、抜け落ちちゃったのかな。戻ってきてからは、話し掛けても、妙に礼儀正しかったし。朝は、いつもみたいに、こうやって」少女はそこで、両腕を天に向けて、高く伸ばした。「おはようサン、って、やってくれなくなっちゃった」 「何だ、それ」 「こう、お空の太陽に手を伸ばす感じが、おはようサン。朝のごあいさつだよ」少女は、嬉しそうに話した。「ケイちゃんが、考えたんだ。朝は、お日さま、頭の上にないよ、って私が言ったら、ちょっと恥ずかしそうにしてたけど」 「ふうん」私はそれから、少女を真似て、両腕を天に伸ばしてみた。「おはようサン」 「そう、そう。サンっていうのが、太陽のことなんだって。先生が言ってた」 「そうか」私は、笑ってうなずいた。 「……それでね」少女は真剣な表情に戻って、続きを語った。「ケイちゃん、あれ以来、お友達と話すのが、面倒くさい、みたいな感じでさ。それで、みんなから避けられるようになって」 「お前は、避けなかったのか」 「うん」少女は、語気を強めて言い張った。「だって、ケイちゃんは親友だもの」  きっと、その子は、この少女にだけは、心を開いているのだろう。少女の言葉を聞いているうち、私は柄にもなく、力になってやりたいと思い、その子がおかしくなった理由を想像して、述べてみた。 「ケイちゃんという子は、妖怪にさらわれた恐怖で、病気になってしまったのかもしれない」 「病気?」 「心の病気だ。他人との接し方が解らなくなって、怖くなって、どうしても、一人になってしまう。そのせいで、そっけない態度に見えるんだ」 「心の病気かあ……」  思い当たる節があるのか、少女は下を向いて、「そうかもしれない」と漏らした。  そうだとすれば、この少女が親密な付き合いをやめようとしない限りは、いずれケイちゃんという子も元に戻るだろう。まずは、森ではぐれてしまったという、その子を見つけ出さなければ、元も子もないのだが。  それにしても、今までの話がどうして、子供が夜の森から無事に抜け出せるという考えに結びつくのか、私にはいまひとつ理解できなかった。  そうして、私が考えあぐねていると、おかっぱ頭の少女は、ふと顔を上げて、沈黙を打ち破った。 「だけど、先生とは、いつもお話していたな」 「えっ?」 「あ、ごめんなさい。ケイちゃんのお話」  少女は、申し訳なさそうに言った。間が空いていたし、私が疑問符を浮かべたから、話の脈絡をつなごうとしたのだろう。  だが、そんなことは、解っている。ただ、あの教師が絡んでくると、話は違った。今の私は、明らかに、動揺が顔に出てしまっている。 「私にはよく解らない、難しいお話だったけど、先生とお話しているあいだは、とっても楽しそうだったな。ケイちゃん、もともとお勉強できたから、きっと先生の難しいお話もよく解るんだろうね。放課後は、いつも二人で残って、お話しているし」  私は、冷たい汗を垂らしながら、それを聞いていた。  そうだ、話が違う。  そんな話は、聞いていない。  ほとんど毎晩、生徒たちのようすや、授業の内容など、他愛もない話を聞いているが――白い髪の教師は、彼女は、一人の生徒とそのような時間を共有しているなどと、私に話してくれたことは一度もなかった。  怒りなのか、悲しみなのか、何だかよく判らない感情が、私の心を支配した。そうして、渦を巻いて混濁する思考の中に、少女の何気ないつぶやきが入り込んでくる。 「今のケイちゃんだったら、何でも知っていそうだし、大丈夫だと思う」  なるほど。そういうことか。  ――あの先生と、対等な関係を築けるような娘ならば、難なく無事でいられるだろう。  ちょっと聞くと、これは滅茶苦茶な考え方であるようにも思われかねない。しかしながら、あの教師の風貌や性格を理解している私にとっては、このおかっぱ頭の少女と同じように、それがひどく当然のことであるような気がしてならなかった。  先生と、対等に話す少女。  先生と、楽しそうに話す少女。  そういう印象が、私の心に引っ掛かる。  目をつむってみると、真っ黒なはずのまぶたの裏側に、頭の中の映像を覗き見ているような錯覚に陥る。そこにあるものは、何もかもがグニャリと歪んでいて不定形であり、そしてどことなく、暗い緑色を帯びているのだ。  私は、何を考えているのだろう。  私は、何ということを考えているのだろう。  下らない。  馬鹿馬鹿しい。 「そういえば」波打つ意識は、少女の声によって再び引き締められる。「先生が、森へ入っていくところを見た」  刹那、私の心臓が跳ねた。  その可能性は、考えてもみなかった。  それは、乾ききった苗代の稲を食い荒らす虫のごとく、望ましくない事態である。  思考の混濁によって、多少なりとも全身の機能が鈍くなっていたおかげか、辛うじて、驚愕を表情に出してしまうことは抑えられた。  それでも、内心の動揺は、少しでも気を抜けば、たちまち外へ漏れ出てしまうかもしれない。すでに私の心の動きなど、先ほどのことで簡単に見破られているかもしれないが、それでも、椀の縁までなみなみと注がれた茶のように、きわめて危うい心境であった。 「先生を、見ませんでしたか?」少女は、おかっぱ頭を両手で触りながら、丁寧に説明してくる。「あなたみたいに、白くて長い髪で、青い服を着た、女の人」  その言葉を受けて、 「いや、見なかったな」  私は、真顔で嘘をついた。  彼女にだって、面子があるだろう。生徒に秘密で、里の見張りに嘘をつくようなことまでして、ここへ通ってくれているのだ。その努力を台無しにするわけにはいかない。  そして何より、先ほどの少女の話を聞いてむきになっていたせいか、二人だけの秘密の時間を守り通したいという意思が、私の頭の中の正直な部分を鎖のように縛り付けていたのである。 「お前の友達も、先生も、私が捜しておこう」  私は強引に話をまとめて、続く言葉を断ち切った。これ以上、話を続けていると、厄介なことになりそうだと思ったのだ。  空を見ると、半分の月が傾いていた。だいぶ夜が深まっている。かえって、朝になるのを待ったほうがいいのかもしれないが、子供がこんなところに迷い込んできたのだから、朝陽を待たずに事が明るみに出て、里で騒ぎになってしまう可能性がないとも言い切れない。  それでは困るので、私は、少女を人里まで送り届けてやることにした。人里に近づきたいなどとは思っていなかったし、むしろ避けたくもあったが、この際だから、森の外まで出て行く、その程度のことならば仕方がないだろう。 「そういえば」私は、会話の流れをはぐらかす意味合いも含めて、思い出したように言った。「お前、名前を聞いていなかったよ」  特に期待をこめた質問ではなかったが、私は、名前くらいは聞いてやることにした。これまでに、白い髪の教師の話に登場した生徒の、いずれかに一致するかもしれない。あの教師は、生徒の話はしても、あだ名で呼ぶのがほとんどで、具体的な氏名を挙げることは滅多になかった。しかし、だからこそ私は、もしもこの少女の名が私の少ない知識に合致したならば、それは奇跡的で、とても面白いことだと考えていたのである。 「六郷麗來です」少女は、丁寧な口調で名乗った。 「ろくごう、れいら?」 「はい」  素朴な外見には不釣合いな、雅やかな印象の名前だった。  白い髪の教師の話には、『レイ』という名がたびたび登場したが、もしかしたら、それがこの少女なのかもしれない。  だが――私が考えたのは、そういうことばかりではない。  私の頭のなかでは、そういった感想とは別のところで、その名前が引っ掛かっていた。 「れいら」  似たような名前の奴を知っているのだ。  私が拾った、小鳥の妖怪。  歌に惹かれて迷い込んできたこともあるし、これも何かの縁、といったところだろうか。それでも、残念ながら、会わせてやるわけにはいかないのだが。  今宵の森はもう、ひとたび歌声が止んでからというもの、ずっと静かであるから、きっと唄い疲れて、ぐうたらと二度寝でもしているのだろう。あいつは、そういう奴なのだ。  私は、そんなふうに他愛もないことに思いを馳せながら、おかっぱ頭の少女の手を握った。 「さて、行くか」  それから、闇をたたえる森の中へと歩んでゆく。私にとっては、生ぬるい闇だ。それは無論、不気味だと言いたいのではなく、容易である、という意味なのであった。  明日の夜、彼女が会いに来ても、この生徒のことは話さないでおこう。下手に打ち明けてしまえば、何か大切なものを失ってしまうような気がしたからだ。例えば、「興味本位でついてくる生徒がいるならば、もう森には立ち入らない」だとか、そんなことを真面目な顔で言ってきそうで、怖かった。彼女に会えなくなってしまうような事態は、絶対に避けなければならない。  そのためには、少なくとも、ケイちゃんという子を見つけて、無事に人里へ帰してやる必要があるだろう。そうしなければ、たちまちに事が露見して、また人里で騒がれることになる。そんなことになれば、私は今夜のことを白状せざるをえなくなってしまうし、捜索の手が回され、森に棲む友人にも危険が及んでしまう。  この少女が、今夜の出来事を自分から他人に話し聞かせる程度であれば、どうとでも誤魔化すことはできる。『子供の意見を、大人は単純に弱いと判断して、あっさりと聞き流してしまう。けれども、それは、非常に勿体なく、愚かしく、嘆かわしい行為だ――』教育者である彼女は、そのように語っていた。だが、今回ばかりは、その弱さを逆手に取らせてもらうしかない。  卑しい考えであるとは思うが、仕方がない、と割り切って、溜息を吐く。そうこうしているうちに、連なる木々の向こう側から、里の明かりが覗き見えていた。 「それじゃあ」 「うん」少女はにっこりと笑った。「またね」 「もう、会うことはないよ」  結局、こちらの名前は、最後まで教えてやれなかった。これで良かったのだ。  別れ際に、ケイちゃんという子の特徴を尋ねた。私は少女を送り届けた後で、森の中を捜し回ったが、それらしい姿は見当たらなかった。  ――本当に、自力で帰っていったのだろうか?  私は、そんなことを考えたが、かぶりを振って、またしばらく夜の森を歩いた。そうしているうちに、やがて空が白み始めたので、きっと運が良かったのだと思い、私は捜索を諦めることにした。  事が大きくならないかどうかを、運に任せてしまうことになるのだが、そんなこと気にしている余裕がないくらい、精神的に疲れきっていたのだ。  歩き回っているうちに、嫌なことを考えてしまった。  つまり、それは彼女のことであり、  彼女が、誰かと一緒に話していて、  それが、私以外のやつなのだ。  それでも、相手は子供であって、  別に、気にすることなんか、  これっぽっちもないはずなのに、  どうしても、どうしても、  逆立ちしても、気になってしまう。  ぐるぐると、頭のなかが緑色で、気持ちが悪かった。  もう何も考えたくはないと思ったので、私は帰って寝ることにした。無謀としか思えない判断である。少なくとも、私の頭の中の、どこか冷静な部分は、そのような評価を下していた。私は、時というやつが、そう簡単に物事を忘れさせてくれるものではないということを、身をもって知っているはずだ。そのくせ、当たり前のようにそんなことができるなんて、私はよっぽど疲れていたのだろう。  竹林に戻る頃には、空が馬鹿みたいに明るくなっていた。眠くて仕方がないところへ、何だか喧嘩を売られているような気がしてならなかったので、私は竹藪に隠れて見えなくなってしまう前に、太陽に向かって一言、皮肉を投げつけてやった。 「おやすみ」      6  次の夜、私はミスティアの棲み処を訪ねた。  本当は、昨晩行こうと考えていたのだが、迷子に遭遇してしまったために、その時間がなくなってしまったのだ。それに、今の私には、そのことに関して、ミスティアに言っておくべきことがあった。 「……美味いな」  と、いうことを、言い渡そうとしたわけではない。  しかしながら、まあ当初の目的はさておき、私は甘い汁気に満ちた大根の煮物をつついていた。いつ訪問しても、こういったものを手早く用意してくれるから、ミスティアは本当によくできた奴だと思う。 「うーさーぎーおーいし、かーのーやーまー」 「またか」  私は苦笑した。よほど気に入っているのか、ミスティアはここのところ、この歌を口ずさんでいることが多かった。  歌、という要素に、ここへ来た目的を再確認する。そうして、私はいよいよ箸を置き、あどけない歌舞に夢中のミスティアに向かって、一直線に切り出した。 「なあ」 「はい?」ミスティアは、ぴたりと動きを止めて、こちらへ顔を向けた。 「悪いんだが……夜の森で、あまり開けっぴろげに歌を唄うのは、控えてくれないか」  そう言って、私は苦い顔をした。  ミスティアは夜になると、森じゅうに響き渡る美声で、歌を唄うようになっていた。それは習慣のようなものか、あるいは趣味のようなものであろうと思っていたのだが、どちらにせよ、ミスティアの自由な歌唱を縛り付けるようなことは、本来ならば決して言いたくはなかった。 「先生、どうしてですか?」ミスティアの眉は、三角形につり上がっていた。 「人間が、迷い込んでくるかもしれないんだ」 「人間?」首を傾げて、ミスティアは言った。「私は、人間を食べません」 「いやあ、その。そういうことじゃない」 「あっ。私のことだったら、心配いりませんよ」ミスティアは、慌てて両手を振った。「そりゃあ、恥ずかしくて、何も話せないかもしれないですけど、がんばって、ご挨拶くらいはします」 「ああ、解ってる」私は、手を上げてうなずいた。「えっとな、そういう問題じゃないんだ」 「では、どういうことなのです?」 「お前は危険ではないかもしれんが、他の妖怪たちが、必ずしもそうであるとは限らない」 「そうですか」ミスティアは、もっともだと言わんばかりにうなずいて、すぐさま再び疑問の表情を浮かべた。「では、どうして、人間が夜の森へ入ってくるのですか?」 「うむ。根本的には、そういう疑問に行き着くよな」  それから、私は昨晩の出来事を簡潔に話した。人間の少女が、ミスティアの歌声に惹かれるあまり、森を抜けた先の、竹林の入口にまで迷い込んできてしまったのだ。 「――つまり、お前さんの歌声は、聴き手によっては刺激が強すぎるんだ」 「そうでしょうか」 「ああ。お前の歌は、あまりにも綺麗すぎて、人間をとりこにしてしまう。そんな奴らが、もしも夜の森に迷い込んできたら、とても困ったことになる」  歌が美しいのは良いことなのだが、森の中に人間を引き寄せてしまう、というのがまずかった。そのことを、私は昨晩出会った少女から学んだ。魅力を振りまくにしても、場所によっては危険をともなう場合がある。美しすぎるのも、考え物であるということか。 「…………」  私の言葉を受けて、ミスティアは黙り込んでしまった。厳しいことを言ってしまったとは思うが、諭さぬわけにもいかない。怒っているつもりはないけれど、時には、心を鬼にする必要だってあるだろう。  申し訳ない気持ちを隠すため、私は、大根の煮物をちまちまと箸でつついていた。いくら人を襲わないとはいっても、妖怪であるという自覚は、一度しっかりと持たせておかなければならない。人間と妖怪は、決して相容れることはないのだ。私が、普通の人間ではないというだけで。 「先生」  ふと沈黙を破り、呼びかけられたので、私は箸を止めた。 「何だ」 「それでも、私、唄わなければ」 「いや。唄うこと自体が悪いとは、言っていない」私は小さくかぶりを振った。「森じゅうに、ましてや人里まで響き渡るような、そういう唄い方は控えてくれ、と言ったんだ」 「そういう唄い方をしなければ、意味がありません」 「うーん。大きな声で唄いたい、多くの人に聴いてもらいたい、その気持ちは尊重したいのだが」 「違います」ミスティアは、チヨコレイトを真っ直ぐに割った音みたいに、きっぱりとした声で言った。「私は、明確な目的のもとで、歌を唄っているのです」 「何だって」私は思わず、瞠目した。「そいつは、初耳だな」  そういえば、森で唄っている時のミスティアは、中途半端なところで歌を止めることが多い。唄う時間が深夜ばかりなのは、夜行性ながら寝坊しているせいだと思っていたが、それにも理由があるのだろうか。 「においが、します」 「におい? それは、何のにおいだ」 「私のにおい」 「お前の……?」  ミスティアが何を言っているのか、よく解らなかった。何かの冗談だろうと思い、私は軽く笑って、言葉を返す。 「お前がそこにいるんだから、お前のにおいがするのは、当たり前だろう」 「いえ、先生。自分のにおいは、いつも自分の周りに漂っているのですから、自分では感じにくいものだと思います」  ああ、と私はうなった。  言われてみれば、確かにその通りである。薬師一派の屋敷や、ミスティアの棲み処を訪問すると、私はいつも独特なにおいを感じる。そこに暮らす者たちが、それぞれに有している、生活のにおいだろう。しかし、自分の寝床に帰っても、自分の生活するにおいに対して、特に感慨を抱いたことはない。  それなのに、自分のにおいがするとは、一体どういうことなのだろう。ミスティアの言うことが冗談だと思っていた私は、そこで初めて、大きな疑問符を浮かべた。 「真夜中になると、私のにおいが、まるで他人のにおいみたいに、森のどこかから漂ってくる。でも、それは自分と同じにおいなんだって、はっきりと判るんです。その理由までは、よく解らないけれど」  ミスティアは妖怪で、鼻も利くけれど、嗅ぎ分けに特化しているわけではない。様々なにおいの立ち込める森の中から、いくらそれが自分とまったく同じ性質を持った珍しいものであっても、ひとつのにおいだけを引っ張り出して判断することは、きわめて難しいであろう。  だとしたら、それは嗅覚だけではなく、いわゆる第六感のようなものに響いて、何となく感知しているものなのではないだろうか。ミスティアは不思議なやつだから、そういう感覚を有していてもおかしくはない、と私は思った。 「何だか、懐かしくて、嬉しくて、唄いたくなります」  ミスティアは、宝物をにぎりしめるように、胸の前でそっと両手を組んだ。 「においがすると、嬉しいから、唄っているのか?」 「初めは、そうでした」ミスティアは手を組んだまま、強くうなずいた。「だけど、今の私は、あのにおいに近づきたくて、唄っているのです」 「においの正体を知るために、か?」 「ええ。懐かしくて、嬉しくて、唄っている気持ちも、ありますけどね」ミスティアは、照れくさそうに言った。 「それじゃあ、中途半端に途切れるのは、どうしてだ?」  夜の森に響くミスティアの歌は、しばしば途中で止められることが多い。その理由が、いまひとつ解らなかった。 「においが離れてしまったら、唄うのを止めています」 「離れる?」 「はい」ミスティアは神妙な顔つきでうなずいた。「私が唄っているあいだに、私のにおいは、森の外に消えてしまいます」  私はその言葉を受けてすぐ、思いついたことを口にした。 「ひょっとしたら、そいつは、お前の歌を聞いて、逃げているんじゃあないのか?」 「そうかもしれません」私の推察を、ミスティアは意外にも、あっさりと肯定した。「だけど、唄わずにはいられないんです。私だって、何だかよく解らないものにいきなり近づいていくことなんか、できません。それでも、そこに私と同じにおいを持った誰かがいるのなら、いちど会ってみたい。だから、せめて、歌と一緒に、近づきたいんです」  それを聞いて、私はふと思い出す。  ミスティアは、人見知りなのだ。 「歌があれば、心強いから。きっと、私と同じにおいを持つ誰かだって、今は怖くて避けようとしていても、いつかはきっと私の歌を気に入ってくれるはずです」  けれども、ただ人見知りで他人が怖いからといって諦めるのではなく、ミスティアなりに、他人に近づくための手段を考えるようになっていた。 「だから、においを感じた時にだけ、大きな声で唄います。私の歌が、私に届くように」  ミスティアは、強い意志をこめて、そう言った。 「なるほど」私は咀嚼するように、小さく首を振った。「そいつは、素敵な話だが……」  私は途中で言葉を切って、腕を組んだ。ミスティアの成長を喜ばしく思う反面、どうにも判然としない部分が引っ掛かり、曇天のように暗い思考へと陥ってしまう。  ミスティアと、同じにおいを持つ者がいる。  魑魅魍魎のうごめく世界、奇々怪々のはびこる世界。この幻想郷では、そのことさえも「不思議な現象」という一言で片付けてしまうこともできよう。  だが、私には、どうにも引っ掛かる。  そいつは誰で、  何のために、  どこからやって来るのだろうか。  そもそも、ミスティア・ローレライの言葉を、いまひとつ信用しきれていない自分がいる。  ――本当に、自分と同じにおいを感じて、唄っているのだろうか?  そういう疑いを、払拭することができないのだ。  夜の森に、外から入ってくる者。そういう人物に、私は心当たりがある。  私と同じ、白くて長い髪を持つ女。  寺子屋の教師。  そうだとすれば、「自分のにおい」などというのは錯覚で、ミスティアは、彼女のにおいに反応して、歌を唄っているのではなかろうか。  つまり――人間のにおいに、妖怪としての食欲をかきたてられ、興奮しているのではないだろうか。  昨夜だって、竹林にあの少女が迷い込んでくる前に、ミスティアの歌が森に響いていたはずだ。  そう思い至った途端、今ではすっかり薄れていたはずの、ミスティア・ローレライという名の妖怪に釘を刺しておく必要性が、急激に強まったように感じた。 「おい」私は、ほとんど思いつきのように、言葉を投げた。 「……?」私の口調が鋭かったせいか、ミスティアは恐る恐る、こちらの目を見つめてきた。「何ですか、先生」  私は、初めて会った夜にも言ったことを、今度はいっそうの強い意思をこめて、きっぱりと言い放った。 「人を、喰うなよ。絶対にだ」  私は、天に背いたはぐれ者だ。  こんな私が、未来永劫、平穏無事に生きてゆくことなど、許されるはずがなかった。  それは、構わない。  それで、構わない。  私がどれだけの責め苦に遭おうとも、それらは己の行いに対する、必然的な仕打ちである。今までそうやって納得してきたし、これからも、そうして生きていくつもりだ。  けれども、ミスティアには、人を喰ってほしくはない。  人を喰って、堕ちてほしくはないのだ。  私のように。  あいつのように。  遠い昔に、他人を蹴った、私という醜悪の塊。  遠い昔に、私を喰った、あのおぞましい妖怪。  そういうモノに、なってほしくはない。  ミスティアのおかげで、ただそれというだけで毛嫌いしていた妖怪たちを、ようやく許容できるようになったのだ。  それなのに。  そんな願いを抱くことさえ、愚かだと言うのだろうか。  箸を取ってみるが、すぐにまた、置いてしまう。  冷めきった大根には、もう二度と、手がつきそうにない。 「先生」  舐めるように、唐突に。  ミスティアが、湿った声で呼びかけてきた。  そうして、その表情を目に入れた瞬間、 「――――」  私は息の詰まるような、強烈な苦悶の感覚をおぼえた。  私には想像もつかないような、どす黒い何かを、頭の中でこねくり回している――およそ歌姫には似つかわしくない、そういう、悪魔じみた顔つきであったのだ。 「ぐちょ、くちゃ、ぱき、ぼき」  呪詛のようにつぶやきながら、小鳥の妖怪は、灰色の視線を虚空に投げた。  その瞳が、部屋に灯された蝋燭の火を映すことはない。昼間のような明るさを生み出している強烈な光を、少しも照り返そうとしていないのだ。  暗く、  深く、  沈むように。 「私は、この音を知っています」  小鳥の顔が、こちらを向いた。  嫌な予感。  予感?  違う。  そうではない。  それは、ずっと昔から、知っていたこと。  最初から、解っていたことなのかもしれない。 「ぐちょ、くちゃ、ぱき、ぼき」  ミスティア・ローレライ。  そう名づけた、小鳥の妖怪。  彼女は、だらしのない笑みを浮かべている。  可愛らしい少女の面影など、もはやどこにもない。  ただ、からくり人形のように。  粘つくような擬音を、繰り返し、唱えている。  歌を唄うように、愉快げに、唱え続けている。  初めから、仕込まれていたみたいに。  初めから、ぜんぶ嘘だったみたいに。 「私は、この音を知っています」  壊れたみたいに、もう一度、小鳥はそう言った。  それから、続いたのは、無邪気な言葉。  悪意のない、純粋な言葉。 「妖怪が、人間の子供を、食べる音です」  初めから、解りきっていた。  妖怪は、人間を喰う。  人間は、妖怪を殺す。  卵が先か、鶏が先か。  そんなことは、どうでもいい。  卵は腐って、鶏は死ぬだけだ。  気持ち悪い、対立の関係。  相容れない、平和な関係。  喰って、殺して。  襲って、死んで。  それが、最高に最悪な、最良の状態だった。 「ぐちょ、くちゃ、ぱき、ぼき」  私の知らない何かの声が、頭なかで反響している。  どうして、こんなことになってしまったのだろう。  虚ろな眼差し。  錆びついた声。  決して崩れず、越えられることもない、分厚く高い壁。  私はそれを、円卓の向こう側に見ている。  ミスティアだけは。  けれども、小鳥は。  諦めに近い、濁った色の感情。  気持ちの悪い声は止まず、心に苦痛を与え続けてくる。  私はもう、歌しか聞こえなくなればいいのにと思った。  だから、ただ不気味に思うばかりで、その時、壊れた小鳥の目元から流れ落ちた涙の理由を、私は考えようともしなかったのだ。      7 「おはようサン」 「……お前は何をやっているんだ」  両腕を天に掲げた私の渾身の合言葉は、仏頂面と堅苦しい返事によって一瞬で凍りつき、粉々に砕け散った。  ふと空を見上げると、伸ばした腕の先には、丸い形に近づくために、レモンみたいにふくらんだ月が浮かんでいた。 「親愛の情をこめた、素敵な挨拶だよ」 「今は、夜だぞ」 「……まったくだ。返す言葉もない」  私は両腕を力なく下ろして、溜息を吐いた。  それから、二人でいつもの岩に腰掛けた。  おかっぱ頭の少女が迷い込んできた夜から、今宵で五日目になる。  私はここのところ毎晩、白い髪の教師に会うたびに、あの少女の友達が迷子になったことに関して、何か聞かれやしないかと想像し、戦々恐々としていた。けれども、彼女はそういったことについて何も言及してこなかったので、私はひとまず安心している。ケイちゃんという子は、騒ぎになるようなこともなく、無事に里へ戻っていたのだろう。  しかしながら、今の私は、あの夜のことを自ら打ち明けようとしていた。だからこそ、教師として生徒から聞き及んでいるかもしれず、面識のあることがばれてしまうかもしれないのに、おかっぱ頭の少女に教わった挨拶を、今になってわざと真似てみたのだ。  あれから、子供が森へ忍び込んでくるようなことが起きた様子はない。時間も経っていたし、気が緩んでいたのかと問われれば、否定しきれず、そうかもしれない、と返すしかないだろう。  けれども、「生徒を巻き込むくらいならば、もう二度と会わない」と言われてしまうかもしれない、その危険性を承知していながら、あえて打ち明けようとした根本の理由は、別のところにある。  私は、単純に、もっと、彼女と親密になりたかったのだ。  互いに別々の話を、聴き手と話し手に分かれてするのではなく、両者ともに寺子屋の生徒の話題を共有して、こちらからもそのことを積極的に話すことができるようになれば、それは、とても喜ばしいことであると思う。  それに近しい時間ならば、少しの間だったけれど、経験したことがあった。彼女が珍しく、生徒の話ではなく、ハクタクの話をして、大喧嘩になった時のことだ。  彼女の家は、代々、ハクタクを祀っている家系であるらしい。私はハクタクというやつが大嫌いであったので、つい不遜な態度で受け答えをしてしまった。そうしたら、いつしか会話は、子供じみたけなし合いになっていたのだ。  彼女はただ一度、その時にだけ、私のことを聞いてくれた。要するに、なぜハクタクが嫌いなのか、ということを聞かれたのだ。喧嘩の真っ最中でありながらも、私は嬉しくなって、正直にその質問に答えた。けれども、そうしたら、嘘つきめと言って馬鹿にされたので、今度は私のほうが怒ってしまい、結局、話はうやむやになってしまった。  決まったことしか話さない私たちが、いつもと違う話を共有して、飾らぬ言葉をぶつけ合うことができたのは、今思えば、とても幸福な時間であったように思う。  そういう時間を、私は望んでいたのだ。  だから私は、あの夜、少女に会ったことを話そうとした。  それに――彼女が抱える秘密についても、問いただしたかった。  どうして、ある生徒とのあいだに、私には決して教えられることのない、秘密の時間を共有しようとするのか。私はその疑問を反芻するたび、もどかしく、苦しく、胸の痛む日々を送っていた。  こうして密会していることを除いてしまえば、彼女と共有できる秘密など、私にはなかった。  せめて、彼女が私のことを、もっと知ろうとしてくれたなら。そうであったならば、現状は大きく違っていたかもしれない。  それでも、彼女は、私を知ろうとはしない。 「どうして、私のことを聞かない?」  一度だけ、恥を忍んで、質問したことがある。  すると彼女は、真面目くさった顔で、こう答えたのだ。 「こんなところに住んでいるような奴だし、聞かれたくないことのほうが多いのではと思ってね。私は、お前が愉快な奴で、なおかつ、ものすごく良い奴だということさえ知っていれば、それでじゅうぶんだ」  その言葉を聞いた時、遠慮されているのだと、私は理解した。それは彼女なりの気遣いであって、嬉しい気持ちもあったけれど、そのとき私の心に湧き立った感情は、寂しさのほうがずっと強かった。  ――遠慮なんか、してほしくないのに。  ――もっと、私のことを知ってほしいのに。  それでも、おのずから、自分の正体を明かすことができないくらいには、私も不器用だった。自らの希望で勝手に話し聞かせるのではなく、彼女のほうから、私のことを知ろうという積極的な意思を感じられることこそが、私にとっての最大の望みであったからだ。  そういうわけで、他愛ないばかりで積極性を生むことのない対話に革新を求め、思い切って両腕を伸ばしてみたのだけれど、おかっぱ頭の少女から教わった斬新な挨拶をもってしても、いまひとつ手ごたえは感じられなかった。  ――ならば、奥の手だ。  そんな子供っぽいことを考えながら、どこか冗談じみた、軽はずみな空気を一掃すべく、私は強く咳払いをする。  そうして、私は、思い切って、問い掛けた。 「なあ」 「何だ」月を見上げていた顔が、こちらを向いた。 「お前、何か隠し事をしているだろう」  それが私の、切り札だった。  自分のことは話せなかったけれど、積極的に、相手のことを聞きだそうとするのに、厳粛な自制は必要なかった。そのはずであるのにもかかわらず、今まで聞こうとしなかったのは、私自身にも、いくらか遠慮の気持ちがあったからなのかもしれない。 「何のことだか」彼女は視線を外して、再び空を仰ぐ。 「秘密があるんだろう?」私はわざと、にやついた顔のままで問うた。「あの女の子が言っていた」 「!」  彼女は目を丸くし、あからさまに驚愕して、私の顔を覗き込んできた。その表情の裏では、少なからず、動揺もしているに違いない。 「おい。あの女の子、とは、どういうことだ」 「ちょっと前に、ここまで迷い込んできたんだ。話を聞くに、どうやらお前のところの生徒だった」 「何だと?」彼女は、眉間にしわを寄せた。「どうして、もっと早く話さなかった」 「そんなことは、どうだっていい」 「良くない。どうして、黙っていたんだ」 「何だ、それは。私ばかりが責められて、卑怯じゃないか。お前だって、私に隠し事をしているだろう」  いつしか私たちは、岩に腰掛けたまま、鋭くにらみ合っていた。不要な緊迫感を排除するために、わざと軽い調子で話してやっているのに、そういう配慮さえ汲み取ろうとしない。らしいと言えばらしいが、それにしたって、言動があまりにも一方的すぎる。  けれども、私まで頭に血を上らせていては、話にならない。そういうわけで、怒鳴りつけたい気持ちを無理やりに静めながら、私は言葉を続けることにした。 「おかっぱ頭の、素朴な女の子だった。六郷麗來って子だ」 「ロクゴウ・レイラ?」  オウムのように繰り返して、彼女は首をかしげた。今さら何故とぼける必要があるのか、私には理解できず、もどかしさがこみ上げてくる。  しかし、何やら本当に、「見当違いだった」と言いたげな様子であるのが、どうにも気になった。もしかしたら、私の言った名前と、彼女が想像していた名前が、まったく異なるものであったのかもしれない。  何にしても、理由は解らないが、彼女がとぼけて、事をはぐらかそうとしていることに変わりはないと思う。  しかしながら、私が苛立ちを募らせ、いよいよその態度を糾弾すべく口を開いたのと同時に、彼女は衝撃的な一言をつぶやいたのである。 「そんな名前の生徒は、うちにはいない」  彼女は、真顔でそう言った。  いない、という言葉が、私の頭の中で、鈍い音を立てて反響する。私はまだ、彼女のことを疑っていたけれど、頭の中に響き渡る音は、とてつもなく鈍重な真実味をともなっているような気がした。 「何だって?」内心では動揺しつつも、私は、精一杯の軽口を叩いた。「冗談はよせ」 「冗談など言うものか。本当だ」しかし、私の態度とは裏腹に、彼女は表情をいっさい変えることなく、淡々とした口調で反論する。「教師を始めてから今まで、教えた生徒の名前を聞けば、顔もすぐに思い出せる。だいいち、そんな派手な名前、いちど聞いたら忘れるはずがない」  私の頬を、冷たい汗が伝って落ちる。  心臓が、ドクン、ドクンと早鐘を打つ。私の脳には大量の血液が流れ込み、その血に刻まれたおぞましい記憶たちが、冷静な思考を遮って支配した。 「しかし、あの子は、ケイちゃんという友達と一緒に、森へ来たと話していた」  自分に言い聞かせるように、私は語った。小鳥の歌声に惹かれて、竹林まで迷い込んできた少女を、私はこの目で見たし、言葉も交わしたし、里へ帰すときには、確かに手も握った。夢であったとか、そういうことはありえない。  そもそも、彼女が教師として、自らの生徒たちのことについて語る時にも、『レイちゃん』というあだ名を挙げることが何度かあったはずなのだ。  だが――教師の反応は、そういったこととはまったく別の部分を拾い上げたものであった。 「ケイ?」彼女は目を剥いて、裏声になるほどに言葉尻を吊り上げた。「お前、今、ケイちゃんと言ったか?」 「あ、ああ」  戸惑い気味に、私はうなずく。レイラという名を差し置いて、ケイちゃん、という名前に彼女が想像以上の反応を示し、怖いくらいに詰め寄ってきたからだ。 「あいつが、そんな馬鹿げたこと、するものか……」  それからずっと、彼女はぶつぶつと、似たようなことをつぶやいていた。  何かに、囚われたように。  何かを、求めているように。  レイラという子が、言っていた。先生とケイちゃんは、放課後の教室で、いつも二人きりで話している。  私が問い質したい秘密は、それだ。  ケイちゃん、という名前に対する、過敏な反応。  やはり、彼女は何かを隠している。  その『何か』とは、  決して、美しいものではない。  そのことばかりは、おおかた予想がついていた。  本当は、考えたくもなかったけれど、だって、そうであるとしか、考えられなかったのだ。  彼女は、私が想像したくもないような薄汚い事実の全容を、貼り付けたような仏頂面で隠しているのだ。  もはや、耐えられぬ心痛。  冗談じみた期待は、もはや欠片も残されてはいなかった。 「先生」  あえてそう呼んだのは、あからさまな当て付けである。  私はいよいよもって、腹の底から湧き上がる憤りの念を、ただ一言の刃物に変えて、白い髪の女に差し向けた。 「あんた、子供を喰っているんじゃないか?」 「――――」  瞠目。  驚愕。  時間が、停止した。  そういうふうに、錯覚したのだ。  あまりにも明白な、正解だった。  石のように身を硬くしたきり、彼女が何も言えずにいることが、かえって現実的であった。  想像したくもなかった。  けれども、想像せざるをえなかった。  信じがたくても、直視しなければならなかった。  納得できなくても、理解しなければならなかった。  そうではないかと思ってはいたけれど、そうではないだろうと思う気持ちのほうが、強かったのだ。  だからこそ、あえて真正面から見据えて、問うた。  信用しているからこそ――彼女にかぎって、そんなことはありえないと言い切ってやりたかったからこそ、そういうことができたのに。  それなのに、裏切られた。  いとも簡単に、反故にされた。  私の憩いも、  私の願いも、  私の想いも、  すべて、ぐちゃぐちゃに。  最後まで残っていたのは、私の憂いだけだった。  胃袋がひっくり返って、どうにかなりそうだった。  ひどい。  何て奴だ。  子供を。  生徒を。  教師のくせに。 「最低だ」  私は吐き捨てるように、それだけ言った。  目を見開き、長らく沈黙したまま、彼女は地面の土を見ていた。その向こう側に、何か別の映像を見ているのかもしれなかったけれど、私には、果たしてそれがどういうものであるのかなんて、想像したくもないことであった。  下を向いて、小さくなっている彼女の顔面は、乾いて水の抜けた茄子みたいに、たちまちに痩せ細ってしまったように見えた。  私が黙って月を見ていると、やがて彼女は、唐突に顔を上げた。そうして、幽霊みたいにゆらりと立ち上がると、彼女はそのまま、森のほうへ向かって歩んでいく。  おぼつかない足取りで、一歩、また一歩。  ふと、ただ一度だけ、立ち止まって、 「……すまない」  振り返らずに、消え入りそうな声でつぶやいた。  そうして、一歩、また一歩。  やがて、その背中は、じわじわと暗闇に溶けてゆく。  止めようとも、追いかけようとも思わなかった。今さら私がそんなことをしても、もうどうにもならないのだと理解していたからだ。  直後、小鳥の歌声が森じゅうに響き渡って、その夜の空気を艶美に彩り始める。  しばらくすると、その歌声も聞こえなくなり、その後の森にはただ、冷えきった静寂のみが残された。  次の夜、彼女は姿を見せなかった。  その次の夜も、彼女は会いには来なかった。  最初から誰もいなかったみたいに、竹林の外れには、もう私だけしか足を運んでいなかった。  ――まさか、こんなことに。  予想はしていたけれど、現実を受け入れられるかどうかとは、話が別だった。  たった二日ばかりの時間が、もう千年以上も不変の時代のように、あまりにも長く退屈に感じられた。  そして、彼女に二度と会えないことを想像するたび、私はとても寂しい気持ちになった。  不可解な現実も、彼女の秘密さえも、私にはもう、どうでもよかった。  ただ、とてもひどいことを言ってしまったことを、ずっと後悔していた。  謝りたかったのに、それを果たせなかったことも、伝えたいことがあったのに、もうその術がないということも、私の心を締め上げて、ひどく苦しめ続けた。  どれだけ思い悩んでも、もう取り返しがつかない。  私は――彼女のことが、好きだったのに。      8  最後に教師と話してから、三度目の晩。  私は、ミスティアの棲み処を訪れていた。  円卓に突っ伏して、じっと動かずにいたので、何度か心配げな声を掛けられた。そのたびに、私は顔を上げることなく、片腕だけを少し持ち上げて、問題ない、という合図を送っている。肉体的には、何も問題はないし、問題が起きたとしても、放っておけば治るので、少なくとも、嘘は半分しかついていないと言える。  つまり、残りの半分は嘘つきなのが、今の私である。竹林の外れで待っていても、どうせ誰も来ないので、こちらにお邪魔して、ぼんやりすることに決めたのだ。他にすることもないし、しようとも思わない。何かしようとしたって、できないだろう。胸の真ん中にぽっかりと穴が開いているみたいに、ひどく寂しい気持ちだった。  ミスティアが気を遣って、そっと差し出してくれた小料理の椀は、もう空だった。自分で食べたくせに、そこに何が盛り付けてあったのかを思い出すことさえ、今の私には難しい。 「先生」  ふと、耳元で呼びかけられる。その声音が、今までとは違った気色であったので、内心驚いていた私は、わざと面倒くさそうな顔をつくりながら、うつ伏していた顔だけを横に向けた。  すると、チヨコレイトの色をした服が、すぐに目に入ってきた。上のほうへ視線をやると、小鳥の少女は、小さな顔立ちに綿毛のような微笑を浮かべていた。  その表情を受けて、思わず顔がほころびそうになる。  しかし、そんな穏やかな感覚も、束の間であった。 「においが、します」  におい。  自分と同じ、誰かのにおい。  そんな、錯覚。  所詮は、妖怪。  美味そうな、人のにおいを嗅ぎつける。  しかし、ミスティアがにおいを感じたということは、私にとって、別の大きな意味を持っていた。  ミスティアが、人のにおいを嗅ぎつけるならば。  私はその意味を悟って、困惑した。  彼女が、森へ入ってきたのだ。  私に会いに、やって来たのだ。  ――何のために?  私には、もう話すことなどないと思っていたのに。  本当の気持ちなんか、押しつぶして、最初からなかったことみたいに、消えてしまえばいいと思っていたのに。 「唄います」ミスティアは、自身の意思も、私の想いも焚きつけるように、そう言った。「先生も、来ますか?」  所詮は、妖怪。  何かのにおいを、求めて唄う。  誰かの血肉を、求めて歩く。  私には、解らない。  誰を信用して、  何を指針にして、  どうやって生きてゆけばいいのか、解らない。  小鳥は、子捕り。  教師も、子捕り。  そんな、どうしようもない、諦めの感情。 「諦め?」  琴線が揺れた。  ぽっかりと開いた穴に、小さな橋を渡すように、申し訳程度に張られた、ただ一本ばかりの細い糸。  一歩踏み外せば壊れてしまいそうな、危うい綱渡りを続ける私の心が、大きく揺さぶられた。それなのに、私の心は、壊れることも、切れることも、堕ちることもない。  私が抱く、諦めの感情。  いや――それでも。そうだとすれば。  私が、勝手に、諦めているだけなのではないか。  本当は、もっと違うところに、正解がある。  現状とは、まったく別の可能性。  その程度の期待は、まだ許されているのではないか。 「先生。こっち」  気がつくと、私は小鳥に連れられて、夜の森へと繰り出していた。  私の身体は、ふらふらと、紙切れのように不安定であった。けれどもミスティアは、そんなことお構いなしといった様子で、今にも倒れそうな私の手を引っ張って、ずんずんと暗闇の先へ進んでゆく。  分厚い木々の天井の隙間に、一瞬だけ覗いた夜空には、私の心にうがたれた丸い穴を埋めるように、綺麗な満月が輝いていた。  暗闇の中を進みながら、ミスティアは、歌を唄っていた。不思議なにおいを感じた時は、いつも同じ歌を唄っているらしい。異国の言葉は解らなかったが、子供向けの、愉快な歌であるということは、何となく理解していた。  やがて、私たちは、開けた場所に出た。  たちまちに空がよく見えるようになって、満月の光が、太陽みたいにとてもまぶしく感じられた。 「おや」  ひと通り、周囲を眺めてから、私は首をかしげた。  ミスティアに連れられて、出てきた場所。ここは、よく見知ったところだったからだ。  でも、それだって、当然のことだったのかもしれない。  おおかた、見当はついていたのかもしれない。  ミスティアが、誰のにおいを感じていたのか。私の想像によれば、行き着くところで待つ者は、私と同じ白い髪を持つ、ただ一人の女だけだった。  だが――そこに見えた人影は、二つ。  青い服と、緑の服。  岩の上で抱き合って、顔を近づけている。 「――――」  私は、呆然として、その光景を見ている。  やがて、唇が重なり、  壊れて、  乱れて、  つながって、  熱に浮かされ、離れない。  私はそれを、まるで鉄格子の向こう側の出来事みたいに、ただぼうっと見ていることしかできない。  息を呑む。  唾液を飲み込む。  違う、こんなことは。  あの岩場は、私のもので。  私と、彼女の、二人の秘密で。  疑問。  困惑。  悲哀。  憤慨。 「あ……れ?」  喜悦。  快楽。  忘却。  自失。  私の緑色の怒りが、驚異的な速さをもって愉快な紅色の感情に塗りつぶされたのは、そいつの顔をはっきりと認識することができたためであった。  赤紫色の髪に、緑色の着物。  彼女と抱き合う、少女の顔。 「……はは」  私は唇の端からこぼすように、だらしない声で笑った。  私を隔絶した世界の中で、二人が獣のように舌を絡ませていることにすら、何の感慨も抱かない。  否。  憤怒も、愉悦も、嫉妬心も、すべてがぐちゃぐちゃに溶け合い、頭の中が真っ黒で、自分の感情の正体が判らないのだ。これほどまでにどす黒く、吐きそうなほどに狂った感覚は、実に久々のことであった。  きっと、あれが、においの元。  彼女と抱き合う、あの少女こそが、そうなのだ。  顔を見れば、判る。けれども、私の前で唄い続けている小鳥は、まだそのことには気付いていないらしい。  目標の人物を見つけたけれど、いざ目の当たりにすると、なかなか近づくことができない。そんな、人見知りらしい振る舞いであった。  私は無言で、小鳥の横を通り過ぎる。  二人の世界に、歩み寄ってゆく。  ミスティアには、何も伝えない。  だから小鳥は、歌を止めずに、私を見送った。先に行って、仲介してくれるのだとでも、思ったのかもしれない。  ――残念ながら、そうではない。  私は、すべてを理解してしまったからだ。 「ははっ」  笑い声が、吐息と一緒に漏れ出してくる。  青い服の女が、私の姿を認識して、目を見開いた。 「お前」  少女の頭越しに、彼女は私の目を見て、息を呑む。  少女は、私に気付かない。 「は。あははっ」  周囲の空気にも、頭の中にも、歌声だけが響いている。  この世のものとは思えない、小鳥の妖怪の歌声が。  笑いながら、歩み寄る。  じわり、じわりと速度を上げて、  いつしか、私は、駆け出していた。 「おい、何のつもりだ――」  白い髪の女が、何かを叫んでいる。  だが、聞こえない。  そう、聞こえない。  もう、歌しか、聞こえない。  駆けて、迫って、  殺しの極致。  呼吸も、  鼓動も、  流れる汗も、  すべてを熱く、  すべてを高め、 「妹紅、やめろ!」  そうして、最後に、大地を踏み締め、  私は、跳んで―― 「あはっ」  少女の頭を、思い切り蹴り飛ばした。
第三章
第三章 子捕り      1  陽光のだいぶ傾いだ、昼過ぎの教室。 「先生、さよならー」 「ああ。また明日な」  桂井林太郎率いる仲良し三人組を見送りながら、私は教卓の上で文書類を整えていた。トントン、と底辺を数回叩き、まとまった紙を持ち上げて、胸の前で抱え込む。  授業はひと通り終わったが、本日の業務は、まだ残されている。明日の授業で使う資料は、すでに用意してあるから、あとは職員室の机の上に重ねてある解答用紙に、赤マル印と赤ペケ印をだいだい三対七程度の割合で書き込み終えれば、すべて完了だ。とはいえ、その明細としては、六郷とか、本願寺とかの答案に、マルが十割。先ほどの仲良し三人組、もとい三馬鹿の解答用紙には、間違いなく、ペケが十割近くつけられることになるだろう。  間違いだらけなのに、間違いなく、と言ってしまうのは、これいかに――などという下らぬことを考えて、私は深い溜息を吐いた。そうして、やれやれとかぶりを振りつつ、教室の出口へ向かおうとしたのだが、 「ん?」  突然、スカートのすそを引っ張られたので、私は何事かと思い、そちらを肩越しに見下ろした。  するとそこには、赤紫色の髪の少女がいて、上目遣いに私の目を見ていた。 「……先生」  しぼんだ水風船みたいに、消え入りそうな声だった。  少女の瞳には、一抹の不安の色が浮かんでいる。 「おお。どうした、ケイ」  私はその場にしゃがみ込んで、目の高さを合わせてから、親しみをもって微笑みかけた。  少女の容姿は派手なもので、レースやフリル、およそ古びた木香のする教室には似つかわしくない、パーティードレスみたいな意匠をこらした、青い着物姿であった。 「今日も、おはなし、できなかった」  少女はそう言うと、寂しそうな顔をして、うつむいてしまう。今日も、と言うからには、もう何度か、同じようなことがあったということである。  私はこの子を、親愛の情をこめて、『ケイ』と呼んでいる。  ケイの家は、豪奢な衣装が示すとおり、人里の裏手にたたずむ山を所有する大金持ちであった。山ひとつ持っているとは言うが、ほとんど丘のように小ぢんまりとしているもので、さして大きな土地ではない。人里から遠目に見えるような巨大な山は、すべて例外なく妖怪たちの棲み処になっており、われわれ人間が勝手に所有権を取り決めるようなことは、ほとんど不可能な状況なのである。  それなのに、どうして大金持ちであるのかと言えば、茶碗をひっくり返したみたいな山のてっぺんに、潤沢な塩分を含む湖が存在するためだ。大昔に、妖怪の賢者が、海水を引いて造った塩湖である。妖怪としても、食糧である人間たちに餓死してもらっては困るということで、わざと妖怪たちの棲みつかない場所に造られたのだ。この湖は、今でも外界の海とつながっていて、水を涸らすことも、水に溶けた塩分だけを切らすようなことも、決してなかった。  由来はともかくとしても、海のない幻想郷において、塩という資源はとても貴重なものであり、特に領土に関して権限の弱い人間たちにとっては、ほとんど宝石に近いものなのであった。そういうこともあって、ケイの父親は、資源をただ所有するばかりではなく、人里における塩の流通までをも牛耳っているのだ。  けれども、そういう家に生まれて、長らく箱入り娘であったせいか、ケイは他の子供たちとの付き合いに、なかなか慣れることができずにいた。ケイは金持ちを鼻にかけないし、決して嫌われているわけでもない。父親が快男児として有名だからであろう、他の生徒たちはむしろ、隙のない美少女に興味津々といった様子で、憧れの感情を抱く者までいた。  それでも、ケイは、誰とも話そうとはしない。話したくないのではなく、話せないのだということは、誰の目にも明らかだった。それでも、そのことでケイを非難するような愚か者のいないことは、せめてもの救いであり、良き生徒たちを持った、私の小さな誇りでもある。  教師生活は今年で五年目になるし、人見知りの子供なんて毎年当たり前のように一人や二人いたけれど、これほどまでに難儀な、極度の引っ込み思案を受け持ったのは、これが初めてのことであった。  それでも、ケイは寺子屋に来てからずっと、恥ずかしがって口をきこうともしてくれなかったのだから、消極的ながらも、私に相談してくれるようになっただけ、現状はまだ良好であると言えるだろう。それだって、私とこの子の、ひと月の血のにじむような努力のたまものであったのだが。 「なあ、ケイ」  こうやって、親しみをもって呼ぶようにしているのも、少しでも気楽に話せるようにという、私の計らいであった。 「なあに、先生」 「ちぃちゃんは、元気か?」  ケイは、自分の人見知りを反省しているようであった。けれども私は、あえて別の話題を振ることにした。そのほうが、きっと話しやすいだろうと考えたためだ。 「うん」案の定、うなずいたケイの顔は、とても嬉しそうに輝いていた。「とっても元気だよ。私、朝はいつも、ちぃちゃんに起こされちゃって」  ちぃちゃん、というのは、先日、ケイが拾った小鳥の名である。  いつも早い時間に教室に来ているはずのケイが、その日は珍しく遅刻してきた。扉を開けて姿を見せたのが、最初の授業が始まってから四半刻も経ってからのことだったので、私は驚いて理由を聞いた。すると、申し訳なさそうに萎縮しながら、寺子屋に来る途中、羽を怪我した小鳥を拾ったので、いちど家まで連れ帰って手当てしていたと話してくれたのだ。  それからというもの、ケイは、ちぃちゃんの話をよく聞かせてくれるようになった。実のところ、引っ込み思案のケイとのあいだに、今のようなあたたかい絆を築くことができたのも、ちぃちゃんのお陰なのである。  ケイは、いつかちぃちゃんの羽の怪我が治って、ちゃんと飛べるようになったら、籠から出して外の世界に帰してやると話していた。お別れするときになったら、寺子屋に連れてきて、私にも会わせてくれるそうだ。 「相変わらず、ちん、ちん、って、鳴いているか?」  ちぃちゃんは、変わった声で鳴く鳥だそうだ。だから、その鳴き声に由来して、『ちぃちゃん』という名を付けたのだという。 「うん、鳴くよ」ケイは、元気よくうなずいた。「起きて、起きて、ケイちゃん、授業に遅れちゃうよ、って」  ケイが手振りをつけて言うので、私は思わず、ぷっと噴き出してしまった。それにつられて、ケイもまた、はじけるように笑う。  こういう笑顔を見せてくれるような子が、他人と話せないというのは、非常にもったいないことであると思う。  しかしながら、私は同時に、そういう子であるからこそ、いつかきっと、みんなと仲良くなれるはずだという確信も抱いていた。 「なあ、ケイ」  私はもう一度、親愛の情をこめて呼びかけた。 「なあに、先生」  呼ばれた少女は、笑って応える。 「ハクタクを知っているか?」  私は、神の獣の話をする。  歴史を喰って生きる、不思議な生き物の話。  祖母からよく聞かされた、人を守る妖怪の話。  私の家に、昔から祀られている、神のような存在だった。  他愛もないおとぎ話のように聞こえるかもしれないが、私はハクタクのことが、本当に大好きなのだ。教師になった理由の一つにも、歴史を知り尽くす神獣に、憧れを抱いていたから、というものがあるくらいだった。  少女は、私の話に耳を傾け、目を輝かせ、時折うなずいたりもしながら、熱心に聞き入ってくれている。  子供は純真だ。  やはり、笑顔でいるのが一番である。  人見知りで、会話が上手にできなくてもいい。  誰だって、最初は、付き合い方など解らない。  子供たちは、手探りで、迷ったり、思い悩んだり、時には壁にぶつかって、立ち止まったりもしながら、成長してゆくものだ。  その過程で、私のような大人は、何度も教えを請われるだろう。誰だって、壁に手をついて進んだほうが、ずっと確実で、安心できる。私の役目は、子供たちが迷った時に、手をついて進むための、壁になってやることなのだ。  だから、少なくとも、今はこうして、私に心を開いてくれるだけでいい。いつか、私を頼って進んだ先に、素晴らしき到達点を必ず見出してくれるはずだから。  そうしたら、きっと私の想いも、そこまで一緒に運んでくれるに違いない。  おとぎ話を聞き終えた少女は、やがて無邪気な挨拶を残して、寺子屋を後にする。  誰もいなくなった教室で、私は窓越しに天を仰いだ。  そうして、はるか遠くの青空に、一羽の小鳥が勢いよく羽ばたいてゆく、清々しい光景を思い描いてみる。  笑みをこぼしつつ、空に浮かべた何気ない想像。  元気になった小鳥を、寺子屋のみんなで見送ったのは、それから十日後のことだった。      2  ――女の子が、妖怪にさらわれた。  その流言は、薄紙に火をつけたように、あっという間に里じゅうに広まった。賑やかな初夏の真夜中、日付が替わるより前には、里の者たちはもうほとんど皆がその話題を共有していた。目撃者の見張り番が生み出した火種は、軒を連ねる屋台の酒と活気に引火し、やがては、まさに寝静まろうとしていたはずの民家にまで、騒々しい明かりを取り戻させた。  その噂は、自宅の机で書き物をしていた私の耳にも、例外なく届いていた。腕からにじみ出た汗で、紙が引っ付いて仕方がないので、私はいったん作業を切り上げ、風呂にでも入るかと思いながら、腰を上げた。すると、何だか外が騒がしいのに気がついたので、私はちょっと外へ顔を出して、喧々諤々としていた若者たちから事情を聞いたのだ。  私の勤める寺子屋は、里の真ん中に位置しているが、そこに住み込んでいるわけではない。自宅は、そこから少し離れたところにある、素朴な平屋であった。寺子屋の建物は、友人の夫からの借り物なのである。そういうことができたのも、昔から、私が教師をしたいという意思を尊重してくれていた、友人の計らいによるものであった。友人夫妻は用務員として、何かと雑用を手伝ってくれる。めでたいことに、二人は昨年、玉のような娘を授かった。あの子が大きくなったら、きっと私が教えてやることになるのだろうと考えると、喜ばしい期待感がこみ上げてくると同時に、教師になって良かったという実感を得ることができるのであった。  そういう、平穏な里の世も、ひとたび妖怪が絡むと、たちまちのうちに剣呑な空気に支配される。  それでも、私は初め、少女がさらわれたということを、ほとんど他人事のようにしか考えていなかった。無論、さらわれた少女に対して申し訳ない気持ちはあったし、できれば無事でいてほしいとは思っていたけれど、妖怪が人間を襲う事件など、この幻想郷においてはさして珍しいものではないのだ。  自分の生徒ではないだろうか、という心配の気持ちはもちろんあったけれど、頭のなかの大部分では、そんなことあるはずがない、と楽観的に考えていた。大地震が起きても、自分は特に危ない目に遭うこともなく、生き残ることができる――そういう考え方と同じように、ぼんやりとした恣意的な思いが、私の心にもあったのかもしれない。  だから、扉を叩くなり、逼迫した表情で飛び込んできた例の友人から事件の詳細を聞かされたとき、頭のなかが真っ白になって、私はいったい何のことを説明されていたのか、すぐに整理をつけることができなかった。  二人の少女は、人里の端まで出かけて、星空を眺めていたという。  夜中にどうしてそんなところに居たのかと言えば、片方の少女の家が、そういう場所に位置していたためであった。森に近い場所であったとはいえ、番小屋に詰める大人たちが見張りをしているから、そもそも家が建つほどに安全な場所であるはずだった。もう一方の少女がそこに居たのも、いわゆるお泊まり会という、可愛げのある理由によるものだった。  ただ、少しだけ、空を見るのに夢中になるあまり、森に近づきすぎてしまっただけなのだ。遊びに来ていたほうの少女は、闇のなかから飛び出してきた巨大な影に、あっという間にさらわれてしまった。  無事だったもう一人の少女は、怖くて震えるばかりで、口を利ける状態ではなかった。事の次第は、その少女の母親の話によって、ようやく明らかになったのだ。  母親は、娘の友達が遊びに来ていることは承知していたが、その友達というのが初めて見る子であったので、まだ名前もよく覚えていなかった。けれども、見た目の特徴を聞けば、それだけでもう、さらわれたのが誰なのかということが、すぐに判ってしまった。  ――赤紫色の短髪。  華やかな着物姿の少女だったという。  真っ白になっていた私の思考が、じわり、じわりと少しずつ、確かな色味と形を成してゆく。 「ケイ」  次の瞬間、私は名前ひとつ叫んで、夜の里へ飛び出していた。慌てて止めようとする友人の声も、背後に置き去りにしたまま、私は走った。  焦りと怒りの混ざったモノが、汗と一緒にあふれてゆく。 「ケイ……!」  私は走りながら、何度も同じ名をつぶやいていた。親愛の情をこめた、素敵な呼び名だった。  ――許せない。  小鳥のことをきっかけにして、やっと仲の良い友達もできたのだ。ちぃちゃんと名づけた小鳥を、みんなで空へ帰してやったあの日から、ケイは私だけではなく、周囲の生徒たちとも次第に話せるようになっていった。もともと憧れの眼差しを向けられるくらいに注目を集めていたケイは、たちまちにみんなと仲良くなって、今では教室で一番の人気者になっていた。  ――許せない。  ケイをさらった妖怪が、許せない。  大事な生徒一人、守れぬ私も許せない。  里の灯りが、流れてゆく。  息を切らしても、立ち止まることはない。  番小屋のところで、誰かに腕をつかまれたが、強引に振り切った。  そうして私は、森へ飛び込んでゆく。  暗闇。  汗を拭いながら、木肌に手をかける。  いかなる武器も、策もない。  私はただ、ケイを救うことだけを考えていた。 「どこだ、ケイ!」  私は叫びながら、木々のあいだを駆け抜けた。  返事はない。  返事はなくとも、呼び続ける。  こうしているあいだにも、きっとあの子は想像もつかないくらい、恐ろしい思いをしているだろう。 「ケイ、私だ! 返事をしてくれ!」  歩みを止めず、叫び続ける。  喉が裂けようとも、構わない。  私の喉笛ひとつで生徒が助かるなら、喜んで差し出そう。  もっと、奥へ。  必ず、助け出す。  森の闇が、私を飲み込もうとする。  それでも、構わない。  この命を差し出してもいい。  私が妖怪に襲われても、あの子だけは、里へ帰す。  もっと、奥へ。  無事でいてくれと、切に願う。  無事でいてくれると、信じ続ける。  それでも、  歩いて、  叫んで、  いつまでたっても、  返事はない。  心が小枝のようにか細くなって、折れそうになる。  助けなければならないのに。  叫ばなければならないのに。 「ケイ、どこだ……」  体力が、それを許さない。  暗闇が、私を塗りつぶす。  頭の中が、真っ黒になる。  ふらふらと、木に手をかけながら、辛うじて歩いてゆく。  何も見えない。  何も要らない。  それでも、構わない。  この命と引き換えに、あの子を救ってほしい。  そんな願いさえ、届かないのか。  気付くと、闇が晴れていた。  森の向こうに、竹林が広がっている。  ここまで来ても、見つからなかった。  木にすがりついて、下を向く。  自分を責めて、右手を叩きつける。 「ケイ」  私は、大切な生徒の名を、もう一度だけつぶやいた。  そうして、思い出す。  これで、見つかるものではない。  嘆いていても、見つからない。  頭を打ち付け、心を引き締める。  ――今度は、向こうのほうを捜してみよう。  無理やりにでも、冷静なふりをして、そう考える。  もっと、歩いて、  もっと、叫ぶのだ。  そして、  嗚咽を呑んで――見上げた先に。  私によく似た白い髪の、不思議な人の姿があった。      3  藤原妹紅。  フジワラノモコウと、彼女は名乗った。  あの夜、私は、大切な生徒を無事に救い出すことができた。ぼろぼろになって、森の中をさまよっているところを、奇跡的にも私が発見し、保護したのだ。  妖怪の目を盗んで、無我夢中で逃げてきたと聞いた瞬間、私は泣きながら、小さな体躯を抱き締めてやった。引っ込み思案だった少女が、怖かったろうに、それほどまでに勇敢な行動をとって、無事に戻ってきてくれたことと、すぐに見つけてやることができずに、長いあいだ恐怖を抱かせてしまったという責任感が、私の心を強く揺さぶったのだ。  私がケイを助け出し、無事に里へ連れ帰ることができたのは、竹林で出会った、白い髪の人のおかげである。モコウと名乗った彼女が、妖怪除けの御守りを渡してくれなかったら、妖異のうごめく森を無防備でさまよっていた私たちが、無事なままで済んでいた保証はなかっただろう。  数日後の夜、私は再び竹林を訪れた。  白い髪の人に、礼を言うためだ。会えるかどうか解らなかったが、少なくとも、じっとしているばかりでは絶対に会えないのだから、ひとまず行動を起こすことにした。  彼女がくれた御守り――赤いモンペの切れ端は、お気に入りの帽子のてっぺんに結び付けた。彼女がどういう経歴を持っているのかは知らないが、これは妖怪除けに絶大な効果を示してくれた。  森の半ば辺りまで来て、菓子のひとつでも持ってくれば良かったと気付き、反省した。どうしてだか、彼女にまた会えるかもしれないということで、想像以上に胸が躍り、うっかりしてしまったのだ。  今さら引き返すのも、何だか恥ずかしいことのように思えたので、私はいっそ堂々と姿を見せることにした。  向こうだって、また姿を見せてくれるかどうか、解らないものだ――などと考えていると、ほとんど真っ暗だった視界が急に開け、雑然と立ち並ぶ竹林が見えてきた。  彼女は、当たり前のように、そこに居た。  お礼らしい品など何ひとつ持ってこなかったのに、彼女は私を歓迎してくれた。  手近にあった岩に腰掛けて、私たちは、あの夜のことについて話し合った。自分からそうであるとは言おうとしなかったが、話を聞く限り、どうやら妹紅も私の生徒を捜してくれていたらしい。そういえば、藤原妹紅という名を聞いたのも、その時のことである。  私は、ケイを助け出し、  妹紅は、小鳥の妖怪を拾った。  その夜は、互いにそういう話をして、笑い合った。そうしているうち、経験したことのないような幸福が、私の胸のうちに芽生えていた。最後に、「また会おう」と言って別れたのだって、こういう時間をまた過ごしたいと、その時からもう望んでいたためであろう。  夜の巡回のため、という名目のもと、強引に番小屋の通行証を手に入れた私は、それからほとんど毎晩のように、竹林を訪れるようになった。  私は、寺子屋のことを話して、  妹紅は、小鳥のことを話した。  平穏で、愉快で、刺激的な日々だった。  そういう時間を積み重ねながら、やがて、ひと月が経ったけれど――私は妹紅の素性を、ほとんど聞いてはいない。  彼女だって、きっと話したくないのだろうと思ったのだ。私は、フジワラという姓を初めて聞いた時から、妹紅の姿に、何か得体の知れぬ大きなものを感じていた。けれども、いや、だからこそ、私は積極的に詮索するような、失礼なことはしたくなかったのである。  相変わらず妹紅は、自分のほうがよっぽどそうであるくせして、「面白い奴だ」とか言ってくるし、私が気に入っている帽子を「弁当箱みたいだ」と評価しては、晩飯を食うのを忘れていたのか、次には「腹が減った」などと素でぬかしてくる。私はそういう、ぬるい関係が、いちばん幸せだと思っていた。それに、下手に踏み込んでしまったら、この関係はがらがらと音を立てて、崩れてしまいそうな気がしていたのだ。  けれども、その日の会話は、いつもとは少し違っていた。  それは、奇しくも私自身が、ふとした思い付きで、突飛な話題を持ちかけたことがきっかけであった。 「なあ、妹紅」 「ん?」 「お前、ハクタクを知っているか?」 「――――」  息を呑む音。  何気なく言ったつもりであったのに、妹紅がなぜだか大げさに目を見開いたので、私は戸惑いを隠せなかった。 「何だ。知っているのか?」  わざとらしく、軽い口調で、問い掛けてみる。そうでもしなければ、妹紅の周りに漂う奇妙なほど緊迫した空気に、私まで呑まれてしまいそうだった。 「ハクタクは、嫌いだ」  妹紅は、怒っているような、笑っているような、中途半端な表情で、そう言った。 「嫌い? 何だ、それは」  知っているか、知らないか、そのどちらかの返答を期待していた私は、半ば苛立ち、半ば呆れて、妹紅の態度を非難した。  しかしながら、妹紅の不遜な態度は変わらない。 「ああ、大嫌いだよ、まったく」 「つまり、知っているということだな?」苛立ちを隠しながら、私は再び問い掛けた。 「しいて言うなら、知りたくもなかった」 「どうして、そんなに毛嫌いするんだ」 「喰われたからだ」 「何?」 「私が、ハクタクに、喰われたからだ」吐き捨てるように、妹紅は言った。 「そんなこと、あるものか」  私は肩をすくめ、鼻で笑ってやった。だって、ちっとも面白くないのだ。冗談にしても、もっと上手い言い回しがあるはずだろう。 「そんなことがあったから、言っているんじゃあないか」妹紅は不機嫌そうに、眉をひそめた。「大体どうして、いきなりハクタクの話なんか始めるんだよ」 「当然だ」私はもう一度、鼻を鳴らした。 「お前はそうかもしれないが」妹紅はすでに、苛立ちを隠そうともしていなかった。「私はお前の口から、そんな話を聞くことになるとは、思ってもみなかった」 「私の家では、代々、ハクタクを崇め、称えてきたのだ。その誇りを汚すことは、この身に流れる血が許さない」  実のところ、そんな誇りじみた言葉だって、建前にすぎなかったのかもしれない。少なくとも、幼い頃に大好きな祖母が話し聞かせてくれた、ハクタクという名の神獣のおとぎ話を、冷たい刃物のような言葉で切り捨てられ、侮辱されるのは、私個人の心情として、本当に我慢ならないことであった。  寺子屋の教師になろうと決意したことにも、祖母の存在が強く影響していた。私は、祖母から様々な史実や物語を聞かされるうちに、何かを知り得ることの喜びを、里の子供たちにも教えてやりたいと考えるようになっていたのだ。  それすらも、否定される筋合はない。  ハクタクを侮辱されることで、現在の私の姿を形成してくれた、そういう根っこの部分までをも否定されたような気持ちになる。そのことが、余計に私の怒りを誘った。 「人を喰わずに、人の歴史ばかりを喰って生きてきた、崇高な知識の塊。ハクタクとは、そういう存在だ」 「お前は、間違っている。ハクタクは、人を喰うものだ」 「馬鹿馬鹿しい。そんな話は、聞いたことがないよ」 「当たり前だろう」妹紅は、真顔でうなずいた。「ハクタクに喰われたものは、普通、喰われたという事実すらも、残さずに消える。まるで、最初から何もなかったみたいに」  妹紅の眼差しは、どこか寂しげだった。愚かな狂信者のように思われ、哀れみを向けられているような気がして、私はいっそう憤激して言い返す。 「戯言もたいがいにしろ。だったら、喰われたはずのお前は、どうしてここにいる?」 「私は、死なないからだ」  私には、その言動が、ひどく幼稚で馬鹿げたものであるように聞こえた。けれども、すでに怒り心頭に達していたため、笑いなどこぼしている余裕はない。 「たいがいにしろと言ったろう。この嘘つきめ」 「何だって? 石頭のくせに」 「ふざけたことをぬかすな」 「だったら、金剛石か? お高くとまっているしなぁ」 「黙れ。ふらふらと、だらしなく生きているような奴に、程度の低い悪言でそしられる筋合はない」 「おい、ちょっと待て。今のは聞き捨てならないな」 「事実だろう。乞食め」 「何だぁ? この偏屈女」  私たちは互いに詰め寄り、相手を焦がすような剣幕で、じりじりとにらみ合った。  そこからはもう、罵詈雑言の応酬だった。無意味に措辞の練られた暴言汚言の飛び交う、稚拙な罵り合い。言い回しが不必要なまでに巧みであるぶん、子供の喧嘩のほうがまだ可愛げがあってましだと思えるくらい、大人げないやり取りであった。  後から思えば、とてつもなく恥ずかしい経験である。一体なぜ、あのようなつまらぬことを言ってしまったのかと、まるで牧草を咀嚼する牛のように、私は何度も自省した。  自分の好きな話を妹紅にも聞かせてやろうと思い、内心でわくわくしていたせいで、残酷な裏切りを受けたように感じ、失望にのせた怒りが一気に膨れ上がってしまったのだと思う。  ハクタクについては、人それぞれ、考え方に違いがあるのだろう。そういうことを汲み取って、納得してやれるくらいの冷静さを欠いていたのは、特に恥ずべきことであると思う。実のところ、私はハクタクを人喰い妖怪呼ばわりしている奴を、もう一人知っていたのだ。  何にしても、やはり、踏み込んだことを聞くべきではなかったのだ。  妹紅とは、その後すぐに、仲直りすることができた。  けれども、決して触れられたくはないであろう過去に、間違っても触れてしまわぬよう――私は、今まで以上に慎重に話すようになっていた。  妹紅とは、ずっと平穏な付き合いを続けてゆくことができれば、それで良かったのだ。      4  茜色の教室。  四つある机のうち、一つをはさんで、私たちは穏やかな時間を過ごしていた。  青色の華やかな着物を身にまとった少女は、普段の冷めたような目つきを忘れさせてくれるほど、にこやかな表情を浮かべている。  あの事件以来、ケイは変わってしまった。  自らの引っ込み思案な性格と戦ってきた少女は、かつて傷ついた小鳥に向けられたように、純粋な笑顔と優しさを振りまきながら、かけがえのない絆を得ることができたはずであった。  それなのに、ケイは、森から戻ってきたあの日を境に、人付き合いを忌避するようになってしまったのだ。  きっと、妖怪にさらわれた恐怖で、心に深い傷を負ってしまったのだろう。ケイの性格は様変わりして、子供らしい優しさや笑顔ではなく、妙に大人びた態度と知識ばかりを見せるようになった。もともと頭の良い子ではあったけれど、こんな小さな少女に、対等に肩を並べられているような気がして、戸惑うことが何度もあった。  そうして今では、いわゆる優等生でありながら、他の生徒たちから、目の上のこぶのように扱われている。いや、扱うどころか、むしろ不気味がって、誰も近づこうとさえしていない。例年に比べて、今年は生徒の数が極端に少ないから、必要以上に個性が目立ってしまうのは、仕方がないことであるとは思う。けれども、そこを何とかするのが教師である私の仕事だというのに、最近のケイを相手にすると、いい大人が逆に言いくるめられるばかりで、どうにも上手くいかないのであった。  けれども、そうして私と話している時だけは、それまでの態度が嘘のように思えるくらい、純真だった。割かし小難しい言い回しで対応してくるようにはなったが、例えば、ハクタクの話を純粋に受け止め、よく吟味したうえで、楽しそうに言葉を返してくる。特にその話に関しては、意見が食い違ってはいるものの、私のほうが愉快な気持ちを抑えきれずに話し続けたくなるくらい、とても嬉しそうに耳を傾けてくれるのであった。  そういう会話を繰り返すうち、私の中で、ケイに対する見方が大きく変化していった。  不思議なくらい、愚かしいほうへ。 「先生は、妖怪なの?」  唐突にそんなことを聞かれ、私は苦笑してしまった。  この少女は、私の話が好きで、よく質問をしてきた。私がする話、という意味ではなく、つまり、私自身についての話が好きで、そういうことをたくさん知りたがったのだ。 「私は、人間だよ」 「本当に? ハクタクではない?」  目を丸くして、真剣に問い掛けてくる。  私はケイの顔を見ていられず、夕焼けのに色づいた窓のほうへ、さりげなく視線をやった。  ――どうして、こんなに可愛らしいのだろう。  ずっと見つめていたら、それだけで、どうにかなってしまいそうだったのだ。  私が、ハクタク。  そう言われて、悪い気はしない。  それどころか、胸の内が熱くなる。  どうして、そんなことを思ったのだろうか。  ――ハクタクの話が、大好きだから。  そう思ったけれど、すぐさま、否定する。  そんな簡単な理由であれば、鼓動が速まることはない。  では、なぜ?  自問するが、その答えを、私はもう知っている。  愚かであるという、自覚。  誰かに責められているようで、けれども私は、知らぬふりをする。  ただ漠然と、幸福感を抱きながら、 「……それはそれで、面白いかもしれないな」  私はそう言って、笑った。  少女も、笑顔になる。  赤紫色の髪が、夕日を照り返して、穢れを知らぬ水面のようにきらきらと輝いていた。  しかし、その瞳には、理由の解らぬ影が差している。  周囲を見回してから、少女はうつむいた。  今にも崩れて、消えてしまいそうな、不安定な表情。  少女は――ひどく寂しげに、涙を流していた。 「どうした」  私は驚いて、その顔を覗き込んだ。  私はここにいるぞ、という合図だ。  濡れた瞳が、目の前で揺れている。  大丈夫、寂しくはない。  大丈夫、もう怖くない。  けれども、その言葉が声になり、伝わることはない。  言葉にできない。  言葉にする必要がない。  伝えたいことは、  すべて、すべて――  触れ合う唇から、伝わっていた。 「んっ」  綿のようにやわらかく、小さな桃色の縁。  唾液を舐め取って、結んだ糸が、服の上に垂れ落ちる。  切れた糸を、結びなおすために、再び唇を圧しつける。 「んはっ」  この感触を、もう何度味わったことだろう。  年端もいかぬ少女ではない。  もっと、麗しい何か。  自分よりもずっと崇高で、雅やかな存在に、他の誰でもない、自分だけが、いたく寵愛されている。  そんな錯覚が、はなはだしいまでの優越感と、絹のようになめらかな幸福感で、私の心を満たしてくれる。 「んっ……あっ、あ!」  大丈夫、寂しくはない。  大丈夫、もう怖くない。  誰に愛されなくとも、  誰を愛せなくとも、  私が、それを、教えてあげるから。  私が、それを、許してあげるから。 「いあっ、あっ!」  触れ合って、  舐め合って、  抱き合って、  つながり合う。  愛おしくて、たまらない。  狂おしくて、たまらない。  何かが壊れて、  誰かが笑って、 「――――」  私は果てて、  くずおれる。  白色の肌が、茜を照り返している。  ああ、こんなにも、  輝いて、素敵。  私たちは、見つめ合って、  もう一度、  互いを抱き締めた。 「先生、好き」 「ああ」 「先生、大好き」 「うん」 「愛してるよ、先生」 「私も、愛してる」 「どこへも、行かないよね?」 「私は、ここにいる」 「違うの」 「?」 「私のこと」 「お前が?」 「ずっと、ここにいたい」 「心配するな」 「私は、消えない?」 「ああ。消えないよ」 「どうして?」 「私が、ずっと、離さない」 「ずっと」 「うん」 「約束だよ、先生」      5  ――先生。あんた、子供を喰っているんじゃないか?  白い髪の友人に、見捨てられた。  私の罪は重かったのに、言葉による侮蔑だけで済まされたのは、妹紅なりの、最後の優しさだったのかもしれない。  けれども私は、それを最後にしたくはなかった。  自分勝手な、ひどい言い分だった。そんなことは重々承知していたけれど、さんざん悩み抜いた末、やはりそういう結論に至った。  だから私は、満月の夜に、妹紅に会いに行くことを決意した。実質的な絶交宣言から、三日後のことである。  家に帰ると、せっかく下した決断が揺らいでしまうかもしれないと思ったので、その日はずっと寺子屋にいて、心の準備を整えていた。  けれども、それは、大きな過ちであった。 「見つけた。ははっ」  ――どうして、こんなことになってしまったのだろう。  私が、珍しく家に帰らず、寺子屋にいたから。  私が、自分勝手な思いで、竹林へ行ったから。  私が、深く考えずに、少女を連れてきたから。  私が、心身を熱に委ねて、禁忌を犯したから。  そして、そもそも、私が、教師であったから。  頭の中で、そのすべてに、赤色のマル印が並んでいた。  ひどく残酷な、満点の答案だった。 「妹紅……お前」怒りではなく、得体の知れぬ恐怖に全身を震わせ、私は絶叫した。「何てことを!」  私は息を乱しながら――たった今、白い髪の友人に蹴り飛ばされた、愛する生徒のもとへ駆け寄った。  見たところ血を流してはいないが、ケイは草いきれに身体を投げ出したまま、返事をしない。頭の後ろを凄まじい勢いで蹴りつけられたので、もしかしたら、頭蓋や脳に致命的な傷がついているかもしれない。下手に動かせば、怪我を悪化させる可能性もあるので、触れてやることもできない。  明らかに、殺すつもりで放たれた一撃だった。 「ははっ……は」妹紅は、壊れた笑い声を止めて、私に鋭い視線を向けてきた。「おい、先生。何をやってる?」  挑発じみた問いかけだったが、私には、憤怒をもってそれに応じられる余裕はなかった。腹の底から浮かび上がってくる感情は、恐怖と焦燥以外にはない。 「どきなよ、先生。そのガキを殺すんだ」  ひどく冷静に、妹紅は言った。  先ほどまで響いていた歌声は、もう聞こえない。  殺す、という言葉が、どす黒い鮮烈さをともなって、私の心にいっそう揺さぶりをかけてくる。妹紅は取り乱しているのかと思ったのに、そうではなかったのだ。正気の口から吐き出される殺意は、狂人がつぶやくものより、はるかに恐ろしかった。 「この子は、何も悪くない。殺すなら、私を殺せ!」  哀願の叫び。  許せなかったのだろう。  寺子屋と生徒たちの話を、幾夜も飽きずに聞いてくれた。  授業のことも、喧嘩のことも、笑顔のことも、妹紅はよく知っている。  そんな妹紅だったから、きっと、許せなかったのだ。  私も、許し難いことだと思う。  それを解っていながら、私は自らの生徒を、まだ幼い少女を、教師のくせに、穢したのだ。  だから、殺されるのは、私のほうだ。  どういうわけだか知らないが、妹紅は標的を間違えている。私の生徒に罪はない。もし仮に、子供心に過ちを犯してしまったとしても、標的は私であるべきだ。その責任をすべて請け負ってやるのが、教師の仕事なのだから。 「どうして、そいつをかばう?」  苛立たしげに、妹紅は言った。  馬鹿なことはよせ、などと説得するつもりはない。そのような台詞を言う資格が、今の私にあるはずもない。  けれども、せめて、生徒を守りたい。  私が不埒な教師だったせいで、妹紅が何かを勘違いしてケイを殺そうとしているのならば、私は身を挺してでも自分の生徒を守り通すだろう。  だが――違った。  妹紅の叫びは、獣のような恥ずべき行為を糾弾するものでも、私の教師としての尊厳を剥ぎ取るものでもなく。 「そいつは、お前の生徒を喰ったんだぞ!」  私が夢にも思わぬような、純粋な激情の吐露であった。 「えっ……?」  妹紅の言葉は、晴天に落ちる稲妻のごとく、私の脳天から全身を縦に貫き、強烈な衝撃を駆け巡らせた。  喰う、という言葉は、殺す、というのより、どこか現実味に乏しかった。だから、現状ではそれらが同じ意味で使われているということを理解するのに、私は少しばかり時間を要した。 「喰った……?」  地に倒れ伏した少女を見る。  赤紫色の髪に、幼い顔立ち。  ますます、現実味のない言葉であるように思えてくる。 「妹紅、何を言ってる? 私の生徒は――」 「三十人」私の言葉を待たず、妹紅はきっぱりと言い渡してきた。「お前の生徒は、三十人いた。少なくとも、お前はそう言っていたよ」  妹紅の言葉が、理解できない。  三十だなんて、馬鹿げた数字を。  私が、言った?  だって、今年の寺子屋は、例年よりもずっと静かだったはずで。 「でたらめを言うな。私の生徒は、ケイだけだ」  そう。  生徒が、一人しかいなかったのだ。  授業もやりやすかったし、手が掛からなくて楽だったけれど、その反面、賑やかさが懐かしくて、寂しい気持ちを抱えていた。だからこそ、たった一人の生徒と、必要以上に親密な関係になってしまったのかもしれない。 「そうか……」妹紅は小さく舌打ちしてから、目覚めぬ少女を指差した。「みんな、そいつに喰われて消えたんだ」 「消えた、だって? そんな、馬鹿な」  最初から一人だったのに、誰が消えたと言うのだろう。少なくとも、私の頭の中には、誰かが消えたとか、そういう記憶は存在しない。 「まさか」  私は息を呑む。  そんなことは、あり得ない。  だって、あんなにも、大好きで。  否定しなければならなかったのに。 「まるで、人喰いのハクタクみたいじゃないか」  歴史を喰って、消すように。  人を喰って、消してしまう。  そんなハクタクの姿を、私は否定し続けてきたのに。 「それが正解なんだよ。先生」  妹紅は、どこか哀しげな声で、そう言い渡した。  信じられない。  信じたくない。  だって、  人を守護する神の獣も、  私が愛するこの少女も、  すべて、虚偽であったというのか。 「ケイ……?」  私は混濁する思考のまま、足元に倒れている少女ではなく、妹紅のほうを見てつぶやいた。  意味もなく、そう言ったわけではない。  たたずむ妹紅の、その背後。驚くべきことに、そこには、私のよく知る顔があったのだ。  よく見慣れた、赤紫色の髪の少女。  背中の青い翼は、私の知らないものであった。 「その子は……?」  戸惑いながら、問い掛ける。  けれども、私にはもう、解っていたのかもしれない。  今日まで、私が寺子屋のことを話し聞かせてきたように、妹紅もその子のことを、何度も私に話してくれたのだ。 「ミスティア・ローレライ」  どこか怯えたように、恐る恐るその名を言ったのは、他でもない、その少女自身であった。  つい先刻まで、美しい歌声を響かせていた少女。 「こいつは、私が焼いた鳥だ」妹紅は、ぶっきらぼうにそう言った。「森で拾ったと、言ったな。お前が、ケイちゃんという子を助けたのと、同じ日にだ」  その言葉が、どういう意味を示すのかは、いまひとつ解らない。それは妹紅自身、まだ解りきっていないことのようであったが、ただ、あの夜、二人がそれぞれ助けた少女に、何かしらの結びつきがあることは間違いなかった。  だって、瓜二つ。  いや――ミスティアとケイは、まったく同じ顔なのだ。 「見た目だけじゃない、においも一緒だ。お前の生徒だった『ケイちゃん』は、とっくに喰われて死んでいた」  におい?  何を言っているんだ。  解らない。  解りたくもない。 「そして、何が起こったのかは知らないが、こいつは小鳥の妖怪として生まれ変わったんだ。だから、本物の『ケイちゃん』は、そいつじゃない。ここにいる」そう言って妹紅は、かたわらで震えている小鳥の少女に、ちらりと視線をやった。「こいつ、妖怪になっても、自分が喰われていく時の最低な音だけは、焼きごてを押されたみたいに、はっきりと覚えているんだ。だから、本物はこいつで間違いない。お前が『ケイ』と呼んでいる奴の顔を見て、私はすぐに解った」  何もかもが、嘘のようで。  何もかもが、馬鹿馬鹿しいくらい、現実的ではなかった。 「ああ、そうか」私は胸の前で手を叩いて、妙に明るい声で言った。「全部、お前がつくった嘘だ」  本当にそうであったならば、どれだけ良かっただろう。 「受け入れろ」たったそれだけで、私の言葉を切り捨てたのち、妹紅は話を続けた。「竹林に、レイラという子が迷い込んできた。お前の生徒で、ケイちゃんという子の親友だった女の子だ。私は、その子のことをずっと覚えていたが、お前に話したら、そんな生徒はいないと言った」 「そんなもの、お前の空想じゃないか」  頑として認めずに、私は言い張った。  混濁していた思考が、少しだけ、落ち着いていた。  けれども、本当はまだ、倒錯していたのかもしれない。妹紅の言葉が、いかほどまでに真実味を帯びていようとも、素直に受け入れられるような気がまるでしなかったのだ。 「大体、ハクタクに喰われた者が消えてしまうと言うのなら、どうしてお前は、その子のことを覚えているんだ?」  私は、もっともらしく問いただした。  けれども、もう何を言っても、現実は覆らない。心のどこかでは、すでにそういう形で、納得せざるをえないという思いを抱えていたのである。 「だから、言ったろう。私は昔、そいつに喰われ――」  突如、妹紅の言葉が途切れる。  全身が凍りつき、言葉を続けることができなかったのだ。  それにつられて、足元の草いきれに目をやり、私はぞっとした。  ――誰も、いない。  蹴り飛ばされ、意識を失っていたはずの少女が、僅かに目を離した隙に、忽然と姿を消してしまったのだ。  だが、その行方を案ずる必要はなかった。 「がああっ!」  地鳴りのように壮絶な咆哮を聞きつけ、私は前方へ向き直った。  しなやかな筋肉の四本足と、絹のようになめらかな、白色の巨躯。  三つの眼球と、二本の角をたたえた、異形であるにもかかわらず、きわめて麗しい顔立ち。  その時、私の眼前にたたずんでいたのは、恐ろしいまでに壮麗な――紛れもない、神の獣であった。  そう、あれが、 「ハクタク……!」  話に聞くより、ずっと高貴で、威厳があるように思えた。  祖母に聞かされ、皆に話した。  そういうものが、目の前にいる。  しかしながら、ひとたび冷静な観察が差し挟まれると、そのような感慨も、すぐに打ち砕かれることとなる。  ハクタクの、口元の紅色。  友の身体から、噴き出す紅色。  そのどちらもが、まったく同じ絵の具だったのだ。 「妹紅!」  いびつな人の形。左腕から心臓までを抉り取られ、血液が間欠泉のように噴き出している。それなのに、妹紅は眉一つ動かすことなく、立ちはだかる巨体に鋭い視線をぶつけていた。  異様な光景。  私は、気分が悪くなり、口元を両手でおさえ込んだ。  だが、次に顔を上げた瞬間、私の目には、もっと不可解な映像が飛び込んできたのである。 「えっ?」  そこには、血なまぐさい紅色の光景など、どこにもなく。  妹紅の身体は、当たり前のように、元の形に戻っていたのだ。 「会いたかったよ」  そう言って、妹紅は不敵に笑った。  獲物を狩る鷹のように、ぎらぎらと暗い光を放つ眼差しから、愉快な友人の姿を思い起こすのが難しかった。 「会って、殺してやりたかった」  口元を歪ませたまま、妹紅は恨み言をぶつける。  その言葉が、いかなる意味を持つのか、私は知らない。  けれども、この現実離れした状況に置かれた私にも、確かに理解できたことが、ひとつだけあった。  白色の巨躯が、私のほうへ顔を向ける。 「先生」  間違いない。  あれは、紛れもなくハクタクで、  同時に、私の愛する生徒なのだ。 「先生。ごめんなさい」  荘厳な神の獣が、耳慣れた声で語りかけてくる。  あたたかいような、  くすぐったいような、  とても不思議な感覚だった。  けれども、ハクタクの謝罪の意味を理解した時には、穏やかな気持ちに身を委ねている余裕は、もうなかった。 「おい、待て――」  私の声は、砂粒のように押し流されて、かき消される。  次の瞬間にはもう、神の獣が咆哮を上げて、白い髪の女に向かって突進していた。  私はいよいよ、自分の頭を疑った。  夜の竹林が、昼間のような明るさをたたえている。  むせ返るような熱気が、竹の間を吹き抜けていった。  不死鳥。  妹紅の背に、紅蓮の炎が宿っている。  燃え盛る巨大な炎の翼を背負ったその姿はまさに、伝説の中でのみ優雅に羽ばたくはずの、神々しき不死鳥そのものであった。  すべてを焼き尽くしてしまえそうな、圧倒的な炎。  何もかもを呑み込んでしまえそうな、絶対的な力。  小鳥の妖怪が、離れた木の陰で、震えている。  ――あれには、敵わない。  無力な私にだって、そんなことは足し算のようにたやすく理解できた。  それほどまでに明らかな脅威を見せ付けられても、しかし、ハクタクは止まろうとはしない。  ごめんなさい、という言葉が、今になって、何度も何度も、頭の中で反響していた。  生徒を喰って。  喰い尽くして。  最後に残ったのは、教師だけ。  でも、私は、喰われなかった。  最初から、そういう約束だったのか。  ハクタクは、生徒だけを喰いに来たのか。  ――先生。ごめんなさい。  ああ、そうではないのだとしたら。  私を、喰わないことにしたのだとしたら。  だとしたら、ハクタクは、  すべてを終わらせるつもりで、ここへ来たのだ。  己の愚行を終わらせるために、ここへ来たのだ。 「ケイ」  私は、駆け出していた。  何を成せるわけでもないと知りながら。  何を果たすこともできぬと知りながら。 「駄目だ、ケイ!」  届かないと解っていながら、私は叫ぶ。  親愛の情をこめた、素敵な呼び名だった。  それは、あのハクタクの名前ではなかったかもしれないが、それでも、私の知っているたった一人の生徒を、私はそういう名で呼んでいた。  眼前で、ハクタクの巨躯が、紅蓮の渦に飛び込んでいく。  それと同時に、燃え盛る火炎は狂おしいほどに勢いを増し、草木ではない何かの焦げるにおいと、地獄のような金切り声が、辺りの空気を支配した。  立ちのぼる熱気に一度は気圧されながらも、一歩遅れて、私は炎の中へ飛び込んだ。 「おい! お前、馬鹿か!」陽炎に歪む視界の中、私の姿に気付いた妹紅が、炎の中心で叫ぶのが聞こえた。「何をやってる、離れろ!」  明らかに、火勢が弱まる。  それでも、直に触れた炎の熱さに変わりはない。  紅蓮の海で、ハクタクが暴れている。  陸に揚げられた魚のように、醜くのたうち回っている。  涙が頬を伝う。  けれども、その涙は、すぐに乾いて、消えてしまう。  泣いている場合ではないのだ。  恐れずに、歩み寄る。  ただ、助けたい。  その一心で。 「あっ」  次の瞬間、私の身体が、宙に浮き上がった。  遅れて、暴れ牛に突かれたのだと理解する。 「慧音!」  妹紅の声が、私を呼んでいる。  いつしか炎は退いていて、近い空には満月がよく見えた。  胸のあたりが、濡れている。  やがて、大地に吸い寄せられる。  浮遊感が消え、風を感じる。  私は、落下した。  ぐちゃり、という柔らかい音と、骨の折れる硬質な音が、焼けた耳の中によく響いた。  立ち上がろうとするが、筋肉に力が入らない。  代わりに、遅れてきた痛覚が、私の全身を駆け巡った。  焼け付くように、胸が痛む。  濡れた感触を思い出し、  胸に触れた手が、  紅く染まる。 「せん、せい?」  幼い声を受け、すぐ隣に横たわっている巨体に気付いた。  優美な獣の姿は見る影もなく、体毛も肌も無残に焼けて、黒く焦げ付いている。 「大丈夫か」 「だめ。先生が、大丈夫、じゃ、ない」 「私は、平気だ」 「先生。どうして、こんな」 「お前は、私の、大事な生徒だ」  一度まばたきをすると、私の隣に横たわっていたのは、もうハクタクの巨躯ではなく、赤紫色の髪の少女に変わっていた。 「ケイ」  けれども、少女はもう、何も話さなかった。  眠りのように、目を閉じて。  ただ、頬に流れた涙のあとだけが、私の心に何かをささやきかけているような気がした。 「慧音!」  妹紅が、青ざめた顔で、こちらを見下ろしていた。  そちらを見ようとしたが、私にはもう、首を動かすのさえままならない。  何とも、みっともない格好である。  禁忌を犯した、これが報いなのかもしれない。 「……妹紅」 「喋るな」 「私、死ぬのかな」 「喋るな!」  妹紅は叫び、私を担ぎ上げようとした。  けれども、血で滑るのか、上手くいかないらしい。  それとも、怖くて、力が入らないのだろうか。  真っ赤になった自分の両手を見つめて、妹紅は唇を噛み締めていた。  ――そうか。  ――私はもう、死ぬのか。  もはや、痛みすら、まともに感じられない。  あるのはただ、冬のような寒さだけだった。 「結局私は、誰ひとり、守れなかったんだな」  三十人。  教師として守るべきであった、子供たちの数だ。  多くの子供たちをうしなっても、そうとは知らずに、私は呑気に生きていた。  私の記憶にはない、消えてしまった誰かに、確かな情を抱くことができないのが悔しかった。  だから、こうして朽ち果ててゆくことは、何か大きな力によって、初めから決められていたことなのだろう。  隣に横たわっている、眠れる少女の顔を見た。  この子が、たくさんの子供たちを喰い殺してしまったなんて、未だに信じられぬことであった。  ハクタクが、人を喰って生きていたなんて、未だに信じたくはない現実であった。  だけど、少なくとも。  私に対しては、あたたかい心を見せてくれた。  ハクタクが、人を喰うモノだったのだとしても。  もしかしたら、  気付いてやれていたら、変われたかもしれない。  だってこの子は、最後に、変わろうとしたのではないか。  私を喰わずに、共に生きてゆくための道を、必死に探そうとしたのではないか。  だから、この子の正体に気付いてやれなかった、私がすべて悪いのだ。  生徒の犯した過ちの責任を負って、正しい方向へ導いてやるのが、教師の仕事である。私は愚かな教師であったかもしれないが、そればかりは、必ず果たさなければならないと思っていた。  しかし、私には、それを全うすることができなかった。 「せめて、最後の一人くらいは、守りたかった」  私は、涙を流しながら、少女の顔を見つめていた。  動けぬ身体を、じわり、じわりと寒気が蹂躙してゆく。  この子も、同じように、寒くて寂しい思いをしていたのだろうか。  ――だとしたら、温めてやりたい。  最期に、この小さな身体を抱き締めてやりたい。  そんな願いも果たせぬままに、  私は、ゆっくりとまぶたを閉じた。      6  茜色の教室。  どうして自分がこんなところにいるのか、解らなかった。  ふと目を開けたら、赤紫色の髪の少女と一緒に、いつもの放課後みたいに、二人きりで、そこにいたのだ。  今まで何をしていたのか、なぜだろう、はっきりと思い出すことができない。それでも、まるで白黒写真みたいに穏やかで懐かしい感覚が、私の胸を幸せな気持ちでいっぱいにしてくれた。 「先生。ごめんなさい」  机の向こうで、少女が深々と頭を下げた。この日は確か、緑色の衣装であったはずなのに、いつの間に着替えたのやら、青色の服を着ていたのが、とても不思議だった。 「お腹がすいて、どうにもならなかった。だから私、みんな、食べてしまいました」  無邪気さゆえの残酷さも、純粋な反省の気持ちも、その言葉には色濃く映し出されていた。  人を食べて、消してしまう妖怪。  彼女は最初から、そのつもりで寺子屋に紛れ込んだのだ。  けれども、私の存在が、そこに生まれるはずのなかった罪悪感を芽生えさせた。生きるために食事をする――妖怪にとってはただそれだけであったはずの行為に、私という存在は、とてつもない苦痛を与えていたのだ。 「先生の大切なものを奪っているということは、解っていました。だけど、最初からなかったことにしてしまうのであれば、何も奪ったことにはならないから、きっと許してもらえると考えたのです」  私が認識していないのだから、そこには元来、許すも許さぬも、そういう概念自体が介入してくる余地はない。けれどもそれは、「気付かれさえしなければ、万引きをはたらいても罪にはならない」と言っているようなもので、ひどく幼稚な考え方だった。  無論、この少女は――賢しきハクタクは、そういう愚かしさも、重々承知していたのだろう。 「だけど、だんだん怖くなってきた。このまま、みんないなくなってしまったら、最後に私は、先生とお別れしなくちゃならない。そういうことに、初めのうちから気付いていたんです。夜の森まで助けに来てくれた時から、私は先生のことが気になっていたから」  誰だって、死ぬのは怖い。  だから、生きるために、何かを食べなければならない。  それなのに――食べることにさえ、恐怖心を抱くようになってしまったとしたら。  生理的な現象に逆らわなければならないなんて、生き地獄に他ならないだろう。雪山で壮絶な眠気に襲われ、「いま寝てしまったら、もう二度と目覚めることができなくなってしまうのではないか」と考えて、結局、眠ることができない。そういう感覚に、よく似ている。 「先生とお別れするのは、嫌だった。最初は漠然とした気持ちでしたが、次第にはっきりと、ずっと一緒にいたいと思うようになっていたのです。だから、私は初め、先生のことを観察しながら、子供を食べるのを我慢していました。けれども、それも束の間のことで、いよいよ、それでは立ち行かなくなってしまった」  本当なら、ずっと我慢をし続けているのが一番だった。けれども、生きるための営みを永遠に封じてしまうことなど、出来るはずもなかったのだ。新鮮な果物のなっている木を前にして、一週間、何も食わずにいろと言われても、どだい無理な話である。  だから毎晩、一人ずつ、子供を森へ誘って、喰い殺した。  そうやって、せめてゆっくりと減らしていけば、それだけ私と一緒にいられる時間も長くなるからだ。枯れ果てた無人島に漂流して、ごく僅かな食糧を保ちながら、誰も助けに来るはずがないのに、生き抜こうとする。それくらい、きわめて過酷な心境であったろう。 「小鳥のことは、計算外でした」それから、少女は自嘲気味に、言葉を続けた。「最初の子を食べていた時、一羽の小鳥が私の邪魔をしてきました。すぐに叩き落したけれど、私はそのせいで、さらってきた子供を、ちゃんと喰い損ねてしまった」  最初の子。  つまり、『ケイちゃん』と呼ばれた少女のことだ。人里からさらってきたのはいいが、思わぬ闖入者の登場によって、中途半端に喰い損ねたために、その存在が完全に消えることなく残ってしまったのである。  しかしながら、結果的には、ハクタクは『ケイちゃん』という名の空席を利用し、その姿を借りて、寺子屋に紛れ込むことに成功した。喰ったモノの情報を知識として吸収してしまうハクタクには、その人間の姿かたちを再現することもできるのである。そうやって、偶然にも、いつでも手が出せるような場所に、食糧になる子供たちを確保することができて、しばらくは安泰のはずであった。  ただ、その代わり、小鳥の正体を他人に知られてはならない、という大きな制約がついてきたのだ。 「私が殺した小鳥の魂と、少女の魂は、不思議なことに、その場で混ざり合って、一人の妖怪を生み出しました」  そして、その妖怪は、生前の『ケイちゃん』と同じ容姿をしていた。ハクタクは、自分とまったく同じ顔をした少女を、うっかり身近な者に会わせて、正体を疑われるわけにはいかなかった。かと言って、小鳥の妖怪を下手に殺してしまうわけにもいかない。どちらにしても、ようやく見つけた自分の居場所を失うことになりかねなかったのだ。  小鳥の妖怪を殺してしまえば、せっかく手に入れた『ケイちゃん』という名の空席も消滅してしまう。『ケイちゃん』が存在した事実を残したまま、小鳥を始末するには、喰い殺すより他の方法を選べばよかったのかもしれない。しかし、そもそも小鳥の妖怪が、あまりにも特異な生まれ方をしているため、いかなる手段で殺そうとも、元の少女の存在を消さずに残してくれる保証はなかったのである。  においまで再現された『ケイちゃん』の姿に、引き寄せられて唄い続けるミスティアは、夜の森を食事処にしていたハクタクにとって、迷惑きわまりない存在だった。相手は自分のことを覚えているかもしれず、しかも、殺すことができない。それなのに、向こうから近づいてくるというのが難儀であり、そういう場合、ハクタクは一方的に逃げ回るしかなかったのだ。  それから少女は、表情を引き締めると、いよいよ意を決して、次のようなことを語り始めた。 「私は初め、ハクタクは、歴史を喰うものだと思い込みながら、長い時の中を生きていました」  歴史を消すのではなく、  歴史を喰う妖怪だった。  喰うことでしか、消し去ることができない。天に与えられた中途半端な能力を掲げながら、ハクタクは、必死に生き続けてきた。 「歴史を築くのは、いつの時代も例外なく人間でした。だから私は、善き心と高い能力を持つ人間に力添えをして、共に美しい歴史を築き上げてゆこうと考えました。そうしてつくり上げた歴史の、ごく小さなおこぼれに預かって、少しずつ食べてゆくことができれば、私はそれで良かったのです」  悪政の手助けをしても、腹の足しにもならない。そんなことは、火を見るよりも明らかである。より良い暮らしのために、良貨と悪貨を選別することは、何も悪いことではないはずだ。徳高き為政者のもとに現れる、それがハクタクという妖怪の、生きてゆくための意思表示なのであった。 「けれども、本当の意味で徳の高い者なんて、どこにも存在しなかった。私は優しさと賢しさを持ち合わせた人間を見繕い、親身になって手助けをしてきたつもりでしたが、そうして与えられる食事のほとんどが、彼らにとっての不都合な事実ばかりだったのです」  綺麗な水と、泥水があったら、綺麗な水を選びたい。けれども、ハクタクにとって、この世界には、初めから泥水しか存在しなかったのだ。 「自分から手助けをしておきながら、恩着せがましく振る舞うつもりは毛頭ありません。けれども、それは私にとって、あまりにもひどい仕打ちでした。彼らは、不都合な歴史の隠蔽に役立つ存在として、勝手に私のことを祀り上げたのです。私はただ、生きてゆくことを必死に考えていただけで、神になりたかったわけではないのに。ましてや、これっぽっちも腹に溜まらぬような、下らぬ狂信で」  吐き捨てるように言うと、生きることに正直だった少女は、柳のように悲しげな表情でうつむいた。 「そうして私は、人間を喰うことを覚えました。どうしてそのような考えを抱くようになったのか、そのきっかけは、よほど陰鬱な感情にさいなまれていたせいでしょうか、あらゆる知識を頭の中に詰め込んできたはずの私自身にも、今となっては鮮明に思い出すことができません」  ハクタクは、漠然と存在する歴史の潮流を、直接すくいとって胃袋に収めることはできない。何らかの物質を喰うことで、初めてそのモノが有する歴史を身体に吸収し、同時に世の中から消し去ることができるのだ。  だから、腹の足しになるもの――生きてゆくために必要なものとして、真っ先に推挙された食物は、歴史を生み出す人間そのものだった。 「以来私は、主に人間の子供を食べて、生きてきました。個体ごとに摂取できる熱量や栄養素を見るならば、身体の小さいことから解るとおり、ごく僅かなものでしたが、子供の歴史には穢れがなく、総じて美味だったからです」  そうして、狂った信奉者たちからも忘れられていったハクタクは、やがて幻想郷と呼ばれるこの土地に流れ着いた。それから、数奇な運命によって、人間の里の中心に建つ小さな寺子屋に、一人の生徒として居つくことになったのだ。 「私、本当は、先生のことも、食べてしまおうかどうか、迷っていました。最後の最後に、大好きな先生を食べてしまえば、永遠に、私だけのものにできるから」  そう言って、少女は笑顔を向けてくる。そのように無邪気な顔を見せられても、言葉が言葉だけに、私は戸惑うばかりで、果たしてどのような表情を返せばいいのか、皆目見当がつかなかった。 「けれども、私には、それができなかった。どうしても、できなかった」胸の奥に隠しておいた宝箱を、こっそり開けるみたいに、少女は嬉しそうな声でつぶやいた。「先生は、ハクタクのことを、大好きだって、言ってくれましたから」  けれども私は、その言葉を受けて、なおのこと複雑な気持ちになった。買いかぶりすぎではないか、と思ったのである。私のそれだって、ハクタクが人間を助けるものだという、自分勝手な狂信に過ぎなかったのではなかろうか。  そんな私の心境を察したのか、少女はニコニコと微笑んだままで、言葉を続けた。 「先生は、他の人間たちみたいに、ただ一方的に信奉してくるばかりではなくて、私の苦しみも、一緒に考えて、ちゃんと理解してくれました。私の正体がハクタクだっていうこと、先生は知らなかったはずなのに、直接諭されているみたいで、ずっと不思議な気持ちでした。生きるための糧であるとしか思っていなかった人間と、肩を並べてお話ができるなんて、信じられないくらい幸せな時間でした。私は、そんな大事な人を、世界から消してしまいたくはなかったのです」  少女はそう言って、安らかな表情で、胸に手をあてた。  本当に、子供みたいだと思う。想像もつかないくらい、長い年月を生きてきた妖怪が、べつだん猫をかぶっているわけでもなく、純真な少女のように振る舞うことができる――私にはその事実が、汚いことも、つらいことも、幾度となく見つめ、乗り越えながら、強く生き抜いてきた証であるように思えた。 「それに、先生は、歴史に嘘をつかなかった。それこそ、まるで、ハクタクみたいに」少女はいたずらっぽく、舌を出して言った。「私、いつも思っていたんです。先生も、ハクタクだったら、ずっと一緒にいられたのかなぁって」  それは冗談にすぎないのに、ひどく寂しげな言葉だった。  でも、と、私は思う。  本当に、そうだとしたら――  それはそれで、面白いかもしれない。 「だけど」私の目を見て、少女は言った。「私の時間は、私の歴史は、もうおしまい」  おしまい、という響きが、私の心を緩やかに揺さぶった。  どうして、そんなことを言うのだろう。  ようやく、すべてを理解することができたのに。  間違えたところは、これから、二人で直してゆけばいいじゃないか。  それなのに、もう、おしまいだなんて。 「時の流れが、歴史の流れをつくり上げてゆくように。身体に流れる血潮は、記憶の流れを刻んでゆきます」そう語ったのは、無邪気な少女ではなく、ハクタクという名の古い妖怪であった。「私の歴史は、これでおしまい。私の身体に通う血は、この記憶は、先生に、託します」  私は叫ぼうとしたけれど、何故だか、声が出なかった。  本当に、もう、お別れなのか。  そんな、寂しいことは、言ってほしくない。 「自分勝手で、すみません。だけど、先生は、生きてください。その命、ここでうしなわれてしまうことは、許されない。天が見過ごしても、私が絶対に許しません」  少女がそう言った、直後。  頭の中に、鈍重な衝撃が走る。  私の頭に、ぼう大な量の記憶が流れ込んでくる。  これが、ハクタクの記憶。  混濁する意識。  あまりに複雑すぎて、何が何だか判らない。  けれども、そんな激しい濁流の中――私の知らなかった、私が忘れていた、大切な生徒たちの顔が、ぽつり、ぽつりと確かな色味と形を持って浮かび上がってきた。  いつも元気で、勉強はさっぱりの仲良し三人組。  賢くて、面倒見も良くて、素朴で真面目な六郷。  人見知りだけれど、誰よりも優しいケイちゃん。  ――そうだ、私は生きなければならない。  もう一度、機会を与えてもらえるのなら。  お前の犯した罪の、その責任。  消えてしまった者たちの記憶。  すべて私が背負って、生きてやろう。  だって、それが、私の仕事なのだ。  果たせなかった、私の願いなのだ。 「先生なら、きっと、この幻想郷という土地で、美しい歴史をつくり上げてゆくことができるでしょう」  そうだろうか。  そう言われても、いまひとつ実感が湧かない。  私は、徳の高い事執りではない。  だけど、精一杯、  何かを背負って、  誰かを守りたい。  ちっぽけだけど、絶対に砕けない、誇り高き信念だった。 「それでは」おもむろに、少女は片手を上げる。「私は行きます。今まで、お世話になりました」  赤紫色の髪が、机の向こうで、ぼんやりと揺れている。  小さな光の粒が、少しずつ、飛び散ってゆく。  少女の身体が、少しずつ、透明になってゆく。  声は出ない。  代わりに流れ出たのは、大粒の涙。  せめて、今度こそ。  駆け寄って、  この胸に、  抱き寄せる。 「大好きだよ、先生」  抱き締めた小さな身体は、やがて粉雪のような光になって、窓の向こうへ流れて消えていった。
エピローグ
エピローグ 「……美味いな」  橙色に光る小さな屋台の卓上で、おでんのコンニャクをつつきながら、私は妹紅と二人で酒をたしなんでいた。  美味いな、というのは、先ほどから、二人して何度も言っていることなので、それがどの具を食べた感想であり、どういうタイミングで、どちらがつぶやいたのか、ということは、もはやちっとも判らないし、そもそも、至極どうでもよいことであった。少なくとも、今のは私の言葉だったけれど、そんなことに頭を使ってみるくらいならば、七味唐辛子を舐めていたほうが、まだ有意義であると言える。 「あはは。最高の気分だ」  妹紅はそう言って、お猪口を傾けた。もうだいぶ飲み続けているせいで、顔面がタコみたいに真っ赤である。  この店の料理は、いかなる酒にも調和することで有名だった。そもそも、酒に合わせて料理を用意してくれるのだから、当然と言えば当然なのだが、組み合わせの選択は完璧だし、もし仮に、別の酒を出されたとしても、必ず九十点はつけられるであろうと思えるくらい、見事な味を楽しませてくれるのだ。 「酒に呑まれるなよ」私は難しい顔で言った。 「大丈夫、大丈夫」妹紅は、手のひらを振った。 「何が大丈夫なもんか。ハクタクには、喰われたくせに」 「おい、おい。冗談きついなぁ、それ」 「事実だろうよ」私は溜息を吐く。 「そうだなあ。寺子屋で、悪い子はハクタクに食べられちゃうぞぉ、って、教えたらどうだ」 「それは愉快な提案だが、うちの生徒は、お前とは違う」  遠い昔に、禁忌の薬を飲み下した娘がいる。  そうして、不老不死の肉体を手に入れた代償は、あまりに重い刑罰――その存在の抹消であった。そいつは、尊敬していたはずの父親に神の獣を差し向けられ、一族の汚点として喰い殺されたのだ。  彼女は生き返った。それでも、それまで築き上げてきた自分の歴史も、喰われたという事実さえも、取り戻すことはできなかった。だから、それからというもの、行くあてもない、根無し草の生活をするしかなかったのだ。 「最初からいなかったことになっているはずの私が、実はいるのかもしれないって噂だけが、幽霊みたいに、ぼんやりと残っているんだ」  妹紅自身が、すでに消されたはずの『認識外の存在』であるため、ハクタクによって抹消された歴史でも、彼女の記憶からは消えることがなかった。ゴミ箱に捨てられた紙くずが、焼却処分をされないまま、新しく入ってくるゴミを受け入れ続けているようなものだ――というのは、妹紅自ら語っていたことである。 「あんな思いは、もう誰にもさせたくない」妹紅はニヤリと笑って、私のほうを見た。「頑張ってるか、ハクタクさん」 「私は、人は喰わないよ」苦笑しながら、私は応える。「里の皆を守る。特に、子供は大切だ。子とは里、だからな」 「なるほど。それが、コトワリ、か」 「ああ。里は、私が守るんだ」  そして、妖怪だって、守ってやろう。  私が里を見張って、妖怪たちと円滑な付き合いを続けてゆけば、人間も妖怪も、どちらも幸せになれるに違いない。  現に、今の幻想郷では、妖怪が人里で買い物をし、人間の店主と談笑して、当たり前のように森へ帰ってゆく。幼い妖怪の中には、寺子屋に通う者までいるくらいで、五十年前と比べれば、ずっと平和な世の中だった。  美しい歴史を、私が築いてゆくのだ。 「おーい」席を立って、妹紅は呼びつけた。「勘定、頼む」 「はぁい」店の奥から、甲高い声が返ってくる。  のれんをめくり上げて、調理場から、女将が出てきた。しとやかな和服姿に、青い翼を背負った彼女は、たった一人で、森の小さな屋台を切り盛りしている。 「御勘定ね、先生」女将は、小銭の受け皿を差し出した。 「ああ。まけてくれ」当たり前のように、妹紅は言う。 「先日も、おまけしたばかりですよ」女将は頬をふくらませて、抗議の視線を送った。 「おい、まけろよ。先生だぞ」 「ひゃあ、職権濫用だあ」 「わはは、ショッケン怪人だぞう。がおー」 「馬鹿か」私は小銭の受け皿を手に取って、妹紅の頭を叩いた。「お前は、教師じゃないだろうが」 「手厳しいな、まったく」それから妹紅は、私に向けて言う。「それじゃあ、こうしよう。お前、今度から、御代をなかったことにしてくれよ」 「私が飯を食っても、飯を食った事実はなくならないよ」 「でも、やろうと思えば、できるだろ」赤ら顔のまま、妹紅はいたずらっぽく笑った。「それで、『からあげまだ来てないんですけど』って言えば、何度でもからあげが食える」 「こすいな。一体、何の濫用なんだ、それは」 「うーん。ハクタク権、濫用?」 「もう少し、上手いこと言ってみたらどうなんだ」私は額に手をやって、深い溜息をついた。  残念ながら、妹紅の言ったことを実行しても、十中八九、失敗に終わるだろう。そんなことをしようものなら、そもそも「からあげを注文した」という事実が消滅してしまう可能性が高い。無論、試してみるつもりはないけれど、それくらいには、私の能力は不安定だった。 「薬師に、ツケておいたらどうだ」  妹紅は冗談めかしてそう言ってきたが、私はまだ死にたくはないので、そんなことできるはずもない。  それに、あの人には多大な恩がある。私の願いをつなぎとめてくれた、頭の上がらぬ恩人だった。 「また来てね、先生」 「おう。今度はまけろよ」  結局、寺子屋のツケにして、私たちは屋台を後にした。恥ずかしながら、持ち合わせがないことに気付いたのだ。ある意味、これこそが職権濫用であるかもしれない。  それから、私たちは、森の道を行く。  開けた夜空には、満月が輝いていた。 「今日も、幻を見たか?」唐突に、妹紅がきいた。 「まあね」私はうなずく。 「とりつかれているんじゃないか、それ」 「いや、違うよ。私が、忘れないようにしているだけだ」 「忘れないように、幻と話すのか」 「そうだ」 「ま、いいけど」頭の後ろで手を組んでから、妹紅は何気なくつぶやいた。「私が焼いた牛だからな」 「牛? あいつが、牛か?」 「でかくて、牛みたいだろ。要するに、お前もだけど」 「こいつめ……。言ってくれたな」  血を分けて、  命を分かつ。  彼女は、記憶をうしなって、  私は、半分、人間をやめた。  そうして、無邪気な少女に、同じ話を繰り返す。  何度も、何度も、飽きずに聞かれ、  何度も、何度も、飽きずに語る。  それが、今の私にとっての、小さな幸福のひとつだった。 「でもさあ」妹紅はつまらなそうに言った。「そんなこと、いつまで繰り返すつもりだよ」 「ずっとだ」 「ずっと? ずっとっていうのは、つまり、永遠にか?」 「ああ」私はうなずいた。「約束だからな」 「そりゃあ、たいそうなこって」妹紅は肩をすくめる。 「何だ、お前。嫉妬しているのか?」 「嫉妬? 私が? 誰に?」 「それは、図星ってことだな」 「ああ……」妹紅は、溜息を吐いた。「そうだよ、馬鹿」