もうあの歌は聞こえない
東方幻妖夢 番外編 もうあの歌は聞こえない  暗い森の深奥にいたような気もするし、深い海の奥底にいたような気もする。  どちらにしても真っ黒に塗り潰された視界は少女の孤独と絶望をふくらませるばかりであったので、いったい私はどういう場所に陥ってしまったのだろうという辛うじて理性的な思考は、頭のなかに浮き上がった泡沫もさながらにすぐさま寂しさと恐怖の感情に掻き消されていた。  漆黒の空間に投げ出され、ゆらゆらと浮かんでいる少女の身体。  その両手や両足は、折れそうなほどにか細い裸体は、少女自身の目で確かに視認できる。光の一筋さえも届かない場所でありながら、その少女の存在だけが妙にくっきりとしていて、そのことがかえって彼女の心のなかによりいっそうの孤独感をあふれさせた。  銀色の長い髪は何をも反射することがないはずなのに、ぼんやりと波を描きながらきらめいていて、暗黒の世界から切り取られたたったひとつのその存在は、少女を包括する空気とも水とも知れない黒々とした周辺の闇のなかに散り散りになってゆらめいていた。それはそよ風になびく儚いススキの群れのようでもあったし、海中に揺れているひとふさの美しい藻のようでもあった。  鳥目になったみたいに、自分以外のものは何ひとつ見えない。真っ暗な世界を漂う少女の孤独感と恐怖心は、彼女の感情の昂ぶりを煽り暴走させるのではなく、逆にそれ以外の心情を空虚にさせた。  どこにもないはずの光を反射している少女の身体、そのなかでただひとつ、輝きをうしなっている虚ろな瞳。  グレースケールの眼球に映し出される闇は、彼女の心をじわじわと蝕んで、やがてその瞳の色そのものまでをも黒々と塗り潰していく。  誰に語りかけるのでもなく。  何に語りかけるのでもなく。  喉の奥から、ただ機械的に声を絞り出そうとする。  この時の少女の心のなかに、声を出そうとするだけの意思が残されていたことは、たいへん驚くべきことである。孤独が生み出した無意識によるものか。はたまた強烈な記憶に基づく執念か。  しかしながら――言葉は生み出されない。  か細い喉の奥からは、小さなくちびるのスキマからは、コー、ホー、と、かすれた息がもれるばかりで、確かな発音をともなった声は生み出されない。  忘れられてしまった少女には、もう二度と言葉を生み出すことはできない。  銀色の髪がきらめいて、闇のなかでゆらゆらと揺れている。  息の詰まるような静寂のなかに、再び空っぽの静寂が訪れた時、少女はもう二度と紡がれることのない歌を思い出して、その灰色の瞳から涙を伝い落とした。  見えざる暗闇の視界。  動かざる暗黒の世界。  これが現実。  空虚な心を支配する諦観。  ゆえに少女は、それを夢だと思った。  それは、涙で濡れた真っ黒な景色に染み込んできた、鮮烈な紫色の――           ≠  決して黒くはない夜空に、少しだけ欠けた月が浮かんでいる。  ああ、ここは海の底ではなく、森の中だったのか――というのが、少女が視界を得てから最初に思ったことである。  一体いつ、変化したのかは解らない。気が付いたら、銀色の髪の少女の周囲を包んでいた暗黒は、何てことはない、はっきりと目で見ることのできる夜の森へと姿を変えていた。  辺りには聞いたことのない虫やら鳥やらの鳴き声が時おり響き渡って、静けさを基盤とする夜の暗さが不気味だったけれど、それでも少女は自身の周りに広がっている森の景色を見つけると、先ほどまでの孤独な闇の世界よりは遥かに生きている心地を感じられたから、虚ろだった瞳には輝きを取り戻し、地獄の淵からただちによみがえったかのような錯覚に心をはずませていた。  うしなわれていた視覚と聴覚が戻ったのだと、少女は思っていた。  暗黒に漂っていたはずの裸体には、いつの間にか、彼女のよく着慣れた青みがかったグレーのベストも、黒いスカートも、当たり前のように身にまとっていた。ゆえに少女は、あの暗闇のなかでただひとつ視認できた自分の身体は、麻痺してしまった感覚による妄想の産物にすぎないものであったのだという理解を手に入れた。  解放感に包まれていた少女は、月明かりがぼんやりと映し出す夜の森をひとりぼっちでさまよう自分のすがたを客観的に想像しても、先ほどまでのように耐えがたい孤独に心を空虚にするようなことはなかった。  少女は歌が好きだった。  喜びに気持ちが高揚すると、しぜんと歌が紡がれるのである。  悲しみに気持ちが落ち込んだ時にだって、少女にはたちまちにオーディエンスを感動に包括する悲愴の歌を唄うことができた。  そんな少女にだって、壊れて空虚になってしまえば、とうてい歌など紡げなかった。  それゆえに、たったいま暗黒から解放されたばかりの少女には、悲しみから救われた喜びの歌を唄うことができる。  じつに素晴らしい、それは少女の透きとおった心地よい歌声を聴いたことがある者ならば、じつに素晴らしい芸術作品になるであろうことは想像にたやすいはずの歌なのであった。  夜の森の、ちょっぴり不気味だけれど確かな生命を感じる優しい世界、その世界そのものを我が身に取り込んで身体じゅうに浸透させるために、少女は大きく息を吸い込む。  そうして、吐息に載せた声を美しい音色に変えて、ゆっくりと歌を紡ぎ出す――  紡ぎ出される、はずであったのに。  どうしたことだろう。  少女の喉からは、あの暗闇のなかでそうだったのと同じで、肺病をわずらって苦しんでいるかのような、しわがれた吐息が痛々しく漏れるばかりなのである。  少女は絶望に顔を歪めた。  せっかくあの孤独な世界から救われたと思ったのに。  月明かりが銀色の髪を冷たく照らし出す。  こんなにも生命に満ち溢れた森のなかで、忘れられうち棄てられてしまった自分を再認識して、今度こそ本当に現実の世界から切り離されて孤独になってしまったかのような、そんな暗澹たる思考が彼女の瞳をふたたび光の届かない灰色に曇らせてゆく。  少女は歌を愛していた。  少女にとって、歌とは生きがいであるどころか、存在理由そのものであった。  存在理由がうしなわれた存在は、何のために存在すればいいのだろうか。  少女の視界は月夜に明るかったけれど、その瞳と思考は暗澹たる闇の底へと舞い戻ってしまう。  ――私は何のために生きているのだろう?  ――私は何のために生まれてきたのだろう?  歌をうしなった少女は、空虚な心を夜風に吹き倒されて、その場に立ちすくむ。  落胆。  絶望。  それでも、狂ったように空っぽになってしまった思考を包んでいたのは、あたたかな思い出の名前だった。  大好きな人のことを思い出していた。  大好きな歌のことを思い出していた。  少女にとってのいちばん大切な人が教えてくれた、幻の大地の歌を。  唄いたい。  せめてもう一度、あの歌を唄いたい。  あの人はもういないけれど。  長い年月が、あの人を連れていってしまった。  少女の存在は、いつしか忘却のかなたに消えていった。  自分の存在は、もうあの人の心のなかにはないものなのだと、少女は思った。  それでも彼女は、あの人のことがずっと大好きだった。  あの人が教えてくれた、たくさんの素敵な歌が大好きだった。  あの人は、彼女に歌を教えるのが好きだった。その中でも、彼女がいちばん好きだったのが、幻の大地の歌だ。  絶望に飛び込んでくる紫色の光景の先に見た、人間とともに妖精や妖怪たち、そして神々までもが生を謳歌しているという、幻の大地。あの人はそんな夢みたいなことを、僕は本当に見たのだと言って、子供みたいに無邪気に話していた。  そんな土地のことは誰も信じなかったし、夢見がちなものつくりびとだったあの人の性格をよく知っていた少女も、それはいつもの夢物語のひとつだと思っていたけれど――それでも彼女は、そのお話を聞くのが大好きだった。  そうしてあの人は、かつてその目で見たという幻の大地のことを歌にして、少女に教えてくれたのだ。  あの人は、少女があの歌を唄うと、いつもよりいっそう喜んでくれた。あの人も、あの歌が一番好きだったのだ。  思い出の歌。  大切な宝物。  この声が出せなくなってしまった今――あの歌だけは、せめてもう一度唄いたい。  空虚な心の名前に、あの歌のタイトルを添えて、ただ願う少女。  そんな少女の願いは、決して言葉には出されないまま、夜の森の鳥や虫たちのささやかな鳴き声の波にさらわれて、儚く消えてしまうように思われた。  絶望に支配された心に、せめてあの名前をつけて反芻しようとする。  けれども、それは錆びついた吐息になって、苦しげに漏れ出すのみである。  少女にはもう歌がなかったから、この場所で朽ち果ててしまおうと考えることさえしない。何も考えていなかった。考えなければ、いずれ朽ち果ててしまうことができる。  だから、少女は何も考えなかったのに―― 「――幸福よ――」  歌。 「――闇を飾り立て――」  歌。 「――枯れ果てた地に――」  歌。 「王女の御名は――今宵あなたにと」  歌。  小さな宝石のように、優しくも輝かしい歌声。  伴奏もないのに、豪奢に響き渡る美しい歌声。  その歌声は、確かに聞こえた。  絶望し、ただ名前だけがついている、空っぽになった少女の心の真ん中に、確かに届いた。  すると、どうだろう。  たたずんでいたはずの両脚が、しぜんとそちらへ向かって歩み始めた。  魅力的な歌声だった。  魅惑的な歌声だった。  その歌は、少女が最初に聞き取った時から、なおも繰り返されて唄われた。  だから少女は、その歌の聞こえるほうへと歩んでいくうちに、その歌に唄われている詞を覚えてしまうことができた。  ちょっと聴くと悲しいけれど、優しさに満ち溢れている歌であるなあと、少女は思った。  木洩れ日の下で すやすや眠った  救われぬ 幼子の  うたかたの幸福よ  彼の地に潜みし夜を纏う紅  花園に降り立ちて今宵も舞い踊る  柩の館に闇を飾り立て  従者たち ひとえに  優雅な死を謳う  思い出を積み上げて  燃やし尽くし  生まれた種を  枯れ果てた地に蒔いて  新しき花を 実を育てよう  ベールを剥いだ微笑みの性  王女の御名は  今宵あなたにと  たたずむ木々の根元にはまだ  少女の記憶  眠り続けている――  少女の声は出なかったけれど、喉を、くちびるを、懸命に動かして、耳に届く優しい歌を一緒に唄いながら、すがたの見えない素敵な歌い手のいるほうへ向かって、ゆっくりと、確かな足取りで歩んでいった。  銀色の長い髪はいつしか温度ある光をともなって、降りそそぐ月明かりを穏やかに照り返しながら揺れていた。           = 「ミスティア・ローレライ」  歌姫は、そう名乗った。  チョコレートみたいな深い色のドレスの背中から、青い翼が飛び出している。赤紫の長い髪に隠された耳のところにも、同じ翼をかたどった髪飾りのようなものをつけていた。その豪奢な装いは、壮麗な舞台劇のヒロインを思わせる。  夜の森の月明かりの下で、大きな切り株に腰掛けて唄う艶美な歌姫は、迷い込んできた少女を見つけると、繰り返しの途中だった歌が終わったところでようやく唄うのをやめて、唄っている時と同じ、透きとおった美声で妖しく告げた。 「『亡き少女の為のセプテット』という歌よ」  少女が何も言っていないのに――何も言えないのに、歌姫ミスティア・ローレライは、少女が最初に質問したかったことの答えを返してくれた。  銀色の髪の少女を導いたあの歌のタイトルは、『亡き少女の為のセプテット』というらしい。内容もさながら、タイトルも切ない優しさに満ち溢れた、素晴らしい歌だ。 「嬉しいわ。ありがとう」  ミスティアはそう言って、にっこりと微笑んだ。  無論、少女は何も言っていない。この人には、少女の気持ちが解るのだろうか? 「あなた、お名前は?」  困惑している少女に、歌姫は問う。  銀色の髪の少女は、決して出ることのない声で答える。 「そう。素敵なお名前ね」うなずくミスティアは、確かに少女の言葉を受け止めていた。「あなた、歌が好きでしょう?」  少女はなおも戸惑いながら、首を縦に振った。 「あなたはね、お話しすることができないようだけれど」ミスティアはくちびるに人差し指を当てて、笑った。「解るのよ。私もね、歌が好きだから」  歌は心だから。  私たちは心でつながっている。  ミスティア・ローレライはそう話した。  それはちょっと聞くと大げさな表現であったけれど、この美しい歌声の持ち主の口から紡がれた言葉であったからだろうか、少女にはそういうことが当たり前で確かな現象であるように感じられた。  本当は少女の口の動きを見て言葉を読み取っているだけなのかもしれない、と思ったけれど、それでも先ほどの美しい歌声を思い出してみると、心と心で会話していられるような気持ちになれるのであった。 「どうして、声が出なくなってしまったのかしら」  本当に、心でつながっていると感じられたからだろうか。  不確かではない運命を感じさせる、素敵な歌に惹かれてやってきたからかもしれない。  歌姫の問いかけは、少女のなかに根付いている悲しみを引きずり出した。  少女は、あの人のことを話した。  あの人が教えてくれた歌。  もう二度と唄えない歌。  あの歌のタイトルも。  あの人は、もういないのだということも。  すべてを話した。  心で伝えた。  どうして声が出せなくなってしまったのか、その答えが見つかるような気がしたから。  しかしながら――ミスティア・ローレライの反応の焦点は、まったくもって予想外の部分にあった。 「その、歌」  銀色の髪の少女の話をすべて理解したミスティアは、その端麗な顔立ちには似合わない様子で、驚きに目を見開いた。その意外な反応を受けて、少女もまた驚いてしまう。  歌とは、つまり、あの歌のことだ。  少女の大切な人が教えてくれた、幻の大地の歌。  思い出という名の、宝物―― 「その歌。私も知っているわ」  だから、ミスティアがそう言った時、少女は頭の中に閃光が走るような感覚を味わった。空虚だった少女が久しく味わっていない、鮮烈な感覚だ。  ミスティア・ローレライも、あの人の歌を知っている。  あの人は数多くの素晴らしい歌を作っては世に送り出していたけれど、あの幻の大地の夢物語を歌にしたことだけは、ふたりの間だけに存在する愉快な秘密のはずであった。それはあの変わり者が、自分のためだけにその思い出を唄ってほしいと私に願ったからではないかと、少女は思っていた。  なのに、この歌姫はあの歌のことを知っている。  一体、どういうことだろう? 「その歌はね! 私が昔に出会った、歌が大好きな人間が、私と一緒に考えた歌なのよ!」  歌姫は懐かしい友人に会ったかのように、興奮して言った。  その言葉は、より輝かしい衝撃となって、少女の心に明るい光をともした。  まさか。  そんな。  本当に。  すると、幻の大地というのは―― 「その時はね、ほとんど出だしのフレーズを思いつきでちょっと唄ってみたくらいだったのだけれど。……そう、あれはもっと素敵な歌になったのね。つまり、あなたが、あの人が言っていた歌い手さん……まったく、驚きだわ」  自分の言葉をしみじみと噛み締めるように言ってから、ミスティアはそっと息を吸い込んで、ひとつのフレーズを優しい音色に載せて口にした。 「大地は緑を宿し――空は清澄み渡る」  いよいよ心のなかの興奮だけでは留まらなくなった銀色の髪が、ばさりと大きく揺れた。  間違いない。  それは、あの歌のワンフレーズ。  大切な思い出の――宝物のひとかけら。  この人は、それを握っている。  それは消えかけてしまった宝物の一部。  忘れ去られた大切な思い出を修復するための、もううしなわれてしまったと思われたそのきっかけ。  思えば少女は、あの人に忘れられてしまったのだと思った時から、ひとことも言葉というものを発していない。  話すのが怖かったから。  そうだ。  怖かったからだ。  あの人の名前を呼んだとして。  あの歌を再び唄ったとして。  それでもあの人がこちらを向いてくれなかったら――そんな想像をして、ずっと怖かったから。  だから少女は、言葉を鎖と錠で縛りつけ、鍵をかけたのだ。  そしてその鍵は、あの人が持っていってしまった。  あの人は少女の言葉の封印を解けるその鍵を持ったまま、もう決して届くことのない場所へと消えてしまった。  だから、少女には声が出せないのだ。  それはうしなわれてしまったわけではなく、少女の心の奥深い場所に厳重に封印されている。 「なるほどね。あなた、大好きな歌なのね。これは」  歌姫が優しく微笑みかけてくる。  マスターキーはもうない。  あるじの鍵は、もう存在しない。  けれど――同じ鍵を作ることならできる。  そのきっかけが、確かに目の前にあるような気がする。  だから、開け方さえ、解れば。 「解ったわ。あなたの声」ミスティアは言う。「大好きな歌が、もうあの人に届かないと思っているから、封じられてしまっている。あの人と、その歌のことを知っている私には、あなたの錠を解いてあげられる」  答えは、目の前にある。  だが、それは錯覚。  目の前にあるけれど、届かない。  あの人はもういないのだから。  少女の心に安堵がおとずれることは、もう二度とないはずなのに。  どうやって、錠を解くことができるというのだろう? 「その歌はね」  ミスティア・ローレライが、その答えを教えてくれる。  歌が好きだからこそ、教えてくれる。  そう、あの人と同じように。 「その歌は、あの人のためだけに唄われるべきではない」  歌姫は言う。  あの人以外に、もっとその歌を唄ってあげるべき人がいる。  でも、ふたりの秘密にしてきたのに。  誰か他の人に教えてしまうということは、それはつまり、あの人を裏切ることになるのではないか。 「いいえ、違うわ。他人のために唄うべきだとは言っていない」そうしてミスティアは銀色の少女をしっかりと見つめてから、言い放った。「それは、あなた自身のために唄われるべき歌なのよ」  言葉は物理的な衝撃の錯覚をともなって、少女の心に突き刺さった。  自分自身のために唄うということを、少女は一度たりとも考えたことがない。 「長い時を経て、あの人はあなたのことを忘れてしまっていたのかもしれない。あの人がいなくなってしまった今となっては、それはもう解らない。だけれど、あの人は、いずれそうなることを理解しながらも、あなたのことを忘れたくはなかったし、あなたに忘れてほしくもなかった。だからこそ、その歌は、あの人があなたのために捧げた歌に違いないの。いつまでも覚えていられるようにするための、最高のプレゼント」  少女は、あの人の笑顔を思い出していた。  歌を作っている時、歌が完成した時、少女が歌を唄ってみせた時、あの人は楽しそうに笑っていた。  歌が好きだったから。  ただ好きであるというだけではなく、それが心の底から楽しいと思えるものであったから。  楽しいという気持ちをうしなってしまうことこそが、最大の裏切りであることを忘れてしまっていたのは、少女のほうだったのだ。  あの人のために、あの人のために、という苦しげな心の叫びにうずもれた声を、少女は取り戻すことができる。  その錠を解放するための鍵は、あの人が自分のために捧げてくれた歌を、唄うことの楽しさを噛み締めながら歌ってみせることだ。  今はもういないあの人に、それが届けることのできる、大切な感情。 「――ぁ、た」  漏れ出る吐息に、確かな発音がともなう。  錠の解き方に気付いた瞬間から、暗黒の世界に沈んだ少女の囚われの声はもう、薄明るい夜空へと自由に舞い上がっていく鳥の形にすがたを変えていた。 「わた、し、は。うたい、ます。わたしの、ために。大好きな歌を、私の楽しみのために」  はっきりとした発音。  銀色の髪の少女は、解放された自らの言葉に気付き、もう空虚ではなくなった心のなかに驚きと喜びが同時に湧き上がってくるのを感じた。  少女の声を聞いたミスティア・ローレライも、思わず目をみはる。  この少女にこそ、歌姫の称号はふさわしい――ミスティアがそう感じてしまうほどに、少女の声は磨きぬかれたダイヤモンドのきらめきを感じさせるほどに輝かしいものであった。 「素晴らしいわ」ミスティアは笑みをもってうなずき、もうひとりの歌姫に呼びかける。「唄いましょう、あの歌を。私たちの住まう土地を描いた、美しいあの歌を!」  歌姫の誘いが、楽しげに高揚する。  もうひとりの歌姫は、喜びを確かな返事にゆだねる。 「はいっ」  人間とともに妖精や妖怪たち、そして神々までもが生を謳歌している、幻想郷という隠されたこの土地を包み込んでゆくその歌の名前。  少女の空っぽになった心さえも、はっきりと覚えていた大好きな歌の、その名前。  タイトルは、『神々が恋した幻想郷』。  やがてふたつの歌声が、芸術が夜空へ向けて絡み合い、森の外までも響き渡る。  夜の静寂に時おり花を添えていたばかりの鳥や虫たちまでもが、美しいふたつの声に調子をあわせて、唄い始めるのである。  大地は緑を宿し 空は清澄み渡る  神々が恋した 幻想の祖の世――           ≠ 「父はよく話していましたよ。歌は心だって」 「歌は心。良い言葉ですね」 「父は生粋の音楽家でしたけれど、詩人でもありましたから。そういうことをよく話していました。だから作詞も好きだったんですね。夢見がちすぎて、時たまわけのわからないことも言っていましたけど」 「それは、例えばどのような?」 「幻想の土地がどうのこうの。妖怪だ妖精だって、空想の話をしているだけだったらいいんですけどね。そういうのが本当にいるとか、何とか」 「なるほど」 「まあ、そういうのって、いわゆるクリエイターの独特な思考ですよね。変な言い方ですけれど、どこかネジがはずれているからこそ、誰もが生み出したことのないオリジナルを創造することができる」 「なるほど……ありがとうございます。――では、三須先生が最初にデスクトップ・ミュージックで成功なさった際に、話題になっていた音楽ソフトがあったそうですけれど、それについて詳しく教えて頂けませんか?」 「ああ、あれですね。自分で唄うのは合わないから、女の子に唄ってもらうっていう」 「女の子、ですか?」 「いやいや。コンピューターの女の子がね、唄うんですよ。ほら、最近、話題になっているロボット、あるでしょう。なめらかな自律行動や入力データからの選択によるパターン会話だけではなく、みずから文字単位で言葉をつくって会話することができる。あのロボットにも搭載されている、音声出力システムの基盤になったものですね。いわゆる、『ボーカロイド』というやつです」 「ボーカロイド。ボーカリストの、アンドロイド、ということですか?」 「まあ、そんなところでしょうね。例えば、この『初音ミク』というボーカロイドは、ちょうど六十年前に開発されたソフトになります」 「へえ。だいぶ、古いものなんですね。現在のパソコンで、使用できるでしょうか」 「ええ、インストールも使用も問題ないはずですけれど、メリットがありませんよ。何せ六十年も前のものですからね。今では、はるかに多機能でクオリティーも向上されたソフトが多数出ています。ダミ声を入力しても少女の声に変換できたりしますからね、今のは。父はご存じのとおり頑固者でしたから、古い時代のソフトしか持っていなくて。ですから、新しいものを買おうとはしませんでしたね。ひとつのものに愛着があったのかもしれませんけれど、それでも、時を経るにつれて、デスクトップ・ミュージックに限らずとも音楽界全体の質は向上していくわけですから、古いボーカロイドは次第に使わなくなっていったみたいです」 「なるほど。ではせっかくですから、この『初音ミク』というソフトを実際に使用している場面を見せて頂けませんか」 「構いませんよ。今にしてみれば笑っちゃうような音しか出ませんけどね。専用のフォルダは……あった。では、えーと、どれにしようかな。では、そうですね、この『神々が恋した幻想郷』という曲を演奏させてみましょう」 「はい。お願いします」 「ほら、こうして楽譜が出てくるんですけれど。やっぱり、ちょっと使いづらいなあ。さて、このボタンで、再生をします。……ん。再生。……あれ?」 「どうしました?」 「いや、おかしいな……再生しませんね。音源の問題じゃあないよな。ミュートにもなってないし……あれ……どうしてだろう」 「故障ですか?」 「うーん。そうみたいですね。何か、ファイルが落ちてしまっているのかも。やっぱり、六十年も前のソフトですから……インストールし直すしかありませんね。もうしばらく、お待ち下さい」 「はい」 「……あれ?」 「また何か?」 「いやあ、困りました。パッケージに、ディスクが入ってないんですよ。参ったなぁ……結構、大事に保管してあるみたいだったのに……。これ、プレミアついてるのになあ……」 「やはり、動かせませんか?」 「ええ、申し訳ない。残念ですが、諦めて頂くほかありません。せっかく取材に来て頂いたのに」 「いえ、結構ですよ。動かないなら、仕方ありません」 「まあ、所詮、忘れ去られたソフトですよ。せっかくなので、こんなものより、もっといいものを紹介しましょう。私のコレクションです。のちほど、私の書斎に案内しますので、その時に」 「それは楽しみです――」  忘れ去られた少女と、大切な宝物。  もうあの歌は聞こえない。  少なくとも、たった六十年で多くのものが磨耗するこの世界では。           ≠  大地は緑を宿し 空は清澄み渡る  神々が恋した 幻想の祖の世  眠る廃墟から 煙はツキ果てる  いのちを育まぬ大樹 夢はツミニとける  澱みなき水の  継ぎ注がれた湖の畔  紅に瀟洒に 微笑う富の館  惑いの木洩れ日に さざめく人々の里よ  宵にはあやかし歌い 濁り酒 酌み交わす  神々の御社に 萃う饗宴  水面は光をうつし 星は瞬き踊る  神々が愛した 幻想の其の夜  澱みなき水の  継ぎ流れる三途の一路より  あの紫に咲く悠遠の桜も  純白の鈴蘭 太陽の盃さえも  渇いた瘠土をめがけ 霧雨が降り頻る  神々の施しと 架かる虹橋  大地は緑を宿し 空は清澄み渡る  神々が恋した 幻想の園よ  幻想の宴よ
物部語 第丼話
物部語 ―モノノベガタリ― 第丼話 ようむシュリンプ 001  少女は困っていた。  苛立っていた、と言うのが、より正確であろう。  少女というのは、純白のおかっぱ頭に、漆黒の布を結び垂らした娘のことである。白のブラウスに、緑色で統一したベストとスカート。ベストの胸元にも、頭と同じ布を蝶々結びにしていて、大きなクロアゲハがとまっているようにも見える。  年の頃は十といくつか、といった程度の背丈で、日本人形のように綺麗に整えられた髪型でありながら、顔立ちには精緻な西洋人形といった趣の可愛らしさがある。  ――ああ、これだから、面倒ごとは嫌いだ。  真昼の林道を、少女は顔をしかめて歩いている。  面倒ごとが好きな者など、普通はいない。そんなことは、少女もよく解っている。  妖怪や人間たちが、時に住み分け、時に入り乱れて暮らす、幻想郷という世界。ここはそういう世界であって、勢力間の力の均衡を保つため、妖怪が異変を起こし、人間がそれを解決する、といったようなことが、何度となく繰り返されてきた。  そういう場所であるから、しばしば大きな面倒ごとが起こってしまうのも、致し方ないと言えばその通りなのである。  面倒ごとというのは、要するに――  紅い霧だとか。遅い春だとか。  永い夜だとか。萃う宴だとか。  魂の花だとか。風の神だとか。  天の娘だとか。鴉の火だとか。  空の船だとか。神の霊だとか。  妖怪たちや、最近では妖怪でない者たちまで起こすようになった、異変というやつがまさにそのことで、おかっぱ頭の少女とて、その解決に関わったことはもとい、要因に一枚噛んでいたことすらあった。  とはいえ、それらの面倒ごとを面倒でないと感じたことなど、ほとんどない。  一度もないとは言わないけれど、そういう例外的なケースだって、運動で汗を流した後の解放感と同じで、結果が良かったから、後から「まんざらでもなかったな」と思えた場合に限られている。少なくとも、そこに義務感や必要性を感じない限りは、目の前にある面倒ごとに対し、興味本位で首を突っ込もうなどと考えたことはなかった。  そして――そんな自分と同じように、面倒ごとが好きな者など、普通はいない。  そんな奴がいるとすれば、それは気まぐれで謎の解決に乗り出してゆく白黒の魔法使いであったり、「常識に囚われていてはいけません」とか言いながら喜々として妖怪たちを退治してゆく青い巫女であったり、「構ってほしかったから」とかいう下らない理由で由緒正しき神社をぶっ潰した不良天人であったり、スクープはないものかと日夜飽きもせず西へ東へ飛び回っている鴉天狗の新聞記者であったり、ワガママな主人が繰り出す無茶苦茶な命令に鼻血を垂らしながら笑顔で応えている銀髪のメイドであったり――まあ、とにかく、そういう例外的な連中くらいである。  ……いや、結構いた。  少女はおかしな論理だと自覚しつつも、自分の身の回りには例外が多すぎる、と頭を抱えそうになった。眉間のしわが癖になって、もう戻らなくなるのではないか、と心配になる。  そうやって、怖い顔をして懊悩し続けているから――というわけでは必ずしもないのだが、おかっぱ頭の少女からは、やたら剣呑な雰囲気が漂っていた。  その最大の要因は、誰の目にも明らかだ。背側にくくりつけられた、二本の刀のせいだろう。  長短二本の刀は、少女がなまじ可愛らしい外見であるだけに、必要以上に物騒な気配を付随させていた。そうした殺気とも言うべき気配が視覚化されたかのように、少女の周囲には、蛇のような形をした白いもやがぼんやりと漂っている。  清廉な白の髪すら、柔らかな陽光を鋭く照り返し、白刃にも似た銀色の輝きをまとっている。  穏やかではない。  その実、単に不機嫌なだけなのだが。  ――ああ、非常に、面倒くさい。  初めは、ただ林道を歩いていただけであったのだ。それなのに、どうして面倒ごとというやつは、唐突に降って湧いてくるのだろう。いや、唐突に降って湧くから面倒ごとなのか――鶏が先か卵が先か、というのに似た途方もない思考を巡らせて、少女はいっそう顔をしかめる。  面倒ごとと言うならば、そもそも主人に頼まれたおつかいのこともそうである。だからこそ、少女はこうして、人里の商店通りへ向かっているのだ。  少女が忠誠を誓っている主人。  冥界の令嬢と呼ばれている人。  主人の命令や頼みごとを断れない、という点に関しては、かの銀髪メイドに対して、人のことは言えないな、と少女は思う。  メイドという表現は適切ではないが、この少女もまた、高貴なお方に仕える立派な従者である。仕事であるという義務感よりも、大事な人を幸せにするという使命感で動いている。言われたことを忠実にこなし、主人が喜んでくれるなら、それは少女自身にとっても嬉しいことなのである。  とはいえ、それでも面倒ごとには違いない。少女は身体を動かすのが好きなほうだが、おつかいのために人里へ下りてゆく、というのは、剣術の稽古と違って、あまり肉体的な修練値が加算されない、ような気がする。もう少しざっくりと言うならば、そうした雑務は、自分のタメになる運動とは思えないし、どうにも面倒だと感じてしまうのである。  そんな少女だったが、それでも、度を超した筋肉馬鹿でもなければ、さして超俗的であるわけでもない。だから、何となく、理由のないことをする場合だって、当然ある。今だって、本来ならば空を飛ぶことのできる彼女が、そちらのほうが面倒なのに、わざわざ徒歩で移動していることについては、特に理由はない。しいて言うならば、気分転換の散歩をかねて、何となく地に足をつけている、といった程度のことである。  さて――そんな少女が、顔をしかめている理由。  確かに、冥界という、本来は隔絶されているはずの土地に住まう彼女が、どうしてもそこでしか購入できないものがあるからといって、わざわざ現世だ顕界だと呼べるところの人里へ出向くというのは、それなりに億劫なことだ。  けれども、少女はおつかいが嫌だったわけではない。表現としては本末転倒であるが、おつかい程度ならば、少女にとって、面倒ごとのうちには入らない。少なくとも、主人のための行いであるし、少女自身にも必要な食料品の買い出しもかねているのだから、いかに雑務であるといえども、苛立ちを顔に出してまで嫌がるようなことではないのである。  かと言って、どこかの妖怪なり何なりが重大な異変を起こしていて、そこに巻き込まれてしまった、というわけでもない。そういうことがあれば、少女は当然ながら面倒だと思うかもしれないが、状況に身を置いているうちに、顔をしかめる間もなく、好奇心が掻き立てられてしまっているはずなのだ。  では、一体何が面倒ごとなのか。  理由は、至極単純である。 「――いやあ、しかし奇遇だな、まったく! おぬしのような仙人と、かようなところで会えるとは! フフフ、会いたかったぞ、妖夢殿! 太子様もおぬしに会いたがっていたのだが、そういえば、どこに住んでいるのか聞いていなかったからな。……いや、おぬしのような高名な仙人となれば、太子様はともかく、我のごとき凡庸な尸解仙では立ち入ることすら叶わぬような、相応に貴き土地で暮らしているのだろうなあ。うむ、さようなお方に出会えるとはな! フフフ……これもきっと、我の日頃の行いが良かったお陰だな? いやはや、それにしても、奇遇、奇遇! 会えて嬉しいぞ、妖夢殿!」 「…………」  ――めんどくせー。  おかっぱ頭の少女の横で、和装の少女が、まくし立てるように話し続けている。  山吹色の着物に、青緑色の着物を重ね、その上に白い狩衣を身につけた姿。頭に背の高い烏帽子を載せた少女が、横合いからひょこひょこと顔を覗かせて、つきまとってくる。  おかっぱ頭の少女は、先ほどからずっと、しかめっ面で無視を決め込み、早足で立ち去ろうとしている。にも関わらず、和装の少女は強引に歩調を合わせ、奇遇だ何だと延々喋り続けているのだ。  ただし、悪意があってやっているわけではないようである。こちらが露骨に不機嫌な表情をしているのに、和装の少女は、まったく気づいていないのだ。  ――察せよ!  そんな心境などつゆ知らず、和装の少女は満面の笑みをたたえている。心の底から嬉しそうなのだ。これならむしろ、悪意あるイタズラのほうが、武力をもって撃退するなり何なり、割り切って対応できるだけ、だいぶマシである。  ――非常に、面倒くさい。  まあとにかく、そんなわけで、おかっぱ頭の少女。  魂魄妖夢――コンパク・ヨウム。  彼女はある意味、異変よりも面倒くさい面倒ごとに、絶賛巻き込まれ中なのであった。 002  物部布都。  モノノベノフト、というのが、和装の少女の名であった。 「奇遇だな、本当に。妖夢殿に会えて、嬉しいなぁ」 「ああ、はいはい。奇遇奇遇。超奇遇ですね、うん」  根比べに負けた。  いや、向こうは根比べだとは思っていなかったのだろうが、いい加減、放っておくほうが鬱陶しいと感じ始めてきたので、妖夢は仕方なく、しつこい少女と会話をしてやることにしたのである。  ――まったく、面倒な奴に遭遇してしまった。  妖夢は眉間を指で押さえつつ、横目で隣の少女の顔を見た。  少女とは言うが、実際のところ、布都は少年と見間違われそうな外見をしている。灰色の長い髪を、可愛らしく頭の後ろで縛ってこそいるものの、平安時代の男性貴族のような姿が、可憐な少女らしい印象を上塗りしている。  そう考える妖夢自身、髪型や服装に差異はあれども、どこか戦国時代の小姓のような雰囲気をまとっているのだから、他人のことは言えない。自覚はあるし、実際に、男子と間違われた経験もある。そういう意味では、似た者同士かもな、と何となく思った。思ってから、こんな面倒くさい奴と似ているなんて不本意だ、と小さくかぶりを振る。  それにしても、妖夢の記憶が正しければ――物部布都は、飛鳥時代の人間であったはずである。  遠い昔の人間が、今なお、健在なのだ。  それはもう、ただの人間とは呼べない。  尸解仙。  一度死んだように見せかけて、後に復活する――シカイセンの術式を成功させるため、布都は長い間、太子様と慕う人物らと共に、神霊廟なる場所に眠り続けていたのである。  仏教を巡っての激しい宗教戦争が繰り広げられていた時代、彼女たちが、何を思って尸解仙になる道を選んだのか。  表向き、崇仏派に与していた彼女たちは、実は秘密裏に道教を信仰していた。自然と一体になり、不老不死を実現できるという教えである。それを知った彼女たちは、道教を権力者層のみに許されたものとすべく、仏教を利用して国を治め、自分たちは不老不死になろうと企てたのである。  激しい戦乱と、やがて仏教が支配するようになった世の中の裏側で、彼女たちは手探りのような研究を続けた。尸解仙の秘術を試みたのも、不老不死の研究の一環にすぎない。それすら成功が確約されていない、綱渡りのようなものであったに違いない。  だが少なくとも、その術式は成功し、今こうして、千四百年もの時が経過した世界に、彼女たちは生きている。不老不死の実現に至ったのかどうか、そこまでは妖夢の関知しないところではあったが――実現していようがいまいが、遥かな時を経て蘇った人間を、普通の人間と呼ぶことはできないだろう。  けれども――妖夢が気になったのは、その点ではない。  普通の人間とは呼べない。そんなことは、今さら目新しくも何ともないのだ。妖怪ではないにしても、妖怪じみた力を持っている人間を何人か知っているし、妖夢自身にしても、それは同じである。  だから、妖夢が気になっていたのは、 「奇遇なのは結構ですが……その服装は、どうも奇妙ですよね」  そういうことである。  初めて会った時から、疑問に思っていた。布都の服装は、彼女が生きていた時代とは、少しずれているのではあるまいか。 「ほう。我の衣が気になるか?」 「まあ……少し」 「うむ、よくぞ聞いてくれた。これはだな……何を隠そう、流行に合わせているのだ!」布都は腰に両手を当てて、得意げに胸を張った。「我らとて、いつまでも過去に縛られてはおれん。せっかく尸解仙の術が成功したのだ。新しい時代にも、すぐに適応できなくてはな! フフフ」  ――いや、それ流行ったの、千二百年以上前なんですけど。  これぞまさに、文字通りの時代遅れである。 「いや、何。おぬしの言いたいことは解る」半眼を向けた妖夢に、布都は慌てて弁解してきた。「確かに、今の時代からすれば、少ぅし昔の流行かもしれん」  ――いや、全然、少しじゃないです。  妖夢がいっそう怪訝な顔つきになったのにも構わず、布都は続ける。 「ただ、本来ならば、我々はもっと早く復活する手筈であったのだ。それが、だいぶ遅れてしまったものだからな。そういうわけで、まあ、恥ずかしい話ではあるのだが……ちょっとした意地のようなもので、元々復活する予定だった時代の格好をして、気を紛らわせているのだ」  太子様は、我よりもっと流行に敏感なのだがな、と布都は付け加えた。なるほどそういうことか、と妖夢はうなずく。  布都は本来、作為で広めた仏教に限界がくる頃に、国に新たな風を吹かせる聖人として、太子様と共に復活、降臨する予定であった。彼女たちの目算では、眠りについてから、そう遠くない時代に復活できるはずであったのだが――秘密裏に力を得ようとしたことのしっぺ返しか、政治的な道具として利用していたはずの仏教信仰が思いのほか根強く定着してしまい、目覚める機会を逃してしまったのである。力のある寺院や僧侶たちの存在が、彼女たちの計画を妨げ、長い間霊廟に閉じ込め続ける要因となった。  復活の機会が訪れたのは、ごく最近のことだ。幻想郷には、人々から忘れられたものが流れ着く。彼女たちの存在や霊廟もまた、時と共に人々から忘れられ、幻想郷に移動してきたのである。 「奇遇と言うならば、あなた方の境遇のほうが、よほど奇遇だと思いますね」  妖夢は冗談めかして言い、肩をすくめた。  幸いなことに、霊廟が移動してきた当時、幻想郷には正常に機能している寺院が一つも存在していなかった。布都たちは、期せずしていつでも復活できる環境を手に入れたわけである。  けれども、妖夢が奇遇だと言ったのは、そうした幸運のことではない。彼女が指摘したのは、むしろその後の不運のことだ。 「まさか、霊廟の真上に新しいお寺が建てられるなんてね。それこそ、奇遇なことです」  命蓮寺――ミョウレンジ。  妖夢の言う通り、幻想郷できた新しい寺が、ようやく巡ってきた復活の機会を妨げることになった。  しかしながら、ここまで来て、なおも封じられ続けるばかりでいることには、さすがに参ったのだろう。仏教との抗争もやむを得ない、むしろ復讐してやると言わんばかりに、布都たちが半ば強引に復活を果たしたのは、つい一ヶ月前のことだ。  それが、幻想郷に起きた神霊の異変。  神の霊。  人の欲や強い感情が、霊体として具現化した存在。  十の言葉を一度に聞き、十の願いを一度に叶えたという偉人の復活に乗じて、自身の欲を満たしてもらうため、数多くの神霊たちが幻想郷に姿を現した。そのため、必然的に『異変』という状況が生まれたのである。  つまり、その中心にいた人物こそが――布都の言うところの、『太子様』だったというわけである。 「さすがは高名な仙人だ。妖夢殿は、我々の事情もよく理解してくれているのだな!」 「いや……だから違うと言っているでしょうに」  否定する妖夢の心中に、罪悪感が募った。  彼女としては、権力に溺れて失敗した布都たちを馬鹿にして、奇遇だと言ったつもりなのだ。だから、褒められても困る。  ――気まずい。  向こうはまったく気にしていないのだろうが、そのせいで余計に心が痛む。いてもたってもいられなくなり、妖夢がもやもやとした思いを振り払おうと、話題を変えようとした、 「ところで――」  ところで。 「ああ。我、もうだめだ……」  どういうわけか、布都はへなへなと、唐突にくずおれてしまった。  ……えー。 「ど、どうしたんですか急に?」  妖夢は歩みを止めて、振り返った。布都は服が汚れてしまうことにも気を配れないらしく、抜け殻のような表情で、地面にへたり込んでしまっている。 「どこか悪いんですか?」  いかに面倒な相手といえども、一応、目の前で具合が悪そうにしていたら心配である。しかしながら、妖夢の質問に最初に答えたのは、  ……ぐー。  という、腹の虫の声だった。 「お腹が空いて力が出ない……」 「えー……」  大げさだ、と妖夢は呆れかけた。さっきまで元気に話していたくせに、急に歩けなくなるほどのことだろうか。 「そういえば……我、もう長いこと、何も食べていなかった……」 「長いことって……どれくらいですか?」 「千四百年くらい」 「空腹のスケールが違う!」  復活したんだから何か食べろよ! 「いや、それは冗談なのだが……しかし、もう長いこと、この辺りをさまよっているのだ」 「ここ、そんなに迷うような場所ですかね?」  迷いの竹林ならともかく。  一本道の、ただの林道だ。 「いやはや、何分、復活したばかりで土地勘がなくてな……」 「だから一本道ですって」 「我の覚えている限りでは、陽が沈むところを、もう四度見ている」 「四日間も!?」  やっぱりスケールが違った。  迷うにしても、いったん諦めて帰れよ!  ……いや、帰り道すら解らなかったのか。 「尸解仙の我でも、さすがに力が出なくなってきた……。せっかく復活できたというのに……このままでは、死んでしまう……」 「すっごく元気に喋ってたじゃん!」  ずっと早足でついてきてたし。  数秒前まで言葉を交わしていたのに、張り詰めた糸が切れたように眠ってしまう人、というのならばまだ解るが。それと同じように、空腹の波に襲われる人というのは初めて聞いたし、見た。  ずっとお腹を空かせているような人なら、よく知っているのだけれど。 「うう……空腹だと考えたら、何だか頭がくらくらしてきたぞ」  まさか、へたり込んでしまうまでずっと、お腹が空いていることを忘れていたのか。  ――重度の鳥頭か。  確かに、烏帽子という言葉には、カラスの文字が使われているけれども。  さて、どうしたものか、と妖夢は思案する。  自分の用事もあるし、このまま放っておいても、別に構わないのだが。 「うーん……」  まったく、面倒なことこの上ない。  これだから――面倒ごとは、嫌いなのだ。 003  魂魄妖夢は仙人ではない。  とはいえ、常人が持ち得ない不思議な特徴が、彼女にはあった。  妖夢は――半分、死んでいるのだ。  半人半霊。  魂の半分が霊と化しており、肉体の周囲に漂っている。特殊な家系の出身であるため、生まれた時からこうなのである。  肉体的には普通の人間とさして変わらないのだが、半分死んでいるという性質を持っているがゆえに、死後に行き着く世界の一つ――冥界において、その管理者たる令嬢のお屋敷に住み、先代より受け継いだ従者としての任をまっとうしているのである。  ともかく、そういうわけなので、少なくとも、妖夢は仙人ではないのだ。  それなのに―― 「フフフ……ありがたや、ありがたや! 我にご飯くれるとは、さすがは高名な仙人様だ!」  仙人でもないのに、飯をおごることになっている。 「……いや、ご飯くれることは、別に仙人様の長所じゃないですけど」  それを言うならば、そもそもご飯をくれたのは、この店のご主人なり店員さんなりである。そして少なくとも、彼らは人里の一角で飯屋を営むごくごく普通の人間であることには違いなく、決して仙人などではない。 「なるほど! では、そういう謙虚なところこそが妖夢殿の長所なのだな!」 「このヨイショ上手が!」  変な褒め方をするな。  嬉しくなくは、ないけれど。  ……というか、謙虚だと思ってくれたのなら、その謙虚さを是非とも見習ってほしいものである。  布都はどんぶりを持ち上げては、出来たての天丼をがつがつと美味そうに掻き込んでいる。その気持ちがいいほどの食べっぷりを、先ほどから店のご主人が感心したように見ているのだが、妖夢の目には、どうにも遠慮を知らぬ娘のように映って仕方がない。  ――一応、感謝はされているようだけれど。  まあ、それならいいか、と釈然としない思いにひとまずの決着をつけたところで、妖夢も自分の食事に手をつけようと箸を取った。  店主のおすすめと書いてあったので、妖夢は布都の分と一緒に、迷わず天丼を注文した。  香ばしい匂いが食欲をそそる。白飯が見えないほどに具が多く、特に海老が大きくて嬉しい。他の店であれば大盛りサイズとして扱われていてもおかしくはない、ただでさえ大きなどんぶりから、悠々とはみ出るほどに巨大な海老天である。店のご主人いわく、食材はすべて外界の海水を引いている有名な塩湖の漁獲物で、今朝仕入れたばかりのものを使っているのだそうだ。  ボリュームの割に、値段も良心的で素晴らしい。初めて来たが、いい店だ。これからは人里に来たら、ここでご飯を食べることにしよう、と妖夢は密かに心のメモ帳に書き留める。  この店に入店した理由は、人里に着いて最初に目についたからという、至極単純なことだった。早く飯を与えなければ、背負ってきた布都が「死んでしまう」と言ってうるさく、店を選んでいる余裕がなかったのである。  そんな失礼極まりない理由で申し訳なかったが、ご主人は日本刀を背負った少女が入店してきたというのに、物怖じするどころか、何ら気兼ねすることなく、明るく接してくれた。そんな心の温まるような豪胆さが、料理にも表れているように思う。  こんな逸品を食べられるなんて、私は何て幸せ者だろう――そんな大げさなことまで考えながら、妖夢はどんぶりに手をかけた。 「妖夢殿」  と。  いいところで、図々しい声が割り込んでくる。  妖夢は不満をあらわにしつつ、顔を上げた。 「……何ですか」 「妖夢殿に、折り入って頼みがあるのだ」  すると布都は、思いのほか真剣な顔つきで、そう言った。飯をおごらせておいて、この上頼みごととは何様だ、とは思ったが、無遠慮な少女には似合わぬ深刻な表情に、厳しい言葉を投げつけるのも気が引ける。 「何です?」  妖夢は改まって、問いかける。布都と知り合ってまだ間もないとはいえ、これほどまでに思い詰めたような顔は、未だかつて見たことがない。  ひょっとして、あの林道で迷っていたことと、何か関係があるのだろうか。例えば、太子様と呼び慕う人の指示を受けて、何か重大な任務の途中であったとか。それを遂行するために、どうしても協力が必要だとか、そういった頼みごとなのだろうか。  妖夢が考えを巡らせていると、布都は重々しく口を開いた。 「我とて、かような申し出はしたくはなかった。だが、致し方あるまい……今は危急存亡のときだ。おぬしには、つらい思いをさせてしまうかもしれんのだが……聞いてくれ」  一体この少女は、どれほど重大な使命を背負っているのだろうか。布都の鬼気迫る表情に気おされ、妖夢はかたずを飲み下すのと同時に、ゆっくりと、うなずいて応えた。  そして――物部布都は、願い出る。 「我に海老天をくれ」 「やだよ!!」  そんなことで思い詰めるな。  あげないけど。  絶対にやらん。 「えー」  上目遣いで、人差し指を口元に当てる布都。  そんな可愛い感じで視線攻撃したって絶対にだめ。 「あげません」 「ちょっとだけ! 半分! 半分だけ!」 「嫌です。遠慮した感じで言ってますけど、半分ってかなり多いですよね」 「ぬううん、なれば強奪するのみ!!」  とりゃあ、と身を乗り出してきた布都に対し、妖夢は無表情でどんぶりを持ち上げ、自分の頭の横に逃がした。 「ああっ!」 「……ふむ」  盗られる前に食べるが吉、妖夢は嘆いている布都の目の前で、ひょいと海老天を食いちぎってしまう。 「うわあああああああああ!! 我の海老天が……」 「私のだよ!!」 「妖夢殿なんかに食われて海老天が可哀そう……」 「お前も丼の具にしてやろうか!?」  なんかとは何だ。  尊敬してるんだかしてないんだかはっきりしろ、と妖夢は溜息を吐いた。そういえば、高名な仙人だとか慕っている風でありながら、べつだん敬語で話してくるわけでもない。わざとやっているようではないから、どうにも抜けているとしか思えない。  妖夢にも抜けているところはある――神霊異変が解決した時も、それに乗じたお祭りごとと勘違いして寺に遊びに行ったら、狸の妖怪と戦う羽目になった――から、他人のことは言えないのだが、それにしたって、布都のそれは度が過ぎていると思う。  尸解仙の術は成功こそしたものの、術の副作用か、あるいは長い間眠っていたせいなのか、肉体はなぜか以前よりも若くなり、記憶もだいぶ抜け落ちているらしいと聞く。どうにも頭のネジが外れたような言動が多く、アホの子にしか見えないのも、その辺りに起因していることなのだろうか。少なくとも、今の布都は、かつて政治的な策謀に長じ、権力者たちの間で暗躍していた人物とは到底思えない。  しかし、彼女が太子様と呼ぶ人は、比較的まともな人物だったはずだ。……いや、必ずしも、そうとは言い切れない。そういえば、あの人にも仙人と間違われたままだし、尸解仙というやつは、大概こんな感じなのだろうか―― 「まあ、そんなことはどうでもいいんですけど」  妖夢はかぶりを振って、話を変えることにした。  布都が林道で迷っていた理由は何か、ということについてである。 004 「そうだ! 我は古道具屋を探しておったのだ!」 「古道具屋、ですか?」  反射的に問い返したが、妖夢には心当たりがあった。胡散臭い店主が、胡散臭い品物をごちゃごちゃと並べている――並べているだけであって、決してそのすべてが売り物であるというわけではない――あの辛気臭い店のことだろう。  あんな色々あるようで何にもないような寂れた店に、復活したばかりの尸解仙が、一体いかなる用事があるというのだろう。 「それがな……」布都は今度こそ、真剣な顔つきで語り始めた。「太子様が尸解仙の術式に用いた道具がな、見つからんのだ」 「道具?」  天丼をつつきながら、妖夢は首をかしげた。布都はすでに自分のどんぶりの中身を平らげてしまっていたが、白身魚やイカの天ぷらにはあまり興味がないらしく、もう襲ってくることもなさそうだ。 「尸解仙になるためには、眠る直前の段階で、自分の肉体の属性を別の物品に移しておく必要があるのだ」そうすることで、肉体を腐らせることなく、長い眠りにつくことができるのだという。「道具というのは、つまり、その肉体を宿していた物品のことだ。太子様は復活してすぐに、その道具が身辺にないことに気がついたのだ」  いわく、復活した当時は多くの神霊たちが集まっていたから、その混乱に紛れる形で紛失してしまったのではないか、と考えているらしい。 「なるほど。その術式に用いた道具というのが、何か大切なものであったわけですね?」 「うむ、その通りだ。……だが、これがなかなか見つからない」布都は溜息を吐きつつ、かぶりを振った。「どうやら霊廟の中にはないらしいということで、外まで手を広げることになったのだ。そうして探している途中で、我は魔法の森というところの外れに、古道具屋があると聞き知った。ひょっとしたら、誰かが拾っていて、そこに売られてしまっているのではないか、ということでな」 「普通、そういう発想には至らないと思うんですが」 「いやいや、我も自分で思いついたわけではない。通りすがりの鼠に聞いたのだ。親切な娘であったぞ」 「…………」  妖夢は苦い顔をしかけて、何とかこらえた。  その鼠というのは、おそらく命蓮寺に従事している妖怪であって、つまるところ、あなた方が敵視している仏教勢力の一員だ――と、最近の幻想郷事情を知る妖夢は思ったが、ここで「あやつめ騙しおったな」とか何とか騒がれても面倒なので、あえて口にはしないことにした。  それに、あの古道具屋には色々な物品が集まる、ということも確かなので、鼠の助言もあながち的外れとは言い難い。 「そういうわけで、店の場所を探しておったのだが……如何せん、先にも言ったことだが、復活して間もない我には、この辺りの土地勘がない。恥ずかしながら、道に迷ってしまってな」 「うーん……」  しかし、あんな一本道で迷子になるなんて、普通はあり得ない。もはや、そういう才能があるのではと疑いたくなってしまう。 「そこで偶然、おぬしに会ったというわけだよ」布都はどういうわけか、得意げに胸を張りつつ言った。 「フフフ。困っている時に高名な仙人様に出会えるとは、実に素晴らしい偶然だ。奇遇とは言ったが、もはや必然と言ってもよかろう! 復活した時にも祝福しに来てくれたのだし、我を導いてくれるのは、いつだって妖夢殿だよ!」 「別に導きたくないです」  ――なぜ、道案内する前提で話が進んでいるのか。  妖夢は釈然としない。  そもそも、祝福などしたつもりはない。あの時は、神霊の異常発生という異変の性質上、冥界に従事している身分として、関わらざるを得なかっただけだ。それを勝手に、祝福に来たと勘違いされただけなのである。 「そう言わず! どうか、案内してくれ!」 「嫌ですよ。何で私が」 「頼む、妖夢殿! そのイカ天は盗らないから!」 「私にとってのプラス要素ないじゃん!?」  盗るつもりだったのかよ。  人里まで運んできて飯までおごってやったというのに、この上何かを期待するなんて、図々しいこと極まりない。海老どころか、餌のついていない針で、鯛を釣ろうとしているようなものだ。 「ううー……」  上目遣いで、人差し指を口元に当てる布都。  さっきと同じか。  だから、そんな可愛い感じで視線攻撃したって、絶対に――  あ。  泣いてる……。 「うぐ……我はどうして、こうもだめなのだ……。太子様のお役に立ちたいと、頑張っているのに……空回りばかりだ。そんなだから、妖夢殿にもお願いを断られて……我は何て愚か者なのだ……うう」  ぽろぽろと涙をこぼしながら、自省する布都。  頑なに拒もうと決めていた妖夢も、その姿を見て、さすがに心が揺らいだ。  昔はどうだったか知らないが――幻想郷という新天地で復活した今の布都が、右も左も解らない、か弱い少女であることには違いない。  そもそも、あの林道から古道具屋のある場所までは、それなりに距離があったはずだ。さまようにしても、まったく見当違いの場所で迷子になっていたわけである。一本道で迷う理由は不明だが、土地勘がないことは事実であろうし、見当違いの場所に迷い込んでしまうことについては、仕方のないことだと言えよう。  放っておくと、また迷子になって、空腹で死んでしまうかもしれない。そうでなくとも、迷っているうちに、悪い妖怪や暴漢に襲われてしまう危険性もある。道士として、それなりに力はあるようだが、だからといって、そういうことを教えてやろうともせずに、泣いている少女を放置するのは忍びない。 「ああ、もう!」妖夢は意を決して、卓上を軽く叩いた。「解りましたよ! 案内しますから!」 「えっ……」すると布都は、恐る恐る、涙目の顔を上げる。「本当か?」 「ええ。本当です」  言ってから、妖夢は深い溜息を吐いた。  ――私も、丸くなったものだ。  泣かれただけで、折れるとは。  以前は、自身が仕える主人を守ることに必死で、今よりずっととげとげしく、辻斬りとか呼ばれていた頃もあった。本当に無差別に人斬りを繰り返していたわけではないのだが、とにかく排他的で、周りのものが見えていなかったから、多くの人々から恐れられていたのだろう。  その頃の妖夢だったら、目の前で泣かれようとも、構わず断っただろう。  鬱陶しさのあまり、二本の刀をもってして、断っていたかもしれない。  そこまでいくと、自虐的すぎる想像なのかもしれないが――以前の妖夢は、もっと図々しかったし、周囲に迷惑をかけっぱなしだった。  そう――布都と、同じだ。  だからこそ。  図々しく、他人に迷惑をかけているからといって、それが悪いことだとは、妖夢には断言できない。  少なくとも、主従関係とは違うのかもしれないが、大事に思う人のために必死に努力する姿勢は、かつての自分と同じではないか。  それに限らずとも、これまで布都に対して、自分と似ている、自分と同じ、と思った点がいくつもあったのではなかったか。  だとすれば、布都もまた、自分と同じように成長するはずだ。  今はまだ、釣りの方法を知らないだけで。  鯛釣りの餌に、海老を用いることも知らなかった、かつての自分と同じなのだ。  ならば、少しずつ、教えてやればよい。  多大な迷惑をかけてきたにもかかわらず、ずっと付き合ってくれている人々のように――今は、餌のない針に、まんまと食いついてやろうではないか。 「本当に、本当か?」  狩衣の袖で涙をぬぐいながら、布都は同じ質問を繰り返してくる。 「面倒くさい人ですね、まったく」  これだから、面倒ごとは嫌いなのである。 「覚えておいて下さい。私が本当だと断言したのなら、それは紛れもなく本当なんですよ」  妖夢は人差し指を立てて言うと、片目を閉じて、にっこりと笑みを浮かべてみせた。  それを見た布都は、おお、そうか、と嬉しそうにうなずく。その顔には、もうすっかり、涙はない。  彼女はもう、途方に暮れて泣いている、迷子ではなかった。 「さすがだな、妖夢殿!」布都は満面の笑みを浮かべて、身を乗り出す。「では、イカ天はもらうぞ!」 「なぜそうなる」  妖夢は落ち着いた所作でどんぶりを持ち上げ、避難させる。それから、えー、と物欲しそうに見ている布都に、べえ、と小さく舌を出してやった。  海老踊れども川を出でず。  川を出られない者がいるのなら、外の世界を、親切に案内してやる者がいてもよかろう。  そんなことをぼんやりと考えながら、妖夢は何気ない風に、口を開いた。 「私の用事が済んだら、ご案内しましょう。迷いを断ち切るのは、一応、得意分野ですから」  余計なことを言ったかな、と妖夢は直後に思い、恥ずかしくなった。  ともあれ――当面は、おつかいのほうが先だ。  そういえば、冥界のお屋敷で待ちわびているであろうかの令嬢には、新鮮な海老が食べたいと言われていたのだ。丁度いい、後でこの店のご主人に、仕入れ先を詳しく尋ねておこう。  そう考えてから、私の面倒くささも大概だな、と妖夢は面白半分に思うのであった。
運び屋鈴仙①
運び屋鈴仙① 不死の薬 (これは一大事だ……)  飴色の薬瓶を片手に、鈴仙は頭を抱えていた。  こんなはずではなかった。難しいことは考えずに、薬瓶を一つ、然るべき場所へ届ける。何のことはない。ただそれだけの、簡単な仕事のはずだった。  けれども、そういうわけにもいかなくなった。鈴仙は大いに困惑し、ただちに師を呼び戻して、どうしてこんな物を運ばせるのかと抗議したい気持ちにさえなった。  その日、鈴仙の『お師匠様』は、邸を留守にしていた。  鈴仙・優曇華院・イナバは雄鶏が鳴くよりも早くに目を覚まし、枕元から兎耳の頭飾りを手探りで引っ掴むと、もぞもぞと芋虫のように布団から抜け出した。あと半刻ばかり眠っていたかったけれど、炊事、洗濯、掃除その他諸々、家政婦じみた日課が山のように待っている。それに、やるべきことは家事だけではない。師から言いつけられている、重要な職務があるのだ。鈴仙は洗面所に立つと、寝起きでとろんとした顔に冷たい水をぶっかけ、いつも以上にしゃっきりと気を引き締めた。  そういう動きだけ見ると、何か歴史を揺るがしかねないような、極めて特別な事業に臨む人のようだった。だが重要な職務といっても、家事全般と同様、鈴仙にとっては日常的にこなしている業務の一つには変わりない。  師が始めた薬屋稼業の一環として、怪我や病気の治療薬を、必要としている者たちに配り回る。運び屋の立ち振る舞いがすっかり板についてしまったのは、いつのことからだったろう。  そういうわけで、なすべきことは普段と何ら変わりなかったのだが、それでも鈴仙は、いつにも増して身が引き締まる思いだった。その胸中には、いつもと違った緊張と高揚とが、確かにあった。  邸の主は大抵ぐうたら怠けているし、最も頼りにされている賢人たる師は不在。そのために鈴仙は、今日この家を担うのは自分なのだという、いささか仰々しいまでの責任と名誉を感じていたのだ。 「失礼します」  誰もいないと知りつつ、丁重に断りを入れ、襖を開ける。途端に、つんと鼻をつく感覚があった。部屋に立ち込める薬品のにおいが、白いもやになって漂い、ぼんやりと目に見えるようだ。師の自室には、いつも独特な空気が漂っていた。  立ち並ぶ書棚と薬品棚の間を通って、奥の机に歩み寄る。焦げ茶色の机は、真新しくもないが、年季を感じさせることもない。机上にある物はことごとく綺麗に整頓されていたが、ただ一つ、小さな薬瓶だけがひどく浮いた様子で、ぽつりと真ん中に置かれていた。 (これか)  昨晩、邸を出る前に、師から指示された配達物だ。ひとまず手に取り、眺めてみる。飴色の瓶の内容物は、少し傾けると、緩やかに流動した。どうやら、粘度の高い液体であるらしい。  薬の観察も程々に、机の脇から四角い肩掛け鞄を取ると、革のベルトにひょいと頭をくぐらせた。朝食の仕込みは、すでに済ませてある。まだ他の者たちが起きてくる気配はないし、今日の配達物は一つだけなので、朝食の支度などは帰ってから改めてすることにして、このまま配達の仕事に出てしまうつもりだった。  届け先は、寺子屋の教師。鈴仙の師とは、五十年来の知己である。鈴仙自身もよく知る女性で、当人は病気も怪我も滅多にしない人であったが、子供たちのために薬の処方を依頼してくることの多いお得意さんである。  人里には、配達の有無に関わらずよく顔を出しているので、相手方の家の所在はよく解っている。こうして朝早くに出ようとしているのも、寺子屋ではなく、自宅に届けるつもりで、 (今から出れば、まだ出勤前の、目の覚めている頃合いには渡せるだろう)  などと頭の中で時間の計算をしつつ、鈴仙は鞄の表側についている、愛嬌のあるニンジン型の留め具を外した。  そうして、薬瓶を鞄の中へ仕舞おうとした時に、ふと気がついた。瓶の側面、自分の握る手で隠れてしまっていたほうに、ラベルが貼りつけられている。  そういえば、届け先についてはよく聞いているが、薬の名前や用途を聞いていない。これでは、薬を渡す時に用法の説明もできない。その辺り、事前に話はつけてあるのだろうか。  疑問と不安を抱きつつも、一応、ラベルくらいは見ておくことにした。簡素な白い紙に、ミミズがのたうち回ったような、お世辞にも綺麗とは言えない文字がでかでかと記されている。  鈴仙は思わず顔をしかめた。 (さては、書き忘れていたな)  そういえば、昨晩、お師匠様が出がけにドタバタしていたのを思い出す。  百年に一度、子の刻にしか咲かない夜香木の花が新薬の材料になるとかで、本来ならば余裕を持って邸を発たなければならなかった。にもかかわらず、出発のぎりぎりまで趣味にかまけていたせいで、てんやわんやの大騒ぎになってしまったのである。そうしてあたふたしている最中に、白紙のラベルのことを思い出し、慌ててこの字を走り書きしたに違いない。  鈴仙は呆れつつも、両目を糸のようにすがめて、どうにか解読を試みた。薬の名が記されているらしいことと、文字の種類が片仮名であるらしいことは、すぐに解った。 「うーん……」  師が書いたのには違いない。けれども、普段の機械が記すように美麗な字体は、見る影もなかった。鈴仙の細い眉毛も、自然と八の字になってしまう。  とはいえ、鼻先がくっつくほどに瓶を近づけてみたり、右へ左へ首を傾けてみたりするうち、文字の正体が何とはなしに掴めてきた。やがて確信を得ると、ぱあっと目を輝かせて、 「解った。『フシノクスリ』だ!」  謎掛けの上手な解でも思いついたかのように、嬉しげに声を漏らした。  そんな調子だったから、自分が口にした言葉の重大さを悟るのに、少々の間が要った。 「『不死の薬』ですって!?」  今度は目を丸くして、薬瓶を凝視する。そんなことが書いてあるはずがない、どこか読み違えたのではないか、と疑ったのだ。  だが、何度読み返してみても、結果は同じだった。ぐにゃぐにゃの文字ではあったが、間違いない。フ、シ、ノ、ク、ス、リ、と発音するほかない六文字が、ラベルの上に確かに記されている。  穏やかでない響きだった。鈴仙はただちに連想する。不老不死の薬、禁断の秘薬。それを生み出す行為は、死に処せられるほどの大罪に値する。生み出そうとする思想を抱くことさえ、厳罰をもってその報いとされるほどの、禁薬。 「何てこと……」  鈴仙は頭を抱えた。不老不死の秘薬といえば、師が遠い故郷から離別し、今のように辺境の地に暮らすことになった原因でもある。  師の指示に背くことになるが、そんな危険な代物を、そう易々と部外者の手に渡せるわけがない。それどころか、こんな物には関わりたいとさえ思わない。できるならば、間違ってもこの薬瓶に触れることのないよう、今朝の動きを起床するところからやり直したい気持ちであった。 (この場で師匠の帰りを待って、詰問してやろうか)  そんな考えすら浮かぶ一方、師を裏切れない気持ちもあった。  少なくとも、身勝手に禁薬を作ってしまうような人ではない。こんな物を用意したからには、何か深い事情があるに違いなく、それを黙って受け入れるのも自分の務めなのではないか。邸に住まわせてもらっていることも然り、師には多大な恩があるため、どうにも割り切ることができない。 (どうしよう)  いっとき、鞄の留め具に手が伸びるが、震える指先はすぐに縮こまる。そういうことを何度も繰り返した。もうとっくに慣れたはずの薬品のにおいが、どうにもできない自分の心を苛むようで嫌だった。  それでも、一歩たりとも動くことはできなかった。鼻をつく臭気の中、鈴仙はまるでそういう形に彫られた石像のように、しばらく頭を抱え続けた。      *** 「頼もう!」  さんざ迷った挙げ句、そういう口上になった。  鈴仙は、素朴な庵の前に立っていた。竹林の奥地にひっそりとたたずむ、ほとんど廃屋のような古い建物だ。  無論これは、寺子屋の教師の家ではない。そもそも、獣も住みつかぬような煩雑な竹林の深奥に、まともに生活している人の家などあるはずもない。  一たび立ち入ればたちまちに迷い、二度と帰れぬということで、人を喰らうとも言われる竹林。そんな場所にあるのは、鈴仙を含む隠者たる薬屋一味の邸と、酔狂なはぐれ者が暮らしている、このちっぽけな庵くらいのものだった。  やがて鈴仙の声を聞きつけ、がらっと戸が開いた。 「何だ……騒がしいな」  戸の隙間から現れたのは、両目の下にくっきりと隈を浮かべた、ひどく眠たげな女の顔だった。庵の主は、覗き見るようにして軒先に立つ鈴仙の姿を認めると、しばし意外そうな顔をしたのち、不満げに声を漏らした。 「こんな時間に、何の用だよ」  やがて女は、真っ白な長い髪を引きずって、気だるげな所作で表へ出てきた。鈴仙が驚いたことに、この女、幽霊のように白い寝間着を身につけている。暮らしぶりはたいそう粗雑であるくせに、一応、寝る時にきちんと着替える程度には人間らしい習慣があるようだ。  藤原妹紅。鈴仙が禁薬の配達をためらい、悩み抜いた末に頼ることにしたのが、この不良女の住むところだった。  寝不足なのは、早朝に訪ねたせいだ。その点を除けば、ちょっと気を抜くと女の鈴仙でさえドキリとしてしまうほどに、血色のいい美人である。  しばし眠い目をこすっていた妹紅だが、途中で何かに気づいたようで、はたと顔を上げた。 「ああ、待て。お前、それ以上近づくな」 「……?」  いきなり何だ、と鈴仙が首を傾げる。妹紅は警戒心を剥き出しにして、無遠慮に人差し指を向けてきた。 「お前の頭の中に、爆弾が仕掛けられている。私が触れると、爆発するんだ。きっと、そういう作戦だ」 「……何を言ってるんですか」 「とぼけるんじゃあない。こんな朝早くに来て、不意討ちか。どうせ、腐れ姫様の差し金だろう」 「違いますよ」 「違わないな。自覚がないだけさ。本当のお前はもう死んでいて、今は私を殺すために改造された、人間ロボットなんだ」 「いやいや。私、元から人間ではありませんし」  鈴仙・優曇華院・イナバは、正真正銘、兎の妖怪である。頭の耳飾りこそ作り物だが、兎が妖怪に変化した者、という生い立ちであることには間違いない。ましてや、ロボットなどであるはずがない。 (やっぱり、面倒なことになったな)  思わず溜息が漏れるが、他にあてがなかったのだから仕方がない。妹紅はこんなところに住んでいるくせに、件の寺子屋の教師と最も懇意な間柄であるため、彼女が薬を欲していることについて何か聞けるのではないかと思ったのだ。  とはいえ妹紅には、鈴仙の住まう邸とも浅からぬ因縁がある。『腐れ姫様』などとけなして呼ぶように、邸の主にして、鈴仙の師が仕えている相手、その高貴な人物との因縁だ。  しかもその因縁というのが、決して比喩ではなく殺し合いをするほどに険悪な間柄ときている。ほとんど小間使いにすぎぬ鈴仙自身に敵意はないにせよ、薬屋一味の一員であることは確かであったから、妹紅とはどういう態度で接するべきか未だに計りかねている節があった。  そういう立場だったから、妹紅を呼び出す時も、上手い口上が思いつかず、つい道場破りのような挨拶になってしまったのだ。そして案の定、鈴仙が持ちかけようとしていた相談ごとは、話が始まる前に早速こじれてしまった。  とはいえ、鈴仙が携えてきたのは、妹紅自身にとっても深い意味を持つ話題である。出会い頭のいざこざは半ば予想していたことであったが、この薬のことを話せば、ただちに居直って耳を傾けてくるはずだという確信もあった。  だから、妹紅の難癖につき合うのは早々にやめて、単刀直入に切り出すことにした。 「『不死の薬』を、上白沢慧音が欲しています」  途端に、妹紅の目が鋭くなる。 「……何だと?」  思った通り、食いついた。  相手の熱が冷めぬうちに、おもむろに鞄を持ち上げ、飴色の瓶を取り出した。すると妹紅の顔に、驚愕と不安のない交ぜになった、燃えるように激しい感情の色が浮かび上がった。ラベルの文字が読めたかどうかは解らないが、薬の実物を提示されたことと、鈴仙のくそ真面目な眼差しから、ただごとではないということを察してくれたのだろう。  あれから、色々考えた。お師匠様は、一体なぜ、こんな薬を届けろと指示したのだろうか。そもそも、一体全体、どういう意図で、禁薬を生み出したりなどしたのだろうか。  頑張って思考を巡らし、やがて思い至ったのが、師は何らかの弱みを握られていて、強引に禁薬を作らされた、という説だった。今になって思えば、配達物についての説明がなかったのも、周囲の者に口を割らぬよう脅迫されていて、上手く身動きが取れなかったせいなのかもしれない。  だが、そういうことならば、わざわざ慌てて薬の名を記す理由がない。ふとした思いつきも、必ず矛盾にぶち当たり、確信を得るには至らない。なぜ。どうして。状況は依然、解らないことだらけだ。  だから、ここへ来たのだ。藤原妹紅ならば、何か解るかもしれない。薬を欲している人物と親しい、この女ならば。かつて禁断の秘薬を飲み下し、不老不死の肉体を得た、この女ならば。  家の中へ招かれ、小さな囲炉裏を挟んで座った。最初に目についたのは、部屋の隅に敷かれている、くしゃくしゃになった布団だった。考えごとに耽っていたせいで気を遣うことを忘れていた鈴仙は、ここでやっと申し訳ない気持ちになった。  非礼について一言詫びを入れたのち、改めて、事のいきさつを説明した。師の不在。不死の薬。そして、その届け先。一通り話し終えると、妹紅は神妙に頷いた。 「話は解った」  渋柿のような表情から、苦々しい心境が容易に見て取れた。妹紅にとっても、もはや他人事ではない。 「お師匠様は、どういうおつもりなのでしょうか」  不安げに尋ねると、 「いや、違うな」  きっぱりと、妹紅は言った。 「私も、お前の師のことはよく知っている。不用意に、禁薬に手を出すような真似はしない。変わった女だが、そういう奴だってことくらい、解るさ」  その言葉は、鈴仙の胸に沁み入った。妹紅は何よりもまず、師のことをかばってくれたのだ。  人里に馴染めないはぐれ者のくせに、不思議なくらいさっぱりしていて、誰かを思いやる心も強い。こういう竹を割ったような性格が、鈴仙は好きだった。だからこそ、目上の人がそうだからと邸の主人にならって、妹紅に敵意を向けるような真似ができなかったのだ。  鈴仙の師は、遠い昔に禁薬を服用して以来、ずっと不老不死の身である。経緯は違えども、妹紅の境遇も同じだ。だからこそ、理解できることもあるのかもしれない。  一度犯した過ちだからこそ、二度と手を出すはずがない。そう信じる気持ちは、鈴仙も同じだった。  では、この薬は一体、誰の意思で生み出されたのだろう。  心中で自問したが、実のところ、それは考えるまでもないことだった。師の意思ではないとすれば、この薬に関わっている人物は、他に一人しかいない。 「慧音だ」  鋭い眼光とともに、妹紅が言った。解りきった答えであったはずなのに、それを聞いた途端、背筋に怖気が走った。そんな、という驚愕の言葉さえ、声にはならなかった。  上白沢慧音。寺子屋の教師。竹林に暮らすはぐれ者の、一番の親友。  妹紅は、かけがえのない友人を疑っているのだ。そうすることができる勇気と、そうしなければならない悲しさを思い、鈴仙の身は震えた。 「しかし……解りません。あれほどまでに勤勉な方が、なぜ禁薬を欲するのですか」  鈴仙の知る慧音は、私利私欲のままに不老不死の肉体を求める愚者ではなかった。むしろ、その対極に位置するような、教師という職業がこれ以上ないくらい似つかわしい、本当によくできた人物である。 「勤勉だからこそ、だろう」  答えの見えない疑問に対し、妹紅の返答は至って簡潔だった。 「慧音は普通の人間じゃあない。私が言うのも妙な話だが、あいつの容姿は、もう五十年以上、若い頃のままだ」  そのことは、鈴仙もよく知っていた。慧音は元々人間であったが、強大な妖怪の血を受け入れて、半人半妖の身となったのだ。 「だけど、あいつは不老不死ってわけでもない」  吹けば飛ぶような人間の命に比べれば、種族ごとに個体差はあれ、妖怪の生きる時間はずっと長い。とはいえ、いつかは終わる命である。人間も妖怪も、それは同じだった。 「だから、望んでいるのかもしれない。里を永遠に見守ることのできる力を」  半分だけ閉じられた妹紅の目に、ぼんやりと淡い光が宿る。その光の意味するところが解らず、鈴仙はきょとんとして首を傾げた。 「見守る?」 「ああ。勿論、見ているだけじゃない。守るんだ。慧音が望むとすれば、きっとそういうことさ」  その口ぶりが、どこか自嘲するようだったので、やっと気がついた。 (この人は、寂しいのだ)  親友が、禁忌に手を染めようとしている。そのことに対する怒りや悲しみさえ、建前にすぎない。本当の心情は、もっと別のことに対する寂しさに溢れていたのだ。 「行こう」  妹紅はおもむろに立ち上がり、短く言った。  どこへ行くのか。そんなことは、聞くまでもなかった。鈴仙はただ、こくんと頷いて、友を思う実直な女に従った。      ***  慧音を説得し、諦めてもらうことにした。  有無を言わさず薬瓶を叩き割ることもできたが、それでは妹紅が納得しない。相手の本心は聞いてみなければ解らないし、親友だからこそ、一方的な断罪はせず、きちんと話し合うべきだと鈴仙も強く思った。  慧音の自宅は、昔ながらの質朴な邸だった。妹紅の庵よりは大きいが、それも一切の装飾もなしに、ただ単に大きくしただけのようで、他に目立った差異はない。  まだ日の光もおぼろげなこの時間、鳥のさえずりくらいしか聞こえないが、この辺りは様々な商店や食事処が軒を連ね、昼になれば人々の声で賑わう里の中心部だった。目の前にたたずむ邸は、そういうところに建つ家にしては、どうにも控えめすぎて堅苦しい。いかにも主の性格が滲み出ている。  向かいの家では、八百屋の店主が箒を持って忙しくしていた。通り掛かった時、気さくに声をかけられたので、鈴仙はぎこちなく会釈をした。顔なじみだが、今は緊張感ばかりが先立って、にこやかに話ができる気分ではない。  申し訳なく思いつつ、邸の前に立った。どうにも落ち着かないので、気を静めようと、深い溜息を吐き出す。そうしてから、おもむろに隣へ顔を向けた。  そして、仰天した。  鈴仙の隣には、妹紅が立っている。出がけに着替えてきたため、白の長袖シャツに赤いもんぺ、御札のような髪飾りをたくさん結んだ姿である。奇抜な格好だが、それが彼女の普段着だった。鈴仙も、幽霊のような寝間着よりも、むしろこちらの姿のほうが見慣れている。だから、それはいい。  驚いたのは、妹紅の行動だった。何を思ったか、すうっと胸いっぱいに空気を吸い込んで、ぐっと身を反らし、まさに爆発せんとしているところだったのである。  慌てて止めようとするが、もう遅い。 「おい、石頭っ!!」  怒った声が、朝の澄んだ空気をぴりぴりと震わせた。八百屋がびっくりした顔で、こちらを見ている。雀の鳴き声すら、ぴたりと止んでしまった。 「な……何してるんですか!? 近所迷惑ですよ!」  おろおろと周囲を見回しながら、鈴仙は囁くようにして言った。幸いにも、辺りの家人が飛び出してくる様子はない。  糾弾の目を向けると、妹紅はフンと鼻を鳴らして、 「いいんだよ。これくらいしてやらないと、私の気が済まん」 「でも、何もいきなり叫ばなくたっていいでしょう」 「お前だって、こうして叫んだじゃないか」  どうにかなだめようとするが、にべもない。親友の愚行が腹立たしいのは解るが、妹紅は激情に身を委ねすぎているきらいがあった。 「あれは、周りに人がいなかったからで――」 「うるさい。つべこべ言うな。怒られる時には、私だけが怒られてやるから、黙ってろ」  そんな無茶苦茶なことまで言われる始末で、鈴仙はしぶしぶ押し黙る羽目になった。  そうしてちょうど口をつぐんだ直後、玄関の扉が勢いよく開いた。果たして眼前の家の中から、長い髪の鬼が肩を怒らせ、ずかずかと表へ出てきた。 「ふざけるな。お前には常識ってものがないのか!」  鬼は妹紅の前に立つと、先ほど鈴仙がしたように、声が響かないよう怒鳴りつけた。そこでようやく、 (びっくりした……)  鈴仙はほっと胸を撫で下ろした。見知った顔なのに、鬼ではなく人間の女なのだと気がつくまで、少しの間が要った。  妹紅と同じ、白く長い髪の女だった。違うのは、前髪の辺りなど、ところどころに青色が混じっている点だ。  それにしても、さすがに、長いこと寺子屋の教師を続けているだけある。悪ガキどもを叱り慣れているせいか、怒鳴っている姿はひそひそ声でも迫力満点で、鈴仙は傍で見ているだけで思わず萎縮してしまった。 「何が、常識だ」  一方で、妹紅はまったく怯んでいなかった。長いつき合いで、おかんむりにも慣れているのだろう。それ以上に、妹紅のほうが怒り心頭だったせいでもあるのかもしれない。  最初の罵倒だけでは、ちっとも足りないのが明白だった。友の登場を受けて、ここへ来るまで募りに募った思いが、今まさに散弾のごとく炸裂する。一寸先の未来が、鮮やかに目に見えるようだった。 「馬鹿に説教される筋合いはない! 知ってるんだぞ。お前、私に黙って薬を――」  だが不思議なことに、それ以上続かなかった。長々とまくし立てようとしていたのは明らかだったが、どういうわけか、妹紅は唐突に、「うっ」と言葉を詰まらせてしまったのである。  それだけではない。まったく同時に、鈴仙の口からも、似たような声が漏れた。 「いいから、来い!」  ぐるんと振り回されるような感覚の中で、そんな怒鳴り声を聞いた。  気づいた時には、妹紅と並んで、畳敷きの茶の間に正座させられていた。そこでようやく、文字通りに首根っこを引っ掴まれ、家の中に連れ込まれたのだと理解した。  鈴仙は涙目になって、じんと痛む喉元をさすった。 (何で、私まで……)  早朝の訪問についてどやされるならばともかく、近所迷惑については、妹紅が勝手にやったことだ。むしろきちんと注意してやったほどだし、責められるいわれはない。  けれども、余計なことは言わずにおいた。上白沢慧音は、二人の正面に岩石のような面持ちで座している。いかに正当な文句を呈そうとも、また鬼の形相になって、ぴしゃりと撥ねつけられてしまうに違いなかった。 「……さて。一体何の用だ、馬鹿ども」  間もなくして、慧音が口を開いた。うって変わって、妙に落ち着いた声音なのが、かえって恐ろしい。  ただ、その態度から読み取れるのは、怒りに任せた威圧感だけではなかった。罵倒を織り交ぜつつも、しつこく叱責しようとはせず、質問をしてくれた。どうやら、大事な話があって来たことを察してくれているようだ。  しかも、危急の用である可能性を考慮した上で、本来ならば恥とすべきところをあえて無視し、着替えもせずに対面してくれている。髪の一部と同じく、慧音は寝間着も青かった。髪は染めているわけではないのだが、どうやら青はお気に入りのようで、意図して色を合わせているらしい。  それまでぶつくさ文句を垂れていた妹紅も、慧音の意思を察して口を結び、居住まいを正した。それから一呼吸置くと、鈴仙がそうしたように、一切の前置きを排して、すっぱりと話を切り出した。 「お前、輝夜のとこの薬屋に言って、面倒な物を作らせただろう」  聞くや、慧音はぎょっと目を丸くした。 「む。その通りだが」  思った通りの反応だった。改めて胸中に湧く緊張感に、鈴仙は膝の上でぐっと拳を握り締め、固唾を飲み込む。すでに心が押し潰されそうだったが、本当に重苦しいのはここからだ。どうにか耐えうるように、つたない心で、できる限りの覚悟をした。  だが、そこまでだった。慧音の驚愕は、どういうわけか、すぐに照れたような微笑に塗り替わってしまったのだ。  次にはもう、世間話の気軽さで、 「よく知っているな。……なるほど、そこの兎に聞いたのか?」  言いつつ、ようやく気づいたといった様子で、今度は鈴仙のほうに目を向けてきた。自分が無理やり引っ張り込んできたことすら忘れているようで、奇妙なほど嬉しげに頬を緩めている。 「そうか。君、運び屋だったな。薬を届けに来てくれたのか」 「はい。お師匠様から、二晩の熟成の工程が完了次第、あなたにお届けするようにと仰せつかりました。ですが――」  と、鈴仙が渋るのにも気づかず、慧音は勝手に頷き、にこやかに言葉を続けてしまった。 「ようやく完成したのだな……待ちかねたよ。どれ、薬を見せてくれないか。さっさと使ってしまいたい。今は落ち着いているが、夜な夜な、どうにも耐え難くてな……」  屈託ない態度で、手のひらを軽く上に向け、薬をせがんでくる。こちらを油断させる作戦なのではないか、と思いついた時にはすでに、鈴仙の心持ちはすっかり乱されてしまっていた。  だが、そこへ妹紅が割り入った。 「よせ!!」  ぐいと身を乗り出し、ぱしん、と慧音の手を払いのける。ためらいのないその行為は、大事な友を叩いてでも止めようとする、強固な意思の表れだった。  だが、ぶたれたほうは、ほんの少し眉をひそめただけである。慧音は妹紅の狼藉を叱るでもなく、ただただ不思議そうな顔をしていた。 「おい、痛いじゃないか。どうしたんだ、急に」  まるで、ぷかぷかと風に流れる薄い雲のような、何とも掴み難い態度だった。  必死の形相でいる妹紅を前に、どうしてそうも平静を装っていられるのか、鈴仙には解らなかった。けれども、焦れたような苛立ちはない。むしろ、動じぬ慧音の姿が、崇高と信じる思想に囚われるあまり、本当に大切なものを見失っている人のようで、見ていて胸が痛かった。 「とぼけなくてもいい。馬鹿なことは、よせ」  かぶりを振った妹紅の声にも、もはや怒りの念はない。それはほとんど泣きそうな、何としても胸中に直接訴えかけようとしているかのような、か弱き少女の震える声だった。 「その……私だって、本当なら、こんなことは考えたくないんだが……もしもこの里からお前がいなくなったとしても、きっと、大丈夫だ」 「おい。何のことだ?」  空々しい疑問は、「いいんだ」と柔らかに諭すような言葉で遮られる。取り繕う必要はない、黙って耳を傾けてほしい、という意思の表れに違いなかった。 「命は限られている。たとえずっと先のことでも、いずれは、終わりが来る。そうしたら、里の守り神がいなくなってしまう」  妹紅はぐっと唇を噛み締め、うつむいた。そうして呼吸を整えると、やがて思い切った様子で顔を上げ、最も口にすべき質問とともに、かけがえのない友に思いのたけをぶつけたのであった。 「だからお前は、その薬を飲もうとしたんだろう?」      ***  時に歴史を食べて消し去り、時に歴史を創り出す。上白沢慧音の肉体には、ハクタクと呼ばれる強大な力を持った妖怪の血が流れている。  一方で、寺子屋に務め、子供たちと直接触れ合いながら、教養を与え、里の未来を育ててゆく。そんな夢を抱く人間の血は、彼女の生来のものだった。  妖怪と人間、どちらの側面からも、里の歴史を守護する存在。すなわち、上白沢慧音とは、里の守り神に等しい存在だった。  慧音は勤勉な人だ。だからこそ、永遠の命を手に入れようとした。歴史を守る力が、尽きることのないように。自分の力で、永久に里を守り続けられるように。  妹紅には、そんな慧音の抱く思いが、痛いほどに解ったのだろう。しかし、だからこそ、禁薬に手を染めるような愚行は止めなければならない。親友の描いた誇らしいまでに大きな夢を、自分の手で諦めさせなければならない。その決断は、身を裂くように辛いことであったに違いない。 「だけど、心配ないよ」  ひらりと宙に舞う白鳥の羽根のように、妹紅は穏やかな口調で言った。 「里を大切に思って、守ろうとしている人は、お前の他にもたくさんいる。仮にそうでなかったとして、少なくとも、こんなにも思いやりに溢れた奴がいるってことを、私は知ってる。だから、自分もそうなりたいって思う奴が、これからまたどんどん出てくるに違いない。お前に教わって育った誰かが、お前の誇り高い志を受け継ぐんだ」  慧音は粛然とした面持ちで聞いている。その様子を確かめ、妹紅はしかと頷くと、おぼつかない手つきで頬を掻き、続けた。 「……ああ、私だってそうさ。昔は里に関わるのが嫌で、ずっと避けていたが、お前と出会ったお陰で、変われた。今となっちゃ、大事な隣人たちだ。何なら、私がお前の代わりになって、ずっとずっと、里を守り続けてやってもいいくらいさ」  ふっと浮かび上がった優しげな笑みが、取り繕ったものであることは明らかだった。  それどころか、話している途中にはもう、妹紅の表情はぎこちないものになっていた。一言ごとに、肺腑に鋭く尖った物を何本も突き立てられ、胸が痛くて痛くて仕方がないといった表情だった。  鈴仙はその顔を見て、言葉の裏に隠された、妹紅の本当の思いを悟っていた。 (やはり、寂しいのだ)  妹紅の庵で感じたことは、間違いではなかった。  友達が不老不死だから、自分も同じ身体になりたかった。ちょっと聞くと、軽薄な興味本位のようでもあったが、きっと妹紅は、慧音にそう望んでいてほしかったのだろう。それはつまり、永遠に一緒にいられるということなのだから。  そしてもし、慧音がそう望んでいたとしたら、妹紅は彼女を許していたに違いない。自分のためと言ってくれるのであれば、禁忌すらいとわなかったろう。まったくもって、自分勝手である。そして無論、そのようなことは口が裂けても言えないはずだ。  けれども、そうした考えを責めることはできない。 (私も、同じだ)  故郷を見限り、逃げ出した。自分勝手なのは、鈴仙も同じだった。  慧音のように、禁忌を犯してまで里を守り抜こうとする者がいる反面、かつて、自分は故郷を捨てた。そう思うと、近くの柱へ頭をしたたかに打ちつけたくなるような、この上ない恥ずかしさを覚えた。  そこまで考えて、 (いや。違う)  頭の中で、さっきの思考を振り払い、訂正した。  妹紅もまた、ただ自分勝手なだけの女ではない。願い通りにはならぬ寂しさを必死に堪えながら、勇気を振り絞って友を説得しようとしている。そんな彼女の姿を自分ごときと重ね合わせ、「同じだ」などと感じたことがまた恥ずかしく、鈴仙は寒さに堪える獣のように、ぐっと身を縮こまらせた。 「解ってくれ、慧音」  鈴仙の煩悶をよそに、熱き言葉はなお続いた。 「不老不死なんて、辛いばかりだ。命が続く分、苦しみも永遠なんだよ。いや、そのこと自体が、最大の苦しみとも言っていい。……だから、お前にだけは、こんな思いはしてほしくないんだ」  自身が不老不死であり、長い時の中を生き続けてきたからこそ。妹紅は友を思い、説得した。それは同時に、禁忌と長い苦しみがなければ、自分の本当の願いも叶えられないという、悲劇的なジレンマの証明でもあった。  そういうことに、思い至ってしまったせいだろう。妹紅は思い切るあまり、言う必要のないことまで、つい口にしてしまった。  熱弁とともに上気した顔で、息を大きく吸い込んだかと思うと、 「私は、お前が好きなんだ」  くそ真面目な顔で、告白したのである。  明らかに、言うつもりのなかったことだ。熱気に浮かされるままに飛び出した、言葉の暴発だった。その唐突さに、妹紅自身はおろか、傍で聞いていた鈴仙の頬まで、林檎のように染まってしまっている。  しかし、告白された当人だけは、きょとんとした顔で固まっていた。突然のことにびっくりして、思考が停止してしまっているのかと思ったが、それにしては、妙に落ち着いた雰囲気だ。  不思議に思っていると、慧音はややあって、 「は」  と、気の抜けたような声を漏らした。かと思うと、 「あっはははははははは!!」  呵々大笑して、傍らの畳をばしばしと叩き始めた。  鈴仙は、口をあんぐりと開き、呆然としてしまった。妹紅も同じ顔をしていたが、馬鹿にされていると感じたのだろう、羞恥に染まる頬に激情の赤を足して、つっかえながら怒鳴り散らした。 「なっ……何が可笑しい! わ、私は、お前のことを思って、真剣に――」  しかし慧音は、それ以上言うなとばかりに片手を上げて、妹紅が怒るのを制した。そうしながら、なおも愉快げに笑っている。 「あはははは! いや……すまん、すまん。どうにも堪え切れんでな」 「お前……! 人を馬鹿にするのも大概にしろ!」  妹紅の怒声に、慧音はかぶりを振って、 「違うんだ。私が笑ったのは、そういうことじゃない。お前の気持ちは、しっかり伝わったよ」  神妙な顔つきになり、力強く頷いた。そして、ほとんど間を置かずに、 「嬉しかったよ。ありがとうな、妹紅」  穏やかな微笑とともに、そう言った。  最初に見た鬼の顔とは似ても似つかぬ柔らかさに、鈴仙は驚いた。あまりに優しい笑みだったので、直接顔を向けられた妹紅は、大いにどぎまぎしてしまっている。  妹紅はしばし、困った顔で視線をきょろきょろさせていたが、やがて観念した様子で口を開いた。 「それじゃあ……」  すると慧音は、妹紅の思いに応えるように、 「ああ。私は、不老不死にはならないよ」  しかと頷いて、きっぱりと言った。  ひどく不安げだった顔が、ぱあっと輝いた。妹紅は晴れやかな顔をしたまま、ちらと鈴仙のほうを見た。それにつられて、思わず笑みがこぼれる。同時に、安堵の溜息が漏れた。 「よかった」  つぶやき、胸を撫で下ろす。薬は届けられなかったが、師には後で詫びればいい。きちんと事情を説明すれば、叱責はないはずだ。  それにしても、禁断の秘薬など依頼して、よくもあの人が了承したものだ。賢者にそうまでさせるほどの弱みがあり、それを慧音が知っているというのならば、一つ聞いておきたいような気もした。  そんな野暮ったいことはさておき、鈴仙は改めて、事が上手く運んだのを喜んだ。 (ひとまず、一件落着だな)  そう思った。けれども、違った。  和やかな空気が漂い始めた中、不意に、こほん、と咳払いの音がした。見ると、慧音は何とも渋い顔つきでいる。するとややあって、 「……ところで、私が笑った理由なんだが」  何だか言いにくそうに、真面目くさった顔で切り出した。 「こうまで心配されてしまうと、ものすごく指摘しづらいことなのだが……な。その……お前たち、何か勘違いをしているぞ」 「えっ?」  鈴仙と妹紅の口から、まったく同時に声が漏れた。  呆けたような声の調和に、慧音がぷっと息を噴き出す。そこでようやく、さっきの馬鹿に真剣すぎる面持ちが、必死に笑いを堪えていたせいだったのだと解った。 「運び屋さん。ちょっと、薬の瓶を見せてくれ」  何気なく言われたので、ひょいと差し出してしまいそうになった。鈴仙ははっとして、奪い取られはしまいかと警戒しつつ、鞄の中からそっと薬瓶を取り出し、畳の上に置いた。  すると慧音は、瓶には手を触れようともせず、ただちょっとだけ見据えると、「やはりな」と得心して頷いた。それから、緊迫する二人をよそに、また大笑いしたのである。 「これでは、勘違いしても仕方がない」 「どういうことだ?」  怪訝な顔で、妹紅が尋ねた。  慧音は黙って頷くと、鈴仙の顔を見て、質問を返してきた。 「なあ、運び屋。君、薬の名は聞いているか?」  鈴仙は神妙にかぶりを振り、 「いえ。しかし……瓶には、『不死の薬』と」  恐る恐る、今は反対側を剥いている、ラベルの文字を指し示した。汚い字だが、片仮名で六字、『フシノクスリ』と確かに書かれているはずだった。  すると慧音は、妙に納得した面持ちになった。かと思うと、また可笑しげに噴き出した。 「なるほど……何も聞いていなかったのだな。説明くらい、してやったらいいのに。あるいは、忘れていたのやもしれん。君のお師匠様も、ああ見えておっちょこちょいのようだな」  鈴仙も妹紅も、どういうことなのか理解できず、折れそうなほどに首を傾げている。そんな二人に対し、慧音は「まだ解らんのか」とでも言いたげに苦笑すると、薬瓶を回して、ラベルの貼ってあるほうをこちらに向けた。 「大体、お前たち、長いこと竹林なんぞに住んでいるくせに、どうして気づかなかったんだ」 「何だ。竹林がどうした」  ふてくされたような妹紅の問いに、慧音の答えは簡潔だった。 「竹かんむりだよ」  その一言で、鈴仙は察した。はっとして、直後に、自分の愚かさを理解し、顔中が真っ赤になった。 「これは、『不死』と読むんじゃあない。竹かんむりの字で読むんだ」 「竹かんむり……?」  激情のやり場もすっかり失い、何を言われているのかも解っていない様子の妹紅は、妙に肩肘を張った姿勢のまま、狐につままれたような顔をしている。 (そんな、つまらないことだったなんて……)  一方、事の真相を理解した鈴仙は、馬鹿馬鹿しいやら、恥ずかしいやら何やらで、今にもぽっかりと魂が抜けてしまいそうな思いだった。そんな調子だったから、言われたことの意味を、妹紅に説明してやることもできなかった。  一体どういうことなのか、呆けて物も言えなくなった鈴仙の代わりに、慧音が答えを示す。まだ笑い足りぬとばかりに腹を抱えていた寺子屋の教師は、ひょいと薬瓶を持ち上げ、ラベルがよく見えるように指差した。  そして、 「これは、『節の薬』だ」  子供たちに教えるように、わざとゆっくり発音して、はにかんだ。  要するに、関節痛の治療薬だった。      *** 「近頃、節々がひどく痛んでな。私は半人半妖だから、人間用の薬でも、妖怪向けの薬でもいかん。だから薬屋に頼んで、特別に面倒をかけ、作ってもらったんだ」  と、いうのが、慧音の言である。  飴色の瓶に入っていた物の正体は、痛む関節に塗るための薬だった。その性質上、治療薬というよりも、痛み止めと言ったほうが適切である。  痛みの原因は、どうもハクタクの血を入れてからそれなりに時間が経ったことと関係があるらしい。鈴仙の師が診断した結果によれば、妖怪の血が肉体に順応するに従って、微妙な骨格の変化が云々。つまるところ、厳密には病気ではない。人間の子供は成長痛というものを経験するが、慧音の症状はそれと似たようなものだろうか。  この一件で、鈴仙がまず謝罪すべき相手は、竹林のはぐれ者、藤原妹紅だった。  とんだ勘違いで早朝に押しかけ、無用な心配事まで与えてしまったのである。迷惑もここに極まれり、と評する他にない醜態だった。 「本当に、申し訳ありません……!」  長い兎耳を振り乱すようにして、何度となく頭を下げた。それだけで許してもらえるとは思っていなかったし、殴り飛ばされることさえ覚悟していた。  だが意外にも、妹紅は終始上機嫌で、 「いいってことよ。何も悪いことはなかったんだ。酒の肴になりそうな、笑い話もできたしな」  そんなことを言って、ばしんと背中を叩いてくるばかりだった。  その時は謝るのに必死で気づかなかったが、後から思えば、妹紅が気をよくしていたのも当然だった。それというのも、事の真相が打ち明けられた後で、慧音がこんなことを言ったのだ。 「それにしても……永遠の命を得る、か。なるほど、それはそれで、ちょっと楽しいかもな」  軽い調子でそんなことを言うので、 「お前、私の話を聞いてたか?」  妹紅が睨みを利かせて、不満げに問うた。  慧音は苦笑して、解っているよと首を縦に振った。だがその後で、「もしもの話だ」と言い、このようにつけ加えたのである。 「もしも私が、不老不死になったら、な。そうしたら、お前と、ずっと一緒にいられるわけだ。なかなか退屈しなさそうだな」  絵空事にすぎなかったし、慧音自身も深く考えて言ったわけではないのだろう。けれどもそれは、紛れもなく、妹紅の願いに応える言葉だった。  素直に、羨ましい、と感じた。吹き抜ける風のようにさっぱりしていて清々しいのに、その実、心の深いところで揺るぎなく結ばれている。眩しいほどに、美しく輝く絆を見た。  鈴仙は顧みる。自分には、そんな絆で結ばれた人がいただろうか。友人はいる。けれども、真に気の置けない相手となると、すぐには思いつかない。  ふと頭に浮かんだのは、師の姿。鈴仙にとって数少ない、かけがえのない存在。美しい関係でありたいと、素直に思える相手だった。  けれども、今、この時に絆はあるかと問われると、肯定し難い部分がある。  無論、師に非はない。鈴仙自身が、自分勝手な兎であるせいだ。戦火に呑まれた故郷を見捨て、みっともなく逃げ出した兎。 (自分は情けない。だから、身の回りに深刻な危機が訪れれば、お師匠様さえ裏切るだろう)  それは、どうしようもない自責の念だった。変えようとして、変えられる自信がない。だからきっと、お師匠様も、心の深いところでは自分を信用してくれていないのだろう。仕方がない。悪いのは、自分なのだと強く思う。  煩悶するうち、気づけば、夜になっていた。  邸の縁側を歩いていると、三日月の光が目に染みた。月面に立っていても月は見えないが、離れて眺めれば、あんなにも綺麗に見える。地上から月を見るのは好きだったし、近づきすぎてはいけないが、もっと近くで見られたらいいのにと思う時もあった。  けれども、今はそんな気分ではなかった。それどころか、美しい月が胸中の寂しさを照らし出すようで、ひどく不快だった。  月の光から逃げるように自室に戻り、兎耳の頭飾りを外して、枕元に置いた。それから、朝起きた時と同じような所作で、もぞもぞと布団に潜り込んだ。  横になったところで、不意に、頭のてっぺんの辺りにじわりと温かさを感じた。それは今朝、慧音に向かって頭を下げた時、くしゃくしゃと撫でられたところだった。その時のことを思い返していると、月の光にあてられた不快さも、少しずつ薄らいでいくような気がした。  鈴仙は、自分がそれまで泣きそうな顔をしていたことには気づかず、緩やかに眠りに就いた。  その晩、不思議な夢を見た。師の見ている前で、飴色の薬瓶を開けて、禁断の秘薬を飲み下す夢だ。  夢の中で、師は、自分自身は、果たしてどんな顔をしていただろう。同じ不老不死の身になれたことを、互いに喜び合ったのだろうか。それとも、自分勝手に禁忌を犯したことで、愚かな兎は見放されてしまったのだろうか。  次の朝、目を覚ました時には、忘れていた。その夢のことは、水に溶けてゆく薄紙のようにおぼろげで、もうほとんど思い出すことはできなかった。
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マウンテン・オブ・バッカーノ! 《スペシャル・プロローグ》  春。  赤や黄の暖色から、群青と白の爽やかな色合いのものまで、花々は豊かな色彩を放ち、爛漫と咲き乱れている。背の高い花、線の細い花、樹木の幹に蔓のようにからみついたもの。小粒の花が集まったものもあれば、一輪の巨大な美顔をたたえているものもあり、目に見える要素のすべてが十人十色の植物たちの性格を反映しているようで、今にもかしましい話し声が聞こえてきそうな気配すら感じさせる。  やわらかな陽射しにめぐまれた木々の隙間を、そよ風がささやきかけるように吹き抜けてゆく。植物たちの楽園は、めぐり訪れた生命の季節をいちどきに謳歌していた。  草木のにおいが鼻をくすぐり、ときおり可愛らしい蜜蜂の羽音が響くこの穏やかな土地で、二人の少女が言葉を交わしている。 「素敵な場所ですねー」  気持ちよさそうに「うーん」と背伸びをしながら、そう言ったのは黒髪の少女。その後ろでは、緑色のキャップをかぶった少女が土の上にしゃがみ込んでおり、何やら部屋の扉をノックするような調子で地面を叩いている。 「まったくもって同感だよ」  少しずつ、場所を変えながら、右手の甲で地面を叩いている少女。耳を傾けているせいで、二つに結った水色の髪の片側が土の上に垂れてしまっているが、そんなことはお構いなしといった様子で作業に没頭している。 「ですよね! 素敵ですよね!」黒髪の少女が振り返り、鼻を鳴らしてきいた。 「うん」緑帽子の少女は、そちらへ一瞥もくれてやることなく、地面を見たまま返事をする。「本当に、絶好のスポットだよな。隠し事するにはさァ」  その言葉を受けて、黒髪の少女は「ありゃま」と大げさにずっこけた。 「……にとりさん。あなたには風情とか、そういうアレはないんですか?」 「アレってどれだよ」溜息を吐きながら、緑帽子は初めて顔を上げる。「ま確かに、のどかで良い所ではあるかもしれんけど……今さら花なんざ見たって面白くないさ。いつも見慣れてるんだし」  それから、『にとり』と呼ばれた水色髪の少女は、 「キュウリでも生えてりゃ話は別だがね」と付け加えて肩をすくめた。  彼女はスカートのすそ周りにポケットのたくさんついた、レインコートのような水色の服装に、大きな土色のリュックサックを背負っている。青色のエナメルブーツはどこか長靴じみており、全体的に「雨対策は万全」といった雰囲気をかもし出しているため、今日のような雲ひとつない晴天の下では、きわめて異様ないでたちであった。  河城にとり――彼女はこの山に棲む河童の一人である。 「にとりさんのセンスには、理解しがたいものがありますねー」  少しも悪びれずに言う黒髪の少女に対し、にとりはまったく否定しようとはせずに、人差し指を立てて話した。 「人間とかさ、あいつらが造ったデッケー乗り物とかさァ。私の目にゃあ、そーゆーモンのほうがよっぽど面白く映るワケよ」そう言ってから、彼女は糾弾するような口調で付け加える。「っつーかさ、お前さんもそうだろうが」 「そりゃまあ、面白そうなものがあれば、すぐに飛んでいきますけどね」ひょうひょうとうそぶきながら、黒髪の少女は首からさげた一眼レフカメラを手にとって、正面に構えた。「この風景もそうです。もったいないので、私だけでもお持ち帰りさせて頂きますよー」  言うやいなや、辺りにパシャパシャと軽快な音が鳴り響いた。  肩までもないさらっとした黒髪の上に、煉瓦色の六角帽を載せている少女。純白のブラウスと漆黒のスカートは鮮やかなコントラストを演出しているが、そのどちらにも一貫して桜模様がほどこされており、河童のレインコートとは対照的に、こちらは今の季節や気候に似つかわしい服装であると言える。  山の鴉天狗――彼女の名は、射命丸文と云う。  シャメイマル・アヤ、周囲からしばしば「流言ひとつで飛び回る変人」と揶揄されているこの新聞記者の少女は、レンズ越しに好奇心を振りまきながら、のどかな春の風景を遠慮なくフィルムに収めてゆく。  そんな文の背中を見ながら、にとりは「勝手にしろ」と呆れた調子でつぶやいて、地面を叩く作業を再開する。それからしばらくシャッター音が鳴り続いていたが、文は不意にカメラを下ろすと、何気なくつぶやいた。 「本当に、こんなところにあるんですかねぇ」 「……テメエで掴んだネタだろうがよ」  にとりは土の上に耳を傾けた状態で、渋い顔になる。 「そうなんですけど」しゃがんでいる河童のほうへ振り返ってから、文は頬を掻いた。「実際に来てみると、意外だなーと思いましてね。ひと通り確認してみましたが、草花が自然な状態で残されていて、大がかりな施設を埋めた痕跡なんかどこにも見当たりませんでしたよ」  射命丸文は、単に興味本位で写真を撮っていたわけではない。無論、美しい景色に対する好奇心は本物であったが、そうして撮影を行いながらも、カメラの望遠機能などを利用して周辺の調査を行っていたのである。  鴉天狗の抜け目のない行動に感心しながら、にとりはなおも土に目を向けたままで言葉を返す。 「逆だよ、逆」 「逆?」  文は上下逆さになりそうなくらい、大げさに首を傾けた。 「さっきも言ったとおり、ここは絶好の場所なのさ」にとりは『ここ』と言うのに合わせて、土の表面をいちだんと強く叩いてみせた。「まさか、こんな誰の手も加えられていないところに、秘密の大部屋が隠されているとは思うまい……上の連中の、そんな甘っちょろい思惑がプンプン漂ってくるねぇ」 「なるほど」文はうなずいてから、きょろきょろと周囲を見回した。「それゆえに、近くに見張りらしい見張りもいないと」 「うむ」にとりは神妙な顔つきで、首を縦に振る。 「こんなところに見張りが立ってるだけでも不審だっつーのに、そいつを下っ端に任せるとなると、『どうして何もない場所を見張ってなきゃならんのか』ってことを説明する必要も出てくるワケだ」 「その理由を教えなかったら、見張りさん当人に怪しまれて、噂が広まってしまいますからねー」 「耳ざといのもいるからねぇ」  にとりは鴉天狗の顔を見上げて言うと、口の端に笑みを浮かべた。  いま少し写真撮影を行ったあとは、文も下を向いて、土の上に目を走らせ始める。午睡を誘う陽光の中で、虫たちの羽音や小鳥のさえずりにまったく耳を傾けることなく探しものに没頭する二人の姿は、対照的な服装もあいまって、とてつもなく奇妙な雰囲気をかもし出している。空には天狗の警備隊が忙しく飛び回っており、ともすればいつ注目を集めてしまってもおかしくはない二人であったが、それでも目立たずに済んでいるのは、この場所が『妖怪の山』中央部の山腹に広がる樹海の奥地であり、周りを背の高い木々に囲まれているおかげであった。  天狗と河童は、やがて土が剥き出しになっているところから、シロツメクサの群生している辺りへと探索の手を伸ばした。さながら四つ葉のクローバーを探す無邪気な少女のようであったが、二人の表情は真剣そのものであり、見つけようとしているものだって、決して幸運を呼び込むような可愛らしいものではない。 「……ん?」  ふと声を上げたのは、水色の河童。  シロツメクサの隙間の土壌、彼女が注視している部分にだけ、小さなひびが入っている。思いついたように手の甲で叩いてみると、若干ではあるが、鈍い音響が返ってきた。叩いた感触にも、わずかながら違和感がある。 「ふむ」  とつぶやいて、その場にどっかりとあぐらをかくと、にとりは背負っていたリュックサックを脇に下ろした。その中からおもむろに緑色のスコップを取り出して、シロツメクサの隙間にのぞいた小さな亀裂に差し入れる。それから彼女は、草ごと土を掘り返し始めた。  間もなくして、河童は指をパチンと打ち鳴らす。 「ビンゴだ」  その声を聞きつけて、別の茂みに立ち入っていた文が、ほとんど飛ぶようにしてこちらへ寄ってきた。 「見つかりましたか!」 「おうよ」と文の顔を見上げて、にとりは今しがた掘り返した箇所をスコップの先端で指し示した。 「コイツを見てみな」 「んーどれどれ?」  文がのぞき込むと、そこには――草木に囲まれた環境にはおよそ似つかわしくない、箱形の電子機器が剥き出しになって置かれていた。 「これは……」  金属製の装置はちょうど文の持つ一眼レフカメラと同じくらいの大きさで、中央に黄色の豆電球が点灯しているほかは、のっぺりとした銀色である。周囲の地面が直方体の形に切り出されており、くぼみの表面は透明な板によって覆われていた。そのため、地面の下に埋められていたにもかかわらず、箱形の装置自体は少しも土をかぶらずに済んでいる。 「電子錠だ」  にとりはしゃがんだまま、装置を見据えて言った。それを受けて、文は軽快に口笛を鳴らす。 「このロックを解除すれば、扉が開くのですね」 「そういうことになるねぇ」にとりは不敵な笑みを浮かべながら、文に向けて手のひらを差し出す。 「んじゃま、パスをくれ」 「了解です」  文はそう言って、胸ポケットから黒表紙の手帳を取り出した。そこから一枚の紙片を抜き取って、にとりに手渡す。 「コレ、間違いないだろうね?」 「調査は裏付けに至るまで完璧です」にとりの言葉に、文は胸を張って答える。「私の耳と脚では、信用に足りませんか?」 「結構。信用のお釣りがくるな」  にとりはスコップを置き、背中越しに手を振って答えた。 「でも……これ、どうやって入力するんですか?」  文が素朴な疑問の声を上げる。  透明な板によって遮断されているため、箱には直接触れることが出来ず、周囲にも文字などを入力するための端末らしきものは見当たらない。  大いに戸惑う鴉天狗であったが――その質問に対し、 「キーボードがついてないから、音声認識タイプだな」  カワシロ・ニトリ、山の技術者である河童は、さらりと即答した。  河童とは人間に対する興味を絶やすことのない生き物だが、その例に漏れず、この緑帽子をかぶった少女は人間たちの先進技術に対して旺盛な好奇心を抱いている。それどころか、河城にとりは格別の人間びいきであるため、友好的な態度はもとより、度が過ぎるほどの研究者ぶり、そして発明家ぶりは、同じように高度な技術を有しているはずの仲間たちにさえ彼女を『マッドエンジニア』と評せしめるほどの奇矯さを示していた。 「なるほど。パスワードは声で入力するのですね」  手を打ってうなずく文の前で、にとりは透明な板の隅に腕を伸ばし、そこに取り付けられていたネジのような形のつまみを引っ張り上げた。すると、カチリという金属音とともに、中央に点灯していた黄色のランプが緑色に切り替わる。  何かを言おうとした文を片手で制すると、にとりは受け取った紙片に目を落とし、そこに書かれている文字をひといきに読み上げた。 「『イワナガヒメノナミダ』」  すると、「ポン」というくぐもった電子音と共に、豆電球の光がオレンジから青に切り替わった。 「おお! ……お?」  鴉天狗の感嘆符がたちまち疑問符に塗り替えられたのは、土の下から、岩石をこすり合わせるような地響きが聞こえてきたためである。轟音の正体を探るまでもなく、直後、目の前の地面が四角く切り取られ、徐々に右側へと吸い込まれ始めた。 「スライド式ですか!」  驚嘆する文の眼前で、崩れ落ちる土壌と共に草木がバリバリと音を立てて倒れてゆき――のどかな樹海の奥地に、やがて巨大な正方形の穴が出現した。 「……お花に申し訳ねーことしちゃったな」  頬を掻きながら、にとりは苦い顔で言う。かたわらの天狗が大げさに驚いている一方で、この河童は終始、落ち着いた表情で事の成り行きを眺めていた。 「すごいですねぇー。まさか、ここまで手が込んでいるとは」 「ご大層なモン造りやがる」  二人は穴のふちに並んで立った。広さは、およそ五メートル四方。奥のほうへ目を向けてみると、四角い穴は思いのほか深く、壁面に電灯がついているにもかかわらず、先が見えぬほどに階段が続いている。 「どうやって、カムフラージュしていたんでしょう?」文は目をむいたままで、疑問の声を上げた。 「いま倒れた植物、土の中にしっかりと根が張っていましたよね。この施設、長らく使われていないなんてことは絶対にないはずなのに」 「地ならしだけなら、誰でもできるけど。掘り返した土の上に、植物をここまで自然に生やしておく方法となると……見当もつかんね」 「種まきして、無理やり生長させたとか?」 「ストレートな推察どうも」にとりは肩をすくめて言う。「ンなワケあるか」 「河童の技術力があれば、可能なのでは?」 「無茶言うな。私のアタマは工学仕様。化学やら生物学やらもかじっちゃいるが、さらに細かく分類すりゃあ、専門外ってヤツはボロボロ出てくるんだな、これが」 「ほう。意外ですね」 「そこまで万能でたまるかよ」 「そうですねー」文は呑気に笑ってから、質問を重ねる。「では、お仲間さんは、どうなのですか? 河童がこの件に関わっていないはずがない。少なくとも、電子錠を作った方がいるはずですから」 「それだけだろ。確かに、こんな感じのブツを作らされてる奴はいたが、そいつが伝えられてた用途は、お偉いさんのホームセキュリティだったはずだ」 「偽の情報だったわけですか。河童のみなさん、いいように使われてますねー」 「まったくだな」あっけらかんと言う文に対し、にとりは怒るどころか、苦笑いを浮かべてうなずいた。「依頼されても、深い干渉はしない。なんか作れりゃあ、それでいいんよ。私もそうだしさ」 「クリエイターですね」 「エンジニアと呼べ。完成品が見せられないってことについては、だいぶ不満を買ってたようだがね。妙な設計図を書かされてるのもいたよ。内容はてんでバラバラ。一人はスライド式扉。一人は地中に埋める階段。一人は地下室。なるほどねぇ……」  にとりの考えでは、この四角い穴を掘った連中は、隠し部屋の設計や部品の製作依頼だけを河童の仲間たちに寄越して、後は一切の干渉を拒絶している。河童のもとに不可解な依頼が来るなんて、ずっと昔からたびたびあったことだ。けれども、自由で楽しいものつくりを信条としている河城にとりは、はなはだキナ臭いと感じたこともあって、そういった依頼はすべて断ってきた。 「しかし、ですよ」文は口元に手をあてて、思案する。「そうだとすれば、植物の生長を促進させる道具も、その一環として作らされていたのでは?」  文の質問に対し、にとりは難しい顔で答えた。 「その辺の分野をシマにしてる奴も、いるにはいるが……少なくとも、魔法みたいに花を咲かせる技術はない。そういう『能力』を持ってる奴とか、あるいは私らなんかよりずっと芯の通った専門家を連れてくれば、できないこともないけどさ。身内の目からも隠しておきながら、連中が外部に協力を仰ぐとは考えにくいし……そこまで大掛かりなコトやってりゃ、お前さんがとっくに嗅ぎつけてるだろうよ」 「それはもちろん」文は胸を張って応えた。 「調子良いよな、まったく」にとりは溜息を吐いてから、言葉を続ける。「まとにかく、今はそんなこと気にしたってしょうがないさ。私らが知りたいことは、全部この地下でお待ちかねだろうよ」 「それもそうですねー。貴重なご意見、ありがとうございました!」 「……インタビューじゃないんだが」 「あ! そでしたね。あはは」 「もはや職業病だなオイ」  にとりはほとほと呆れ顔で言ったのち、地面に置いたままであった土色のリュックサックを開けて、フードつきのマントを取り出した。布の上に金属片のようなものが散りばめられているが、黒一色であるせいか、必要以上に野暮ったく見える。 「ちょっち、目立っちまったからね。こいつを着てもらうよ」  その言葉に対し、文は口をとがらせる。 「これ、着ているほうが目立つと思うんですが」 「光学迷彩マントだ」文の不満などお構いなしに、にとりは自信たっぷりに言った。「こいつを羽織って、襟元のボタンをいじるだけで、たちまち透明天狗だよ」 「それはいいんですけど。もっと、デザインとか、何とかならなかったんですか?」 「あのなぁ、機能性重視なワケ。これが一番、使い勝手が良い形なんだよ。そもそも、見えないようにするための服なのに、意匠を凝らしてどうすんだ」 「それは、もっともなのですが……」悪趣味な黒マントを受け取りながら、文は溜息を吐いた。「やっぱり、にとりさんのセンスには、理解しがたいものがありますね」 「……悪かったな」ふくれっ面でつぶやきながら、にとりはリュックを拾い上げる。「我慢して着なよ」  それから、天狗と河童は手をつないで、それぞれに襟元のボタンを小さくひねった。すると、たちまち二人の姿が見えなくなる。にとりが着用している水色の服にも、光学迷彩機能が備わっているのだ。  今のところ、轟音を聞きつけて飛んでくる者はいないが――念を入れておくに越したことはない。  二人は手を離さぬようにして、足元に気をつけながら階段を下りていく。オレンジ色の電灯が通路をしっかりと照らしつけているが、見えない者同士で激突してしまっては元も子もない。  階段状の通路に、姿の見えぬ二人の少女の声と足音が、ささやかに反響している。 「それにしても」という声は、文のものだった。「こんなご大層な施設、地道に探すより、もっと便利なレーダーとかでチョチョイと発見できなかったんですか?」 「それができたらとっくにやってる」にとりの溜息が響く。 「妨害電波ですか」 「ご名答。ここいらじゃ、レーダーは使い物にならん。……しかも、それだけじゃない。妖力、霊力、魔力……ご丁寧にも、どんな力で探ろうとしても、徹底的に誤魔化されるんだ」  この辺りの土地では、地下に埋まっている鉱石が電磁波を放っており――といったような口実では、緑帽子の河童を騙すことはできなかった。いかなる手段で探知を行っても弾かれるがゆえに、にとりはかえって怪しい印象を抱き、調査に踏み切ったのである。そうして確信を得たからこそ、現在、こうして隠し扉を発見し、その奥への侵入に成功しているのだ。 「厳重な妨害態勢が、裏目に出ましたねー」  文の声が、面白そうな調子で通路に響いた。  しかしながら、にとりの声は重く、薄暗い憂慮をはらんでいる。 「何か……おかしい。さんざ秘匿してきた連中が、簡単に気付かれるようなヘマをやらかすはずがないんだ。それなのに、こうもあっさりと……ちぃとばかし、上手く行きすぎだと思わないか?」 「なぁに言ってるんですか」文の声は、なおも軽快に響いている。「私たちの実力と、努力のたまものですよ」 「はあ。そうだといいんだけどね……」  長い階段を下りると、透明な二人はやがて開けた空間に出た。  スチール製の背の高い書棚が整然と並べられた、巨大な部屋。ずらりと立ち並ぶ銀色の棚には、それぞれに書物やファイルが隙間なく詰め込まれており、純白の照明は逃亡犯を暴きだすかのごとく脅迫的なまぶしさをたたえている。そのため、広大な部屋であるにもかかわらず、二人には窮屈さと居心地の悪さしか感じられなかった。 「本の海と言うより、資料の牢獄、って感じですねー」透明な文の声が、広漠とした空間に響き渡った。「引きこもり魔女さんの図書館だって、もっと活き活きしてますよ」 「ここには、カビひとつ生えてないだろうからね」見渡すかぎり銀色の未来的な光景に対し、透明なにとりはイヤミたっぷりな口ぶりで言った。「よくもまあ、機密事項だけでこんなに棚が埋まるもんだ。まったく……ヘドが出るな」  部屋の入口付近で、二人は同時に襟元のボタンをひねり、光学迷彩を解除した。背後からの追っ手はなく、部屋にも監視カメラが設置されている様子はない。仮にあったとしても、複雑な妨害電波が飛び交っているせいで、まったく機能しないだろう。  にとりは、服にたくさんついているポケットのいずれから取り出したのか、いつの間にやら小型の双眼鏡で資料室の内部を見回している。 「赤外線トラップもなさそうだ……。っつーか、ジャミングの影響受けそうなトラップは、設置しても意味がないもんな。オイオイ、本末転倒だな、こりゃ」 「この分なら、飛び回っても大丈夫そうですねー。では、検索を始めましょう」  言うなり、さっそく部屋の中へと飛び込もうとする文。さんざ文句を垂らしていたはずの黒マントを羽織ったままなのは、いつでも姿を消せるようにしておくためだ。  そんな文の背中を、にとりが呼び止める。 「待ちな、あやぽん」 「何ですかその呼び方」 「慎重に行動するよ」文の言葉を無視して、にとりは神妙な顔つきで話す。「わざわざデジタルを駄目にしてるんだから、代わりにアナログ的な罠がないとも言い切れない。脚を引っ掛けるためのワイヤーが張ってあるとか、本を引き抜いたら鋼鉄の網が降ってくるとか」 「ほほう、そうですねー」文は、弾むようにうなずく。「まあ、その点に関しては、私の抜け目のなさを信用して下さいよ。お釣りは結構ですので」 「うーん、そうは言ってもだなぁ……」 「では、むしろ三倍くらい支払いましょうか? バリバリいっちゃいますよー」 「あー、はいはい、解ったよ……」  頬を掻いたのち、眼前に広がる無菌の空間を見つめながら、にとりは鼻息を荒げた。 「それじゃ、捜索活動第二段階、始めますか」  銀色の書棚が監獄の鉄柵のように立ち並ぶ、隠された資料室。  天狗と河童は、この広大な空間の中へ、同時に足を踏み入れる。――いや、実際のところ、床のトラップを懸念して、二人は地面をいっさい踏まずに、宙に浮いた状態で飛び込んでいった。二人のような妖怪でなくとも、魔力や霊力などを扱える者にとっては、浮遊や飛行は土の上を歩行するのと同じように基本的なスキルだ。 「飛べるだけ、ましですかねー」  文の言うとおり、飛行能力はジャミングの影響を受けずに済んでいる。  そもそも、十メートルはあるかと思しき書棚の高さを見る限り、飛行を前提として作られていることは明らかだった。ハシゴもあるにはあるが、各棚の端に申し訳程度にしか取り付けられていない。  実際に部屋の中へ立ち入ってみて、ある程度トラップの危険がないことを確認した後は、二手に分かれて捜索を行うことになった。  資料の全体量は天文学的数値を示しそうなほどにぼう大だが、頻繁に利用される施設であるためか、棚ごとにおおまかにジャンル分けされており、目印も添えられている。加えて、基本的には出来事の記録ならば時系列順、書物ならば著者順に並べられているらしく、二人が目的の資料を発見するのに、さほど時間は掛からなかった。 「これですね」  探し当てた鴉天狗は、眼前に収まっている資料を指差して、宙に浮かんだまま言った。かたわらに飛んできた河童が目を向けると、ぎゅうぎゅう詰めになったファイルの中で、黄色の背表紙がひときわ異彩を放っている。両隣の背表紙が真っ黒であることも手伝って、チカチカと不快な印象を与えてくるほどであった。 「日付が一致しているので、間違いありません」文は手元に開いたメモ帳と、書棚の柱に掲げられている数字を比較して言った。「このファイルに、先日の『鬼の崖崩し』の件も記録されているはずです」 「ありゃ本当に、ワケわかんねー一日だったなァ。地底から、鬼だの核だのと……」  にとりは苦々しげな顔で言った。 「確かに、謎多き事件でしたが」文はまじめな顔で諭す。「今回は、直接的な部分を探りに来たわけではありません」 「ンなこたァ解ってるさ。足元すくってやらんとイカンのだろう」 「そうです。そして、例の事件に何らかの形で干渉しているのだとすれば、にとりさんが懸念している『天人』の動向についても、必ずここに記録されているはず」  その言葉を聞いた途端、にとりの表情は凍りつくように強ばった。それを気にも留めず、文は黄色のファイルに手を伸ばす。早く中身を見たくて仕方がなかった彼女は、はやる気持ちを抑えきれず、ひと思いに棚から抜き取った。 「おっ、と」  しかし、ファイルが窮屈に詰め込まれていたせいで、取り出した拍子に両隣の黒い背表紙のものまで一緒に抜け落ちてしまった。二つのファイルは縦方向にゆっくりと回転しながら、銀色の床に向かって落下していく。 「おい、馬鹿!」 「すみません!」  二人は慌てて急降下し、それぞれにファイルを空中で受け止めた。 「だから、慎重にやれって言っただろうが!」宙に浮いたまま、にとりが糾弾する。「床に落っこちて、トラップが作動したらどうすんだよ……!」 「ごめんなさい……気をつけます」  謝罪しながら、文は今しがたつかまえたばかりの黒いファイルに目を落とした。落下の勢いで、半ば開いた状態になっていたのだ。そういうわけで、せっかくだから、脇に抱えている黄色表紙のものよりも先に、ちょっとこちらを覗いてみようかと思案したのだが――そんな文の視線が、ふと、ページの向こう側へ流れた。  一枚の紙片が、ひらひらと宙を舞っている。  人の形に切り取られた、真っ白な紙。  しかし、心なしか、もやもやと黒ずんだ煙を放っているような―― 「おい、何やってんだ! 早く拾え!」  にとりの叫び声を受けて、はたと我に返る文。軽い紙片であろうと、床に触れてしまえば、何が起こるか解らない。  文はただちに、驚異的な速度でそちらへ飛び出し、人の形をした紙切れを難なく掴み取った。しかし、慌てて飛び出したせいか、スピードをうまく殺しきれない。 「痛っ!」  無事にキャッチしたところまでは良かったのだが、運悪く、勢い余って書棚に激突してしまった。銀色の棚は、見た目の頑強さに反して、ぐらりと大きく揺れ動く。 「ヤバイ、ヤバイ……倒れる!」  銀色の壁を見上げて、にとりが顔を青くする。巨大な書棚は、前に後ろに、振り子のようにゆらゆらと傾いている。それだけならばまだしも、書物やファイルが中途半端に抜け出てくるせいで、余計にバランスが悪化してゆく。  当たりどころが悪かったのか、棚自体のスケールの大きさが祟ったのか。少なくとも、今の二人にはその原因を推察している余裕はない。 「すみません! 私が何とかします!」  文は書棚の正面に飛び出し、ファイルを取り落とさぬように気をつけながら、腰に引っ掛けてあった扇を右手に持った。形状もさながら、色彩までもみじ葉のような外観の扇である。  それを掲げたまま、輪を描くように振ると、文の正面に空気の壁が出来上がった。同じ動作を目にもとまらぬ速さで繰り返し、空気の壁が出来上がったそばから四方八方へ飛ばしてゆく。いくつもの見えない壁が支えになって、大きく揺れていた書棚と、今にも抜け落ちそうであった書物をたちまちのうちに押さえ込んでしまった。 「……ふう」扇を持ったまま、額の汗をぬぐう文。 「ふう、じゃねーだろっ!」ものすごい剣幕で、にとりが怒鳴った。「バレるどころか、死ぬかと思ったわ! そそっかしいのもたいがいにしな!」  それを受けて、文はむっとした顔つきになる。 「不可抗力ですよ。確かに私の落ち度ではありますが、大事に至らずに済んだのですから、そこまで言われる筋合いはありません」 「何だよお前、その態度は」にとりは苛立ちをいっさい隠さずに、文のほうへ詰め寄ってゆく。「誰のおかげで、ここまで来られたと思ってんだ? あわや台無しになるトコだったんだぞ? オイ、解ってんの?」 「何ですか、自分ばかりが功労者みたいに。私が情報収集していなければ、あなただって、ここまで入ってくることはできなかったはずでしょう? 自分ひとりで大きくなったつもりでいるなら、大間違いですよ? 作ることしか能がないくせに」 「何だとテメエ……?」  天狗と河童は、剣呑とした雰囲気を漂わせながら、空中で距離を詰めてゆく。 「ちまちま手元で細かい作業しているのがおあつらえ向きの河童には、広い世界なんか見えないんでしょうねー。だから、心までせせこましくなる」 「ブンブンうるせえその口が二度と開かねェように、バーナーで溶接してやんよ」  言い合う二人は――それゆえに、まったく気付いていない。  にとりが受け止めたほうの黒いファイルから、人の形をした紙片がはみ出していることに。 「河童という生き物は、言葉遣いが幼稚でたまりませんねー」 「いい加減にしねえとブッ飛ばすぞクソ天狗」  いよいよ鼻の先まで肉薄したにとりが、文の胸ぐらを掴み上げる。しかし、  ――ガツゥゥゥン! 「あ……」  ぐらり。  ぐらり。  再び大きく揺れ動く銀色の壁を、呆然として見つめる二人。  とんでもない不運だった。腕を正面に突き出した反動で、にとりの背負っていたリュックサックが書棚に激突してしまったのだ。  ぐらり。  ぐらり。  眼前で起こっている事の重大さに対し、実感が湧いてきた頃にはもう遅く、  ――ゴォォォォン。  ゴトン。ガラガラ。ガシャン。メキメキ。ズシィィィン。ドスン。  向こう側へ、ドミノのように次々と倒れてゆく、巨大な書棚の群れ。  不快なほどに真っ白だった照明が、いっせいに赤色に切り替わる。崩壊が奏でる工事現場さながらの騒音さえも、けたたましく鳴り始めた警報によってことごとくかき消された。 「…………」 「…………」  天狗と河童は掴み掴まれの格好のままで、ぽかんと宙を見つめている。  赤く点滅する室内。  響きわたる警報の濁音。  直後――二人はくるりと同時に顔を見合わせ、 「逃げろおおおおおおおオオオオオォォッ!」  どちらともなく絶叫すると、出口へ向かって猛スピードで飛び出した。  本日午後二時、『妖怪の山』最重要機密資料庫に侵入者あり。  零番警備隊、現場に急行し、速やかにこれを確保。  捕縛された侵入者は、以下の二名。  鴉天狗――射命丸文。  河童――河城にとり。  いずれも同胞たるべき山の妖怪である。  大天狗議会は、以上の二名を反逆者と認定。 『妖怪の山』は、反逆者を最低六ヶ月間の追放処分とし、危険性のある武器、能力、その他道具類をすべて剥奪の上、該当期間における山麓以内への立ち入りを固く禁ず。  また、反逆者は白狼天狗部隊の監視下に置かれ、追放期間中は外部への一切の干渉も認められない。  以上の決定について、反逆者が拒否又は抵抗を辞さぬ場合には、大天狗議会による審議の上、『妖怪の山』は更に厳重な処分を下すであろう。
MB!SP:P-2
マウンテン・オブ・バッカーノ! 《スポイラーズ・プロローグ》  姫海棠はたては珍しく外を歩いていた。射命丸文の跡をつけるためだ。かの最速たる新聞記者が、いかにして大衆の人気を集めているのか、或いは、彼女の新聞記事を好評たらしめている要素は何なのか。そうした秘密を明らかにすることは、同じく鴉天狗の新聞記者である彼女にとって、世の中に起こるさまざまの事件を取り沙汰するよりも、遥かに優先すべき事項なのであった。  豊かな栗色の髪を頭の両脇で結ったこの少女は、昔から同業者の尻を追うことを生き甲斐としていたわけではない。今だってそんなつもりはないのだ、と顔をしかめながらかぶりを振ったはたては、他の鴉天狗たちと同様に、山の警備隊と新聞記者の仕事を両立してこなす、まことに勤勉な妖怪であったのだ。  少なくとも、客観的には、そういう評価で名が知れていた。  いや――むしろ、未だに知られていない、と言うべきか。 (私だって、好きであんなムカツク女のことを調べてるワケじゃないっての。アイツさえいなければ、『偵察』も『取材』も、全部おうちで済むっていうのに……!)  それが彼女の本意であり、本質でもあった。  岩陰に隠れながら、上空を移動する同業者の様子をうかがう。はたての右手には、表面に可愛らしい花柄をあしらった、黄色い小箱のようなものが握られていた。外の世界で『携帯電話』と呼ばれている道具だ。彼女が山中で拾い、技術部の河童に調整してもらったものであるが、幻想郷ではローカルな機能しか使用できない。つまり、撮影や録音といった副次的な機能は利用できるが、電話として通信に用いることはできないのである。  しかしながら、最初に配属された部隊が最下級クラスであり、偵察用の写真機の配給も受けられなかったはたて――抜きんでた実力を持つ天狗ではなかったため、警備隊設立当初より目立たぬ存在であった――にとっては、むしろ通話機能など不要であった。電話としては致命的な欠陥を負ったこの黄色い箱が、鴉天狗として立場の弱かった彼女には、強力な武器になりえたのである。 (ふうん……やっぱり、間違いなかったわね)  はたては頭上を仰ぎながら、口の両端を満足げに吊り上げた。何かを探しているのか、あちこちへ視線を向けながら、いつもより落ち着いた速度で空を飛んでいる射命丸文――『文々。新聞』で幻想郷じゅうに広く名の知れた、『最速』の異名を持つ新聞記者を地上から追跡しつつ、彼女はたびたび左手に握った写真に目をやっている。携帯電話を入手して以来、自室に揃えた周辺機器を用いて、プリントアウトしてきたものだ。 「やはり……やはり水色のしまぱんッ!」  ガッツポーズと共に、思わず叫んでしまった。慌てて岩陰にしゃがみ込んだはたての背後で、文が不審げに後方へ首を回す。  はたては岩に背をつけたまま、息を殺していた。文の自宅から中央山頂付近のこの地まで、慎重に尾行してきたのだ。こんなところで、しかもとんでもなく恥ずかしい理由で見つかってしまうわけにはいかない。  決して少なくない量の冷や汗が頬を伝ったが、どうやら気付かれずに済んだようで、文は首を傾げたのち、すぐに前方への飛行を再開した。様子をうかがってから、はたても追跡を続ける。 (危ないところだったわ……)  ふう、と溜息を吐きながら、額の汗をぬぐう。はたての左手に握られた写真には、しましま模様のショーツを穿いた、ふくよかなお尻のアップが、ぼんやりと写っていた。 (それにしても可愛いおぱんつね。私もたまには、こういうの穿いてみようかしら……)  そこまで考えてから、はたては激しく首を左右に振った。 (――って、違うわよ! 私ってば、いったい何をやってるワケ……ッ?)  気を取り直して、水色パンツの写真を左胸のポケットに仕舞い込む。すると、その下に重なっていた別の写真が表に出てきた。そう、こちらが本命だ。何も好きこのんで、嫌いな奴の下着の色を確認しにきたわけではないのである。断じて、違うのである。 (ああ、もう! だから何考えてんのよ私はッ!)  はたては顔を真っ赤にしながら、前方を飛んでいる鴉天狗の姿を見上げた。そうすると、水色のしましま模様が嫌でも視界に入り、目の保養――いやいや、まったく目に毒であることこの上ない。  姫海棠はたては、射命丸文のことが嫌いだった。少なくとも彼女は、己の心にもやもやとした苛立ちを抱えているし、「私はアイツのことが嫌いなんだ」とたびたび呪詛のように唱えてもいる。 『文々。新聞』創刊以来、その評判は、組織の最下層でくすぶり、苦悩するあまり引きこもりがちだったはたての耳にも、暴風のように飛び込んできた。写真機を引っ提げ、西へ東へ情報収集のために飛び回る――そんな鴉天狗像に憧れを抱いていたはたてにとって、射命丸文という辣腕の新聞記者の存在は、羨望よりも嫉妬の対象として捉えられた。  多少の揶揄を込めて、周囲から『動物園』と呼ばれている施設に配属され、長いあいだ使い魔の世話係を務めてきたはたては、五年ほど前に携帯電話、もとい写真機という武器を手に入れたことによって、ようやくまともな警備隊の任に就けるようになった。同時に新聞記者としての副業も始め、落ちこぼれの鴉天狗は、長年の夢を叶えることができたかのように思われた。  だが、そこで彼女の前に、巨大な壁として立ちはだかる者が現れた。――それが、射命丸文という名の鴉天狗だったのである。  文の新聞は、紛れもなく一流だった。幻想郷に起こる刺激的な事件や神秘的な現象をいち早く記事に取り上げ、新聞を作る手も、配り回る足も速い。そうしたことで、良かれ悪しかれ、多くの人々の話題を呼んでいる。皆の注目を集めている。  一方はたては、立場こそ以前よりましになったものの、相変わらず家にこもっていることが多かった。写真機と『新しい力』があれば、積極的に外出する必要がなかったからだ。動かずに、素早く、幅広く記事を集める。そういうことができる『能力』を手に入れたために、はたては滅多に動くことがなかった。彼女だからこそ、「珍しく外を歩いている」などという表現が、違和感なく適用されてしまうのである。偵察も取材も、すべて部屋の中にいるだけで済んでしまうのだ。  だが――それゆえに、はたての書く記事は新鮮味に欠けていた。はたての『姫風新聞』に掲載される記事は、そのほとんどが、文が先んじて作った『文々。新聞』の二番煎じであり、人々の好奇心を煽ることができなかったのである。  とはいえ、はたてはプライドの高い天狗であったから、意図して文の書く記事をまねていたわけではない。文のネタ帳を盗み見たわけでもないのに、内容がしぜんと被ってしまうのだ。つまり、面白い新聞を作ろう、と真剣に考えた時、文と似たような事件に目が向いてしまうらしく、そうすると、どうしても発行スピードが追いつかないのである。加えて、文の新聞のほうが量的にもはるかにボリュームがあり、はたての新聞と被っていない部分の記事も面白いときている。  文に遅れをとってしまうだけでなく、実力の差まではっきりと見せつけられている。そのため、姫海棠はたての名も、彼女が作る『姫風新聞』の名も、かの最速たる鴉天狗の活躍の陰に隠れて、いっこうに広まることがない。  ごく普通の、真面目な鴉天狗として、身の回りの者たちからは一応高い評価を得られてはいるが、それもあくまで狭い世界での話だ。稀代のエースだとか、大天狗の寵児だとか、突出した呼び名があるわけでもない。ともすれば、一方的に恨みを持っているだけで、射命丸文のほうは、こちらの存在を認識していないかもしれない。  こうした現状は、彼女が思い描いていたような輝かしい鴉天狗像にはほど遠く、不本意であることに他ならないのであった。 (今に見ていなさい、射命丸文。絶対に、アンタをそこから引き摺り下ろしてやるんだから!)  空の高みを飛んでゆく同業者を見上げながら、はたては密かに闘志を燃やす。  今まさにそうしているように、彼女は頻繁に文の行動を追跡調査している。こうした尾行には、下着の色を確認するよりも、ずっと重大な目的があった。  射命丸文の不自然なほどに迅速なネタ集めについて、何らかのからくりがあるに違いないと疑っていたはたては、彼女の行動に密着し、その秘密を暴き出すことにしたのだ。文自身のことに関する記事であれば、絶対にネタが被ることはないし、新聞紙上で新聞の作り手の姿を描き出すという斬新さもある。報道を先んじられ、常に射命丸文という存在を敵視し続けてきたはたては、こうして人々の興味を惹き付け、なおかつ、かの最速たる鴉天狗を陥落させることのできる、一石二鳥の名案を思い付いたのである。  まばらに生えている木々の陰を渡り歩くようにして、はたては追跡を続ける。この辺りになるともう、標高による森林限界が近く、身を隠すのにも一苦労であった。 (目的地は……これで、間違いなさそうね)  左手に重ねて持っていた数枚の写真の中から、一枚を選んで引き抜く。入り組んだ金属のパイプ、ドーナツ型の巨大なテーブルが置かれた広間、背の高い書棚の立ち並ぶ空間――彼女の持っている写真は、どれも何らかの施設の内部を撮影したものであったが、そのすべてがぼんやりと滲むように写っているのが特徴的であった。  しかしながら、そうした写真の中で、今しがたはたてが引き抜いた一枚だけは、異質な空気を漂わせていた。写真がぼやけている点は同じであったが、他のものとは違い、その一枚に写っているものは人工的な建造物ではなく、特に手の加えられた様子のない、自然の風景だったのである。  緑色の草原の中に、奇妙な形の岩が散在している、神秘的な空間。その奥に、灰色の岩肌を露出させた、険しい崖がそびえている。 (『天狗の奥庭』……やはり妙ね。どうして、ここが『写った』のかしら)  疑問を抱きながらも、はたては歩を進めていく。文は時おり周囲を見回しながら、ゆっくりと前方へ飛んでいる。『能力』の活用によって、これから行こうとしている場所が判っているので、跡を追うはたても決して焦るようなことはない。  現在地、移動方向からして、『天狗の奥庭』――はたての写真に写されている不思議な草原こそが、文の目的地であることに間違いはないだろう。  射命丸文が現在、妖怪の山に頻発している地震の原因について、調査を進めているらしいことは知っている。今回の中央山頂付近に存在する天然の名庭に、果たして何を調べに来たのだろうか。  気になるのは、この写真の中心。灰色の岩ばかりが転がっている草原の真ん中に、一点、異質な青い色が写っている。はたてには、青く長い髪の人物が、正面にある崖のほうを見据えてたたずんでいるように見えた。  文が『天狗の奥庭』へ向かっている理由は、この青髪の人と何か関係があるのではないか。近頃、中央山頂付近で『青髪の女』を目撃したという噂は、はたても聞いたことがあった。だとすれば、この人物こそが、山に頻発している地震に関与している――少なくとも、文はそのように考えている、ということになる。  はたてはぐるぐると思考を巡らせながら、追跡を続けた。目的地は近い。もう五分と歩けば、木々のまばらなこの場所よりも更に開けた、岩だらけの窪地に出る。そこを抜けると、険しい崖を背にした、神秘的な草原が現れるのである。  しかしながら、窪地に差し掛かったところで、前方を飛行していた文が突然、空中で静止した。 (……? どうしたのかしら)  はたてが首をかしげていると、文は宙に浮かんだまま、おもむろに両手を挙げた。彼女はその姿勢を保ち、ゆっくりと降下してゆく。まるで円盤の腹から降りてくる宇宙人みたいだ、などと奇妙な想像をした直後、窪地の左右の崖から、不意に数個の影が飛び出してきた。それを見て、文がなぜ急に停止したのか、ようやく合点がいった。 (あれは……壱番警備隊だわ!)  トップレベルの隠密機動部隊がなぜここに、と一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに理解した。灰色の服に身を包んだ数名の山伏たちは、地上に降り立った文を即座に包囲していた。彼らは、何らかの理由のもとで、この地を見張っていたのである。  そして、その理由を、はたてはすでに知っていた。正確には、個人的な敵対心から文を追い続けてきた結果、彼女もそれを知ることになった、と言うべきであろう。  ――山に頻発する地震に、妖怪組織の上層部が何らかの形で関与している。  射命丸文の地震調査が、そうした事実を明らかにする目的で行われていることを、はたては知っていたのである。今日まで文が調査のためにおもむいてきた土地は、例外なく上層部――大天狗議会の直轄施設だったのだ。はたてが所有している『天狗の奥庭』以外の写真も、そうした施設の内部を写し出したものであった。  だからこそ、それらの中にたった一つ、自然の風景の写真が混じっていることが疑問であったのだ。だが、たった今、その理由もはっきりした。壱番という数字を冠する上位警備隊が、一見して何の変哲もないように思えるこの窪地を見張っているということは、この先に広がる『天狗の奥庭』にも組織の上層部に関わる何らかの要素が隠されているのに違いない。  大天狗議会と地震のあいだに隠された秘密を暴き出す――文のしていることは、ともすれば、反逆罪に問われかねない行為であった。けれども、自分の所属している組織を裏切ることについて、彼女には迷いがなかった。  射命丸文という敏腕の新聞記者を敵視し、彼女をずっと追い続けてきた姫海棠はたてだからこそ、そうした心情もよく理解していたのである。  射命丸文の密着調査を開始してから、かれこれ五年。実のところ、はたてはすでに、当初の目的であった『文々。新聞』の秘密を掴むことに成功していた。いかにして迅速に、かつ面白い記事を数多く集めることができたのか。  答えは単純だった。射命丸文は、自ら事件に関わり、時には踏み込むべきではない領域まで踏み込んで、直接的に引っ掻き回す。彼女は発生している騒動の中心にぴったりと寄り添い続けることによって、神業とも言うべき発行ペースを実現させていたのである。  そうした新聞記者としての文の行動は、捏造とまでは言えないものの、自分で事件を起こし、自分で取材するということに、限りなく近いものがあった。いくら外見的に潔白を装っていても、そこには彼女を失墜させることのできる穴が、いくつも存在していたのだ。そして、そうした要素は紛れもなく、はたてが密着取材の成果として求めていたものであることに他ならなかった。  けれども、はたては今日に至るまで、文の行きすぎた取材の実態を『姫風新聞』に取り上げてはいない。何度も書き表そうとはしたものの、いつも途中で筆が重くなってしまうのだ。はたてにとって、それは願ってもないスクープであったはずなのに、今の彼女にはどうしても、文をおとしめることができなかった。それ以上に、はっきりと理解したことがあったのだ。  射命丸文は、悪人ではない――むしろ、本当に優れた新聞記者だった。それがいかに敵対心に端を発する行動であったのだとしても、文を追い続け、彼女のことを見つめ続けてきた、はたてだからこそ言える。  文の行動は立派だった。  とても敵わない、と思った。自分のような部屋に閉じこもってばかりの新聞記者が、真実を獲得するためならば己の身の安全もかえりみない彼女に、追いつけるはずがなかったのだ。そのことに気付いた時、はたては同時に、自分のしていることの愚かさにも気が付いた。重箱の隅をつつくような記事で、文の新聞記者としての気高い精神をおとしめるような行為は、まことに意地汚く、恥ずかしいことだと感じたのである。  上層部がひた隠しにしてきた、零番警備隊という不審な隠密部隊の存在を明らかにした時もそうだった。文は公表されるべき真実のために、組織に反する行動をとったのである。それを悪意であるとは言い難い。  ずっと昔から望んでいた輝かしい鴉天狗の像が、そっくりそのまま現実になったかのような文の姿に、はたてはいつしか強い憧れを抱いていた。今となっては、かねてから暗い感情と共に燃やし続けてきた敵対心すら、スポーツ選手のように潔い闘争心になりかわっている。  けれども、そうした意識の変化を、はたての心の他の部分は、頑として認めたくなかった。だからこそ、彼女はそんな矛盾した感情のはざまで、もやもやと苛立っていたのである。文の記者としての信念を理解した今となっては、『文々。新聞』の秘密を明らかにしてやろう、などという企みは、文の姿に憧れを抱いている自分に対しての言いわけに過ぎなかった。  はたてが『能力』を用い、部屋の中で『取材』を済ませることに変わりはなかったが、それでも、こっそりと文についてゆく時だけは、何のためらいもなく外へ出てゆくようになっていた。そんな行動が、文に対する見方だけではなく、己の取材に対する意識さえも変えつつあることに、彼女はまだ気付いていない。  岩陰から、様子をうかがう。文は両手を挙げたまま、自分を取り囲んでいる灰色の集団に向けて、何やら話しかけているようだった。もう少し前進して、声の聞こえる位置まで移動したいところだが、いかんせん、この窪地には遮蔽物がほとんど存在しない。 (まあ……ここが麓の森だったとしても、私じゃこれ以上は近付けないわね)  文を包囲しているのは、組織内でも零番隊に次いで高い能力を誇る壱番警備隊の山伏天狗たちだ。距離を取っている現状でさえ、気付かれずに済んでいることが幸運であるというのに、はたてには、これより先へと大胆に接近してゆけるだけの度胸はなかった。  やむを得ず、じれったい気持ちを抑えて見守る。山伏天狗たちの醸し出す剣呑な雰囲気に反して、文は軽い調子で何かを語りかけていた。けれども、しばらくすると、首を左右に振って力なく両手を下げた。  どうやら話は終わったらしい――と、はたてが思ったのもつかの間、文はゆっくりと、こちらへ引き返してきた。空を飛ぶことはせずに、落胆の面持ちで地上を歩いてくる。  相手の視界に入らないように気を付けながら、はたては岩陰から文の背中を見送った。もと来た方向へ、とぼとぼ歩いてゆくその姿は、何とも滑稽であると思えた。 (関係者以外立ち入り禁止、ってワケね。ふふん、ざまあないわ。……それにしても、怒られてしょげている文も、なかなか可愛い――って、だから何を考えてるのよ私はッ!)  頬を赤らめながら、はたては改めて、文が進もうとしていた方向へ目を向ける。すると、ついさっきまで引き返してゆく文の背を睨みつけていたはずの壱番警備隊は、ことごとく姿を消していた。  どこかへ消えてしまったわけではないだろう。彼らは、まだ近くに身を潜めているはずだ。そうして、この窪地を監視し、通行規制をかけているのだろう。  この先のエリア――『天狗の奥庭』に何が隠されているのか気になるが、現状では、ひとまず引き返すしかないだろう。口がうまい文でも通してもらえなかったのだ。話下手であることを自覚しているはたてでは、あの警戒網を突破することなどできるはずもない。 (仕方ないわね……。今日のところは家に帰って、もう少し、資料を集めてみるか)  文も帰ってしまったようだし、情報整理ならば、自宅でも出来ることだ。はたては窪地の先を一瞥すると、肩をすくめて、その場から立ち去ろうとした。 (……?)  振り返った直後、彼女は停止した。どこか遠くのほうから、不思議な音が聞こえたような気がしたのだ。  はたてが首をかしげていると、その小さな音が、再び耳に飛び込んできた。その音は、彼女の真横、右のほうから聞こえてくる。しかし、そちらには灰色の岩壁があるだけだ。それなのに、音は崖の上方からではなく、明らかに岩壁の中から響いてくる。少なくとも、彼女はそのように感じていた。 (何の音かしら……?)  はたては岩壁を見つめる。オオ、オオ、という奇妙な音が、彼女の耳には、まるで何かの鳴き声であるかのように聞こえた。  狼の遠吠えか――そう思い至ったのは、あれは何だったのかと思考をめぐらせながら、はたてが中央山頂から離れ、自分の住処に帰り着いた直後のことであった。  姫海棠はたては、ただの鴉天狗ではない。  彼女は風を起こしたり、素早く移動したり、といった一般的な種族的能力とは異なる、きわめて不思議な力を有している。これは、当初は突出した力を持っていなかった彼女が、携帯電話を拾ったことで、初めて気付いた潜在的能力であった。 「そんな……ウソでしょう?」  思わず、声が漏れた。  自室のデスク。山のように積まれた書きかけの記事の中で、はたては一枚の写真を手に、大きく目を見開いている。たった今、この場で『撮影』した写真だ。  キーワードは、「中央山中」「大天狗議会」「狼」。はたては三つの言葉を用いて、該当する撮影対象を『検索』し、現場へ向かう労力を費やすことなく、この場で『念写』した。  姫海棠はたて――落ちこぼれの鴉天狗であった彼女が、カメラを手に入れたことで見出した、己の内に秘められた力。それは、『念写をする程度の能力』というものであった。  はたては心に思い浮かべたキーワードをもとに遠隔地の情報を検索し、該当する場所の写真を撮影することができる。例えば、「妖怪の山」とだけ想像すれば、自室にいながら山の全景を撮ることができるし、「妖怪の山」「桜の名所」といったように、検索するキーワードを増やせば、より具体的に、複数のエリアを撮影することも可能である。  文を尾行した際に持っていたのも、念写によって事前に入手しておいた写真である。はたては、「大天狗議会」「地震」「射命丸文の調査メモ」というキーワードを用いて複数枚の写真を撮り、文の行き先を把握していた。――ただ、下着の写真に限っては、まったく別の目的で撮影されたものなのだが。  さておき、はたては資料と記事の山の中で、たったいま撮影したばかりの写真を、緊張した面持ちで見つめていた。  壁際からせり出している螺旋状の階段が、この写真に写っている場所が円筒形の空間であることを示している。銀色の壁によってぐるりと囲まれ、異様な雰囲気を漂わせているその場所は、無機質でありながら『舞台』と呼ぶにふさわしいような、奇妙な華やかさを感じさせた。  その中心に、ぼんやりとかすむ一つの白い影が、どっしりとたたずんでいる。周囲に写っている階段の大きさと対比すれば、現場の距離感を掴めない写真の中にあっても、かなり巨大な物体であることが判った。強烈な光の中に浮かび上がったその姿はまるで、四本足で大地を踏みしめた、力強い獣のように見える。 (狼……?)  はたては眉をひそめた。  彼女が『念写』したものは、直接撮影したものではないせいか、ぼやけて写ることが多い。そうでなくとも、この写真に関しては、壁面に取り付けられたおびただしい数の照明が、中心にたたずむ白い物体の輪郭を曖昧にしている。  しかしながら、はたてには、この影が狼の巨躯であるように思えた。無論、はっきりと判別できるわけではない。けれども、彼女は中央山頂付近の窪地で、狼の遠吠えを思わせるような、奇妙な音を聞いている。あの時に響いてきた音の印象と、写真に写っている影の形が、彼女の頭の中で不思議なくらい強く結びついたのである。 (大天狗議会は、中央山中にでっかい狼をかくまってるってワケ? いったい全体、何のために? 仮にそうだとして、この場所は、どこ……?)  疑問が次々と浮上してくる。少なくとも、写真に写っているこの円筒形の巨大施設は、大天狗議会が何らかの理由で隠している、重要な機密事項であるに違いない。 「中央山中」「大天狗議会」「狼」――これら三つのキーワードが導き出した、たった一枚の写真。はたての推理材料と、好奇心の刺激薬になるには、じゅうぶんすぎる要素であった。 (何にしても、よ。もしかして、もしかしなくても……これって、大チャンスじゃない?)  鼓動が早まる。興奮のあまり、思わず、フンと鼻息が漏れた。  これまでの調査結果からして、文は、狼をかくまう機密施設の存在にまだ気付いていない。そう考えて間違いはないだろう。少なくとも、「射命丸文の調査メモ」をキーワードに入れて念写を試みた際には、こんな奇妙な空間は写らなかったのだ。しいて言うならば、工場や議事堂など、特定の施設の内部を写した写真の中に、一枚だけ、『天狗の奥庭』の風景写真が混じっていたのが気がかりではある。だがそれも、今となっては些細な問題にすぎない。  はたてにとって、白い狼の姿を写し出したこの不思議な写真を手に入れたことは、『文々。新聞』を打ち負かすためのまたとないチャンスにつながるのである。  尊敬すると同時に、ライバル視している射命丸文の新聞を打ち負かすことは、彼女にとって悲願とも言うべき大いなる目標であった。『文々。新聞』よりも先に、念写によって写し出された謎の施設に関わる上層部の不祥事を明らかにする。そうすることによって、彼女の『姫風新聞』――もとい、『花果子念報』が幻想郷じゅうにその名を知らしめることになるはずだ。  はたてはこれまで、『姫風新聞』の名で新聞を発行してきた。しかし、本当は自分自身の個性を表現した『花果子念報』の名をこそ、堂々と掲げたいと願っていたのだ。下書き段階などにおいては、一面の右上に『花果子念報』の文字が力強く刻まれているのだが、いざ発行しようとなると、いつもその部分を修正せざるをえなかった。  理由は簡単だ。姫海棠はたては、上層部に対し、自らの『能力』を秘匿し続けている。そのために、自分の新しい力に関わるタイトルを掲げることは、どうしてもできなかった。これは、彼女が『念写』という特別な力を手に入れて以来、組織内においてなお目立てずにいる理由のひとつであった。  彼女がせっかく手に入れた『能力』を公表せずに隠してきたのは、初めこそ「苦労せずして仕事をこなせる環境を維持したい」という、ぬるい考えによるものであった。上層部から偵察や情報収集任務を命じられた際に、念写の力を使って楽をしているということが公になってしまえば、せっかく手に入れた警備隊員の肩書を剥奪され、一気に落ちこぼれに逆戻りさせられてしまうかもしれない。そればかりは、輝かしい鴉天狗像に憧れる彼女にとって、絶対に避けなければならないことだった。  しかし、射命丸文の勇敢な行動によって零番警備隊の存在が明らかになって以降は、『念写をする程度の能力』を秘匿するという行為が、はたての中でより重要な意味を持つようになった。  ――バレたら、消される。  もしも念写能力を持っていることがバレてしまったら、はたては確実に、山の社会から排除されてしまうだろう。上層部の立場からしてみれば、機密施設を念写によって写し出すことかできる力を持つ鴉天狗を部下にしておくなど、爆弾を抱えたテロリストを配下に置くのと同じことだ。おそらく、はたてのように機密事項にたどり着いてしまう可能性のある『能力』を持つ者たちには、「議会の直属となって秘密を共有してほしい」という形で事前に根回しがなされているはずだ。そして、その提案を断った場合、該当者は邪魔者として消されてしまうに違いない。  ともすれば、これは大天狗たちに気にいられるチャンスでもあったのだが、姫海棠はたてには、議会直属の地位にすがりつくつもりなどさらさらなかった。それでは、文のように自由に動くことができなくなってしまう。そうでなくとも、敵に劣ってしまうこと以上に、自由でないのは嫌だった。彼女が組織に所属しているのだって、山で暮らしてゆくには、そうしないと不都合が多いので仕方なく、という理由からだった。  だから、妖怪組織というくくりの中においては、はたては不穏分子にしかなりえないのである。彼女はそれを自覚した上で、己の『能力』を隠し、代わりに己の意志を貫こうとしている。  だが、今回の件を調査し、不祥事を公表してしまえば、大天狗議会の不穏な動向や零番警備隊の脅威に対し、萎縮する必要は一切なくなる。『姫風新聞』として取り繕う必要もなく、『花果子念報』を堂々と発行し、射命丸文のような、いや、文以上の新聞記者として、この名を馳せることができるようになるに違いない。はたてはそう考える。  ともすれば、それは「組織の崩壊」という尋常ならざる事態を招くことにつながってしまうリスクもはらんでいるが、たとえ自分が見て見ぬふりをしたところで、いずれは同じところに射命丸文がたどり着いてしまうことだろう。そして、彼女は何のためらいもなく、大天狗たちの不祥事を記事に書き表し、公表するはずだ。腐った組織を打ち砕く――それくらいの心持ちで、威風堂々と。  憧れの鴉天狗像に近付くためにも、上層部からの圧力や、組織の変革を恐れている場合ではない。念写という楽な手段を選んできたとはいえ、はたての心情は、面白い記事を書きたいという熱意にたぎっている。彼女にとっては、もはや警備隊であることよりも、新聞記者であることのほうが重要だったのだ。文の新聞に、負けたくない。文に先んじて、『白い狼』の存在を見出しすことに成功している。アドバンテージはこちらにある。このチャンスを逃すわけにはいかない。 「姫ちゃん、どうかしたの?」  ふと、我に返る。  はたては回転椅子をくるりと回し、身体を真後ろへ向けた。するとそこには、おかっぱ頭の友人が、首をかしげて立っていた。妖怪の山・北部の中腹にあるこの寮の一室で、昔から共同で生活している鴉天狗の少女である。  彼女とは、使い魔の世話係に任命された時から一緒に暮らしている。はたてだけが警備隊に引き抜かれてしまったが、今でも気の置けない友人同士であった。  そういえば彼女は、今日は非番だと話していた。はたてが帰ってきた時には姿を見かけなかったが、どこかへ遊びに行っていて、たった今、帰ってきたのだろう。写真に見入っていたせいで、物音に気付かなかった。 「いいトコに来たわね」はたてはニヤリと笑みを浮かべて、おかっぱ頭の友人を手招きした。「ねえ、これ、見てみなよ」  燃えたぎる闘争心の渦は引いたものの、はたての心の内には、まだ冷めやらぬ興奮が残っている。彼女は熱に浮かされるまま、嬉しそうに写真を掲げてみせた。 「また、念写したの?」  その言いぐさから解るとおり、はたては親友である彼女にだけは、『念写をする程度の能力』のことを打ち明けていた。無論、誰にも話さないという約束の上でだ。 「これは……何?」  おかっぱ頭の少女はしかし、写真を覗き込むなり、首を大きく傾けてしまった。事前に何の説明もしなかったのだから、当然と言えば当然の反応である。 「大スクープよ。正確には、スクープの種」はたては得意げに胸を張った。「すごいでしょう。《山》の機密施設よ、これ」  友人は心底驚いた様子で目を見開き、「えっ?」と驚きの声を上げたが、はたては構わずに続けた。 「我ながら、すごいものを撮ってしまったわね。この写真を足掛かりにして、この姫海棠はたてが、大天狗議会の秘密を暴いてやるのよ」  白い狼の写った写真をぴらぴらと振ってみせながら、フンと鼻を鳴らしてみせる。おかっぱ頭の少女はしかし、真面目な顔をして、首を左右に振った。 「姫ちゃん。それは、まずいよ」彼女は心配そうな声で言う。「それってさ……つまり、《妖怪の山》を裏切るってことだよ?」 「解ってるわよ」 「解ってない」友人はかぶりを振って、真剣な顔つきで語る。「馬鹿げているわ、そんなの。あなたが考えている以上に、ものすごく危険なことよ」  そう言われても、恐怖心が煽られるようなことはない。だが、その代わりに、はたては内心で驚きを感じていた。はたての知る限り、誰よりも優しく穏やかな性格を持つ親友の口から、「裏切る」などという物騒な言葉が出てくるとは思いもしなかったのだ。  彼女は、はたてのことを何かと気にかけてくれる。昔からそうだった。解らないことは丁寧に教えてくれたし、危ない所へは行かないようにと注意してくれた。実のところ、はたてよりも、彼女のほうが、山での生活が遥かに長かったのだ。  今より百年ほど前、幻想郷に大結界が張られる直前。元をたどれば、そんな激動の時世にふらりと現れて、一人の妖怪としてこの山で暮らすようになった若年の鴉天狗――姫海棠はたてとは、そういう存在であった。だから、警備隊や妖怪組織が発足するに至るまでの経緯も、はたてが山に来る直前に狼たちが悲劇を起こしたことも、彼女はすべて、このおかっぱ頭の少女に教わった。  そうだ、この山には昔、神と崇められた狼がいた。そういう話だ。しかし、彼らは鬼の力によって滅ぼされたはずだ。だとすれば、この写真に写っている巨躯の狼は、一体何なのだろう? 危険だろうが何だろうが、構わない。ますます面白くなってきた。 「カンケーないわ」はたては言った。「私は、私の書きたい記事を書くだけよ。これはチャンスなの。前代未聞の大スクープを取り上げて、『花果子念報』の名を幻想郷じゅうに知らしめてやるのよ」 「どうして、そんなこと?」友人が、顔をしかめて言う。「また、射命丸文ね?」  その瞬間、はたての顔がこわばった。友人の指摘が図星であったこと以上に、彼女の態度のとげとげしさが気になったのである。 「あんな奴、放っておけばいいのに……。他人よりもちょっと飛ぶのが速いくらいで、『最速』だとか何とか呼ばれて、天狗になっているだけの愚か者だわ」  これは、彼女の奇妙なくせだった。この友人は、射命丸文の話となると、異常なまでに敵意を剥き出しにするのである。何らかの理由で私怨を抱いているのだろうが、はたてがその辺りのことを質問しても、いつもはぐらかされてしまうのだった。友人の触れてほしくない部分に深入りしても仕方がないので、「おそらく、この子も文に対して、自分と似たような思いを抱いているのだろう」と納得することにしていた。  はたてが訝しげに眺めていると、ややあって、おかっぱ頭の少女は、はっとして顔を上げた。すると、それまでの態度が嘘のように、彼女はたちまち心配そうな顔に戻って、言葉を続けた。 「とにかく……その写真のことは、忘れたほうがいいよ」 「危険だから?」 「そうよ」 「それでも調べる、って言ったら?」 「姫ちゃん、私は真剣なのよ」  その言葉通り、彼女の表情には鬼気迫るものがあった。  はたてが多少の無茶をする場面があっても、彼女は苦笑しながら「やめておきなよ」と言葉をかけてくる程度であったのに、まさかここまで強く反対されるとは。やはり、組織の不祥事を暴くというのは、それほどまでにリスクの高い行為なのだ。そして、射命丸文はそんな危険な取材だって、我が身をかえりみずに行ってきた。負けるわけにはいかない、という思いが、焚きつけられる。 「いい? その写真には、絶対に、深入りしちゃだめよ」おかっぱ頭の少女は、強く念を押してから、付け加えた。「私は、誰にも言わないから」  ありがたい。そう言ってくれると思って、写真を見せたのだ。念写の能力についてもそうである。この友人は、いつも秘密を守り通してくれた。 「そうね……」はたては写真を眺めてから、もっともらしくうなずいた。「ご忠告ありがとう。心に留めておくわ」 「いいえ。心に留めておくだけでは、だめよ」友人はかぶりを振る。「その写真は、燃やしてしまったほうがいい」  なんだか今日は手厳しいな、と少し考えてから、はたてはゆっくりと、首を縦に振った。 「うん。そうするわ」  白い狼の写った、見知らぬ施設の写真。はたては机のほうに向き直り、それをいちばん上の引き出しに入れる。まだ背後に立っていた友人には、後で必ず燃やしておくわ、などと適当に笑いかけてみせた。  しかし当然、こんな貴重な資料を破棄するつもりは毛頭ない。射命丸文の鼻を明かしてやるためにも、必要な手掛かりなのだ。  自分の書いた記事が、新聞が、多くの人に読まれ、衝撃を与え、もてはやされる。若き鴉天狗は、そんな未来を思い描いて、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。  絡み合い、時にぶつかり合う数多くの思惑を内包しながら、ぐらりと震える『妖怪の山』の一角。引きこもりの鴉天狗――『もう一人の新聞記者』の物語は、こうして動き出したのである。
おにあい
おにあい (鬼っ子がアイドルになる話) 「はぁ~? アイドルぅ?」  畳の上に寝転がっていた伊吹萃香は、思わず飛び起きて、すっとんきょうな声を上げた。 「うむ。アイドルだ」  そう言って頷いたのは、胸の前でがっしりと腕を組んだ巨人。いや、体格の良い女だ。  ただでさえ背の高い女なのに、子供のような背格好の萃香にとっては山のように大きく見える。そんな萃香が、あぐらをかいて座っているのだから、見上げた先で仁王立ちしている女の姿を巨人と錯覚するのも、致し方のない話であった。  けれども、そんな怪物じみた相手に対し、萃香は物怖じするどころか、つっけんどんな態度を示した。 「断る。なんで私なんだよ」  豪胆にも唇を尖らせ、膝の上で頬杖をつく。  対する女は、開いた障子戸の間に立っていた。あまり手入れをしていないのか、針葉樹のようにとげとげしく伸びた金色の髪。その背後には白昼の森林と石畳、神社の庭が広がっている。彼女はそこから上がってきたのだ。  萃香の見上げた先、女の額の真ん中には、赤く鋭い角が生えている。それはこの幻想郷の世において、文字通りの力をもって魑魅魍魎の頂点に君臨する、恐るべき鬼の証だった。  彼女の名は、星熊勇儀。地底の都市を治める、鬼の代表格である。 「有名だからだ」  勇儀はそう言って、ニヤリと笑った。力も権威もそれなりに持ち合わせているはずの彼女が、小さな子供にしか見えない萃香の不遜な態度を気にも留めていない。  理由は明白だ。萃香のオレンジ色の長い髪の隙間からは、左右対称に二本の角が生えている。背格好には随分と違いがあるが、それは紛れもなく、誇り高き同族の証であった。 「山の四天王って肩書きは、旧都じゃ未だに名高いモンだろ」  勇儀はおもむろに、座布団の上にどっかりと腰を下ろした。そうしてちゃぶ台に手をつき、不満げな顔の萃香に肩を寄せる。 「そういうわけで、伊吹萃香。私はお前のことを、アイドルとして人前に出しても恥ずかしくない、立派な四天王の一角だと見込んで来たのさ」  顔が近い。萃香は妙に熱っぽい視線に耐えきれず、勇儀の肩を向こうへ押しやった。 「見込むなよ。迷惑な話だな」  萃香が困惑するのも当然だった。唐突に押しかけてきて、「アイドルになってくれ」と言うのである。  事の発端は、勇儀の元に一通の招待状が届いたことだった。  送り主は、地底都市・旧都の郊外に住んでいる妖怪。地下世界のエネルギー管理者であり、勇儀が兼ねてから懇意にしている友人でもあった。  館で催し物を開くので、旧都の人々も是非招待したい。招待状には、そういった旨が書かれていた。勇儀の元へ送られてきたのは、直接の親交があるからという理由も勿論だが、彼女が旧都の代表者であるからに他ならない。 「イベントの趣旨は、著名な歌手や奏者たちを招き、特設ステージで歌やダンスを披露してもらう、ッてものらしい。要は、アイドル達のライブイベントだ」  事前に有志の参加者も募り、当日には投票形式でのコンテストも行われるらしい。鬼は勝負事が好きだ。なかなか面白そうじゃないか、断る理由はあるまい――是非とも観に行きたいと、勇儀は初め、そう考えた。  だが、そこで一つ、大きな問題が浮上した。  旧都公認のアーティストとして、一組の参加枠を用意してあるので、是非エントリーしてほしい。招待状の末尾に、そんな一文が付記されていたのだ。 「観るだけならいいさ。……だが、誰かが舞台に立たにゃあならんとなると、こいつがちょいと困ッた話でな」勇儀は眉根を寄せて唸った。「今、私らの身近に、歌ッて踊れる人材なんていないんだ。せいぜいが、宴のドンチャン騒ぎが好きな奴くらいさ。まあ、そりゃあ私も宴会は大好きだし、悪いことじゃねェとは思うんだが……どいつもこいつも暑苦しすぎて、とても舞台になんかにゃ立たせられん」  断るという選択肢はない。相手に対して礼を欠く行為であるから、ということは無論だったが、理由はそれだけではない。相手に嫌われるから、というよりもむしろ、こちらの気分を害してしまったかと心配をかけさせてしまうのが嫌だったのだ。  だから勇儀は、神社に居候している萃香を訪ねてきたのである。 「なあ、頼むよ……私の面子が懸かッてるんだ」 「むう……そんなこと、いきなり言われても困る」 「まあまあ、そう言わず……長い付き合いだろ?」  萃香と勇儀は、かつて地上で最も高い山中で共に暮らし、妖怪たちをあまねく統べる四天王として名を馳せた仲である。とある事情で勇儀が地下世界に住むようになってからも、萃香はたびたび旧都へ遊びに行っていた。  そんな気の置けない友人だからこそ、今回の件も一任できると踏んだのである。信頼できるからこそ、勇儀はぶしつけだということを解っていながら、あえて頼みに来たのだ。 「嫌だよ」萃香はにべもなく、そっぽを向いた。「大体、そういうことなら自分でやればいいじゃんか。勇儀だって四天王だろ」 「いや、私じゃあ駄目だ。見りゃ解るだろ? 私がやッたら、アイドルっていうより、アスリートって感じになッちまう」  勇儀は「ほれ、この筋肉を見ろ」とこれ見よがしに腕を曲げて、隆々たる力こぶをアピールした。確かに、あまりアイドルらしくはないかもしれない。暑苦しいというのは、どうやら自分自身も含めての話だったようだ。 「だけど萃香、お前さんなら、見た目にも可愛げがあるだろ。ほら、愛玩動物みたいでさ」 「それ褒めてるの? 馬鹿にしてるの?」萃香は複雑な顔で友人を見据えた。「私じゃなくても旧都には、あの子がいるだろ。ええと、何だっけ。お前に懐いて、いつもくっついて歩いてた、土蜘蛛の……」 「ヤマメだ」 「そう、そう。ヤマメちゃん。あの子にお願いすればいいじゃない」  土蜘蛛の少女、黒谷ヤマメ。そう、旧都には、文字通りのアイドル的存在がいるはずだった。  とはいえ彼女は、持ち前の美貌と人当たりの良さで人気を集めているのであって、人前で歌やダンスを披露しているわけではない。どちらかと言えば、アイドルではなく、マドンナと表現するほうが適切だろう。  それでも、アイドルとして世間的にほとんど公認されているのだ。ヤマメほどに適任と言える人材は他にいないだろう。わざわざ萃香に頼む必要などないように感じられた。  だが、勇儀はあっさりと首を横に振る。 「それはできない」 「はぁ? なんで」 「今、あいつは旧都にいないんだ」 「へえ、そりゃ困ったね。何があったの?」 「ちょいと複雑な事情が絡むんだが……」困ったように頬を掻く勇儀。「まあ、ざっくり言うと、私が追放した。一応、そういうことになっている」 「何じゃそりゃ!」  初耳である。今まで聞かれなかったからな、と勇儀は何食わぬ顔で言った。 「とにかく、諸事情あってヤマメには頼めねェんだよ。だから、こうしてお前に頼んでいる」 「いやいや。だから、って言われても……」萃香は眉根を寄せる。「っていうか、そもそも私、歌も踊りも売り込んだ覚えはないんだけど」 「ああ、それはだな……」人差し指を立てる勇儀。「ほら、山にいた頃に、酔ッぱらってよく歌ッたの、覚えてるだろ。萃香はさ、みんなを盛り上げるのが得意だッたじゃん。歌も踊りも、人一倍上手くてさ」 「ええっ! 何だよ、そんな理由かよ。そんなの、みんなのドンチャン騒ぎと変わんないだろ」  萃香が言うなり、勇儀は不意に両目を鋭く細めた。その瞳には、心なしか怜悧な光が宿っている。 「他の連中とは違うんだよ。お前には、光るモンがある。ちゃんと練習すれば、かなりの高みに行けるッて、私はそう睨んでるね」 「…………」  あまりの真剣さに、まるで心の奥底まで見つめられているようで、萃香はしばし呆然としてしまった。だが遅れて、頭の中に猛烈なツッコミの言葉が湧き上がってくる。  いやいや、高みってどこだよ。こいつは一体、いつからこういう仕事に就いたのだ。勇儀の態度も言葉も、いわゆるスカウトのそれである。  そもそも、大前提として、私に頼みに来たのが間違っている。歌うのも踊るのも、確かに好きだけれど、決して自信があるわけではない。それなのに、大勢の人前に立って歌うだなんて―― 「面白そうじゃない。やってみれば?」  廊下のほうから、一人の少女が部屋に入ってきた。紅白の巫女装束を着た少女だ。 「ええっ、霊夢まで!」萃香は振り返り、紅白の少女を非難する。「いやいや、ここは、私を助けるところでしょ。なんであっさり賛成しちゃうのさ。他人事みたいにさぁ」 「他人事だもの」 「うへえ……そりゃないよ。あんたは鬼か!」 「鬼はアンタでしょ」  神社の巫女にして家主、博麗霊夢は居候の鬼をバッサリと斬り捨て、台所から持ってきた盆をちゃぶ台の上に置いた。  それから何事もなかったかのように、「どうぞ」と二人に茶を配る。勇儀は調子良さげに会釈して、差し出された湯呑みを受け取った。  一見して線の細い少女が、力強き鬼と対等に話ができるのも、彼女が妖怪退治のエキスパートとして計り知れない実力を秘めているからこそだ。実際、萃香も勇儀も、かつて霊力なり妖術なりを駆使した対決において、幾らかの手加減こそあったものの、この巫女に対しては敗北を喫している。 「いいじゃない。いつもの宴会の、延長だと思って参加すれば」霊夢は腰を落ち着けると、自分の茶をすすりながら、改めて後押ししてきた。「宴会の時は、みんなに聴かせてあげてるんだからさ。そりゃあ、人の数は増えるかもしれないけど……結局のところ、同じことでしょう?」 「全然違うよ! 何だよう、霊夢……他人事だからって、適当なこと言うなよぉ……」  涙目になる萃香。アイドルなんて考えたこともないし、大勢の衆目に晒されながら歌うだなんて、恥ずかしくてできるはずがない。  そんな彼女を見かねたのか、霊夢は湯呑みを置くと、そっと片目をつむってみせた。 「歌で人を喜ばせるなんて、素敵なことじゃない。あんたになら、きっとそれができるわよ」 「えっ……?」  思わず、ドキリとする。  素直に褒められて、悪い気はしなかった。萃香は上目遣いになり、恐る恐る、問う。 「そ……そうかな?」 「ええ」 「本当にそう思う?」 「もちろん」 「勇儀も?」 「うむ」 「ふぅ~ん……そうかぁ」  褒めそやされ、萃香はとろけた。この場に鏡があれば、酔っぱらってもこんな顔にはならない、と自ら断言しただろう。  輝かしいステージの上で、スポットライトと声援を浴びる自分の姿を想像する。花のような、風船のような、色鮮やかな可愛らしい衣装を着て、踊る。なかなかに魅力的だ。  ただ、どうにも照れくさい。そんな恥ずかしいことは、到底できそうにもなかった。萃香は割り切ることができず、いっときの夢想を振り払う。それから冗談めかして、勇儀にわざとらしい笑みを向けた。 「でもねぇ、そう言われてもねぇ」ひょいと肩をすくめてみせる。「私だって忙しいんだからね……こんな風に、急にお願いされてもね。困りますわぁ」 「……そうなのか?」  勇儀の質問に、萃香は答えなかった。その頬を、冷たい汗が伝う。  代わりに、じっとりとした眼差しの霊夢が言った。 「来る日も来る日も人ん家で酒飲みに明け暮れてるその口でよく言うわね」 「なるほど、暇なんだな。じゃあ頼むわ」 「ええっ!?」焦りと驚愕のあまり、萃香は白目を剥いて卒倒しかけた。「ちょっと、霊夢! 余計なこと言わないでよ!」 「事実を言ったまでよ。まったく、鬼のくせに嘘つきだなんて不健全な子ね」 「ぐっ……!」言葉を詰まらせる萃香。「う、嘘じゃないもん! 私は、酒を飲むのに忙しいって意味で言ったんだもん!」 「――と、いうことですから、どうぞ連れていってちょうだい」 「合点承知! よし、行くぞ萃香」  渦中の人を置き去りにして、いつしかとんとん拍子の会話が成立していた。 「いや、勝手に話を……うわああ!」  咎めようとしたところで、萃香の小さな身体が唐突に宙に浮いた。勇儀に首根っこを引っ掴まれ、狩られたウサギのように持ち上げられたのである。 「待って! こら、勇儀! 放せ!」  じたばたと抵抗するが、勇儀のたくましい腕はびくともしない。萃香はそのまま引きずられるように、庭のほうへ下りていく。 「放してよ! 私オッケーなんて言ってないし! ちょ、痛い痛い! あっ、霊夢! 何してんのさ! にこやかに手を振ってるんじゃないよ! 見てないで助けてよ! 放せ……いや放して下さい! だ、誰か助けてェ――ッ!!」  かくして幻想郷に、一世を風靡するアイドルが誕生するのだが――それはまた、別のお話。