幻想郷裁判員制度
幻想郷裁判員制度
著: 神方山 祈
イラスト: 廊下窓
初出: 2009/12/30

<あらすじ>

○徳に満ち溢れた「地獄行き」希望者
○『自然』を裁くことは可能か?
○生き返るべきか……迷える霊魂   ほか

『楽園の最高裁判長』四季映姫・ヤマザナドゥと『三途の水先案内人』小野塚小町の奇妙奇天烈、幻想郷的判例集。

プロローグ
プロローグ  灰色の石壁に囲われた、四角い空間。  板張りの天井は小山ひとつ入りそうなほどに高く、左右を眺めてみれば、端から放った矢を、向こう側の端まで届かせることさえ難しそうなくらいに広い。それほどまでの広大さを有していながら、奥の壁際が階段状にせり上がっていることを除いて、この一室は見渡す限り平坦な世界である。空気の密度は低いが、そのことがかえって冷たく無機質な雰囲気を絶対的なものにしており、立ち入る者にほぼ例外なく張り詰めた感覚を抱かせる。  それは、私とて例外ではない。ましてや、かような未熟者である。しっかりと向き合わなければならないと理解していながら、今すぐに逃げ出してしまいたいという気持ちを抱いてしまうほどの重圧だった。  物という物もほとんど置かれていない、がらんどうの空間ではあるが、階段状の区画の頂上には、磨き上げられた花こう岩の台と椅子が、豪壮さと厳然さをもってずっしりと配置されている。無論、未熟者がさような上席に座れるはずもなく、私はというと、その巨大な椅子の隣、申し訳程度にしつらえられた小さな腰掛けの上で、飾りと言うにも面白くない陳腐な置物みたいになっている。  石製の肘掛け椅子には、巨躯と威厳を備えた閻魔が一人。  そう――ここは、地獄の裁判所。  死者を裁き、罪有る者には相応の罰を与え、地獄か、冥界か、天界か、あるいは他の異世界か、その行き先を決定する場所である。  とはいえ、死者たちは、十王によって下される審判、七回のうち一回でも合格と判断されれば、魂を冥界に送られ、転生を待つことができる。さらに、七回すべて不合格であっても、後に三回の審判が追加され、そのいずれかに通りさえすれば転生への道が開けるという、場の厳粛さや緊張感とは裏腹に、仕組みの実情は、肩透かしなくらいに易しくかつ優しく出来ているのであった。  ただし、それは、一般的な人妖の魂を対象とした、ごく普通の審判であればの話である。 「はて、さて。困ったものよの。かような案件は、まこと珍奇につき」  そのお方は、糸のような目をさらに細めて言った。  質素な紺色の布を、肩から垂らすようにして身にまとっている。数珠のように編み込まれた頭髪の上には、衣と同じ紺色の冠を載せており、決して派手な服装ではないのにもかかわらず、はだけた胸の前で垂直に掲げられている長大なシャクも相まって、巨体からにじみ出る威光は、いっそうおごそかなものになっていた。  五道転輪王。  十王の一人にして十番目、死に至りし時より二年後に霊魂の前に現れ、最後の審判を務めるお方である。 「まさか、お前ほどの者がなあ。まったく、難儀なことよ」  転輪王様は、台越しの遥か下方へ難しげな視線を向けるとともに、深い溜息を吐いた。  これは十回目の審理でもなければ、そもそも、死者の行き先を決定するための審判ですらない。現在、この法廷が開かれているのは、まだ死してはいない者の罪の重さを量る裁判のためであり、平常業務ではないからこそ、手の空いていた十番目の閻魔が駆り出されたのだ。  私から見て、巨体の転輪王様の向こう側には、もうひとつ小さな腰掛けがあり、書記官の死神が札の上に筆を走らせている。かくいう私、紺色の冠もかぶれずに緑色の髪の頂上をさらしている私が、未熟者のくせになぜこの場にいるのかと言えば、立会人として、この裁判を見学させて頂いているのだ。  閻魔見習いである私は、今回のような事例は滅多にないことであるということで、勉強のため特別に招かれることになった。またとない重要な機会、しっかりとした立ち振る舞いを見せて、転輪王様に失礼のないように、それどころかお褒めの言葉を頂けるようにと意気込んでいたのだけれども、現状においてはまったくそういうことができておらず、想像以上に重々しい現場の空気に耐えるのがやっとであり、小さな私は修行不足を恥じるばかりである。  冷たい汗のにじんだ額をぬぐいながら、転輪王様の視線の先を、私もじっと見据えていた。  長方形の敷石で隙間なく埋め尽くされた灰色の床の上に、ポツリとたたずむ小さな影がひとつ。  あまりにも広い空間、ただでさえこちらと床との距離が離れているというのに、転輪王様の身体が熊のように巨大であるせいで、そこに立っている者の姿はさながら豆粒のごとき様相を呈している。  紫色の着物姿。  黒色の蝶のかんざし。  金色の長い髪を、頭の後ろで巻いている。  溜息まじりに転輪王様が見下ろした先には、裁きを受けている者――妖艶な美女の姿があった。 「己が何をしでかしたのか、よく理解しているはずよの」  転輪王様はいたって穏やかな口調の裏に、棘のような厳しさを込めて問いただした。けれども、その艶美な女性は、柳のようにうつむいたまま応えない。  転輪王様の迫力に、私は思わず身体を強張らせてしまっていたが、対する女性の態度にはむしろ、周囲からの威圧をまったく意に介さぬ余裕が感じられた。うつむいてはいるものの、いかなる言葉にもまったく動じることはなく、巨体の閻魔による糾弾と、法廷の張り詰めた空気を受けて萎縮しているような、そんな様子では決してない。  大罪人。  彼女の肩には、判決の下されていない現状において、すでにそのような悪名が貼り付けられている。  転輪王様は机上の筆を取り、掲げたシャクの上に墨を走らせた。巨体に見合った長い筆が、きわめて単純に、たったひとつの罪の名を書き記してゆく。私はその様子を、穴が開きそうなくらい興味深げに見上げていた。  それから溜息ひとつ吐くと、転輪王様は、重々しい声音で罪状を読み上げた。 「霊魂侵犯」  細い目の上で、眉根がわずかにつり上がった。  彼女の罪は重い。  霊魂侵犯――文字通り、死者の魂を勝手に改変したのである。  生き物を殺害するということは、言うまでもなく重罪であるが、それでも一概に「地獄行き」という判決が下されるわけではない。例えば、人間は生きるために動物の肉を食べるし、妖怪は生きるために人間の肉を食べる。また、そうした弱肉強食の世界において、襲われた側が身を守るために相手を殺してしまうこともある。生きとし生けるものたちすべてが、時にはそうやって罪を犯しながらも、それに報いるだけの善行を積み重ねて、死という名の終点に至るまで、精一杯歩み続けている。閻魔はこれらの複雑な事情をしっかりと吟味した上で、彼らの人生に相応の敬意を表しながら、正当な裁きを下し、時には説教もしつつ、引導を渡すのである。  この流れにおいて、事件、事故、自殺、他殺、いかなる経緯に基づいた結果であろうとも、ひとつの死を経た魂は、死神の舟に乗って三途の河を渡り、彼岸にて閻魔の審判を待つことになる。途中で生き返る者などの例外はあるが、あくまで原則的に設定された段階において、死者の魂が消失してしまったり、ねじ曲げられてしまったりするようなことは、絶対にあってはならない。 「肉体という器さえあれば、死してもまた、いずれ生を謳歌できることもあろうに」  死者の魂を歪めた。  それが、彼女の犯した大罪であった。  地縛霊を捕まえて、仲良く遊ぶのとは、わけが違う。その程度ならば可愛いものであり、むしろ、死霊を処理しきれていない閻魔や死神が悪いと言われても文句は言えない。 「人の魂が歪められるなど、断じてあってはならぬことよ。……それも、個人のわがままによるものとなれば、もってのほかである」  それまでは、まだ穏やかさを残していたはずの転輪王様の細い目が、いよいよもって鋭い光のみをたたえた。  その眼光を受けて、金色の髪の女性は、ゆっくりと顔を上げる。その顔を見て、私は、はっと息を呑んだ。  驚いたことに――きめ細やかな頬の上には、大粒の涙が流れていたのである。 「私は」  震える声。  巨体の転輪王様を見上げながら、やっとのことで、言葉を発している。閻魔を恐れているわけではないということは、未熟な私の目にも明らかであった。自分の中の、何かと戦っている、そんな印象が見受けられる。  紫色の美女は、嗚咽をこらえるようにしながら、必死に声を漏らした。 「私は、私が欲しかったの」  美女がそう言い放つと同時に、転輪王様の眉間には、地割れのように深いシワが刻まれた。私はそれを見て、思わず身体をのけぞらせてしまう。  私は、彼女の言葉の意味を知っていた。この裁判に立ち会わせて頂くに際して、事の次第を事前に勉強してきたためである。彼女の経歴も、狂おしいまでの執着も。 「まことに愚かで自分勝手である」転輪王様は、鋭い目つきのままでそう言って、紫色の美女に長大なシャクの先端を差し向けた。「許されざるよ。八雲紫」  幻想郷と呼ばれる世界を築き上げた、大いなる存在。  数多の信仰を集め、神とさえ呼ばれた聡明な女性。  賢者ヤクモ・ユカリ――それが、紫色の着物を身にまとった、美しき罪人の正体である。 「判決は、言うまでもなかろうが」そう言った時には、転輪王様はもはや、怒りを通り越して呆れている様子であった。「これも義務ゆえ。平時の審判と異なりても然り」  八雲紫は、涙を流したまま、唇を噛みしめている。私は、今までまったく別の思いを巡らせていた彼女が、転輪王様の「判決」という言葉を受けて、ようやく裁判に向き合った、といったような印象を抱いた。  そんな私の考えは、きっと間違いではなかったのだろう。  私には、八雲紫の罪に関して、思うところがあった。  彼女の犯した罪の概要。それは、「彼岸に送られるべき死者の魂を捕らえて、再び同じ肉体に順応するようにつくり変えてしまった」というものである。つまり、治療以外の悪魔的な方法で、死者をよみがえらせてしまったのだ。  それだけならば、私も何ら複雑な思考を差し挟むまでもなく、「重い罰を受けても仕方がない」と考えただろう。けれども私は、事件の表面的な部分だけでなく、彼女が禁忌を犯してしまった理由を知っていた。無論、そんなことは十王もご承知の上であろうが、ぬかるんだ土の上を歩くように、私は心に引っ掛かりを感じていたのだ。 「八雲紫」  ひと呼吸の前触れ。  転輪王様の口から、堂々と黒の判決が言い渡される。 「お前は、有罪だよ」  しかしながら、その言葉にはどこか、満を持しての緊張感のようなものが欠けていた。それも当然のことで、さような判決が下されるであろうことは、この事件を聞き知っている者ならば、誰もが初めから解りきっていたのである。  私は、事前に十王全員が集って、この件に関する議論を行い、判決や懲罰の内容が決定されたことも知っている。だからこそ、きわめて重い罪に対する裁判であるにもかかわらず、実際に判決を下す場には、十人いるうちの、たった一人しか出てきていないのだ。これは罪の有無を判断するために開かれた法廷ではなく、あくまで有罪であることを前提とし、罪の重さと懲罰の内容を確認する、それだけのことを行うための裁判なのである。  生者による霊魂侵犯には、まず極刑という重罰が与えられる。それを大前提とした上で、永劫に近い時を地獄の拷問に耐えながら過ごしてゆかなければならない。――浅学な身分ながら、私もその程度の知識は持ち合わせている。  けれども私は、今回の裁判において、いずれ下されることになるであろう極刑という大前提に対してさえ、心の内に煙の如きわだかまりを抱いていた。八雲紫という女性は、ほんとうに、地獄へ送られなければならないのだろうか。私ごときが出すぎたことを考えたものだとは思うし、未熟さ、経験の薄さゆえの誤った判断にすぎぬという気持ちも確かにあるけれど、それでも私は、何か大切なもののように、違和感をまったく捨て去ることができない。 「死者の魂を改変した罪は、あまりにも重きにつき。いかなる罰をも、受け入れる心構えはできておろうな」  転輪王様は、解りきったようなことを、あえて問い掛けた。もうくつがえることはないのだ、取り返しがつかないのだということを、罪人にいま一度はっきりと自覚させて、その心に責め苦を与えるためであろう。  巨体の向こう側では、書記官の死神が、さしたる感慨も抱かずに、淡々と筆を走らせている。それすらも、重苦しい空気の不変性を強調しているように思えた。  だが、そこまで考えて――ふと気付く。私はそういったことを、決して気を紛らわせるためではなく、いたって冷静に視認しているのだ。私はもはや、法廷の迫力に気圧され、「逃げ出したい」などという気持ちを抱いてはいない。そういう自覚が、遅れてついてきた。 「八雲紫を極刑に処す」  転輪王様は、厳しい声で言い放った。  今度は前触れのようなものはなく、不意に鋭い竹槍を突きつけるように、私が想像していたとおりの処置が、ずっしりと確かな重さをともなって宣言された。対する紫色の大罪人は、いよいよもって苦しげな嗚咽を漏らすと、これまでどうにかせき止めていた部分さえも決壊してしまったらしく、よりいっそうの涙をとめどなく流し続けている。  その表情を遠目に見つめながら、私は思う。  ――彼女の意思は、汲み取られないのだろうか。  八雲紫という人物の経歴を勉強してきた私には、どうしても、そういう感情をぬぐい去ることができなかった。  幻想郷という世界を生きてきた中で、冷静なたたずまいを一切崩すことがなかったといわれる賢者が、恥も外聞もなく、大粒の涙を流し続けている。その理由だって、私には容易に想像がつくのに。  所詮は、同情にすぎないのかもしれない。  主観的で、愚昧な意見なのかもしれない。  けれども、これは本当に、正しいことなのだろうか。  千年に一度の特殊な事情を、単純な決まりごとのように処理してしまうことが、果たして正解なのだろうか。十王の議論を前提としているとはいえ、八雲紫の意思は、この判決に少しも反映されているようには思えない。  転輪王様の前では、私など虫のように小さな存在であるけれど、それでも、私の潔白な精神が、薄墨を垂らしたようなわだかまりを感じている。  そういう思考が沸点に達したとき、私はいよいよ自分の立場もわきまえることなく、この裁判に横槍を入れてしまったのだ。 「待ってください」  勢いよく起立した直後、小さな私の心には、激しい後悔の念が押し寄せた。それでも、もう後には退けない。かぶりを振って、ためらいを捨て去るしかない。 「おや……」  転輪王様の細い瞳が、私の小さな身体をいぶかしげに見下ろした。書記の死神も、美しき罪人も、驚いた顔でこちらを見ている。  私は改めて萎縮したが、決して引き下がるわけにはいかない。ここで引き下がってしまえば、何か大切なものを失ってしまうような気がした。果たしてそれが何なのか、いまひとつ判らないほどには、私は未熟者だったのだけれど。 「四季映姫。緑頭の娘よ。どうかしたかの」  転輪王様の目が、私の顔をじっと見ている。  十王の判決が、そう簡単にくつがえすことのできるものではないということは、よく理解している。ましてや、未熟者の私が、本来ならば裁判に口を挟むことすら許されぬ身であることは、常日頃からわきまえているつもりだ。  けれども、わだかまりを放っておくことができない。  されども、こればかりは黙っていることができない。  私は、無力な未熟者である。  それでも――精一杯の声が、どれほど小さなものとして見下されようとも、私は、自分の気持ちに嘘をつくことだけは、絶対にしたくはなかったのだ。  だから私は、およそ物怖じという感覚を取り払い、矢じりのような鋭い意思をこめて、はっきりと言い放った。 「罪人の処置に、異議があります」
判例1
判例1 鬼と鬼灯      1 「田辺有蔵、無罪。冥界行き」  墓石のように四角い空間に、凛とした声が響き渡る。  磨き上げられた花こう岩の壁は、数段にわたって平行線を描く無数の燭台に彩られ、炎を照り返して橙色に輝いている。逆に、それ以外に光の入り込む隙はほとんど存在せず、広大な空間そのものは寝覚めのようにぼんやりとして薄暗く、重苦しい空気をたたえていた。 「吉野善兵衛、無罪。冥界行き」  鈴の音を思わせるその声の主は、この平坦な空間の中で唯一、階段状にせり上がっている壁際の頂上で、巨大な石製の肘掛け椅子の上に腰掛けていた。  つまり、その人こそが、この法廷の主なのだ。  紺色の衣装と冠を身につけ、金色のシャクを掲げた、威厳あふれる緑髪の閻魔。――と、いうのは理想を描いただけの誇張であり、実際のところ、五重の塔みたいに高い石づくりの背もたれに対して、私の体躯はあまりにも小さく、椅子の上に堂々と腰を沈めているというよりは、誰かが戸棚にしまい忘れた一体のこけしがポツリと置きっぱなしにされているように見えて、どうにも滑稽な雰囲気をかもし出してしまっている。  私の体躯、と一人称を用いたことからすでに明らかであるように、これまでの記述は、自分自身を含めた周囲の事象を客観的に観察した、私自身――すなわち、『楽園の閻魔』四季映姫・ヤマザナドゥの思考である。  鈴のような声だとか、よくもまあ恥ずかしげもなく言えたものだ、と思われるかもしれないが、私はあくまで客観に徹しているつもりだ。その証拠に、必ずしも、自らの美点ばかりを挙げているわけではない。  公的な裁判における判決というものは、すべからく裁判官の客観的良心のもとに下されるべきであり、常日頃から自分自身を他者の視点で注意深く観察するということも、死者を裁く閻魔として大いに称えられるべき心がけであると言えよう。……と、いう評価も、あくまで客観的なものであると思いたい。 「堺喜助、無罪。冥界行き」 「前島つる、無罪。冥界行き」 「板橋与七郎、無罪。冥界行き」  灰色の床の上に、入れ替わり、立ち替わり、白色の霞のように現れる死者の霊魂を見下ろしながら、シャクの上に決まりきった文言を書きつづり、私は堂々と宣言する。一人の審判が終わると、書いた文字をすぐに布巾で消し去り、次の相手を見据えては、また似たようなことを書き込む。  さながら、シシオドシ。  水を流し込んだ竹筒が、一定の間隔で傾き、岩にぶつかって硬質な音を立てる――そういったことを繰り返すように、閻魔の裁判は、いたって事務的に進行する。 「高坂半蔵、無罪。冥界行き」 「小早川とみ、無罪。冥界行き」 「山崎太郎右衛門、無罪。冥界行き」  現れた霊魂を見れば、その名がシャクの表面に浮かびあがる。これはシャクに備わった機能であり、それを読み上げるのは、むろん私の声である。傍らでは、巨大な鎌を背負った黒装束の青年が、分厚い閻魔帳の上にせわしなく筆を走らせていた。  現在の裁判は、昔のそれとはだいぶ異なった形式をとっている。  時代を経るにつれ、人間の数に比例して死者の数も増加し、十王だけでは手が回らなくなってしまった。そのことをきっかけに、裁判の形式が見直されることになったのだ。その当時、最も力の強かった『閻魔王』の名を十王全員が名乗り、一人の霊魂に対して最大で七回、または十回行われていた審判を一審制とすることで、人手不足の解消を図ったのである。  それに加えて、全国各地から新たに閻魔の仕事に就きたい者が数多く募られ、主にそれぞれの出身地での裁判を任されることになった。そのため、現在、死者の審判を務めている閻魔には、各自の担当地域に名高い地蔵に由来している者が多い。  かくして、閻魔と死神、加えて、重罪の霊魂を虐げる地獄の鬼たちが集められたのだが、単に集めただけではまとまらず、仕事にならない。そういうわけで、十人の『閻魔王』を頂点に据え置き、その下に就く『裁判官』の閻魔とその部下の死神、そして『鬼神長』を筆頭に獄卒を務める鬼たち、という構造のもとに統制が敷かれ、『是非曲直庁』と呼ばれる組織が誕生したのである。 「内藤千代、無罪。冥界行き」 「村上惣吉郎、無罪。冥界行き」 「小野沢勘兵衛、無罪。冥界行き」  多くの霊魂を短時間で裁かなければならない現状、閻魔には、素早く正確な判断力が要求される。  長いあいだ閻魔としての勉強と経験を重ねてきた私は、生来より有していた『無意識下の決断力』を更に鍛え、目まぐるしく進行する裁判に有効活用している。霊魂の有罪・無罪だけではなく、目に入れたものの真偽や善悪なども迷わず瞬時に判別できる私の力は、『白黒はっきりつける程度の能力』などと称され、上司を含めた周囲からの高い評価を得ているのだ。  相手の経歴を読み取ったうえで、積み重ねてきた徳と罪とを天秤にかける。そうした計量を中心に複雑な審議が展開され、その結果としての判決が頭に浮かぶ――私は、自らの『能力』をそういうふうに解釈している。けれども、ひとたび『能力』に頼ってしまえば、すべての情報が無意識下で高速に処理され、判決もほとんど一瞬で下されることになるため、実のところ、果たして自分の頭のなかでどのような手続きが行われているのか、いまひとつ具体的な理解に及んでいない部分もある。  白黒はっきりつけると言っておきながら、己を把握しきれていない、と言うのでは、まったく矛盾していると思われるかもしれないが、鳥はなぜ飛ぶのかと鳥に聞いても答えられないのと同じように、この『能力』も私には欠かせないものでありながら、自分自身の理解を超越したものなのだということで、どうにか納得して頂きたい。私自身、これに関しては、常日頃からさまざまの難しいことを考えているのだし、そもそもこの思考だって、誰かに語りかけているようでありながら、自分に言い聞かせるためのものなのである。 「石川庄蔵、無罪。冥界行き――」そう宣言したのち、私は石机の上にそっとシャクを置いた。「以上で、午前の業務を終了します」  肺の中に溜まった熱を抜くように、私は深い溜息をつく。  半刻に一度くらいの割合で罪深き者が現れることを除けば、たいていの霊魂が無罪であり、とりたてて罰を与える必要もない。そのぶん、さしたる気苦労もないのだが、なまじ私の席と床とのあいだに距離があるせいで、多くの死者に対して続けざまに大声を放たなければならないため、腹と喉に疲労が溜まってしまうのが難儀であった。  裁判所の体制は大幅に変更されたというのに、ぜんたいどうして、かような身近で解りやすい物理的な問題点は改善されぬままなのだろうか。実際に「閻魔の椅子が必要以上に高い位置に据え置かれているのはどうなのか」と抗議をしたことは何度もあるが、本庁は「威厳を保つため」だとか言って、いつも現場で働く私の意見を跳ね返してくる。  霊魂の前に出てくる死神がわざわざ重たい大鎌を携えているのだって、そういう「形から入ろうとする」方針のせいなのだ。実際に邪魔そうにしている死神も多いのだが、これが見た目に解りやすい上に、驚かせたり面白がらせたりする意味合いにおいて、訪れる死者たちには割と好評であるため、文句ばかりを投げつけるわけにもいかない。  不本意な話だが、現実問題、法廷においては、身長に比例して小さい私の威光が、配置の高低差に助けられているのも事実である。そういうわけなので、どうせ些細な不便、まあ強そうな印象を与えておいたほうが裁判もやりやすいか、と思い込みながら、我慢を続けているのであった。  そんなことを考えつつも、ひと仕事終えて安堵していた私は、「ええい」とヒマワリみたいな伸びをした。 「四季様。お疲れ様です」  そこへ、横から水を差すように、低い声が掛けられる。私をねぎらってくれたのは、黒衣を身にまとった青年。先ほどから、書記官としての業務をまっとうすべく、私の審判に遅れまいとして必死に筆を動かしていた死神だった。  この場合、「水を差す」という言葉に慣用句的な解釈をもたらすと、語弊が生じてしまう。つまり、ヒマワリの私に水を与えてくれる、という意味で用いた表現なのであって、部下のささやかな気遣いに対して、不快な感情を抱いているというわけでは決してないのだ。  背中に負った大鎌を重たそうにしながら、律儀にも席を立って頭を下げてくれる青年。この『青年』という呼称は、人間の若者らしい外見についての評価からくるものであり、厳密に指摘するならば、死神としての実年齢にはそぐわない表現であるかもしれない。少なくとも、身長差はともかくとしても、私よりは年下であるから、そういうふうに呼んでしまったほうが解りやすい。そしてこの青年は、現状においては私の下で働いてくれてはいるものの、本来は、私の直属の部下ではない。 『死神』というのは、地獄に住まう妖怪――霊魂や鬼を除いた、いわゆる『地獄の民』を種族として分類した言葉であり、そのほとんどが『是非曲直庁』の業務にたずさわっている。私が担当している地域は『幻想郷』であるが、この法廷の書記官は、本庁から派遣されてくる死神が、一年ごとに交代で務めている。そのため、直属の部下としての扱いは、あくまで一時的なものなのであった。 「四季様の裁判は、とてもよい勉強になります」死神の青年は、うやうやしく礼をした。「ありがとうございます」 「いいえ。私は、私の職務に忠実なだけですよ」私はやわらかい口調で言葉を返したのち、巨大な椅子から飛び降りるようにして、床に足をつけた。「あなたがよい勉強になったと言うのであれば、それは私の姿から何かを学び得ようとする、あなたの努力のたまものでしょう」  ごく少数ではあるが、きわめて難易度の高い昇進試験を通過して、死神から閻魔に成る者もいる。閻魔の席は基本的に地蔵出身の者たちで飽和しているため、死神という妖怪身分から成り上がるのは難しいことなのだが、とりわけ裁判への臨席を許されるほどに優秀な者は、おおかた裁判官の仕事に憧れを抱いており、針の穴ほどに狭き門をくぐらんとして、熱心に修行を続けている死神も少なくはない。  彼もまた、そういう死神の一人なのだろう。利発そうな青年の顔を横目にしながら、私は床の上でもう一度、大きく伸びをした。 「これから、お食事ですか」青年がきいた。 「ええ」石塔みたいな椅子の横から、水入りのひょうたんを拾い上げて、私はうなずく。「ご一緒しますか?」 「いえ、その、とんでもございません」  青年は慌てて言いながら、鉄柱みたいに硬くなった。たまにはいいかと思って申し出てみたのだが、何がとんでもないのだろうか。上司と部下との格式の違いのようなものを気にしているのであれば、遠慮は必要ないというのに。  そうは言っても、やはり、目上の者と面と向かって食事をするというのは、居心地が悪いことなのかもしれない。かつて十王の前で箸の運びもままならなかった青臭い自分の姿を思い起こし、小さく苦笑しつつ、私はひょうたんの水をひと息に飲み下した。 「広島君」私は青年の名を呼んだ。「裁判について、何か聞きたいことも、あるのではないですか」 「はい、まったく、その通りです」彼はまだ硬直したままであったが、正直にそう答えた。  不必要なまでに緊張させてしまい、何だかいたずらを試みているようで申し訳ないのだが、年がら年中、一人で食事をするというのでは面白くないし、時には仕事仲間を昼食に誘うくらいの一興は必要であろう。 「では、いい機会です。一緒に食堂へ行きましょうよ」  いつもは自分で弁当を作ってくるのだが、昨晩遅くまで書類をまとめていた関係で、今朝は起きるのが少し遅くなってしまい、時間が足りなかった。どうせ職員用の食堂を利用することだし、わざわざ孤独を選ぶ理由もないので、よっぽど嫌われているのでなければ、是非ともご一緒して頂きたいと思う。要するに、話し相手が欲しい。 「はあ……。ですが、その」広島は少しだけ首を落として、覗き見るようにしながら言った。「ご迷惑では?」 「いえいえ。それこそ、とんでもないですよ」私は苦笑しながら言った。「何も、肩肘を張る必要はありません。せっかくですから、あなたのように勤勉な死神とは、色々とお話をしてみたいのですよね。業務中では、せわしないですから、ちょっと言葉を交わすような時間もありませんし」  私がそこまで言うと、それなりに安心してくれたのか、広島君は強張っていた身体をいくらかゆるませた。急に力を抜いたせいで、背負った大鎌の重さを忘れていたのか、だいぶよろけてしまったのが、少しだけ可笑しかった。  態度のぎこちなさから解るとおり、広島君は、私の下に就いてから、まだ数日と間もない。それに加えて、楽園の閻魔を務める私のことを、以前から尊敬してくれていたらしく、必要以上に謙遜してしまっているのだ。私個人としては、敬われることに悪い気はしないが、ぎくしゃくしているよりも、多少は砕けた接し方をしてくれたほうが、居心地は良いのだが、なかなかそうもいかないのだろう。  私は紺色の冠を外して、椅子の上にのせた。ちょっとしたことのように言うけれど、実際は、ほとんど棚の上に物を置くような動作だ。本当に、この座席の異様な高さだけでも、何とかならないものだろうか。 「それでは、参りましょうか」 「はい。恐縮です」  それから私たちは、巨大な椅子の背後に隠れている、小さな扉のほうへ歩いていった。そこが、職員用の出入口なのである。  この四角く広大な法廷を劇場に置き換え、私たちが仕事をする壇上の区画を舞台にたとえるならば、舞台袖にあたる位置、左右それぞれの壁にも、職員用の通路につながる扉が一つずつ存在していた。何か特別な裁判の時には、迫力を演出するために、あえてそちらから入室し、ゆっくりと歩いてきて、椅子の上に座るのだが、なにぶんそこに至るまでの距離があるため、平時に利用するのは背後の扉でじゅうぶんなのだ。  廊下へ出てゆきながら、私は昼食の献立に思いをめぐらせる。日替わりの献立、今日はライスカレーだろうか。そうは言っても、ライスカレーが出される日を事前に調べて弁当を持ってこないようにしているため、今日がその日ではないことは解りきっている。調理場の皆様に行き過ぎた期待をかけてしまうのも悪い。……とはいえ、可能性はきわめて低いが、まったくゼロであるというわけでもないだろう、という希望も捨てきれない。 「おや」  そこまで盲目的に考えて、私はふと、不思議なことに気が付いた。自分の足音はよく響いているのに、後ろからは何も聞こえてこないのである。  もしやと思って振り返ると、案の定、もうだいぶ遠くになっている扉のところで、死神の青年が何やらあたふたしていた。背中のほうへ手を回しながら、申し訳なさそうに、こちらの様子をチラチラとうかがっている。  大鎌が引っ掛かって、うまく通れずにいるのだ。  なんとも滑稽なありさまを見て、私は深い溜息を吐いた。死神の間抜けさに呆れているのではない。あんな鈍重なものをわざわざ持ち歩かせようとする方針がよろしくないのであって、律儀に従っている広島君は何も悪くはないのだ。  ――それにしても、今は引っ掛かっているが、法廷の中へ入るときには、一体どうしていたのだろう。  そんなつまらないことを考えつつ、私はもう一度、鉛のような溜息を吐いてから、誠実な部下を助けてやるために、もと来た道を引き返していった。      2  結局、日替わりの献立はライスカレーではなかった。少し落ち込んだけれど、サバの味噌煮も美味であったので、まあよしとする。  いくらか閻魔としての助言を与えたり、本庁に務めていた頃の思い出話を語り聞かせたりしているうち、針金のようであった広島君もだいぶ打ち解けてくれたようで、質問なども積極的に投げかけてくれるようになった。 「――おや? 四季様、これは何でしょう」  だから、私よりも先にそれに気付いた彼は、余計な遠慮など挟まず、何気なく問いかけてきた。  午後の業務のために法廷に戻ると、巨大な肘掛け椅子の正面に、唐草模様の風呂敷包みが置かれていたのだ。底のあたりには重石でも入っているのか、見た目にも重量感があり、上のほうはとがったようになっているので、何か棒状のようでもある。 「私あての荷物ですね」  そうは言ったものの、贈り物にしては、妙である。伝達係の職員は、私が不在の時にはこんなふうに物を放置しないで、いったん出直し、私が居る時に直接会って連絡をしてくるはずだ。と、いうことは、この包みの送り主が直接ここまで届けに来て、これを置いていったのだろう。  唐草模様の風呂敷とは、盗人じみていて趣味が悪い。とはいえ、私に大きな不利益をもたらすような、たとえば爆薬とか、そういうものを法廷に持ち込むことはできないので、私は迷わず包みの結び目に触れて、そこに折りたたんで添えられていた紙切れを開いてみることにした。 『おそれながら書き付けをもってなんとやら。わたくし、このたび、こちらの部署におきまして、三途の河の船頭に就任することに相成りました者でございますそうろう。向後よろしくお願いしますなのであります。かしこ』  どうやら手紙であるらしく、それらしいことが、それなりに丁寧な文字で書いてあるのだが、文法や形式がめちゃくちゃで、一行も読み終わらないうちに、私はたちまち苦いものを食べたような顔になっていた。  残念なことに、その左側には、まだ折れて隠れている部分があったので、私は雨風のあとに雷をくらったような心境で、恐る恐る開いてみた。するとそこには、『追伸』と書いた横に、整っていたはずの文字はどこへやら、急にミミズが這い回ったような、見るにたえない字面になって、以下のような文章が、たいへん汚らしく記されていた。 『四季様がいらっしゃらないようなので、日を改めてご挨拶にうかがうことにして、ひとまず仕事に戻ります。包みの中のお花は、お近づきのしるしです。観賞用にどうぞ』  どうやら、『追伸』より後の部分は、この場で慌てて書き加えたらしい。礼儀というものを知らぬ、いや、中途半端に礼節をわきまえているせいで、かえって不勉強さが目立つ文章であり、私は今すぐにでもこの手紙の送り主をしょっ引いてきて、説教したくてたまらない気持ちになった。  そう思って、手紙をひっくり返してみたのだが、どこにも送り主の名が書かれていないことが解ると、私はもう腹立たしい気持ちをすっかり通り越して、寂びたような溜息を吐き出すほかなかった。 「広島君」手紙に目を落としたままで、私は呼びかけた。 「はい」左手のほうから、すぐに返事がきた。 「今日から、船頭に就任した死神を知っていますか?」私はそちらに顔を向けて、きいた。「確かに耳に入れたはずなのですが、名前を失念してしまいました」  恥ずかしながら、うっかりしていた。昨晩から今朝にかけて、あわただしかったので、三途の河に新しい死神が来るという話があったことも、私は今になってようやく思い出すことができたのである。  広島君は初め、私の後ろで興味深そうにしていたのだが、他人あての文書や荷物を勝手に覗き見ることは失礼だとよくわきまえているらしく、私が手紙に目を通し始めた頃にはもう、自分の席について書類の整理を始めていた。 「小野塚小町さんのことですか」彼は言った。 「オノヅカ・コマチ。そうです、そいつです」私は手紙を持っているほうの手首を、恨みがましく掲げて振った。 「小町さんが、どうかしたのですか?」  私は首を傾げている青年に向けて、例の憎たらしい紙切れを、思い切り広げて見せ付けてやった。広島君はすぐに眉を吊り上げて、顔を近づけてきた。おそらく、後半のミミズの筆跡のほうが、先に目に付いたのだろう。 「うわあ……」彼は苦笑した。「これは、ひどいですね」 「まったくですよ。この、小野塚というのは、一体どういう教育を受けてきたんだか」  そもそも、どうしてこんなのが寄越されたのだろう。  当初は人手不足の渦中にあったのだから、是非曲直庁に所属する面々の能力にばらつきがあるのは、まあ仕方あるまい。しかしながら、そうであるとしても、このような、手紙文からして明らかに不良と思しき未熟者を、さらなる修行を積ませようともせずに、とつぜん私のもとへ派遣してきた本庁の意図が理解できない。厄介払いも結構であるが、私の裁判所は、払われた厄介の掃き溜めではないのだ。 「四季様、ご安心下さい」苛立つ私に、広島君は穏やかな声を掛けてきた。「小町さんは、私の知る限りでは、優秀な死神であるはずです」 「優秀? これが?」私は紙切れを指差した。 「そうです」 「船頭になりたがるような、変わり者がですか?」三途の河の渡し守なんて、退屈な肉体労働を好んでやりたがる死神は、そうそういない。「それとも、そういう役職にあてられたせいで、落ちぶれたのか」 「それについては、詳しく存じ上げてはおりませんが、小町さんは、頭はよく回るし、体力もずば抜けていて、同僚たちのあいだでは、一目置かれている方でした」 「本当ですかね」私は半眼を向けた。 「ええ、間違いないです。何せあの人には、寿命管理室において、室長を任されるという話もありましたから」 「何ですって」  私は思わず、目を見開いた。  寿命管理室長といえば、たいへん名誉ある肩書きである。  人間の寿命の管理とは、可変するぼう大な数値を記録し、またその中から小さな誤りを見つけ出して、天文学的な計算を繰り返す――そういう難しい職務であり、少なくとも、大雑把な文書を寄越すような死神には、まったく縁のない作業であるはずだ。その管理室長ともなれば、ヒラの職員と比べて肩にかかる責務の重さは段違いであり、それらを引き受けられるだけの実力と人望を兼ね備えている者でなければ、決して選ばれることはない。 「ふむ……」私はもう一度、ミミズの筆跡を眺めた。「にわかに信じがたいですね」 「四季様は、仕事熱心な方ですし……こういったお話は、外へは伝わりにくいこともあるので、仕方がありません」 「まあ、そういうものですかね」  本庁においては、閻魔にまつわる噂は伝わりやすいが、その下で働く死神たちの活躍ぶりは、もともと優秀な者が多く突出しづらいせいであろうか、これがなかなか広まらない。ごくまれに、閻魔に昇進した死神の話題で、組織全体が湧き立つことがあるが、その他の話は聞こえてこない。 「ええ」彼はうなずいた。「そして、理由は解りませんが、小町さんは、そのお話を断ったそうです」  広島君の口ぶりから、すでにそういう経歴を予想していた私は、それを聞いてもさして驚きはしなかった。とはいえ、それがもっとも信じられぬところである、ということに変わりはない。せっかくもたらされた出世の機会を蹴りつけて、三途の河の渡し守――言うなれば、下っ端の肉体労働を選択するなど、正気の沙汰とは思えない。  いかに優秀であると言われても、何ともつかみがたい、いわくつきの相手であるとなれば、どうにも先行きへの不安が膨らんでしまう。私の部下として、今後しっかりと働いてくれるのならば構わないが、妙な手紙のこともあるし、いちど膝をつき合わせて、じっくりと話してみる必要がありそうだ。  とにもかくにも、ひとまず送り主の名前だけでもはっきりしたところで、私はようやく、台上の風呂敷包みを解いてみることにした。食堂から早めに戻ってきたとはいえ、午後の業務もそろそろ始まる頃合だった。  唐草模様の風呂敷をほどくと、ほのかに土のにおいが漂った。そうして、包みの内側から出てきたものを見たとたん、私は何だか妙にあたたかな気持ちになった。 「これは……」  緑色の葉っぱのあいだから、風船みたいに膨らんだ実が覗いている。  円柱形の鉢に植わった、真っ赤なほおずきだった。  少しのあいだ、「手紙には『包みの中のお花』と書いてあったのに、すでに果実になっているではないか」という指摘が脳裏にちらついたけれど、それ以上に不思議な感慨を抱いていた私は、なかなか可愛げがあってよろしい、と思い直すことにした。 「ほおずき、ほおずき。花言葉は、何でしたかね」私は、ほとんど自分に問いかけるようにつぶやいた。 「何でしょう……。花には、うといもので」青年が、横から申し訳なさそうに言った。  私自身がそうであったので、広島君を無知だと言って責めることはできない。職業柄、日々を石壁に囲われて堅苦しく過ごしていると、どうにも趣味的な要素とは疎遠になってしまう。そうは言っても、私にだって趣味のひとつくらいはあるし、憩いの時間が少しもなければ、頭の中身が仕事のことばかりで膨れ上がって、たちまち破裂してしまうだろう。  法廷に何か小さな飾りものを用意することは、私自身、以前から考えていたことであった。しかし、仕事にばかりつぎ込まれる労力に、そういうことに費やせるだけの余地がなかったせいであろうか、なかなか実行に移すことができずにいたので、このほおずきの贈り物は、じつに良い機会なのであった。  私はほおずきの鉢を、椅子の正面から少しだけ横へずらして、そこへずっと置いておくことにした。稚拙な文書のことはひとまず忘れて、新しく部下となった船頭に小さな感謝の気持ちを抱きつつ、私は巨大な椅子の上に飛び乗ってから、またちょっと紅い実を掲げている鉢のほうへ視線をやった。  かくして、ほおずきによって少しだけ彩られた法廷において、訪れる死者たちは次々に適切な判決を受けて送り出され、午後の業務もつつがなく進行し、やがて一日の仕事を終えた私は、優秀な書記官の青年に「明日もよろしく」と声を掛けつつ、すがすがしい心境で法廷を後にする――  ……そのはずであった。  けれども、そんな私のささやかな希望は、枯れ枝を踏みつけたように、あっさりと打ち砕かれることになる。  この日の私は、夜分に差し掛かり、じき業務も終了という、やや気持ちの軽くなってきた絶妙な時分で、油断は禁物ですと言わんばかりに、頭を悩ます特殊な事例に直面してしまったのである。      3 「私、――へ行きたいのです」  台風一過の晴天もさながらに、はっきりとそう言ったのは、白い割烹着の女性。その言葉を聞いた時、私は金魚のように目を丸くして驚くと同時に、静かな法廷にまったく雑音のないことにもかかわらず、自分の耳を大いに疑ってしまった。だからこそ、その人の言葉は明瞭に伝わってきたはずなのに、その発言の肝心な部分が、あたかも何を言っているのか解らない、曖昧なものであるかのように錯覚してしまったのだ。私の頭の中の常識と、彼女の発言とが噛み合わず、上手く処理されなかったのだと思う。  その人は、黒髪のうえに三角巾を巻いているが、べつに調理場の職員であるというわけではない。まさしくそういった印象の服装ではあるけれど、だだっ広い法廷の床の上に立って閻魔の座席を見上げていることから解るとおり、彼女はあくまで私に裁かれるためにやってきた死者の一人なのである。  ――死人に口なし。  本来ならば、霊魂とはそういうものであり、裁判中の法廷に私の声ばかりが淡々と響いているのも、死者が何も語ることがないせいであった。そもそも、本来ならば青白い火の玉のような抽象的な形をとっているはずの霊魂が、人間らしい具体的な姿を維持しているということが、まずあり得ないことなのだ。  人間の魂は、死亡してから三途の河を渡りきるまでの間に、具体的な形を保てなくなる。その理由は、そういう段階の途中で、魂が『生前の記憶』を喪失してゆくためだ。  この『記憶』というものは、時の流れに歴史の流れが刻み込まれてゆくように、生きている者の血潮の流れに宿るものである。それゆえに、死んでしまった者の肉体が血の温かみを失ってゆくにつれて、『記憶』も次第に薄れてゆく。つまり、少なくとも、人間の魂に関して言うならば、元の肉体の温度の低下により生前の記憶を失ってゆく段階で、そのまま引き込まれるように三途の河に至り、彼岸へ渡ってしまうか、もしくは途中で引き返して、息を吹き返すことができるか、ということが決定されるのである。ちなみに、私の知る限りでは、たいていの妖怪なども、死後はこれと同じ道をたどっている。  魂が『生前の記憶』を失い、肉体という器の形状を忘れてしまえば、当然、自分の意思でその姿を取り戻すことは不可能になる。だから、実を言えば、彼女が生前の姿を維持していられるのは、そういうことができるように、私が計らったためなのであった。 「森口幸次郎、無罪。冥界行き――」  午後の業務、私は平時と変わらず、適切な判決を下し続けていた。変わったことと言えば、真っ赤な実をつけたほおずきの鉢が飾ってあるくらいで、私は何ら戸惑うことなく、次に訪れた者に対しても、前の者と同じように無意識の判断によって「無罪」を言い渡そうとしたのであった。  しかしながら、その人の名前を口にした直後、私は初めてソーダ水を飲み下した時のような衝撃をもって、思わず息を呑んでしまったのである。 「西行寺寧々子」私はまず、シャクの上に表示された名前を、何の疑いもなく読み上げてから、その姓に聞き覚えのあることに気がついた。「さいぎょうじ、ねねこ……?」  聞き覚えがあるどころか、忘れてしまうほうが難しい。西行寺とは、そういう名である。  西行寺――別人ではあるが、『西行寺幽々子』と言えば、私の周囲において、まずその名を知らぬ者はない。  閻魔によって裁かれ、冥界へ導かれた死者の霊魂を、転生、もしくは成仏するまでのあいだ、管理している者がいる。つまり、その人こそが、冥界の主としてかの地に住まう、西行寺幽々子という名の亡霊なのだ。  それと同じ姓の持ち主が、死者を裁く法廷に現れた。  それだけでは、私が驚く理由としては不足である。どれほど珍しい名字であろうとも、家族以外で同姓を持つ人物など、広い世間には一人や二人はいるだろう。幽々子と寧々子、下の名前が似ているのも、かの高貴な亡霊の名を聞き知っていた両親が、それにあやかって名づけたか、あるいは、単なる偶然であろうとは思う。  けれども、この西行寺寧々子という人の霊魂が、何かを訴えるように震えている様子を見て取った私には、それと同時に、この死者の名前と、冥界の主の名前との間に、ただならぬ縁を感じざるをえなかったのである。  すっかり生前の記憶の抜け落ちているはずの魂が、明確な意思を感じさせる挙動をとるなどということは、その者がよほど強い思念を抱いて死んだか、あるいはもともと普通の人間ではなかったか、そういう場合以外にあり得ない。 「ふむ……」  私は口元に手をあてて、小さくうなった。  ――西行寺寧々子、無罪。冥界行き。  あの霊魂を視認した瞬間、私の頭の中にはすでに、そういう言葉が浮かび上がっていた。私の内にある、『白黒はっきり付ける程度の能力』とは、そういうものであった。  しかしながら――私はあえて、その判決には従わない。  自分の『能力』を信頼したくないわけではない。ほとんど一瞬のことであるとはいえ、無意識のうちにおいて、緻密にまとめ上げられた徳と罪の数や重さ等をもとに、複雑な計算処理を繰り返した結果を根拠として、私の『能力』が無罪であると告げているのだから、確かにこの人は、無罪とするのが適切なのであろう。そういうことが解っていても、私には、明確な生前の記憶を喪失してなお、何かを訴えようとするほどに強い思念を抱いている霊魂を、何も聞かずに切り捨ててしまうような行いはできなかった。  けれども、死人には口がないし、語りぐさになるような記憶も持たないので、話を聞こうにも、火の玉の形のままぼんやりと漂っているのではどうしようもない。 「広島君」  だから私は、少し考えたあとで横を向いて、書記官の青年に声を掛けた。 「はい」と、彼はすぐに応えた。「どうかなさいましたか?」  私の審判がとつぜん停止したので、この青年は驚きを隠せないようであった。ひょっとしたら、私が抱いた感覚と同じように、彼もまた、手元の閻魔帳に『西行寺』という名前を見つけたことによって、いくらか動揺していたのかもしれない。  そして、私はまさに、その『閻魔帳』に用がある。 「申し訳ないのですが、閻魔帳を貸して下さい」私は指を差すかわりに、シャクの先で示しながら、そう言った。 「えっ?」彼は困ったような顔をした。「四季様、何をなさるおつもりですか?」 「あの者に、『記憶』を返却してみましょう」  私がそう言うと、広島君はすこし高い位置に座っている私の顔と、下方の霊魂の様子とをいそがしそうに見比べたのち、記録に使っていた筆を置いて、そっと立ち上がった。そうして彼は、それまで書き込みを行っていた分厚い本を、開いた状態のままで持ち上げて、巨大な椅子の横へと歩み寄ってきた。 「やはり、何かあるのですね?」広島君が言った。 「ええ」本を受け取りながら、私は答えた。「お話を伺う必要性を感じました」  受け取った本に目を落とすと、紙面の上部に楷書体、横書きの大きな文字で『西行寺寧々子』という名前の記されていることが、さっそく目に付いた。広島君の言動からするに、やはり彼にも、これを見て思い当たる節があったのだろう。  閻魔の制服と同じ紺色の表紙、厚みは数段の重箱に匹敵するこの『閻魔帳』と呼ばれる書物には、死者たちの名前や性別、生前の肩書きや経歴等が仔細に記されており、そこへ閻魔の読み上げた判決が書き込まれることによって、その死者の行き先が決定する。  一見すると、文字ばかりが記録されている無骨な帳簿であるように思えるが、実際のところ、この『閻魔帳』というものは、単なる文献としての資料保管だけではなく、三途の河から転送されてきた死者たちの『生前の記憶』を封じ込めておくという、ある種の呪術的な道具として、重要な役割も果たしているのであった。これらは三途の河の『渡し賃』とは別に、生前の肉体の温度の低下につれて魂からにじみ出てきた『記憶』を、裁判に必要な要素として是非曲直庁の側で自主的に保存しているものである。寿命の計算結果との照合作業等を除けば、近年では手間と人件費の削減のため、閻魔帳そのものが、死者の『記憶』を封じ込めた時点で、あらゆる情報を自動的に文字として記録するようにつくられているのであった。  私は記載されている情報をざっとひと通り眺めたのち、開いたままの閻魔帳を左側の肘掛けの上に置いた。そうしなければ、この分厚い書物のせいで、私の細い腕が折れてしまいそうだったからだ。そうしてから、私はいま一度、西行寺寧々子に関する記述に目を通して、気になった言葉を拾い上げて読んだ。 「『鬼殺し』ですか」  ――鬼殺し。  それは、西行寺寧々子という女性の二つ名、いや、愛称と言うべきか。ともすれば物騒な言葉ではあったが、少なくとも、その辺りの記録をよく読んで、由来まで把握することがもう済んでいた私は、眉をひそめるどころか、その呼称にあたたかな愛らしささえ感じていた。  閻魔帳の記述に目を通した私は、この『西行寺』という姓が、先に予想していた通り、分家としての血筋からくるものであることも理解した。遠い昔に分かれた家柄であるはずなので、分家にしてこの姓のままで通しているということは、よほど丁寧に守りぬかれてきたことの表れである。  私は霊魂のほうへ向き直り、再び部下の青年に声を掛ける。広島君は私の指示のとおりに、『西行寺寧々子』の頁を開いた状態の閻魔帳、その中身を霊魂に向けるようにして、台の上に立てて置いた。少しだけ間隔を空けて、ほおずきの鉢の隣に並ぶ格好になっている。 「では」ひと呼吸の後、私はシャクを胸の前に持ち直すと、いよいよもって宣告を行う。「ヤマザナドゥは、西行寺寧々子に対し、一時的な記憶の返還を許可します」  私の高い声が広漠とした空間に反響すると同時、台上の閻魔帳が、ぼんやりと青白く発光した。次の瞬間にはもう、そのかすかな光は、同じ色をして霞のようにたたずんでいる霊魂のもとへ、吸い込まれるようにして真っ直ぐに伸びてゆく。  やがて光の筋が途絶えると、紺色表紙の書物は元通りの素朴さをもって、ぱたん、と手前へ倒れてきた。その紙面にはもう一滴の墨も残されてはおらず、淡い緑色をしずかにたたえているのみである。それを見た私は、たったいま自分の行った手続きが無事に成功したことを理解して、ふっと安堵の溜息を吐いた。閻魔帳に記された文字自体が、その者の『生前の記憶』の体現であるため、保存されている記憶を持ち主の霊魂に返せば、当然、本に記された事柄も消滅するのである。  光を受け入れた霊魂は、まるで粘土がこねられているようにぐにゃぐにゃと膨らんでゆき、やがてはっきりとした人間の形を作り上げた。  白い割烹着。黒髪に三角巾を巻いた、素朴な淑女。  霊魂が再現する容姿は、その者の生前の記憶に準拠しているため、最も気に入っていた衣装や、日常的に身につけていることの多かった服装などが、そのまま浮かび上がってくるのであった。 「西行寺寧々子」  私が呼びかけると、その人は、ゆっくりと顔を上げた。  松の葉のように毅然とした眼差しと、私の視線とが、ぴったりと重なった。 「はい」という返事が、広い法廷の壁に力強く響いた。 「ここが、どういった場所であるのか、解りますか」念のために、私は確認をする。 「はい」寧々子はもう一度うなずいた。「閻魔様のお裁きを受けるところです」  閻魔帳に記載された時点で、収録された記憶にもそういう理解がついてくるのか、もしくは、記憶を失ったあとで、ほとんど何もない状態で現状を把握しているのかは、私にもいまひとつ解らない。とにかく、ここが閻魔の裁判所であるという認識は、それまで記憶を失っていた霊魂にとっても、前提として獲得できているものであるらしい。  とはいえ、今回のような事例においては、彼女の強い思念が私に何かを訴えようとしていた時点で、ここがどういう場所なのかということを理解している可能性の高いことは、確認せずとも明らかであった。まあ、対話を円滑に進めてゆくに際して、念のため、ということは必要なのだ。 「西行寺寧々子」私は再び、呼びかけた。「あなたには、何か、私に伝えたいことがありますね」 「はい」  それまでと同じように、彼女はうなずく。  想像するに、この西行寺という人は、きっと「莫大な遺産のせいで騒動が云々」であるとか、「遺してきた娘はまだ幼く云々」であるとかいったようなことを懸念するあまり、魂にまで大きな影響が出てしまったのに違いない。だから私は、そういった事情を伺ったのち、しっかりと諭してやって、当初の予定どおりに「無罪」とした上で、『能力』が導き出した冥界への引導を渡すはずであった。  どれほどありきたりな事情であろうとも、多少なりとも揺れている魂は、一方的に切り捨てず、迷いを取り去った上で送ってやらねばなるまい。死者が遺してきた問題に直接干渉したり、生き返らせたりしてやるわけにはいかないが、せめて話を聞いてやることが、私なりの閻魔としての在り方であり、魂への敬意の表れであった。  だが、それさえも、楽観であったと言うのだろうか。  私には、この西行寺寧々子という徳高き女性が、いかなるわがままを申し出てきても、まったく動揺しない自信があった。  それなのに。  絶対に揺るがない自信であったはずなのに、彼女の言葉を聞いた瞬間、あらゆる文句を用意していたはずの私の心の鉄壁は、いとも簡単に崩れ去り、まるで塩をふりかけられたナメクジのように、たちまちにしぼんでしまったのだ。 「遠慮は要りません。言ってみなさい」  自信に満ち溢れていた私が、慈悲の心と威厳をたっぷりにこめてそう言うと、 「はい」と、三度目の返事をして、  西行寺寧々子という女性は、  この、白い割烹着の女性は、  無罪の彼女は―― 「私、地獄へ行きたいのです」  はっきりと、そう言ったのである。      4 「……困りました」  長机にひじをついたまま、私は深い溜息を吐いた。  すでに勤務時間は過ぎているので、平たく言えば時間外業務、率直に言うならば、要するに、これは残業である。自宅に書類を持ち帰って、朝まで孤独に戦い抜こう、と涙ながらに決心したところへ、書記官の広島君が「付き合いましょう」と言ってくれたので、この誠実な部下の言動に対し、いよいよ比喩ではなく本当に涙を流して感動に打ち震えてしまった私は、裁判所に備え付けの小会議室を借りて、こうして机を挟んで対面に座ることになったのである。 「ひとまず、まとめてみましょうか」私は顔を上げて、横に置いてあった書類の束を引き寄せる。 「西行寺寧々子氏について、ですね」広島君が言った。  私は粛々とうなずいてから、ひと通り、書類をめくってみた。ざっと、二百枚はあろうか。閻魔帳にはほど遠いながら、それなりに分厚い。この束が、私のぶんと、広島君のぶんと、二人ぶん用意されている。  しかしながら、この中には、有益な情報はごく僅かしか含まれていない。そして、どの書類が重要であるかということも、すでに解りきっている。それくらいのことは中身を見るまでもなく明らかなので、地道に目を通してゆく必要がないだけ、せめてもの救いであった。 「こちらの束は、寿命管理室から取り寄せたものです」私は書類をごっそりと抜き取って、机の真ん中に押しやった。 「ほとんど、ですね」広島君は苦笑した。  それも当然である。分厚い書類のほとんどが、寿命の計算結果、要するに、現状の議論にあたっては、まったくと言っていいほど役に立たぬ資料なのだ。 「緻密な計算記録が仔細に掲載されていますが、情報量があまりにぼう大です」 「そうですね……。眺めているだけで、夜が明けてしまいそうだ」首を左右に振りながら、広島君は言った。「そもそも、当面の問題を解決するにあたり、果たして数字が役に立つかと考えてみると、これには首を傾げざるをえません」 「ええ。まったくです」私はうなずく。  必要なのは、数字ではなく、もっと別の文字情報だ。  とはいえ、熟慮が必要な案件。まったく無視するのもどうかと思われたので、せめて形だけでもと、私は急いで資料保管庫におもむき、本庁から届いていたものを係の者に取り出してもらった。こういった書類の複製に関しては、古来より霊力を用いた特殊な転写法があるので、時間の面でも労力の面でも、取り立てて苦にはならない。 「まあ、用意したのは、あくまで念のためにということですので、これにはさして注目する必要はないでしょう」 「了解です」と、広島君はうなずいて、分厚い紙の束を机の隅に追いやった。 「重要なのは、この二枚」私は残りの束から二枚だけを抜き取って、よく見えるようにかざした。「閻魔帳の複製です」  広島君も、手元の束から同じものを見つけ出し、広げた。 「これは、予備を複製したものですね?」彼がきいた。 「そうです。こちらも、保管庫から頂戴してきました」記憶を返してしまっているので、原書を見ても情報が得られないのだ。「彼女の生前の行いは、箇条書きですが、すべてこちらに記されています」 「これらの情報に、裁判中の記録を加味して、判決を考慮していくというわけですね」  広島君はそう言って、残りの数枚の書類を軽く持ち上げた。彼が書記官として、私と件の西行寺さんとの対話を記録したものが、そのまま資料になっている。 「今回の案件については、主にこれら二つの資料を中心に考えていきましょう」  さて、もっともらしく、私はそう言ったけれど。  実際のところ、これだけの資料を並べ立てるまでもなく、論点は明白であるし、その答えだって、初めから白か黒かの二択以外にはあり得ない。  こうやって、わざわざ資料を用意したのも、ただ単に、話し相手が欲しかったからだ。つまり、相談する相手は言葉を話さぬ書類であっても良かったということなのだが、死神の青年が付き合ってくれると言うのであれば、自分の口以外に語る者の存在しない孤独な戦場で堂々めぐりしてしまうことを避けたかった私としては、その申し出に飛びつかないわけにはいかなかった。  閻魔としての経験は決して浅くはないはずなのだが、恥ずかしながら、今回のような事例は初めてなのだ。 「地獄へ行きたい、ねえ……」  複製した閻魔帳の記述に目を通しながら、私は深い溜息を吐いた。  西行寺寧々子。生まれつき病弱であったこともあり、享年三十四歳と、だいぶ若くして亡くなったようだ。娘は、まだ幼いのが一人。入り婿の夫とは二十も歳が離れていたが、こちらは五年前に病に倒れている。何かと病との縁が切れない家柄であるらしく、これが『死を操る』と言われる西行寺家の血筋にまつわる呪いであるのかどうかは不明だが、それはともかくとして、私には確かに、五年前にも西行寺の姓を持つ霊魂を担当し、今回の彼女の名を見た時と同じように、少しだけ驚いた記憶があった。  寧々子は病弱ありながら、と、言うより、病弱であったがゆえに、そんな自分を革新すべく、かえって勝気な娘であったそうで、一人で妖怪の棲む山に登るなどして周囲を困らせることもあったが、そういう冒険家、野心家であったせいか、同時に「西行寺のおうちの元気な娘さん」として、里には知らぬ者がないほどの人気者であったという。大人になってからはそういう性格がだいぶ落ち着いたものの、心の強いことはまったく変わらずに、娘にかぎらず誰に対しても面倒見のよい母親であった。  遺された一人娘は、おそらく家を離れて、親戚に預けられることになるだろう。分家とはいえ名門、莫大な遺産を幼い少女一人ではとうてい抱えきれるはずもなく、ともすれば、あまり考えたくはないことであるが、縁者を名乗る連中によってたかって割り込まれ、なかば追い出されるような形で実家を離れることになってしまうかもしれない。  そういうところまでは干渉できないのが私の仕事であるから、致し方あるまい、呪いのようにまとわりついてきた病弱さを奇跡的にも受け継ぐことのなかったらしい健気な娘が、これからの人生を強く生き抜いてくれるように願うしかない。 「まあ要するに、西行寺寧々子、清廉潔白、無罪放免ということなのですが……」そう言ったのち、私は書類に落としていた目を対面の死神に向けて、難しい顔をした。「問題は、そういった事実が、結論ではなく、あくまで前提にすぎないものであるということです」  要するに、無罪だから冥界行き、とはならず、無罪だから、さてどうすべきか、というのが、今回の裁判における論点なのである。 「処遇をいかにすべきか、ですね」広島君が言った。 「はい。西行寺寧々子氏は無罪である、ということは、私の『能力』によって早々に証明済みですし、たった今、吟味した結果からしても、やはりその判決に間違いはないと思います」 「通常ならば、彼女には冥界への引導を渡して、この件は無事解決、ということになりますね」 「そうなるのでしたら、このような場を設けて話し合う必要もなかったのですがね……」私は下唇を噛んでから、言葉を続けた。「西行寺さんは、地獄行きを希望しています」  説明せずとも明らかであるとおり、地獄とは本来、罪人が行くべき場所だ。つまり、閻魔の裁判で有罪判決を受けた者が罰として送られる場所なのであって、無罪の者がそちらへ堕とされてしまうような手違いは、原則的にあってはならないことである。 「しかし、この場合は、どうでしょう」そう言ったのは、再び資料に目を落としていた私である。「西行寺さんには、生前における罪と呼べるような罪は、まったくと言っていいほどにない。それどころか、彼女の経歴には徳ばかりが山のように積まれており、そのこと自体さえも、ひとつの大きな徳であると言えてしまうくらいです」  西行寺寧々子という人は、涙が出そうなくらいの、徹底的な善人であった。『理想的な生き方』と題して、その経歴と写真を額縁に入れて法廷に飾っておきたいくらいの。 「地獄へ行くには、徳を積みすぎていますね」資料をめくりながら、広島君が言った。「そもそも、徳の高さがほんの少しでも罪の重さに勝れば、地獄行きはまずあり得ませんし、罪のほうが多少重かった者でさえ、その場で軽微な罰を与えて、冥界へ導くこともあるくらいですから。そういう観点からすると、この西行寺さんの場合は、徳の高さが尋常ではないですし、地獄行きは論外でしょう」  地獄へ行くには罪の重さが足りません、と言うのもおかしな話ではあるが、事実そうなのであるから、忘年会か何かで笑い話にするならともかく、現状においてはそう軽んじてやり過ごすわけにもいかない。 「広島君。あなたの言うことはもっともです」私はうなずいてから、すぐにかぶりを振った。「しかし、ですよ。ここに、両手からあふれるほどの徳を積み重ねてきた、無罪の死者がいる。そして彼女は、冥界行きではなく、自ら地獄行きを望んでいます。この場合、通常の判決と同じように、無罪、冥界行き、と単純に言い渡してしまうのは、果たしてほんとうに良いことなのでしょうか」 「彼女は無罪であり、じゅうぶんすぎるほどの徳もある。だからこそ、希望を受け入れて、地獄行きとするのが正しいのではないか――と、そういうことですね」  広島君の言葉に、私は深くうなずいて応えた。  どれだけ善行を重ねても、最後に希望が受け入れられない、そんな裁判であってはいけない。けれども、本人の意思であるとはいえ、無罪の者が地獄に堕とされるのも、良いことではないように思う。 「私としては、遺族や遺産に干渉する必要がないのであれば、出来る限り彼女の希望を受け入れたいと思っています」  けれども、私の中の不思議な感覚が、簡単には地獄行きを許そうとしない。それは『能力』とは異なる直感であった。私にはそれが、無罪の者を地獄へ導こうという行為に対する、個人的な罪悪感であるように思えてしまう。 「裁判とは、客観的良心のもと、公正に進行されるべきであり、個人の感情を差し挟むべきではないのですが……」 「事情を酌むにあたっては、仕方のないことです」広島君は、私を励ますように言った。「私は、四季様のことを尊敬しております。しかしながら、必ずしも幾多の業績のみを称えているのではなく、今回のように、死者たちの言葉を真摯に受け止め、理解を深めようとなさる誠実な態度、そして並々ならぬ努力こそを、私は敬慕しているのです」 「そうでしょうか……」私は下を向いて、つぶやく。「私には、ほんとうに、そういうことができているのかどうか。自分では、いまひとつ判りません」 「間違いなく、できています。少なくとも、四季様のように崇高なお考えを持つ閻魔様を、私はほかに知りません」  広島君が真面目な顔で言うので、私は急に恥ずかしくなった。私のように人間的な考え方をする者が、果たして閻魔に相応しいのだろうか。少なくとも、周囲から送られる称賛よりは、批判のほうが耳に付く。そういうことでいつも悩んでいたので、私は少しだけ救われたような気がした。 「ありがとうございます」私は笑みを浮かべながら言った。 「ですが、やはり私個人の罪悪感は、この場には不要です。ここはあえて、西行寺さんの意思を汲み取る方針で、考えてゆくことにしましょう」  彼女の徳の高さからして、その希望を無視するわけにはいかない。天秤上のやり取りとして見るならば、黄金の斧と白銀の斧を同時に買えるだけの金額を差し出された上で、 「鉄製の斧をひとつだけ下さい」と謙虚にお願いされているようなものだ。実際には、徳というものはあくまで判断材料であり、それが金銭になるわけではなく、「地獄へ行きたい」という申し出を呑んだからといって、私に儲けがあるわけでもないのだが、斧の価格を設定したのはこちらであるのだから、「売れません」と言って断るのも筋違いである。  少なくとも、彼女の希望を尊重するという前提を敷いておけば、地獄行きの判決に対する罪悪感を省いた上で、余計なことを考えずに話し合うことができる。よって、ひとまずこの場では、「いかにして西行寺寧々子の地獄行きを認めるか」という方針のもとで議論が行われることになった。 「最も解りやすい方法が、あるにはあります」私は言った。 「彼女の徳に勝るだけの罪を見出すことができれば、無罪の判決を根本からくつがえすことも可能です」 「やはり、そうですよね」広島君がうなずいた。「しかし、それが難しい」 「簡単にそういうことができるのであれば、そもそも私の 『能力』が有罪という判決を下しているはずです」 「そうですね。四季様の『能力』の信憑性については、よく存じ上げております。こちらに配属されるより以前から噂には聞こえておりましたが、実際に閻魔帳に目を通しながら判決を聞いている現在では、それもなおさらですよ」 「ありがとうございます」私は軽く会釈してから、言葉を続ける。「ですが、解釈の仕方によっては、あるいは罪を見出すことも可能かもしれません」 「それは、例えば、どういったことでしょうか?」私の言葉を受けて、広島君は驚いたような顔できいた。「確かに、彼女の幼かった頃には、アリを潰してしまったり、カエルをいじめてしまったりと、無益な殺生の記録はありますが」 「違います。私が言及したいのは、そういった、罪であると判りきっているような事柄に関してではありません」  彼が言い並べたようなことは、当然、私も閻魔帳を読んで把握している。だが、そのような小さな罪は、この場合はほとんど無きに等しいものであった。  殺した生き物の命の重さを差別化したいわけではないが、生きていく上で避けられぬ行為があることは、否定できない。例えば、私だって、ライスカレーに豚肉が入っていなければ、大いに落胆してしまうだろう。それも無知であるならば、なおのことである。有益であろうと、無益であろうと、必ずしも「知らなかったから」といって、生き物を殺害することが簡単に許されるわけではない。とはいえ、自己中心的な愉悦のために殺したならばともかく、幼き者が命の尊さを学んでゆく上で必要とあれば、そうした行為の一つ一つを罪として拾い上げてゆくほうが、神経質でおこがましいと言えるだろう。 「ましてや、そうした経験をもって、善行のかたまりのような人間へと成長したのが、西行寺寧々子という人なのです。小さな過ちをどれだけ天秤の上に載せても、反対側の受け皿があまりにも重たいせいで、持ち上がらせることなど到底できないでしょう」  そもそも、こう言ってしまうと聞こえは悪いが、これは徳高き者をいかにして地獄に堕とすか、という議論なのである。今さら罪らしい罪を並べ立てても、それだけではどうにもならないことは明白であった。  では、つまりどういうことなのかと、早く聞きたくて仕方がない様子の広島君に対し、私は閻魔帳の複製を掲げながら、説明を始めた。 「私が着目したのは、この点です」そう言って、私は閻魔帳の記述の中の一語を指し示す。 「『鬼殺し』……」彼はその言葉を厳粛に読み上げた。 「この『鬼殺し』という二つ名は、西行寺さんを地獄へ導くための要素になりうるのではないでしょうか」  西行寺寧々子という、あの一見して線の細い女性は、そんな印象とは裏腹に、生前に『鬼殺し』と呼ばれ、文字通りに山に棲む鬼たちから恐れられていたという。 「ですが、四季様。その『鬼殺し』という名は、罪に値するようなものではないでしょう」  広島君の意見に対し、私は小さくうなずいて応えた。  彼の言うとおり、この西行寺さんは、あらゆる妖怪たちを上回る力をもって山に君臨する鬼を、ほんとうに殺してしまったわけでもないし、彼らを退治できるだけの特別な力を持っていたわけでもない。  人攫いのために里まで下りてきた鬼を、当時はまだ幼い娘であったはずの彼女が、その勝気な態度だけでうろたえさせ、追い返してしまったというのである。つまり、その時の武勇伝が鬼たちの間で広まり、やがて尾ひれやら背びれやらさまざまな脚色がついた上で、『鬼殺し』とまで呼ばれ、恐れられるようになったのだ。とはいえ、『山の四天王』と呼ばれていた強大な鬼を前にして、いっさい怯えることなく果敢に立ち向かってゆくことのできるほどの度胸は、まさしく『鬼殺し』であると言っていいだろう。それどころか、彼女の生前には、自分を攫おうとした鬼と仲むつまじく対等な付き合いを続けていた記録まであるほどだった。 「この鬼は、彼女の娘に対しても、度胸試しを仕掛けたそうですね」そう言って、私は笑った。「面白い話です」 「再び鬼に攫われそうになった、というくだりですね」閻魔帳に目を落としながら、広島君が言った。 「そうですね。しかし、この時は、娘に助けられている」 「『鬼殺し』の娘は、また『鬼殺し』ですか」彼はその言葉をよく味わうように、しみじみとした表情で言う。「この分ならば、遺された娘さんも、きっと大丈夫でしょうね」  広島君の言葉は、私の懸念をほぐしてくれるようであった。閻魔がそこまで干渉するわけにはいかないが、どうにも気にかかっていたことであったので、彼女の娘さんが言葉だけでも救われたような気がして、少し安心した。 「しかし……この勇敢な『鬼殺し』の名が、どうして地獄へ堕ちるための要素になるのですか?」広島君は若干それてしまった話を戻すべく、気を取り直すようにしてきいた。 「『鬼の威勢を殺してしまうほどの、強い心を持った人』といったふうに解釈すれば、徳のあるように聞こえるので、いけません」本来ならば、それはちっともいけないことなどではなく、むしろ良いことなのだが、私はあえてそのように話した。「そのままの意味で、受け止めればよいのです」 「と、言いますと?」広島君は、小鳥のように首を傾げた。 「広島君。鬼とは、どういう生き物ですか?」 「はい。……鬼とは、質実剛健、豪放磊落、悪鬼羅刹にして最強の妖怪です。妖怪の山の頂点に君臨し、人を攫うモノとして悪名高い。鬼と呼ばれる者たちは例外なく酒呑みで、しかもザルであり、荒くれ者が多い。その個体数は年を追って減少していると言われてはいますが、実際は、地上の暮らしを捨てて、地獄へ移り住んでくる者が多くなったために、人間たちの視点では数が減ったように思われているだけです。地獄へ越してきた者たちの中には、われわれ是非曲直庁の拷問担当として食い扶ちを稼いでいる者が多く、今ではきちんと統制された組織の一員であるため、暴挙をはたらく者は少なくなりました」 「……結構。模範的な解説です」部下の優秀さを目の当たりにして、私は妙に誇らしくうなずいた。 「ありがとうございます」 「では、広島君。さらに質問を付け加えます」 「はい」 「鬼はなぜ、人攫いをするのですか?」 「それは、人間を攫うことによって、後から自分たちを退治するためにやって来る人間の度胸試しを行うためです」彼は初めから用意していたことのように、滑らかに言葉を継いでくれた。「人を攫い、酒を奪い、それらを取り戻すためにやって来た人間たちとの戦いを重ねる――そういった行為の繰り返しは、鬼たちにとっては日常でありながら、同時に、言わばお祭りのようなものでもあり、人間と鬼とは、戦うことによって強い信頼関係を築いていました。ただ、時代を経るにつれて、人間たちが正々堂々と立ち向かうことを忘れていった。地獄へ移り住む者が増えたのも、そのためです。嘘つきと卑怯者が大嫌いな鬼たちは、堕落してゆく人間たちの姿を見て、地上で暮らすことに嫌気が差していったのでしょう」 「満点です」想像以上に優秀な答えに、私は小さな拍手を送った。「だてに勉強していませんね。さすがです」 「あ、いえ、それほどのことでは」彼は恥ずかしそうに頭を掻きながら、そっとつぶやいた。「……恐縮です」 「仔細に補足する手間が省けました。要するに、それが鬼という生き物であり、人攫いを行うことで、彼らなりの平和を築き上げていた、ということです」 「そこに、『鬼殺し』という名を罪とすることを可能にしてしまうような、何らかの要素があるのですか?」 「ええ。そういうことです」 「ああ、しかし……私には、果たしてどうすれば罪を見出せるのか、という根本的なことが、まだ解っていません」 「難しく考える必要はないのです」私は答えを提示する。 「つまり、『鬼の存在意義を殺す』と解釈すればよいのです。『殺す』という言葉の意味を、そのまま悪いことのように読み取ってしまえば、たとい『鬼殺し』というのが称賛すべき呼び名であったとしても、じゅうぶん罪になりえます」 「そうか、なるほど」広島君は、急に目を輝かせて言った。 「ああ、そうか、そういうことか」 「気付いたようですね」 「はい、解りました」彼は嬉しそうに、三回ほど小さくうなずいてから、言葉を続けた。「鬼は、人間たちと戦うことによって、逆に良い関係を築いていた。しかし西行寺さんは、初めは鬼に立ち向かっていますが、以降は戦うことをせずに、仲の良い付き合いを続けています。つまり、そのことが、人間との信頼関係の在り方を崩し、鬼の社会の平和を乱している。よって、それは大きな罪になりうると、四季様がおっしゃりたいのは、そういうことなのですね?」 「素晴らしい」私は再び拍手をした。「そこまで理解して頂ければ、もう私の口から説明することはありません」  裁判とは、裁判官の客観的良心のもとに、公正な判決が下されるべきものである。  私は、死者の遺族のことを気にしていた。べつにそのことを判断材料に加えているつもりはないが、自分では気付かぬうちに、ということもあるだろう。要するに、私の客観的良心は人間寄りであったかもしれず、それではほとんど主観と変わらないのでは、と評されても文句は言えまい。  だとしたら、鬼の観点を採用してみればいい。  鬼たちの生き様を、自らの客観とする心構えが、私には欠けていたように思う。人間と仲むつまじく過ごすことが鬼たちの秩序に破壊をもたらすのであれば、それを実際になしうる者は、罪人であると判断してもよいだろう。 「広島君は、どう思いますか」私はきいた。 「はい、ええと、そうですね」褒められたことで、やや浮かれ気味であったのを恥じるように、彼は鼻の先を指でこすりながら答える。「私も、四季様のご判断にお間違いはないと存じております」 「その同意には、根拠がありますか?」 「はい、当然です。西行寺さんの場合、だてに『山の四天王』と呼ばれた鬼との会話を重ねていなかったせいでしょう、鬼たちが人間を見限って山を立ち去っていることは、明確な事実として閻魔帳に記録されています。つまり彼女は、それが鬼の社会を崩壊させてしまうような、たいへんな悪事であると知っていたにもかかわらず、鬼との平和な付き合いをやめようとはしなかった。この場合、平和というのは、人間的な観点における平和、という意味です」 「そうですね。だからこそ、『鬼殺し』は有罪であると」 「はい」と、広島君はうなずいてから、きいた。「四季様は、どのような根拠をお持ちですか?」 「言うまでもありません」私はかぶりを振って、答えた。 「私も、あなたと同じ考えです」  意見はまとまった。議論が綺麗に収束したのは、広島君が優秀な死神であったおかげであろう。とにもかくにも、これで、徳高き西行寺寧々子氏の「地獄へ行きたい」という希望を呑めるかもしれない。  彼岸へ送り返して、また出廷してもらうというのも面倒なので、当人には裁判所の仮眠室を貸して休んでもらっている。期待と不安と、自分がもう死んでいるのだという恐怖感とが入り混じった、複雑な感情にさいなまれているに違いない。申し訳ないとは思うが、この調子であれば、明日の公判では良い結果を伝えることができそうだ。  会議室にこもりきり、議論に集中しきりですっかり忘れていたであるが、ふと窓の外を見やると、外はもうすっかり暗くなっている。この部屋を訪れた時点で、通常業務の終了時刻は過ぎており、室内にはずっと霊力による灯りがともされていたことにも明らかであったように、初めから遅い時間であったといえばそうであったのだが、改めて残業しているという事実を認識してしまうと、これには地獄の大釜よりも深い溜息を吐かざるをえない。 「それにしても」  咳払いをひとつして、厳粛にそう言ったのは、他でもない、四季映姫、この私である。  それにしても、最も首を傾げざるをえないのは、なぜ、彼女は地獄へ行きたがっているのか、ということであるが――これについては、先の裁判において対話を行った際、すでに聞き知った事実なのであった。  だからこそ、「それにしても」という転換の接続語の後に来たのは、「どうして」という疑問の言葉ではなく、 「はた迷惑な死神ですよ」  という非難の言葉、いや、単純な愚痴であった。  本当は、西行寺さんが地獄へ行きたがる理由をいまいちど思い返してみるつもりだったのに、魔が差してしまった。  しかし困ったことに、私が吐き捨てるように言った直後、広島君が「すみません」と慌てて頭を下げてきた。どうやら誤解させてしまったらしく、むしろこちらが申し訳ないとさえ思ったので、私はすぐに謝り返した。死神とは言ったが、べつに彼のことを非難したわけではないのである。 「死神というのは、あいつのことです」私は机の上を指で叩きながら言って、強く歯ぎしりをした。「あの憎たらしい、小野塚小町のことです」  まだ一度も会ったことがないのにもかかわらず、私をここまで苛立たせることができるというのは、ある種の才能と呼べるかもしれない。なるほど、負の方向に優秀であるというのか。だとすれば、広島君の評価も納得できる。  私がなぜ、西行寺さんが地獄行きを希望する理由から、三途の河の船頭として新しく私の下に配属された死神のことを連想してしまったかと言えば、答えは単純で、その原因が、かの死神に由来しているせいであった。 「小野塚。あいつが、余計なことを……。その上、ほおずき……あのようなものを寄越して……この私をおとしめようとは。まったく、いい度胸です……」  窓の外の暗さを見て、急に残業の疲れが押し寄せてきたせいでもあろうか、私は苛立ちのままに毒を吐き散らかした。まったく、本当に腹立たしい。どうやら小野塚というやつは、私に説教されたくて仕方がないらしい。 「四季様、落ち着いて下さい」と、いう呼び声に顔を上げると、広島君がどこか怯えたような顔をしながら、額の汗をぬぐっているところであった。「結論は、きちんと導き出すことができましたから」 「ええ。結論は出ました」私はそう言って、鼻から息を吐いた。「けれども、それにともなう現在の私の、肉体的かつ精神的な疲労は、一体どうしてくれましょう」 「まあ、まあ……とにかく、落ち着きましょう」 「私は落ち着いていますよ」 「そうでした。ええ、申し訳ない。……そうですね、私だって、四季様がご立腹なさるのも、もっともなことであると存じております。確かに、もしも小町さんが何も話していなかったら、西行寺さんが『地獄へ行きたい』と言い出すこともなかったでしょうし、こうして、遅くまで残業する必要もなくなったでしょう」 「そうです。まったくその通りです」私は無心でうなずく。 「ええ、はい。しかしながら、ですよ。それは同時に、西行寺さんの意思を尊重し、汲み取ることもできなかった、ということにもなってしまうのではありませんか」 「…………」 「ですから、今日のところは……死者を敬って、良い仕事ができた。一件落着、これで良いではありませんか」 「……はあ」私は歯ぎしりを止め、溜息を吐いた。「広島君」 「は……はいっ?」 「あなたは、死神としては、少し優秀すぎます」 「ああ、はい。ええっと……」彼は大いに戸惑った様子で、誰もいない左右へ視線をやってから、私の目を見てきいた。 「これは、お説教でしょうか?」  その言葉を受けて、私は思わずふきだしてしまう。私が笑ったのを見て、彼もいくらか安心したようで、その顔にはぎこちなくも笑みらしい表情を浮かべていた。 「違いますよ」私は微笑したまま、そう言った。「褒め言葉です。あなたは、死神にしては、優秀すぎる」 「はあ」彼は、今度は別の意味で戸惑った様子で、やわらかな溜息を吐いていた。「お褒めに預かり、光栄です」 「ええ……本当に。死神にしておくには、もったいない」 「? それは、どういう意味ですか?」  そうして、折れそうなほどに首を傾げている彼に対して、私は苦笑しつつも、いたって簡潔な答えを返してやった。 「広島君なら、いつか立派な閻魔になれるでしょう」      4 「――どうして、地獄へ行きたいのですか?」  その日の午後の法廷――記憶を返された西行寺寧々子氏の驚くべき発言を受けて、私はいくらか狼狽しながらも、どうにか威厳を絞り出すようにして質問した。  この質問に対し、割烹着姿の彼女は、至極当然といったふうに、きっぱりと、このように答えたのである。 「地獄には、鬼がいるからです」まるで、先立った友との再会を望むかのように言った。「私は、鬼たちに会いたい」  いよいよもって、私の理解が追いつかなくなってしまった。かろうじて保っていた威光も消え去り、口元に手をやるなど、もはや態度にまで困惑がにじみ出てしまっている。 「なぜ、地獄の鬼に会いたいのですか?」私はもう手遅れであると知りつつも、動揺を隠そうとして、さらに質問を重ねた。 「地獄には、愉快な鬼たちが住んでいると聞きました」彼女は、いたって滑らかな口調で答える。「私は、鬼たちのことが大好きです。だから、死んでしまった後でも、地獄で会えるというのであれば、ぜひ会いたいと思っています」 「愉快な……鬼?」私には、どうにもその言葉が信じがたく、心に引っ掛かっていた。「地獄に棲む鬼たちは、罪人の拷問などを担当している荒くれ者ばかりですよ。愉快な鬼が暮らしているなどという虚言は、いったい誰の口から聞き知ったのですか?」  そうして、この西行寺寧々子という麗しき女性は、私の素朴な問い掛けに対する答えとして、あの忌々しい人物の名を挙げたのである。 「小野塚小町さんです。三途の河の死神さんが、彼岸へ向かうお舟の上で、色々なことを語り聞かせてくれました」 「……なるほど」  私は顔面を引きつらせながら、頭を抱え込んだ。ほおずきに添えてあった、無秩序な文書のことが脳裏をよぎる。転属して早々、面倒ごとを引き起こすとは、一体どういう了見なのか。いや、そもそも、小野塚という愚か者は、およそ了見と呼べるようなものさえ持ち合わせていないのかもしれない。  気を取り直し、私は下方にたたずむ女性へ目を向ける。 「地獄の鬼というのは、あなたがよく知っている者とは、まったく違うのですよ」これは、事前に閻魔帳を読み、彼女と鬼との関係を知った上での指摘であった。「小野塚という者が、何か妙な脚色を加えたせいで、間違った望みを抱かせてしまったようですが……残念ながら、地獄はあなたが考えているほどに、明るく楽しい所ではないのです」  それから、血の池であるとか、灼熱の釜であるとか、具体的な例を紹介して、私は地獄の恐ろしさを精一杯に諭した。もはやそれは、やわらかな教唆というよりは、罪人を脅してやったり、罪深く生きている者に忠告を与えたりする際に用いるような、脅迫的な謳い文句になっており、ここまで話せば、普通の人間ならば誰もがすくみあがって、立つこともままならなくなってしまうことは必至であるように思われた。 「――とまあ、地獄とは、そういう場所です。ご理解頂けたでしょうか?」語りの最後に、私は胸を張って、見下ろすようにしながらそう言った。「あなたのような、きわめて徳の高い人が行くべき場所ではない。それどころか、あなたなら、成仏して天人になれる可能性もあります」  西行寺さんは、私が話している途中から、下を向いてしまっていた。それもそうだろう。本来ならば、善人が知らなくてもよいところまで、事細かに語り聞かせたのだ。むしろ言い過ぎたくらいで、自分で話しておきながら、私は申し訳ないとさえ思ってしまう。 「はい」しかしながら、彼女の返答は思いのほか早く、しかもその明快さには、恐怖に淀んでいるような印象は少しもなかった。「そういう場所であっても、構いません。それでも私は、地獄の鬼に会いたい」  まったく、何ということだろう。  隣では、広島君が心配そうな顔でこちらを見ていたが、彼もまた、震災の如き動揺を隠しきれぬようであった。  それも当然だ。これほどまでに肝の据わった応答には、驚嘆せざるをえない。  あまりに強烈な衝撃を受けた私には、大きく目を見開いてしまうなど、もう閻魔らしい余裕など僅かばかりも見せることができず、初めて字の書き方を習った子供のように、ただうろたえるばかりであった。 「閻魔様」と、混乱気味の思考に差し込まれた声は、他ならぬ割烹着の美女、西行寺寧々子氏のものであった。「そちら、素敵なものですね」 「はい……?」何のことだかよく解らず、私はぎこちない声を返す。 「素敵なほおずきです」そう言った彼女は、私ではなく、台上に置かれた鉢を見つめていた。「ほおずきの実は、可愛らしくて好きです。白くて小さなお花は、もっと好き」  つられて、私もほおずきへ目をやった。真っ赤な実は、少しも動かずに、緑の茂みの隙間にただじっとぶら下がっている。風がないのだからそれも当然であったが、その静寂に等しい姿は、どこかツンとすましていながらも、狼狽に乱れていた私の心をとがめているようであり、何だか負い目を感じてしまった私は、教師に叱られる生徒もさながらに、いそいそと居住まいを正さざるをえなくなった。 「閻魔様」西行寺さんが、再び声を掛けてきた。 「は。はい」私は慌てて返事をする。 「閻魔様は、ほおずきの花言葉をご存知ですか」 「花言葉」私はおうむのように繰り返した。「いえ。恥ずかしながら……そういった分野に関しては、造詣が浅く」  そういえば、ほおずきの花言葉は、何だったろう。最初にこの鉢を見たときにも、まったく同じ疑問を抱いたことを、私は今になって思い出していた。 「ほおずきの花言葉は、『偽り』です」彼女は、何だか申し訳なさそうに言った。 「イツワリ、ですか」私はその言葉を吟味する。 「はい。『欺瞞』とも言います。素敵な花を咲かせて、そんなに可愛らしい実をつけるのに、不思議な話ですよね」  なるほど。ほおずきの花言葉は、『偽り』、『欺瞞』。  ……だとすれば。 「これを私に贈った者は」私は頭の中に、ふつふつと苛立ちが湧き上がってくるのを感じていた。「私に欺瞞があると言いたいのだと、そのように解釈しても構いませんね」  シャクを握る手に、しぜんと力が入る。  最初は可愛らしい贈り物だと思っていたが、その内面を理解すると、小野塚小町という名の死神が、いよいよもって信用できなくなってしまった。まったく、どうしようもない部下を寄越されたものだ。早いうちに、本庁に抗議しなければなるまい。いくら船頭などやりたがる死神に変わり者が多いとはいえ、もっとまともな人材はいなかったのかと怒鳴りつけてやるのだ。  しかし、私の耐えがたいまでの憤激は、明快な否定の言葉をもって静められることとなる。 「閻魔様。それは、違うと思います」そう言ったのは、割烹着の女性であった。 「何が違うのですか」私は思わず息を呑んだが、まだとげとげしい調子のままで、きいた。 「だって……それは、花ではなく、果実ですから」 「花でなければ、花言葉は意味を成さないと?」私はやや呆れて、かぶりを振った。「言い訳にすぎないでしょう」 「いえ、そういうことではありません。私は、花言葉を否定しませんが……その上で、ほおずきの実が決して悪い意味を持つものではないと考える、確かな理由もあります」 「ふむ……」私は思案して、言った。「聞かせて下さい」 「花言葉の正式な由来は、存じ上げません。……しかし、私はこのように思うのです。白くて小さなほおずきの花は、確かに美しいけれど、それだけではまだ『偽り』の姿であるということなのだと」 「『偽り』の姿……」私は、ほおずきの花を思い浮かべる。 「ええ、そうです。つまり、実を結んでこそ、本来の姿だということなのではないでしょうか。風船みたいな可愛らしい果実になる前の、かりそめの姿であるからこそ、あの白い花には、そういう花言葉が添えられたのだと思います」 「なるほど……。花は、かりそめ、ですか」 「はい」彼女はうなずいて、言葉を続ける。「ですから、果実になってしまえば、そこには『偽り』はもうないと言えるでしょう。きっと、そのほおずきを贈った方も、閻魔様は『偽り』のない素晴らしきお方であると、そういう想いを込めたかったのかもしれません」  それを聞いて、しかし私は、少し考えすぎではないかと思った。少なくとも、西行寺さんは、あの滅茶苦茶な文書のことを知らない。だからこそ、贈り主の肩を持つような考え方ができるのだ。私にほおずきを贈ったのが三途の河の船頭であるとは言っていないが、あの小野塚小町という愚かな死神が、ほおずきの実にそこまで深い意味を持たせようとしているなんて、思い違いもはなはだしい。 「実を結べば、『偽り』はない……ですか」  けれども――そんな希望的観測を、馬鹿正直に信じようとしている自分がいた。西行寺さんの話している表情が、あまりにも真剣で、それでいて優しかったせいかもしれない。何であろうと、私には、いつしか心の内側に芽生えていた温かい感覚を否定することができなかった。 「そういう意味では……私は、実ではなくて、花であるのかもしれません」不意に、西行寺さんは言った。 「どういうことですか?」 「『欺瞞』ですよ」 「ぎまん?」私は首をかしげる。 「ええ」彼女はゆっくりとうなずいてから、話した。「閻魔様なら、当然、私のことはよくご存知ですよね」 「まあ、そうですけれど」 「人間でありながら、鬼と仲良くしていたことも」 「それは、もちろんです。『鬼殺し』、ですね」 「その通りです」と言って、彼女はほんの少しばかり、頬を赤らめた。「こういった場で、改めてそう呼ばれると、何だか恥ずかしいですね」 「恥ずべき名ではありませんよ」そうは言ったものの、広い法廷にやたら声が反響するので、恥じらう気持ちも解る。 「私の、鬼に対する態度こそが、『欺瞞』でした」彼女は気を取り直して、言葉を続けた。「単なる強がりです。私は、嘘っぱちの見栄っ張りにすぎませんでした」 「そうでしょうか……」私は首を傾げた。「それでもあなたは、確かな親睦を深めてきたではありませんか。鬼は、嘘つきは嫌いであるはずです」 「そうですね……」彼女はうなずく。「でも、だからこそ、私は鬼に会いたい。この私の『欺瞞』が、地獄の鬼たちの目にはどう映るのか、実際に会って、確認したいのです」 「好奇心は、あなたを殺しますよ。……いえ、すでに、亡くなっているのですが」私は苦笑したのち、精一杯、真面目な顔をつくって話した。「つまり、精神的な意味においての話です。鬼に会って、それで終わりでは済まされないのが、地獄という場所なのですよ?」 「構いません。たとえ拷問を受けることになったとしても、それに挑戦してみたい。だって、私は『鬼殺し』なのです」  彼女の言葉は、鋭利な刃物のように鋭かったが――それと同時に、跳ね上がるような明るい期待にも満ちていた。  ともすれば、その申し出自体が、『欺瞞』であるのかもしれない。けれども、そのように語る彼女の瞳には、まるで炎のように、死者らしからぬ強い光がたたえられていた。 「それに、せっかく病気が治ったのですから」彼女は、弾むように言った。「今まで以上に、積極的に行動を起こさなくっちゃ。そうしなければ、娘に顔向けできませんもの」 「……治った?」私は難しい顔をして、首をかしげる。 「治ったのですよ」彼女はうなずいた。「病気の身体にお別れしたのですから、治ったのと同じでしょう?」  そう言ってみせたのち、割烹着の美女は片方の目を閉じて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。  それを受けて、私は思わず、声を上げて笑い出しそうになった。病気で死んだのに、そのことさえも『欺瞞』で押しのけてしまうとは、なんと豪胆な人であろうか。  ――たとえ虚勢であったとしても、堂々と張っていれば、それは美しさになりうる。  それこそが、ほおずきの花言葉に込められた、ほんとうの意味であるのかもしれない。少なくとも、嘘つきは嫌いであるはずの鬼でさえ、虚勢を張れるだけの勇気を持った人間を、良き友人として認めているのだ。  偽り。  欺瞞。  普通であれば、負の印象を受けてしまうような言葉であったが、西行寺寧々子という人は、それらを決して悪用するのではなく、美しい武器に変えて、強く生き抜いてきた。  私は、その時はまだ、彼女を地獄へ行かせることにためらいを感じていた。けれども、その反面、鬼のような強さを持ったこの女性の希望を、どうにかして酌んでやりたい、そういう気持ちは、いつしかためらい以上に大きなものになっていた。  だからこそ、私は判決を保留にし、残業してまで吟味を重ねることにしたのである。そうして、私は小会議室を借りて、自ら協力を申し出てくれた書記官の青年とともに議論を重ね――結果、望ましい結論を導き出すことができた。      5  ヤマザナドゥ――『楽園の閻魔』の頭を大いに悩ます珍奇な事例であったが、さて、この件に関する公判は、いよいよ翌日の午前中に行われた。 「西行寺寧々子」壇上の私は、金色のシャクの上に表示された名を、堂々と読み上げた。 「はい」呼ばれた者は、強く返事をする。  割烹着の女性を見据えて、私は大きく息を吸った。  シャクの上に、筆を走らせる。  そして、腹の底から押し出すように、判決を読み上げた。 「――無罪。冥界行き」  そう。  結局のところ、彼女はいちばん最初に私の心に示されたとおり、無罪になった。そういう判決が下された上で、地獄ではなく、冥界へと導かれることになったのである。  ――鬼たちの社会を乱す、継続的な友愛の情。  残業の成果として、私が彼女の経歴の中から導き出したのは、紛れもなく、大きな罪とすべき要素であった。  けれども、彼女の経歴の中に、いくら鬼たちの観点からの罪を見出せたからといって、積み重ねてきた莫大な量の徳の重みには、とうてい敵わなかったのである。  何ともあっけない判決に、私は申し訳ない気持ちだった。  しかしながら――この判決を受けてなお、 「はい。ありがとうございます」  西行寺さんは、穏やかに笑ってくれた。 『鬼殺し』と呼ばれた、強い心を持つ女性。  転生しようとも、成仏しようとも。  彼女の霊魂は、いかなる道を行くことになろうとも、精一杯に強がりながら、美しい姿のままで、しっかりとした足取りで歩んでゆくに違いない。私は、そう信じている。  そんなことを思いながら――私はしみじみと、台上のほおずきに目をやった。その直後にはもう、私の心の中身は、まったく異なる感情へとすり替わっている。 「……ああ。そう、こいつです。この、死神」  すべての発端は、このほおずきの贈り主である。  小野塚小町という名の船頭が余計なことを言ったせいで、遅くまで残業する羽目になった。しかも、これはかの者のせいではないとはいえ、結局、その厳粛な議論の結果は、水泡に帰する形となってしまったのだ。  ほおずきの果実について、私は西行寺さんの解釈を思い出し、せめて実際に会うまでは、本庁への抗議を見送ってやることにした。けれども、だからといって、この不届き千万な新しい部下に対する怒りを、きれいさっぱり拭い去る理由にはならない。 「たっぷりと……お説教して差し上げなければなりません。ええ……たっぷりと……」  一部、逆恨みのような感情が混じっている自覚はあったけれど、その程度のことは、もはや些末な問題にすぎない。  かくして私は、あの非常識な死神にこそ、本当の地獄を見せてやらねばなるまい……と、密林の奥地に潜む猛獣のごとき呪詛とともに、改めて、心の根底で暗い色の炎を燃えたぎらせるのであった。 「おのづか、こまち。……ふふ。覚悟、しておきなさい。うふふふふ……」  頭の中で、すでに数万文字に及ぶ戒告文書を組み上げている最中であった私には、隣の青年がまるで鬼でも見るかのように震え上がっている状況に、しばらく気付くことができなかった。
判例2
判例2 参る参人      1 「四季様は、妖精というものについて、どのようなお考えをお持ちですか?」黒衣の女性は、神妙な顔できいた。 「……なるほど。なかなか面白い質問ですね」  私はそう言ってから、口元に手を当てて、思案する。  私、というのは、つまり、紺色の服を着た『楽園の閻魔』、四季映姫・ヤマザナドゥのことである。『楽園の最高裁判長』と言い表すのが、二つ名としてはより正確ではあるのだが、何だか必要以上に偉ぶっているようで、あまり聞こえがよろしくない。そういうわけで、個人的には、前者のほうが素朴で好ましいと感じている。  閻魔というからには、私は地獄の関係者であり、裁判長というのは、罪の有無と、その重さを決定する責任者である――などということは、もはや言うまでもないだろう。  ここは閻魔の裁判所である。 『是非曲直庁』という組織の一環として機能しているこの施設は、日本全国いたるところに設置されているが、特にこの裁判所は、『幻想郷』と呼ばれる特殊な地域に置かれているものであった。人間たちの霊魂を裁き、冥界か地獄か、その行き先を定めるのが閻魔である私の役目なのだが、元よりこの『幻想郷』という土地は、ある妖怪の賢者によって、妖怪たちのために用意された『楽園』であるため、『楽園の閻魔』である私は、人間にかぎらず、彼らの死後の裁きを担当することも多い。 「ふむ……。妖精、ですか」  人口の急増と技術の革命的進歩によって力をつけ、妖異を知ることの少なくなった人間たちが、「不思議」だとか、 「科学的にありえない」だとか考えるような事物の大半は、この幻想郷には当たり前のように存在する。むしろ、彼らに否定され、忘れられていったからこそ、そういった「不思議」で「科学的にありえない」者たちが、積極的に幻想郷へと移り住んでくるようになったのだ。  大掛かりな時代の変遷によって、そうした風潮に拍車がかかっている近年では、妖怪の賢者たちの間で議論が交わされ、幻想郷を巨大な結界で包み込み、いわゆる『外の世界』との往来を簡単に行うことができないような、閉じた世界に変えるための方策さえ練られている。私の裁判所は、厳密には幻想郷の中に置かれているわけではないのだが、担当地域であるからには、賢者たちの動向から目を離すわけにはいかないし、結界を張ることによって死者たちの行き先に差し支えが出ることのないように、現場にも何かしらの形で関わってゆかねばならないだろう。  ……と、まあ、話が大幅にそれてしまったが、結局何が言いたいのかといえば、要するに、幻想郷という土地には、妖精などという「不思議」な生き物――人間社会では一般的に空想じみているとされる生き物が、当たり前のように存在するのである。それこそ、ちょっと散歩しながら周囲へ目を配ってみれば、羽虫のようにそこらじゅうを飛び回っているくらいであった。 「妖精というものは、すなわち、自然です」私は言った。 「自然」私の向かいで、黒衣の女性が復唱する。「それとおっしゃいますのは、『人間』もしくは、いわゆる『人工物』に対する、『自然』ということですね?」 「その通りです」  ここは裁判所である――とは言ったものの、私は、もとい、私たちは、現在は厳粛な法廷の場を離れ、貴重なお昼休みの時間を有意義に活用すべく、職員用の食堂において、机のひとつを挟むようにして座っていた。 「と、いうことは、四季様もやはり、妖精は『自然』であるかぎり死ぬことはないと、そうお考えなのですか」黒衣の女性は、やや熱を込めたようにしてきいた。 「表面的には、そうなりますね」彼女の態度に、どこか奇妙なものを感じながら、私は言葉を返す。「少なくとも、私は長いこと閻魔をやっていますが、妖精の霊魂を裁いたことは、今までに一度もありません」  私の対面に座っている、黒装束の女性。『福岡』という名の彼女は、傍らに巨大な鎌を立て掛けていることから察しがつくとおり、私のもとで働いている死神であった。  とはいえ、厳密に言ってしまうと、福岡さんは、私の直属の部下ではない。彼女は、裁判の書記官を務めるべく、一年ごとに本庁から派遣されてくる死神の一人であった。  幻想郷に限らず、閻魔の裁判所には職員の入れ替え制を採用している場所が多い。「様々な土地で豊かな経験を積ませる」というのがお偉い方の主張であったが、ひとたび大義名分の箱を開ければ、その内側からは「ストレスの軽減」だとか「少しでも飽きさせないようにするため」だとかいう、単純ながらも切実な理由が顔を覗かせるのであった。  それを言うならば、私だって――業務に熱心すぎるせいか、『仕事閻魔』だとか揶揄されている節のある、この勤勉な四季映姫さんだって、紡績機のように淡々と進行する日常の業務に対して、べつに飴玉を差し出された子供よろしく嬉々として臨んでいるわけではないし、日々積もりゆく苛立ちには、それ相応の緩衝材が欲しいと思う。  とはいえ、実際のところ、『楽園の最高裁判長』という肩書きを持つ私には、特権として、年に一度のまとまった休暇――ヒラの職員たちよりも少しだけ長い――のほかに、二桁数の有給休暇の取得許可が与えられている。そのため、部下たちのそれと比較すれば、まあ条件としてはどっこいどっこい、どころか、一年ごとに各地を飛び回らなければならぬ本庁の死神たちの苦労を思えば、御輿に乗って富士登山しているほどの優遇であると言える。  短い黒髪に、切れ長の目。さっぱりとした雰囲気を漂わせている女性――対面に座っている死神に目をやり、私は心中でそっとねぎらいつつ、湯呑みを持ち上げて、一口、茶をすする。  そうして、湯呑みを置いてから、私はきいた。 「なぜ、その質問を選んだのですか?」  ……と、言うのも、先に私のほうから、「何か聞きたいことはありませんか」と問い掛けたためだ。その質問に対して、福岡さんが持ち出してきたのが、妖精に関する話題なのであった。  そもそも、こうして二人で食堂にいること自体が、こちらに配属されて間もない彼女との親睦を深めようと考えた、私の計らいによるものなのである。  とはいえ、今はもう食事を終えて、食器もほとんど片付けてきたので、卓上に置かれているのは、側面に『是非曲直庁』の文字があしらわれた湯呑みだけであった。 「それは……」私の質問を受けて、福岡さんは、人差し指を立てながら話した。「まず、妖精という生き物は、すなわち、自然の体現であるわけです」 「ええ」それは大前提であると、私も思う。「そうですね」 「はい。ですから、その……」そう前置いてから、やや遠慮がちな様子で、彼女は言った。「私は、自然を裁くことはできないのか、と思うのです」  そして、沈黙。  三回ほどまばたきした後で、私はようやく言葉を返した。 「自然を、ですか?」 「はい」  真顔でうなずく彼女に、私は驚きの目を向けていた。  自然を裁く、などという言葉は、大それたことのようにも、何か馬鹿馬鹿しいことのようにも聞こえ、あまりにも現実味に欠けている。 「四季様は、先ほど、『表面的には』とおっしゃいましたが」福岡さんは、手振りをつけながら、話を続ける。「それはつまり、厳密に突き詰めてみれば、妖精も『死』というものを体感しうるということですよね?」 「いえ、まあ……その」私はためらいがちに答えた。「ええ……その通り、ですね。魂が彼岸へ行くかどうか、という基準においては、死ぬとは言いがたいのですが――妖精の魂が、彼岸へ送られることはありませんから――しかし、肉体という器が、過度の出血や流行病など、何か外的な要因によって機能しなくなった場合、元の器が文字通り『自然に』修復されるまで、一時的に魂が抜け出てしまうことはあるでしょう」  妖精とは、自然そのものである。  妖精たちは人間と同じような肉体を有しているが、実際は、人間のほうが後からそういう形になったのであって、正しく表現するならば、「人間たちが妖精のような姿をしている」ということになる。知識を持ち、力を伸ばした今でこそ、『人間』たちは『自然』と対の存在として崇高に扱われているが、元をたどれば、人間という生き物も、自然の中から生まれたものであることは否定できない。この世界には、人間よりも、自然、すなわち妖精たちのほうが、ずっと昔から存在しているのである。  人間とは違い、背中に羽を持つ妖精たちは、しかし、その肉体が致命的な傷を負ったり、不治の病にかかったりすれば、人間たちと同じく、生命としての活動を停止してしまう。その瞬間を『死』と呼ぶのであれば、妖精も『死ぬ』と言えるのだが、問題は、彼らの魂が彼岸へは送られず、自然の力による肉体の修復を待って、元の器に戻ってゆくという点である。その際、人間たちが転生する時と同じように、魂が抜け出る前の記憶は消え去ってしまうのだが、同じ肉体で自動的に復活を遂げることのできる妖精たちは、 『死なない』生き物として扱わざるをえないというのが、是非曲直庁の見解であった。少なくとも、教科書的には、そういった理解をするのが正しいとされているのである。  この常識を振り切って、「自然を裁くことはできないか」と言うのだから、私が驚いてしまうのも無理はなかった。  ましてや、福岡さんは書記官、閻魔の裁判に臨席することを許されているような、本庁によるお墨付きの優秀な死神である。そういったことが外見にもにじみ出ていると錯覚してしまうくらい、理知的で線の鋭い顔立ちをしたこの女性が、天地をひっくり返すが如き突飛な意見を繰り出してくるとは、私にはとうてい予測できぬことであった。 「根底から、考え直すべきです」福岡さんは、先ほどの熱を取り戻したように、今度は強い調子で言った。「妖精は、死にます。それ以前に、妖精たちも意思を持った生き物であるわけですから、彼らなりの生き方というものがあるわけです。……だからこそ、死んだ妖精たちに対して、閻魔様が裁きを下す必要性を、私は感じています」  私はその言葉を受け、改めて度肝を抜かれてしまった。  妖精の死や、妖精たちを裁くことについて考えたことが、まったくなかったわけではない。しかし、それも職業柄、一考してみたことがあるというだけであって、まあ裁くことはないだろう、取るに足らぬことと思い込み、軽視していたことは否めない。  確かに、妖精も明確な意思を持って生きているのであるから、その行いを閻魔の法廷で裁かれるようであっても、おかしくはない。人間以外の動物たちでさえ、別の部署の担当――意思疎通の手段や、倫理観、寿命の違い等のために、通常の閻魔の管轄とは別に分けられている――によって裁かれているくらいだから、その言い分には納得できる。  しかし、それはもっともであるとしても、果たして、どうやって妖精を裁くというのだろう。 「それでも、妖精の魂は、肉体へ戻ってしまう」私はわざと挑戦的な表情をつくって、突き付けるようにそう言った。 「彼岸へ運ばれてこない限り、その魂は、われわれには裁きようがありません」  彼岸へ来ない者を、裁くことはできない。  いくら彼岸へ来ることがないからといって、こちらから出向いて、肉体から抜け出た妖精の魂を無理やり引き連れてくるわけにもいかない。そもそも、それは生きている者を勝手に死者として扱うのに等しい所業であり、言うまでもなく、固く禁じられている行為であった。 「おっしゃる通りです」福岡さんは深くうなずいてから、また手振りをつけて応えた。「実のところ……私自身、初めから、妖精たちにとっての一時的な意味合いでの『死』を問題にできるとは、まったく考えておりません」 「それは……どういうことですか?」 「ええ、つまり……ああ」彼女は答えようとしたが、ずっと話を続けていたせいか、上手く声が出せないようだった。  それから、「失礼」と言って、福岡さんは、湯呑みを持ち上げる。そうして、茶を一口飲んだ後、彼女は改めて、私の問い掛けに対する答えを返してきた。 「私が言及したいのは、本当の意味で『死んだ』妖精についてです」 「本当の意味で?」私は首をかしげた。 「つまり、肉体の修復もできなくなり、魂が戻ることのなくなった妖精、という意味です」 「……そういうことがない、というのは、まだ前提であったはずですが」  妖精は『死ぬ』ということを、肉体的な意味での『死』としてひとまず認めはしたが、妖精の魂が戻らなくなるようなことは、まずありえない現象として理解されているはずであった。 「いいえ……ですから、根底から考え直すのです」彼女はかぶりを振って、言った。「人間ならば、妖精を殺すことができます」  ――人間ならば、殺せる。  私がその意味を飲み下すより先に、彼女は説明を始めた。 「我々のような、いわゆる『超自然的な』力のもとに成り立っている、妖怪と呼ばれる類の存在には、『自然』である妖精を殺すことはできません。正確な理由は説明できませんが……人間的な観点における『超自然』が、あくまで『自然』を前提として、そこに存在するものであるからだと私は考えます。これは、妖精同士の間で、互いを根本的な死に至らしめることができないのと、まったく同じ原理によるものです。水と土、両者とも『自然』の要素ですが、川の水が土を削っても、その土に宿っている妖精が、消えてなくなるわけではありませんから」  彼女は再び湯呑みを持って、口元で傾けた。 「すべては人間的な観点においての話になるのですが――例えば、人間たちが生み出した蒸気機関は、それまでの常識からすれば、じゅうぶんに『超自然的な』力と呼べるはずです。けれども、それだけでは、蒸気機関が世間一般に 『人工物』とされているとおり、妖怪にはなりえません。なぜなら、蒸気機関には、意思、もとい、生命がないからです。……しかし、その反面、あくまで『自然に』特殊な能力や性質を備え、生命を有するものとして生まれてきた妖怪は、『自然』によって妖怪たらしめられていると言えます」  そこまで話してから、彼女は、妖怪に同じ妖怪の類を殺すことが可能である理由が、妖精とは違って『自然』そのものではないためであろうと補足した。『自然』の力に由来し、特別な能力や性質を有している者が妖怪なのであって、人間よりもはるかに長い寿命を持っているとはいえ、あくまでその生命は限られたものであると言うのだ。  福岡さんは、そこで言葉を切って、私の表情をうかがった。そうして、一応の納得を見出したのか、再び口を開く。 「ここに、人間が作った一本の唐傘があるとします」彼女は横に立て掛けてあった大鎌の柄を示し、それを傘に見立ててから説明した。「その傘が、ある日とつぜん、妖怪化したとしましょう。……それでも、その妖怪は、『自然』のもとに成り立っていると言えます。仮に、人間たちの信仰や怨念が、もともと『人間』あるいは『人工物』であったものを妖怪へと変貌させたのだとしても、その変化の過程として作用する力は、あくまで『超自然的な』ものです。ですから、『蒸気機関の妖怪』というのも、場合によっては誕生しうるわけです。……とはいえ、人間たちには、妖怪を生み出すような強い思念を抱いて、『自然』の力がそうしてくれるように意図することは可能であっても、『人工的に』妖怪を生み出す技術や能力はありません」  あるいは、人間のままで『超自然的な』力を身に付けることができれば、それはあくまで『人工的な』力であるとはいえ、『妖怪的な人間』にならばなれる可能性はある――と、彼女は言葉を付け足した。けれども、それではほんとうに妖怪と変わらないし、わずかな寿命しか持たない人間には、そのようなことは到底できまいと私は思う。人間が自力で行えるのは、せいぜい超自然の魔力を込めた道具を振り回しながら、魔法使いを気取ることくらいであろう。  何にせよ、福岡さんが語っているのは、「人間ならば、妖精を殺すことができる」という意見の、まだ前提の部分にすぎない。ここで口を挟んでしまうと、脇道どころか道なき茂みのほうまで話がそれてしまいそうであったので、私は黙って続きを聞くことにした。 「とにかく、妖怪には、妖精を殺すことはできない。これが、絶対的な自然の掟です」そう言って、彼女は前提を大きくまとめた。「しかし、『人間』ならば、話は違う。『人間』は、『自然』の力を持たない。対の存在としての『人間』の手によって滅ぼされた『自然』――『人工的に』あるいは 『人為的に』駆逐された妖精の魂だけは、もう元の肉体に戻ることができません」  そこまで語り終えると、福岡さんは湯呑みを手に取り、よほど喉が渇いていたのか、一気に飲み干した。すぐに苦い顔をしたのは、中身がすっかり冷めていたせいだろう。  私は頭の中で、さしずめ草をはむ牛のごとく、彼女の話したことを繰り返し吟味していた。  私には、彼女の考えを否定することはできない。  確かに、人間ならば、自然を殺すことが可能である。  かつて人間たちは、自然を敬いながら、生きてゆくための糧を得ていた。鹿を狩っては森に感謝し、鳥を射ては空に感謝し、魚を釣っては海に感謝し――大いなる自然の恵みに溢れんばかりの敬意をもって応えながら、決しておごらぬ心で生きていた。  だが、時を経るにつれ、思想の変化、技術の進歩が、彼らの生き様から、そういった奇特な心がけを忘れさせていった。行き過ぎた森林伐採や、大気あるいは海洋の汚染など、人間たちの自己中心的な振る舞いが、あるべき自然の姿を奪うようになってしまったのである。  人間によって破壊された自然は、簡単には修復することがない。そうして滅ぼされた自然の、その体現である妖精の魂もまた、二度と同じ肉体の中に戻ることはできない。 「朽ちた妖精の魂が、どうなるのか」私は自分に問いかけるようにして、言った。「福岡さんは、ご存じですか」  私の真に受けたような口調をきいて、向かいの切れ長の目が、急にはっきりと大きく見開かれた。やはり彼女は、突飛な議論を行っていたことを、自分自身でじゅうぶんに理解していたのだろう。それなのに、私が反論するどころか、自分の説に納得した上で、さらに便乗してきたので、意外に思ったのに違いない。  人間の手によって破壊された自然は、それでも、彼岸に至ることはない。私が妖精の魂を裁いた経験のないことにも、その事実は明らかである。なぜなら、朽ちた妖精たちが、自分たちを殺した人間たちに対して抱く感情は、恨みの念しかありえないからだ。  だとしたら、妖精の魂の行き先は?  答えは簡単だ。  福岡さんがやや戸惑っている様子なので、私は彼女の言葉を待たずに、自ら答えを告げる。 「人間に滅ぼされた妖精は、地獄へ堕ちるしかありません」  怨霊のように、地獄へ堕ちてゆく。  地縛霊になる場合を除けば、恨みを募らせた妖精たちの霊魂は、人間の魂が集う彼岸を経ずして、直接地の底へと堕ちてゆくのだ。 「そういう者ならば、あるいは、裁くことができるかもしれません」私はそう言ってから、すぐにかぶりを振った。 「いえ、裁かれるべきです。妖精たちにも、生前の行いをきちんと見定められて、正当な道へと導かれる権利はあるはずです。恨みばかりを抱いて、永久に地獄に身を置くような、そういうことが当たり前であってはならない」  私は下唇を噛んだ。  実際に、地獄には、そういう者たちがいるのだ。彼らは是非曲直庁の管理の行き届かぬところで、ひっそりと、うごめくように存在している。菌糸の森のユウレイテングタケの周りで遊んでいたり、黒猫の姿をした妖怪と戯れていたりと、死霊と化した妖精たちの目撃例はいくつもあるが、人間を恨んでいるせいか、是非曲直庁の拷問施設には近づこうとしないため、閻魔の教本においてはあくまで特殊な事例として扱われているのみで、その全貌は未だ把握しきれていないのが現状である。  軽視していた事実をひとつひとつ確認していくうち、いつしか、私の中の妖精たちの不遇を憂える気持ちは、簡単には見過ごせぬものに成り変わっていた。傲慢な人間たちによって、一方的に破壊され、そのまま地獄へ堕ちてしまうなんて、あまりにもひどすぎる。  福岡さんは、何だか申し訳なさそうな顔をして、下を向いている。彼女のほうから妖精のことを話題にしたくらいだから、私以上に、彼らのことを気の毒に思っているに違いない。彼女は湯呑みを手に取ったが、それが空であることを、私はもう知っていた。 「自然を裁くということについて、よく考えてみる必要がありそうですね」  対面の彼女が、恥ずかしそうに湯呑みを置くのを見ながら、私は改まった調子で言った。  今まででこそ、見過ごされていた問題であるが、人間たちが力を振りかざすようになった現代、そして、そうした傾向がいっそう強まるであろう未来においては、これは特に重要な課題になってくると思う。福岡さんは、おそらく、そのことを指摘したかったのであろう。――鋭い。さすがは、本庁の死神だ。  そうして、心中で称賛を送ってから、私はいま一度、自分の胸に問いかける。  ――ほんとうに、自然を裁くなどということが、できるのだろうか?  人間に殺された妖精の魂は、怨念に衝き動かされるようにして地獄へ向かう。少なくとも、その段階で魂を閻魔の裁判所へ引き連れてくることは、地縛霊を彼岸へ導くのに等しい行為であるため、規則違反にはならないはずだ。  けれども、果たして妖精たち自身が、それを望んでいるのかどうか。根本的な疑問が残る。  妖精に限らずとも、殺されて恨みを抱かぬ者など、そうそう居ないはずだ。ましてや、地獄に身を堕としているような、狂おしいまでの怨念にまみれた者たちである。閻魔の前に連れ出されて、仮に冥界への引導を渡されたとして、彼ら自身はそうなることを望んでいるのだろうか? 「……妖精、ですか」  私は小さくつぶやいて、溜息を吐く。そうしてから、湯呑みを持ち上げて、先ほど向かいの彼女がそうしたように、残りを一気に飲み干した。  もうすっかり冷めてしまった茶は、煙のように混濁する私の思考に、曖昧な温度で染み渡った。     2  それは、幻想郷という土地に大きな変化がもたらされて間もない、初夏の時分の出来事であった。 「……はあ」  私は、湿った空気を体現するように、重い溜息を吐いた。  閻魔の裁判所にも、やはり季節感というものはある。私はとりわけ、この蒸し暑い時期が苦手でならず、募る苛立ちは、いつにも増して心の内側を焦がしていた。しかしながら、お盆の先に秋季の長期休暇を控えた現状、それを一縷の望みとして、もうひとふんばりせねばなるまい。  とはいえ、私が溜息を吐いたほんとうの理由は、根本的には、うだるような蒸し暑さに由来するものではない。  博麗の巫女――幻想郷の一画に建つ、由緒正しき博麗神社の巫女――と、妖怪の賢者たちとの大がかりな共同作業によって、幻想郷に大結界が張られたのが、ほんの数年前。その際、彼岸や冥界、地獄など、是非曲直庁の運営に関わる各方面への影響を考え、私も一部の作業を手伝い、無事にこれを終えることができた。その結果、幻想郷と呼ばれる土地は、いわゆる『外の世界』からほぼ遮断される形となり、内外の往来を容易には許さぬ『妖怪たちの楽園』としての在り方が確立される運びとなった。  さて、この緑髪の閻魔が、法廷の台上に梅雨空のような溜息を落とした原因について語らねばなるまい。その理由こそが、まさしく先の話に登場した『妖怪の賢者』、その一人によってもたらされた、一つの、いや、三つの面倒ごとによるものなのであった。 「これは、どういうことですか」私は言った。 「それが、困ったことですのよ」彼女は答えた。  そんなことは見れば解る。なぜなら、現時点でもう、私がとんでもないくらいに困っているからだ。  私は頬を引きつらせながら、もう一度問うた。 「……どうして、妖精がここにいるのですか?」  しかも、三匹。  やや尊重して、三人、と言うべきか。  背から四枚の羽を生やした幼い少女たちの姿は、どう見ても妖精のそれであり、私の目に狂いがなければ、彼女たちは間違いなく、肉体を持たぬ霊魂である。  閻魔の法廷に、死んだ妖精の魂が来るなどということは、絶対にあり得ない。だから、宝石のように目を輝かせながら、この灰色で、厳粛で、だだっ広いばかりの空間をせわしなく見回している好奇心旺盛なこの三人は、第三者もとい第四者の手によって、ここまで連れて来られたのに違いないのだ。 「私が連れてきたからよ」  第四者――紫色のドレスに身を包んだ美女、当人がそう言うのであるから、これにはもう疑う余地がなくなった。 「あなたは、自分が何をやっているのか、解っているのですか?」私は冷汗を垂らしながら、精一杯の厳しい表情を浮かべて言った。「これは、大罪ですよ? その三人がどうやって亡くなったのかは知りませんが、妖精の魂は、いずれ復活するものです。それを無理やり連れてくるとは――」 「そんなことは、解っています」私の言葉を終わりまで聞かずに、彼女は言った。「だけど、これは、特別な事情よ」 「特別な事情? 妖精が?」 「そうです」 「まさか」私は、胡乱な目つきで彼女を見下ろした。  彼女の言葉の意味を、私はよく知っている。第一、閻魔を毛嫌いする妖怪たちの中でも、いちだんと私に近づくことを拒んでいる彼女が、自ら裁判所に現れたという時点で、ただならぬ目的があることはじゅうぶん察しがついた。  けれども、その行為が大罪をともなうのであれば、話は違う。ましてや、幻想郷に名だたる妖怪の賢者。……いや、そういうことを平気でやりそうな者ではあるのだが、自分の立場というものをわきまえるつもりはないのだろうか。  それに、賢者であるよりも前に、彼女は――過去に大罪を負った、一人の妖怪なのだ。 「八雲紫」私は罪人を裁くのと同じように、彼女の名を呼んだ。「あなたは、このようにおっしゃりたいのですか。その妖精たちは、『幻』に、関係があると?」 「ええ」彼女はうなずく。「解っているのなら、結構ですわ」 「……解せません」 「そう? 解っていないのであれば、説明するわ」  頭を抱える私に対し、紫色のドレスを着た彼女は、いたって軽快な調子でそう言った。  何と憎たらしいことだろう。居心地悪そうなのが表情ににじみ出ているくせに、何でもないみたいに振舞おうとする。金色の長い髪に、正面に赤いリボンを結んだ白い頭巾、絹の長手袋と、そして紫色のドレス――幻想郷を『外の世界』と隔てておきながら、あちらの貴族の流行に合わせて、いや、金色の髪は彼女の地毛であったが、華麗な西洋の服装に身を包む、その矛盾した在り方にさえ、私は何とも言い知れぬ苛立ちを感じていた。  私はいま一度、三匹、もとい三人の妖精を眺めてみる。一人は、やや赤みがかった金色の髪を、二つに結った少女。もう一人は、顔の左右で縦にくるくると巻いた、こちらは明るい金髪。最後の一人は、長い黒髪に、青色のリボンが印象的である。三人とも、例外なく四枚の透き通った羽を背負っており、なるほど、妖精らしい。と、言うのも、妖精であることなどとっくに理解しているのであるから、つまり、それは、可愛らしい、という意味なのだが、この四季映姫、楽園の閻魔、威厳を損なうような失言は、たとい口が裂けても、一滴たりとも漏らすわけにはいきますまい。 「……いいでしょう」私は煮えた腹を無理やり冷ますようにして、冷静な口調で問いかける。「話して下さい」 「では、そうさせて頂きますわ」妖怪の賢者――八雲紫は不敵に笑ってから、妙に穏やかな口調で話し始めた。「あなたがすでに理解しているとおり、この三匹の妖精は、すでに死んでいます」  紫の言葉を聞いて、それまでは明るく、好奇心を隠そうともしていなかった妖精たちの顔に、唐突に影が落ちた。 「今は、肉体から乖離した霊魂の状態。私が見つけたときには、この子たちの肉体はもう、肉塊と呼んだほうが解りやすいような、いびつな形で散らばっていたわ」  その妖怪は、まるで「空を見上げたら、流れる雲が羊の形に見えた」とでも言うかのように、平然と語った。  それに対し、かたずを飲み下しながら、私は問う。 「つまり……その者たちは、殺されたと?」  私が言うと、三人の妖精は、しおれた花のように羽を垂らして、いっそう重苦しさを募らせた。無邪気なようでいて、もともと、心のどこかでは自分たちの死を強く自覚していて、不安と緊張にさいなまれていたのに違いない。霊魂とはいえ話せないわけではなかろうに、先ほどから三人のうちの誰ひとり、少しも声を漏らそうとしないことが、そのことをはっきりと物語っていた。 「ええ、殺された」私の問いかけに対し、紫は、ゆっくりとうなずいた。「けれども、いずれは復活するでしょう」 「何ですって?」私は思わず目をむいた。「それでは、この者たちは……」 「妖精の『死』の定義については、私も知っているわ」彼女は私の言葉を遮って、そう言った。「私は、肉体から離れて浮遊していたこの子たちを捕まえて、ここへ連れてきた」 「――――」  妖精たちが怯えている。  私は金色のシャクを強く握り締めて、紫色のドレスを着た妖怪を睨み付けた。気まぐれで、神出鬼没とうたわれる妖怪の賢者。しかし、ほんとうに、ただの気まぐれで、こんなことがあってはならないのだ。 「やはり、そうでしたか……」私は頭を抱えながら、吐き捨てるようにつぶやいた。「まったく、何てことだ」 「解っていたのなら、説明は要らなかったじゃない」彼女は面白くなさそうに、そう言った。 「ええ、そうですよ。それくらい、察しがつきました。ですから……私は、それが大罪であると指摘したのです」  数年前の記憶が、ふとよみがえる。当時の部下であった福岡という名の死神と交わした、妖精の『死』と、『自然』というものを裁くことに関する議論だ。  肉体の修復を待っている妖精の霊魂を、勝手にこちら側へ連れてくることは許されない。そういう禁忌を、平気で犯しかねないのが、この八雲紫という女だ。 「まあ落ち着きなさい」そういう自覚があるのかないのか、彼女はなおも澄ました顔で言った。「本題はここからよ」 「それは、ひょっとして、悪いことをしたから裁いてほしいと、そういうことですか?」私は嫌味を返した。「ごめんで済むなら閻魔は必要ありません。見上げた心掛け、とは言いがたい所業ですよ」 「違うわよ」 「何がどう違うのですか。もしや、その妖精たちに手を下したのも、あなた自身なのではないですか?」 「否定したいけど、そうではないとも言い切れないわ」 「やはり、解せません」私は溜息を吐いてから、紫の言葉の示すところに気付き、はっと顔を上げた。「……まさか」  妖精たちが怯えている。  彼女たちは、元の肉体へ戻るまでの段階で記憶を失うはずなので、すでに曖昧にしか覚えていないのかもしれないが、それでも、魂にこびりつくように消えることのないトラウマ、本能的な恐怖心が、この少女たちを震えさせているのだろう。 「それでは、その子たちは……」私は恐る恐る、問い掛ける。「『幻』によって、殺害されたと言うのですか」 「そういうこと。やっと理解して頂けたようですわね」妖怪の賢者は、はっきりとそう答えた。  その時、八雲紫の表情に影が落ちたのを、私は見逃さなかった。それまでの高飛車でつかみがたい態度が嘘のように、神妙な顔つきをしている。その表情は、言葉よりも強く、明確に、『あのこと』が疑いようのない事実であることを私の心に訴えかけてきた。 「だから、こちらへ連れてきたのよ」自分の前に並んでいる妖精たちを手振りで示しながら、紫は言った。「あなたのような、霊魂の性質を見定める専門家ならば、『幻』の手がかりをつかめるのではないかと思って」 「そうですか……」私は岩のように重々しくうなずいてから、すぐにかぶりを振った。「しかし、だからといって――」 「問題ありません」私が言い切るより先に、彼女は一枚の紙を広げてみせた。「是非曲直庁の許可は取ってあるわ」  壇上からでは細かい文字までは見えないが、それが本庁から出された正式な証明書であるということは、近づいて確認するまでもなく理解できた。左下に押された十王の印から、確かな霊力がにじみ出ている。 「それならそうと、最初に言って下さい」私は驚くよりも先に、深い溜息を吐いた。 「言おうとしたわよ」八雲紫は、ふくれた顔で応えた。「言おうとしたら、あなたが説教を始めたんじゃないの」 「まあ……否定はしませんが。そもそも、あなたがのらりくらりと煙のように話すから、疑ったのです。誤解を招きたくないのであれば、初めから具体的に説明して下さい」 「嫌よ。私は閻魔様ではありませんもの」  そう言って、紫色のドレスを着た妖怪は、再び不敵な笑みを浮かべた。それを受けて感じるのは、湧き立つような苛立ちよりも、もうほとんど呆ればかりである。私の口をついて出たのも、お叱りの言葉ではなく、深い溜息だった。 「それにしても、解せません」私は言った。 「何が?」紫は、眉を吊り上げてきいてくる。 「あなたは、特に『幻』の件について、それなりの権限を有しているのですから、それも可能でしょう」それというのは、本庁の許可を取得することを指している。「ですが、だからといって、あなたのようにとりわけ閻魔を毛嫌いしている妖怪が、自ら是非曲直庁におもむくとは。この蒸し暑い中、雪でも降るのではないでしょうか」 「私の肩の上にあるのは、権利ではなく、義務だから」彼女は自嘲するように応えた。「それに……ただ、妖怪として肌が合わないだけで、閻魔が嫌いなわけではありませんもの。……特に、あなたはね」 「おや。これは、意外なことをおっしゃいますね」 「あら、何かしら? 私は何も言っていないわ」 「最後に、不思議な言葉が聞こえました」 「忘れてちょうだい」彼女は頬を掻いて、視線をそらした。 「少なくとも、書記官の死神はおりませんので」小田原君には、席を外してもらっているのだった。  裁判の書記官というのは、本庁から派遣されてくる、抜きん出て優秀な死神が担当する。一般的には、閻魔といえば地蔵が成るものと認識されているが、書記官を担当するほどの実力を有する死神たちの中には、超難関と呼ばれて名高い昇進試験を突破して、閻魔としての職に就く者も、ごく少数ながら存在するのであった。  そうした風潮の中で、元より閻魔に成るための身分であった私は、本庁で雑用を任されていた頃から、それなりに異彩を放っていた。つまり、英才教育を受けられるほどに恵まれ、いずれ高い地位に就任することが決定していた私のことを、あまりよく思っていない者もいるということだ。  特に、部下たちの中には、少女のように幼い外見の閻魔が自分よりも上に立っているという滑稽な状況に、不満を抱いている者もいるらしい。そういう話は、いやおうなしに耳に入ってくるものだ。私が閻魔の中でもとりわけ説教臭いほうで、偉そうにしているように見えるせいでもあるのかもしれないが、いかに嫌われていようとも、自分なりの姿勢を崩すつもりは決してない。 「……ところで、その、死神についてなのだけれど」三人の妖精の頭を順番に撫でてやりながら、紫は唐突に言った。 「私の部下が、どうかしましたか?」私はやや不安げに、そう聞いた。 「いえ、それがね。……この子たちを連れてくるとき、彼岸を通さずに裁判所へ行くことになるから、その点の確認を取っておいたほうがいいかと思って」 「はあ」 「それで、三途の河の此岸に行ったのよ」  此岸、というのは、死者たちが閻魔の裁きを待つ場所である『彼岸』に対する、生ける者たちの側の岸、いわゆる 『こちら側の岸』のことである。此岸においては、まだ息を吹き返して復活する可能性のある魂も、三途の河を渡りきって彼岸に至れば、もう二度と生き返ることはなくなる。 「確かに、そうして頂けると、助かります」私はうなずく。  魂を裁判所に連れてくるにあたっては、通常とは異なる段階を踏まざるをえない。そのため、三途の河の担当にも話を通しておいたほうが、不要な混乱を招かずに済む。  さて、表向きは落ち着いて話を聞いているふりをしていたけれど、私はこの時にはもう、全身から噴き出す嫌な汗を少しも抑えることができずにいた。だって、相手の口から「三途の河」という言葉が出た時点で、その後に良い話が続くことなんかあるはずがないのだ……。 「そこで、船頭の死神さんに会って、話を通そうと思ったのだけれど」紫は手振りをつけながら、続きを話す。 「ああ……」私はすでに頭を抱えていた。 「これこれこういうことです、って、筋道立ててきちんと説明したのよ。ええ、懇切丁寧にね。……そうしたら、あの船頭さん、何て答えたと思う?」 「……何も、答えなかったのでは」私は、申し訳なく思いながら、そうきいた。 「どうして、そう思うのかしら」 「おそらく、その死神は、寝ていたから」 「あら。正解よ」 「やっぱり……」私は溜息を吐いた。 「半分だけね」 「何ですって?」 「でも、半分は、間違い」紫は笑いながら、答えを話した。 「あの紅い髪の死神さん、私の説明を聞いて、この子たちをここへ連れてくることを許可してくれたの」 「なんと!」私は驚きのままに、抱えていた頭を勢いよく上げて、彼女を見た。「正しく対応したのですか。あれが」 「ええ。『いいっすよー』って」彼女はあれの口調を真似て呑気に言ってから、すぐさまその表情をいたずらっぽい笑みに変えて、付け加えた。「……草っぱらに身を投げたまま、寝言で返事をしてきたのよね」  私は、口をぽかんと開けたまま、その言葉を聞いていた。  ああ、そういうことか。  そういうことか、小野塚小町。 「それで、一応は現場の許可も取れたから、ここまでやってきたのだけれど……問題なかったかしら?」  紫がたずねてきたが、私にはもう、その質問に答えられるだけの余裕はない。 「お・の・づ・か・こ・ま・ち……」  私は歯ぎしりをしながら、右手にはシャクを握り潰さんばかりの力を込めていた。  許すまじ。許してなるものか、あの大馬鹿者。 「ご、ごめんなさい……?」妖怪の賢者は、引きつった笑みを浮かべて謝ってきた。「私、何か言ってはいけないことを言ってしまったのかしら……?」 「いいえ、八雲紫。あなたのそれは、善行と評するに値します。部下の醜態をお伝え頂き誠にありがとうございます。そして、失礼が御座いましたことを、上司である私が責任をもって謝罪させて頂きます。申し訳御座いません」 「あ、いえ、その……気にしているわけでは、ないのよ」 「いえいえ。本当に、ありがとうございます。心して、説教に臨むことができますゆえ。ああ、そうですね、説教の支度をしなくては。とろけきった脳みそを丸ごと入れ替えてやるくらいの長くて重くてありがたい説教をね。うふふ……ふふ、うふふふふふふ」  私はそれから、どれほどのあいだ、呪詛を漏らしていたのであろうか。自分では、知る由もないことであった。  ふと気付くと、無邪気な三人の妖精が、揃いも揃って、先ほどとは異質の恐怖を全身に浮かべていた。妖怪の賢者として名高い八雲紫までが、今にも泣き出しそうな表情でこちらを見上げている。世界の終焉かと言わんばかりの彼女らの態度を見て、私はようやく我に返ることができた。 「……とにかく」私は咳払い一つして、話の筋を当初の案件へと戻すことにした。「事情は解りました。『幻』の手がかりがないかどうか、しばらく預かって、魂を見定めてみることにします」 「まあ、本当に良いの?」私の言葉が終わる前には、紫色のドレスを着た妖怪はもう、その表情をいつもの不敵な微笑に戻していた。「お堅い閻魔様に、子守りなんて、できるのかしらねぇ」 「心外ですね。そこまで言われる筋合いはありません」 「これは、失礼致しましたわ」紫はそう言って、うやうやしく頭を下げた。 「では……その子たちの魂は、この四季映姫が責任をもって引き受けましょう」 「あら。責任は、私にあるのではなかったかしら」 「あなたに責任を負わせた、私にも責任があります」 「ずいぶんと、自虐的な連帯責任なのね」 「『地獄の旅は道連れ』です」私はもっともらしく言った。 「何よ、それ。そんなことわざ、聞いたことがないわ」 「俗諺ではありませんから」私が今、考えたのだ。 「そうだとしても、責任の順序が逆ではないかしら?」 「卵が先か、ニワトリが先か」 「そんなこと」彼女は肩をすくめた。「考えたくもないわ」 「それで、結構です」私はうなずく。 「一つだけ、言えることがある」不意に、紫が言った。 「おや。何でしょう?」 「卵が先でも、ニワトリが先でも、親子丼は美味」 「ああ……そうですか」私は再びうなずいてから、言う。 「しかし、私は、ライスカレーのほうが好きですね」 「まあ。美味しいわよね、あれ」  それから私たちは、破裂するように大笑いした。  妖精たちは、終始ふしぎそうな顔で、それを見ていた。      3  暖色の矢がすりの着物に、紺色の袴姿。私服といえば、女学生のような和服ばかりで、八雲紫が着ているような西洋風のドレスなど、私は一つも所有していない。職務中はお堅い紺色の制服姿が基本であるし、実のところ、彼女のように自由に着飾ることのできる身分には、ひそやかな羨望と、少しばかりの嫉妬心を抱いていた。  とにかく、私はそういう格好で、河辺に茂った青緑色の草の上に立っている。  立ち込める霧の中で、ぼんやりと白い光をたたえる河の水は、果たしてほんとうに河と呼ぶべきなのか首をかしげたくなるくらい、死んだように停止している。本当に止まっているわけではなく、水は確かに流れているのだが、そういう様子がはっきりと確認できないほどに、それは冷たい哀愁を漂わせるような、とても微細な動きなのであった。  そんな河辺の草むらを踏みしめながら、私は、 「こら、小町!」 「きゃんっ!」  仰向けに寝転がっている、紅色の髪の少女を叱りつけた。  少女と言うにも、実際のところ、これは死神であるから、あくまで人間的な観点での評価であるし、私よりもいくぶん背の高いことから、見た目だけなら、どちらかと言えば私のほうが少女なのだが、そんなことを自分で言っても恥ずかしいだけであったりなかったり情けなかったり、リンゴかあるいは鞠でも仕込んでいるのかと疑いたくなるくらいの胸の大きさが目について仕方がなかったり、それから自分の胸を触ってみて絶望に打ちひしがれたりするので、そういうことは、まあ隅のほうに置いておくとして。  小野塚小町。  袖のない青色の着物を、黒の半巾帯で締めた彼女は、三途の河の船頭を務め、死者の魂を彼岸へ送る死神である。  ……重要な役割を担う、死神であるはずなのだが。 「ふわあ」彼女はたったいま飛び跳ねたことも忘れ、大きなあくびを披露した。「しきしゃま。おふぁようございまふ」 「うふふ」それに対し、私はいたって穏やかな調子で、言葉を返してやる。「おはようございます。小町」 「あれれ、おかしいなぁ。四季さまが優しいぞ。これは、ひょっとして……」彼女はそう言って上半身を起こすと、上目遣いできいた。「何か、良いことでもありました?」 「小町」 「はい?」尻上がり。 「小野塚小町」 「……はい」尻すぼみ。 「覚悟はできていますか?」 「あ、はは、はは」寝ぼけた頭にようやく自覚ついてきたらしく、死神の表情には、溢れんばかりの焦燥の念が浮かんでいた。「……いえ、まったくできてません。と、いうわけで、お説教は勘弁して下さい」 「覚悟できていないはずがあろうか」 「反語っすかー、あはは。……いやぁ、そのう、これは、ちょっと、魔が差したと言いますかぁ――」 「小町っ!」 「ふぁいっ!」死神は飛び上がって、棒のように直立した。 「ちょっと魔が差した? ちょっと、ですって? 嘘は許しませんよ。ちょっとやそっとじゃないでしょう。私は知っていますからね、あなたはいつもこうなのです。私の目の届かぬ場所だからといって、責務を軽んじて、疲れたらすぐ寝転がって、空を見上げて、舟を漕ぐのは夢ばかり。流れる雲のほうがずっと真面目に仕事をしているくらいです。……それだけではありません。ちゃんと仕事をしているかと思えば、朝方に舟を出して、ちんたらちんたらお喋りしながら、向こう岸へ着く頃にはもう日が暮れている」 「四季さま、あたい、そこまで仕事を長引かせては……」 「お黙りなさい!」 「ぱいっ!」小町はいっそう身を硬くして、鉄の棒になる。 「あなたの仕事に対する態度を知れば、誰だって、私の表現が大げさであるとは感じないはずです」  退屈であることで有名な職務、船頭になりたがる死神には変わり者が多いとはいえ、これほどまでに怠慢な部下を持ってしまった私は、自分で自分を可哀そうだとさえ思う。 「百歩譲って」私は咳払いをしたのち、引き続き、まくし立てるように言う。「口のない霊魂に対する一方的なお喋りであることだし、まあ目をつぶってやるにしても……あなたが余計なことを話すせいで、地獄や冥界について、死者たちが間違った想像をしてしまうのです。円滑に進行するはずの裁判に、大きな支障が出ているのですよ」  同じことを何度言いつけてきたか、私にはもう解らない。本庁の寿命管理室に計算させても解らないだろう――というのはさすがに大げさだが、実際そんな愚痴を漏らしたくなるほどに叱りつけているのだから、どうにもやるせない。 「……ごめんなさい」小町はしゅんとして、肩を落とした。 「ごめんで済むなら閻魔は必要ありません」私は心を鬼にして、なおも厳しく言いつける。「あなたは態度で示すということを覚えなさい。まったく、もう」  とはいえ、今日の私は閻魔ではない。しいて言うなら、ハイカラ女学生。本日のお説教は、この辺りで仕舞いにしてやることとしよう。  さて、小野塚小町が仕事を……しているのに、どうして自分は私服でいるのかと言えば、答えは簡単である。 「閻魔さま、おなかすいたよー」 「わたしも」「私もー」  妙に甲高い抗議の声に、私はやれやれと振り向く。  そうして目に入ったのは、二つに結った金髪と、顔の横で縦に巻いた金髪と、切り揃えられた長い黒髪、三人の少女が不満げな表情でこちらを見上げている様子であった。 「おや、四季さま」小町は額に手をかざし、私の背後を眺めて言った。「子連れですかい? しかも、三つ子ちゃん」 「誤解を招くような言い方はよしなさい。これも仕事です」  そうは言ったが、実際のところ、今日は一週間ばかり取得した連休の、ちょうど真ん中にあたる日であった。楽園の閻魔の権限、残弾が底を尽きぬほどの有給休暇を利用して、自発的に連休を用意したのである。  そうでもしなければ、多忙な閻魔には、三人の子守りは務まらなかったのだ。 「お昼ごはんまだー?」金髪を結った少女が、私の袴をつかんで引いた。 「こら、よしなさい」私は小さく叱りつけてから、少女たちをなだめる。「もうすぐですから。今日は、こちらのお姉さんのおうちで、お昼を召し上がります」  私はそう言って、紅い髪の死神を手のひらで示した。小町は、地面に寝かせたままだった大鎌を拾おうとして、身をかがめているところであった。 「へ?」彼女は自分の顔を指差して、きいた。「あたい?」 「他に誰がいるのですか」私は当然のように言う。  魂も腹を空かせる。  火の玉のように曖昧な姿ならばともかく、記憶と実体を持つ者は例外なくそうで、食事や睡眠等の欲求に基づく行為を本能的に憶えていて、死後にも生前と変わらずにそういったことを行う。食べたものは、霊力によって消化され、そのまま魂の活力になる。ましてや、食事せずとも生きてゆける妖精。生前の記憶はもう失われているのだが、人間を真似て美味しいものを食べる趣味は魂に根付いているようで、食事という行為に消極的ではないどころか、元よりその性質が幼かったせいか、たいへん積極的なのであった。  三匹の妖精。  一人は腹を切り落とされて、  一人は頭をかじられて、  一人は腕を千切られ死んだ。  八雲紫からは、そのように聞いている。  妖精の記憶は消えるが、肉体の形状は記憶されている。それはやはり、妖精たちが『人間』とは異なる『自然』であるからに他ならない。だからこそ、死して霊魂のみになっても、具体的な形を維持することができるのであろう。  三人を殺した者の正体は、すでに把握している。  しかし、その行動原理は、未だに理解できない。  そいつは、しばしば妖精ばかりを選んで、殺害してきた。今回、八雲紫の思い切った行動が本庁に認められたのも、そのように、何度か前例があったためである。無論、そいつは妖怪であるのだから、本当の意味で、妖精の魂を死に至らしめることはできない。けれども、妖怪でありながら、妖精のみを狙ったように襲い、一般的な妖怪が食糧にしているはずの人間を、いっさい襲おうとはしない。  妖精殺しをひそかに重ねる、まことに不可解な存在。  ――『マボロシ』。  それが、妖精たちを惨殺した者の名である。  楽園の閻魔と、あの紫色のドレスを身にまといし妖怪の賢者には、世界のどこかに潜む『幻』と呼ばれる妖怪を見つけ出し、それを始末するという義務がある。それはもうずっと昔に、八雲紫の過ちに対して負わされた責務であり、私が自ら背負った責任でもあった。  幻想郷に大結界が張られ、『外の世界』と遮断される運びとなった、その目的の一つにも、『幻』の存在が深く関わっていた。八雲紫は、妖精たちをこの地に集めて、『幻』を確実におびき出し、閉じ込め、追跡をできるかぎり容易なものにしようと考えたのである。  私はこの数日間、自分の『能力』と『鏡』を用いて妖精たちを見定めてきたが、記憶を失っている彼女たちの魂からは、結局何も見出すことができずにいる。 『能力』というのは、私が生来から有している、目に入れたものを無意識的に『白黒はっきりつける』ことができる力のことだ。例えば、死者の霊魂を見れば、その者の生前の経歴や、それにともなう罪の重さなどをすべて瞬時に導き出し――すべては無意識下で行われるため、細やかな内容を私自身が理解できるわけではないのだが――有罪か無罪かを正確に判断することができる。白か黒か、是か非か、善か悪かを見定める、これはそういう『能力』なのである。  一方、『鏡』とは、閻魔ならば誰しもが持っているもので、死者の生前の行いをすべて映し出す、地獄の道具のことだ。閻魔の裁判の必需品であるが、普段は『能力』によってまかなえる私が、この『鏡』を積極的に使用することはあまりない。だが、懲罰の一環として罪人を己の過去と向き合わせる時など、使う機会があれば惜しみなく利用している。  どちらも、霊魂の記憶の有無にかかわらず、その過去を召還し、罪を裁くための便利な手段であるはずだった。しかしながら、三人の妖精たちを前にして、『能力』を使ったり、己が死ぬ場面を見せることのないように、ひそかに『鏡』に映したり、ということを試みたが、例の『幻』に関する記憶はどれも曖昧で、かんばしい結果は得られなかった。 「ぐうー」 「はらへった」 「閻魔さま、はやくおうちへ行こうよー」  私の懸念をよそに、当の妖精たちは三者三様、空腹を示してくる。私は溜息を吐いたが、それは決して重苦しいものではなく、こうして駄々をこねられることについても、何だか悪い気はしないのであった。 「解りました。では、参りましょうか」私は三人に微笑みかけてから、隣の紅い髪を指差した。「この人のおうちへね」 「へっ?」小町は首をかしげる。 「お昼ごはんだ! やったぁ!」  困惑する死神を置いてけぼりにしたまま、最初に二つ結いの金髪が跳ねて、あとの二人も同じように喜んだ。 「だから、何で、あたい?」小町は梅干しみたいな顔をして、きいた。 「居眠りの罰だと思いなさい」私は淡々と答える。 「ええっ。だけど、四季さま……」 「何か文句がございますか?」 「いえ、そのう……」小町は鎌の柄を脇にはさんで、両手の指をもじもじと動かした。「あたい、そんな急に、五人分のお料理をつくれるかどうか……」 「でしたら、心配ありません。料理は私が用意します」 「何と!」小町は、金剛石でも見たような目で驚く。「四季さまの手料理ですか!」 「……何ですか、その目は」 「あー、いや、その。意外だなー、とか、ですね……」 「はあ……」私は溜息を吐いてから、言った。「まあ、正直でよろしい」  私が堅物の閻魔だから、意外に思われるのも仕方ない。けれども、私にだって趣味のひとつくらいはあるのだ。  毎日、職場に弁当を作って持っていく程度には、私は料理が好きである。つまり、それが私の趣味であって、五人分の食事をまかなうための案も、当然ある。今日まで四人分の食事を用意していたところへ、口が一つ増えるだけであるし、今さらその程度のことが苦になるはずもない。 「本当に、大丈夫なんですかい?」小町がきいた。 「そこまで疑われると、さすがの私も落ち込みます」 「あ、はは……こりゃ、失礼致しました」 「いえ、構わないのですが」私はそう言ってから、気を取り直すように、得意げな笑みを浮かべた。「今日は、ちょっと、振る舞ってみたいものがありまして」  それというのも、とある貴重な食材が、運良く手に入ったためである。  私はおもむろに、袖の内側へ手を差し入れた。小町も、妖精たちも、興味深げに私の所作を見ている。  そうして私は、紺色の巾着を取り出し、掲げてみせた。 「何ですか、そりゃ」キョトンとしたまま、小町はきいた。 「スパイス」私は答える。 「す、すっぱい酢?」 「つまり、香辛料です」 「ほう、ほう」小町は二度うなずいたあと、やっぱり解らなかったようで、聞き直した。「……え? 何ですって?」  三人の妖精たちは、何が気に入ったのか、すっぱいす、すっぱいす、と繰り返して、騒ぎ立てている。 「小町、あなたは」私は微笑を浮かべたまま、ハイカラな女学生らしく、片目をつむって問いかけた。「ライスカレーというものを、知っていますか?」      4  かくして、閻魔と三人の妖精は、小野塚小町の自宅にお邪魔することになった。  角度のついた瓦屋根を、丁寧に切り取られた太い杉材の柱が支える、厳かでありながら、どこか穏やかな、居心地の良い家屋である。調理場には、ともすればうちのより良い石を使っているのではと疑いたくなるくらいに、なかなか質の良いかまどがあり、一人で暮らすには広すぎる居間には――まあ、これは私の家のほうが広かったが――来客など滅多にないであろうことにもかかわらず、八人で囲めそうなほどの木製の長机が一つ置かれており、背もたれつきの椅子は、部屋の隅にある予備も含めて、ちょうどそのくらいの人数分は用意されていた。  そして現在、長方形の卓の周りには、小町と妖精たちが、一対三で向かい合うように座っている。 「お待たせ致しました」私はそう言ってから、盆の上の皿を卓上に配った。「できましたよ」 「うわあ」小町は驚いた様子で、配られた皿に顔を寄せる。 「いったい何ですかい、この……お米にかかっている、茶色のドロドロは?」 「こら、こら。食欲をそぐような言い方をするものではありません」私は調理用の前掛けを外しながら、にっこりと笑って、説明した。「これが、ライスカレーです」 「らいすかれい。……ほう、ほほう」  辺りにはもう半刻も前から、鼻腔に染み渡るような、食欲をそそる刺激的な香りが立ち込めている。妖精たちは待ちきれぬようすで、もうずっと椅子の上に座ったままでそわそわしている。小町だって、ああは言いつつも、先ほどから口の端から溢れそうになる唾を必死で飲み下している様子であったし、かく言う私自身、これまでに腹の虫が鳴くのを抑えきれず、赤面してしまう場面が何度かあった。  ライスカレーを初めて食べたのが、十年前の春のことなのだが、たった一度ばかりの経験で、私はたちまち、あの口の中に染み渡るような辛さと香ばしい風味にやみつきになってしまった。けれども、裁判所の食堂には担当する地域の食文化に近しい献立しか並んでおらず、まだこの料理がほとんど普及していない幻想郷、さらには大結界が張られたことで、外部から香辛料が手に入りづらくなったこともあって、ライスカレーは数ヶ月に一度しか食べられないごちそうなのであった。  それを、自分で作ってみた。我ながら突拍子もない試みであるとは思うが、自宅で練習と吟味を重ねてきたので、味には自信がある。  湯呑みに注いできた水を配り、食事の支度を済ませた私は、おそらく無邪気な妖精たちに匹敵するほどの期待感を抱きながら、そそくさと、背の高い死神の隣の席についた。 「それでは、頂きましょうか」私の合図を受けて、全員が、胸の前で両手を合わせる。「こら、小町」 「はい?」 「匙はまだ置いておきなさい」 「あ、はぁい……」小町は鉄の匙を皿の横に戻しながら、頬を掻いた。「ちと、早まりました。へへ」  それから、気を取り直して――「いただきます」という、妙に落ち着きのない掛け声が、いっせいに放たれる。  われ先にとカレーを口に放り込んだのは、赤みがかった金髪を、頭の横で二つに結った妖精。三人の中で最も活発であるせいか、何につけても、彼女が先陣を切ることが多い。太陽のように明るいことから、私は便宜上、『太陽さん』と呼ぶことにしている。 「うわあ! 辛いっ!」  太陽さんは慌てて湯呑みを取って、水を飲み下した。 「……うっ。辛い、辛い!」  続けて悲鳴を上げたのは、明るい金色の髪をくるくると縦巻きにした少女。落ち着いた印象で、読書を好む彼女のことを、私は髪の色を月の光に見立てて、『お月さま』と呼んでいる。 「あなたたち、大げさだわ。そんなに辛いはずが……げっ」  そう言って、最後に息を詰まらせたのは、陽気でありながら慎重な性格の、長い黒髪を持つ『お星さま』であった。  それほどまでに辛かったであろうか、と心配になり、私は恐る恐る、匙を口へ運ぶ。 「これは……辛いっ」私は思わず、目を見開いてしまった。  少し唐辛子を入れすぎたかな、などと思いつつ、私は湯呑みを取って水を飲もうとする。しかしながら、鼻を突き抜けてゆくような辛味の直後に、香ばしい風味がしみじみと舌の上に染み渡った。私の表情は、たちまちカレーソースのようにとろけてゆく。 「閻魔さま」すると、持ち上げた湯呑みの向こうで、太陽さんが呼んでいた。「辛いけど……これ、おいしいです」 「うん」「おいしいわね」  他の二人も、一様にうなずいて、匙を動かし始める。 「そうですか」私は向かいの三人へ、にっこりと微笑みかけた。「ありがとうございます」  三人の妖精たちは、何度も辛いと叫びながらも、決して匙を休めようとはしない。私も負けじと、食べる、食べる。 「小町は、どうですか?」私はふと思い出して、隣の大きな死神を見た。 「うまうま。からい、うま。からウマ」  小町はそんなことをつぶやきながら、質問に答えているのか答えていないのか、私のほうを見向きもせずに、汗を流しながらライスカレーと戦っていた。  かく言う私も汗だくであったが、夏の暑い日に、辛いものを食べるというのも、健康的で悪くない。もっとこういう文化が普及すればいいのに、と切に思う。 「おいしいっ!」  そういう声が、暑さを吹き飛ばさんとする勢いをもって響き渡った。もはや誰が言ったのかさえ、判然としない。  室内は、辛さによる悲鳴と食器がぶつかる音で騒がしく、普段であれば「はしたない」と言って注意すべきところであった。けれども、私の自慢の料理にがっついてくれているのだから、今日ばかりは、見逃してやらねばなるまい。 「四季さま」と、小町が急に匙を止めて、呼んだ。 「何ですか?」私は手巾で汗を拭いながら、応える。 「この茶色いのは、どうやって作ったんですか?」 「ああ、これですか」つまり、カレーソースのことである。「スパイスを混ぜた具材を炒めて、水に溶かすと、こういう色になるのですよ」 「すっぱい酢……っていうのは、さっきのあれですね」 「ええ」私はうなずく。「独特な風味を引き出すために、様々な香辛料を調合してあります。ウコン、馬芹、コエンドロ、唐辛子、丁香、ショウズク、生姜、ウイキョウ、黒胡椒、三香子、セイロンニッケイ、月桂樹……」  これらはしかし、ほとんどが幻想郷では手に入りにくいものであった。今回は、裁判所の物流担当の職員に無理を言って、とくべつに香辛料を仕入れてもらったのである。……いや、今回に限ったような調子で言ったものの、実際のところは、恥ずかしながら、申し訳なく思いつつも、もう何度もこういうわがままを聞いてもらっている。  買出しにも行こうと思ったけれど、タマネギ、ジャガイモ、ニンジン、それから豚肉まで、小町の家の備蓄がたいへんよろしかったので、食材には事欠かずに済んだ。  さて、小町が二杯目を盛りつけてきて、自分の皿もじき空になろうかといったところで、私はおかしなことに気が付いた。 「おや」私は覗き込むようにしながら、向かいの三つの皿を見て、言った。「三人とも、ニンジンは食べないのですか」 「ぎくっ」太陽さんが下を向いたまま、肩をこわばらせる。 「うっ……」「あはは……」  それにつられて、残りの二人も、それぞれに気まずそうな表情を浮かべた。 「これは、どういうことでしょうかねえ?」私はすでにその意味を悟っていたが、あえて問い詰めることにする。 「四季さま、こいつらきっと、好きなものは最後に食べる性格なんだよ」小町は呑気に笑いながら、そう言った。 「なるほど」その言葉を受けて、私はわざとらしい微笑をつくってから、ゆっくりとうなずく。「小町。あなた、たまには良いことを言いますね」 「あっはっは。ありがとうごぜえやす。……いや、ちょっと待てよ。たまにはってなんすかぁ、たまにはって」  小町の抗議を無視して、私は向かいの三人に、にこやかな笑みを送り続けている。三つの皿の上を改めて眺めてみると、他のものはきれいに平らげてあるのに、ニンジンだけが器用に取り分けられ、脇に寄せられていた。 「好物でしたら、きちんと食べられるはずですよね?」私は優しいお姉さんのふりをしながら、なおも問い詰めることをやめない。 「えっと、それが……そのう」太陽さんはもじもじしながら、私の問いに答えた。「今日は、ちょっぴり、おなかの調子が悪くて……」 「そこまで綺麗に食べられたのに、ですか?」 「うっ……」彼女は言葉を詰まらせる。 「ちょっと、あんた! なに余計なこと言ってんのよ!」 「はあ……もっとましな言いわけ思いつかなかったの?」  お月さまとお星さまが、順番にまくし立てる。 「ほう、ほう。なるほど」それを聞いて、私は耳に手をあててから、大仰な所作で三人のほうへ向けた。「余計なこと、言い訳、とおっしゃいましたか……」 「ひっ」お月さまがおののく。 「あ、いえ、その……誤解ですぅ」お星さまが弁明した。 「いいえ。聞き逃しませんでしたよ、この地獄耳がね」 「ぎくっ」これは、三人いっしょだった。  その反応を見てから、私は一度だけ笑みを崩して、深い溜息を吐いた。霊魂であり、生前の記憶もほとんど失っておきながら、嫌いなものが染みついているとは、何とも情けない話である。 「好き嫌いは感心しません」私はおごそかに言った。 「えー、でも」太陽さんが眉根を寄せる。 「でもぉ」「でもでも」他の二人も、それにならう。 「でも、ではありません。小町を見てみなさい」  そう言って、私は隣で食欲魔神と化している死神に目をやった。 「ばくばくもぐもぐカラウマおかわり」彼女はちょうど皿の上を空っぽにして、立ち上がるところであった。 「ほら、このとおり……って、ちょっと、小町! 私のおかわりする分まで食べたら許しませんからね!」  調理場へと消えてゆく背中に向けて、私は思い出したように叫んでから、また顔を正面に戻す。すると、三人の妖精たちが揃いも揃って「やれやれ」といったふうな半眼でこちらを見ていたので、私は急に恥ずかしくなり、ごまかすように首を左右に振った。 「こほん。……とにかく」私は気を取り直して、厳しく言いつけた。「お残しは許しませんよ」 「えー」「やだー」「にんじんこわい」  いっせいに嘆き始める三人。しかし、今は心を鬼にせねばならぬ時である。 「だめです。残さず食べなさい」私は再び言いつけた。 「甘いからいや」太陽さんが口をとがらせる。 「おやさいなのに甘いなんて、おかしい」お月さまの同意。 「あら、あなたカボチャは好きじゃない」お星さまの指摘。 「余計なことを言わないで……!」 「カボチャ頭だしね」太陽さんが口をはさんだ。 「何よ! ニンジンみたいな頭のくせに!」 「こいつ、言ったわね!」 「二人とも、お子さまだわねぇ」お星さまが茶々を入れる。 「何よ、一人だけえらそうに!」噛みついたのは、太陽。 「そうよ、そうよ」お月さまは何度もうなずいて、それに同調する。「そう言うあんたなんか、おなかの底まで、髪の色みたいに真っ黒けでしょうが!」 「な、何ですって? あんたたち、許さないわよ!」  それから、三人のあいだで、ごちゃごちゃと不毛な言い争いになってしまった。 「ああ、まったく、もう……」私は耳をふさぎながら、深い溜息を吐く。  このままでは、にっちもさっちもいかない。諦めて見過ごしてしまうことは閻魔の意地が許さないし、かと言って、無理に食べさせようとすれば、こんなふうに混沌としてしまって、説得どころではなくなってしまう。  私が頭を悩ませているところへ、小町が皿におかわりを盛りつけ終えて、戻ってきた。 「好き嫌いは、よくないねぇ」椅子に腰掛けながら、彼女は何気ない調子で言った。 「えー。だって、やだもん」太陽さんが、小さく反発する。 「やだかぁ。そうかぁ。もったいないなぁ」 「何が?」首をかしげたのは、お月さま。 「野菜は自然の恵みだぞう。残すのはもったいないって」 「ほかのお野菜は、食べているもの」お星さまが言う。「だから、にんじん残したって、かまわないと思います」 「いやぁ。それなら、むしろニンジンも食べてみなって」小町は歯を見せて笑った。「自然の恵みってやつは、美味しさのかたまりなんよ。ニンジンだって、美味しいんだぞう」 「あら、小町」私はわざと、先ほどと同じせりふを繰り返した。「たまには良いことを言いますね」 「えー。四季さま、短いあいだに二回言ったら、たまじゃありませんよう」 「そうでしょうかね。あなたの場合、二回ともまぐれ、ということもありえますので」 「あはは。まあ、どっちでもいいやぁ」小町は呑気に笑って、妖精たちのほうを見た。「ほれほれ、娘っこたち、美味しいニンジンをお食べよ」 「やだよー」「まずいよー」「にんじんいやー」 「そう言いなさんなってぇ。ほら、見てなよん」小町は匙を取って、皿の上からニンジンをすくって食べた。「もぐもぐ。うん、うん。ウマいぞぉ」 「えー」「うそー」「ほんとかなぁー」 「ほんとだよぉ。それに、自然の恵みは、お前さんがたの力になるよー。妖精さんのねぇ。そうでしょ、四季さま?」 「はい」私はつぶやくように答えた。「そうですね……」  自然。  妖精。  ふとしたきっかけから、私はいま一度、その意味について深く考えてみる。数年前、福岡という名の死神と話したことを、何となく思い返していた。  ――朽ちた妖精は、恨みのままに、地獄へ行くほかない。  それは、私が自ら言ったことだ。  だが、それなのに、今の私は、己の認識を疑っている。だって、少なくとも、ここにいる妖精たちは、地獄へ堕ちるほどの恨みの念を抱けるようには見えないのだ。  こんなことは、感情に身をゆだねた気の迷いであると思われても、仕方がない。そういう自覚はある。  豚を家畜として飼うのと、家族として愛でるのと。  一瞬だけ見かけた妖精と、一緒に過ごした妖精と。  その違いだ。  愛着のある豚を食べることはできないし、妖精だけにかぎらずとも、自分と何かしら関わりを持つ相手には、それなりに特別な思い入れがあって当然である。  しかし、朽ちた妖精の魂が地獄へ行こうとすることに、何かたった一つの巨大な理由が存在することは、否定できない事実である。そして、この三人の少女――人間の手によって滅ぼされたわけではないが――この妖精たちは、三者三様の愉快な性質を有してはいるが、みな例外なく、無邪気で可愛らしい。先ほど喧嘩したように、いくらか口を悪くすることは可能であるとしても、彼女たちの小さなくちびるからは、えげつない恨み言などとうてい紡ぎ出すことはできないだろう。これを単純に私的な愛着と考えるならば、他の妖精たちの死後の行き先だって、一本の薄暗い下り坂のほかにも、さまざまな道がきちんと用意されているはずなのだ。……だが、彼らには、それがない。  だとしたら、なぜ、妖精たちは地獄へ行こうとするのだろうか。  人間たちの自然に対する残酷な所行について、記憶に新しい事例がひとつある。――それは、幻想郷に大結界が張られるより前に、『妖怪の山』と呼ばれる地で起きた、凄惨な事件のことであった。  力強き鬼を頂点に据える妖怪たちと、人の信仰によって神格化された頭領を掲げる狼たち。当時の山には二つの大きな勢力が共存しており、時には小さな揉めごとが起きることもあったが、決して常時にらみ合っているような泥沼の敵対関係ではなく、互いに均衡を保ちながら、それなりに平和な社会が営まれていたはずであった。  だが、ある時、狼の群れが暴走したのだ。  山に棲む多くの妖怪たちが犠牲になり、騒ぎを起こした狼たちは、いかなる説得にも聞く耳を持たず、圧倒的な力を持つ鬼の手によって皆殺しの制裁を受けた。  関わった者たち全員が、暗い過去や重い罪、あるいはその両方を背負うことになってしまった。しかし、だからと言って、山に棲む者たちを一概に責めることもできないのが、この事件の実情なのである。  すべての原因は、たったひとりの人間にあったのだ。  その男は、狼の頭領を意図的に殺害した。人間たちに崇められていたはずの存在が、愚かな人の手によって葬り去られてしまったのである。それなのに、山の妖怪の中に悪者がいるという誤解が蔓延し、あの血みどろの悲劇が起きてしまったのである。  狼たちの『自然』としての在り方を、悪意をもって破壊するその所業は、吟味してみるまでもなく、明らかな重罪であった。山の秩序を乱しただけでなく、同じ人間すらおとしめて生きてきたその男を、私が地獄へ堕としたことは言うまでもない。今ごろ、針山に貫かれているか、あるいは灼熱に焼かれているか知らないが、あの男の魂はもはや、未来永劫にも等しい長大な時間を、そうした苦痛の中で過ごすしかないだろう。  あの事件をかんがみた上で、私はひとつの仮定に思い当たる。人間の手によって破壊される狼たちの『自然』、これは、ともすれば、妖精たちの『死』に等しく結び付けられるのではないか、と。  肉体が復活するかどうかという点においては、『超自然』であるか否かの大きな違いこそあるものの、『人間』に対する『自然』であるということについては、妖精も、殺された狼――すなわち動物も、まったく同じであると言える。  狼たちは、恨むべき相手を間違えてしまっていたが、仮に誤解がなかったからといって、怨念が消えるわけではなく、単にその矛先が変わるだけであっただろう。『自然』という要素に共通点を持つ存在、人間によって滅ぼされる妖精たちの在り方にも、これと同じことが起こりうるのではないだろうか。  そこまで思考して、水底から浮上するように、我に返る。 「ニンジン、どうしても食べたくなぁい?」  すると、小町が三人の妖精に対して、未だそんなことを聞いている最中であった。 「いやなものはいやだよう」と、太陽さんはまた首を振り、 「そうだそうだ」「にんじん反対」あとの二人が抗議した。 「えー、反対までしちゃうかぁ」小町は苦笑しながら言う。 「ニンジンさんがカワイソーだよぉ」 「うっ……」太陽さんが胸をおさえた。 「言われてみれば」「かわいそうかも……」  私は思わず、噴き出しそうになった。三人揃って深刻な表情でいるところを、私は残りのライスカレーを口へ運びながら、微笑ましい気持ちで眺めている。 「あはは。優しいねえ、お前さんがた」小町はそう言うと、再び自分の皿からニンジンをすくって食べた。「うむ、ウマい。なあに、ちょっとひときれ、口に入れてみるだけさね」 「ど……どうしよう」太陽さんが、隣の二人へ顔を向ける。 「ウヌゥ」「にんじんさん……」 「そうでなくとも、四季さまのカレーに入ってるニンジンだ。格別ウマいことは、是非曲直庁と、この小野塚小町さんのお墨付きだよん」 「あら。お世辞ですか」私はいたずらっぽくきいた。 「ちがいますよぉ。あたい、ほんとうに、四季さまの料理の美味しさに感動しているんですから」 「お褒めに預かり光栄ですね」私は素直に嬉しく思う反面、何だか恥ずかしい気持ちになった。  妖精たちは、三者三様、難しい顔を浮かべている。  少女たちの純粋な挙動を、改めて眺めているうち――私は、あることをひらめいた。  つまり、妖精はなぜ地獄へ行くのか、という疑問に対する回答である。それはあくまで推測にすぎず、正しい結論とは言いがたいものであるのかもしれないが、私個人の内側で導き出されたひとつの答えとして、朝陽のようにまばゆい輝きをもって頭の中に浮かんでいた。 「私、食べるわ」  唐突にそう言ったのは、赤みがかった金髪の少女。  太陽さんは肩を張って、勢いよく鼻を鳴らすと、意を決して匙をつかんだ。 「おお……!」「はらをくくったわね」  お月さまとお星さまが、驚いた顔で友人を見た。  太陽さんは、匙を持ったまま、少しためらっていたが、 「ようし、その意気だ」  にへらと笑う小町の言葉を受けて、重々しくうなずくと、皿の隅からニンジンのひと切れをすくい上げた。  それから、匙の上の橙色に、鋭い視線を注ぐ。  まるで、強大な敵と対峙しているかのようだ。  一度だけ、深呼吸。  そうして、 「えいっ!」  彼女は思い切って、ぱくり、とニンジンを口の中に放り込んだ。  もぐ、もぐ、と咀嚼してから、  ごっくん、と飲み下す。  うつむいたまま、  沈黙。  あとの二人は、緊張した面持ちで友人を見つめている。  私も、神妙な顔つきで、太陽さんの勇姿を見ていた。 「どうよ」  沈黙を破って問い掛けたのは、呑気な死神であった。  それを受けて、太陽さんは、ゆっくりと顔を上げる。  二人の少女が、ごくり、と固唾を飲んだ。  やがて、緊迫した空気の中、小さな戦士は、 「……おいしい」  つぶやくように、そう言った。 「おいしい!」遅れて実感がついてきたのか、彼女は目を丸くして叫ぶ。「にんじんおいしい!」 「ええっ!」 「何ですって!」  お月さまとお星さまは、同時に驚きの声を上げてから、太陽に続けと言わんばかりに匙を手に取った。  そうして、 「……ほんとだ」 「おいしいわ」  二人は同時に目をむいて、顔を見合わせるのであった。  それから三人は、皿の上に残っていたものを続けざまにすくいとって、あっという間にたいらげてしまった。 「文句を言っていたのが、嘘のようです」私は苦笑した。 「小町のおかげですね」 「いやあ、そんなことないっすよ」小町は頬を掻きながら言う。「こいつらの優しさと、勇気のたまものですよ」  三人の妖精は、一様に得意げな笑みを浮かべている。  なるほど、優しさか、などと心中でうなずきながら、私は微笑みをもって、彼女たちの姿を眺めていたのだが、 「閻魔さまが、お料理じょうずだから、にんじん食べられたね!」太陽さんが、不意にそんなことを言った。 「うん、うん」お月さまが、目を閉じてうなずく。 「そうね。閻魔さまのおかげね」お星さまも同調した。 「えっ? あ、いや、その」にわか雨のように唐突であったにもかかわらず、一片たりとも曇りのない言葉に、私は思わず赤面してしまった。「……ありがとうございます」  辛い辛いと悲鳴を上げられた時には少し焦ったけれど、やはりライスカレーを作って良かったと思う。料理は手慣れているが、他人に振る舞うという点においては慣れないことであったので、内心では緊張していたのだ。 「おかわりしよっと」 「わたしもおかわり」「あ、私もー」  三人は口々にそう言うと、いっせいに椅子からおりて、調理場のほうへ駆けていった。 「よっし、それじゃあ、あたいも」  それに続くように、小町が空になった皿を持ち上げ、席を立った。まったく、いつの間に平らげたのだろう。これくらい食べていれば、私もいろいろ大きくなるだろうか。 「……あっ!」私は大事なことを思い出し、大きな死神の背を呼び止めた。「ちょっと、待ちなさい小町」 「はい、何でしょう?」彼女は振り向いて、きいた。 「あなた、これで何杯目ですか?」 「ええっと。これ、というのは、今から盛ってくるぶんも数に入れますか?」  私は無言でうなずいた。 「でしたら、三杯目っすねー」小町は笑って答える。 「そうですか」私はもう一度、厳粛にうなずいてから言った。「では、自重しなさい」 「へ?」 「おかわり禁止」 「ええっ! な、なにゆえですか!」 「先ほど、私の分を残しておいて下さいと申し上げました」 「あ」小町は空中へ視線を投げてから、思い出したように言った。「そういや、そうでした。へへ」 「と、いうわけで、小町はおかわり禁止です」 「そんなぁー!」と小町は嘆き、調理場のほうを指差しながら、今にも泣き出しそうな顔で抗議してきた。「ニンジン、食べさせたじゃないですかぁ」 「それはそれ。これはこれ。だめなものは、だめです」 「ううっ……四季さまがつめたい……」 「……その代わり」私はそっと付け加える。 「!」小町は息を呑んでから、妙に期待のこもった視線を向けてきた。「何でしょう!」 「その代わり」私は強調するように繰り返したあと、自分の皿を相手のほうへ差し出しながら、淡々と言った。「あなたには、私の分のおかわりを運んでくる権利を与えます」  これを受けて、小町はたちまちしぼんだ花のようにがっくりと肩を落とし、消え入りそうな返事をするのであった。 「あ……はい……」      5 「日下部昭三、無罪。冥界行き」  灰色の、広漠とした空間。壇上において私が読み上げた判決を、書記官の青年が、閻魔帳に書き込んでゆく。  一週間の休みを終えた私は、肩の張った紺色の制服に身を包み、変わり身のように気持ちを切り替えて、日常の業務をこなしていた。  三人の妖精は、もういない。  当初の予定どおり、子守りの期間を終えた私がそっと解放してやると、彼女たちの魂は、何事もなかったかのように、修復の済んだ元の肉体へと戻っていった。  一週間、慎重に観察を続けたが、私は結局、『幻』と呼ばれる妖怪の手がかりを、何一つ掴むことができなかった。 妖精たちの魂を連れてきたかの賢者には、かんばしい成果を挙げることができずに申し訳ないと謝ったのだが、だいたい「初めから期待していなかった」といったような意味の言葉を返されたので、腹に据えかねた私は、夜通しの説教をもって仕返しとした。  しかしながら、私個人が得られたものは、確かにある。  私は、小町の家で食事をした際にひらめいたことを、何となく思い返していた。三人の少女の純粋さを受けて思い至った、例の疑問に対するひとつの答えである。  ――なぜ、朽ちた妖精の魂は地獄へ行くのか。  私は初め、妖精たちは人間への恨みのままに、地獄へ堕ちてゆくものだと考えていた。しかし、あの三人と一緒に過ごしているうち、そういった考えに対する疑念が、次第に強まっていったのである。  妖精たちの無垢な姿を見ていたら、恨みの念が介入する要素など、少しもないことがよく解った。だから、私がひらめいたことは、もっと単純で、純真で、幼い心に由来するものであった。  その感情の名は――恐怖。  それは、幼い心を持った妖精たちが、みな一様に有している純真な心の一つだ。  つまり、人間によって滅ぼされた妖精たちは、恨みを抱いて地獄へ堕ちるのではなく、抑えきれぬ恐怖心によって地の底へ逃げてゆくのではないか、ということだ。地上には、自分たちを汚す恐ろしい人間たちがいるのだ、だから、どこか目の届かぬところへ逃げなくては――という、本能的な強迫観念が、妖精たちを地獄へ導いてゆく原因であると、私は考えるのである。  だとすれば、彼らの魂は、やはり正式に裁かれるべきなのではないだろうか。少なくとも、地獄とは、純真で優しい心を持つ者たちが行くべき場所ではない。妖精たちにも、死後の正しき道を示してやる必要があるだろう。  だが、『自然』を裁くというのは、やはり難しいことだ。  人間や妖怪、妖精の魂は、寿命や性質がそれぞれに大きく異なっている。そのため、まずは種族別に魂の特徴を綿密に調査して、確実に管理できるようにならなければ、裁判に至るまでの段階や仕組みを構築すること自体がままならないのである。少なくとも、これまで『人間』の魂を対象とすることを前提とした活動を行ってきた是非曲直庁においては、「とうてい把握しきれぬ『自然』のことである」といって軽視されてきたがゆえに、妖精の魂を徹底的に管理するための機構が、まだ存在しない。そして、その完成を短期間で実現するのは、とうてい不可能なことであった。  だから、今のわれわれが『自然』の『死』に対して出来ることといえば、妖精の魂の受け入れを目的とした新しい機構を用意することは当然であるが、ひとまずは、従来の仕組みの中における工夫を重視してゆくことである。  例えば、妖怪の山の秩序を乱したあの男のように、自然を無作為に傷つけようとする傲慢な人間に与えられる罰を、今よりもっと厳しいものにする。気休め程度にしかならないかもしれないが、そうすることで、破壊された『自然』を間接的ながら尊重してゆくことができる。  あるいは……私には、一つの突飛な発想があった。 『自然』のものを、『自然』の価値観によって裁くのだ。  妖精の霊魂には、妖精の価値観を参考にした上で、判決を言い渡す。――要は、この裁判所で妖精を裁くことになった場合、同じ妖精を裁判官として招き、判決を定めるにあたって、その意見を参考にしてゆくのである。そうすれば、『自然』というものの声をじかに聞き取り、その在り方を直接的に尊重してゆくことも可能になるはずだ。  さらに、もしこれが実現すれば、『自然』に限ったことではなく、人間の霊魂には人間の裁判員を、妖怪の霊魂には妖怪の裁判員を、といったふうに、他の種族にも応用することができる。まだ生きている者をこの場所へ連れてくるということ自体が、倫理的に問題視される可能性はじゅうぶんにあるが、特例であるとはいえ八雲紫のように条件付きで出入りを許可されている者もすでに存在するのであるから、まったく実現不可能というわけではないだろう。  突拍子もない話であるという自覚はあるが、魂を裁く立場の閻魔だって――いや、そういう立場にあるからこそ、時代の流れに対応して、変化してゆかなければなるまい。  ――是非曲直庁は、閻魔の裁判所は、うまく変化してゆくことができるだろうか。  私はいま一度、無邪気な三人の笑顔を思い浮かべた。  あまり縁起でもないことは考えたくはないが……もし今後、あの妖精たちが本当に朽ちてしまう時がくるとしても、その時にはこの裁判所が、地獄へ堕ちるための薄暗い一本道の他にも、光り輝く可能性を示すことができるような場所になっていればいいと思う。  魂を解き放たれ、再び生を受けた三人は、私と過ごした日々の記憶をすっかり失っているはずである。  けれども、それで構わない。  死も、  恐怖も、  悪夢も忘れ、  妖精たちが、幼い夢を見ていますように。
判例3
判例3 慧の慧眼      1  白い霧の立ち込める、静まり返った土の上。  河辺であるにもかかわらず、不思議なことに、水の流れる音は少しも聞こえない。それもそのはず、向こう岸の影すら見えぬ大河の水は、静止していると言って差し支えないほどに、うんと近づいて観察しなければ気付かぬような速度で、きわめてゆるやかに流れているのであった。  土手の表面には植物が茂っているが、そのすべてが青白く冷たい色をたたえており、みずみずしさを感じさせることはない。草も、木も、もの寂しさを訴えかけてくるばかりで、その輪郭が周りの空気に溶け込むように曖昧にぼやけていることも、決して霧のせいだけではないだろう。  ここは――三途の河。  死者の霊魂が彼岸へと渡りゆく、終焉の地である。  言葉どおりに、死んだような静寂をたたえる場所ではあるが、ここまでたどり着いてしまった魂も、まだこちらの岸にいるぶんには、息を吹き返し、生の世界へと戻れる可能性はある。だが、こちらの岸から、あちらの岸へ――ひとたび此岸から彼岸へと渡ってしまえば、あとは閻魔の裁判を待つばかりとなり、もう二度と、元の肉体に戻ることはできない。  薄ら寒いまでに静かな死の世界であったが、不意に、水を掻く音が響いた。初めはごく小さなものであったが、ばしゃり、ばしゃりと、その音は次第に大きくなってゆく。  河の上を見やれば、その音の出所は明らかであった。霧の向こう側から、棒のような形の影が、ゆっくりと近づいてくる。背の高いその影は、やがて桟橋の横に素朴な手漕ぎ舟をつけると、緩慢な動きで土手のほうまで歩いてきた。  草の踏みしめられる音は、ちょうど斜面の真ん中あたりでぴたりと止んだ。  そして、ほこりを払うような所作で両手を叩きながら、 「ようっし。お仕事かんりょーう」  背の高い少女は、この場にはあまりにも似つかわしくない、やけに間延びした声でそう言った。それから彼女は、周囲の重苦しい空気などお構いなしといった様子で、両の腕を天に掲げて大きく伸びをする。  彼岸花のように紅い髪が、玉の髪留めで二つに結われている。  青い着物には袖がなく、代わりに肩を覆うのは、内側に身につけた半襦袢。すその部分が腰の周りに垂れていて、ふわりと大きく広がったスカートの上に真っ白な布が覆い被さっているさまは、ちょうど青色の朝顔の花を引っくり返したような形に見えた。  腰の上に巻いた半巾帯が、リンゴのように大きな胸を余計に強調している。明るい青色の服装の中で、表面に何の柄も装飾も施されていない、その真っ黒な帯だけが、少しばかり浮いていた。  鼻緒の紅い高下駄は背の高さをいっそう際立たせ、上から下まで派手な外見の少女であったが――ただでさえ奇抜な服装さえも凌ぎ、何よりも目につくのは、その手に握られている大鎌であろう。彼女の身長よりも頭ひとつぶん長く伸びた柄の先で、禍々しいまでに鋭く巨大な刃が、いびつな三日月形を描いている。  小野塚小町。  彼女は、三途の河の渡し守を務める死神である。  死者の霊魂を舟に乗せて、彼岸まで送り届ける。十人の閻魔王が統べる『是非曲直庁』と呼ばれる組織のもとで、小町はそういう重要な役割を任されている。  しかしながら、その責務をまっとうするためには、彼女の性格には甚大と言っても足りぬほどの問題があった。 「つかれたぁ」呆けたような顔で、小町は言う。「寝よ」  それから彼女は、右手に握っていた大鎌――死神の象徴であるはずのそれを、まるでくずかごの中へ放り込むような調子で、ぽいと横合いへ投げ捨ててしまった。そうしてから、その場で草の上に身を投げ、あくびをしながら仰向けに寝転がる。  一応、ひと仕事をきちんとこなしたばかりであるとはいえ、午前業務の時間は、まだ半分も終わっていない。  船頭の仕事は、言わば汚れ役のようなものだ。地獄の民である死神たちは、是非曲直庁による統制の下でさまざまな職務にあたっている。閻魔身分への出世を希望し、裁判に同席を許される書記官の役職を志す者が多い中、「孤独な現場での退屈な肉体労働」という非常に解りやすく的を射た負の評価から、死神たちにとって最もやりたくない仕事が『三途の河の渡し守』であるという事実は、統計や議論にたずねるまでもない常識なのであった。  死者の霊魂とじかに接する重要な立場であるとはいえ、組織内ではそういう形で認知されている役職であるため、積極的に船頭になりたがるような死神は少なく、そういう者たちはほぼ例外なく変わり者である。中でも抜きん出て変人なのが、この小野塚小町という死神だった。  どういう役職であるのかをよく承知の上で、彼女は自分から渡し守になることを希望したのにもかかわらず、しばしば「疲れた」と漏らしては職務を放棄し、惰眠を貪ろうとするのだ。それだけならば、ただ単にやる気がないだけで、注意すれば済むことであろうが――上司のお叱りを受けてもまったく懲りないばかりか、「では辞めてしまえ」といったようなことを冗談でも言いつけられた時には、断固たる意思をもって拒否してくる。それこそが、小野塚小町が変人と呼ばれる最大の要因なのであった。 「ふわあぁ……」  頭を使うことを忘れた奇人にとっては、単調で楽な仕事だから辞めたくないのだろう――周囲からそんなふうに思われていることを知ってか知らずか、呑気な死神は、この日もいつもと変わらずに、霧のかかった空へ大きなあくびを投げつけていた。  ゆっくりと目を細めて、まぶたを閉じたり、また少し開いたり、ということを繰り返す。そうして、この怠け者の死神が、しだいに夢の世界へと近づいてゆき、やがて眠りに落ちようとした時のことである。 「……ん?」  うっすらと、わずかに開いた瞳。そのぼんやりとした視界には、宙を漂う白い霧ではありえない、赤紫色の何かが染み込んでいた。 「んんー……?」  まどろんでいたまぶたをこすって、目を凝らす。ぼやけていた視界はしだいに明瞭さを取り戻してゆき、やがて違和感の正体をはっきりと捉えた。 「こんにちは」  赤紫色の、短い髪。  その少女は、口元に穏やかな微笑を浮かべていた。  小町には初め、少女の顔が上下さかさまになっているのが、どうにも不思議でならなかった。けれども、そんな疑問もすぐに解消する。この少女は、仰向けになっている自分の頭のほうに立って、覗き込むようにしているから、さかさまに見えるのだ――などということは、寝ぼけた頭でも、ちょっと考えたらすぐに解ることであった。  しかし、少女がいったい何者であるのかということまでは、寝転がった状態ではいまひとつ理解に及ばない。そういうわけで、小町はとりあえず上半身をぐっと起こしてから、たずねることにした。 「どなた?」 「死人です」と、少女は答えた。  言われてみれば――なるほど、確かに、霊魂である。小町はそう思ってポンと手を打ち鳴らしたが、ここがどういう場所なのかを考えてみれば、相手が死者である可能性の高いことは前提的に明らかであった。 「死人かぁ」  小町はそう言って、ほうと息を吐いた。それから、不意に現れた少女の全身を、じっくりと観察してみる。  見た目からして、十歳くらいだろうか。赤紫色の髪と、西洋風に手の加えられた青い着物が、とても印象的である。すそは膝丈までしかなく、ひらひらとした白布の縁取りなどが、華やかな雰囲気をかもし出していた。  魂と呼ぶにはいささか具体的な姿であり、いまひとつそれらしい実感が湧きにくいが、この少女は確かに、肉体を持たぬ亡霊であった。  死者たちは普通、元の肉体の温度が失われてゆくにつれて、同時にその記憶を失ってゆく。記憶は是非曲直庁の編集室に転送され、閻魔帳に資料として書き込まれた上で、裁判に使用されるのである。そういう段階を踏むと、もう霊魂の状態では、生前の姿を再現することができなくなってしまう。死者の霊魂が、俗に言うヒトダマの形体をとるのは、肉体の形を思い出せぬまでに記憶を失った、その後のことなのである。  少なくとも、三途の河を渡って彼岸に行くより前、此岸にいるうちは、まだ生前の姿を維持できていてもおかしくはない。だから、この赤紫色の髪の少女に関しても、肉体から抜け出た上で、こういう姿をとっている魂なのだ、という解釈がじゅうぶんに通用するのである。  しかし、死神には、どうにも納得いかない部分があった。 「……いや、どうかな」小町は首をかしげる。 「?」同じ角度で、少女も首を傾けた。 「お嬢ちゃん、まだ死にきれてないねぇ」死神は、あごに手をあてて吟味しながら言った。「その姿は、お気に入り?」 「お着物のことですか?」少女は青色の袖を振った。 「いんや」小町はかぶりを振った。「服もだけどさぁ。……その、かわゆいお顔もよ」 「お顔?」 「そうともさ。つまり、両方」小町は澄ました顔で言う。 「やっぱり、そう見えますか」少女は苦笑した。 「まぁーねぇ。だてに死神やってないよ、あたい」 「面白い方ですね」少女はくすくすと笑ってから、答える。 「……ええ、そうです。どちらも、お気に入りです」  小町の指摘は、的を射ていた。つまり、この少女はまだ死にきれていない、ということである。  此岸にいる霊魂は、必ずしも死者であるとは限らない。まだ死に掛けている段階の者が三途の河へやって来るため、 『こちら側の岸』には、ただ転んで気を失っただけの魂などが顔を出すこともあり得る。ここはまだ生と死の境目であると考えれば、彼岸の土に足をつけるまでは、姿がどうであれ、よみがえる可能性は最も薄くてもゼロではない。  そして、死神の目には、相手の寿命が映る。その寿命が明確であればあるほど、それはまだじゅうぶんに生き返る可能性の高い魂、ということになる。少なくとも、小町の目には、少女の寿命がまだはっきりと見えていた。 「戻ろうと思えば、簡単に戻れるよ」小町は、当然のことのように言った。 「そうでしょうか」少女がきいた。 「うん。あたいにゃ、判る」 「そういうものですか」と言ってから、少女は赤紫色の髪を垂らして、うつむく。「……でも、だめですね」 「ええー。まだ、大丈夫だって。もちっと、がんばりな」小町はにへらと笑って、冗談みたいに付け加えた。「死人が増えると、大変なんでね」 「お仕事が、ですか」 「ま、そーゆーこと」 「それは、申し訳ないですね」少女は苦笑しながら、妙に大人びた口調で言った。「死神さんの、お昼寝の時間を減らしてしまうのは、しのびないです」 「うげ」その言葉を受けて、小町は思わず、ひっくり返りそうになる。「あ、はは。お気遣いどうも」  小町は大鎌を拾い上げ、その柄を杖がわりにしながら、ようやく立ち上がった。そして、背中と尻を両手ではたいてから、身長の差でいっそう小さくなった赤紫色の頭を、改めて見下ろした。 「死神さんのお仕事は、お昼寝ではありませんよね」少女は、べつだん皮肉るような調子でもなく、ただ純粋な言葉でそうきいてきた。 「まあね」小町は後ろ手に持っていた鎌の柄を、桟橋の見えるほうへ傾けた。「本業は、あっちの舟を漕ぐ仕事」  少女はまたクスリと笑った。しかし、その表情には、すぐに冷たい影が落ちる。 「……私も、連れていってくれますか?」少女は上目遣いできいた。 「夢の世界へ行く舟じゃないよ」 「はい。解っています」 「いやぁ、それは、構わんのだけど」小町は頬を掻いた。 「戻る気ないの? ……ひょっとして、自殺志願者?」  そうだとすれば、この場にいる時点で、少なくとも未遂まではいっている。だから、小町がそう言ったのは、半分はまじめであったけれど、半分は冗談のつもりであった。 「そうではない、と思います」少女は首を左右に振った。 「じゃあ、何でさ」 「私には、戻る資格がありませんから」 「んー。どうだろう」小町は肩をすくめる。「戻りたくないわけじゃ、ないんでしょ?」 「それは」少女は言葉を詰まらせた。「……そうですけど」 「ほらなぁ。やっぱり、そうだと思ったんだ」 「どうして、判りました?」 「だってねぇ、未練たらたら、って顔してるもんさ。大事な人でも、いるんじゃあないのかい?」  小町の言葉に、少女は目をむいて驚愕した。 「……だてに死神やってない、というわけですね」 「うんにゃ。今のは、女の勘だ」小町は自分のこめかみを指で叩いてから、またにへらと笑った。  そうしてから、背の高い死神はくるりと身をひるがえすと、おもむろにそちらの方向へと歩み始めた。 「どこへ行くのですか?」まだ三歩といかないうちに、少女が背中越しに声をかけてきた。 「ん」小町は振り返って、呑気な調子で答える。「仕事だ、仕事。もう昼寝って気分じゃないし」 「ああ。お邪魔してしまって、ごめんなさい」 「謝るこたぁないよ」小町は歯を見せて笑う。「迷ってんなら、ここでもう少し考えてな。あんまり、時間があるわけじゃないけどさ。……帰るなら、日が暮れるまでにね」  もたもたしていたら、記憶が失われてしまう。そうなれば、もう二度と、ここから戻れなくなってしまうだろう。  小町は助言と注意をその場に残し、改めて少女に背を向けると、また桟橋のほうへ歩いてゆく。土手の周辺には、いくつかの青白い火の玉のようなものが、ゆらゆらと飛び回っていた。死神が怠けているあいだに、彼岸へ渡れぬ霊魂が集まっていたのだ。まだ人の形をとっている者も、二、三人ほど見受けられる。 「よっし。じゃあ、お前さんからだ」  小町は桟橋まで歩く途中で、一つの霊魂をつかまえてきて、茶色い小舟の上に乗せた。彼岸へ渡せる霊魂は、一回の往復につきひとり分だけなのである。  それから、桟橋の上にしゃがみ込んで、いつの間にそんなものを持っていたのか、片手いっぱいに握っていた銭貨を乱雑にぶちまける。小町は大鎌を横へ寝かせてから、散らばった銭に人差し指をあてて、将棋の駒を動かす具合で並べていった。  湯呑みの口ほどの大きさのものから、豆粒のように小さなものまで、それらは大小さまざまな円形をしている。真ん中に四角い穴が空いているのみで、文字のひとつも彫られていないのっぺりとした銭貨は、しかし例外なく純金あるいは純銀で出来ており、価値の高さは一目瞭然であった。 「ほう、ほう。こいつは結構」すべての銭を数え終えると、小町は舟のほうへ目をやって、笑った。「まいどあり」  それから、死神は胸元から紅い巾着袋を取り出すと、ちりとりにほこりを集めるような所作で、手のひらで銭をかき集め、その中へ放り込んでいった。やや手間取りつつも、銭貨の回収作業を終えた小町は、よっこらせと立ち上がってから、じゃらじゃらと音を立てる巾着袋をまた胸元へしまい込む。  そうして、さて乗船するかと顔を上げ、舟のほうを見たところで、 「おい」  と、小町は思わず突っ込んでしまった。  それも仕方ない――連れてきた霊魂の隣に、先ほどの、赤紫色の髪の少女が座っていたのだ。 「何してんの?」小町は、きょとんとした顔できいた。 「死神に相乗りです」少女は、笑顔でそんなことを言う。 「いや、意味わかんないし」当の死神は、紅い髪をがしがし掻きながら、舟の上に抗議の視線を送る。「困るなぁ。逝くのは構わんのだけど、ちゃんと『渡し賃』払ってくれよ」  すると少女は、首を大きく左右に振ってから、こんなことを言い出した。 「お手伝いさせて下さい」 「……はあ?」小町は口をぽかんと開けた。 「お手伝いさせて頂ければ、戻る気になるかもしれません」  つまり、三途の河を渡って、霊魂を彼岸へ連れてゆく、この仕事を手伝いたいと言うのである。 「舟を漕ぐ手なら、間に合ってるよ」小町は右手を振りながら、まじめな顔で言った。 「でも、もう一人増えれば、その手はお仕事をせずに済みますよ」少女は微笑む。「舟の中で、お昼寝できます」 「うーん……そいつは魅力的な発想だが」背の高い死神は、小さな少女のか細い腕を眺めてから、溜息を吐いた。「そんなんじゃあ、ちっとも先へ進めそうにないねぇ」 「では、お話する口はどうですか」少女はくちびるに指先をあてて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。「三途の旅路は、静かで、退屈ではありませんか?」  その挑戦的な問いを受けて、小町は「ふむ」と腕を組み、考え込んだ。ややあって、にやりと笑みを浮かべてから、問い返す。 「お前さん、そんなにあたいと話がしたいか」 「まあ」少女はわざとらしく両手を合わせて、驚いたようにきく。「今のは、死神の勘ですか。それとも、女の勘?」 「んー、いや。思いついたことを、適当に言っただけ」  死人に口なし。  たったいま連れてきた霊魂もそうであるし、それなりに具体的な姿を持つ者であっても、河を渡るあいだに記憶が失われて、同時に口もなくなってしまう。  小町は、舟の上で霊魂に話しかけるのが好きだった。閻魔のことや、地獄のことなどを面白おかしく話し聞かせて、相手の反応をうかがうのである。けれども、向こうまでずっと一人でしゃべり続けなければならない時などは、途中でかならず寂しい気持ちになるものであった。 「ちょうど、あたいも話し相手がほしかったとこだからね」  だから小町は、そんなことを付け加えて言ったのだ。  たまには、ずっと口のある霊魂をお供にするのも、悪くない。ずっと、というところの保証は確実にはできないけれど、少なくとも、これほどまでに寿命のはっきりしている霊魂ならば、彼岸の土に足をつけない限りは、そう簡単に口を失うこともないだろう。『渡し賃』を徴収するまでは、そういうことはさせないし、そもそもできないようになっているのだから、心配することはない。  死神は、何気ない調子で問いかける。 「船酔いは、するほう?」 「いえ」少女は微笑みながら、首を振った。「慣れています」 「よっし」小町は鎌を拾い上げると、桟橋から舟に乗り込み、赤紫色の頭にポンと手のひらをのせてから、言った。 「落ちんなよ」      2  三途の河。  薄明るい白の世界に、ばしゃり、ばしゃりという音が、繰り返し響いている。平時はほとんど無音で、先の見えない物寂しい空間であったが、この茶色い小舟が通る時だけは、水を掻く音と死神の声が霧の中に響き渡って、冷たい印象もいくぶんやわらぐのであった。 「――それでさぁ、その鬼が言ったわけだよ。『悪い子はいねぇかぁ、悪い子はさらって喰っちまうぞぉ』って」 「そんな鬼がいるんですか」赤紫色の髪の少女は、驚いた顔で言った。「何も言わずに、喰ってしまえばいいのに」 「色んな奴がいるよぉ」紅い髪の死神は、親指で自分の胸をつつきながら言った。「死神だって、こんなのもいるし」  船頭の死神は、文字通り船の先端に立って笑いながらも、水底に棹をさして舟を進めてゆく。  この舟は現在、此岸を離れて、三途の半ばを進んでいる。  半ばというのも、船頭である小町がそういう判断をしているだけであって、連れてきた霊魂には、どれだけ進んできて、あとどれくらいで彼岸へ着くのか、ということがまったく解っていないだろう。それは、「手伝いたい」と言ってついてきた、赤紫色の髪の少女にしても例外ではない。 「でもって、ここからがほんとうに面白い話なんだ」小町は棹を右から左へと持ち替え、舟の進路を調整しながら、続きを話した。「人間はみんな怯えてね、誰もその鬼に立ち向かおうとはしなかったんだけど……聞いて驚け、たった一人の女の子が、威勢だけで追い返しちまったのさ。大人たちが震えるばっかりで、何もできなかったのにだよ」 「人間の女の子が、鬼を、ですか?」 「うむ」 「へえ……面白い」少女は胸の前で手を合わせてから、申し訳なさそうに言った。「まあ、その。実は私、そのお話、知っていたんですけどね。『鬼殺し』の親子でしょう」 「ありゃま」小町は頬を掻いた。「なんだぁ。先に言えよう」 「ごめんなさい。だって、死神さんが、あんまり楽しそうにお話するんですもの」 「まったくぅ。イジワルな奴だなぁ、もう」  小町は膨れて、抗議の視線を送った。とはいえ、少女の横にいるヒトダマは、それなりに楽しく聞いてくれたようだ。口はなくとも、そういうことは、何となく挙動で解る。  しかし、それでも小町は、この少女の好奇心をそそるような、刺激的な話題を繰り出したくて仕方がなかった。そうしなければ、何だか負けているようで、情けないと思ったからだ。  とはいえ、やけに物知りな青い着物姿の少女に対し、手も足も出ないのが現状であった。 「うーん……。何だろなぁ」小町は棹を持っていないほうの手をあごに当てて、考え込んでしまう。  すると、それを受けた少女のほうから、こんなことを言ってきた。 「死神さんの、お仕事の話を聞かせて下さい」 「あたいの仕事?」自分を指差しながら、小町は言った。 「そんなの、知ってるんじゃないの?」 「知らないこともあります」少女はかぶりを振って、言う。 「だって、死後の記憶は、歴史に残りませんからね」 「はあ……。がむしゃらに、生きてたわけだ」 「否定はしませんよ」少女は微笑んだ。  白い霧の中に、ばしゃり、ばしゃりという音が響いている。小町は少し思案してから、再び口を開いた。 「三途の河の深さって、どれくらいあるか知ってる?」 「水深ですか」唐突な質問に対し、少女は静かな水面のほうへ目を落としてから、首を振って答える。「……解りません。とても、深そうですが」 「ほう。その考え方は、いい線いってるね」 「ありがとうございます。……ですが、どのくらい深いのか、ということまでは、うまく言い表せません」 「簡単だよ」小町はにやりと笑った。「底なし、なのさ」 「えっ」少女は驚いた目で、小町の手元を見据えていた。 「では、その棹は、どうやって扱っているのですか?」 「ほう。よいところに目をつけたな、お嬢さん」  小町が偉そうに言うのを、少女も、その隣にいた霊魂も、興味深そうに眺めていた。とはいえ、もう一人のほうには目がないので、死神にはそういう挙動に見えた、というだけの話である。  棹の先が水底につかなければ、舟を操ることなどできるはずがない。少なくとも、小町の握っているものが、先端に水を押して進むための板がついているわけでもない、ただのまっすぐな棒であることは、この場にいる全員が出発時に見たので、まず間違いない。三途の河にはほとんど流れがないし、その上、風が吹いているわけでもない。仮に追い風であったとしても、そもそもこの質素な舟には、帆など取り付ける装置がない。――それなのに、舟はしっかりと前進しているのだ。 「どうやって、推進力を得ているのですか?」少女がきく。 「知りたいかい?」と、小町は満足げな笑みを浮かべて、答えを待たずに言葉を続けた。「それはだねぇ――」  それから、小町は指を立てて、説明を始めた。  三途の河は基本的に底なしなので、渡し守の死神たちは、是非曲直庁から支給される特殊な棹を用いて舟を動かしている。  その棹の本来の見た目は、死神がたずさえている大鎌の柄のほうが長いくらいの、何の変哲もない木製の棒であった。しかし、ひとたび水にさし入れると、これが瞬時に如意棒のように伸びて、河底に先端が当たったらしい感触が、確かに得られる。その状態で棹をぐっと押し付けることによって、死神は舟を操作することができるのだ。  しかし、小町はそこまで話し終えた直後、かぶりを振ってから、こう付け加えた。 「でも、あたいが持ってるのは、本庁の支給品じゃあない」 「違うのですか?」これまでの説明をすべて自分から否定する発言に対し、赤紫色の髪をした少女は、心底ふしぎそうな顔できいた。 「ただの棒だよ」そう言って、小町がちょっと棹を持ち上げると、それだけでもう、その先端が水面から出てきた。 「伸びもしない、縮みもしない。ただの、木の棒」  これを受けて、少女が素直に驚愕してくれたので、小町はしめしめと満足げな笑みを浮かべた。 「その棒で、一体どのようにして、舟を動かしているのですか?」それまでの大人びた態度はどこえやら、少女は宝石みたいに目を輝かせながら聞いてきた。 「まあ、まあ、そう焦りなさんな。後で教えるから……」  小町は得意げな表情で、持ち上げていた棹を、再び水面にさし入れる。そうすると、水面が波打つ音とともに、停まっていた舟がすぐに前進を始めた。 「ここでいったん、話を変えよう」舟にいる二人――少女と、口のない霊魂のほうにも一応、交互に目を向けてから、きいた。「河幅は、どれくらいあるか知ってる?」 「無限大、でしょうか」少女はすぐに答えた。 「あちゃー。こっちは、知ってたかぁ」思いのほか、即答されてしまったので、小町は額に手を当ててがっかりした。 「いえ、今のは、冗談のつもりだったのですが……」少女は戸惑いの声を漏らす。「底なしだから、幅にも限りがないのかな、と。しかし、それでは、向こう岸に到達することができません」 「ま、そりゃもっともだねぇ」小町は肩をすくめる。「河幅にも、限りがない。確かに、そのとおりなのさ」 「では、この舟はどうやって、対岸へたどり着くのですか」 「知りたい?」 「知りたいです」 「あたいが、『距離』を決めているんだ」小町は当然のように、そう言った。  少女には、その言葉の意味がよく解らなかったようで、もう一人の霊魂といっしょに首をかしげている。 「距離?」 「そ。『距離』を好きなように操れる」小町は棹を操りながら、答えを示した。 「なるほど」少女は手を打って、納得した。「要するに、そういう力をお持ちなのですね」 「うむ。そゆことだ」 「本来は無限であるはずの彼岸までの『距離』も、河の『深さ』も、自分で決めることができる。短い棹の先が河底につくのも、棹が伸びているからではなく、死神さんが棹を入れたところだけ水が浅くなっているから……と、いったところでしょうか」 「さすがだなぁ。物分かりがよろしい」小町は感心してうなずいた。  彼女の力は『距離を操る程度の能力』と呼ばれている。本来ならば無限であるはずの『距離』に有限の数値を与えられるほか、自分から相手に近づいたり、相手を自分のほうへ近づけたり、ということも一瞬でできるし、「実際には離れたところに立っているのに、目の前にいるように錯覚させる」といったように、『視覚的な距離』を操作することも可能である。  だからこそ、底なしの三途の河の『深さ』を操り、ただの木の棒を水面につけるだけで、それを水底に押しつけたことにする、ということが可能なのだ。逆に言えば、操作できるのはあくまで『空間』として存在する『距離』のみであって、『物体』としての木の棒の『長さ』を伸縮させることまではできない。そのため、この『能力』を使って相手に接近したり、水深を操って河底に棹がつくようにしたり、ということを行っても、あくまでその場の『空間』が短縮されるのみであって、地面の土や河の水の体積までもが変化するわけではない。  また、細胞あるいはもっと微細な分子など、密度の高い要素で繋がった『一つの物体』の一部だけを取り寄せることはできないため、例えば、高い位置に実っているリンゴをもぎ取ろうとする際、リンゴを枝から切り離して手元に持ってくることはできず、枝のところまでの『距離』を操作して、自分のほうから近づかなければならない。  何にしても、彼女のこの『能力』は、三途の河の渡し守という仕事には最適であった。  ただし――これは単純な思考によってなしうるものではなく、例えば「リンゴを取るために近づこう」といったような漠然とした目的を思い浮かべたからといって、それだけで『距離』を縮めることができるわけではない。  小町がその点について言及しようと考えたのも、そこまでの説明を聞いた赤紫色の髪の少女が、このようなことをたずねてきたためである。 「他の死神さんは、どうやって三途の河の『距離』を決定しているのですか?」好奇心を惜しみなく発揮しながら、少女は聞いてきた。「三途の河には、他にも死神がいるはずです。『距離』を操れるのが、あなただけの、特有の『能力』であるとすれば、いくら特別に支給された棹を所有しているとしても、他の死神では、船頭は務まらないのではありませんか」  もっともな指摘である、と小町は思った。是非曲直庁特製の棹によって、舟を漕ぐための『深さ』の問題が解消できたところで、無限の『距離』をどうにかしない限りは、いつまでたっても彼岸にたどり着くことなどできない。  しかしながら、それについては、答えは簡単なことであるどころか、すでに提示されているも同然なのであった。 「他の死神が、どうしてるかってねぇ――」と、舟の先に立つ死神は前を見たままで言ったのだが、彼女の言葉はそこで途切れて、後にはその代わりに少女を呼びつける声が続いた。「おお、ほらほら。見えたよ」  小町は後ろに回した手を、招くように振った。相変わらず視界は悪いが、前方の霧の中には、それまではまったく見えなかった背の低い大地の影が、ぼんやりとゆらめくようにたたずんでいる。 「あれが、彼岸だ」  小町は空いているほうの手で指をさしながら、顔だけで振り返った。これを受けて、赤紫の少女は興味深げな面持ちで立ち上がると、前のほうへ移動しようとした。 「あっ」  しかし、少女は途中でよろめいて、船べりにもたれかかる形になってしまった。それを受けて、舟が少しだけ傾く。  その際、彼女は隣にいた霊魂にぶつかってしまった。まだ明確な実体を維持している少女とは違って、実際はすり抜けただけであったが、身体が触れるという意味では同じである。  素朴な小舟が、わずかに揺れていた。 「ご……ごめんなさい」少女はもう一人の霊魂に謝った。  謝られた死者は、むろん何も語らなかったけれど、頭を下げた様子で、「いえいえ」と会釈しているように見えた。 「おい、おい、気をつけなよ」小町は棹を操る手を止めて、心配そうに言った。 「すみません」少女は頭を下げる。 「落ちたら、戻れなくなるよ」 「底なしだからですか」 「それもあるが、魚もいるからね」 「魚?」 「ずうっと昔に、絶滅した魚」そう言ってから、小町は冗談っぽい調子で付け加えた。「凶暴な肉食魚が多いねぇ」 「私が、食べられてしまうのですか」 「まあ、落っこちても、食べられても、後から引き揚げてやるんだけどさ」それから、小町はまじめな顔になって、言う。「そうなったら、もう絶対に戻れないぞ」  つまり、今はまだ可能性を残している少女も、完全に生き返ることができなくなってしまう、という意味だった。  少女は船縁に手をかけて、河の水を覗き込んでいる。 「お魚、どこにも見当たりませんよ?」彼女は下を向いたままで言った。 「そりゃあ、そんな浅いところ、泳いでないもんなぁ」  そもそも、水の中まで霧のかかったように白く濁っているため、仮にたったいま覗いたところを何かが泳いでいたとしても、その影すら見えるかどうか怪しい。 「死んだ魚は、水面に浮かび上がってくるものではないでしょうか」少女は死神に、まじめな顔を向けてきいた。 「そうだけどさぁ」小町は苦笑する。「ほらぁ、死んだら、気持ちが沈んじゃうでしょ。普通」 「なるほど……。それは、興味深いですね」少女はわざと真に受けたように、大仰な所作でうなずいた。 「あっはは。冗談よ、じょーだん」と笑ってから、小町は言う。「深いのは、河の水だけでいいよ」  少女は穏やかな笑みを浮かべたのち、また船べりから少しだけ身を乗り出して、河の水をのぞき込んだ。 「それにしても……凶暴なお魚がたくさん棲んでいる、と聞くと、急に怖くなってきますね」少女は水面を見たまま言う。「ワニを踏みつけて、海を渡っているような気分です」 「面白いこと言うなぁ」小町は棹を持ち替えながら、呑気に笑った。「なぁに。魚なんか、まだ可愛いほうさぁ」 「お魚の他にも、何か棲んでいるのですか?」 「まあねぇ。死神の舟に乗っていれば、まず襲ってこないけど」小町は得意げに言った。「もっとこわーいバケモノも棲んでるから、気をつけなよん。……自分から喰われたいってんなら、話は別だがね」 「そうですか」少女は不意に、悲しげな顔でうつむいた。 「私は、食べられてしまったほうがいいのかもしれません」  その消え入りそうな声を聞き逃さなかった小町は、赤紫色の髪をした少女の顔を、心配そうに見つめていた。 「――よっし。もうじき着くよぉ」  ややあって、小町は気持ちを切り替えるように、はっきりとした口調でそう言った。霧の向こうの大地の影は、先ほどよりも大きく、ずっと明確なものになっていて、この舟がしだいにそちらのほうへ接近していることがよく解る。  死神も、少女も、もう一人の霊魂も、近づく彼岸の地を眺めながら、三者三様の想いを馳せていた。  だから――舟が通ったあとの静かな水面に、ぶくぶくと不気味な泡が浮き上がっていたことには、誰ひとり、気づくことはなかったのである。      3 「とうちゃーく」  小町は呑気にそう言ってから、水の中から棹を揚げて、代わりに足元に置かれていた縄を取った。それを船べりの突起に巻きつけて、桟橋の柱に結んでゆく。てきぱきと係船作業を終えると、今度は寝かせてあった大鎌を拾い上げて、連れてきたヒトダマのほうへと歩み寄った。 「さ、おいでなさい」  鎌を持っていないほうの手で招くと、霊魂はゆっくりと動いて、小町のほうへ身を預けた。 「お別れだよ」寂しい言葉とは裏腹に、小町はにへらと笑いながら、話した。「あんたを裁く閻魔さまは、ちょっと怖いけどさ、いい人だからねぇ。安心して、待ってなさいな」  小町がそう言うと、その霊魂はゆっくりと頭をもたげてから、うなずくような所作をした。  前方を見やると、平坦な陸地には、青緑色の草原が広がっていた。霧のかかっているせいでもあるが、三途の河と同じように、この静かな地面がどこまでも遠くへ続いているように見える。草地の上をよく眺めてみれば、ヒトダマの形をした青白い霊魂たちが、点々と漂っている様子をうかがうことができる。  彼岸にたどり着いた死者の魂は、呼び出されるまでずっと、この地で閻魔の裁きを待つのである。  死神は、連れてきた魂を桟橋に上げてやった。ひとたび足の裏をつけてしまえば、もう舟の上に戻ることはできない。浮遊するヒトダマの場合は、脚と呼べるものを持たないので、霊魂の下の部分を一度、地面に触れさせる必要がある。そこまで見届けるのが、渡し守の仕事であった。 「それじゃ。元気でやれよ」小町は笑顔のままで言ってから、頬を掻いた。「……っていうのも、変な話なんだけどさ」  霊魂はゆるやかに一礼して、冷たい草原のほうへと進んでゆく。その姿はやがて別の魂たちと交じり、まばたきした後にはもう、どこへ行ってしまったのか解らなくなった。 「さて」小町は片腕で伸びをしながら、息を吐き出すのと同時に言った。「これにて完了、っと」  そうしてから、彼女は何気なく振り返る。――すると、赤紫色の髪をした少女が、桟橋のほうへと身を寄せていた。それまでは腰を下ろして、大人しくこちらの様子を眺めていたはずなのに、いつの間に立ち上がっていたのだろう。 「おい、おい」小町はしかし、特に慌てた様子もなく、軽い調子で呼び止める。「死ぬ気か?」  すると少女は、船べりに手をかけたまま、顔だけを小町のほうへ向けてきた。 「もう、死んでいます」と、彼女は寂しそうに言った。 「いやあ、だからさ」小町は溜息を吐いて、言葉を返す。 「まだ、戻れるって」 「戻れるかどうかではありません。戻る資格がないのです」 「……なんか、悪いことでもしたの?」 「はい」少女は、その表情にいっそうの影を落として言う。 「……私の勝手で、大切な人を悲しませた」  それを聞いて、自殺でもしたのだろうか、と小町は考えた。誰かを残して、死のうとしたから、少女はここにいる。それを罪だと言い表すのは、あながち間違いではない。  少女は不意に、桟橋の柱に寄りかかった。足をつかないかぎりは、まだ此岸の住人であるので、小町はべつだん止めようとは思わなかった。 「そうかぁ……。そりゃまあ、確かに悪いことだ」死神は粛然とした面持ちでうなずいてから、言葉を続ける。「でも、死にきれてないからねぇ。どうしてここに来たのか知らんけど、お前さん、けっこう未練があるんじゃないの」 「そんなことはありません」少女は首を振った。「ここに来るまで、ずっと、考えていましたが……やはり、私は戻るべきではないのです。お別れだって、言ったのに」  その告白は、少女の薄暗い表情に等しく、雨降りのような悲哀の念をたたえていた。  けれども、小町はこれに対し、あえて冷たい言葉を返す。 「ああ、そうかい。だったら、勝手にしな」 「えっ……?」呑気な死神が急に突き放してきたせいか、少女は戸惑いの声を上げた。 「足の裏をつければ、もう彼岸の住人だ」そう言って、小町は挑戦的な笑みを送った。「やってみなよ」  少女は初め、焦ったように視線を泳がせていた。しかし、困惑していたのもつかの間、表情にぐっと力を込めると、いよいよ桟橋の係注へしがみついた。  だが、そこまでだった。 「あ……れ……?」  足の裏をつけようして、身を乗り出したはいいが、少女はもうそれ以上動けない。重厚な鉄扉を押し開けようとするが、力が足りずびくともしない、そんな様子である。 「足の裏をつけるだけ」小町は読み上げるようにそう言って、鼻から息を吐いた。「言葉だけなら簡単だけど、どっちにしろ、お前さんにはまだ、彼岸の土は踏めない」 「くっ……」少女は桟橋に上がるのを諦め、また柱に寄りかかると、抗議のような口調できいた。「どうしてですか? 私は、死んでいるのに。なぜ、彼岸へ上がることができないのですか?」 「そりゃ、そうだろう」小町は当たり前のように答える。 「『渡し賃』、もらってないからねぇ」 「『渡し賃』……?」  首をかしげる少女を見据えて、死神はきっぱりと言う。 「お前さんは、お手伝いだろう? 彼岸へ渡すつもりで、舟に乗せたんじゃない」  小町はそう言ったが、少女にはまだ解っていないようであった。それも当然である。「ここまで来たなら、いつでも彼岸へ上がれるだろう」と想像するのは、何らおかしなことではない。現に、一緒に連れてきた霊魂は、彼岸の地のどこかへ消えていったのだ。 「さっきの話が、まだ途中だったねぇ」と、死神は何気なく言ってから、鎌を持っていないほうの人差し指を立てた。 「死神は、『渡し賃』に応じて『距離』を決めるんだ」  それから、小町は語り始める。『距離』を操る力を持たない他の死神が、いかにして三途の河幅を定めているのか、という疑問に対する答えだ。 「死者が三途の河を渡るには、まず、船頭に『渡し賃』を支払う必要がある」  小町は胸元から紅い巾着袋を取り出して、よく見えるように掲げてから振った。中に入っている銭貨がぶつかり合って、じゃらじゃらと音を立てる。  渡し守の死神は普通、此岸を訪れた霊魂から『渡し賃』を徴収して、彼岸までの『距離』を決定する。その仕組みは単純で、底なしの『深さ』をものともしない是非曲直庁特製の棹に、受け取った『渡し賃』に応じた河幅を設定する機能も備え付けられているのである。そのため、小町のように特別な『能力』を持たない死神であっても、『三途の河幅』という限定的な用途にはなるものの、これらの道具を用いた上で『距離』を操ることができるのであった。 「あたいは、『渡し賃』に応じた『距離』を自分で算出して、その上で『能力』を使って河幅を決めているのさ」  死神はもう一度、紅い巾着袋を軽く振って、音を鳴らした。この中には、先ほどのヒトダマから徴収した『渡し賃』が入っているのである。  やがて小町は、巾着袋を胸元へしまい込む。すると、そんな彼女に向けて、少女が疑問の声を上げた。 「その『渡し賃』というのは、どうやって持ってくるのですか」赤紫色の髪の少女は、まじめな顔できいた。「死人は、財布を持っていません」  それに対し、死神はひょうひょうとした態度で答える。 「なぁに。気が付いたら、持っているのさ」 「……気が付いたら?」 「いや、気を失ったら、の間違いかな?」小町は首をかしげた。「……それも違うな。まあ、とにかく、此岸へ着いた死人は、みんなお金を持っている。多かれ少なかれ、ね」 「それは、生前の財産、ということですか」少女がきく。 「うーん、惜しいな。遺産を持って来ちゃったら、遺族が困るだろう。いない奴もいるけどさぁ」 「では、そのお金はどこから出てくるのでしょうか」 「あたいはもう、答えの七割がた、言ったけどな」 「えっ?」  小町のいたずらっぽい笑みを受けて、赤紫色の髪の少女は、口元に手を当てて考え込んだ。死神がこれまでに語ったせりふの中に、すでに答えが含まれている。そのことを察することができるだけでも、この少女はやはり賢い、と小町は改めて思った。 「……解りません」少女はかぶりを振ってから、冗談じみた口調で付け足した。「遺産では支払えない……だからといって、まさか、遺族を差し出せとでも言うのでしょうか」 「おおう。嬢ちゃん、勘も鋭いよねぇ」小町はわざとらしく仰け反ってみせたが、内心ではほんとうに驚き、感心していた。「正解だよ」 「まあ」少女は開いた口に手のひらをかざしながら、やけに物騒なことを言う。「死神さんも、人を喰ってしまうのですか? それとも、お金に換えるために、人の肉を売り払ってしまうとか」 「おい、おい。そんなわけあるか」 「あら……違うのですか?」 「当たり前だろぉ。心外だなぁ、まったく」小町は膨れながら言う。「ここは、閻魔の台所……いや、違った。閻魔のお膝元だよ。……これも、違うのかな? まあ、いいや。とにかく、死神が人の肉を喰ったり、売り払ったりとか、そういう悪事を働くわけがないだろう」 「それもそうですね」少女はくすくすと笑った。「……では、遺族を差し出すとは、どういう意味なのでしょうか」 「まあ、たとえ話だよ。要は、人が死んだら、生前そいつの周りにいた人の財産が、そいつの所持金になる」  遺族なり、友人なり、死者が最期に有していた価値のある人間関係――いわば『絆』が、死後に黄金や白銀でできた『銭貨』という具体的な形となって現出する。そのため、此岸にたどり着いた死者は、気が付くと懐が重くなっているのだ。 「なるほど」と、少女がうなずく。「遺族の価値が、そのまま金銭的価値につながるのですね。……だから、遺族を差し出してもらう、ということになるわけですか」 「ま、そーゆーこと」小町はにへらと笑ってから、続けた。 「優しくて人望のある奴は、どれだけ貧しかったとしても、ここでは大金持ちだ。逆に、生きているうちは大金持ちで、金にものを言わせて傲慢に暮らしていたような奴は、周りの人たちから嫌われていて、死んだらたちまち貧乏人になってしまう――と、こういうわけよ」  無論、貧乏人も大富豪も、生前の所持金との差に驚くことであろう。本人に心当たりがなかろうとも、それが死者としての財産であり――これこそが、三途の河の『渡し賃』となるのであった。 「三途の河の『渡し賃』は、そいつの全財産だ」その点について、青い服の死神が言及する。「そして、あたいら死神は、『渡し賃』の金額によって、三途の河幅を決める」 「所持金が多ければ、それだけ河幅が短くなり、少なければ、反対に長くなる」少女は小さく手を打ちながら、納得したように言った。 「そういうこった。つまるところ、生前の行いが善かった奴ほど、楽に彼岸へ行くことができるのさ」  船頭の死神が集めた『渡し賃』は、そのまま是非曲直庁の運営資金になっている。小町なら、やろうと思えば一瞬で彼岸へ渡すこともできないわけではないが、それを実行しない理由は、『渡し賃』に見合った『距離』を定めなければならないという規則があるためであった。厳重に管理されているものだからこそ、『渡し賃』をきちんと支払わなければ河を渡ることはできず、ごまかすこともできない。 「重い罪を負った奴には、『渡し賃』は払えない。死後の財産が手元に出てこないからだ。それどころか、赤字になってる場合もある……と、言うか、そういうヤツに関しては、真っ赤っかになっている場合のほうが多い」  小町は神妙な顔つきで語る。  対する少女は、ここでは質問をせず、黙って聞いていた。 「そんなわけで、生前に悪いことをしすぎていたせいで、河を渡れずに舟から落っこちるヤツもいるんだけど……面倒くさい話だが、そういうのでも、後で拾って、閻魔さまの裁判所に連れて行く」そう言ってから、小町はわざと暗い調子で付け加えた。「どうせ、地獄行きだけどなぁ」  河に落ちた死者は、当然、水中に棲む飢えた肉食魚たちに魂を喰われるのだが、わずかに残った生命力を吸い取られるだけであって、ほんとうに消化されてなくなってしまうわけではない。彼らは、いつかは死神に掬い上げられるのだが、その時までずっと彼岸の土を踏むこともできず、視界の悪い底なしの河の中で、凶暴な魚に噛み千切られる感触と恐怖を味わい続けなければならない。その精神的な苦痛は凄まじいものであろう。 「そんなもんばっかり喰ってるから、ここの魚は、罪人の霊魂が好物になってるらしい」小町は苦笑しつつ、冗談のように言った。「まあ、何にしたって、舟に乗ってる限りは安全だけどな」  それを受けて、少女は後ろから前まで、自分が乗っている舟の全様を眺めた。  一見、質素な茶色い小舟であったが、これは是非曲直庁が支給する特殊な舟である。船底に気配を消すための擬似的な結界が展開しているので、元より深いところに棲んでいる怪魚たちの上を通っても、まず気付かれることはない。 「それはさておき……『渡し賃』を払っていない奴は、本庁の許可を得てないってことになるわけで」小町は人差し指を立てながら、説明を続けた。「だからこそ、万が一のために、そういう奴は彼岸の土を踏めないようになってる。そもそも、きちんと払わなきゃ『距離』が決まらないんだから、足をつけられなくて当然だ」  例えば、ただ単に「気を失っただけ」の者などがふらりと迷い込んできたとしても、生命力に満ち溢れている者の手元には『渡し賃』が現出しないため、何かの手違いで彼岸へ送られてしまうような心配はない。反対に、本当に死んでしまった者や、もう生き返る望みの薄い者であるならば、当然、死後の財産を所有しているはずなのである。 「――と、いうわけで、だ」小町は立てていた人差し指を唐突に少女のほうへ向けて、きっぱりと言った。「お前さんは、『渡し賃』を払うどころか、そもそも、払える銭を持ってない。だから、彼岸へ渡れないんだよ」 「…………」その指摘を受けて、やや明るさを取り戻していた少女の顔に、再び影が落ちる。 「まあ、まあ」小町は手を叩いて、励ますように軽い調子で話した。「そうガッカリすんなって。お前さんはきっと、まだ死ぬ時じゃないんだ。だから、死後の財産も持ってないんだよ。そりゃ、悪いことじゃないだろう。……ほら、今だってさぁ、生きてる奴の目、してたじゃん」 「……そうでしょうか」 「そうだよぉ。あたいの話を聞いてる時のお前さん、すっごく活き活きしてたぞ」小町は腕を組み、首を縦に振った。 「勉強家ってやつかなぁ。名前まで、そんな感じだし。何かを知りたいって気持ちが、お前さんを生かそうとしてる」 「知りたい……気持ち」心当たりがあるのか、少女は自分の胸の上に、そっと手を当てた。 「まあ何にせよ、一度に渡せる霊魂はひとり分だけだ。二人いっしょに渡そうとすると、『渡し賃』と『距離』がごっちゃになっちまうからねぇ」と小町は言って、また笑った。  今は、先ほど見送った霊魂の『渡し賃』に応じた『距離』を定めて、ここまで来たのだ。それは、少女にとっての『距離』ではないため、当然、彼岸へ上がることはできない。 「……ここに足をつけたら」少女は桟橋の上をついと指でなぞって、きいた。「死神さんでも、帰れなくなりますか?」 「どうだろうねぇ」小町は首をかしげたが、否定はしない。 「でも、『渡し賃』払ってないからさ。何にしたって、今のあたいじゃ岸には上がれないよ」  死神だって、彼岸の土を踏むときには、きちんとお金を払わなきゃねぇ――と、小町はふざけた調子で付け加えた。  しかしながら、彼女の気の抜けたような笑顔は、すぐに凍りつくことになる。  ――ゴトン。  硬い音。 「……ん?」  不意のことで、小町は首をかしげた。  舟の底を叩くような、そういう音に聞こえた。  何だろう、と疑問に思いながら、彼女が何気なく視線を落とすと、そこには、 「おい……お前」 「?」少女は小鳥のように首をかしげた。「どうしました?」 「お前、それは……お前さんのだよ、な」小町はぎこちない所作で、少女の足元を指差す。「おい。拾え。今すぐに」 「拾うって、死神さん、いったい何を――」  少女は視線を落とし、驚愕した。  そこには、円いものが落ちていた。  何の変哲もない、ただの金属のかたまり。  けれども、真ん中に穴のあいた、金色に輝くそれは、 「拾え」小町は鋭い口調で繰り返す。 「えっ……?」少女は戸惑っている。「ですが、これは」 「いいから、拾うんだよ!」死神は、それまでの呑気な態度が嘘のように思えるくらい、ものすごい剣幕で怒鳴りつけた。「まだ、間に合う。あたいは、受け取ってない……!」  だが、小町がそう言ったのもつかの間。  ――じゃら、じゃら、じゃらり。  少女の青い袖口から、大小さまざまの銭貨が、舟の上に降り落ちて、甲高い音を立てる。  それらは、紛れもなく、 「私の……財産?」その答えは、少女自身が口にした。 「拾え! 早く!」  小町は、自分がなぜこうも焦っているのか、よく解らなかった。死者を彼岸へ渡すのが仕事なのだから、相手の生にこだわる必要はない。いくら生き返る望みがあったからといって、ほんとうに死ぬときが来たのであれば、余計な干渉をせずにそれをただ受け入れてやるのが、死神としての正しい在り方であるはずだ。  それなのに、この少女に対しては、「まだ逝ってほしくない」という明確な意思を抱いている。  ――此岸に残しておけば、そのまま引き返していったかもしれない。  楽観しすぎたのだろうか。望みのある少女をわざわざここまで連れてきてしまったことに、負い目を感じているのだろうか。死神には、死を選択する者を止めてやる義理はないが、生の可能性を奪い取る権利もない。  歯噛みする小町の眼前で、少女は何を思ったのか、おもむろに桟橋へと手をかける。 「おい……何をやってる!」小町は叫んだ。 「死ぬ気です」少女はまじめな顔で答える。「いえ……もう、死んでいますが」 「何言ってんだ。よせ」 「私は、彼岸へ渡るために、ここへ来たのです」 「本当か……? 本当に、それでいいのか?」 「もう、いいんですよ」少女は力なく笑った。 「嘘をつくなよ!」確かに戻りたがっていた少女の言葉を思い出しながら、小町は説得する。「銭を……拾え。拾えば、まだ助かる」  小町自身が触れてしまえば、それを受け取ったことになってしまう。だからこそ、落ちた銭に近づくわけにはいかないし、下手に少女のほうへ歩み寄ることもできない。  しかし――本当に、そうだろうか。  小町の脳裏に、不穏な想像が浮かび上がる。  舟の上に落ちた時点で、それを受け取ったことになるのではないか。だとしたら、少女はすでに、彼岸に足をつけることが可能になっているのではないか。前例がないので、そういうことができるのかどうかは、小町にも解らない。  少なくとも、このまま何もせずにいれば、少女は彼岸へ上がろうとするだろう。だからといって、銭に触れてしまう位置まで近づいて、無理やり止めるわけにもいかない。  だが、今の少女は、迷っている。  船べりに手をかけたものの、そこから先へは踏み切れずにいる。自分に嘘をついていることは、明らかであった。それどころか、自分に嘘をつき通せていないのだ。 「銭を拾え」もう一度、小町は言う。「お前さんの手の中にあれば、また戻って、考え直すこともできる」 「……どうしてですか?」少女は不意に、鋭い目を向けてきた。「どうして、死神さんが、口を挟むのですか?」  赤紫色の髪をした少女は、背の高い死神を見据えながら、何かに抗うようにして問いかけた。  そして――少女は叫ぶ。 「これは、私が決めたことです!」  鋭い視線。  強い意思。  紛れもなく、正当な主張であった。  そう、  少なくとも、  他者に対しては。  しかしながら、霧を震わせ、鼓膜を揺さぶったその言葉以上に――目元から流れ落ちる大粒の涙が、彼女の真情をはっきりと表していた。  彼岸までの『距離』は、定まっていない。  けれども、此岸までの『距離』は、確かである。  少女の心は、もう決まっているのだ。  だから小町は、厳しくとがめることをやめて、またいつものように、呑気な調子で語りかけようとした。  だが――その刹那。  ――ザブゥン!  三途の河には場違いな、激しい波の音。  続いて、桟橋につけていた舟が、大きく揺さぶられる。 「ああ、畜生……。間が悪いなぁ、まったく」小町は苛立ちを込めて、つぶやいた。「このボロ舟よぉ、魚除け、ちゃんと機能してんのかぁ?」  その言葉を受けて、突然の轟音に身をすくめていた少女は、恐る恐る、肩越しに振り返る。  ――ザッパァァァン!  激しい水音と同時に、『それ』が水面へ躍り出た。 「何、で……?」  少女は、息を呑んで、見上げていた。  ワニの頭と、樽のように分厚い身体。  太く長い尾の先端はトカゲのように鋭いのに、前の脚も後ろの脚も、扁平なヒレの形になっている。  霧の中の巨体は、少女の身の丈の十倍はあろう。  さながら、水竜。  そういうものが――宙を舞っている。 「何で、こんなものが、ここに?」  ――ザブゥン!  巨大な『それ』が、頭の先から水に落ち、舟が揺れる。  少女は驚愕していたが、すぐにうなずいて、言った。 「そうか……絶滅した魚が棲んでいる。だとしたら、あり得ない話ではない」 「おや。嬢ちゃん、ヌシのこと知ってんの?」小町は当たり前のように、そうきいた。 「ヌシ? あれが、三途の河のヌシですか?」 「おう、そうだ」小町はうなずいて、先ほどの話をかえりみながら言った。「魚より、もっと怖いバケモノだ」  小町がそう話した直後、耳を切り裂くような水音とともに、水竜が再び姿を現す。  バケモノの咆哮が、霧を吹き飛ばしながら、河の上に響き渡る。  水しぶきをよけるように顔を覆いながら、小町はそいつの顔を見た。射抜くような黄色い瞳、大きく開かれたワニの口、その鋭い牙は――明らかに、青色の服を着た、少女の霊魂に向けられている。 「何でか知らんが、よっぽどウマそうに見えるらしいな」  襲い来る脅威を前に、死神は、まるで雲の流れを見て「明日の天気は雨らしい」とでも言うかのような、何気ないそぶりで言葉を漏らした。そうして、左手に持っていた鎌を、お手玉のようにポイと右手に投げ渡す。  しぶきが上がり、二人の青い服には、点々と濃い色のしみができる。水竜は、再び水中へ身を隠してしまった。  様子見か、と小町はつぶやく。何度も水面に顔を出しているのは、こちらの実力を測るためであろう。  ふと前を見やると、赤紫色の髪の少女は、いつしか桟橋から手を離し、腰を落としてすくみあがっている。 「それでいい」小町は口元に笑みを浮かべて、うなずいた。 「まだ逝くなよ。あたいはまだ、お前の話を聞いてない」  大切な人を悲しませたという、罪の意味。  自分に嘘をついてまで、彼岸にすがろうとする理由。  死神はまだ――それを知らない。  轟音。  咆哮。  水滴を散らし、舟を揺さぶりながら、巨体が躍り出る。  しぶきが退くのを待たずに、その牙はもう、少女の眼前に迫っている。  次で、来る――それを悟っていた小町は、ためらわない。 「口のあるヤツからは、ちゃんと話を聞きたい」  そう言った後にはもう、死神は、舟の上にはいない。  眼下では、赤紫色の髪をした少女が、「あっ」という驚きの声を上げている。音は届かずとも、口の形でそう読めた。  死神は、水竜の首よりも上の空中から、少女の姿を遠目に見下ろしていた。  バケモノは、口を開いたままで、少女に肉薄してゆく。小町が頭上へ移動していることには、まったく気付いていない。美味そうな餌を前にすれば、死神ひとり消えたことなど、問題にすらならないらしい。  巨大な三日月形の刃が、冷たい輝きを放っている。  バケモノの牙よりも鋭い鎌が、確実に狙いをつける。 「あたいが知りたいのは、値段じゃないんだ」  死神の鎌は、魂を刈り取る道具ではない。だが、暴れ狂う猛獣に苦痛を与えることならば、できる。  ――ズバァンッ!  切断音に続いて、竜の絶叫が、白い空気を振動させる。  だが――開くことのできる口は、もうない。  死神の鎌は、バケモノのあごを切り落としていた。  相手は初め、こちらの力量をうかがっていた。なればこそ、こちらからは、あえて威嚇しなかったのだ。  ――わざと襲わせて、圧倒的な力をもって退ける。  そうすれば、もう二度と、死神の舟を襲おうなどいう馬鹿げたことは考えない。  巨体は逃げるように水中へ沈んでゆき、もう二度とその姿を現すことはない。  水しぶきが退いたあとに残ったのは、青色の服を着て、地獄の大鎌をたずさえた、死神の姿のみ。 「死神さん……?」少女はしりもちをついた格好のままで、後ろ姿に問いかけた。  小野塚小町。  彼女は、底なしの河の水面に、両脚で立っている。 「銭の重さだとか、そんなつまんねーことじゃなくてさ」呼ばれた死神は、しかし振り返ることなく、背中で語る。 「数字じゃ、ねぇんだ。あたいは、そいつの過ごしてきた人生の重みを知りたい。そいつの確かな意思を、自分の目で見て、この耳でしっかりと聞き届けたいんだ」  それが、彼岸へ送り届けるということ。  無論、口のない霊魂もいる。けれども、自分の目で確かめることのできる意思も、間違いなく存在する。  少なくとも、それが、小野塚小町の信条だった。 「それができなきゃ、ここに来た意味がないんだよ」  霧の中には、もう誰もいない。その言葉は、少女の背後から落とされたものであった。  振り返った少女に向けて、小町は穏やかな笑みを送る。  それを受けて、 「先生……?」  少女は、そんな声を漏らした。  人違いだよ、という指摘を、死神はあえて呑み込む。  言葉は要らず、  しゃがみ込んで、  小さな背中を、そっと抱き締めた。  辺りに山のように落ちていたはずの銭は、もうどこにも見当たらない。その代わりとでも言うかのように、少女のまぶたの下からは、きれいな涙が伝い落ちていた。      4 「ティロサウルス」少女が言った。 「てぃろ?」小町は寝たまま首をかしげる。「さうるす?」 「先ほどの、バケモノの名前ですよ」 「えっ。あいつ、名前とか、あったの?」 「はい。モササウルス科の恐竜です」 「もさもさ? なんだぁ、そりゃ」  霧のかかった宙を見ながら、死神は呑気な声を上げた。小町は「疲れた」と言い放って以来ずっと、こうして舟の上で大の字になったままでいる。  赤紫色の髪の少女は、座り込んで、船べりに背を預けている。素朴な小舟は彼岸の桟橋につけられたままであったが、今の少女は、あえて係船されている側から離れるようにして、反対の船べりに寄りかかっていた。  彼女は、先ほど小町がそうしていたのをまねするように、指を立てて話を続ける。 「モササウルス――白亜紀後期の恐竜です。最初に化石が発見されたオランダの地名をとって、『マース川のトカゲ』という意味の学名が与えられました。モササウルス科の恐竜は温暖な沿海に生息し、おもに魚類や貝類、ウミガメなどを好んで捕食していたようです。しかしながら、中でもティロサウルスと呼ばれる種は、その縄張り意識の高さから、同種をはじめとした他のモササウルスとの争いが絶えず、きわめて凶暴性の高い水生恐竜として知られています」  少女が語り終えるまでに、小町はいつしか、半身を起こして聞き入っていた。 「それぜんぶ、お前さんの知識なわけ?」小町はきょとんとした顔できいた。 「そうですけど」きかれた少女も、きょとんとしている。 「おったまげたなぁ」  小町は素直に驚嘆した。  これほどまでに知識欲が絶えないからこそ、霊魂の身でありながら、少女の形をずっと保ち続けていられるのだ。  それは紛れもなく、生命の輝きであることに他ならない。 「死神さんのほうが、すごいですよ」不意に、少女が言う。 「んー? そうかなぁ」小町は首をかしげた。 「はい」少女はうなずいてから、小町の口調をまねして、言った。「おったまげました」 「あっはっは。そうかぁ。そりゃ、どうもね」  小町としては、さほど「すごい」ことをしたつもりはない。ただ単に、降りかかる火の粉、もとい水滴を払った、それだけのことである。 「あの恐竜の魂は、どうなるのでしょうか」少女がきいた。 「別に、どうにもならないよ」小町は軽い調子で答える。 「そのまま河で暮らし続ける」 「怪我を負ったままですか?」 「うーん。あれは、一応『自然』だしねぇ。まあ、妖精ではないんだけど……あたいが切り捨てた部分も、すぐに再生するはずさ。この鎌は、魂に優しくできてるんだ」 「そういうものでしょうか」 「まあね。……その代わり、心の傷は癒えないかもな」  小町はそう言って、いたずらっぽく笑った。  あれほどの脅威を見せ付けられれば、二度とこの舟を襲う気になどならないはずだ。だからこそ、あえて、首を切らなかった。そこまでしてしまえば、魂が再生した時に、記憶まで失われてしまい、せっかく与えた恐怖心を忘れて、また襲ってくる可能性が生じてしまうからだ。 「死神さんは、そんなにすごいのに、どうしてここで働いているのですか?」少女はまた質問をする。 「ここで、って……」小町は舟の上を指差した。「ここ?」 「三途の河ですよ」噛み合っているのか判然としないが、ともかく少女はうなずきながら、言葉を続けた。「死神さんみたいに、特別な力を持っている方でしたら、もっと高い地位にも就けるのではないのでしょうか」 「いやぁ。どうだかねぇ」小町は自分の胸に手をあてながら、溜息を吐いた。「こんなのがねぇ」 「……それじゃあ、是非曲直庁という組織には、死神さんよりもっとすごい人たちが、ごろごろいるとか?」 「うーん。それは、もっと測りかねるな」 「複雑なのですか」 「まあ、その。すごい奴も、いっぱいいるっちゃいるんだけどなぁ。あたいも、経緯が経緯というか」 「どういう意味でしょうか?」少女は首をかしげる。 「いやぁ……何でもない。気にせんでくれ」小町はにへらと笑った。「とりあえず、こんな調子だからさ。下っ端の肉体労働やってて、みんなの笑いものにされてる感は、否めないかなぁ。うつけ、痴鈍、怠け者、とか? ……ああ、いや。怠け者ってのは、お叱りのお言葉でしたぁ。へへ」  自分のことを話しているはずなのに、まるで「あの子犬、ちょっと変な顔してるよなぁ」とでも漏らすかのような、どうでもいいことみたいな口調であった。  だが、それを受けて、少女は鋭い視線を向けてくる。 「なぜですか」 「……何が?」小町は首をかしげた。 「どうして、そんなひどい偏見を許せるのですか」少女の言葉には、煮えたぎるような怒りの感情がこもっていた。 「一方的に、間違った評価をされて……それなのに、どうして笑っていられるのですか!」  少女の怒声を聞いて、しかし小町は、なおも呑気な調子で言葉を返した。 「いやあ。確かに、笑いものだけどさ」小町は調子のいい笑みを退かせて、静かな微笑に切り替えた。「馬鹿にされてもいいんよ。あたいが笑われて、みんなが楽しいなら、それで幸せじゃない? なんてのは、ちょっと言い過ぎかもしれんけどさぁ。実際、そういうふうに思う時もあるんだ」 「解りません」少女はかぶりを振って、言う。「なぜそうも、自分のことを犠牲にできるのか。間違った見方をされて、それで納得できるなんて……」 「それじゃあ、逆に聞くけどさ。お前さんは、どうして、そう考えるわけ?」  小町の問いを受け、少女は悲しげにうつむく。  それから――少しの沈黙を破って、彼女は答えた。 「……私は、自分のためにしか、生きられなかったから」少女はとつとつと語る。「自分が美味しいものを食べるために。自分が幸せに生きていくために。自分が好きな人と一緒にいるために。そういうことしか、考えられなかった」  赤紫色の髪の少女は、初めて明瞭に、自分のことを話してくれた。そのことが、小町にとっては、この上なく嬉しいことのように思えた。 「どうだろうね」小町は笑みを浮かべたまま、言葉を返す。 「自分のことを考えるってのは、当たり前のことだと思う。……でも、それだけだと、違うかな」 「何が、どう、違うのですか」その問いかけは、もはや張り詰めた感情から繰り出されたものではなく、単純にして素朴な、心からの疑問であった。  その言葉を受けて、死神は、穏やかに語る。 「自分が失敗しないために頑張るってのは、大事なことだけどさぁ。それって、結局は自分のことしか考えられてないんよ。あたいはさ……何となぁくそういうのが嫌で、自分のために頑張るってことが、上手くできんのだ。その代わり、河を渡ってくやつらが少しでもいい気持ちで逝けるようにって、そう思いながら、頑張ることにしてるんさ」  語り終えると、小町は鼻先をこすってから、ほうと息を吐いた。  少女は何も言わない。赤紫色の髪の少女は、ずっとまじめな顔で、死神の言葉を聞いていた。 「……だいたいさぁ」と、小町は急にふざけた調子に戻って、付け加える。「こんな奴が、机に向かって、一日じゅう書類の山と戦ってるなんて……お前さん、想像できるか?」  小町が肩をすくめてみせると、少女はクスリと笑って返した。その表情には、かげりは少しも残されてはいない。 「死神さんは、先生みたいですね」少女は唐突に、そんなことを言ってきた。 「そうなの?」小町はきょとんとした顔になって、きく。 「その、先生って、どんな人さ」 「背の高い、女の人ですよ」 「へえ。あたいに似てるわけ?」 「そうですねぇ……。先生は、机に向かってお仕事している姿が、よく似合う人です」 「なぁんだ。ぜんぜん、似てないじゃんよ」  小町が膨れるのを見ながら、少女はまた小さく笑った。  そうして彼女は、自分の胸に手をあててから、言う。 「だけど……ここは、そっくりです」 「ここ?」小町はきょとんとして、自分の左胸のふくらみをつかんだ。 「はい」死神の冗談を、少女は否定しない。「あったかくて、やわらかくて。先生のにおいがしました」 「お前、それさ、どういう意味で言ってる?」 「外面的なことも、内面的なことも」 「両方?」 「はい。両方の意味です」 「おい、おい、スケベだなぁ」少女がうなずくのを見て、小町は呑気に笑い飛ばした。「なぁに言ってんだ、お前」  それから、少女も一緒になって、大笑いする。  霧のかかった静かな世界なのに、小町は何だか空が明るくて、やけに晴れ晴れしているように感じた。 「――さてと」やがて、死神は跳ねるように身を起こすと、誰にともなく言った。「そろそろ帰るか」  それを合図としたように、少女が口を開く。 「私、お別れを言ったのに、戻るのは恥ずかしいです」  べつだん、死神に返事をしたような調子ではなく、自分の中で確かめるような、そういう口調であった。けれども、その言葉の中には、もう迷いなどかけらもなく、少女の「戻ろう」という意思が、確かに感じられた。 「そんなん気にすんなって」小町は舟をとめていた縄をほどきながら、肩越しに声をかける。「あたいだって、法廷に行った時、閻魔さまに挨拶してから、また廊下で会っちゃって、気まずい思いをしたことくらい何度もあるよ」 「それ、一緒ですかね」 「んー。そう言われると……違うかも」頬を掻いてから、小町は振り返って、言った。「まあ、似たようなモンだろぉ」 「そうですね」少女はくすくすと笑った。  そうして、  自分のために生きてきた少女と、  他人のために生きている死神が、  仲良く笑いながら、三途の河を引き返す。 「帰り道は、お前さんの話を聞かせてくれよ」  死神は、棹を操りながら、にへらと笑ってそう言った。      5 「本日の業務が滞っていたようですが?」閻魔が言った。 「いやあ、そのう。お腹の調子が……」死神が答えた。 「言い訳は聞きません」 「ハイすんません」  広漠とした、四角い空間。  花こう岩の壁が、くすんだ白色の光を照り返している。不自然なほどに青白く明るいのは、霊力による照明が用いられているためだ。  広大な法廷の壇上で、閻魔と死神が言葉を交わしている。とはいえ、決して対等ではなく――巨大な石製の椅子に腰掛けている、紺色の服を着た閻魔が上。その足元で小さくなっている、紅い髪の死神が下である。この構図は、二人の上下関係を示すものであると同時に、背の低い閻魔と背の高い死神のちぐはぐな身長差を埋め合わせていた。  業務を終えた法廷に裁かれる者の姿はなく、先刻まで壇上の隅で書類をまとめていた女性の書記官も、上司に挨拶をしたのち、すでに退席していた。  巨大な鎌を背負った死神は、幼い風貌の閻魔に対してへこへこと頭を下げてから、事の次第を説明した。  三途の河で渡し守をしている彼女が、わざわざ裁判所まで出向いてきた理由は単純で、業務のかんばしくない進行状況が上司の耳に伝わって、呼び出しをくらったのである。とはいえ、この死神は、しばしばこういうことを閻魔に見とがめられ、法廷に召喚されているのであった。  事情を聞き終えた閻魔は、金色のシャクを胸の前にかざしたまま、平坦な口調で言った。 「――なるほど。そういうことでしたか」 「へえ、へえ、そういうことなんです」熱弁の結果、上司を丸め込むことができたと思った死神は、何度も頭を下げながら、上目遣いできいた。「そういうことなんで……勘弁して頂けやせんかねぇ?」  そんな死神を、しかし、 「小野塚小町」閻魔は、鋭い声で呼びつける。 「へえっ!」死神は、背すじを伸ばして、鉄塔になる。 「それで?」 「……はい?」小町は、首をかしげて問い返した。「それで、と、おっしゃいますと?」 「当然、始末書の内容は考えてありますよね?」 「え? あ……始末書?」 「とうぜん、かんがえてありますよね?」 「あひぃ」  小町は辛いものを食べたような顔で、悲鳴を上げる。  紺色の冠をいただく小町の上司は、その名を四季映姫・ヤマザナドゥという。  可愛らしい少女のような姿をしているものの、心には鬼を潜ませており、ひとたび説教が始まれば、梅雨空の雲のように連綿と続いて終わらない。と、いうのが、小町の見解であり、この緑髪の上司は、少なくとも彼女にとって、最も恐るべき存在なのであった。 「……まったく。何と軽率なことか」映姫は苛立ちのまじった溜息を吐く。「『渡し賃』を支払っていない者を舟に乗せて、あまつさえ危険な目に遭わせるとは」 「いやぁ、でもぉ……」 「でも、ではありません。このような勝手で、私の業務にまで悪影響を及ぼされては困るのですよ」  それを受けて、小町は肩を落とし、反省の色を浮かべた。  確かに、自分の勝手な判断で、上司にまで迷惑をかけてしまうのでは、あまりにもしのびない。小町が映姫の下で働くようになってから、今日までに様々な死者たちに出会ってきたが、今回のように、自分自身と彼岸へ渡す霊魂以外に、もう一人分、別の霊魂を舟に乗せたのは初めてであった。自分の不注意で、まだ死にきっていない少女の霊魂を危険な目に遭わせてしまったことも確かである。こういったことは、今後もう二度と、許されることはないだろう。  そう考えた末に、小町は気を引き締め、改めて上司に詫びようとしたのだが―― 「ですから」  と、いう閻魔の言葉に遮られ、謝罪は喉の奥へと引っ込んでしまった。  代わりに、何だろう、という疑問の表情で見上げると、緑髪の上司は、シャクの先をこちらへ差し向けながら、 「これからは、第三者を舟に乗せる際は、きちんと許可を申請するように」  何食わぬ顔で、そう言った。  それは、部下の意向を汲み取った、映姫なりの優しさにほかならない。 「四季さま……」  すぐにそのことに気付いた小町は、背の高い椅子にどっかりと鎮座している上司に、尊敬の眼差しを送る。  しかし、閻魔は咳払いをひとつすると、そらんじるように言葉を続けた。 「それはそれとして」 「……はい?」小町は首をかしげる。 「他人を想うのは結構ですが、私の為にも、もっと頑張って頂きたいのですがねぇ?」 「あ、はは、は」小町の気の抜けたような笑い声は、徐々に尻すぼみになった。「へえ……すみません」  どちらにせよ、始末書は提出しなければならない。そういう現実を思い出すと、小町はまた肩を落として、うなだれてしまうのであった。 「それにしても、不可解ですね」不意に、閻魔が言った。 「何がですか?」小町は顔を上げて、きいた。 「三途の河の水竜は、罪人の魂しか喰わないはずです。罪が重ければ重いほど、においも強まるとは聞きますが……渡し守の舟には擬似結界が敷いてあるのに、その女の子は、どうして襲われたのでしょうか」 「いやはや、それが」小町は頬を掻きながら、恥ずかしそうに話した。「教師と、不純な関係を築いてしまったとかで」 「その……女の子がですか?」映姫は顔を赤らめる。 「ええ。あのモサモサ……違うなぁ、何だっけ。とにかく、あのバケモノは、そういう罪人の魂が好みだったんじゃないっすかね。それこそ、結界越しにも嗅ぎ取れるくらいに。まったく、スケベな竜だなぁ……なんつって。へへ」 「ふむ」閻魔は息を吐いて、見定めるような半眼を部下に向けた。「……まあ、いいでしょう」 「ありがとうございます」  聡い上司の言葉の意味を、小町はよく理解していた。だからこそ、深く一礼して、感謝の言葉を述べたのである。  始末書に関してもういちど釘を刺され、それきり、小町に対する責任の追及はなかった。その後は、仕事に関する別の話題が続いていた。 「――『水鉄砲の少年』の件を調査しているのですが、少々、ややこしいことになっていましてね」映姫は額を押さえながら、そう語った。 「そいつは、あれですかい」小町は神妙な顔つきで、言葉を返す。「『幻』に殺害されたとかいう」 「そうです」映姫はうなずく。「新潟さんにも、その資料をまとめてもらっていたのですよ」  新潟というのは、すでに帰宅した書記官の名だ。 「ややこしいことになっている、とおっしゃいますと?」「ええ……それが」映姫はうなずいて、答える。「紫色のドレスを着た女を見た、という証言は得られたのです」 「……ほう。そりゃ、間違いない」小町はそう言って、妖怪の賢者の名を口にした。「『幻』という奴は、八雲紫にそっくりだとかいう話でしょう」 「その通りです。この情報によって、全体像が曖昧な状態のまま進展のなかったこの件に、『幻』が関わっているということが確定されました」  紆余曲折あって、『楽園の閻魔』――四季映姫・ヤマザナドゥは、遠い昔から『マボロシ』と呼ばれる強大な力を持つ妖怪を追っている。そのことは、小町もよく知っていた。  映姫が裁判を担当する『幻想郷』という土地は、結界によって区切られた特別な地域である。結界の『外の世界』においては、人間たちが時代を追うごとに高度な技術を身につけ、繁栄を続けている。そんな彼らに追いやられた、妖怪たちの集う怪異の楽園――それが『幻想郷』であった。  映姫が頭を悩ませる理由は、例の『幻』というモノが、結界の外側へ飛び出し、幻想郷の『外の世界』で野放しになっている可能性が高いためである。日々を業務に追われ、法廷に詰め込まれて過ごしている映姫にとって、限られた世界ならともかく広い世界のこととなると手を回しきれず、なかなか積極的な調査を行うことができない。  逆に言えば、『外の世界』において、人間たちが「科学的にありえない」と考えるような現象が発生した場合、その事件は間違いなく目立つので、うっかり見逃してしまうことはまずないであろうし、それが妖怪の仕業であるということも判りやすくなる。必ずしも悪いことばかりではない。  ――おもちゃの鉄砲で遊んでいた少年が、バラバラに引き裂かれて死んだ。  今回の『水鉄砲の少年』の件も、是非曲直庁の情報部からすぐに伝わってきたものであった。 『幻』という妖怪を追う使命にあたって、四季映姫・ヤマザナドゥは、極秘資料の閲覧や管轄外の部下に対する命令権など、本庁から多数の特権を与えられている。  しかし、その行使には厳しい条件がともなう。今回の事件を耳にした映姫は、さっそく『幻』と関連付けて調査を進めようとしたのだが、「関連性が不明瞭である」として特権の行使が認められず、やきもきしていた。とはいえ、新事業に予算の投入をしぶるような本庁の心境も致し方ない。  それゆえに、数ある不可解な事件の一つとして、「これはアタリかもしれない」という不透明な考えのもとに、制限付きの調査が行われることになったのである。そして、地道な情報収集が実を結び、ようやくこの件に『幻』が関連していることを確定できたというのだ。  しかし、映姫はシャクを傾けて、難しい顔になる。 「特権の行使が認められたことまでは、良かったのですが」 「どうかしたんですかい?」見上げたまま、小町がきく。 「それというのが、一緒に遊んでいたという、別の少年の証言から得ることができた情報でして」 「……友達が、見てたんすか」小町は恐ろしい想像をする。 「いえ、そういうことではありません」映姫はかぶりを振った。「彼が見たのは、『紫色のドレスを着た女』のみです。そして、見ただけではなく、面と向かって、話している」 「そりゃ、本当ですか?」 「ええ。そして、『幻』が彼に向けて言ったことが、まさに 『ややこしいこと』なのです」  小町は息を呑んで、その言葉を聞いていた。ややあって、恐る恐る、問いかける。 「そいつは……何と?」  映姫は部下の瞳をまっすぐに見据えたまま、口を開いた。 「間に合わなくて、ごめんなさい――と」  それを受けて、小町は首をかしげた。  ――何が、間に合わなかったのか。  ――なぜ、謝る必要があったのか。  言葉の意味を測りかねる。語った映姫自身が不思議そうな顔をしているのだから、理解できないのも当然であった。 「執拗なまでにバラバラに引き裂かれた死体。三匹の妖精が殺害された時と、状況が似ています」映姫はつとめて淡々と語る。「残忍さは『幻』のそれに等しい。……しかし、これまで『人間』にはいっさい手を下していないということが、気にかかります」  幻想郷の外へ飛び出していった、強力な妖怪。  いかなる行動原理に基づいているのか、そもそも原理など持たないのか、まったく理解しがたい不気味なモノ。 「人間は、言わば妖怪の食糧。妖怪にとって最も襲いやすい相手であるはずなのに、なぜ、これまでに一度も襲わなかったのでしょうか。そしてなぜ、今になって一人の少年を殺す気になったのでしょうか」  映姫の言葉を聞いて、小町はまったく別のことを考え、憂えていた。  ――人間が妖怪の糧として襲われる仕組みは、確かに、遠い昔から存在します。  ――人間たちも、妖怪たちも、その仕組みの外側へ脱することができれば、ともに美しい歴史を築いてゆくことができるかもしれません。  ――けれども、お互い、自分勝手に生きる心を、ほんの少しだけ、譲歩することが難しいのです。  それは、三途の河の帰り道に、あの赤紫色の髪をした少女が、悲しげな顔で語っていたことであった。  かつては堕ちる霊魂がほとんどなく、縮小化さえ行われた地獄の人口が、今では年々、密度を増している。  人間も、妖怪も、自分勝手に生きようとする者たちが増えたのだ。  時には、それでも構わない。  けれども、そればかりでは悲しい。  たとえ死神であっても、その気持ちは同じであった。死後の世界に、殺伐として、薄汚れた魂ばかりが訪れるような、そんな世の中であってほしくはない。  そんな小町の心を励ますように――閻魔の声が響く。 「暗いお話ばかりではありませんよ」  映姫はいつしか、巨大な肘掛け椅子からおりて、小町の正面に立っていた。 「他に、何かあったんですかい?」小町はきいた。 「以前からお話していた、『特例的な裁判における一般生者の裁判官登用案』をまとめて、正式に本庁へ提出しました」  この発案を、椅子の位置すら改善してくれない本庁が、果たして採用してくれるものか――それはこの緑髪の閻魔が、長らく躊躇し、出し惜しんでいたものであった。 「おおっ! 四季さま、やりましたね!」小町は心からの拍手を送った。 「まだですよ」照れくさそうに苦笑しながら、映姫は語る。 「十王による審議の結果待ち、新制度導入に向けた仕組みの構成……その他もろもろの事情を概算すると、仮に採用されたとしても、実現までに最低五十年はかかるでしょう」 「五十年」小町は目を丸くしてから、にへらと笑う。「それなら、余裕で間に合うねぇ」 「……何がですか?」  きょとんとした顔できく閻魔に向けて、死神は胸を突き出すようにしてから、黒色の帯の正面を指差した。 「お嬢ちゃん、コレだけ、置いてっちゃったんで」  金色に輝く、円形の装飾品。  死神は、真ん中に穴のあいた大きな銭を、帯の前にくくりつけていた。  そうして――あの少女が再び三途を訪れて、ほんとうに彼岸へ渡る時が来るまで、大事に預かっておくことにしたのである。
判例4
判例4 桜に桜唇      1 「――さん。……て下さい、……ちさん」  ささやくような、少女の声。  不意に耳の中へ飛び込んできたそれは、しかし途切れ途切れになっているので、どうにも聞き取りづらい。やけに鈍重な頭にそのような感想を浮かべてから、小町は聞こえる音にノイズの混じっている理由が、自分が意識を向けていないせいだということに気がついた。 「小町さん、起きて下さい」  できるかぎりその声に耳を傾けると、自分の名を呼ばれているのだということが、すぐに理解できた。  それにしても――確かに聞き覚えはあるが、はて、誰の声だったろう。 「んー……?」  まぶたをこすりながら、ぼやけた視界を慣らしてゆく。すると、白くかすんだ宙に、上下逆さまの、可愛らしい少女の顔が見えた。  小町が七割がた目を開くと、長い黒髪をこちらへ垂らしたまま、少女はにっこりと笑って言った。 「小町さん、おはようございます」 「んー」小町は寝ぼけた返事をする。 「お弁当、お持ちしましたよ」 「……あしゃごはん?」 「いえ。今は、昼食の時間です」  少女がくすくす笑っているのを、小町は寝転がったまま見上げていた。 「うへぇ、もう昼かぁ」やがて小町は、頭を掻きながら半身を起こす。「ちょっち、寝すぎたかな……」  そうつぶやいてから、草の上に手をついて、緩慢な所作で立ち上がる。その際、小町は脇に置いてあった巨大な鎌をつかみ取り、彼女の身長よりも長い柄を杖代わりにした。  小野塚小町は死神である。  山のように背の高いことはもとより、朝顔の花をひっくり返したみたいな、白と青の派手な衣装がよく目立つ。腰に巻いた黒い半巾帯には、上から草色のひもが巻かれており、ちょうど身体の正面にあたる位置に大きな黄金の銭貨がくくりつけられていた。  是非曲直庁という組織に所属し、閻魔のもとで三途の河渡しを担当しているこの紅い髪の死神は、午前の業務をある程度済ませるなり、大鎌をポイと放り出し、土手の草むらで惰眠をむさぼっていたのである。本人としては、べつだんサボっているという意識はなく、仕事は量より質であることを信条として、働いている最中はむしろ、人一倍熱心に業務に励んでいるのであった。要するに、とにかくマイペースなのが、小野塚小町という名の死神なのである。  そんな小町の、いつもと変わらぬ呑気な態度を見て、横にいた黒髪の少女が心配そうに問いかけた。 「閻魔様に、叱られませんか?」 「ぎくっ」小町は肩を強ばらせてから、気まずそうに頬を掻いた。「いやあ……そうだねぇ。こりゃあ……間違いなく……叱られるねぇ……。へへ……」  小町は世にも恐ろしい緑髪の上司の説教を思い出し、額に嫌な汗をにじませた。  そんな小町の姿を見ながら、あわれんでいるような、呆れているような、何とも言いがたい複雑な表情を浮かべているのは、ゆったりとした格好をしている、長い黒髪の少女。青いスカートに白いエプロン、色合いは小町の服装にそっくりであるが、死神の衣装が和風の着物をかたどっているのに対して、この少女のそれは西洋風の華やかさをたたえていた。  彼女は胸の前で、桜模様の風呂敷包みを抱えている。 「まー、いいかな。ちゃんと仕事したもの、あたい」自分に言い聞かせるように、小町は軽い調子でうなずいた。 「本当に、大丈夫ですか?」 「いいんだよぉ、気にするこたぁないって」小町はにへらと笑った。「それはともかく、弁当だ、弁当」 「はい。こちらに」持っていた風呂敷包みを差し出して、少女は微笑んだ。  それから二人は、土手の上にしつらえられた、茶色い長テーブルのところへ移動した。三人ずつ向かい合って座れそうな憩いの場に、今は二人だけで対面している。  テーブルの真ん中で、少女が桜模様の風呂敷を解くと、重箱のように重なった素朴な青色の弁当箱が姿を現した。小町は大鎌を横へ立てかけてから、二つ重なった弁当箱のうち、上の一つを取って、自分の前へ寄せる。あとに残ったもう一つは、少女の分の昼食だった。  そうしてフタを開けるなり、小町は目を輝かせる。 「うわぁ、からあげ弁当だぁ!」  容器の半分を白米が占め、残りの半分のスペースには、明るい色合いの卵焼きを隅のほうへ追いやってしまうほどに、大きな鳥の唐揚げがごろごろと敷き詰められている。鶏肉が大好物の小町にとっては、この素朴な弁当箱が、至福の詰め込まれた宝箱であるように思えた。 「最高だよぉ。ありがとさん!」小町は嬉しそうに叫ぶ。 「喜んで頂けて、何よりです」少女は微笑んで応えた。  二人は箸を手に取る。  そうして、 「いただきます!」  と宣言したのもつかの間――死神の弁当箱は、みるみるうちにその中身を減らしてゆき、あっという間に空っぽになってしまった。  黒髪の少女は、食べるのが遅くて申し訳ないといった面持ちで、もそもそと白米をつついている。小町は変に焦らせてしまったことを謝りながら、受け取った赤色の水筒を開けて、冷たい麦茶を飲んでいた。 「いつも悪いねぇ、サクラちゃん」水筒のコップをぐいと空にしてから、小町はそう言った。 「いえいえ」サクラと呼ばれた少女は、箸を振って応える。 「私なんかで、お役に立てることでしたら……」 「なんか、なんてことないよぉ。サクラちゃんのお料理は絶品だもんね!」 「え、あ、その……あ、ありがとうございます」サクラは戸惑いながら、あたふたと言葉を返した。「いえ、でも、私、それくらいしか、取り柄がないというか」 「なぁに言ってんの」小町はテーブル越しに、肩を叩くような調子で手首を振った。「『多芸は無芸』っての、知ってるかい?」 「いえ……す、すみません。国語は、苦手で」 「あっはっは! いーのいーの。つまり、ひとつの取り柄を極めたヤツが、一流のシェフってことなのさ。……あれ? 板前、かな? いや……違うな。じゃあ、コック? それとも、パティシエ……では、ないよなぁ」  そうして何度も首をかしげたのち、小町は結局、「まあ、何でもいいや」と笑い飛ばしてしまった。それにつられて、黒髪の少女もぷっと噴き出す。  サクラが小町と暮らすようになって、今日でちょうど一週間になる。――と、言うのも、死神はこの『ワケあり』の少女を、一ヶ月のあいだ預かることになっているのだ。  閻魔による裁判の結果、この少女は、冥界行きを宣告された。冥界というのは、生前にある程度の善行を積んだ者が、転生を待つために送られる場所であり、言わば善き霊魂たちの一時的な居住施設のようなものである。  しかし、サクラの場合は、単純に「冥界行き」と言っても、その処置には特殊な意図が含まれていた。  端的に言うならば、これは通常の判例における「来世への転生を見越した」宣告ではなく、「冥界に住まわせるため」の処置なのである。つまり、本来ならばあくまで「転生させるため」の手段であるはずの「冥界行き」というプロセス、それ自体が目的になりかわっているのだ。 「サクラちゃんのお料理なら、あの世のお嬢様も大満足だよなぁ」小町は麦茶のおかわりをコップに注ぎながら、呑気な調子で語った。「事情が事情でなかったら、ウチに欲しいくらいだもんねぇ」 「そんなこと、できるんですか?」少女は驚いた顔できく。 「いんや。できない」  小町は肩をすくめて、にへらと笑った。いかに地獄の民と呼ばれる死神といえども、生きている者であることに変わりはなく、死者の霊魂を無理やりこの世につなぎとめて、一緒に暮らし続けることなどできるはずもない。  だが、亡霊同士であるならば、話は別である。  サクラは紆余曲折を経て、冥界において幽霊たちを管理している女性――『冥界の主』とも呼ぶべき高貴な亡霊の暮らすお屋敷に、住み込みで働かせてもらうことになった。と、いうのも、一応は死者の身でありながら、冥界きっての美食家でもあるかの令嬢が、この凄腕の料理人の話題を聞き逃すはずがなかったせいである。  この冥界の主に関して、すぐれた料理人の霊魂を引き抜こうとする動きは、ずっと昔からあったことだ。閻魔に裁かれ、冥界に送られてきた者を実際に雇ってみて、気に入らなければそのまま転生させる、ということを彼女はもう何度となく繰り返しているのだが、そういうことが現在進行形で続けられているところを見ると、未だに貴き亡霊の舌を満足させることのできる死者は現れていないらしい。  冥界に暮らしていながら地獄耳、というのも滑稽な話であるが、なにぶんサクラの場合は、死亡に至るまでの経緯に周囲を騒がすだけの深い事情があったので、彼女の噂が是非曲直庁の内外を問わず知れ渡っていることも、致し方のないことであった。  とにもかくにも、このサクラと呼ばれる少女に関しては、ひとまず通常どおりの「冥界行き」の手続きが踏まれることとなり、例のお屋敷に及んでは、新しい料理人を受け入れる準備を早々に整えて、今か今かと待ち望んでいるのが現状であった。だが、先に言及したとおり、この少女の死に様がいわくつきであったため、閻魔の立場としては、すぐにあの世へ送ってしまうわけにもいかない。そういうわけで、詳しい調査や報告書の作成など、周辺の雑務が片付くまで死神の家に預けられ、そのついでに、監察対象として一ヶ月間の拘束が義務付けられる運びとなったのである。 「ごちそうさまでした……」  箸を揃えてそう言ったのち、青色のエプロンドレスを着た少女は、憂鬱な表情で溜息を吐いた。 「どしたの?」麦茶の入ったコップを差し出しながら、小町はきいた。 「いえ……その」少女は艶やかな黒髪を揺らしながら、顔を上げる。「やっぱり、私……不安です」 「不安?」 「はい……」サクラは沈むようにうなずいてから、話した。 「私、そそっかしくて……あの、冥界の主という人に、取り柄ひとつで認めて頂けるのかどうか。紅魔のお屋敷でも、寝坊したり、お布団干し忘れたり……咲夜さんに迷惑かけてばかりだったし」  ゆえあって、サクラは閻魔の裁きを受ける直前の期間、とあるお屋敷でメイドとして働いていた。彼女が着ている西洋風の華やかな衣装も、その時の記憶の名残である。 「そうかぁ」と、小町は息を吐きながら、頬杖をついた。 「自分に、自信がないんだねぇ」 「ふわっ」直球の指摘に驚いたのか、サクラは奇妙な声を上げた。「……まったく、その通りですね」  そうつぶやいたのち、彼女はがっくりと肩を落とした。それから、口元に手をあてて考え込んでしまう。  小町は頬杖したまま、何か助言はないかと考える。だが 「自分のこととなると大ざっぱになってしまう」がゆえにマイペースであるこの死神には、内面的な『自信』を容易に見出すことができず、雲を掴むような思考に陥ってしまう。  とはいえ――こうして他人のためを想い、頭を悩ませていること自体が、小町らしい優しさであると同時に、彼女の強みの一つなのであった。 「そうだ!」と、サクラは不意に手を打って、はじけるように言った。「いいこと思いつきましたよ」 「おっ。何だぁ?」小町は好奇心を隠さずに、耳を傾ける。 「要は、もっと経験を積むことが必要なわけです」黒髪の少女は、人差し指を立てて話した。「目上の方のために尽くすとはいえ、上ばかり見ているから、失敗してしまうのです。上手にお仕事するために、まずは足元をよく確かめる必要があります。もちろん、相手のことを思いやることは大切なのですが……私には、むしろ自分を知る努力が足りてないのかなぁ、と。こう思うわけです」 「ふむふむ」小町はテーブルにひじをついたまま、あごに手をあてて吟味した。「その考え方、嫌いじゃないねぇ」  ――他人のためを想うのならば、まずは自分自身のことについてよく考えてみる必要がある。  灯台下暗し、というやつか。  なるほど、この機会に、いまいちど自分を見つめ直してみるのも面白い。サクラの意見に、小町は少なからず賛同すべきものを感じていた。 「――ですから、小町さん」 「ん?」  と、サクラが急に言葉を続けたので、小町はいつの間にかそれてしまっていた視線を、慌てて正面へ戻した。  すると、目と目がぶつかり合うのを待っていたように、長い黒髪を持つ少女は、はっきりと口を開いた。 「死神のお仕事、手伝わせて頂けませんか?」  小町はどきりと跳ね起きて、身を硬くする。  一緒に暮らし始めた時から、その言葉をまったく想像していなかったわけではないが、いかんせん、美味いものを腹いっぱい食べたばかりで油断していたために、心の準備が間に合わなかった。  胸に手を当てて、どうにか気持ちを落ち着けながら、丸く見開かれていた目をゆっくりと細めていく。そうしてから、死神はようやく言葉を返すのであった。 「ほう……」  小町は息を吐くと、何となく自分の腹に視線を落とし、 「前にも、こんなことあったなぁ」  そこにある黄金の銭貨を見ながら、かすかに苦笑した。      2  ――ばしゃり、ばしゃり。  霧のかかった白い世界に、みずみずしい音が響いている。  ――ばしゃり、ばしゃり。  繰り返される水音とともに、それまで死んだように停止していた川面が、なめらかな円形の紋を描いて揺れた。  音もなく、動くものも見当たらない、三途の河。しかし素朴な茶色い小舟が上を通る時に限っては、その冷ややかな無表情をついとほころばせて、優しげにざわめき立つ。  右へ、左へ、ゆらゆらと微細に傾きながら、ゆったりと前進する小さな舟。その上には、青い服を着た二人の少女と、ぼんやりとかすむ一つのヒトダマが乗っていた。 「左側を押したら、今度は右だ」  紅い髪の死神は腰を下ろしたままで、舟の先頭に立っている少女に指示をした。死神のとなりには、青白い火の玉の形をした霊魂が浮かんでいる。  前に立つのは、死神とお揃いの服に着替えた、黒髪の少女。彼女は水面をじっと見つめながら、二、三度、棹を左右へ動かした。それから、顔を後ろへ振り向けて、きく。 「こうですか?」 「そうそう」小町は軽く親指を立てて、うなずいた。「調整しながらね」 「はい」少女はうなずいてから、また川面へ視線を落とす。 「よい、しょ」 「うん、うん。上手だなぁ」 「そう……ですか、ね」腕に力を込めながら、サクラは背中越しにきいてきた。 「おうともさ。サクラちゃん、センスあるねぇ」 「ありがとうございます」そう言って、黒髪の少女は下を向いたまま、小さくお辞儀をした。「よい……しょ」 「その調子、その調子」小町は腕を組んで、漕ぎ手の背中を眺めている。 「ふう……」と大きく息を吐いてから、サクラは右腕だけ棹から離し、額をぬぐった。「これ、結構、疲れますね」 「まぁねぇ」小町は苦笑しながら、言葉を返す。「あんまり力んでると、すぐにバテちゃうから。……なぁに、急ぐこたぁない。ゆっくりでいいよ」  ゆっくり、自分のペースで。  それが、小野塚小町という死神の在り方だった。  彼女の仕事は、三途の河を訪れる霊魂を舟に乗せ、彼岸へ送り届けることである。底なしで、幅にも限りのないこの河を渡るためには、彼女のような渡し守の助力が必要不可欠なのであった。  船頭は、是非曲直庁特製の棹を用いることで、底なしの河の底をつけると同時に、無限の河幅に一定の『距離』を与えることができる。小町が腕を休めている現状、手伝いを名乗り出たサクラが操っている棹も、例に漏れず本庁から特別に支給された品であった。  いわゆるエリートと呼ばれるような、裁判の書記官を目指して出世街道まっしぐらの本庁の死神たちにとって、三途の河渡しという肉体労働は、ほとんど忌避の対象になっている。だからこそ、そんな役職を自ら希望してここに来た小町は、周りの者たちから『変人』だとか、ひどい時には『狂人』とまで呼ばれているのであった。  けれども、立身出世にこだわらぬ奔放さはもとより、そういった周囲の悪評を意に介さぬ振る舞いこそが、この紅い髪の死神の大らかさを如実に表している。  当の本人はというと、いつしか寝転がって、頭の後ろで腕を組み、舟の後部をほとんど独り占めしていた。その隣では、青白いヒトダマが窮屈そうに身を縮めている。 「ゆらり、ゆらゆら、死神さんのぉー、茶色い小舟がぁー揺れているぅ」まぶたを閉じたまま、小町は口ずさんだ。 「何ですか、その歌」サクラの不思議そうな声がきこえた。 「あたいのテーマソング」霧の空に語りかけるように、小町はのんびりと話す。「こまっちゃん行進曲」 「へえ。テーマソングなんて、あったんですか」 「いんや。今、考えた」  にへらと笑って、小町は言った。何気ない調子で言葉を返してくるあたり、サクラは棹のさし方に慣れてきたようで、その背中も心なしか頼もしく思える。 「マーチと言うよりも、演歌に聞こえますけどね」サクラはくすくすと笑いながら言った。「ナントカ節、みたいな」 「そう?」小町は片目を開く。「じゃあ、こまっちゃん節」 「またずいぶんと、柔軟な対応ですね」 「そうだろぉ? 地獄だって、閻魔さまだって、時代に合わせて変わってるんだ。死神も、変わらなきゃあ」  人口の増加に応じて、地獄はその方針を切り替えてきた。  ひと昔前であれば、閻魔の裁判において、ほとんどの死者が無罪の判決を受けて冥界へ送られる傾向にあったが、人間たちの思想や文化の変貌にしたがって、地獄へ堕とされる罪人もしだいに増えてきた。それゆえに、かつては維持費の削減のために地獄のスリム化まで実行した是非曲直庁が、現状においては、逆にその拡張化を目指して予算を投入しているのである。  とはいえ、縮小化によって切り離された『旧地獄』と呼ばれる地域は、今や旧施設の灼熱を利用した温泉街になりかわっている。仕事に疲れた鬼や死神たちの歓楽地として機能しているほか、行き場を失くした怨霊たちの憩いの場にもなっているため、そこを取り壊して再び閻魔の管轄のもとに敷き直すことは、あらゆる方面からの多大な反発を招きかねず、もはやとうてい不可能であった。  しかしながら、このまま放っておけば、そのうち地獄がパンクして、悪しき霊魂が世にあふれ出てしまう。難渋をきわめた議論の末、是非曲直庁の上層部は、ここで柔軟な発想を採用した。いわゆる『この世』という意味での人間界における『高層ビル』や『地下街』の先進技術を参考に、横に拡げるのではなく、縦に伸ばしてゆく方針で、敷地をとらない形での拡張化を図ることにしたのである。 『あの世』の問題を『あの世』の常軌で解決しようとする紋切り型の観念を打ち破り、新しい技術を『この世』から取り入れてくるという斬新な発案を本庁に申し述べた人物こそ、小町の上司である緑髪の閻魔なのであった。  怒ると鬼のように怖いが、小町はそんな上司のことを心から尊敬していた。実のところ、彼女が緑髪の閻魔を尊敬している本当の理由は、そうした目覚しい活躍よりもほかの要素にあるのだが――少なくとも、小町はすぐれた上司の下で働けることを何とも思わぬような愚か者ではない。  穏やかに揺れる舟に身を預けながら、上司の姿をぼんやりと宙に思い描く。やがて目を閉じると、小町は寝転がったままで、ついと口ずさんだ。 「ゆらり、ゆらゆら、揺れているぅ。落ちないようにぃ、気をつけてぇー、水に落ちたらぁ、おしめえよぉー」 「おかしな歌ですね」サクラはくすくすと笑う。 「なぁんだってぇー」小町は唄うような調子を引き継ぎ、文句を言う。「ばかにぃ、するのかぁー、あたいの歌をぉー」 「いえ、いえ。そういうわけではないのですが」 「ならぁばー、よろぉしぃー」  小町が鼻から息を出すと、サクラはまた小さく笑った。 「でも、小町さんのテーマと言うより、三途の河のテーマじゃないですか、それ」 「……あ」小町は目を開けて、一瞬だけ、呆けたような顔をした。「そだねぇ」  小町はぐっと上半身を起こす。午睡にはちょうどいい具合のゆりかごであったが、第三者を舟に乗せる条件として監督義務を背負っている死神は、彼岸へ着くよりも前に一人で夢の世界へ旅立ってしまうわけにはいかなかった。  手伝いを申し出てくれたサクラのために、小町は「形だけでも」とおそろいの青い死神装束を用意したけれど、もともと身につけていたエプロンドレスと色合いが似ていたので、ぱっと見の印象にさして代わり映えはない。  とはいえ、身長や髪型はまったく異なっているものの、二人の衣装に目立った差異がなくなったせいか、見た目にも内面にも、不思議と姉妹のような調和が生まれていた。そんな二人のおそろいの服装において、唯一、黒色の帯の正面にくくりつけられた、金色の装飾品の有無だけが、際立った違いを示している。 「ふわぁ」小町はあぐらをかいた状態で、大きなあくびを漏らした。「ねむいなぁ」  ふと隣へ目をやると、同乗者の青白いヒトダマが、ただでさえ曖昧な輪郭をいっそうぼんやりと揺らめかせて、なんだか眠たそうに浮かんでいた。  サクラが人間の少女の実体を保つことができているのは、閻魔によって一時的に『生前の記憶』を返還されているためだ。そのため、冥界へ送られる際には、転生に悪影響を及ぼすということで、それも没収されることになる。彼岸の土を踏んでいない彼女の場合は特別であり、『生前の記憶』を失う代わりに亡霊としての肉体を得ることになるのだが、その時にはもう、『サクラ』という名とその外見、そして料理人としての資質を引き継ぐほかは、まったくの別人になっているだろう。  何にせよ、今より三週間後にはもう、サクラの記憶が失われてしまうことは確実である。だから、今こうして豊かな経験を得ようと努力しても、その成果が冥界での暮らしぶりに反映される可能性はきわめて薄いのだが、紅い髪の死神には、「やってみなければ解りません」と鼻息荒げて奮起している少女を、無理に止めるような理由もなかった。 「あと、どれくらいですかね」額の汗をぬぐいながら、サクラがきいた。「ちっとも、進んでいる気がしません」 「んー」小町は目の上に手をかざして、前方を見やった。 「現在、航路の三分の一」 「おお」  返答に示された割合が予想以上であったのか、サクラは驚喜して息を吐いた。  そんな彼女に対し、いたずらっぽく上目遣いの視線を送りながら、小町は口笛を吹くような調子で付け加える。 「……にも、満たない」 「へっ?」サクラは思わず振り返って、がっくりと肩を落とす。「……あう」 「ははぁ、そう落ち込むな」と言ってから、小町は歯を見せて笑った。「のんびり行こうよ。疲れたら、代わるからさ」  彼岸の土は、まだ見えない。  ――ばしゃり、ばしゃり。  心地よい水音が、明澄に鳴り響く。  霧の中にたゆたう小舟は、そろりそろりと波紋を引いた。  ゆっくりと。  だが、確実に、前進している。 「今、ちょうど三分の一だ」  不意に、小町は告げた。  彼女には、何の道具も用いることなく、現在地から彼岸までの『距離』を正確に測ることができる。――と、言うのも、小町は自分の意思で『距離』を設定できるのだから、当然のことであった。それは、他の死神にはない、小野塚小町だけが持つ無二の天質である。 「すごいですね、小町さん」サクラは少しのあいだ、棹を操る手を止めて、また汗をぬぐった。「どうして、そんなにはっきり解るんですか? 何にも見えないのに」  立ち込める霧のせいで、一寸先を認めるのもやっとである。三途の霧が晴れることは滅多にないが、仮に周りの空気の色が澄み渡っていたとしても、ここには目印になるようなものがひとつも存在しないということを、紅い髪の死神はよく知っていた。 「計算している」 「……計算?」サクラは振り返って、首をかしげる。 「そう」小町は平坦な声で言った。「あたいの『能力』については、話したよねぇ」 「はい。うかがいました」  二人は、今日までの一週間をともに過ごしている。ゆえに小町は、三途の河の無限の『距離』すら有限に変えるという、『距離を操る程度の能力』について、サクラにはもう説明済みであった。他人との『距離』を詰めたり、遠くに置かれた物を近づけたりできるほか、離れた位置に居ながら眼前に立っているかのように見せるなど、『視覚的な距離』も自在に操ることができる。  しかし、ただ漠然と「『能力』を使おう」といったようなことを考えたからといって、それだけですぐに扱えてしまうような単純な力ではない。いかにして、『距離』という概念を操作しているのか――黒髪の少女はまだ、そのことを聞かされてはいなかった。 「ココでね」と、紅い髪の死神は、右のこめかみに人差し指を突き立てた。 「ここ?」 「そう。ここ」まねして頭を指差している少女を見ながら、小町はうなずいた。「計算しないと、使えないんだ」  つまり、自身の『距離を操る程度の能力』について言及しているのだが、その言葉は至極どうでもいいことのように、投げやりな調子で言い放たれた。  小町の真に天才的な資質は、『距離』を伸ばした、あるいは縮めたなどという「目に見える結果」ではなく、そのプロセスを構築する彼女の「頭の中」にこそ存在する。 「例えばだ」小町は溜息を吐きながら、説明を始めた。「あたいと、サクラちゃんとのあいだに、『距離』があるだろ」  それを受けて、サクラは前方を見てから、徐々に自分の足元へ首を曲げてゆく。そうやって、小舟の末尾から先頭まで――それが、二人の間の『距離』に等しい――をひと通り眺めた後で、サクラはうなずいた。 「はい」 「それで、だ」 「わっ!」サクラは思わず、棹を取り落としそうになった。  彼女が驚いたのも無理はない。平然と語る小町の声が、急に足元から聞こえてきたのだ。紅い髪の死神は、サクラがまばたきする間に『距離』を詰めて、腰を落とした姿勢のままで彼女の正面に移動していた。  小町は何事もなかったかのように、話を続ける。 「こうするためには、座標を求めなきゃならん」 「ざ、座標?」サクラはやや戸惑いながら、きいた。 「要するに……あたいの位置と、サクラちゃんの位置、両方とも数字にして出さないと、今みたいに『能力』を使うことはできない」 『距離』を操るためには、その『距離』自体の数値は言うまでもなく、あいだに『距離』を成している二つの点の座標を導き出さなければならない。  つまり、小野塚小町という死神は、目測だけで正確な座標計算を行うことができるのである。  そして――それを瞬時に可能としてしまう鋭敏な頭脳こそが、『能力』を使用するための前提として必要不可欠な、彼女の本領なのであった。  彼岸までの『距離』は、ちょっと聞くと何だか複雑そうに思えてしまうのだが、その長さが『無限』であるということが解っているため、むしろ最も操作しやすい。だからこそ、小町とは違って『能力』を持たない死神であっても、是非曲直庁製の棹を用いることで、容易に三途の河幅を定めることが可能なのである。  そういったことを、小町は終始けだるそうに語った。 「……どうして、そんなに暗いんですか?」サクラは心底不思議そうに問いかけた。 「うーむ」と言って頬を掻いた小町は、いつしか元の位置、ヒトダマの隣に移動している。「何かさぁ、イヤじゃん」 「イヤですか?」サクラはまた棹を動かしながら、きいた。 「うん。イヤだね」 「そんなぁ。凄いことじゃないですか」サクラはそう言ってから、顔を赤らめる。「私なんて、九九を覚えるだけで、頭がバクハツしそうだったのに」 「ふむぅ」小町は腕を組んで、面白くなさそうに息を漏らした。「しかし、イヤなものはイヤだなぁ」 「どうして……そんなに嫌がるんですか?」  小町の渋面をよほど気にしていたのか、サクラは何か悪いことでもたずねるかのような調子で、恐る恐る質問してきた。問われた死神は、ほんの少し間を置いてから、悩ましげに口を開く。 「何かなぁ……インテリっぽい、っちゅーか」 「インテリ、ですか」サクラは神妙な顔で繰り返した。 「ほら、窮屈な感じでさぁ。べつに、勉強できる誰かを否定したいわけじゃないんだけど……」そう言って、小町は自分の胸に手をあてる。「あたいらしくはないってゆーか」  他人を重んじて、自分の面目に大ざっぱでありながら、大ざっぱでいること自体には誇りを持っている。けれども、頭の中では、明晰な頭脳が物事を詳密に分析し、数字的に判断しようとしてしまう――大らかな性格と天賦の才をあわせ持つ、まことに小町らしいジレンマであった。 「ここで仕事してるのも、そういうのがイヤだったからだしなぁ」小町は霧の立ち込めている宙を見上げながら、ぼんやりとつぶやいた。 「どういうことですか?」  サクラの質問を受けて、小町はいくらか逡巡したのち、照れくさそうに頬を掻きながら答えた。 「ここへ来る前の話なんだけど……もう、百年以上前になるのかなぁ。本庁に勤めてた頃の話でね」 「本庁って……ゼヒキョクチョクチョウのですか」サクラは難しそうに発音して、きいた。 「そうだよ。……あたいはそこで、寿命管理室のお仕事をしていたんだ」  寿命管理室というのは、文字通り、生きている人間たちの寿命を計算し、記録するための部署である。死神は、大量の書類に囲まれながら、日々変動するおびただしいまでの数値の中から誤りを見つけ出す。その上で、複雑な計算を重ねて記録し直す、ということを延々繰り返さなければならない、きわめて過酷なデスクワークであった。  話を聞いている最中、サクラの棹を操る手が、明らかに鈍っていた。先ほど苦手だと言っていたこともあるし、どうやら数字にはよほど辟易しているらしい。  小町はそんな少女のようすを見て苦笑しながら、のんびりと言葉を続けた。 「それでもねぇ、あたいはこんな頭してるから。あんまり苦労はなかったんだよ」  当時の小町にとっては、周りの死神たちが必死に筆を走らせている中で、一人だけ早々に書類を片付け終え、手持ちぶさたになってしまうことが日常茶飯事であった。  初めのうちは、自分の仕事が早く終わったぶん、近くの席の同僚たちに手伝いを申し出るようにしていた。けれども、そうすることで集中力を途切れさせてしまい、かえって迷惑をかけてしまうことが解ったので、それからというもの、自分のノルマを他の死神よりも多めに設定してもらえるように、積極的に上司に願い出るようにしていた。それでも早く終わってしまうということで、やがてひとりだけ先に退室することを許されたのだが、そうすると今度は才能に嫉妬した者たちの刺すような視線が気になり始めたため、邪魔にならぬよう静かに座ったまま、定時になるのをじっと待ち続けなければならぬ日もしばしばあった。 「そうやって、何もすることがないから、周りの連中の仕事ぶりを眺めているわけさ。あんまりキョロキョロしていると、みんな気が散るだろうから、こっそりと、ね」小町はおどけた調子で顔の前に手をかざしながら、首を回すそぶりをつけて言った。「何も、自分より仕事が遅いのを馬鹿にしようってわけじゃあない。みんな、難しい作業をきっちりとこなせる、よくできた死神だった。……その中で、あたいがちょっと、ヘンだっただけなんだ」  尻すぼみになった言葉には、寂しかった当時の心境が露骨に表れていた。  サクラの握った棹が、ばしゃり、ばしゃりと水を掻く音を鳴らしている。彼女は舟を進めながらも、悲しげな顔で死神の話を聞いていた。 「周り見てたら、何だか不思議な気持ちになった。机に向かって頭を下げて、繰り返し、繰り返し、数字を処理するばっかりで」小町は物憂げな表情のままで話した。「今で言うなら、機械の歯車になったような気分、ってとこかな。むしろ、ひとりひとりが、計算用のロボットに見えた」  それでも、寿命の管理は必要な業務であり、誰かがやらなければならない。やりがいを感じながら、精一杯やっている者もいるのだということを、小町は釈明するように補足した。 「何にしたって、あたいの性分には向かない仕事だった。それであたい、いっそ辞めちまおうかって、真剣に考え始めていたんだけど……ちと、困ったことになった」  そこまで言うと、小町は陰鬱としていた表情を、不意にしくじったような苦笑いに変えた。その様子を不思議そうに見つめながら、サクラが問う。 「……何があったんですか?」  それを受けて、自嘲ぎみに息を漏らしながら、小町は答えた。 「言われちまったんだよ。室長にならないかって」  寿命管理室長。  本庁におけるその地位は、死神としては最高位にあたる。下手をすれば、所轄の閻魔と同等か、それ以上の権限を有することができるほどに名誉な肩書きであった。  無論、そうやすやすと室長になれるものではない。これは裁判の書記官を目指す死神たちと同様に、難易度の高い昇進試験に合格し、いくつかの厳しい審査を無事に通過することのできた者だけが、ようやく就任できる役職である。書記官と異なるのは、寿命管理室で働く死神たちの中でも、勤務態度と能力を特に評価され、上層部から選抜された者にしか受験資格が与えられない、という点である。  小町の性格にこそ合わなかったかもしれないが、その才能にはあつらえ向きの仕事であったため、長らく周囲で噂されていたとおり、肩を叩かれることになったのは当然と言えば当然であった。そして、小町が試験と審査を確実に突破し、室長になれるだけの資質を備えていることは、誰の目にも明らかであった。  しかしながら――そうはならなかった。  もしも寿命管理室長などという大層なポストに納まっていたのであれば、小野塚小町という名の死神の現状は、茶色い質素な小舟に揺られるばかりの、浮標するように寂然たる日々であるはずがない。  では、このたぐいまれなる才を持つ死神は、なぜ出世の機会を逃してしまったのだろう。  試験に落ちてしまったのか。  審査を通過できなかったのか。  いずれも、違う。  答えはもっと単純で、 「あたいは、そいつを蹴ったんだ」  小町にとって、もっともな選択であった。  サクラがあまり驚かなかったのは、おおかた答えを予想できていたからであろう。むしろ、それを前提とした上で、難しい顔をしている。 「勘違いするなよ」小町は言った。「計算ロボットが気持ち悪かったからじゃあない。あたいは、冗談は言っても、みんながまじめにやっていることを踏みにじるような考え方は、絶対にしない。それから、歯車になるのが嫌だったわけでもない」  小町はそう言ったのち、「今だって歯車だもんね。あんまり油きいてないけど」と冗談を付け加えた。 「では、どうして、蹴ったのですか?」サクラがきいた。 「サクラちゃんと同じだよ」 「えっ?」 「数字が苦手だった」  小町は肩をすくめると、ニンジンが食べられない妖精みたいに顔をくしゃくしゃにしてみせた。  すると、長い黒髪の少女が、あたふたと戸惑いながら問うてくる。 「だって、小町さん、計算は得意なんじゃ――」 「そういうことじゃあない」  サクラの言葉を予想していた小町は、すぐさまそれを遮った。しかし、迷路でとつぜん行き止まりにぶち当たった人のように、小町は大きく首を傾ける。 「……ん? 待てよ。じゃあ、サクラちゃんの苦手と、あたいの苦手とは、ちょっと違うのかな。うーん……」  ややあって、彼女らしく「まあ、いいや」と投げ捨てたのち、死神は穏やかな表情で、しかしはっきりとした口調で語り始めた。 「あたいは、自分が関わってる誰かの魂のことを、もっとよく知りたかったんだ。幸福も、不幸も、ぜんぶひっくるめて、色んな奴らの生き様を知りたい」  小町は語りながら、隣にいるヒトダマに目を向けていた。サクラもそちらを見たので、いきなり注目の的になってしまった彼、あるいは彼女の霊魂は、恥ずかしそうに縮み上がっている。 「どんな奴の魂だって、例外じゃないぞ。死んで地獄へ堕ちるにしても、そいつなりに精一杯、生きてきたことには変わりはない。これは、あたいの好き嫌いの問題じゃない。やれ子供をかばって亡くなった勇敢な人だとか、やれこいつは人殺しだから最低だとか――そういうのは抜きにして、だ。それを裁くのは、閻魔さまのお仕事だからね」  死神が閻魔になる道もあったが、少なくとも、小町はそういう気持ちにはなれなかった。寿命管理の仕事をしていたこともあって、死後の行き先よりも、どちらかと言えば生前のことのほうに興味が向いたのかもしれない。その点に関しては、小町は自分でもよく解らないなぁと思う。 「死んだ後の世界のことなんか、みんな解らなくて不安なんだよ。だから、生前の思い出話を聞いてやったり、逆にこっちから地獄や閻魔さまの面白い話をしてやったり……気休めでもいいから、せめてそういうことができたらいいなと思ったんだ」  サクラは棹を動かしながら、黙って聞いている。小さくうなずいたように見えたのは、もしかしたら、死後のことについて何か思うところがあったのかもしれない。  死神は言葉を続ける。 「だけど、数字は何も教えてくれなかったのさ。だから、苦手だった」小町は苦笑してから、すぐに神妙な顔つきになった。「寿命の数値とにらめっこしているだけじゃ、そいつの表情とか、考え方とか……大事なことが、何も伝わってこなかったんだよ」  魂が何キログラムなのかを量りたいのではなく、  その魂に刻み込まれた、人生の重みを知りたい。  だから、紅い髪の死神は、数字を仕事にしたくなかった。  魂と、直接触れ合うことのできる仕事を選びたかった。 「だから、三途の河で舟漕いでるのさ」小町はにへらと笑って、そう言った。「言わずもがな、上からは思いっきり反対されんだけどね。昇進の話を断った時もそう。……でも、こんな阿呆みたいな奴だからさ。今みたいなことをぺらぺら語り歩いているうちに、諦められたって感じかな」  それは、他者を敬う死神の、一世一代のわがままだった。  けれども、そのわがままさえ、霊魂を尊ぶがゆえの選択である。小野塚小町とは、そういう死神なのだ。  サクラは棹を操りながらも、感慨深げにうなずいている。小町はひょいと船べりに寄りかかって、少女の背に向けて問いかけた。 「サクラちゃんは、どうだったのさ」 「へっ?」呼ばれた少女は、驚いた顔で振り向く。  思い出話を始めたきっかけなど忘れたし、今となってはどうでもいいことである。 「自分を、見つめ直すんだろう?」 「あっ……は、はい!」  自身の発案を思い出し、サクラは忙しく返事をした。  今日までの一週間、小町は自分がそうしたように、サクラのことについても色々な話を聞いている。けれどもこの紅い髪の死神は、せっかくの機会なので、いま一度、舟の上でサクラの人生の重みを耳に入れておきたかった。  船頭をやっている少女は、棹の具合を確かめるために川面へ視線を落としていたが、心なしか、その表情に影が落ちたように見えた。 「……私、あまりよく憶えていないんです」  寂しげな声で、サクラは言った。  憶えていない、というのは、つまり、生前の記憶のことだ。実のところ、サクラの霊魂は、完全ではなく、中途半端に記憶を返されているのである。  小町は、そのことを承知の上で聞いている。なぜ憶えていないのか、ということもよく知っていたが、緑髪の上司と約束したので、それを教えるわけにはいかない。 「だけど、両親のことは、明確に記憶しています」サクラは言葉どおりに、はっきりとした口調であった。 「小さい頃のおはなし?」知っているふうに、小町はきく。 「はい。お父さんが、桜の花を見に行こうと言ったので、お母さんも一緒に、三人で山に登りました。そこは小さな山で、ガイドに載るような名所ではなかったけれど、私のお父さんだけが知っている素敵な場所でした」  サクラの父は、昔から登山が好きで、そういう秘密の場所をたくさん知っていたのだという。サクラは自分の料理の腕前については謙遜するのに、父のこととなると、一番の自慢話として嬉しそうに語り聞かせてくれた。 「本当に、綺麗な桜でした。私なんか、まだ小さくて物心もついたばかりだったはずなのに、あの桜のことは、今でもはっきりと思い出せます」 「そいつは、あたいも見てみたいなぁ」小町は眼前の真っ白な霧の中に、荘厳な桜の大樹を思い描いていた。 「小町さんも、いつか私のお父さんに会ったら、きっと教えてもらえますよ。私が見た、あの桜の場所」サクラはまったくかげりのない笑みをたたえて、そう言った。 「へえ、そいつは楽しみだ」小町は微笑みを返す。「サクラちゃんのお父さんは、とっても優しい人だったんだねぇ」  そう言ってから、小町は物憂げな表情をちらつかせた。  この少女は知らないが、死神は『それ』を知っている。 「はい! 私のお父さんは、世界一のお父さんです」  満開の桜に等しく華やかな、  満面の笑みを浮かべる少女。  この純粋な少女は、  父親から虐待を受けて、死んだのだ。 「いいねぇ。大事な人がいるってのは、いいことだ」  小町は目を細めながら、そう言った。船べりに両のひじをかけて、温泉につかっているような格好で、しみじみと宙を見据えている。  ――嘘をつくことは許されません。  彼女の上司はそう言ってから、  ――しかし、知らぬほうが良いこともあります。  と付け加えた。  それが、閻魔と死神の約束だった。だから小町は、残りの三週間で、少女に問い詰められるようなことがあれば、すべてを打ち明けるだろう。  嘘だけは、つけない。  けれども、告げる必要のない事実は、隠したままでいい。  少なくとも――彼女の父親が優しい人であったのは、紛れもない事実なのだから。 「お料理は、お母さんに教わったんだろう?」小町はそう言って、舟の先頭を流し目で見た。 「はい!」サクラはまた嬉しそうに、元気よく返事をした。 「お母さんに、お料理のご本を買ってもらって、一緒に色んなものを作りました」  それから、黒髪の少女は広げた両手の指を一本ずつ折り曲げながら、ハンバーグ、オムレツ、餃子、ミートパイ、チョコチップクッキー……と呪文のように唱えていった。  微笑みながら聞いていた小町は、楽しそうに話しているあまり、サクラの棹を動かす手がおろそかになっていることに気がついた。やれやれと苦笑しながら、それを指摘しようとしたところで、死神の腹に棲んでいる虫が「ぐう」と大きな悲鳴を上げる。  まだ昼過ぎだというのに、もうお腹が空いてしまった。 「仕事終わったら、ご飯、何にしようかなぁ」  小町が何の気なしにそう言うと、案の定、 「まだ、お昼を食べたばかりじゃないですか」  と、サクラに笑われてしまった。 「そういえば、四季さまもお料理得意なんだよ」小町は思い出したように、上司の名前を口にする。「そっか。じゃあ、夕飯はアレにしよう」 「何ですか?」サクラは首をかしげている。  小町はまた腹の虫が鳴きそうになるのを抑えながら、 「カレーライス。四季さまの大好物なんだぁ」  にへらと笑って、そう答えた。 「そうなんですか?」サクラは嬉しそうに言った。「でしたら、閻魔様も呼ばなきゃですね」 「おお、そうだねぇ。そいつは名案だ」 「カレーは大得意ですよ。楽しみにしてて下さいね」  そう言って片目をつむる少女の姿は、白い霧の中で輝かしいまでの精彩を放っていた。  小町はおもむろに立ち上がって、サクラに声をかける。 「それじゃあ、代わろうか」 「えっ?」サクラは戸惑いながら応えた。「まだ、平気です。私が、漕ぎますよ」 「あと半分と、復路もあるからなぁ」小町は頬を掻きながら、冗談っぽく言う。「よりをかけるための腕がないんじゃ、お料理も作れないからね」  言い終わると同時に、ぐう、と再び腹が鳴った。  それもそうですね、と少女が笑って棹を引き渡す。  素朴な茶色い小舟の上に、  そろいの衣装の、少女と死神。  同乗者には、ヒトダマひとつ。  彼岸を目指してそろりと進む。  ――ばしゃり、ばしゃり。  澄んだ水音。  白い世界を、  動かぬ川面を、  ゆらり、ゆらりと舟が行く。      3  青白い光に満ちた、広大な真四角の空間。 『楽園の閻魔』こと四季映姫は、この日もいつものように壇上へあがり、緑髪に紺色の冠を頂きながら、背の高い石製の肘掛け椅子の上に乗っていた。  そう。ちょこんと、乗っていた。  どっしりと腰を沈めている、などと、厳かに表現できるような、閻魔らしい威光はほとんど見られない。彼女の幼い外見は言わずもがな、野球場ひとつ収まりそうなほどに部屋の広すぎることが、小さな閻魔にまとわりつく滑稽な気配をいっそう強調していた。 「連れてきたわよ」  紫色のドレスを着た美女が、澄んだ声を反響させた。  閻魔が見下ろす平坦な床の上に、申し訳程度にしつらえられた、凹の字の形をした木製の台。彼女はそのくぼみに収まっている。  その背後には、もう一人、別の女が立っている。ゆったりとした白い衣装に、濃藍の前掛けを垂らし、短い金髪の上から二股に分かれた奇妙な形の帽子をかぶしている。最も注目すべきことに、肩の向こう側では、体躯と同等の大きさはあろう、九本のふわりとした尾が揺れていた。尻尾は髪色と同じ艶やかな金の光を放っており、毛の先のほうだけが、いただきに雪を冠した山のように白い。  主人である紫色の美女――八雲紫が堂々としているのに対し、金色の妖狐は、両袖に腕を通して正面で組み、ふっくらとした尾をゆるやかに揺らしながら、影のように控えめな態度でそこに居た。  二人へ交互に目を向けて、壇上の閻魔は深くうなずいた。 「ご苦労様です」  紫が「連れてきた」というのは、当然、背後に控えた妖狐のことではない。用があれば一人で出向いてくるのが常であるのにもかかわらず、今日にかぎって従者を連れているのは、とある事情により、映姫のほうからこの妖狐を招いたためである。  本来ならば厳粛な裁判が行われているはずの法廷であったが、今はどこか緩慢とした空気に包まれている。その原因は、ひとたび凹の字形の証言台に目を向ければ、一目瞭然であった。紫色のドレスを着た女が、木製の台の上に身を投げ出すような姿勢でいるさまが、室内のおごそかな雰囲気をすっかり気だるさに塗り替えてしまっているのだ。 「廊下に待たせてあるわ」紫はそう言って、挑戦的な笑みを向けてきた。「これでいいのよね? 尻拭い」 「……相変わらず、品位に欠ける人ですね」映姫はやれやれとかぶりを振る。「身なりは上品だというのに」 「閻魔さまの前で典雅に振舞っても、すぐに嘘だと見抜かれてしまいますもの」 「それはもっともなのですがね」  映姫は深い溜息を吐いた。この女と話していると、どうにも調子を狂わされる。  気を取り直すようにかぶりを振ったのち、映姫は改めて、ねぎらいの言葉をかけた。 「とにかく、ご苦労様でした。すぐに、話してみましょう」  そう言ったのは、八雲紫が「連れてきた」人物についてのことである。  この日の午前中には、通常どおりの業務を少しだけこなした後で、その「連れてきた」人物と話すための時間が特別にとられている。午後にはまた別の用事があるため、昼休み以降にはもう裁判を行う予定はない。いつものように壇上の椅子に腰掛けてはいるものの、四季映姫・ヤマザナドゥの本日のタイムスケジュールは、平時のそれとは大幅に異なっているのであった。  そういうわけなので、紫からの連絡を受けた今、映姫はさっそく、件の人物を迎え入れる準備をしようと考えた。  しかしながら、そこへ紫が質問を差し挟んでくる。 「……何か、聞きたいことがあるはずでしょう?」  もう済んだことのように言われたのが気に喰わなかったのか、やや不機嫌な口調であった。 「ええ」と申し訳なく思いながらうなずくと、映姫は紫の背後へちらりと視線をやった。「ですから、そちらの狐さんもお招き致しました」  映姫の言葉を受けて、紫は後ろを振り返った。己の従者に視線を向けたまま、おもむろに台のくぼみから外側へ出ると、そこへ招き入れるようにして呼びつける。 「藍」  ラン、と呼ばれた妖狐は、「はい」とうなずいたのち、今しがた主人が退いたばかりの証言台のくぼみへと歩み寄った。一歩踏むごとに、やわらかそうな金色の尾がふるふると縦に揺れる。  映姫は、彼女が凹の字形の内側に収まるのを待ってから、神妙な顔つきで問いかけた。 「調査は進みましたか?」 「はい」藍がうなずくと、今度は二股に分かれた帽子の先が揺れた。 「聞きましょう。今は簡潔で構いません」 「かしこまりました」藍は深々と一礼したのち、言われたとおり手短に報告した。「吹き飛ばされた『右腕』そのものの発見には至りませんでしたが、かすかに血痕を確認することはできました」 「それは、確かに『あれ』のものなのですか」 「周辺に、それと思しき異質な霊力の残滓がありました。あの湖には本来、さほど強力な妖怪は棲んでいないはずなので、間違いないと判断していいでしょう」 「なるほど」映姫はうなずく。「……では、血痕をもとに、 『本体』あるいは『右腕』の所在を知ることは可能ですか?」 「不可能です」妖狐は即答した。「相手は、紫様以上の結界の使い手です。追跡を遮断することなどたやすいでしょう。……『右腕』の行方に関しても、皆目見当がつきません。血痕が残されているため、自分で持ち去ったとは考えにくい。やはり、野犬の類に喰われたか、価値を知る何者かが持ち去ったものと考えるのが妥当です」 「そうですか……。解りました」  最後に閻魔がねぎらいの言葉をかけると、妖狐はうやうやしく頭を下げて応えた。一礼の後で、彼女は補足する。 「調査に際して、複製結界の除去と大結界の修復、紅魔館をはじめとする関係各所への謝罪など、おおかたの事後処理も済みました。幻想郷に、後遺症はありません」  淡々と述べる藍の背後では、紫がしかめっ面をしている。妖狐の主人は、「余計なことを言うな」とでも言いたげな、ささやかな抗議の視線を金の尻尾に向けていた。 「有難う御座います」二人を見下ろしながら、映姫は苦笑した。「この件については、また後ほど。午後に小会議室をお借りしていますので、そちらでお話を致しましょう」  それを合図としたように、藍が再び頭を下げてから退き、代わりに紫が前へ出てくる。 「ひとまず、あなたが『連れてきた』方の裁きを優先させますので、昼休みまでしばしお待ち下さい」 「解ったわ」と、紫はうなずいてから、疑問に首をかしげる。「……で。どこで待っていればいいの?」  映姫は「ああ、そうでした」と頬を掻いて、答えた。 「待合室はありますが、長時間待機するには、少々窮屈かもしれません」映姫は、ふんわりと膨らんでいる九本の尻尾を見ながら言った。「広い部屋のほうがよいでしょう。職員用の食堂を特別に開放させますので、よろしければ、そちらでお待ち下さい」 「そうさせて頂きますわ」と紫はしとやかに一礼したが、すぐに肩をすくめる。「でも、何だかお腹が空きそうね」  紫の背中を、九尾の狐が難しい顔で見つめていた。さすがに失礼なのでは、という指摘を頭の中に浮かべているに違いない。主人の言うことだからと我慢しているか、あるいは、今さら注意しても無駄だと呆れているのだろう。  そんな様子を眺めて、また苦笑しつつ、 「先にお昼を召し上がっていても、構いませんよ」  映姫は何気ない調子で言った。 「そう? 悪いわね」とは言ったものの、紫はちっとも悪びれたふうでもなく、待ってましたと言わんばかりに片目を閉じた。「では、お言葉に甘えて」 「週替わりカレーがおすすめです」  思いついたように、映姫は言った。今週は、欧風カレーライスである。 「あら。いいことを聞いたわ」  紫色のドレスを着た美女は、子供のように愉快げに笑った。  そうして、最後に「呼んでくるわね」という一言を残してから、紫は左手の壁に向かってつかつかと歩いてゆき、扉へ吸い込まれるようにさっそうと出て行った。主人に続いて退出する直前、申し訳なさそうにぺこりと一礼をした藍に、映姫は穏やかな笑みを送った。  茫漠とした四角い空間は、本来の静けさに立ち返る。  やがて、同じ扉が再び開き――  閻魔の法廷に、一人の男が姿を現した。  部屋の広さが事前の想像を超えていたのだろう、スーツ姿の男は一歩踏み込んでくるや立ち止まり、戸惑い気味に辺りを見回していた。ややあって、彼は革靴を鳴らしながら真ん中のあたりまで歩いてくると、先ほど紫がそうしたように、凹の字形の証言台に収まった。 「盛岡さん、記録をお願いします」  映姫の言葉を合図として、巨大な肘掛け椅子の背後の壁にあった扉が開き、分厚い書物と筆箱を抱えた壮年の男が入ってきた。この黒装束の男は、映姫が紫と対談しているあいだ、席を外していた書記官の死神である。  いかめしい顔の書記官が壇上の長机の左側、少し離れた左隣の位置に腰掛けるのを横目に確認してから、閻魔は再び、証言台に立つスーツ姿の男を見下ろした。 「お待ちしておりました」  口の端に穏やかな笑みを浮かべながら、映姫は言った。  それに対し、 「お待たせしてしまったようで……。本当に、申し訳ない」  男は、心の底から謝った。  閻魔の法廷において、床の上に立たされる者は、八雲紫のような特例を除けば、死者のみである。スーツ姿の男も、その例に漏れず、肉体を持たぬ霊魂であった。  死者の霊魂は普通、ヒトダマのような曖昧な姿しかとることができない。にもかかわらず、彼が実体を持つことができているのは、彼の魂にまだ『生前の記憶』が残っているためだ。通常ならば、三途の河を渡り、彼岸にて裁きを待つあいだに、死者は『記憶』を失い、具体的な形を維持できなくなる。だが、彼の魂は通常とは異なり、直接この法廷に来たため、まだ肉体の形状を再現できるのである。  何が起こるのか解らぬままに閻魔の裁判所に連れてこられるのだから、気ぜわしく震えてしまうのが反応としては普通なのだが、この男は法廷の広さに驚きこそしたものの、閻魔に対して迷わずに言葉を返すなど、気後れしているようなところは少しもない。  映姫はその態度に感心しながら、口を開いた。 「あなたは、重い罪を犯した」 「はい」男は素直にうなずく。 「自覚はありますね?」それは詰問ではなく、あくまで記憶しているかどうかの確認だった。 「……はい」男は、沈むように首を縦に振った。「私は、自分の娘を殺しました」  映姫は悲しげな表情で、それを聞いていた。  彼は、憶えている。  最悪な瞬間を、鮮明に記憶しているのだ。 「解りました」映姫はうなずいてから、そっと微笑みかけた。「ですが、安心して下さい。私は、あなたの尊厳を守るために、冥界行きを宣告するでしょう」  そうするだけの、事情がある。  彼は、何も悪いことはしていない。  ただ、幸せに暮らしていただけなのだ。  それを――悪しき妖怪によって、踏みにじられただけ。 「あなたの行いは、本来ならば重罪です。しかしながら、あなた自身の意思が導いた結果であるとは言いがたい。それゆえに、私はあなたを無罪にすることができます」  地獄へ堕とすようなことは、絶対にしない。  ですから、安心して下さい――と、閻魔は微笑みかける。  だが、スーツ姿の男の返答は、 「困ります」  緑髪の閻魔の予想を裏切り、度肝を抜くものであった。  ――何が困るというのだろうか?  真意をはかりかね、映姫が質問すら返せずに戸惑っていると、男のほうから、言葉の続きを口にした。  そう。映姫が真に度肝を抜かれたのは、この時である。  彼は明瞭な声で、少しの迷いも抱くことなく、こう言ったのだ。 「私は、地獄へ行きたいのです」  映姫はどきりと肩を跳ね上げ、身を硬くする。  彼女の予想では、冥界に行けることを喜んでもらえるはずであった。そうして、この特例的な裁判もつつがなく進行するはずだったのだが、まさか、このような返事を寄越されるとは、少しも想像していなかった。  口元にシャクの先端をあてて、めまぐるしい思考を落ち着かせながら、丸く見開かれていた目をゆっくりと細めていく。そうしてから、閻魔はようやく言葉を紡ぎだした。 「うーん……」  映姫は頭を抱えると、台上の端にちらりと目をやって、 「前にも、こんなことがありました」  風船みたいな紅い実を思い描きつつ、深い溜息を吐いた。      4  広大な法廷と比較すると、箱のように小さな会議室。  茶色い長机は、今は五名の人物に囲まれていた。  閻魔と死神、紫色の美女と従者である妖狐、そして――一人の人間である。 「では、皆様の意見を確認します」  映姫は他の四人に向かって、粛々と言い放った。彼女だけが、長方形の机の短い辺にあたる席に座っており、他の面々をよく見渡せるようになっている。  本来ならば八雲紫と八雲藍、そして四季映姫の三人だけが、この場で会議を開いているはずであった。けれども、現在会議室にいるのは五人であり、当初の予定とは異なる話し合いが行われている。 「まずは、八雲紫さんからお願いします」  映姫が左隣に目を向けると、紫色のドレスを着た妖怪はゆっくりとうなずいて、それに応じた。 「悪い妖怪に心を狂わされていた事実は明らかなのだし、あの人を単純に人殺し扱いするのはどうかと思うわね」 「つまり、あなたは」映姫は確認を取る。「彼は無罪である、と主張するのですね」 「そういうことになるわね」  と、しとやかにうなずく主人の横では、金色の妖狐が押し殺せぬ笑みをくつくつと漏らしていた。 「藍。どうしたの?」左を向いて、紫がきく。 「いえ、その」すると、彼女の従者は口元を押さえながら、はばかることなくこう言った。「悪い妖怪って、紫様が言うと、何だか白々しいなぁと」 「……お黙りなさい」  ばつが悪そうに口をとがらせている紫を見て、映姫も少し笑ってしまった。それから、緩んだ顔にまじめさを取り戻しつつ、ちょうど目が合った妖狐に向けて問いかける。 「あなたは、どのようにお考えですか?」  問われた妖狐は、たちまち神妙な顔つきになって答える。 「私も、無罪を主張します」 「それは、なにゆえでしょうか」映姫は質問を重ねる。 「悪い妖怪に……」そこだけ言って、藍はまた噴き出しそうになったが、どうにか粛然とした態度を維持しながら言葉を続けた。「狂わされる前の彼は、徳のかたまりのような人であった、という点を重視すべきだと思うからです」 「なるほど」  首を縦に振ってから、映姫は右隣へ視線をやった。  紫の正面にあたる座席では、書記官の盛岡が、いかめしい顔と隆々とした身体に似合わぬおもむきで、小さな筆ペンを紙の上に走らせていた。この死神には、話し合いの記録係を務めてもらうだけでなく、多数決での均衡を防ぐ目的もあって、評議の参加者としても同席してもらっている。  とはいえ、寡黙な彼は、聴き手に徹して最終的な判断をするつもりでいるらしく、 「私は、いま少し考えさせて頂きたく存じます」  渋い声でそう言ったのち、再びペンを動かし始めた。現状においては、保留というのも選択肢のひとつとして有効なので、映姫としては、それはそれで構わない。  さて、閻魔が確認しているのは、八雲紫が連れてきた、スーツ姿の男の件に対する各自の見解である。  彼の審判は、まだ済んではいない。  五人がこの部屋に集められたのは、あのスーツ姿の男の判決を評議するためなのである。 「では」と言ってから、映姫は書記官の隣に腰掛けた、銀髪の少女に目を向ける。「あなたは、どうでしょうか」  すんなりと終わる予定であった裁判に複雑な事情が絡み、個人での判断が困難をきわめたため、四季映姫・ヤマザナドゥは急ぎ本庁に連絡し、近年採用されたばかりの特殊な制度の利用許可を取得した。  死者の裁きに際して、必要と判断された場合に限って一般の生者を召喚し、その者を一時的な裁判官に設定した上で意見を聞き入れるという、非常に画期的な制度である。そうすることによって、判断の難しい事例に直面した場合でも、その結果が高座に腰掛けた閻魔の裁量のみによって左右されることなく、民心ならぬ『実際に生きている者』の客観的な視点を踏まえた判決を下すことが可能になる。これは、死後の世界と密接に関わることの多い『幻想郷』という土地にのみ、特別に認められたものであった。 「私は、有罪を主張します」  銀髪の少女――『幻想郷』に住む生きた人間である彼女は、閻魔の質問に対し、はっきりとそう答えた。  ここにきて、初めて提示された有罪の主張を、映姫は深々とうなずいて聞き入れる。  短い髪の上にはフリルのカチューシャをつけ、銀色の三つ編みが顔の両側で揺れている。つつましやかな青いエプロンドレスはしかし、色合いが明るすぎるせいか、厳粛な議論の場ではいささか浮いている。 『幻想郷裁判員制度』では、審判の対象が人間の死者ならば生きた人間が、妖怪の死者ならば生きた妖怪が一人選ばれ、裁判員として法廷に臨むこととなる。選出される人数が少ないのは、導入したての新制度ということで、まだ試験的な部分があるためだ。これによって、今回は人間の少女が一人、裁判所に召喚される運びとなった。  とはいえこの評議には、妖怪である八雲紫と藍も特別に同席している。別件に関する会議を控えたついでという形ではあるが、本件についても事情が事情であるため、関係者として公式に参加が認められているのであった。 「それでは、咲夜さん。あなたはなぜ、彼が有罪であるとお考えなのでしょうか」  咲夜と呼ばれた銀髪の少女は、閻魔の質問に平坦な口調で答える。 「惑わされようが狂わされようが、自分の娘を虐待し、死に至らしめた事実が消えるわけではありません。彼もそのことを自覚して、みずから地獄行きを希望しているのですから、そのとおりにするのが最善の選択です」  咲夜の言い分を受けて、対面の藍が口を開いた。 「しかし……それでは、有り余るほどの徳を無視することになります」 「徳を積んでいるからといって、実の娘をいたぶって、殺していいわけではありません」咲夜はすぐにかぶりを振って、答える。「それに、徳を汲み取るにしたって、その善行に報いる意味でも、彼の希望どおりに地獄へ行かせてやるのが道理なのではないでしょうか」  十六夜咲夜。  とあるお屋敷にて、メイド長を務める人間の少女。青色のエプロンドレス姿も、仕事着を普段着としている彼女ならではの格好である。  咲夜は現在、不思議な境遇に置かれていた。彼女は昨年の夏、スーツ姿の男が殺害した、その実の娘と共に一ヶ月間、暮らしたことがあるのだ。それに加えて、つい先日、あの男を狂わせたとされる妖怪と対峙したばかりであった。  本件に『幻想郷裁判員制度』を適用するに際して、十六夜咲夜が選ばれた理由は、まさにその二つの点にあった。  人間たちの世界における『裁判員制度』では、特定の年齢条件などを満たしている者の中から無作為に裁判員が選出されている。しかしながら、『幻想郷裁判員制度』では、まだ施行されたばかりで様子見の段階であるという理由も含めて、慎重な人選がなされているのだ。  裁かれる死者と同じ人間であり、本件について二重の意味で関与している――咲夜ほどに都合の良い関係者は他にいなかったので、本庁の許可が下りるやいなや、急ぎ駆り出されることになったのである。  咲夜の気持ちがいささか殺された娘のほうに偏りがちなのは、思い入れもあるだろうし、致し方ないことである。そういった意見があってこその『幻想郷裁判制度』なのだ。 「メイドさん。あなた、あの妖怪を見たのでしょう?」咲夜に呼びかけたのは、厳しい表情を浮かべた紫である。「あれの脅威を目の当たりにしても、狂わされた彼の心情を少しも汲み取る気はないとおっしゃるのかしら」  むしろ、そうだとすれば、責任は私にある――紫は、消え入りそうな声でそうつぶやいた。 「あの『マボロシ』という妖怪がいかなる存在なのか、ということについては、ここでは追究しませんが」咲夜は淡々と言葉を返す。「正気でなかったとしても、人殺しは人殺しです。繰り返しますが、彼自身がそのことを認めています」 「それだって、彼の誠実さゆえでしょう?」 「そうかもしれません」咲夜は否定しない。「そのように仮定した上で、なればこそ地獄行きを認めるべきなのでは、と申し上げました」 「『幻』の悪意はどうなりますか?」そう言ったのは、藍である。「かの妖怪の悪意を無視して、重い罪をすべて彼の背に預けてしまうのは、筋違いなのではありませんか」  藍の隣で、紫が首を縦に振った。  それでも、咲夜はいっこうに反対の姿勢を崩さない。 「人殺しを無視するほうが、筋違いです。……確かに、あの妖怪の力は、尋常なものではありませんでした。お嬢様と私、そして二人の魔法使いが、手も足も出なかった」  銀髪のメイドは、そこでぎりりと歯噛みした。  強大な妖怪が企てた、ある妖精の殺害計画。咲夜は事件に巻き込まれながらも、守るべきものを自分の力で守りきれなかった。その悔しさと不甲斐なさが、今になってぶり返してきたのだろう。  咲夜はひとつ咳払いをして、続ける。 「そして、彼の積み上げてきた徳が、決して取るに足りぬようなものではないということも、私は承知しています。だからこそ、彼は何も悪くない、罪を負うべきはあの妖怪だ、という救済的意見を否定しているのです」 「おかしいわね」紫は笑いもせずにそう言った。「彼に肩入れするような言い方しておきながら、どうしてそういう結論になるのかしら」 「無論、私も人の子ですので、可哀そうだとは思います。まったく非のない人生を狂わされたあげく、地獄へ堕とされるなど、理不尽な話です」そこまで言って、咲夜はにじみ出た感情を噛み殺すように、かぶりを振る。「しかしながら、この場で肩入れすべき対象は、彼個人ではなく、もっと大きな、全体的なものであるはずでしょう」 「言葉の意味を測りかねますが」藍が言った。 「狐さんは、地震で怪我をしたら、地震を訴えますか?」 「それとこれとは、話が違います」 「同じことです」咲夜は断言する。 「根拠を述べてちょうだい」そう言ったのは、紫である。 「あなた方は、いくらか『マボロシ』というモノについてご存知のようですが、私にとってはまったくと言っていいほどに不明瞭な存在です」咲夜は力のこもった口調で話した。「突然ふりかかる災害のようなもの。得体の知れぬ大きな力のせいにして、円満に解決したように感じる――それでは、ただの逃避に他ならない。一般的な人間の代表として申し上げますが、わけのわからぬ妖怪に罪をなすりつけて、それでおしまい、というのでは、誰も納得しません」  咲夜の意見に、対面の二人は困惑の表情を浮かべた。何を言い返せばいいのか解らない、といった様相である。見落としていた点を指摘され、強い説得力を感じたのだろう。  閻魔は静観を続ける。議長である映姫は、いちばん最後に意見を申し述べるつもりなので、議論の場が混沌としているわけでもない現状においては、まだ動かない。  沈黙した室内には、書記官がペンを走らせる音だけが響いていたが――ややあって、銀髪のメイドが付け加えるように言った。 「それに、彼の心を狂わせた妖怪が『マボロシ』であるとは、断定できていないのでしょう?」  絶句。  もとより水を打ったような静寂に包まれていた会議室を、さらに凍り付かせるような発言であった。  議題にのぼっているスーツ姿の男。彼は生きながらにして、妖怪の手で魂をもてあそばれていた。  その事実が、実の娘を虐待し、死に至らしめたという重い罪の所在を、うやむやにしているのだ。  八雲紫の調査によって、この事件には、遠い昔から世界のどこかに潜み続けている不気味な存在――『幻』と呼ばれる妖怪が関与していることが判明した。とはいえ、咲夜の言うとおり、単に『幻』の影がちらついていただけであって、その妖怪が例の男の精神を操作したという証拠はどこにもないのである。  もし犯人が『幻』ではないのだとすれば、いったい誰が、彼の魂に手を加えたのだろう。発言した咲夜自身ですら、額に汗をにじませている。得体の知れない恐怖感が、この場にいる全員を絶句させたのだ。 「私たちは、何か大切なことを忘れているのかもしれない」それまで黙って耳を傾けていた映姫は、何かにつき動かされるように、神妙な顔つきで口を開いた。「あるいは……忘れさせられている」 「そんなことが」と、紫は喉まで出かかった言葉を呑み込んで、かぶりを振った。「いや……あり得る。忘れさせるどころか、頭の中から完全に消し去ってしまうことも」 「消し去る……?」そうつぶやいたのは、咲夜。 「あなたたちも、よく知っているはず。ハクタクの存在を」  紫が口にしたのは、歴史を喰うといわれる妖怪の名だ。喰った歴史を人々の認識の外側に追いやり、消し去ってしまう神の獣。 「ですが、紫様」隣から、藍が口を挟んだ。「紫様や、閻魔様ほどの高い霊力を有する者であれば、ハクタクの歴史を消し去る『能力』は効果を示さないはずです」 「ハクタクに関しては、そのとおりよ」妖狐に向けて、紫はうなずきかける。「特に、いま幻想郷でハクタクをやっている彼女の力なんて、本来の五割にも満たない。元は元で、もう自分が何の妖怪だったのかさえ忘れてしまっているようだし……どちらにしたって、私の前では歴史を喰ってもまったくの無意味」  賢者と呼ばれた大妖怪と、白黒はっきりつける楽園の閻魔。そして、賢者の式神にして最強の妖獣とうたわれる黄金の九尾――八雲藍自身も、ハクタク程度の力は意にも介さず、喰われた歴史であろうと当然のことのように覚えていられる。 「だけど」  と、紫は否定の言葉を添える。  そうして、彼女は何気ない口調で――しかし顔面には緊張とも恐怖ともとれるこわばった表情を浮かべながら、こう言ったのだ。 「ハクタクなんかより、もっと強力なヤツがいたら?」  その瞬間、閻魔の全身を、戦慄が駆け巡った。 「私たちから、千年以上も身を隠し続けていられるような……そう、たとえば、『幻』に匹敵するくらいの」  考えなかったわけではない。  けれども、考えたところで無意味であったし、あり得ないと思う気持ちのほうが強かった。  そんなものが存在しているのだとすれば、そいつはあらゆる妖怪、神をもはるかに超越し、『超自然』が与えうる能力的なヒエラルキーの頂点に君臨していることになる。少なくとも、さまざまな妖異が集う幻想郷において、実力の計り知れぬ『幻』や、匹敵する者ならばともかく、八雲紫以上に強大な力を持つ妖怪を映姫は知らない。  知らないからこそ、怖いのである。  想像しないのではなく、  想像したくないのかもしれない。 「この議論は、後ほど、改めて行いましょう」閻魔は議長としての務めを思い出し、額に浮かぶ嫌な汗を手のひらでぬぐい去る。「裁判についての評議を続けます」  不気味な想像をしてうつむいていた各人は、我に返ったように顔を上げると、閻魔に向けて小さくうなずきかけた。  今すべきことは、犯人の特定ではない。無論、特定できればそれに越したことはないのだが、それが不可能であることが解りきっている現状、曖昧な状態で評議を続けるしかないだろう。八雲紫と藍を呼びつけた理由は、『幻』に関する報告と議論のためであるから、いずれにせよ、先の件には再び触れることになる。 「咲夜さん、あなたのご意見はよく解りました。ありがとうございます」  映姫は改まって言うと、いま一度、三人の意見――死神の盛岡は書記官に徹している――を吟味することにした。  まず八雲紫の意見は、「正体が何であれ、妖怪の手によって心を破綻させられていたのだから、殺人は彼の責任にはならない」というものである。  彼女の式神である八雲藍の意見も同様に無罪を主張するものであったが、彼女は例の男が正気であった頃の徳の高さを提示した上で、天秤上の観点から有罪判決を否定した。  二人の意見に対し、裁判員として召喚された十六夜咲夜は、唯一、有罪の主張を唱えている。「曖昧なものに罪を押し付けるのは筋違い」、「善行によって虐待と殺人行為が帳消しになるわけではない」という彼女の反対意見によって議論は複雑な様相を呈することとなったが、映姫にとっては同時に興味深い意見でもあり、有罪か無罪かという当初の単純かつ漠然とした二択よりも、はるかに適確な判決を導き出すためのきっかけになるように思えた。 「最後に、私の考えを申し上げます」映姫は四人に目を配りながら、粛然とした面持ちで語り始める。「彼には、積み重ねてきた善行がある。しかし同時に、あまりにも重い罪を背負っています」  殺人者としての仮面と、  良き父親としての真実の顔。 「これらを天秤にかけて、相殺させるわけにはいきません」  そう言って映姫が目を向けると、銀色の髪の少女はしかつめらしくうなずいた。  咲夜の対角線上では、紫色のドレスを着た妖怪が、網の上で焼いた餅のようにむっとした表情を浮かべている。そんな彼女をなだめるように、映姫はそちらへ視線を移してから、言葉を続けた。 「正体が何であれ、彼の豹変に何者かが関与していることも、また事実です」  映姫は紫を見たまま、目を閉じてうなずく。しかし、紫の意見をくむ発言であったのにもかかわわらず、当の妖怪はうなずき返すどころか、肩をすくめてかぶりを振った。 「煮えきらないわね。結局、あなたの意見は何なのよ」  妖狐は、主人か閻魔か、どちらともつかぬ曖昧な方向を見ている。紫の横柄な態度をとがめる思いと、映姫の意見に興味を抱く気持ちが交錯し、焦点がぶれているのだろう。  映姫がふと反対側に目を向けると、銀色の髪のメイドは言うまでもなく、いつしか堅物の書記官までもが、紙の上からこちらへ視線を移していることに気が付いた。  どうやら自分の想像以上に期待を集めているらしい現状を目の当たりにして、映姫は苦笑を漏らしながら、紫の問いかけに対する答えを述べた。 「どちらもです」  閻魔の言葉を受けて、皆いっせいに首をかしげる。その様子を眺めつつ、映姫は補足するように言った。 「今回の場合、徳と罪を別々の皿の上に載せて、天秤で重さを比べるわけにはいきません」咳払いを挟んで、映姫はこう述べた。「ですから、私は、両者を同じ皿の上に載せたいと考えています」  小さな会議室が、ざわざわと色めき立つ。 「あなたねぇ……本当に、それでも閻魔なのかしら」眉をひそめて、紫が非難した。「答えになっていないわよ」  室内に一様につのる不信感を受けて、しかし映姫は気まずさなどかけらも見せずに、平然とした顔つきでいる。  こうなることは、予想通りであったのだ。けれども、場の空気をかき乱すばかりではない。ちょっと聞くと、どっちつかずの曖昧な発言ではあったが、映姫がそのようなことを言ったのには、明確な理由があるのだ。 「もう少し、具体的にお願いします」  騒然とした場を鎮めるように、冷静に促してくる藍。  鋭い視線が、緑髪の閻魔に集中する。  映姫はゆっくりと首を縦に振ってから、貫くような声で、その真意を明朗に宣言した。 「私は、『永久追放』を提案します」      5  評議の翌日。  スーツ姿の男の公判を無事に終えた午後――緑髪の閻魔と、銀髪の人間が、食堂の机を挟んで対面していた。  この場には、八雲紫とその従者はいない。彼女たちは、評議に続いて行われた別件の報告会議が済み次第、昨晩のうちに住処へと帰ってしまった。そういう気まぐれなところは、紫らしいと言えばらしい。  書記官の盛岡、彼は彼で堅物らしく同席を遠慮したため、公判終了後の食堂では、四季映姫と十六夜咲夜が二人きりで対面することとなった。映姫は湯気を立ちのぼらせる白いカップを傾けて、食後の一杯を味わっている。 「貴重なご意見、ありがとうございました」と、受け皿の上にコーヒーカップを置きながら、映姫は対面の少女に向けて頭を下げる。「『幻想郷裁判員制度』を適用した甲斐があったというものです」 「いえ、お礼を言われることなど……」咲夜はやや戸惑いぎみに言って、会釈を返した。「こちらこそ、良い経験をさせて頂きましたわ」  微笑む咲夜に対し、映姫は「いえいえ、こちらこそ」と返しそうになったが、堂々めぐりになってしまうときりがないので、再び出かかった謝礼の言葉をあえて呑み込んだ。 『幻』関連の事件に巻き込まれたばかりで、お屋敷周りのことで多忙であるにもかかわらず、『サクラ』という名を聞いてすぐに裁判所までおもむいてくれたこの銀髪のメイドには、感謝してもしきれないものがあった。 「このようなことを申し上げるのは、いささか不謹慎であるかもしれませんが」咲夜は紅茶のカップに手に取りながら、クスリと笑って言う。「とても面白い裁判でしたわ」  銀髪の少女は、涼しい顔でティーカップを傾けている。罪人の処置を決定するのに、愉快も痛快もあるべきではないのかもしれないが、映姫にとっては『幻想郷裁判員制度』が活かされたことも含めて、確かに面白い裁判ではあった。  スーツ姿の男には、最終的に次のような判決が下された。  有罪――地獄行き。  閻魔の裁判において有罪と判断され、公式的に罪人となった霊魂は、生前の記憶を抱いたままで地獄に堕とされる。忘れさせぬことによって、過酷な労働と拷問を強いられる長い時間の中で、自身が犯した罪にしっかりと向き合わせるためだ。 「紫さんには、閻魔のくせに回りくどい、と罵られました」  映姫は苦笑しながら、そう言った。  何が回りくどいのかと言えば、懲罰の内実である。  有罪判決を下したうえで、閻魔が例の男に与えた罰の名目は、『永久追放』というものであった。  地獄から永久に戻れない、という意味ではない。地獄行きは、あくまで罪人が与えられるべき前提的な処罰として存在するものだ。  だからこそ、映姫はそれを逆手にとった。  罪人にとって、地獄行きは大前提である。なればこそ、そこから『永久追放』されるということは―― 「送った先から、さらに追放ですもの」咲夜が肩をすくめて言う。「回りくどい。まったくそのとおりですわ」  地獄に堕とした上での、『永久追放』。  そう。映姫がスーツ姿の男に与えた罰は、『地獄からの永久追放』というものであった。  地獄に立ち入ることはできない。かと言って、冥界へ行けるわけでも、地上に戻れるわけでもない。  その代わり、彼には「現在は地獄ではない場所」――すなわち、『旧地獄』と呼ばれる地域で暮らしてもらう。  かつて地獄の縮小化が図られた際に、切り離された土地。野良怨霊たちが住みつくその地には、地上での暮らしを捨てた妖怪たちによって独自に統治された、『旧都』と呼ばれる巨大な地底都市が存在する。  あの男は是非曲直庁の管轄外に放り出され、旧都を統制する鬼のもとで働くことになる。罪人に与えられる罰としては、聞こえだけならばきわめて重い。  しかしながら、それはあくまで建前なのだ。 「旧都という街については、パチュリー様から聞き及んでいます」パチュリーというのは、咲夜が勤めるお屋敷の地下に存在する大図書館、そこに住む魔女の名だ。「あの方は、ちょうど、幻想郷の地底のことについて、詳しく調べていらっしゃったようなので。恐ろしい鬼たちが支配する街、と聞いていましたが……」  そのかぎりでもないのですね、と咲夜は微笑んだ。映姫の口から、旧都の実情を聞き知った上での発言である。  彼女の言うとおり、『旧地獄』とは言うものの、実際の旧都は縁日のように明るく賑やかな街であり、取り仕切っている鬼たちも、怒らせるようなことさえしなければ、酒飲みで気のいい者たちばかりである。そのことを、映姫はよく知っていた。そこで働くとなれば、豪気な上司に付き合わされて、浴びるように酒を飲まされることもあるかもしれないが、それもまた罰の一環と解釈すればよいし、あるいは一興にもなりうるだろう。少なくとも、そびえ立つ針山や禍々しい血の池よりは、嫌なところではないはずだ。  鬼たちのもとで旧都の街並みを警備したり、清掃したりといった奉仕活動を行い、ノルマを達成できたら、転生への道をたどるか、もしくは気が向くまで、そのまま住み続けていても構わない。『永久追放』の『永久』とは、建前であると同時に、「いつまでそちらに居てもらっても構わない」という許容の意味合いも含んでいるのだ。  それが、善人を『幻』という得体の知れぬ存在に関わらせてしまったことに対する、『楽園の閻魔』からのせめてものお詫びであった。 「それにしても……」咲夜が神妙に言う。「『能力』を用いれば、すぐに正しい判決を下すことができたはずですが」  彼女が話しているのは、映姫が持つ『白黒はっきりつける程度の能力』のことである。無意識下における分析によって、有罪とすべきか無罪とすべきかを瞬時に、かつ正確に判断できるという、四季映姫の中に生来より存在する、たぐいまれなる驚異の力だった。 「いけません」しかし、映姫は首を左右に振って答える。 「それでは、今回のように、納得のいく結論を導くことはできなかったでしょう」  有罪か、無罪か。  地獄か、冥界か。  二択に限るべきではないことも、時にはある。  それをしっかりと見定めるのは、意識の外側ではたらく 『能力』などではなく、四季映姫という閻魔の確かな思考と、二つの目玉でなければ務まらない。 「ええ……その通りですわ」咲夜は微笑んで、ゆっくりとうなずいた。  例の男は、特例として旧地獄に住むことになったが――昨年の夏に開かれた、彼の娘の裁判にも、特別な措置がとられており、『サクラ』と呼ばれるその少女は、今は冥界にあるお屋敷で暮らしている。以来、かの地で特別な役職に任ぜられ、素晴らしい働きを続けているのである。  娘は冥界、父親は地獄。  正反対ではあるものの――自身が下した決定であるという事実を超越した、死してなお途切れぬ固い絆の存在を感じて映姫は不思議とあたたかい気持ちになるのであった。 「閻魔様は、魂に深い敬意を抱いていらっしゃるのですね」  唐突に、咲夜がそんな感想を述べてきた。 「そうでしょうか?」とぼけたように、映姫はきく。 「いつか死ぬ時がきても、あなたのように誠実な方が裁いて下さるなら安心です」銀髪の少女は、まじめな顔で答えた。「私だけではなく、幻想郷の皆がそう言うでしょう」  面と向かって称賛されると、急に恥ずかしくなってくる。閻魔は照れ隠しに苦笑しながら、小さな口でこう言った。 「それは……各人の行いによりますよ」
判例5
判例5 死ぬ死神      1  ――彼岸花が咲いていた。  ――少なくとも、私は初め、そう思った。  四季映姫・ヤマザナドゥは、『幻想郷』と呼ばれる土地の裁判を務める閻魔である。  具体的には、紺色の制服を身にまとい、緑色の髪の上に立派な冠をいただいている……にもかかわらず、初対面の者に肩書きを紹介しても十中八九信じて頂けないであろう、子供みたいな風貌をしているのが、『楽園の最高裁判長』と称される四季映姫である。そして不本意ながら、この小さい娘こそが、ほかでもない私自身なのであった。  裁判と言っても、基本的には、裁く対象は死者の霊魂に限られる。生前の行いを見極め、地獄へ堕とすか冥界に送るか、という判決を下すのが、閻魔である私の役目だ。  私が行う裁判の対象は、一部の例外を除いて、『幻想郷』と呼ばれる地域の死者に限られる。  担当区分が明確に与えられるようになったのは、今より五百年以上むかしに、十人の閻魔王による指導のもと、全国各地で名を馳せていた地蔵たちが閻魔として採用されて以来のことである。『是非曲直庁』という組織が発足し、閻魔や死神、地獄の鬼たちの統制が図られたのも、それと同時期のことであった。  中でも、私の担当する地域は、際立った特殊性を持つ。増え続ける人間勢力に圧されて力を失いつつあった妖怪たちが、賢者を筆頭に築き上げた箱庭のような世界――それが、妖異の集う土地、『幻想郷』なのである。百年ほど前に大結界が張られ、いわゆる『外の世界』との間に霊力的な壁が完成してからは、それまで以上に出入りが難しくなり、妖怪たちの楽園としての性格をいっそう強めていった。  妖怪、妖精、魔法使い、果てには神様までもが人々のすぐ隣で生活している幻想郷では、『外の世界』の人間たちが信じがたいとするような出来事が、当たり前に起こる。  今年に入ってからも、地底の都市が災厄に見舞われたり、妖怪の山が崩壊しかけたり、空飛ぶ船が墜落しそうになったり、とまあ色々あったが、幻想郷は今日もそれなりに平和である。  閻魔である私は、裁判所――厳密には幻想郷ではない場所に位置している――で働きづめになっているため、そういったお祭り騒ぎのような出来事に直接関わることは滅多にない。寂しく感じる時もあるけれど、『楽園の閻魔』として幻想郷の姿を近くで眺めていられる現状、私はそれでも構わないし、じゅうぶん贅沢しているとさえ思う。  近年の幻想郷では、どれほど派手な事件が起きても、それをきっかけに死者が増えるということが一切ない。そうして伝わってくる平和な世界のありさまは、私が張り切って仕事をするための原動力になっていた。  ……それゆえに。  平和だからといって、呑気になりすぎる部下の怠慢を、私は見過ごすわけにはいかないのである。 「こぉ……まぁ……ちぃ……」  呪詛のようにつぶやいたのは、部下である死神の名だ。  私は今、三途の河辺を歩いている。もう少し、客観的かつ具体的に言うならば――濃い霧が立ち込めるぼんやりとした視界の中で、土手の草を必要以上に強く踏み締めつつ、獲物を狩りに出てきた猛獣のような目をして不出来な部下の姿を捜しているのが、この緑髪の閻魔の現状であった。  それというのも、午後の業務を開始してから、裁くべき霊魂が一人も送られてこなかったせいである。裁く死者がいなければ、仕事にならない。かと言って、彼岸で裁きを待つ死者がすっかりいなくなってしまうことなど、絶対にあり得ない。  そもそも、霊魂を連れてくる役割を担っている者がきちんと職務をまっとうしていれば、裁判の停滞など起こりえぬはずなのだ。そんなわけで、私の直属の部下にして、三途の河の渡し守である死神、小野塚小町に原因があるということは、考えるまでもなく明らかなのであった。 「こぉぉぉ、まぁぁぁ、ちぃぃぃ」  つのる苛立ちとともに、呪詛にも力がこもる。  左手に広がる河は、きわめて緩慢な速度で流れているため、一見すると停止しているように思える。行けども行けども視界に目立った変化は見られなかったが、やがて霧の中から、茶色い小舟のつけられた桟橋が姿を現した。  この辺りで間違いない。捜している相手は背の高い死神なのだが、私は視線をやや下のほうに落としている。小町のことだから、おそらく草の上に身を投げて、堂々と昼寝しているに違いないのだ。  そうして、河沿いから土手に視線を走らせた結果――案の定、遠くの地面に寝転がっている死神の姿を発見した。 「お・の・づ・か・こ・ま・ち……!」  噴火寸前の鐘状火山の面持ちで、私はうなり声を上げた。  不出来な部下を持つと、肉体的にも精神的にも、耐え難い苦労がある。こんなことなら、本庁から私のもとに送られてきた時点で、さっさとクビにしてしまえばよかったのだ……などという愚痴は以前からずっと漏らしていることであったが、さすがに昨日の今日で迷惑こうむるのはまことに許しがたく、首切りを真剣に考慮せざるをえない。  私はのっしのっしと巨人の足取りで一歩ずつ近づいてゆき、沸騰しかけた頭でめまぐるしく思考する。  今までは、このようなことはなかったのだ。  どれほど怠けていようとも、あのマイペースな死神は、半日のうちに最低でも三回は舟を出していた。私が望む仕事量にはちっとも足りていないけれど、それでも、任務はぼちぼち遂行していたはずである。  そのうえ小町は、いちど叱りつければ、一週間はきりきりと働いているのが常であった。しかし、この日にかぎっては、昨日呼び出して説教したばかりであるはずなのに、一日過ぎたらもうこの有り様だった。午前中はまじめに働いていたと思ったのに、投げ出すのが早すぎる。  そこまで考えて――私はふと、違和感を覚えた。  そうだ。いくらなんでも、早すぎる。  小町は懲りない部下ではあるが、多少なりとも自分を戒めようという心持ちはあったはずだ。彼女が懲りないのは、自分本位であるせいではなく、自分のことより他人のことを重視しているためだということも、私はよく知っている。  強烈な違和感が冷水となり、私は怒りをしずめて我に返った。それから、はたと立ち止まる。 「……?」  私は宙を見て、眉をひそめた。苛立ちのままに歩んできたせいで、今の今まで気がつかなかったことだが――辺りの空気に、焚き火の燃えかすのような、何か青白いものが漂っている。霧ではない。死者の霊魂がぼんやりと青白く光るヒトダマの姿をとることはあるが、それだって、もっと大きくてはっきりとした形をしているはずだ。  遅れて、異臭が鼻をついた。魚をさばいたような、生臭いにおいである。私は周囲に漂っている青白い燃えかすこそがにおいの元なのであろうと思い、まとわりつく空気をひらひらと片手で振り払った。 「何ですか、これは……」  顔をしかめながら、私は再び足を動かして、向こうで寝転がっている死神のほうへ歩み寄ろうとした。  しかし、  ――ガチリ。  と、何やら硬いものを踏みつけたらしく、私は足元へ視線を落とす。  そこには、鎌が落ちていた。  長い柄の先に、巨大な三日月形の刃。是非曲直庁に所属している死神ならば、誰もが所有している大鎌だ。  当然、これは強力な武器として機能するものの、魂を刈り取るための道具ではない。これほどまでに大仰なものをたずさえている本当の理由は、三途の河や裁判所を訪れる死者たちに解りやすい印象を与えるための要素として、携帯を義務付けられているせいであった。  これを持ち歩かねばならぬ死神たちは大変なもので、重たそうに背負っている姿だけではなく、部屋への出入りの際に扉に引っ掛けて、迷惑そうにしている場面にも何度か遭遇したことがある。「そうまでしてサービス精神を発揮する意味があるのか」と首をかしげざるをえないが、いかんせん、これが実際に死者たちの好評を博し続けているため、規則どころかもはや伝統として根付いてしまっているのも致し方のないことであった。  ここに落ちているからには、この鎌は小町のものだろう。  そんなことは、すぐに解った。  問題は、もっと別のところにある。  小町は向こうで寝ているのに、どうしてこんなに離れたところに、鎌だけが落ちているのだろうか。  気まぐれに遠投してみたのか、あるいは寝相が悪いあまり、本人が向こうまで転がっていったのか――  そんな楽観的な想像では納得できぬほどの恐怖と焦燥が、私の心を支配していた。  なぜなら、  木製の頑丈な柄も、  その背に漆黒をたたえた刀身も――  ことごとく、紅いのだ。 「血……?」  巨大な三日月形の刃に、乾いた血液が付着していた。  遅れて、生臭いにおいの正体を理解する。  信じがたい。  なぜ、三途の河辺に血が流れているのか。  この大鎌は、間違いなく小町のものであるが、  こびりついている血が、誰のものなのかは、解らない。  解らないのではなく、  解りたくない。  いつしか、呼吸が荒くなっている。  無防備な肺臓に、生臭い空気が流入してくる。  冷静な感覚と、  切迫する思考。  両者にせきたてられるように――私は、駆け出した。  呑気に昼寝をしているはずの、部下のもとへ。  薄明るい濃霧と、青白い燃えかすを掻き分け、  息を乱して、駆け寄ってゆく。  途中で、冠が落下した。  構わずに走る。  走り続けて、  やがて、  その光景が、  目の前に。 「――――」  絶句。  紅。  紅い。  彼岸花が、咲いていた。  少なくとも、私は初め、そう思った。  けれども、違う。  綺麗な花が咲いているのではなく、  鮮やかな紅色の、大量のペンキが、  辺りの地面を塗り潰しているのだ。  真紅に染まった草むらの真ん中で、  紅い服を着た死神が、仰向けに倒れていた。 「こま、ち?」  違う。  紅い服など着ていない。  小野塚小町は、青い服を着ているはずだ。  血が。  血で、染まって。 「小町」  違うのだ。  それに、ない。  右脚と、  左腕が、  綺麗に切断されている。  なければ、おかしい。  だから、小町では、ない。  右脚は、横に落ちているが、  左腕は、どこにもなくて、  だから、そんなはずはない。  紅くて、  紅くて、  けれども、  その顔は、  私のよく知るその顔は―― 「小町っ!」  絶叫。  駆け寄って、抱き上げる。  生温かい感触。  私の腕も、服も、真っ赤に染まる。  切断面と、  腰の辺りから、  血が。  紅い血が、噴き出して。  これは、何だ?  解らない。  解りたくない。  どうして、こんなことに。 「小町! 聞こえますか、小町!」  私は叫び、はたと動きを止める。  身体に負担をかけてはまずい。  心の冷静な部分が、ささやきかける。  ゆっくりと頭を置き、口元と、鼓動を調べる。  ――まだ、息がある。  けれども、このままでは。  血を。  血を止めなくては。 「……ぁ、た」  声。  嗚咽のように、かすかな声。 「小町?」  私は、その顔を見つめた。  かすかに、まぶたが動いている。  次の瞬間、両目の端から、透明なしずくが流れ落ち、 「守れな、がっ、だ……!」  小町の顔面が、苦痛に歪んだ。  いつもの愛嬌ある笑顔が、今は見る影もない。  やがて、そのまぶたは、再びゆっくりと閉じられる。 「小町! 小町っ!」  叫ぶと同時に、私は気付いた。  宙を漂っている青白いものが、  何かの燃えかすなどではなく、  食べかすなのだということに。  それらは――何者かによって喰いちぎられた、死者の霊魂の残滓であった。 「……誰だ」  許せない。  いったい、誰がこんなことを。  小野塚小町。  私の、  私の大切な部下。  ……そうだ。  今は、怒りに打ち震える心を、必死に制する。  死神も、医者に診てもらえるのだろうか。  間に合うとか、間に合わないとか、  そんな想像はしたくない。  名医にはツテがある。  恐らく、閻魔は嫌われているかもしれない。  それでも、助けてほしい。  行かなければ。  治してもらわなければ。  だって、このままでは、  小町が、死んでしまう。  ――ゴトン。  ふと、耳をついた鈍い音。  後ろから、聞こえた。  私は反射的に振り返る。  すると、  背後の地面に、血まみれの腕が一本、落ちていた。 「――――」  切断された、小町の左腕である。  混乱していて気付かなかっただけかもしれないが、ここへ来た時には、腕は落ちていなかったはずだ。  思わず息を詰まらせたが、私はあることに気付き、すぐにその腕の先に注目した。  ――何かを握り締めている。  指の隙間から、細い糸の束がはみ出している。  髪の毛を強引にむしり取ったような印象だが、頭髪にしては、いささか細すぎる。 「これは……」  私は糸の束に目を寄せて、ただちに戦慄を覚えた。  これとまったく同じものを、よく知っているのだ。  衣類の糸ではなく、  髪の毛でもない。  先端に血の付着したそれは――  黄金色の、獣の体毛だった。      2 「高津川美紀子……無罪。冥界行き」  広大な薄青い空間に、私の声は、力なく反響していた。  壇上に置かれた、巨大な石製の椅子。その上に、威風堂々とシャクを掲げる閻魔の姿は、もはや見る影もない。私ほど身長が低ければ、もとより威厳も何もあったものではないのかもしれないが、意気消沈の様相を隠し切れずにいることは、客観的に明らかであった。 「……以上で、午前の業務を、終了します」  小町にあんなことがあったなんて、未だに信じられない。まだ一日しか経っていないのに、私にはそれが、夢の中の出来事か、あるいは遠い昔のことのように思えた。  私には、無意識下において正確な判決を瞬時に導き出すことができるという、生来よりの特別な『能力』がある。 『白黒はっきりつける程度の能力』と呼ばれるこの力があるからこそ、私は茫然とした状態にありながら、通常業務に支障をきたすことなく、こうして昼までの時間をやり過ごすことができたのだ。  とはいえ、私の中にかろうじて残されている冷静な部分が客観視したとおり、癒えることのない精神的な苦痛は、勤務態度にまで露骨にあらわれてしまっているらしい。  身体に見合わぬ巨大な椅子から、飛び下りる。 「痛っ……」  着地に失敗して、足をくじいてしまった。霊力を用いて浮遊すれば安全であるということも忘れ、いつもの手慣れた動作でさえ、失敗してしまう。 「四季さま、大丈夫ですか?」  横合いから心配の声を掛けてくれたのは、書記官を務める死神。『長野』という名の彼女にも、私の心痛は筒抜けであったに違いない。 「ええ……大丈夫です」  私は、溜息のようにかすかな声で返事をした。閻魔である私よりも、書記官の長野さんのほうが、はるかに真剣な心持ちで職務をまっとうしていたはずだ。そう考えると、俄然いたたまれぬ気持ちが強くなった。 「……申し訳御座いません」  私がそう言うと、長野さんは、何を謝られたのか解らなかったのだろう、大いに首を傾けていた。そんな彼女を尻目に、私は椅子の裏側へ回って、扉から廊下へ出て行く。  生きているのが不思議なくらいだ――銀色の髪の医者は、厳しい顔でそう言った。  私の部下の容体は、今も予断を許さぬ状況にある。  小町は、奪い取られた自分の鎌で斬りつけられていたのだ。傷口の形と、大鎌に付着していた血液が、そのことを如実に物語っていた。  切断面が滑らかであったおかげで、左手と右脚を元通りに繋げることには苦労しないそうだが、何よりも、血を流しすぎたことが問題であった。いかに万能な医師であろうとも、流れ出てしまった死神の血液を取り戻すことはできない。  四季映姫が『白黒はっきりつける程度の能力』を先天的に有しているように、小野塚小町は、二点間の『距離を操る程度の能力』を持つ。彼女はその『能力』によって、奪われた武器だけを離れた場所へ移動させていたのだ。だから、鎌だけが、離れたところに落ちていた。  そして、左腕も。  後から様子を見にくる私などに向けて、襲撃者の正体を知らしめるため、証拠をつかみ取って、左腕を頭上へ飛ばした。彼女の『能力』の使用には位置情報をもとにした複雑な座標計算が要求されるが、たとえ霧のかかって見えない上空であろうとも、自分の立ち位置から『高さ』だけを調整して物体を移動させることならば、じゅうぶんに可能である。襲撃者がそれに気付いていたかどうかは解らないが、そいつはおそらく、近づいてくる私の気配を察したか、あるいは残酷な気まぐれで退散したのだろう。  三途の河には、彼岸へ渡ろうとする魂が集う。  小町は、安穏とした河辺に災厄のように訪れた襲撃者の魔手から、彼らを守ろうとしたのだ。  そして――敗北した。  死者の魂が喰われてしまったとすれば、その者はもう二度と、転生することはできない。  地獄行きすら、叶わなくなる。  ――完全なる消滅。  その危険性があるからこそ、ほんの少しであっても、魂に手を加えるような行為が禁じられているのだ。  死に物狂いで戦ったに違いない。  痛い、でも、  苦しい、でも、  助けて、でもなく、  小町は――「守れなかった」と言った。  何という大馬鹿者だろう。  自分は血まみれであったというのに。私の部下は、それでも、喰われてしまった者たちのことを想っていたのだ。  おそらく、直前まで、交戦していたのだろう。  私が、もう少しでも早くおもむいていれば、小町はあのような酷い目に遭わずに済んだかもしれない。  反対に――もっと遅れていたら、と想像する。  全身の血が凍結したような錯覚に襲われ、頭が痛くなる。  ――死神も、死ぬ。  彼岸の土を踏んでしまえば、二度と帰ってくることはできない。  生きているものである限り、それは単純明快な事実だ。  現状においては、魂がかろうじて肉体につなぎとめられていることが、せめてもの救いであった。  けれども、それだって、いつまで持つか解らない。 「う……あ」  最悪の想像に、嗚咽が漏れる。  思考が混濁している。  このように整然とした客観すら、心にぽっかりと開いた空虚な部分が、冷静さを装って迷走しているだけなのかもしれない。  解らない。  解りたくない。  何も想像したくはない―― 「四季様、四季映姫様」  誰かの呼び声を受けて、はっと我に返る。  灰色の廊下を、もう長いこと歩いていたらしい。私は職員用の食堂へ向かっていたはずなのだが、そんなものはとっくに通り過ぎてしまっている。  いつしか目元に浮かんでいた涙を、親指の先でぬぐい去る。それから振り返ると、青色の装束を身にまとった壮年の男が、こちらへ歩み寄ってくるところであった。 「やっとこさ、お会いできましたわぁ」  頬の落ちくぼんだ顔に、人当たりの良さそうな笑みを浮かべながら、私の正面に立つ。その男は、線の細いことに見合わず、身の丈よりも大きな鎌を背負っていた。 「……どちら様ですか?」  私がきくと、男は笑った顔のまま眉根を寄せて、軽い調子で頭を下げてきた。 「こいつは、失敬。へへ、なぁに、怪しいモンじゃありやせん。四季様、そんなに怖い顔しねえでくだせぇ」  言われて、首をかしげる。私は、そんなに怖い顔をしていただろうか。そう思って、客観的に想像してみると、床を見つめたまま茫然と歩き続ける姿は、抜け殻のようで、確かに不気味であったかもしれない。 「川崎徳郎。ご覧の通りの、死神でごぜえやす」  名乗りを受けて、私はもう一度、彼が背負っている大鎌を見た。青色の和服も含めて、間違いなく死神装束である。そもそも、ここは裁判所なのだから、廊下で出くわす可能性のある者は、閻魔か死神か、あるいは裁判を待つあいだに道に迷った霊魂くらいのものだった。  しかし、この男は、初めて見る顔だ。自分の管轄下にある職員であれば、名前と顔の一致せぬ者は一人もいない。どこの所属の者だろう、本庁の伝達係だろうか――などと思考を巡らせて間もなく、川崎と名乗った死神は、また浮き草のような調子で、自己紹介の続きを口にした。 「あたくし、本日より、こちらで船頭をさして頂くことになりやした」  その言葉は、当たり前のように。  硬直。  一瞬、時間が停止して、  頭の中が、真っ白になった。 「えっ……?」  遅れて、疑問の声が、喉元から漏れ出す。  ――この男は、いま何と言ったのだろう。  いや、本当のところは、しっかりと耳に伝わっている。  けれども、単純であるように聞こえたはずの、その言葉の意味が、私にはよく解らなかった。  私の困惑をよそに、痩身の男は話を続ける。 「本庁から、正式に任命されやして。今日は、そのご挨拶にってことで……へへ」川崎は手を揉みながら、にやにや笑いを浮かべて言った。「四季様のお噂は、かねがね聞き及んでおりやす。地獄の拡張案だしたり、新しい制度つくったり、さすが、『楽園の最高裁判長』の名はだてじゃありやせんね。尊敬ですわぁ」 「ちょっと、待って下さい」私は言葉を挟む。 「へえ。……どうかしやしたか?」 「三途の河の船頭ならば、間に合っています」そう言いながら、私は紅い髪の死神の、にへらと笑った顔を思い浮かべていた。「どうして、別の者が送られてくるのですか?」  一時的な代行人ならばともかく、一名のみが正式に就任すべき三途の渡し守をダブらせるとは、本庁はいったい何を考えているのだろう。  無難な想像の反面、私の頭の中では、泥水のように気持ちの悪い感覚が渦巻いている。 「おや。四季様、ご存知ねえんですかい?」川崎は、心底ふしぎそうな顔で、告げた。「小野塚小町は、昨日をもって解任されたんですよ」 「――――」  瞠目。  馬鹿な。  解任?  まさか。  そんなことが。 「なぜです? なぜ、小町が?」  そんな話は聞いていない。  いや、もしかしたら、自失していたせいかもしれない。  今朝の業務報告を、私は虚ろに聞き流していたのだ。  じわじわと、蝕まれるように。  当たり前のものが、奪われてゆくような感覚。 「いやあ。そりゃ、上の決定なんで……あっしに聞かれても、詳しいこたぁ解りやせんが」  川崎はそこで言葉を切って、短い黒髪の頭を掻く。  それから、この痩せぎすの男は、 「だって、使い物にならなくなっちまったんでしょう?」  何食わぬ顔で、そう言った。  気分が悪い。  この男は、何の話をしている?  いったい、何が使い物にならないと言うのだろう。 「それに……」と、川崎は続ける。「小野塚小町といやあ、もともと素行が悪かったそうじゃありやせんか。本庁にいた頃なんか、さんざ褒めちぎられて、ちやほやされてたくせに、昇進はねつけて、こんなヘンピな……いやいや、その、三途の河で舟漕いでるなんて、頭のおかしな奴ですよ、あんな奴ぁね」  目の前で、痩せた男が、べらべらと軽口を叩いている。  無言の私は、どんな顔をしているだろうか。  私の心中は、不思議なくらい冷ややかで。  無表情。  きっと、どんな顔もしていない。 「仕事サボって平気で昼寝する、不真面目な死神だってね、聞こえる話は全部お笑いぐさになっとりますわ。四季様も、ひでえ部下をあてられたもんです」川崎は、わざと渋面をつくって、肩をすくめた。「あっしは、口のねえ死人なんざとくっちゃべって、仕事遅らすようなこたぁしやせんので。だいたい、船頭なんてちょっと身体動かすだけで、だんぜんラクチンな仕事だっちゅーのに、投げ出すほうがおかしいんだよなぁ。あっしはね、四季様のために、きりきり働かせて頂きやすんで、どうかご安心を。へへ」  冷たかった腹の底が、しだいに熱を帯びてくる。  頭の中は、まだ落ち着いている。  けれども、それも時間の問題。  煮えくり返るとは、こういうことだろう。  だって、悔しいのだ。  どうしても、許せない。  小町は、あんなにも傷ついているのに。  あの死神が、こんなことを聞いたら――  きっと、にへらと笑って許すのだろう。  自分のことなんか、二の次にも置いていない。  マイペースゆえに、自己犠牲を惜しまない。  小野塚小町とは、そういう死神だ。  いつも呑気で、優しい死神。  だから、どれほど悪口を言われたって、  彼女はきっと、笑って許すのだ。  ――けれども、私は。 「……あなたに」  私は、そんな死神の上司なのだ。  小野塚小町。  私の大事な部下を、  ごみくずのようにおとしめられて、  黙っていられるはずがない。 「あなたに、小町の何が解るんですか!」  ――パァン。  振りあげた右の手を、止めることはできなかった。  眼前の男の、痩せこけた頬が赤く腫れている。  呆けたように、私の顔を見ている川崎。その横を通り抜け、私は無言で、つかつかと歩み去る。  紅い髪の死神の、やわらかな笑顔が、再び脳裏に浮かぶ。  自分が死にそうになってまで、魂を思いやることのできる、優しい死神。  何よりも、三途の河辺を歩いていた時、「首を切る」などと少しでも考えてしまったことを、私はひどく後悔していた。その瞬間でさえ、小町は孤独に戦っていたというのに。  ――守れなかったのは、私のほうだ。  制服のポケットから、小さな紙包みを取り出す。  薬包紙のような、半透明の薄紙。  そこに包まれているものは――  金色の、獣の毛束である。  死神の左腕が握っていた、襲撃犯の手がかりだ。  小町はその特殊な『能力』を除いても、普段の態度からは想像もつかぬほどに圧倒的な力と頭脳を持っているが、自分の実力を過信して、油断を見せるような者では決してない。そんな死神から武器を奪い、死の淵へと追い込むことができるほどの力を有する者となると、選択肢はしぜんと限られてくる。  紙包みを固く握り締め、灰色の廊下の上を、私は力強い足取りで進んでゆく。  先へ、先へ、ただ黙々と、  出口を目指して、突き進む。  沸騰しきった五臓六腑と、  渦巻く思考に、突き動かされるように。  ――思い知らせてやる。  ――小町の苦しみを、必ず思い知らせてやる。  その時、怒り狂った心の色は、  彼岸花のように、鮮やかな紅だった。      3 「――どういうことかしら」  紫色のドレスを着た女が、忌々しげにきいた。 「ですから、式神を出して下さい」  対する私は、頑として言い張る。  だって、そのために、ここに来たのだ。  妖怪の賢者――八雲紫の住処。  ずっしりと平らに構える荘厳な日本家屋を前に、私は松の木を背にして、金色の髪の美女と対峙していた。  空は明るく、池の水は澄み渡り、庭の草木もみずみずしく生い茂っているが、目に映るものすべてがどこか曖昧で、紙の上ににじんだ絵の具のようにぼんやりとしている。  幻想郷でありながら、幻想郷ではない場所。  家主と従者を除いては、この場所が何処に存在しているのかを知る者はほとんどない。  けれども、私には解る。  私の『能力』があれば、どこに隠れていようとも、境界の向こう側から、賢者たる『すきま妖怪』を引きずり出すことができる。 「断るわ」と、紫は言い捨てた。 「でしたら、それをお断りします」私は言い返す。 「さらに上乗せして、お断りよ」  冗談じみた言葉の応酬であったが、紫の顔には、はっきりと嫌悪の感情が浮かび上がっていた。  それは、こちらとて同じだ。  いや、それどころか、私がにらまれる筋合いは一切ない。 「なぜです」刃物の切っ先を向けるように、私は問う。 「それを、私が聞きたいのよ」対する紫は、苛立たしげに言った。「理由を聞いているのに、ちっとも話が噛み合わない。大体、いきなり押し掛けてきて、その態度では論外ね」 「これでも、譲歩しているのですが」 「何を譲られているのかが、解りません」  にらみ合う。  今の私は、比喩ではなく、火花を散らすことも辞さない。  八雲紫。『幻想郷』という名の楽園をつくり上げ、愛し、守り、支え続ける賢者。  今となっては、妖怪が人間を襲うことも、人間が妖怪を討伐することも少なくなった穏やかな世界の中で、あらゆる者たちから、その功績を称えられるべき存在。  ――そう思っていたのに。 「あなたも共犯ですか?」私は問い詰める。「あなたが、指示したのですか?」  小町の左腕が握っていた、黄金の糸束。  あれは――間違いなく、狐の尻尾の毛であった。  私の知るかぎり、小野塚小町ほどの死神をあれほどまでに追い込むことができる者は、圧倒的な力を有する妖怪の賢者と、その式神くらいしか存在しない。  そう、式神。  八雲紫が使役する、九尾の狐。  私の大切な部下を傷つけた、許しがたい化け狐。  黄金の妖獣の名は――八雲藍。 「あなたが、式神に、命令したのですね」  一言ずつに、強い怒りの念がこもる。  賢者を信じていた、私が愚かだったのだろうか。  幻想郷を愛し、平和な世の中の立役者となったことなど、死神を殺し、死者たちの霊魂をむさぼり喰うための余興にすぎなかったというのだろうか。  理由は知らない。  知りたくもない。  少なくとも、気まぐれで何をしでかすか解らぬような、八雲紫の不気味な一面を私は知っている。  許せない。  苛立たしく、熱い。  煮えくり返った臓腑の熱が、頭の頂点にまで、じわじわと伝導してくる。 「共犯……?」紫は、なおも首をかしげる。「何の話よ」 「とぼけないで頂きたい」 「とぼけてなどいません」紫は侮辱じみた所作で、緩慢にかぶりを振った。「何にしたって、藍は留守だから、あなたに会わせることはできないわね」 「嘘をつくな!」  怒りのあまり、私は叫び声を上げたのだが、 「あなたのその目は、嘘をつくのかしら?」  紫の指摘に、思わず息を詰まらせてしまった。  ――白、と。  無意識下では、確かに、そういう結論が出ている。  私の『白黒はっきるつける程度の能力』が、「八雲紫は嘘をついていない」とささやきかけてくる。  では、式神の勝手な行動だったのだろうか。  だとすれば、紫が嘘をついていないということに、疑う余地はほとんどなくなる。  いや――それでも。  仮に妖狐の独行であったとしても、それはそれで、監督が行き届いていなかったことが紛れもない事実になる。  私の怒りは収まらない。  紫に対する疑念が、完全に晴れたわけでもないのである。  ――『境界を操る程度の能力』。  ありとあらゆる事象の『境界』を操作することができるという、賢者・八雲紫が有する万能な力である。その『能力』の一端として、空間に裂け目をつくり出し、遠隔地へ瞬時に移動することも可能であった。神出鬼没の『すきま妖怪』の異名も、何処に在るとも知れていない曖昧な空間を住処としていることも、その『能力』に由来する。  しかし、私の『白黒はっきりつける程度の能力』の前では、紫の力はまったく意味を成さない。白か、黒か、そのどちらかに決定される私の前では、『境界』の存在は許されないのである。  それゆえに、私の前で嘘をつき通すことは難しい。  だが――問題は、八雲紫の振るう力が、境界の操作に限られないという点にある。 「あなたが心に結界を張って、誤魔化している可能性を、私は否定できません」  結界使い。  霊力による結界の生成は、境界操作と同様に、この妖怪の長技である。その性質の神聖さと、修得難易度の高さゆえに、結界を正式に使用できる者は、ごく僅かしか存在しない。幻想郷に巨大な結界が張られ、『外の世界』との隔絶が図られた際にも、八雲紫は計画の中心に立っていた。  それほどの力を持つ者だからこそ。  境界をいじって、嘘を真に塗り替え、その上に強力な結界を張る――そんなことは、いともたやすくできるはずだ。心を白に見せていること自体が虚偽であり、絶対に見破られぬ自信もある。がそうでなければ、これほどまでに悠然とした態度は取れないはずだ。 「馬鹿なこと言わないでちょうだい」紫は刺々しく言って、抗議の目を向けてくる。「そんな回りくどい仕掛け、準備しておく意味がないわ。……そもそも、この言葉自体、嘘か真か、見抜けないあなたではないでしょう?」  その通りだ。結界を張っていないかどうかを見定めれば、それで済む話である。  けれども――それだって、建前にすぎないかもしれない。 「それに関しても、白ですが」と、私はうなずいたのち、すぐにかぶりを振って否定した。「結界を張っていない、という嘘の上に、さらに結界を張っている可能性が、ある」 「はぁ?」紫は憮然たる面持ちで、息を吐いた。「それじゃあ、嘘に嘘を重ね続けることになるじゃないの。そんな途方もないことをして、私に何の得があるのかしら?」 「それを気まぐれでやってのけるのが、八雲紫でしょう」  挑戦的な言葉を投げつける。  すると、さしもの妖怪の賢者も、憤激をあらわにした。 「いい加減にして下さる?」紫は青筋を立てながら、鼻を鳴らす。「まったく、わけが解らないのよ。なぜ、急に押しかけてきた? うちの藍に何の用? 共犯って何? どうしてここまで疑われなければならないの? きちんと、理由を説明してちょうだい。あなた、閻魔でしょう? それとも、違ったのかしら?」  弾丸のようにまくし立てる紫の態度は、私の目にはひどく傲慢なものであるように映った。  苛立ちをつのらせながら、私は胸ポケットに手を差し入れ、そこから取り出した紙包みを開く。用のなくなった薄紙は、はらりと舞って地面に落ちた。  包みの中から現れたのは、金色の獣の体毛。 「あなたの式神を、裁きに来たのです」私は黄金の毛束を掲げながら、毅然として言い放った。「あなたにも、裁判所まで同行して頂きます」 「何よ、それ……」私が掲げたせりふと証拠品、その両方に対して、紫は疑問の声を上げた。「動物の毛ね?」 「そうです」 「……それが、どうかしたの?」紫は首をかしげる。  この期に及んで、まだ白を切り通すつもりらしい。  ――いいだろう。  妖怪の賢者に対し、私は挑むように、事実を突きつける。 「血まみれになった小町が、握りしめていました」  私の言葉を受けて、案の定、紫は目をみはった。  そう……案の定。  実に、わざとらしい挙動ではないか。 「小町? 死神さん?」信じられない、といったような表情を貼り付けて、紫はきいた。「……怪我をしたの?」  空々しい憂慮の面持ちが、煮えた臓腑をさらに焚きつけてくる。破裂しそうな怒りの感情をどうにか抑えながら、私は首を左右に振った。 「襲われたのです」  すると紫は、またはっとしたような顔をしてから、口元に手をあてて、何やら吟味し始めた。それから、ややあって、「なるほど」と口を開く。 「私たちは、容疑者ということなのね」 「あなたの式神が犯人であることには、間違いありません」容疑者、という言葉を、私は厳しく上塗りするように言った。「この毛が、動かぬ証拠です」 「うちの藍は、むやみに他人を傷つけたりしないわ」紫はかぶりを振って、否定する。 「では、これは何なのですか?」 「解らない」また、否定。 「……嘘だ」 「本当よ」白々しいまでの真顔で、紫は言う。「解らないけれど……少なくとも、あの子の毛ではない、ということになるわね」  難しく考える紫の表情は、嘘つきの仮面にしか見えない。  無意識の『能力』は、白を示している。  けれども、それをあてにすることはできない。  白も、  黒も、  紫色に、塗り替えられて。  何を信じればよいのか、  誰を信じればよいのか、  閻魔のくせして、判らない。  ――小町ならば。  あの死神ならば、何と言うだろう。  呑気に笑って、  真っ白な歯を向けてくる、  紅い髪の、背の高い少女。  小野塚小町は、何と言うだろう。  ねえ、小町。  情けない、閻魔の言葉を聞いて下さい。  私は……どうすればいいと思いますか?  どうか、教えて下さい。  どうか、答えて下さい。  ねえ、小町。  小野塚小町―― 『おそれながら書き付けをもってなんとやら。わたくし、このたび、こちらの部署におきまして、三途の河の船頭に就任することに相成りました者でございますそうろう』  小町。  まったく……何ですか、その文面は。  数字にはめっぽう強いのですから、言葉もしっかり勉強して身につけなさい。 『しきしゃま。おふぁようございまふ』  小町。  おはよう、ではありません。  こんなところで眠っていないで、早く仕事に戻りなさい。 『おおっ! 四季さま、やりましたね!』  小町。  ありがとうございます。  あなたが後押ししてくれなかったら、この制度はずっと蔵に入ったままで、実現することはなかったでしょう。  大いに迷惑かけられたけれど、  それ以上に、素敵なものを与えてくれて。  私の中の小町は、こんなにも、笑っているのに。 「――となら――犯人を――も協力して――」  八雲紫が、何かを語っている。  小野塚小町は、何も語ってくれない。  小町は、嘘をつかないのに。  小町なら、信じられるのに。  だって小町は、  大事な部下で。  そして、何よりも大切な――  私の、  友人だ。 「黙れ!」  怒号。  もう、言い訳は聞きたくない。  欺瞞に満ちた、賢者の言葉など。 「あなたたちのせいで、小町は……!」  怒りの奔流。  全身を震わせて、  全霊を奮わせて、  背後に浮かび上がったのは――卒塔婆の群れ。  墓地に立てられる、先端のとがった長い木片。  それと同じ形をした、無数の凶器。  言葉で解決できぬのならば、  私の力を示すのみ。  いつしか辺りの風景は、曖昧さを忘れ、くっきりと明瞭に浮かび上がっている。  四季映姫は、『境界』の存在を許さない。  相手の『能力』の半分は、使用不可能な状態にある。  紫色の妖怪が、すくみ上がって、こちらを見ていた。  ――これは、罰だ。  私に嘘をついた罰。  そして、  小町を傷つけた罪への報い。  結界を張られたならば、無理やりにでも突き破って、  叩きのめす。  そして、  小町の苦しみを、知らしめてやるのみ。  ここは、私の裁判所。  これは、四季映姫による幻想裁判。  罪人の名は、 「八雲紫」  おびただしい数の卒塔婆が、その先端を、いっせいに、紫色のドレスへと向ける。  許しがたい妖怪を、徹底的に裁くため――私は言い放つ。 「有罪。地獄行き」  宣言と共に、無数の卒塔婆が飛び出して、  槍のような先端が、罪人の身体を――  貫かない。 「え……?」  それどころか、卒塔婆は宙に浮いたまま、まったく動くことはなく――直後、ガラガラと空虚な音を立てて、背後の地面に降り落ちた。  八雲紫が、何かしたのだろうか。  いや……あの女は、何もできずに立ち尽くしていたはずだ。それどころか、紫は私と同様に、戸惑いの表情を浮かべている。  やりきれぬ怒りの念が、思考を混濁させる。  そうして、何が起こったのかという疑問の言葉すら口にできぬまま、私がうろたえていると、  やがて――答えのほうから、舞い降りてきた。 「そこまでだ」  声。  沸き立つ怒りすら底冷えさせるような、低く野太い声。  私のものではなく、  紫のものでもない。  我に返った私の身体は、先ほどのものとはまったく異質な震えを抑えきれずにいた。 「四季映姫。貴様、ここで何をしている?」  その声は、後方の上空から叩きつけるように、私の脳天に降り注いできた。  私はゆっくりと首を回して、背後を見た。  するとそこには、卒塔婆の山は跡形もなく――代わりに、獅子の如くいかめしい風貌を持つ、大男が立っていた。 「あ……あ……」私は巨体を見上げながら、震える声で、つぶやいた。「えん、ま、おう、様」  閻魔王。  是非曲直庁を牛耳る十王の一人にして、その名のとおり、最高の権威を誇る閻魔である。  大昔、一つの霊魂の審判を十王ひとりひとりが順番に行っていた頃から、閻魔王様は絶大な力を示していた。それゆえに、死者の増加によって一審制をとらざるをえなくなった際、十王全員が便宜的に『閻魔王』を名乗るだけで、トップとしての地位を強固なものにすることができたのだ。  一位、二位などといったように、十王のあいだで権威の差別化はなされていないが、その実力と実績をかんがみれば、閻魔王様がもっとも有力な閻魔であることは、たとえ公式的に定められておらずとも明らかな事実であった。  異様なまでに冷静な思考が、私の中にぽつぽつと浮かび上がってくる。けれども、そんなものは急激に冷やされた熱の副産物にすぎず、少しでも気を抜けば、たちまち立っていることすらままならなくなってしまうだろう。 「閻魔王、様」私は緊張にせっつかれるように、口を開く。 「なぜ、ここに?」 「質問をしているのは私だ」低音が、腹の底を揺さぶる。 「貴様は、ここで何をしている?」  その言葉にともない、分厚いくちびるの周りからあごの先にかけて伸びた黒いひげが、厳粛な所作で上下する。  それを見上げていた時、奇妙なまでの安心感と共に、私の心の内側に煮えたぎるような激情がよみがえってきた。 「閻魔王様。私は、この女を。許しがたき罪人を裁かねばなりません」  言いながら、私は風を切るように振り返ると、驚愕の表情を浮かべている紫色のドレス姿の女を指差した。 「ほう」あごひげに手をやりながら、閻魔王様は見当違いな質問を重ねてきた。「どこに罪人が?」  半ば苛立ちながら、私はもう一度、同じことを言った。 「八雲紫。許しがたき罪人です」私は必死に訴える。「この者の式神が、この女が、私の部下を傷つけたのです」  けれども、閻魔王様の巨体は岩のように動かず、氷のような眼光さえ、ただ静かにこちらへ落とされているばかりであった。  やがて、大きな口がゆっくりと開かれ、 「違うな」  と、閻魔王様は一言だけ、重々しく言い放った。  私は自分の耳を疑った。  違う、という言葉をはっきりと認識してからも、それがどういう意味の否定であるのか、すぐには理解することができなかった。  ふつふつと湧き起こる焦燥のままに、私は問う。 「何が、違うのですか?」 「八雲紫は罪人ではない。少なくとも、この場においては」  閻魔王様は、少しも動くことなく、明確な否定の言葉を放った。  解らない。  どうして、閻魔王様まで、この女の肩を持つのだろう。  金色の毛束を掲げながら、私はいま一度、訴える。 「これが証拠です。この女と式神の九尾が共犯して、死者たちの霊魂を喰い荒らしました。私はその許しがたき重罪を裁くために、この場所へおもむいてきたのです」 「その必要はない」閻魔王様は強調するように、否定を重ねた。「八雲の者どもに、裁きの必要はない」 「なぜです」 「罪がないからだ」 「だって、この女は小町を殺そうと――」 「たわけが!」  一喝。  私は思わず身体を跳ね上げ、萎縮した。  言葉が放たれた後になってさえ、張り詰めた空気がびりびりと振動している。  私の訴えは、恐るべき怒声によって遮断され、たちまちに押し潰されてしまった。  なぜ?  ――八雲紫は罪人ではない。  それでは、閻魔王様は――十王にして最高権威の閻魔がなぜ、この地に現れたのか。  閻魔王様の低い声が、決定的な一言を紡ぎだす。 「裁かれるのは貴様だ。四季映姫」  驚愕に目を見開く。  裁かれる?  私が? 「なぜです! なぜ、私が……!」  必死に問いかける。  けれども、閻魔王様はそれには答えない。  代わりに、淡々と、こう言い放った。 「十王の権限をもって、貴様を本庁へ連行する」  そんな……馬鹿な。  あり得ない。  私は、裁く側の者だ。  なぜ、裁かれなければならないのか。  抗議しようとする私の視線に、恐るべき閻魔の瞳がぶつかった。 「問答無用」  それだけで、いかなる意思も挙動も、すべて圧殺された。  心の内側で、何か大きなものが崩れる音がした。  言い知れぬ恐怖に続いて、私の心を虚脱感が支配する。  私が。  私が、裁かれる。  気が付くと――私は右腕を強引に引っ張られており、されるがままのおぼつかぬ足取りで、よたよたと歩んでいた。  抵抗する気力など、もはや露ほどにも湧いてこない。  私はこれから、どうなってしまうのだろう。  呆然とする心の中へ、最後に頭上で交わされた言葉だけが、妙にはっきりと響き渡った。 「不肖の部下が、迷惑を掛けたな」 「娘、ではないのかしら」 「……黙れ」      4  溜息が出るほどに広い、箱形の空間。  形だけなら私の裁判所と同じであるが、その内実はまったく異なっている。  ――紅い。  壁も、床も、天井も、灼熱のように紅いのだ。  曲線と直線が煩雑に入り組んでいるのに、不思議と均整のとれた壁面の幾何学模様。それは、赤や黄色の強烈な色彩とあいまって、どこか燃えさかる炎を思わせた。  是非曲直庁――十王が直轄する、本庁の裁判所。  見慣れた薄青い空間とは、まったく正反対の印象を与えてやまない、広壮たる法廷。その中心にしつらえられた証言台のもとに、私は米粒のようにたたずんでいた。  はるか後方の巨大な鉄扉は、地底の監獄もかくやといった様相を呈している。このいかめしい扉が轟然と音を立てて開け放たれた直後、その向こう側から現れた小さな罪人が、うつむいたままのろのろと法廷の中へ歩んでくる姿は、さぞかし滑稽であったことだろう。  素朴な白のブラウスに、膝丈の黒いスカート。それが、今の私の姿である。紺色の冠も、制服も、今の私が身につけることなど許されるはずがない。  鉄格子のようなU字型の証言台に収まっていると、まるで牢屋に閉じ込められているような気分になったが、貧相な緑髪の娘の姿を客観的に想像してみると、奇妙なことに屈辱よりも寂しさがつのった。  空虚なのだ。  悔しさを感じることさえ、もうできない。  ただただ、目に映る光景を受け入れなければならない。  私は――罪人なのだから。 「四季映姫」  頭上から降り落ちてくる、低い声。  私はゆっくりと頭をもたげて、そちらを見上げる。  煌びやかな黄金の壇の上には、巨大な肘掛け椅子が十脚も並んでおり、壁面と同じ火炎の色彩を放っている。こうした迫力を前にすると、それだけでもう、ただでさえ矮小な私の身体が、今にも床の上に押し潰されてしまいそうになった。  十脚の椅子の、右から五番目に、閻魔王様はずっしりと腰を沈めている。その椅子を除いて、他はすべて空席であったが、紺色の閻魔の姿を掲げる黄金の壇上からは、それだけでも過分なほどの威光が放たれていた。  私が裁いてきた霊魂たちは、こんな光景を眺めていたのだろうか――そんなことを、ぼんやりと考える。……いや、そんなはずはあるまい。緑髪のみすぼらしい娘と、眼前にあふれる威光を同一視してしまうことは、あまりにもおこがましい。 「四季映姫」閻魔王様はもう一度、うなるように言った。 「呼ばれたら、返事をしろ」 「……はい」  虚ろな目を向けて、小さく返事をする。  私の心はどこか夢のようでもあったけれど、ふと指先に触れた鉄格子の冷たさが、逃れようのない現実感を突きつけてきた。 「貴様を告訴した者がいてな」  そんな閻魔王様の言葉にも、私は今さら驚くようなことはなかった。こうして強引に連行されたからには、午後の職務を放棄したことなどよりも、もっと大きな理由があることは理解していたのだ。 「入れ」  短い合図とともに、壇上の右手にあった扉が、ぎいと音を立てて開いた。私が入ってきた扉と似たような形をした鉄扉は、しかしそれよりも一回り小さい。  開いた扉の向こう側から、青い服を着た痩せぎすの男が歩いてきて、巨体の閻魔が腰掛けている椅子の横に立った。 「名乗れ」  閻魔王様がそちらを見もせずに言うと、その男は「へえ」と返事をしてから、白々しく名乗った。 「あたくし、死神の、川崎徳郎と申しやす」  落ちくぼんだ頬を歪めて、にやにや笑いをこちらへ向けている。  その顔を見た途端、死骸のように虚脱していた私の全身に、たちまち熱い血が駆け巡った。  あれは、私の前で、小町を馬鹿にした男だ。 「話せ」  再び、閻魔王様が短く言う。すると川崎は、また深々とうなずいてから、語り始めた。 「ひでえ上司に殴られやして」そう話した川崎の目は、明らかに、私の姿を見下していた。「そこにいる娘は、最低な奴ですよ。あっしはご挨拶にうかがっただけなのに、何が癇に障ったのか知りやせんが、いきなりぶってきやがった」  川崎の言葉に、私は抗議の意思をぶつけた。 「違う!」叫び声は、真紅の広間に、不思議なくらい強く反響した。「そいつは、私の前で、小町のことを――」 「黙れ」  しかし、遮られる。  私の叫びなんかより、ずっと力強い重低音。 「貴様に、発言の許可は与えていない」  閻魔王様が、鋭い眼光をこちらへ向けている。  それだけでもう、次の言葉を出せなくなった。  ――悔しい。  小町を馬鹿にされたのに、何も言い返すことができない。  閻魔の冠を奪い取られてみれば、私はただ情けないばかりの、矮小な緑頭の娘にすぎなかったのだ。 「へ、へへ。罪人はやかましいですなぁ、まったく」やや身を退かせながら、川崎は言った。「四季映姫といやあ、いいところのお嬢さんだって話じゃありやせんか。あっしら死神ですとか、地蔵上がりの閻魔様がたが苦労してる中で、将来有望、出世が確実だからっつって、本庁にいた頃から、さぞかし傲慢に振舞っていやがったんでしょうなぁ。やたら説教くせえ上から目線で、気に入らなけりゃあすぐ暴力。その割に部下のしつけがなってねえのは、きっと人望がねえからでしょうな。あんな幻想郷とかいう、ヘンピなとこに飛ばされたのも納得だぁ。ざまぁねえですわ、へへ」  ――本当に、これでいいのか?  情けない自分を、心の内で何度も問い詰めた。  いつしか、私は、唇を噛み締めていた。  矮小な私だから、つのる激情に嘘をつくことができない。  どんなに小さくて、力がなくたって、納得できないものを「はい」と受け入れるわけにはいかない。  昔から、ずっとそうだった。  たとえ落ちぶれて、情けない罪人になったとしても。  許せないものは、許せない。  けれども、この怒りは、四季映姫を侮辱されたことに対するものではない。  自分の経歴など、いくら馬鹿にされても構わない。  断じて許せぬことが、他にある。  黄金の壇上で、べらべらと語る男の顔は、  小町を罵り、おとしめた時と、まったく同じものだった。 「……閻魔王様。そういうわけですんで、厳しく処分しちまってくだせぇ。あっしに言わせりゃ、こんな奴ぁ、クビですよ、クビ」  にやけ顔の男が、骨ばった腕を首にあてがっている。  その瞬間、私は憤激によって思いが破裂する音を、いま一度、叫び声に変えようとしていた。 「黙れ」  震撼。  矮小な私は、再び押し黙ってしまった。  その言葉は、自分に向けられたものだと思ったから。  私の叫ぼうとしたことが、十王たる閻魔の先見の明によって、すっかり防がれてしまったのだと。  けれども――そうではなかった。  早とちりであったのだということが、すぐに解った。  今までずっと私に向けられていた、閻魔王様の目が――隣に立つ青い服の男を、冷ややかに見下ろしていたからだ。 「え? へ、へえ?」  巨体の閻魔を、細い男はのけぞりながら見上げていた。 「勘違いするな」淡々と言い放つ閻魔王様は、どこか静かな怒りをたたえているように見えた。「耳障りな軽口を叩かせるために、貴様をここへ呼んだのではない」  川崎は、わけがわからぬといったような面持ちで、首をかしげている。腰が引けているのは、間近で恐怖を感じているせいだろう。 「川崎徳郎」閻魔王様が呼ぶと、川崎の身体が硬直した。 「貴様の勤務態度には、目に余るものがあると聞く」 「は……はあ?」困惑の声は、明らかに焦燥感をはらんでいた。「閻魔王様、んなこたぁ、ありやせんぜ。あっしは、業務中に昼寝なんかしねえで、まじめに船頭やっとります」 「まじめ、だと?」その時、閻魔王様の両眼には、これまでにないほど明確な憤怒の色が宿っていた。「貴様は、誰に向かって話している? 口八丁のつもりか?」 「へ……え? いや、そんなつもりじゃ」 「黙れ。その汚い口を閉じろ。私の前で、嘘がまかり通ると思っているのか? 無知蒙昧な若造めが」  閻魔王様は、まくし立てるように続ける。 「死者の霊魂から『渡し賃』を横領し、彼岸へ渡るには足りぬと偽って、河に落とす」 「――――」  川崎は絶句した。  無限の河幅を持つ三途の河。その上を渡る船頭は、生前の行いに応じて顕現する死後の財産を『渡し賃』として受け取ることによって、霊魂を渡す際の彼岸までの『距離』を定めている。よほどの悪人でもなければ、『渡し賃』が足りずに途中で河に落ちるようなことはまずあり得ない。 「舟漕ぎの苦も少なく、さぞかし旨みのある仕事であったろうな。……魂をあざむき、あまつさえ蹴落とすなど、きわめて悪質な侮辱行為である。断じて許せぬ所業」  閻魔王様が拳を握りしめると、にやにや笑いの顔をすっかり青ざめさせた死神は、悲鳴を上げながら腰を抜かした。  善き霊魂から財産を横領し、途中で河に落ちるような『距離』を意図的に設定していたのだとすれば、それはあまりにも残酷かつ卑劣な行為である。  閻魔王様の言葉を聞いているうち、私の中の怒りの感情は、いつしか嫌悪感にすり替わっていた。 「貴様はもうひとつ、勘違いしているようだが」静かな怒りをたたえたまま、閻魔王様は話を続けた。「映姫が幻想郷を担当しているのは、左遷された結果ではない。推薦によるものなのだ」  私は驚いて、思わず肩を跳ね上げる。ここで自分の名が出たことが、少し意外だった。  ――左遷ではなく、推薦。  確かに、閻魔王様のおっしゃる通りだ。  そのことは、私自身がよく知っている。 「なぜだか解るか? 解らぬだろうな。これは、私にも解らぬことだ」閻魔王様は自問自答して首を振ったのち、再び鋭い眼光を宿した。「少なくとも、貴様のそれは一時的であれ左遷も同様だ。……映姫に監督させる手筈だったが」  大罪に値するほどの悪事を繰り返す死神について、十王のあいだで評議が行われていた。それが終わるまでのあいだ、私が監視役を務めることになっていたらしい。  ただ、そのタイミングが悪かったことで、私は大きな誤解を抱いてしまった。少なくとも、心ここに在らずだった私は、朝にそういった旨の報告を受けていたはずなのに、すっかり聞き損じていたのである。 「う……あ……」  壇上では、痩せた男が、未だに立ち上がれずにいる。しりもちをついているせいで顔が見えにくくなってしまったが、川崎が涙目になっているであろうことは、私の位置からでもじゅうぶんに想像できた。 「だいぶ予定が変わってしまったが……」閻魔王様は溜息を吐きながら、細身の男を見据えて言った。「貴様は拘束しておくことにする。できるだけ、波風立てずに処理したかったのだがな」  川崎は呆然とした顔で、その言葉を聞いていた。  そんな男の様子に構うことなく、閻魔王様はおもむろに、肘掛けの先を指で叩く。  すると、それを合図として、先ほど川崎が入ってきた右手の扉が開き、数人の死神が姿を現した。黒衣の集団は閻魔王様に向かって一礼したのち、壇上で崩れている男の細い身体を抱えると、無駄のない動作で引き返して、扉の外へ出て行った。 「これでよい。回りくどいことをする必要もなくなった」  そう言って、巨体の閻魔は――  鋭い視線を、私に向けてくる。 「貴様は、あの場で何をしていた?」  今までのことなど、余興にすぎない。  建前で、連れてこられたわけではないのだ。  冠を脱がされて、無理やりこの場に立たされるだけの、否定できない理由がある。  あの場、というのは、八雲紫の住処のことだ。  怒り狂うあまり、罪なき者を裁こうとした場所。 「貴様の勝手な判断で職務を放棄。あまつさえ、妖怪の賢者にいわれなき罪をかけて脅迫するとは」野太い声が、淡々と事実を述べてゆく。「断じて許せぬ所業。閻魔として、恥ずべき行為である」  八雲紫は――紛れもなく、白だった。  冷静な頭は、今やその事実をしっかりと認識している。  金色の狐の尾がどうであるとか、今はそのようなことを考える時ではない。  ――私が、どれだけの愚行をしでかしたか。  罪なき者を勝手に裁き、罰を与えるなどという行為は、閻魔として絶対にあってはならぬことだ。  有罪か、無罪か。  何よりも、嘘か真かという二択であるならば、閻魔王様の判断にまず間違いはあり得ない。  だって、私以上に、  閻魔王様の前では、嘘をつくことはできないのだから。 「四季映姫、有罪」  その言葉は、いともたやすく放たれた。  途端に、鉄格子の冷たさと、言い知れぬ虚脱感とが舞い戻ってきて、私の心を支配する。 「貴様に裁判を執り行う資格はない」閻魔王様の宣言は続く。「閻魔としての権限をすべて剥奪し、向後われら是非曲直庁に対する、一切の業務上の関与を禁ずる」  重罰。  私は、是非曲直庁の名を汚した。  公正であるべき閻魔の裁判を、汚したのだ。  受け入れなければならない。 「貴様は地獄行きだ」閻魔王様は溜息を吐いて、面倒くさそうに付け加えた。「ただし、処刑は省いてやる。その上で、一定の期間を設ける。最低でも、五十年だな。その間、鬼たちの拷問に耐え抜き、己の愚かしさを改めることだ。そのあかつきには、再び本庁に迎え入れてやらんこともない」  私が与えられたのは、慈悲の言葉だった。  罪人の私にとっては、感謝するのが当然の理である。  ――それなのに。  心の底に存在する、納得のいかぬ思いを否定できない。  空虚だからか。  愚かだからか。  そのいずれも、違っているような気がする。  気付くともう、全身の震えは消え去っていた。  そして――次の瞬間。 「嫌です」  壇上を見上げて、私は言った。  かたくなに。  強い視線で。 「私は、幻想郷から離れたくありません」  なぜだろう。  ――小町に二度と会えなくなるから。  ――私が愛し続けてきた世界だから。  きっと、そうなのだ。今度はそのどちらも正しく、等しいものであるようにさえ思えた。 「貴様……己の立場を理解しているのか?」閻魔王様は青筋を立てて言うと、雷のように怒鳴り散らした。「地獄で頭を冷やせ、この業さらしが!」  それでも、構わない。  今さら、判決がくつがえらぬことなど、解りきっている。  たとえ地獄行きになろうとも、世界を愛する自分の意思を、堂々と掲げて堕ちるのだ。  萎縮することは、もうない。  そうして、私の毅然たる眼差しを受け、閻魔王様が再び怒声を上げようとした時、  ――ゴオオオオオオ。  突如、轟然たる音が鳴り響く。  その音は、私の背後から聞こえてきた。 「……何だ、貴様」閻魔王様の声は、私の頭上を通り過ぎていった。「どうやって侵入した?」  私が振り返ると同時――開いた鉄扉の向こう側から現れた人物は、こちらへ歩み寄りながら、悠然と口を開いた。 「『幻想郷裁判員制度』が適用されました」  紫色のドレスを着た美女は、はっきりとそう言った。  八雲紫。  やがて、隣に並んだ妖怪の賢者の横顔に、私は驚愕の視線を向けた。 「馬鹿者が」閻魔王様は、鼻で笑い飛ばす。「ここは是非曲直庁だ。幻想郷の裁判所ではない」 「私の事情なので、私が決めます」紫は鋭く言い返した。 「被害者である私が、幻想郷の方式にのっとった裁判を希望しているのだけれど」 「だからどうした。十王の許可がない限りは、そのような詭弁はまかり通らぬわ」 「許可なら下りていますわ」  そう言って、紫は一枚の書類を正面に掲げた。横目に見ると、『幻想郷裁判員制度適用申請書』と書かれたその紙には、是非曲直庁公認のあかしである霊力による印が、確かにほどこされている。  その名義は――五道転輪王、と。 「何だと……?」閻魔王様の声が、愕然とした色を浮かべる。「あやつめ、何を考えておるのだ……!」 『幻想郷裁判員制度』。  一般生者から裁判員を選出し、閻魔の裁判に様々な意見を反映させるための制度である。  私が考えた制度だ。  私が、死者たちと幻想郷のために、考えたのだ。  人間の死者に対して人間の裁判員が選ばれ、妖怪の死者に対して妖怪の裁判員が起用されるこの制度において、閻魔である私は、妖怪の一種として定められていた。  その制度の適用を、私の隣で、八雲紫が宣言している。  怒り狂うあまりに誤解をとけず、私が襲いかかろうとさえした、妖怪の賢者その人だ。  最初に私の口をついて出たのは、疑問の言葉であった。 「あなた、どうして」 「『地獄の旅は道連れ』よ」  私の疑問には、その不敵な笑みによって、あっさりと解答が提示されてしまった。  紫は再び、黄金の壇上へと顔を向ける。 「罪人の処置に、異議があります」  その言葉は、どこか懐かしい響きをともなっていた。  閻魔王様は戸惑いの表情を浮かべながら、証言台のもとに立つ二人を交互に見定めている。最後に、紫が掲げていた書類――十番目の十王の印を忌々しげに見つめてから、 「……言ってみよ」  しぶしぶながらも、そう言った。  紫は書類を下ろしてから、堂々たる態度で、異議の内容を口にする。 「四季映姫の権限の剥奪を撤回しなさい」  そうだ、彼女は。  私を、助けに来てくれたのだ。  勝手に疑って、痛みすら与えようとしたのに。 「無理な話だ」閻魔王様は、そう言い捨てた。「私の決定は絶対だ。今さら変更する理由も見当たらない」 「無理なものですか」紫も頑として言い張る。「処罰の大半は、私に迷惑を掛けたことに対するものなのでしょう?」 「そういうことになるが」 「だったら、私が構わないと言えば、その分の罪はなくなるわよね?」 「貴様……」閻魔王様が拳を握りしめる。 「それで、問題はないのね?」紫は挑戦的に言葉尻を上げた。「だったら、私のことは構わなくていいわ。ただのお戯れよ、あんなの。地獄行きも帳消しにしてちょうだい」  黄金の壇上で、閻魔王様が歯ぎしりをしている。それは怒りでも焦りでもなく、悔しさなのだということが、はっきりと判った。そういった印象は、私の隣にいる美女の余裕に満ちた振る舞いによって、いっそう際立ったものになっている。  ほんのお喋り程度に繰り出される、紫色のドレスを着た妖怪の言葉。たったそれだけで、私の地獄行きがくつがえされようとしている。  渦中どころか、中心にいるはずの私は、呆然として二人の様子を眺めていることしかできない。 「だが」と、閻魔王様はかぶりを振る。「職務放棄については、動かしようのない事実だ」  紫に冤罪をかけて攻撃しようとした事実は、和解のような形で解決することができる。  しかし、職務を放棄して裁判所から出て行った事実までもがなくなるわけではない。  これに対する処罰ばかりは、しっかりと受け入れなければなるまい―― 「そんなの、当然じゃない」紫は当たり前のように、そう言った。「だけど、クビにするまでのことでもないでしょう?」  閻魔王様が、唖然とした顔でこちらを見ていた。  是非曲直庁の頂点にして、最も厳格な閻魔。  山のように大きな身体に、ひげをたくわえた厳格な風貌を持つ閻魔王様に、滑稽ともいえるような所作は、絶対にあり得ないものだと思っていた。  優雅に、  悠然と。  妖怪の賢者が、絶対的な決定をくつがえしている。  ――私は、閻魔のままでいられるのだろうか。  ――私は、幻想郷を見つめていていいのだろうか。  私の心に、少しずつ、希望の色が染み込んでくる。 「では、どうする」閻魔王様は、粛然たる面持ちできいた。 「貴様、そこまで言うからには、処罰の代案は考えてあるのだろうな?」  その問いかけに、紫色のドレスを着た美女は、「当然よ」と少しのためらいもなくうなずいた。 「謹慎処分を提案します」 「ほう。……具体的には?」 「場所は自由。自宅にいようが外にいようが、裁判所に来ないかぎりはね」 「何だ、それは。枷がなくてどうする」 「私が監視するわよ。ここまで言ってるんだから、それなりに、責任を押し付けてもらっても構わないわ」 「ふむ」閻魔王様は、あごに手をあてた。「して、期間は」 「謹慎期間は、そうね……」似たようなポーズで思案したのち、紫はこう言った。「最低でも、半年は必要かしら」 「なるほどな……」  そうして考え込んでしまった閻魔王様をよそに、紫は私のほうを向いて、そっと片目をつむった。  ――そうか。  小さな合図を受けて、私は彼女の真意を理解した。  半年間の謹慎処分。  半年間、裁判所への出勤は、許されない。  そのあいだ、私は何をしていればいい?  ……理解した。  理解した途端に、  涙が溢れ出してくる。 「どうして」私は声を詰まらせながら、賢者に問う。「どうして、ここまで、して下さるのですか?」  八雲紫は妖怪だ。  妖怪とは、閻魔を忌避するものである。  それなのに……十王の前に出て行って許可を取得するばかりか、みずから本庁の法廷まで乗り込んできた。  罪人の身に堕ちた、私を助けるために。  ましてや、この私に、言いがかりをつけられた直後であるにもかかわらず。 「すっかり落ちぶれた妖怪身分だけれどね」紫は肩をすくめながら、何でもないことみたいに、こう答えた。「困っている恩人を見捨てるほど、私は腐っちゃいないってこと」  本当は――知っていたけれど、聞いておきたかった。  大昔の話だ。  気まぐれな妖怪のことだし、忘れてもらっても、ちっとも構わなかったのに。……それに、恩というなら、私だって、同じくらい大きなものを頂いている。  私はくしゃくしゃになった顔を見られないように、下を向いて、腕で覆い隠した。そうしなければ、何だか恥ずかしくて、いたたまれなかったのだ。  そんな私の耳元に、紫が右の手のひらを近づけてきた。 「それから、誤解のないように言っておくけどね」彼女は急にひそひそ声になって、付け加えるように言う。「うちの藍は、本当に何もしていないわよ」  ふと、鮮明によみがえる、彼岸花の光景。  大切な人を傷つけた者が、どこかにいる。 「あなたが置いていった獣の毛、よく調べてみたのよ。確かに似ている部分はあったけれど……別物だったわ」紫はそう話してから、「でも」と前置きして、最後にこう言った。 「文字通り、『尻尾』は掴めている。これから、捜していきましょう」  私はうなずいて応え、涙をぬぐい去った。  けれども、またすぐに泣き出してしまう。  牢屋の中に突っ立っているのに、胸の中があたたかくて、とても幸せな気持ちだった。  黄金の壇上で、閻魔王様が思案している。  判決は、じきに下されることになるだろう。  私はきっと、その瞬間まで、涙を流し続けている――      5 「しきさま」  眠たげな顔で、彼女は最初にそうつぶやいた。 「小町」  私は真っ白なベッドにすがりついて、うっすらと目を開けた彼女の顔を覗き込む。 「あはは、四季さまだぁ」仰向けのまま、小町は嬉しそうに笑った。「あたい、とうとう裁判所まで来ちゃったのかぁ」 「馬鹿なこと、言うものではありません」そう言って、私は自分の頭を指差した。「ほら、冠がないでしょう」 「あー、ほんとうだぁ」 「制服も、ありません」今の私は、白いブラウスに、素朴な黒のスカート姿であった。 「どうしたんですかい?」小町がきく。 「謹慎中です」私は正直に答えた。 「四季映姫・ヤマザナドゥが、謹慎ですか。そいつは、おもしろい冗談っすねぇ」小町は楽しそうに言ってから、急にまじめな顔になった。「でも、あたいがきいたのは、そういうことじゃなくて」 「……何ですか?」私は首をかしげる。 「どうして、泣いてるんです?」  私は、はっとして目元をぬぐう。言われるまで、ちっとも気付かなかった。  泣いてしまうのも、仕方ない。  二週間以上も、目を覚まさなかったのだから。  私は今日までずっと、一日の大半をこの病室で過ごしていた。本来ならば仕事詰めであるはずの私が、大怪我を負った大事な部下につきっきりでいられたのは、八雲紫の陰謀によって半年間の『謹慎処分』をくらっているためだ。  そのあいだ、小町の身体に打たれた点滴と、私の流した涙の量を比べても、絶対に負けない自信がある。  けれども……純粋に指摘されると、非常に恥ずかしい。 「うう……」 「おや」すると小町は、きょとんとした顔で、こんなことを言った。「四季さま、ふつうの女の子みたいですね」 「何ですか、それ」私は頬を膨らませながら、からかうように言い返す。「そう言うあなたは、幽霊みたいですよ」  この白い衣装で柳の下に立っているところを想像してみたけれど、小町がにへらと笑っているせいで、ちっとも不気味にはならなかった。 「ほんとに幽霊だったら、どうします?」 「えっ?」唐突に言われ、私は思わず驚きの声を漏らした。 「あっはっは。じょーだんですよ、じょーだん」 「……もう。ばかこまち」 「えへへ、ごめんなさい」枕に頭をうずめたままであったが、小町はまた、楽しそうに笑った。  小野塚小町は生きている。  生きているのが不思議なくらいだ、と言われたほどに予断を許さぬ状況から、切断された腕も脚も元通りになって、にこにこ笑えるまでに回復した。  小町は、まじめな死神だから――きっと、これまで触れ合ってきた霊魂たちから、ほんのわずかに残った生命力を、少しずつ、少しずつ、積み重ねてゆくように、分け与えてもらっていたのだろう。  銀色の髪の医者も、そのようなことを言っていた。  優しき死神に感謝しながら、いくつもの魂が三途の河を渡ってゆく――そんな想像をして、私はじわりと胸が熱くなるのを感じた。 「おや、ほおずき」  小町は顔だけをちょっと横へ向けて、ベッドの脇に置かれた鉢を、面白そうに眺めている。  私がお見舞いに持ってきた茶色い鉢には、風船みたいな紅い実をつけた、立派なほおずきが植わっていた。 「かわいいなぁ」小町は穏やかに笑って、ほおずきの実を見つめていた。「憶えています? あたいが、四季さまのとこに、来たときのこと」 「ええ。それはもう、鮮明に」私はうなずき、苦笑しながら、付け加える。「ひどい文面でした」  それから大いに笑い合って、私たちは、他愛のない思い出話を始める。  だから、私は……ほおずきにこめた願いを語る、大事な機会を逃してしまった。  恥ずかしいので、もう口にはできそうもない。  その代わり――心の中で、お願いすることにします。  花言葉なんて大仰なものは、この場に似つかわしくありませんので、ひとまず忘れることにいたしましょう。  ほんのささやかな、願いなのです。  いちどほおずきの植わった場所で、別のほおずきを育てても、綺麗な実にはなりません。  だからね、小町。  小野塚小町。  死者の魂に敬意を払える、世界でいちばん優しい死神。  最初にほおずきをくれたのは、あなたです。  あなたの代わりは、どこにもいません。  ですから、  これからも、  いつまでも、  ずっと、ずっと――
エピローグ
エピローグ 「罪人の処置に、異議があります」  広大な法廷に、その声は明澄に響き渡った。  転輪王様の大きなお顔が、のぞき込むようにしてこちらへ向いている。あまりの迫力に、ちょっと気を抜くとたちまち尻もちをついてしまいそうな状況であったが、私は震える両脚を必死におさえつけながら、目だけは決してそらすまいと、ぐっと首に力を込めた。 「何と」驚いた調子で言うのに対し、転輪王様の糸のような目は動かなかった。「これは、十王の決定であるぞ?」 「承知の上で御座います」私は粛然とうなずく。「承知の上だからこそ、異議を申し立てているのです」  両脚に力を込める。声が震えていないか、そればかりが心配だった。緊張も恐怖も、絶対に表に出したくはない。  私の言葉を受けて、転輪王様は分厚いくちびるをひとたび固く結んでから、 「申せ」  重々しい声音で、そう言った。  その重みに呼応するかのように、私は深くうなずいた。そうしたのち、はっきりと、腹の底から言い放つ。 「罪人の処刑を撤回して頂きたい」  張りつめた空気に、稲妻が駆け巡った。  転輪王様が、驚愕に目を見開いている。  おそらく、紫色の着物を身にまとった罪人も、驚いた顔でこちらを見上げていることだろう。  しかし、私は下方を見ない。  決して、目をそらさない。 「四季映姫。緑頭の、青臭い娘よ」巨体の閻魔は、渋面を浮かべながら言う。「冠なき身で何を申すか」 「それも、承知の上です」  私は気圧されぬよう、とっさに切り返す。  ――そんなことは、解りきっているのだ。  今の私は、閻魔見習いの身分で、しかも後学のために特別に同席を許されているだけである。本来ならば、この裁判に口出しする権利などあるはずがない。 「八雲紫は死罪。これは大前提につき」長大なシャクで下方の罪人を指し示しながら、転輪王様は言った。「青臭い娘が、十王の決定をくつがえそうとは……まことに愚かであることよ」  愚かだということは、理解している。  自分で自分を、叱りつけてある。  ただ――それで納得できなかったからこそ、たとえ相手が巨大にして偉大な十王の一人であろうとも、小さな私は精一杯の背伸びをしながら、対等な目線で意見をぶつけなければならないのだ。 「たとえ愚かでも、私には納得ができません。……身分の低さは、常々わきまえているつもりです。しかしながら、いかに十王の定めたことであろうとも、この判決ばかりは聞き捨てならないのです」  ――死者の魂を改変し、強制的に元の肉体へ戻す。  妖怪の賢者は、その行為の意味を誰よりも理解しているはずであった。  それなのになぜ、彼女は大罪を犯したのか。  私は、その理由を知っている。  十王だって、知っているはずなのだ。 「なにゆえ」転輪王様は、口の下に手をあてながら、難しい顔で問うてきた。「なにゆえ、お前は異議を申すのか。それは聞いておかねばなるまい」  沈黙。  淡い光が、四角い空間を照らしている。  それでも、厳粛さを黒にたとえて向けられた十王の瞳は、決して明るむことはない。  その巨大な目玉をじっと見つめながら、小さき閻魔は、とみに静寂を打ち破る。 「愛です」私は告げた。「幻想郷を愛するがゆえ」  そう。  これは――誇り高き賢者の、悲しき愛の話。  紫色の服を着た美女の、罪の理由を思い返す。  人の領域へ幾度も入り込み、殺しを繰り返す妖怪がいた。  賢者は憂えていた。妖怪が人間を喰うモノであるのだとしても、無作為に殺りくを行うことは許されない。その行為は、彼女がつくりあげた大切な世界の均衡を乱し、やがては狂おしいまでの崩壊を招くのである。  しかしながら、かの残虐な妖怪は、賢者の実力をもってしても敵わぬほどに、あまりにも強大な力を有していた。  賢者は深い傷を負い、殺りくは繰り返された。たくさんの人が死に、人間と妖怪が共存する世界は、しだいに在るべき安定を崩していった。  賢者には、愛する者がいた。人間の身でありながら、賢者をしのぐ霊力の持ち主。だが、その力量をひけらかすことなく、ただの人間としての立場で賢者と対等に肩を並べ、飾らぬ態度でその心を理解してくれる人であった。  賢者にとって、たった一人の、自分に等しい存在だった。  ある日、悪しき妖怪を退治するため、一人の女性が山に登った。賢者は強く反対したが、手負いで動けぬ身の彼女を残し、その人は、たった一人で妖怪退治におもむいた。  それきりだった。  久遠のような時を待ち続けても、その人は、賢者のもとへ帰ってくることはなかった。  賢者は身体の傷をおして、彼女を捜しに山へ向かった。  そこで見つけたものは――二つ。  一つは、賢者と呼ばれる自分でさえも容易に扱えぬほどに、きわめて高度な封印の術式が使用された痕跡。  そして、もう一つは、  おぞましい姿に変わり果てた、愛する人の肉体だった。  死んでいた。  その人は、賢者の世界を守って死んだのだ。  けれども――それでは、意味がなかった。  後に残ったのは、  悪しき妖怪の消えた日常と、  絶望にも似た空虚な心だった。  賢者が守りたかった、愛すべき世界。 『幻想郷』と呼ばれるその世界には、あの女性の存在が、必要不可欠だったのだ。  そうして彼女は、  時に泣き腫らし、  時に暴れ狂い、  何も見えない自失の果てに、  矛盾した世界と、癒えぬ心をつなぎとめるため――  やがて、大きな過ちを犯してしまったのである。  紫色の賢者が愛した、あの勇敢な女性の名は、 「××××」  私は言い放って、下方へ耳を傾けた。  嗚咽が聞こえてくる。罪人のむせび泣く音だ。  聡明で頼もしく、誇り高き紫色の賢者は、決して命乞いなどしない。  だから――それは、大事な世界と引き換えに、大切な人をうしなった、独りぼっちの女の涙であった。 「その人への愛」今しがた口にしたばかりの女性の名に、私は確然として言葉を継ぐ。「そして、八雲紫が肺肝を砕きながら幻想郷に注いできた無上の愛を、いまいちど汲み取り直し、とくと吟味すべきです」  私が言い終えた頃には、転輪王様は、あっけに取られたような表情をしていた。 「愛などという、はなはだおぼつかぬ概念で、判決を左右しようと……お前は、さように申すのか?」  その問いかけに、私は粛然とうなずいて、答える。 「確かに、大罪人を救済するための論拠としては、ひどく曖昧であるかもしれません」そう言ってから、私はしかし、ゆっくりとかぶりを振る。「ですが……私は、自分に正直でありたい」  不思議と、震えはない。  ――そうだ。  何を震えることがあろうか。  どれほど弱くても、  どれほど小さくても、  得心のいかぬことを、納得できぬと主張する。  今はまだ、見習いだけれど、  私だって、  いっぱしの閻魔なのだから。 「閻魔は、嘘をつかないのです」  今までで最も明瞭な声で、私は言い放った。  ――閻魔は、自分にも嘘をつかない。  当然のことだ。  あたりまえのことが、小さな私には、難しかった。  ただ、それだけの話。  少しの沈黙の後で、私は続けた。 「幻想郷を愛する心など、取るに足らぬとおっしゃるのであれば」私は、転輪王様の座席を指さした。「今後は、その大きな椅子の上に、閻魔の形をしたからくり人形でも置いておけばよいのではありませんか?」  転輪王様の目が、再び大きく見開かれる。  すべて、承知の上。  すべて、覚悟の上。  私はいかなる恐怖も、緊張も、隔たりさえも拭い去り、一人の閻魔として発言したまでだ。  けれども――返ってきたのは、侮辱されたことに対する怒りなどではなく、 「小さき者ゆえ、気づくこともある……か」  どこか溜息にも似た、穏やかなつぶやきであった。  転輪王様は、私の小さな体躯を観察するように、じっと目を向けている。  紫色の着物姿が、視界の端に映った。まだ涙を途切れさせずにいたが、その瞳は壇上の様子をじっと見上げている。  広大な法廷を、いっときの静寂が支配する。それを堂々と打ち破ったのは、転輪王様のおごそかな声だった。 「四季映姫。閻魔王の娘よ」 「――――」  そんなふうに呼ばれるとは思いもしなかったので、私は驚き、息を詰まらせてしまう。慌てて呼吸を整え、できるかぎりのまじめな表情を取り戻してから、私は「はい」という返事をした。  しかし、気を取り直したのもつかの間、その後に続いた転輪王様の言葉は、もっと衝撃的なものであった。 「罪人の処置を、お前に任せる」 「えっ……?」  心臓が跳ね上がり、口から飛び出してしまうかと思った。 「五道転輪王は、罪人・八雲紫の処置を四季映姫の判断に委ねる」十王たる閻魔は、いまいちど、読み上げるように言い直した。 「お待ち下さい」私はやや焦りながら言う。 「どうした」転輪王様は、眉をひそめた。「不安かの」  罪人に判決を下す責任は重い。  ましてや、まれに見る特例。しかも、自分で撤回した死罪である。通常の裁判とは比べものにならぬほどの重責であることには、まず間違いない。  だが、私が懸念したのは、そんなことではなかった。 「いえ、そうではありません。私は、いっこうに構わないのですが……」私は首を左右に振りながら、案ずるところを申し述べた。「しかし、それでは転輪王様の面目が――」 「どうでもよい」  転輪王様の大らかな一言によって、私の言葉はすっかり遮られてしまった。ふと気付くと、巨体の閻魔は、いかめしい顔にうっすらと微笑を浮かべている。  笑みの理由が解らず、不思議でならない。私はいっそう困惑してしまった。 「そう首をひねるでないよ。折れても知らぬぞ?」  戸惑う私を見据えながら、転輪王さまはにこやかにそう言った。これまでの冷たい威厳に満ちた姿は、もしや夢であったのかと疑いたくなるほどであった。  そうして首を曲げる角度がどんどん増してゆくことに気付き、私は慌ててまっすぐに戻す。転輪王様が言葉を続けたのも、それと同時であった。 「閻魔とはかくあるべし。上からものを見るあまり、そのことをつとに忘れていた気がしての」巨体の閻魔は、しみじみとした口調で語る。「未来を担う、志ある者のやりようを見たくなった」  ――小さな私の意見が、大きく反映された。  素直に、嬉しいことであると感じる。  だが今は、そのことに対する喜びよりも、転輪王様の十王としての立場が心配である。私のような青臭い娘に、かようなまでに重大な裁判を委ねてよいものなのだろうか。  ……そんなはずはない。だからこそ、私もへりくだって、初めは立ち上がるのをためらっていたのだ。  議論の結果を無視して、私のような未熟者に判決を委ねたとあれば、転輪王様は間違いなく、他の十王たちに厳しく糾弾されてしまうだろう。  しかし、憂慮する私の視線を受けて、転輪王様はゆったりとした動作でかぶりを振った。 「お前が案ずることではない」 「……ですが、転輪王様」 「なに、判決を委ねたことの責任はわしが負う」寛大な閻魔は、私の言葉をまた遮って、堂々と言った。「酔狂な阿呆と呼ばれても構うまいて。とはいえ……お前の父親には、口うるさく叱りつけられるであろうがなぁ。ほっほっほ」  豪放磊落な笑い声。  転輪王様は、糸のような目をさらに細めて、おもむろにシャクの先を下方へ向ける。  つられてそちらを見ると、まだ目元に涙を浮かべながらも、私以上に戸惑っている罪人の姿があった。  紫色の着物姿。  金色の長い髪に、黒い蝶のかんざし。  幻想郷の賢者――八雲紫。  私は意を決して、転輪王様にうなずきかけると、改めて美しい罪人の姿を見下ろした。  そうして、先ほどとは異なる緊張感をどうにか抑えながら、私はゆっくりと口を開く。 「八雲紫」ひと呼吸したのち、私は読み上げるように言った。「あなたは、一人の人間の魂を書き換え、強制的によみがえらせるという愚行をしでかしました」  いささか滑稽ではあるまいかと、不安であったけれど、それが杞憂であるということに、私はすぐに気付いた。  冠も頂いていない、幼い容姿の閻魔見習いを――しかし紫色の美女は、真剣な面持ちで見上げていたのである。 「はい」  涙の跡を隠さずに、彼女は凛然として声を上げた。  転輪王様に比べれば、威厳も背丈もはるかに小さな私を、自分を裁く者として、しっかりと認めてくれているのだ。  八雲紫の立場は罪人であるが、それでも、有難かった。彼女が向けてくれた敬意によって、私の感じていた負い目が、すっかり取り払われたような気がしたのだ。無論、その態度までをも汲み取って、処罰の内容に反映させるつもりはないし、彼女も私の意向は重々承知しているだろう。  私はいま一度、隣の閻魔に目を向ける。転輪王様は、ちらりと視線をぶつけてから、口の端を上げて、小さくうなずいた。  賢者が成功させたのは、生命の復活のみであった。  その人は、正気を失ったように、どこかへ姿を消した。  心までは、元通りにはできなかったのである。  それならば。 「あなたには、『彼女』を捜し出す義務があります」  紫色の着物を身にまとった艶美な女性を見据えながら、私は告げる。  よみがえったモノの行方は、誰にも解らない。  少なくとも、『彼女』はもう、人間ではない。  今や『彼女』は、妖怪の身で彷徨っている。 「『彼女』を見つけ出しなさい。確保して、閻魔に引き渡すのです」あるいは、と前置きしてから、私は言葉を続ける。 「場合によっては、あなた自身の手で、『彼女』に手を下す」  罪人のまなざしが、驚愕に塗り替えられる。  私は構わずに、言葉を続けた。 「八雲紫。それが、あなたに課せられた使命であり、この四季映姫があなたに与えうる、最も重き罰なのです」  それが、私の最終決定。  死罪を免れる代わりに、賢者の背に負わされるべき罪。  そして同時に、四季映姫という名の閻魔に課せられた、重大な責務であった。  罪人は、再び涙を流して、こちらを見ている。  しかし、かげりはどこにもない。  私が下方に見ていたものは、固い決意の色を明確にたたえた、気概に溢れる賢者のまなざしであった。 「はい」  賢者は突き抜けるような声で返事をしたのち、  にっこりと笑って、こう言った。 「ありがとう……」  涙でぐしゃぐしゃなのに、それは今まで私が見た中で、いちばん綺麗な笑顔だった。  ――幻想郷を、永久に愛し続けなさい。  私が与えた本当の罰は、そういうものだった。  四季映姫の真意を、彼女は理解していたのだろう。  かくして、八雲紫は裁かれた。  この責務は、彼女ひとりの背に負わされるものではない。  自分で唱えた異議の責任は、自分で負わねばならない。  ――だからこそ。  すべてに決着をつけるため、  紫色の賢者と、  緑髪の閻魔は、  必ず『それ』を捜し出さなければならない。  妖怪の名は、『八雲幻』。  賢者の力の一部を宿した、きわめて強大な存在。  それは、すでに命を失って、もうどこにも存在しないはずの、尊い女性の幻だった。      ***  緑髪の閻魔が担った、それが最初の裁判である。  あれから五百年以上の時が経ったが、『幻』の足取りは、未だ掴めていない。  巧妙に姿を隠し続けるその存在に対し、あの気まぐれな賢者は、それでも着実に調査を進めている。ほんのわずかでも手がかりになりそうな情報があれば、日本全国どこへでも、八雲紫はすぐさま飛んでゆく。風に乗って姿を現し、闇に溶け込むように去ってゆく――人々は神出鬼没の美女を畏怖して、『すきま妖怪』と呼ぶようになった。  彼女は私を避けるように行動しているため、周囲からは犬猿の仲であると思われているようだが、好きこのんで閻魔と接触したがる妖怪などいないだろう。  少なくとも、同時に使命を背負った二人。その上、互いに恩義を抱いているのだから、口喧嘩は絶えずとも、忌み嫌う理由などあるはずがないのだ。  私にとっての恩義というのは、閻魔の冠を授かることができた、その過程にある。八雲紫の一件において、思い切った行動を起こしたことが大きなきっかけとなり、私は少しずつ、裁判における権限を得られるようになったのだ。とはいえ、あの件の後すぐに見習い身分から脱したわけではなく、私が正式に閻魔として認められたのは、しっかりと修行を続け、公式的な審査を通過した結果であった。  紺色の冠を頂けるようになった直後、配属される地域、与えられる役職と、それにともなう称号について、転輪王様が、私のために便宜をはかって下さった。「知らぬ土地へ飛ばされるより、お前もそのほうがよかろう」と笑いかけて下さった、転輪王様の優しさを決して忘れるわけにはいかない。  緑の髪に、紺色の制服。  黄金のシャクを手に持ち、  頭上には、荘厳な冠を頂く。  力や権威に頼らず、死者の魂に心より敬意を払いながら、私はこの土地を見据えて、謹直に裁きをつかさどる。  かくして私は、ヤマザナドゥになった。  ヤマは『閻魔』。  ザナドゥは『楽園』。  私にとっては、『幻想郷を愛する閻魔』という意味だ。