サブタレイニアン・バッカーノ!
サブタレイニアン・バッカーノ!
著: 神方山 祈
イラスト: おうぎまこと
初出: 2009/3/8

<あらすじ>

 陽気な黒猫は死体を探し求めて地底を駆け回っていた。
 力強き一本角の鬼は弛みきった地上の世界に苛立ち山に登った。
 忘れっぽい地獄鴉は主人の姿が見当たらないので心配していた。
 物静かな地霊殿の主はその心に大きな秘密を抱えていた。
 病を操る土蜘蛛は自身が慕う鬼が地上へ出て行くところを見ていた。
 嫉妬狂いの橋姫は、そんな土蜘蛛を妬みつつも縦穴を見守っていた。
 そして、山高帽をかぶった少女は何も考えることなくどこかに居た。
 旧都が『紅い悪魔』の災厄に見舞われた時、地上の蛍と兎と狼を巻き込んだ地底の馬鹿騒ぎが盛大に幕を開ける!

後日談&プロローグ
後日談 赤鬼通りの茶屋にて  ん? なんだァ? 見ない顔だな。  地上の人間? そッか、まあゆっくりしていきなよ。  ……ッつっても、今の旧都で落ち着けッてのは難しい話だけどな。ずいぶんと間の悪い時に来ちまッたなァ。  ああ、そうだよ。ご覧の通り、被災したばッかりでね。街道はどこもかしこもボロボロだよ。  どうしてこんなことになったのかッてね、正直、そいつは私が知りたいくらいなんだが……まあ、みんなの話を聞く限り、当時の状況は今より相当ひどかったらしい。  誰もが言うのさ、大嵐でも来たみたいだッてね。地底にはね、季節感とか忘れないように、雨や雪を降らせる係の妖怪がいるんだけどさ、ありゃそんなんじゃないッて言うんだ。  もはや火の嵐だったとか。  そんなモン呼び寄せる奴いねえッて。  いたとしても、私が裁き殺してる。  ……あン? 物騒も何も。  私は、鬼だからな。  そういう意味じゃ、タイミング良かったかもしれんね、お前さん。ちょっと前だったら、もうブン殴ってるトコだよ。地上の人間ッて聞いた時点でね。  冗談じゃないッて?  その通りだ。冗談じゃないのさ。  旧都の秩序を守るッてのもあるが、私は地上の人間が信用できないタチだったんでね。力試しに合格した奴しか、旧都にゃ入れないことにしてたのさ。  でも、それはもうやめたよ。  あのワン公に教えてもらったし、何より『あいつ』に合わせる顔がない。私は最初ッから、心まで鬼になりきれない鬼だったのかもしれないねぇ。  ……おッと、すまんすまん。  とにかく、私は当事者じゃないから、あの事件のことについて聞きたきゃ、他をあたってみるといいよ。  それじゃ、私は用があるからこれで。  ちょっとね、クサイ芝居を観に行くのさ。脚本書いたの、私なんだけどな?  ま、酒の肴くらいにゃなるといいな。  ハッハッハ! 【プロローグ1】 パチュリー・ノーレッジは静かに暮らしたい  灯りひとつ備えられていない、隠された地下通路。  異様なまでに規則的に整列した灰色の石畳が、色濃い暗闇のたたずむ深奥へ向けて途切れることなく連なっている。  その冷たい床の上を、カツ、カツ、という乾いた足音が支配していた。  少女はこの道を歩く時はいつも、今が昼なのか、夜なのか、どうにも判然としなくなる。人がふたりやっと並んで歩けるくらいの窮屈な道幅のせいで、左右の壁が何の前触れもなくズルズルと動き出して、今にも押し潰されてしまいそうな錯覚を受けてしまうのも、仕方のないことであった。  だが、まっすぐに続く先の見えない通路を、この少女は紫色の長い髪を整然と揺らしながら、燭台を掲げて淡々と歩いている。この程度のありきたりな圧迫感には、もう慣れっこなのだ。  正面を見据えると、底なしの闇が口を開けて待ち構えているようで、不気味だった。だが、紫髪の少女は、この通路が底なしの無限回廊などではないということをよく知っている。  狭く薄暗い道をしばらく進んで行くと、やがて紅色の壁にぶち当たる。無論、この少女は、その紅色の壁が単なる行き止まりではなく、とある部屋の入口の扉であるということも知っていた。  真紅の扉は少女が掲げている蝋燭の炎を映し出し、ストロベリーソースみたいに照り輝いている。暗闇の中に唐突に現れた愛嬌のある明るさが、いかにも悪魔の笑い顔のようであり、かえって恐ろしく感じられた。  燭台を持っていないほうの手で、ツヤツヤとした紅色の表面をなぞっていく。やがて錆び付いてくすんだ金色の取っ手を見つけると、そのまま力を籠めて強く押した。体力に自信のない少女にとって、ただでさえ長い通路を歩いてきた後に待っている、この地味な力作業がいつも一苦労であった。  重い音を立てて、ゆっくりと開く紅い扉。その向こう側に本来あるべきものは、煌びやかなシャンデリア、ふかふかのソファに天蓋つきのベッド、大きな熊のぬいぐるみ――道中の暗闇の面影ひとつ感じさせないほどに明るく可愛らしい家具や玩具に満ち溢れた、遊園地みたいにファンシーで、図書館みたいに広大な敷地を持つ子供部屋のはずであった。  だが、たった今、少女の前に現れた部屋の光景は、これまでに歩いてきた地下通路以上に暗澹として、恐るべき様相へと変貌していた。  天井を華々しく飾っていたはずのシャンデリアの群れはことごとく地に落ち、破片が無造作に飛び散っている。そのガラスの破片に混じって、壊れたベッドの内側から露出したバネと羽毛が散乱し、じゅうたんの本来の模様をすっかり隠してしまっていた。目玉の飛び出しているぬいぐるみからは、おぞましさしか感じられず、破かれた腹部からは、詰め物の綿が臓物のように溢れ出していた。  破壊。  その一言だけで説明がつく、単純にして明快、しかし陰鬱な光景。この部屋は、もう一年ものあいだずっと、このように廃れたままの状態になっている。  この惨状をつくり出した犯人は、一年間、その行方をくらましているのだ。  そいつがどこへ消えたのかは明白なのだが、どこに居るのかは知れていない。  部屋の中心を支配している、巨大なバケモノが口を開けているみたいに不気味な大穴が、無邪気に暴れ散らしていった犯人の行き先だけを告げている。  紫色の髪をした少女は、部屋の入口に立ち尽くしていた。いつ見ても、圧倒される光景だ。以前に本で読んだ、ブラックホールという概念を思い出す。目の前にたたずんでいる大穴を何かに喩えるならば、まさしくそれだ。  どこか陰鬱な雰囲気を漂わせるこの少女の懸案事項は、事の発端から一年の時が経過した現在において、未だに解決されていない。  少女は燭台を取り落とさないように気を付けながらも、がっくりと大げさに肩を落とした。彼女はこの一年間、ほとんど毎日、この大穴の開いた地下室を覗きに来ている。しかしながら、ひょっとしたら犯人が現場に戻ってきているかもしれない、という僅かな希望は、ストロベリーソースの扉を開けた先に、ただ子供部屋の廃墟だけが在るのを目に入れた瞬間、それが当たり前の日常であるかのように打ち砕かれてしまったのである。 「……はぁ」  そうして、紫色の髪をした魔女――パチュリー・ノーレッジの深い溜息は、この日もまた、ぽっかりと開いた暗闇の風穴に吸い込まれていった。  彼女が閉じ込めた悪魔の妹は、いつまでたっても帰ってこない。      ***  ガリ、ガリ、ガリ。  ――妬ましい、妬ましい。  夜な夜な響き渡るその陰湿な音と不気味な声は、忌み嫌われた能力ゆえに地上を追われた地底の妖怪たちにとってさえ、すくみ上がるような恐怖を感じさせた。  ガリ、ガリ、ガリ。  ――妬ましい、妬ましい。  ――地上の奴らが妬ましい。  いかなる同胞が恨み節をとなえているのか、という好奇心さえ削いでしまうような恐るべき声の主は、その姿を暗闇に落としながら、ただ緑色の眼だけを光らせて、歌うように、踊るように、禁じられた行為を繰り返す。  ガリ、ガリ、ガリ。  ――妬ましい、妬ましい。  ――地上の奴らが妬ましい。  ――我らの土地こそ荒れ果てた庭。  ――開け放たれた地上こそ温室。  ガリ、ガリ、ガリ、ガリ。  ――ああ、妬ましい、妬ましい。  ――地上を追われた悲しき我ら。  ――温室育ちの地上の妖怪。  ――この差はどうして生まれたものか。  ガリ、ガリ、ガリガリ、ガリガリガリ。  ――妬ましい、妬ましい、ああ、妬ましい、妬ましい。  ガリガリガリガリ。  ――許すものか、許すものか。  ガリガリガリガリガリガリガリガリガリ。  ――必ずや、同じ苦しみを味わわせてやる。  ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ。  ――私の苦しみを苦しみを苦しみを苦しみを必ず必ずうぁああああああああああああああああガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ――  ベコッ。  崩れ落ちる岩盤。  呪われた行為の果てに、扉は開かれた。  そして。 「アハッ」  現れたふたつの紅い瞳は、笑みのかたちに歪んでいた。 「だ……れ?」  緑色の眼をした少女が、凍りついたように息を呑む。  紅い瞳は応えずに、地底の奥へと飛び去った。  かくして、渦巻くような嫉妬心の海から正気を取り戻した呪いの主は、突如として地上から舞い降りてきた紅い悪魔が、ケラケラと無邪気に笑いながら目の前を通り過ぎてゆく姿を――まるで夢のなかの出来事みたいに、ただ呆然と眺めていることしかできなかったのである。  これより一年後、ここは地上と地下を巻き込む大いなる馬鹿騒ぎの震源地となるのだが――そんな想像をはっきりと頭に浮かべていた者は、この時点では一人として存在しなかった。 【プロローグ2】 狼と万能薬  カラカラという透き通った音。せせらぎの音色だ。  透明な川の流れを囲むのは、広大な緑色。単純に緑色と言っても、森の木々の色濃い緑や、地面を覆うように茂っている草の明るい緑、といった風に、一色だけでも豊かな色彩を演出している。  加えて、黄色や白の暖色の花々が、春先の野山をさまざまに彩っていた。せせらぎの音を背景に、小鳥の楽しそうなさえずりもそこかしこから聞こえてくる。  そんな穏やかな風景に反して――実は人々から『妖怪の山』と畏怖を籠めて呼ばれているのが、この山である。  妖怪の山と呼ばれているからには、言うまでもなく妖怪が棲んでいる。そもそも、この幻想郷という世界には、人里以外のたいていの場所ならば、必ずと言っていいほどに妖怪かそれに準ずるものが棲んでいるのだが、この妖怪の山だけは他の土地と比較するとだいぶ格式が異なっている。  天狗と河童――二つの大きな勢力が、共同で管轄している土地なのだ。昔、山には力強き鬼が棲んでいて、すべての勢力の頂点に君臨していたのだが、彼らが幻想郷の表舞台から立ち去ってからは、天狗と河童が協力してこの地を管理するようになった。 「聞いた話だと、外の世界ではサンドイッチを食べながら絵札で遊ぶのが、流行かつ常識らしいッス」 「うーん。それは何か、間違っているような気がするんだけど……」  そんな妖怪の山の一角。川辺の岩に腰掛けて、トランプゲームに興じる影がふたつ。 「えー? 確かに、そう言ってたッスよ。巫女のお姉サン」  真っ白な頭髪が、垂れた犬の耳を形づくっている。首から綿毛のようなアクセサリーを提げている少女は、名を犬走椛という。 「いやあ、サンドイッチを食べる時に、わざわざトランプをする必要はないような気が。そもそも、巫女ってどっちの巫女でしょうか」  薄紫色の長い髪に、兎のような耳。濃紺色のブレザーを着用した、燃えるような真紅の瞳を持つ少女は、名を鈴仙・優曇華院・イナバという。  おかしなことに、現状、白狼天狗と一緒に居るのは、山に棲む仲間の河童ではなく、山から離れた竹林の奥地で暮らしている月の兎なのであった。  ちょっと前までは、奇妙な取り合わせであることを自覚し、会話もぎこちなかった二人であったが、鈴仙がとある仕事の一環として妖怪の山を訪問している事実を考えれば、山の警備を担当している椛と出会うのもいたって自然なことであるし、最近では周囲の者たちが向けてくる好奇の視線も減りつつある。今となっては、二人はすっかり気の合う友人になっていた。 「早苗サンに決まってるじゃないッスか」 「ああ。まあ、そりゃ、そうか……」  鈴仙は、山の神社に仕えている、青い装束の巫女の姿を思い浮かべた。  幻想郷と呼ばれるこの世界は、分厚い結界によって外の世界と遮断されている。しかしながら、一昨年の秋、強力な結界をものともせずに、外の世界の神様が元の住まいの湖ごと移住してくるという大事件が起こった。その神社と湖は、今や妖怪の山のひとつの名所となっており、妖怪たちからもすっかり受け入れられていた。ちょっと立ち寄ると、青い装束の巫女が何かと世話を焼いてくれるため、天狗と河童の格式ばった妖怪社会における癒しの場にもなっている。 「われわれ天狗が『巫女』と言ったら、まず間違いなく早苗サンのことッスよ。だって、紅白のほうは、なんか胡散臭いでしょう」 「まったくですね」鈴仙が仰々しく頷いてみせると、白い兎の耳が大きく揺れた。 「まあ、あのひとも悪い人じゃないってことは知ってるんスけど。私はやっぱり、早苗サンのほうが好きッス。素直でとっても良い子だし。おいしいおむすびも、握ってくれるんス」  山の神社のことが話題に挙がると、椛はいつも、あの穏やかな巫女が時たま差し入れてくれるおむすびの味と、その行為の優しさを強調して語るのであった。 「……と、なると」鈴仙はそう言って、脇に置いてある、竹で編まれたランチボックスを指差した。「私が持ってきたサンドイッチは、紅白の巫女の暇つぶし――すなわち、暇だから白狼天狗をちょっとからかってやろう、という考えに基づくいたずらの情報ではなくて、単純に間違った常識のもとに扱われているだけ、というわけですね」 「はあ。どういう意味ッスか?」 「つまり、早苗さんはドジっ子なんです。情報を間違えて記憶しているんです」 「……なるほど。そいつは納得せざるをえないッス」  サンドイッチを一切れ食べ終えると、椛は鈴仙の掲げている手札からトランプを一枚だけ引き抜いた。「よっしゃ」という掛け声とともに、『3』のカードが二枚、場に露呈される。ダイヤのほうは、たったいま引き抜かれたばかりのカードだった。  二人でババ抜き、というのも、何か間違っているような気がする。  まあ、色々と間違っている部分はあるけれど――こうして世間話なんぞしながら、のんびりと過ごすのは一興、と鈴仙は考えるのであった。  鈴仙は、師匠と呼び慕う薬剤師に命じられて、薬の配達人を任されている。複数の特定の場所に何ヶ月分かをまとめて届けるようにしているので、この仕事は頻繁に行われるようなものではないのだが、そのつど広大な幻想郷を飛び回る必要がある。いつも必ず多めに作ってくるお弁当のサンドイッチを食べている最中は、大切な休息時間であり、わりと孤独な仕事の合間に気の置けない話し相手がいるという現状は、鈴仙にとっての大きな救いであることにほかならないのであった。 「博麗神社が、地震で倒壊しましたね」二人の話題はいつしか、この一年を振り返るものになっていた。「その前に、冥界の桜が咲いたり、チルノが行方不明になったり」 「ああ、あの、氷の妖精ッスか。ありゃ驚きでしたねぇ。文サン、私の手で誰よりも早く一面を飾ってやるんだって、鼻息荒げて記事書いてましたから」  鈴仙はサンドイッチをほおばり、椛の手札を一枚抜き取った。『9』のカードが二枚揃ったので、場に出した。 「色々なことが起こりすぎなんですよ、この一年。こないだなんか、地下から怨霊が湧いてきたばかりだし」 「神社のほうも騒がしかったッスよ。っていうのも、私が侵入者に気付けなかったせいみたいで。早苗サンに迷惑掛けちゃって、申し訳なかったッス。……おっと、『7』が揃いましたよン」  続いて鈴仙は、『8』のカードを揃えた。  それにしても、おかしな話もあるものだ、と鈴仙は思う。犬走椛――千里を見通す眼を持つ白狼天狗の監視をかいくぐって山に侵入できる者など、神様か、あるいは空間を移動できる大妖怪くらいのものである。 「とにかく、侵入者の件は紅白の巫女が解決してくれたみたいッス。それで、ちょっぴり不服だったんでしょうね、早苗サン。だから詳しく教えてくれないんだ、きっと」  気が付くと、鈴仙の手札は二枚になっていた。ジョーカーを回避して、見事にクイーンを揃えると、ダイヤの『A』だけが手元に残った。  しかし、椛は苦い顔をしない。あちらの手元にはババだけが残っているはずなのに、椛は狼狽するどころか、不思議そうにこちらの最後の手札を見つめているのだ。 「あれ……?」  ふと、鈴仙は首を傾げた。そうだ、この状況はおかしい。  ゲームを始める前に、トランプセットの中に二枚含まれているジョーカーを、一枚抜き取ってある。それ以外のカードは、場に出し尽くされ、手元には残らないはずだ。  それなのに、この状況では、相手の最後の手札がジョーカーであると考えると、『A』が一枚だけ宙ぶらりんに残ってしまうではないか。そして、椛の態度を見る限り、あの手札はジョーカーではないような気がする。 「えっと……上がりッス」 「わ、私も……」  案の定、椛がダイヤの『A』を引き取ると、互いの手札がすべて魔法のように消えてしまった。つまり、椛の最後の手札はババではなく、スペードの『A』だったのだ。  慌ててトランプの箱の中身を確認すると、最初から山札に入れなかった予備の白いカードが二枚入っているだけで、抜き取ったジョーカーのほうも見当たらない。 「あっ!」  椛が驚きの声を挙げたので、鈴仙はそちらを見た。ランチボックスを置いた場所の傍らにちょうど岩場の継ぎ目があり、渓谷の模型さながらに深い溝を形作っていた。友人の白狼天狗は、炎の柄のスカートを揺らしながら、その谷間を覗き込んでいる。  鈴仙はその横から、一緒になって岩場の溝を覗き込んでみた。そうして、そこに落ちていたものを見つけた途端、椛と同じように、思わず「あっ」と声を挙げた。  薄暗い谷底に落ち、剣呑な雰囲気で対峙する二人の道化師。  その姿は悪魔のようにも見え、地底にうごめく狂気の前触れを密やかに謳っていた。 【プロローグ3】 蛍はひとり  リグル・ナイトバグは、蛍の妖怪である。  あらゆる蟲を味方に付け、蟲を操る程度の能力を有しているリグルはしかし、実力面から見ても権力面から見ても、自分は幻想郷においてヒエラルキーの高い立場にいるような存在ではない、という自覚を持っている。例えば、もし自分が勧善懲悪の舞台劇の悪役を演ずるならば、ヒーローに最初にやられる雑魚の役割がせいぜいといったところであろう。  リグルが普段から付き合っている連中も、夜雀の妖怪であるとか、氷の妖精であるとか、先述の意味合いで低い立場にいるような者たちが多く、リグル自身を含めて、そういう者たちはえてして外見も幼い。  立場が低いことを自覚しているせいか、仲の良い相手には「僕」という一人称で話すのに対し、目上の者や初対面の者に対しては、敬意をもって「私」と自己紹介する。二本の触覚を生やした青緑色の短い髪に、ドロワーズのようにふくらんだ半ズボンを穿いていることも手伝って、「僕」という一人称がどこか少年じみた印象を与えてしまうのだが、リグルはれっきとした女の子である。  以上のようにさまざまの自己分析からも解るとおり、気の置けない仲間たちよりもはるかに冷静で大人びた思考ができるのがリグル・ナイトバグという少女なのだが、そうであるのにもかかわらず、何かと他人に差をつけて、少しでも上に立とうとするような、恣意的な感情は持ち合わせていない。相手によって話し方を変えるのも、目上の者に媚びるためではなく、そうしたほうが他人と付き合いやすいということを知っているからだ。  そんな、一見冷めているようにも思われがちな蛍の妖怪は――この夜もまた、棲み処にしている森の泉で喉を潤し、一息ついているところであった。 「げほっ……ごほっ」  実際のところ、リグルは一息どころか、何度も息を吐き出していた。無論、苦しげな表情を見れば解ることだが、穏やかに深呼吸しているわけではない。  リグルは数日前から、病を患っていた。病といっても、生死にかかわるような重いものではなく、言うなれば、人間にとっての風邪のような症状のものである。  ――僕は、本当に冷めているな。  もしこれが本当に風邪を引いているのだとしたら、なかなかにクールなジョークだ。リグルは、この場に話し相手がいないことを残念に思った。  泉の水質が変化していると感じ始めたのは、いつからだろうか。あれは確か、昨年の夏頃だったように思う。 「……ああ、そうだ」  幻想郷の大結界を管理する、博麗神社。その社が、局地的な大地震に見舞われ、倒壊するという事件があった。  森の泉の水が濁り始めたのも、ちょうどその頃からだ。あれは不可思議なほどに博麗神社だけを狙ったピンポイントな地震であったが、わずかな余波がこの付近にまで及んでいたとしたら、どうだろう。その影響で、今まで絶妙なバランスを保っていた土台が僅かに崩れて、泉に溶け出した。考えられない話ではない。 「ごほっ……」  とにかく、詳しい原因は解らないが、この一年で棲み処の環境が大きく変化してしまったことは確かだ。水質の変化は、蛍の妖怪に病をもたらした。しかしながら、新しい水場を探すだけの気力もないので、何か良い打開策を思いつくか、病状が落ち着くかするまで、こうして休んでいようと考えたのだ。  どこか遠くのほうから、綺麗な歌声が聞こえてくる。  同じ森に棲む夜雀には、今の姿を見られたくはない。きっと心配してくれるに違いないからだ。咳き込み、苦しんではいるが、べつだん命の危険があるわけでもない。それでもあの歌姫は、病気している親友を過剰に心配してくれるだろう。それが鬱陶しいと感じるわけではないし、むしろ嬉しいと思う気持ちは当然なのだが――介抱してもらって、もしもこの病気をうつしてしまったら、非常に申し訳ない。夜雀の大切な喉を傷付けることにもなりかねない、と懸念する。  夜雀は、ヤツメウナギの屋台の準備をしているのだろう。泉に届いてくるこの美しい歌は、きっと設営がてらの鼻歌に違いない。少なくとも、あの友人がここまでやって来て、今の自分の体たらくを見つけてしまう、ということはまずないと思う。 「ごほっ……げふん!」  ――やはり、しかるべき人物に診てもらうべきだろうか。  妖怪の病気を治すことができる者がいる、というのは、ちょっと聞くときわめて珍しい話に聞こえるのだが、リグルはまさにその人物に心当たりがあった。  しかしながら、リグルは個人的にどうにも薬というやつが苦手で、最初の一歩を踏み切れずにいた。妖怪の病気を治せるというその人物が、彼女にとっての苦手なタイプの相手であるというわけではない。その人の周りには常に薬品のにおいが漂っているので、近寄りがたく、訪問することをためらっていたのだ。  ――薬のにおいを我慢して、病気を診てもらうべきか、否か。  ともすれば、それは人間の子供が注射針を怖がるのと同じことだ。このような課題で真剣に迷っているなんて、自分はまだまだ幼い。蟲を操る蛍の妖怪は、勧善懲悪のヒーローに最初にやっつけられてしまう役どころを、改めて自覚する。  そうして引き続き、果たして今後どうすべきか、ということを逡巡しながら、リグルはふと、星明りに照らされた泉の水面を覗き込んだ。  透き通った水の底で、黒ずんだ土煙が不気味に渦巻いている。  妖しくも神秘的なその光景は、病の苦しみとは別の、異様な胸騒ぎを感じさせた。 【プロローグ4】 そして吸血鬼はいなくなった  花こう岩のレンガを重ねてつくり上げられた、無機質な白色の壁。  スケールの大きさに反して、華やかな装飾の見受けられないドーム状の丸い天井。  ほの明るい朝焼けじみた光の差し込む広大な空間は、教会の礼拝堂のように神聖な雰囲気と、裁判所のように厳粛な雰囲気とを兼ね備えていた。  ホールの入口の扉から真っ直ぐに敷かれた、まだら模様のカーペットの道を辿ったその先――ステンドグラス越しの極彩色の光を浴びて、壇上に悠然と立っている影がひとつ。 「お前たち……心配ないわ……」  薄紫のショートヘアーを無秩序に散らしている少女は、ただでさえ眠たそうな目をさらに細めて、諭すように言った。  少女の半眼が見下ろしているのは、黒と緑の、二つの影。燃えるような赤い髪に黒衣をまとった少女と、漆黒の長髪のてっぺんに緑色のリボンを結んだ少女が、まだら模様のカーペットの上に立ち、光を背にした壇上の影を見上げていた。  壇上の少女のシルエットは、単純な人型と呼ぶには異様な形をしていた。ハート型の髪飾りや、両手の袖につけたアクセサリーから、黄色いチューブが伸びている。それらが空中で絡み合い、ちょうど左胸の部分に向けて集束しているのだ。  その集束点の部分には、心臓のような紅いものが浮かんでいる。ブローチのようにも見えるそれは、単なるファッションの一部などではなく、この少女にとってあまりにも重要な意味を持つ要素なのであった。 「だから……心配は要らないと。そう言っているでしょう……」  まるで誰かと会話しているかのような物言いだが、少女に対面する黒と緑の二つの影は、そのどちらもが、一言たりとも言葉を発してはいない。 「ああ……私の可愛いペットたち。ありがとう……そこまで……心配してくれるのね……。本当に……良い子……」  少女はそう言って、微笑む。穏やかに微笑んでいるというのに、その表情には、乾いた陰鬱さが刻まれている。  薄暗く翳っているが、それでいてすべてを見透かしているかのような――それはまるで、水底からゆらゆらと浮かび上がってくるかのような、どこか掴みがたい雰囲気をまとった不気味な物言い。 「侵入者のことなら……もう……解決した。これが……証拠……」  少女は後ろ手に持っていたものを、前方に向けてゆっくりと掲げた。  紅いぼろきれ。  半眼の少女が握っていた手をパアッと開くと、複数の紅い布がひらひらと宙を舞って、床の上に散り落ちた。 「お前たちが……手を焼いた侵入者。この布切れは……そいつが着ていた……服の残骸よ……」  その衣服はズタズタに引き裂かれ、ほとんど原型を留めてはいなかった。辛うじて、スカートの形が理解できる程度で、上着のほうは再現不能のパズルに成り果てている。 「だから……もう、心配は要らない。お前たちは……気に病まなくていい……あれは……強力な敵だった」  黒と緑の影が、申し訳なさそうに頭を下げた。それを見て、壇上に立つ少女は、謝る必要はない、と優しく呼び掛ける。  やがて半眼の少女は、地面に散った紅い布切れを無造作に踏みつけながら、ゆっくりと壇上から下りてゆく。そうしたのち、立ちすくんでいた二つの影を、そっと両腕のなかに抱き留めるのであった。 「良い子ね……大丈夫……大丈夫だから……」  ここは、地底の深奥にたたずむ館――その名を『地霊殿』。  地獄に差し込む陽光はただの一筋も存在せず、ステンドグラスを通じて館に入り込むのは、燃え盛る灼熱の炎から放たれた豪胆な光のみである。  その光を受けて、半眼の少女が愛する者たちを影のように包み込みながら、乾いた笑みを浮かべていた。 「吸血鬼は……始末しました……」  怨霊が湧き踊り、灼熱に沸くこの土地で、館の主は静かに宣言する。  しかしながら、それは決して物語の終わりなどではなく――これより一年後に巻き起こる巨大な波乱の、ほんの小さな始まりにすぎなかったのである。
第一章
第一章 黒猫の讃歌  ニャア、ニャア。  嵐の中で、黒猫は鳴きました。  ニャア、ニャア。  怪物のように暴れ狂う濁流を見下ろして、黒猫は鳴きました。  哀しい声で、何度も鳴きました。  子供のように、何度も鳴きました。  黒猫には、鳴くことしかできなかったのです。  大切な人がいなくなって、もう二度と優しい言葉を掛けてもらうことはできないのだと理解してからも――ありもしないものを求めて泣き喚く子供のように、ただ鳴き声を上げることしかできなかったのです。  あれからずっと、黒猫は大好きなあの人の姿を捜し求めて、方々を彷徨っています。  そうしていれば、いつか、あの人にめぐり逢えると信じていました。  孤独だった自分に初めて愛情を教えてくれた、大好きなあの人に、また会える日が来るのだと信じていました。  そう、いつか、きっと――      ***  ここは、幻想郷と呼ばれる穏やかな世界の、その裏側。  陽の光の一筋もなく、薄闇ばかりが支配する地下の空間は、かつては死せる罪人たちの魂が、閻魔の手による戒めのために集められる土地であった。  と、過去形で言うのも、世間一般に『地獄』と呼ばれている世界が、やむを得ぬ事情のもとに縮小化を図った際に、切り捨てられて余ってしまった土地が、ちょうどこのエリアなのだ。  地獄から切り離された当初は、取り残された怨霊たちだけが野放図にうごめいているだけの、荒涼とした寂しい土地であった。しかしながら、人間の不逞を見かねて地上を去ったほとんどの鬼たちがこの土地で暮らし、忌み嫌われて居場所をなくした妖怪たちを受け入れていくうち、人口の増加にともなってしかるべき建造物の数も次第に増えてゆき、今ではひとつの都市まで形成するほどに賑やかな場所になっている。  鬼たちと、忌み嫌われた妖怪たちの最後の居場所。それが、明るい幻想郷の地下にぽっかりと広がる、この薄暗い世界の実情なのであった。  さて、『旧地獄』と厳めしい名で呼ばれる、この土地の一角――地上と地下をつなぐ巨大な縦穴の付近に、周囲の薄暗さとは一見してミスマッチであるようにも思える、華奢で可愛らしい少女の影が二つ。 「やあ、お姉さん。お勤めご苦労さまーネ」  手押し車をカタカタと鳴らして歩く、黒衣の少女。  長く伸びた髪は良質のワインみたいに赤く、漆黒のリボンをしっとりと溶け込ませていた。その大きなリボンは、頭の左右に三つ編みを形作るためのものである。そのため、少女が一歩踏み出すたび、二本の長い三つ編みが元気に揺れていた。 「今日は、誰か通りましたのン?」  屈託のない笑顔を振り撒いて駆け回る姿は、無邪気な子猫のようでもある。  否。  その姿が猫のように見える理由は、頭のてっぺんから飛び出た二つの耳を見れば解るとおり――比喩ではなく、彼女が本物の猫であるからにほかならない。  実際のところ、彼女が歩くたびに揺れているのは、赤色の三つ編みだけではない。少女の楽しげな歩みとともに、手押し車に被せた白い布と、柄物の黒いワンピースドレスとともに、二本の尻尾がぴょこんと振れた。  火焔猫燐、というのが、この化け猫の少女の名である。  火焔地獄の跡地に棲む黒猫にはあまりにも相応しいフルネームなのだが、本人はこのカエンビョウという仰々しく長い名字があまり好きではなく、自分のことは誰にでも『お燐』と呼んでもらうように紹介している。 「……いつもの、土蜘蛛と。ええ。それから、もう一人、通った」  自分に言い聞かせるかのような、自信のない口調。お燐の問い掛けに応じたのは、しなやかに波打つ金色の髪をした、緑色の眼を持つ少女だった。  赤丹色のはっぴのような上着を、重ね穿きした青いスカートの内側に入れているという、変わった服装。しかしながら、どこか異国の民族衣装じみたそのスタイルよりも、緑眼の少女の美しい顔立ちから唯一浮いている部位――人間離れした印象を与える、尖った形の両耳のほうが、はるかに目立っていた。 「一人? たった一人で?」お燐は八重歯を見せて驚きながら、尋ねた。「そりゃあ、ひょっとして、紅白の巫女のお姉さんか、白黒の魔法使いのお姉さんかニャ?」  お燐の問い掛けに、緑色の眼をした少女はしかし、黙ったままで首を左右に振った。 「そいつはまた、どんな変わり者だろうネェ……。命知らずの物好きか、はたまた自殺志願者か?」  後者だったら、是非とも自分のところへ来て頂きたいものだと、お燐は思った。  お燐は化け猫であるが、その実、単に齢を積み重ねた猫ではない。人の世には「罪人の亡骸を奪い去り、バラバラに引き裂いてしまう」と言い伝えられ、『火車』と呼ばれている妖怪こそが、彼女の正体なのである。  お燐にとって、死体集めは仕事であり、習性であり、趣味のようなものだ。お燐の本来の仕事は、猫をかぶったような口の上手さと、霊との会話ができるという特性を活かして、灼熱地獄の跡地にわだかまる怨霊たちを管理することである。それゆえに、死体蒐集はあくまで副業のようなものであり、人間たちが言うように、運んできた死体をバラバラに引き裂くかどうかも実際には気分次第であるが、とにかく、お燐は死体を集めるのが好きだった。  死体蒐集という行為の仕事としての主旨は、旧地獄のエネルギー源にもなっている、かつては灼熱地獄と呼ばれていたエリアの火力管理の担当者――彼女にとっては親友とも呼ぶべき人物に、集めた死体を譲渡することにある。すなわち死体集めは、等しく火焔地獄の火力の調整用に放り込む薪集め、という意味合いを兼ねているのだが、そうであってもお燐は、やはり趣味的な意識で楽しく蒐集を行っている場合がほとんどであった。 「……自殺志願者。いえ。違うわ、あんなに豪胆な自殺願望はあり得ない」  緑眼の少女は、そんなお燐の期待を裏切って、首を横に振った。 「なァんだ、そいつはがっかりさネ。あたいの悦びの糧となるであろう、憐れな子羊を歓迎するための準備なら、しっかりとできてるんだけどニャー」  そう言って、お燐は手押し車を覆っている布をポンと軽く叩いてみせる。白い布がグニャリと波打って、中に入っている何かの形を一瞬だけ浮かび上がらせた。まだキャパシティにはじゅうぶんに余裕があるよ、という意味合いの軽快なジェスチャーだったのだが、緑眼の少女は不快そうに顔を歪めて手押し車から目を逸らした。 「……お燐。そうよ。あなたは、勘違いしている」 「うーん?」唐突にも厳しい指摘を受け、お燐は困惑して首を傾げる。「それは、どういうことカナ?」 「……逆。つまり。地上の者が、地下におりて来たわけではないわ。ええ。地下の者が、地上に出ていったのよ」 「ああーそォいうことか。なーるほどネ」  お燐は大げさに手を打ちながら、そういうことならば、最初からそのように説明してくれればいいものを、と思った。  こういう時、お燐はいつも、この少女のことを少しばかり苦手に感じる。  金色の髪に、人間離れの尖った耳。民族衣装のような服を着た緑眼の少女は、自分に言い聞かせるような喋り方にも、自分から会話を切り出すことの少ない消極的な態度にも、どうにも掴みどころというものがない。お燐は、いつも話し相手になっている口を持たない怨霊のほうが、基本的には怨みつらみといったマイナスの感情ばかりではあるが、この少女よりもはるかに自己主張が上手であるように思う。  しかしながら、この緑眼の少女は、とある一つの感情に限り、きわめて強烈な意思表示を行うことで知られている。 「……地上へ。まったく。妬ましいわ……妬ましいかぎりだわ」 「うわ、始まっちゃったヨ」  ふと右腕を口元へ運んだかと思えば、白い腕抜きをギリギリと噛み締めて、何やら負のオーラをまとい始めた。気付けば少女の緑色の瞳は、錯覚や比喩ではなく、ギラギラと不気味な光を放っている。  お燐が本当の意味で苦手だと感じる理由は、緑眼の少女が嫉妬心に駆られた時にこそある。  嫉妬心を操る妖怪――橋姫。それが、水橋パルスィという少女なのだ。 「ああ、妬ましい。明るい地上の光を浴びることができるなんて……」  パルスィは忌み嫌われた妖怪たちの例に漏れず、元々は地上で暮らしていた。旧地獄の住人となった今は、縦穴の番人として、地上と地下の橋渡しの役割を担っている。  実体のない怨霊ばかりがうごめく地下では、何かしら地上とのつながりがある場所のほうが、死体が手に入りやすい。苦手意識があるのにもかかわらず、お燐がパルスィのもとへわざわざ訪問する理由のひとつは、地上から新鮮な死体が落ちてきていないかどうか、その確認をしたい、というものであった。  パルスィと会っている時には、お燐は常に相手の眼に気を付けるようにしている。  橋姫の緑色の眼は、嫉妬の象徴である。その眼の中に煮えたぎるような意思を宿して、他人に嫉妬心を植えつけたり、誰もが元より抱いているその感情を掻き立てたりするのである。  緑色の眼に気を付け、心を強く保ち続けてさえいれば、嫉妬に惑わされることはない――お燐は地底において敬愛し従事している人物からそういう教えを受けていたので、無用心にも橋姫の術中に陥ってしまうようなことは決してなかった。 「まったく、あのひとは……私を置いて、地上に行くなんて。ええ。本当に妬ましい行為だわ」 「ンー? そんなふうにお姉さんを嫉妬させるのは、一体誰なのカナ?」 「そ、それは……」  唐突に緑色の光がしぼんでゆくさまを見て、お燐は、おや、と思った。いつしかパルスィは、厳めしくこちらへ向けていたはずの視線を逸らして下を向き、頬を桃色に染めていた。  その表情を認めた途端に、お燐は納得した。嫉妬心に突き動かされるまま、一見おとなしくも激しい感情の波に揺られて生きている橋姫が、このような女々しい態度を垣間見せる相手は、この地下世界にはたった一人しか存在しない。 「……勇儀さまです。ええ。今日もたくましく、見目麗しくいらっしゃいました」      ***  黒猫が最初にその人と出会ったのは、雨上がりの夜のことでした。  月がよく見えたので、数刻前までのどしゃ降りが嘘のように良く晴れていたことを覚えています。  黒猫は初め、河原のぬかるんだ土の上を、食べ物を探して歩いていました。増水した川の中から魚が打ちあがっていることを期待していたのですが、ぐじゅぐじゅと柔らかく形を変える気持ち悪い土の上を歩けども歩けども、いっこうに収穫はありませんでした。  それもそのはずです。この日の雨脚は稀に見るほどに強かったのですが、この河原は見た目以上にきちんと整備されていて、黒猫が予想していたような川の氾濫はいっさい起こっていなかったのです。  河原に打ちあがった魚を求めて歩くような賢い黒猫が、どうして川の氾濫が起こらないことに気付けなかったのでしょう。  その理由は、黒猫に土地鑑がなかったからにほかなりません。黒猫は生来の賢さゆえに、人間たちからも同じ猫たちからも不気味がられ、どこへ行っても石を投げられるので、根無し草のように棲み処を移しながら暮らすしかありませんでした。そうして訪れた新しい土地で突然の豪雨に見舞われ、飢えをしのぐ術もなく、ただ明日のお天道様を望めることを祈り続けるしかなかったのですから、あるはずのない糧を求めて、この河原を歩き回ってしまうのも、仕方のないことなのです。  叶うはずのない希望を抱いて、報われぬはずの努力を続けた結果、いつしか黒猫は、もうすっかり歩けないほどにくたびれてしまっていました。  自分はもう死んでしまうのだろう、と考えると、怖くて寂しい気持ちになりました。初めこそ、どれだけ努力しても石を投げつけられるだけの人生なのだから、もう終わってしまってもいいか、と考えていましたが、身体が凍えてゆくのを感じるにつれ、寂しい気持ちが膨らんでゆきました。本当は死ぬのが怖くて仕方がなかったのです。  少しだけ欠けた月が、残酷にも優しい光をたたえて、泥まみれになった死にかけの黒猫を見下ろしていました。  黒猫がその人と出会ったのは、そんな絶望的な場面でのことでした。      ***  薄暗い地下の世界にも、灯火を幾つも重ねた明るい場所が存在する。  旧地獄に棲みついた鬼は、忌み嫌われた妖怪たちを受け入れていくうち、特に意識しない間に強大な力を持ってしまった。そのさまを見て、鬼たちの侵攻や、地下に追いやられた妖怪たちからの復讐を危惧した地上の妖怪たちは、地下新都市の成立を認める代わりに、ひとつの条件を提示した。地上の妖怪たちによる今後いっさいの地下世界への立ち入りを禁じ、地底の住人たちが暮らしやすい環境を提供する代わりに、地獄の怨霊を封じる役割を担うよう願い出たのである。  そうして出来たのが、地底随一の大都市――『旧都』と呼ばれるこの場所である。  この地では縁日の屋台通りもさながらに、のれんを掲げた居酒屋から胡散臭い古書店まで、さまざまな店舗が軒を連ね、賑やかな街並みを形成していた。薄暗闇を吹き飛ばす橙色の灯りが群れているさまは、さしずめ夜の温泉街といったところである。実のところ、灼熱地獄の跡地に燃え盛る炎のエネルギーを利用した温泉は、この辺りのいちばんの名物であり、地下世界に棲む妖怪たちの憩いの場となっている。  そこかしこから湯煙が立ち上っているため、全体的に観光地のような色を見せてはいるが、旧地獄にはこの土地のほかには大きな都市が存在しないため、実は中心部の温泉街の周りを囲うようにして、大規模な住宅街が広がっている。それゆえに、都市の中心のエリアでは、観光客向けの土産屋にかぎらず、住人たちに向けたさまざまな商業が発達しており、たいへん華やかな雰囲気を演出しているのである。  常に薄暗い地底にいると、時間の感覚というものを失ってしまいがちだが、現在の時刻は昼前である。どうせずっと薄暗いのだからと言って、元より時間のサイクルなど気にせずに生活している者も多いため、旧都の朝は早く、夜は長い。それゆえに、少なくとも『旧地獄街道』と称されるこの大通りにおいては、昼間からのれんを掲げている居酒屋など当たり前の光景であるし、のべつ幕なしに連なる街灯りが消え、静けさとともにロマンチックな雰囲気を感じさせてくれるような時間も、まったくと言っていいほどに存在しないのである。  さて、二人の少女――お燐とパルスィは、そんな旧都の繁華街を並んで歩いていた。  そうは言っても、会話が明るく盛り上がっている様子はあまりなく、お燐の手押し車の車輪が立てる音だけが、違和感なく街の喧騒に溶け込んでいるくらいだった。とてもではないが、仲良し少女の二人組みが次に入るお店について議論しながら歩いている、といったような楽しげな雰囲気ではない。縦穴付近でひとしきりの会話を終えたのち、お燐が引き返そうとしたところ、パルスィが勝手についてきただけなのだ。  今でこそ二人で並んで歩いてはいるが、旧都に至るまでの道中では、本当に無言で後ろをついてくるばかりであったのだ。元々がおしゃべりな性格であるお燐は、ここにきて気まずい沈黙に耐え切れなくなり、いよいよ意を決して歩調を合わせることにしたのであった。そうして、地上と地下をつなぐ縦穴の番人が、どうして仕事を放棄して自分についてくるのか、と質問したところ、 「……疑問。そう。気になることがある。胸騒ぎがするの」  などと、また掴みどころのないことを言い出したものだから、取り立てて追い返す理由も思い付かず、お燐は深い溜息を吐き出すほかなかった。 「へェ。どういうことさネ。胸騒ぎ?」  お燐は先に縦穴の付近で話したことを思い出しながら、恋わずらいの間違いではないのか、と指摘しようとしたが、あえて口には出さなかった。この堅物の橋姫には冗談が通じない時があるし、そもそも恋わずらいであるのならば、旧都ではなく地上を目指すべきだと考えた。パルスィの好意の対象となっている人物は、いつものように旧都の酒場にはおらず、縦穴を通って地上の世界へと出掛けているのだから。 「……紅い瞳が。そう。紅い悪魔の瞳が、私の懸念」 「紅い、悪魔?」 「……悪魔。ええ。あれは悪魔よ。目が合った途端、私の心は鷲掴みにされて、たちまちに握りつぶされてしまいそうになった。そう。あれは、錯覚ではない。私の心を握りつぶそうと思えば、あのおぞましい紅い瞳には、それが本当に可能であったはず」 「はァ。そいつは大層なこって。あたいは、お姉さんの緑色の眼も、じゅうぶんにおぞましいモンだと思うケド」 「……お燐」パルスィは、切れ長の目をさらに鋭く細めた。「そう。あなた……口は災いのもとよ」 「へい、へい。こちとらいつも言われてることなんで、承知してますヨっと」  緑眼の脅迫を冗談めいた口調で軽く受け流すお燐であったが――その実、心の内では大いに動揺していた。  紅い悪魔。そういうものに、心当たりがあるのだ。 「……悪魔、ネェ」  しかしながら、あの脅威が襲ってきたのは、今から一年も前の出来事である。  それに、黒猫のお燐が敬愛する『主人』は、確かに悪魔を始末したと宣言した。見覚えのある紅い衣服を目の前で散らしてみせてくれたし、死体は灼熱地獄に放り投げて消し炭にしたと言っていた。 「……一年前。そう。私は、紅い悪魔が地底の深奥へ飛び去ってゆくのを見た。ええ。目が合ってしまったんだもの」 「へェ。そりゃ、どんな嫌われ方をした妖怪だろうネ」  お燐は肩をすくめ、呆れた妄言だといわんばかりに大きく息を吐いた。しかしながら、その実、「一年前」という発言が自分の回想と合致していたので、動揺を誤魔化すために大げさな身振りをしているにすぎない。  どうやら目論見どおりに心の動揺は見抜かれなかったようで、お燐の冗談めいた態度に反抗するかのように、パルスィは相手の言葉には応答せず、自身の言葉をとめどなく投げ続けた。 「あの眼は鮮やかな血の色をしていて、とても恐ろしかった。心の底から揺さぶられるような脅威だった……。そう。私の眼をじかに撫で回されるような感覚。そのまま私の両の眼を握りつぶして、魂ごと奪い去られてしまいそうな恐怖。ええ。あの恐怖は、今も私の心の内でわだかまって、不気味にうごめいている。そして今朝方、眼球を握り締められたような、あのおぞましい感覚が、再び全身を貫いたのよ。ええ。その感覚の針は、地底の深奥を指し示していた。だから私は、きっと一年前に見たあの紅い悪魔が、どこかで猛威を振るわんとしているに違いないと考えていたのよ。そう。そこへあなたがやってきた。地底の奥深くに住んでいる、死体蒐集家の黒猫がね。だから、あなたの後をついてゆけば、この胸騒ぎの正体を確認できると思ったの」  そこまで聞き届けた時、お燐は自分がいつの間にか歩みを止め、繁華街の真ん中で棒立ちしていることに気が付いた。顔には苦い表情を浮かべている。 「……あァ、はいはい。素晴らしいまでの独り舞台だったわサ」  パンパンと手を打ち鳴らしながら、その場の空気を打ち破るべく、お燐はわざとらしく軽快にそう言ってみせた。  パルスィが自分についてきた理由は解ったが、橋姫がここまで長々と熱弁する姿は見たことがない。それほどまでに、恐ろしい悪魔の脅威を感じ取り、怯えていたのだろうか。  しかしながら、紅い悪魔が滅びたという宣言を、直接その耳に入れたお燐である。もう存在しないものに対する恐怖心について、消極的な橋姫が仰々しく語ってくれたという事実に、驚きを通り越して、もはや呆れてしまった。 「うーん。あたいについてきても、何も出てこないと思うけどニャー」 「……それは。いいえ。そんなことが言えるはずないわ。私の心が、眼が、そう言っている。そうでなくとも、なぜあなたには、何も出ないと断言できるのかしら?」 「そりゃまァ……何となくですヨ」  余計なことは言わないほうがいい、と思ったので、お燐は嘘をついた。下手に本当の理由を答えて、ますます興味を抱かれても、かえって面倒くさい。あまり部外者を住み家まで連れて行きたくはないのだ。  だが、橋姫は納得しないだろう。案の定、パルスィは口を開き、「理由になっていない」という言葉の形に動かそうとした。  するとお燐は、その言葉を遮るように一歩前に出ると、煌々と光を放って立ち並ぶ屋台のひとつを指差し、いたずらっぽく笑ってみせた。 「そんなことより……お姉さん、地獄焼き食べない?」      ***  その人は、橋の下に住んでいました。  水と食糧を求めて彷徨っているうち、いつしか川に沿って移動する習性を身に付けていた黒猫は、これまでにも、河原の橋の下で雨風をしのいで生活している人間たちを数多く見てきました。そういう者たちは、えてしてみすぼらしい格好をしていて、飢えた黒猫に親近感を抱かせました。  それでも、皆自分が生きることに精一杯で、不気味な黒猫に救いの手を差し伸べてくれた者は、一人としていませんでした。だから、優しい言葉を掛けてくれたのは、その人が初めてでした。  初めて出会った時、黒猫はもう、その人の膝の上にいました。  嵐の去った夜、行き倒れていたところを助けてもらったのだ、という理解を得るためには、少しの時間を要しました。今まで誰かに優しくされてもらったことなど、一度もなかったのですから、仕方ありません。  まぶたを開けて、最初に目のなかに入り込んできたのは、まぶしい朝の日差しでした。その次に、お天道様と同じくらい美しく輝いている、優しい女性の笑顔が映りました。その人は、貧しく、ほとんど古びた布切れのような服を着ていたのですが、それでも黒猫は、美しい人だと感じました。  その人は、驚くほどにどもりの激しい言葉遣いで喋りましたが、最初に見た時に黒猫が想像したとおり、澄みわたる川のせせらぎの音のような声の持ち主でした。嫌われて、疎まれて、時には痛めつけられて――それでも幼い時分より、ずっと橋の下で孤独に生きてきたというその女性から、たぐいまれなる親近感と力強くたくましい美貌を感じえたのは、黒猫にとって至極当然のことでありました。誰の教えを請うことも許されず、自分で言葉を覚え、自分で食べ物を手に入れる術を覚え――自分で生き方を覚えてきた、賢い人でもありました。  どもった口調は、言葉というものをしっかりと学び知ることができなかったがゆえの特徴でありましたが、舌をつっかえさせながらも精一杯の優しい言葉を掛けてくれるその人のことを、黒猫はすぐに大好きになりました。  凛々しい眼差しが綺麗だと言って、黒猫に『凛』という名を与えてくれたのも、その人でした。  その人は、橋の下に木の板を組んでこしらえた家に、黒猫を歓迎してくれました。  その人は、食いつなぐには心もとない僅かな食糧を、笑って分け与えてくれました。  その人は、黒猫がつらくなった時に、さまざまの物語を話し聞かせてくれました。  河原の橋の下に異様なまでに美しい女性が住んでいるというので、人々は宇治橋の伝説をなぞらえ、「橋姫」と侮蔑の意思を籠めた呼称をして、その人のことを忌み嫌っていました。そういう人であったので、皮肉にも、他の女に夫を奪われ、生きながらにして鬼に成り変わったという、嫉妬狂いの橋姫の復讐の物語を、どもりながらではありましたが、そらで語り尽くせるほどには聞き知っていました。  その人は、山に棲む妖怪たちや、『大神さま』の伝承についても、面白おかしく語り聞かせてくれたのですが、その人自身が好んでいたのと同じように、黒猫は橋姫の物語をいちばん気に入っていました。 『嫉妬狂いの鬼に姿を変えてしまった橋姫は、勇ある人間の手によって退治されました』――その人はここまでは寂しそうに語るのですが、成敗された後に橋姫は心を入れ替え、橋の守護神になったという言い伝えもあるのだと、笑って話してくれました。  その人が宇治橋の伝説を語る時には、橋姫が優しき守り神となる最後の場面が、忘れることなく付け加えられました。人を愛する純粋な心が、恐ろしい鬼の姿へと変貌してしまったのは、あまりにも可哀そうなことだ――せめて最後には救われていてほしいと言うのです。  そう言って穏やかに微笑む姿を見て、黒猫は、どうしてこんなに優しい心を持っている人が救われずに、橋の下でみすぼらしい暮らしをし続けなければならないのか、大いに疑問を抱き、とても哀しい気持ちになるのでした。  黒猫は、この人と同じように家を持たない者たちは、異常なまでの縄張り意識と五十歩百歩の差別意識に支配されているような、卑劣で傲慢な連中ばかりであるように思いました。日々の鬱憤を晴らすためだけに、申し訳程度に身に付けた薄いぼろ布を剥ぎ取って、この美しい人に痛ましい暴力をはたらく者もたくさんいました。それでもこの人は、そういった者たちに対して怒りや恨みの感情をいっさい浮かべることはなく、怯えて草の陰から見ていることしかできなかった黒猫を、笑って迎え入れてくれるのでした。  本当に、優しい人でした。  どうして救われないのか、不思議でなりませんでした。  残酷な神を怨みました。  黒猫は、自らの欲求を満たすために他人を虐げるような者たちだけが、みすぼらしい生活に甘んじていればいいのにと、怒りを籠めて思いました。  どうして救いが訪れないのか、苛立ちすら感じながら悲しみました。  あんなに優しくて美しい人には、もっと素敵な暮らしが与えられてしかるべきだ、と強く思いました。  だから黒猫は、その男が橋の下にやって来たとき、いよいよ自分の大好きな人が救われる時が訪れたのだと、大いなる喜びに打ち震えたのでした。      ***  旧都名物『地獄焼き』とは、さまざまな動物の肉と、地底で採れるキノコを合わせて串に刺し、強火で豪快に焼き上げた料理である。灼熱地獄の炎をイメージして『地獄焼き』と呼ばれるようになったそれは、要するにバーベキューのようなものなのだが、時には人間の死体の肉が使われているものがあったり、店舗によってはわざと致死性のない毒キノコが混ざっていたりと、普通の串焼き料理にはあり得ないようないかがわしい要素を多々はらんでいるため、珍味や度胸試しの遊びとして、旧都の代表的な名物となっているのであった。 「お姉さん、あんまり心配性もよくないヨ」  そんな地獄焼きの串を片手に持ち、もう一方の腕で手押し車を押し進めながら、お燐は歌うように言葉を紡いだ。隣を歩くパルスィは、同じく地獄焼きの串を片手に持って、何だかばつが悪そうな顔をしている。パルスィのそれは、気前のいい店主に三本目をサービスしてもらったはずなのに、いつの間にか消えてしまっていたこととは、関係のない表情である。むしろそのことは、お燐のほうが首を傾げて気にしていた。  二人はなおも、旧地獄街道を並んで歩いている。  先ほど露骨に話を遮ってしまったことを申し訳なく思ったので、お燐はつとめて明るく振る舞いながら、あえて話題を引き戻すことにしたのだ。 「紅い悪魔なんてネェ、そんな奴はいないんだヨ。仮にいたとしても、あたいらにとっちゃ、まったく問題にならない話さネ」 「……だから。そう。なぜ、そんなことが言い切れるの?」 「だってサァ。この世界は、こわーい鬼の方々が仕切っているじゃないカ。もしそんな恐ろしい奴がいたとして、何か悪さをはたらいたとするヨ? その途端に、もっと恐ろしい鬼たちが飛んで来て、悪魔だかなんだか知らんケド、そいつはたちまち、紙屑みたいにクシャクシャに丸められちまって、そこいらにポイだわサ」 「……それは、そうだけど。ええ。それでも私は、感じるのよ。確かに、あの時に植えつけられた恐怖と同じ、全身の表面を蟲が這うように怖気が走る感覚を」 「それが杞憂だと言ってるのサ。いくら、四天王の勇儀さまが地上へ出ておられるからと言って、他の鬼たちの実力は信用できないカナ?」  ニヤリと笑ってお燐が言うと、地獄焼きの肉に噛み付こうとしていたパルスィの頬が、瞬く間に紅潮した。 「そ……そんなことは、ないけど」  苦手意識を持ってはいたけれど、お燐はパルスィに対して、露骨な嫌悪の感情を抱いたことは一度もなかった。  お燐はむしろ、この朴訥な橋姫が時おり垣間見せる純粋な乙女の表情が大好きだった。遠い昔にそらんじて聞かされた、宇治の橋姫伝説を想い起こさせる。パルスィの美しい顔立ちが恥じらいに染まるさまは、まさに伝説どおりの優しき守護神の姿であるように思えて、とても嬉しい気持ちになった。  かつてあの人が伝説として語り聞かせてくれた橋姫が、現実に自分の目の前にいる。しかもそれは、単なる嫉妬狂いの鬼などではなく、こうして幸せな表情を浮かべることができる一人の乙女なのだ。そう考えるだけで、お燐はパルスィのことが好きになり、大好きなあの人の気持ちまでもが報われるような気がした。  しかし、そうしてあの人のことを考えていると、思考が暗転してしまうことは、お燐にとっての良くない矛盾点であった。  初めて優しくしてくれた人。  素敵な名前を与えてくれた、大好きな人。  あの人は、どこへ行ってしまったのだろう。  どうしてあの人は、あんな仕打ちを受けなければならなかったのだろう。  ――お凛。  声が聞こえた。  ――お凛。ねえ、お凛。  せせらぎの音のような、透きとおった声。  あの人の声だ。  懐かしい声が、私のことを呼んでいる。  どうして?  帰ってきてくれたの?  今までどこへ行っていたの?  私、ずっと待っていたんだよ。  私、ずっと捜していたんだよ。  ねえ、また橋姫のお話を聞かせてよ。  私の大好きなその声で、素敵な物語を聞かせてよ―― 「――お燐。ねえ、お燐?」 「えっ……?」  顔を上げて、我に返る。  いつしか歩みは止まっており、穏やかな緑色の瞳が、心配そうに覗き込んでいた。 「……? どうしたの、急に」珍しいことに、パルスィは驚きに目を大きく見開いていた。「まあ……あなた、顔色が悪いけれど、大丈夫?」 「あ……いや、うん。ハハ、心配ご無用。ちょっぴり魔が差しただけですのン」 「……本当? その。相当、思い詰めていたようだけれど」 「大丈夫、大丈夫」お燐は猫らしく、両目を糸のように細めて笑った。「ありがとう」  それから、地獄焼きの肉の一切れをうまそうに咥えると、手押し車をカタカタと鳴らしながら、再び旧都の街並みを歩き始めた。  お燐の言葉は、心配してくれたことに対する、純粋な感謝の気持ちの表れであった。  水橋パルスィは、確かに、嫉妬心を掻き立てる妖怪である。だが実際には、地上と地下をつなぐ縦穴の番人――橋渡し役として、通過してゆく者をそっと見守る役目を静かに果たしている。もしも、地下の住人たちに害をなす者と判断したり、反対に、地上に出ていって暴挙をはたらく者であると判断すれば、縦穴の通過を許可せずに容赦なく攻撃することもある。しかし、縦穴を通過することが、その者にとって危険な行為であると判断すれば、親切に警告してくれたりもする。  橋姫のこうした行いは、ちょっと聞くと物騒なものであるように思えてしまうが、根本的には優しく穏やかな心に基づいて行動しているのだということが、誰にだって理解できるはずなのだ。  地上の者たちは、誤解している。  いや、誤解すらしていないかもしれない。  ちゃんと相手の中身を見ようともせず、能力や雰囲気だけを見て一方的に忌み嫌い、本当は優しい心を持つ妖怪たちをも地下へと追いやった。そのような根拠のない断定的な行為は、誤解であるとも言い難い。  お燐もそういった波に押しやられ、地底での生活に甘んじることになった者の一人である。だからこそ、苦手意識を抱いていても憎めず、共感を持ち、地底の奥地に住んでいるのにもかかわらず、わざわざ入口にある縦穴にまで足を運んだりするのだろう。元より橋姫のことを好ましく思う部分も大きいので、お燐は死体蒐集というこの上ない娯楽のために、気まずいのを我慢してまで苦手な相手に会っているというわけでは、決してないのだ。  ――地底の優しき者たちは、もっと救われるべきだ。  それが、お燐が誇らしく抱いている主張である。哀しき橋姫は救われるべきだと、そう語っていたあの人の気持ちは、お燐の心の中に華々しく生き続けているのだ。  ふと横を見ると、パルスィは地獄焼きの肉を咀嚼して、かろうじて微笑みとわかる程度の穏やかな表情を、その美しい顔立ちにほんのりと浮かべているところだった。そんな様子を眺めていると、お燐は、死体を求めて一人でせわしなく駆け巡るだけではなくて、たまにはこうして、旧都の賑やかな街並みを誰かと一緒に歩くというのも、なかなかに乙なものであると思った。  ただ――これ以上は、ついてきて欲しくなかった。  紅い悪魔などという実体のない脅威は、妄言にすぎないだろう。  それは今より一年前に、前代未聞の狂気をもって地霊殿と呼ばれる館を襲った侵入者のことであり、今となってはとうに滅び去った過去の存在にすぎないのだ――そういうことを話すべきか否か。  少しばかり冷めつつある肉の味を噛み締めながら、旧都の街並みはこんなにも明るいというのに、お燐は薄暗闇のような思考に迷っていた。      ***  その男は、ある日突然、橋の下にやって来ました。  左目に眼帯をつけたその男は、橋の下で暮らす薄幸の美女の話を聞き、力になりたいと思ったと話しました。それから、綺麗な服や美味しい食べ物を持って、何度も橋の下を訪れました。  この男も暴力をはたらく者たちと同じなのではないか――他人から優しくされることに慣れていなかったその人は、初めこそ警戒していたようでしたが、その男はとても誠実で、優しく、黒猫が与えてもらったのと同じくらいの愛情を、その人に施してくれました。  そうして密やかな逢瀬が続いたある日、いよいよ心を完全に傾けたその人は、男の申し出を受け入れ、橋の下を離れて共に暮らしてゆくことにしたのです。  その人は、可愛がっていた黒猫を一緒に連れて行こうと考えていました。しかしながら、その考えを知っていた黒猫は、自分のように不気味で人から石を投げられるような存在が、ようやく約束された幸せな暮らしに水を差してしまっては悪いと思い、男がその人を連れてゆくまでわざと身を隠して、孤独な生活に舞い戻ることを選択しました。  黒猫は大好きな人が立ち去った後、申し訳程度に木の板を組み上げただけの質素な家で、ひとりぼっちで暮らしていました。  初めのうちは寂しかったけれど、あの人は橋の下での生活なんかよりも、ずっといい暮らしを約束されたのだと考えると、とても嬉しい気持ちになって、再びおとずれた孤独な世界にも、次第に慣れてゆくことができました。  あの人が近くにいなくても、どこかで幸せそうに笑っている顔を想像するだけで、生きてゆくための力が湧いてきました。  人々から忌み嫌われても、寂しくても、どれだけつらくても、もう決して挫けることはありませんでした。  そう――あの恐るべき嵐の日が訪れるまでは。      ***  地霊殿。  幻想郷の地下世界の深奥に位置するこの館は、地底の最深部にもつながっている。  この辺りまで来ると、もはや旧都の華々しい街灯りの面影はなく、荒野のような道が薄暗闇に淡々と続いているだけであった。地底において最も忌み嫌われた一人の妖怪が、半ば追いやられるような形でこの地に至り、豪奢な外観を備えたお屋敷で暮らしているのみである。三階建ての、相当な規模の敷地を持つ洋館なのだが、周囲に他の建造物が見当たらないせいで、そのたたずまいはかえって寂しく見える。  この近辺はかつて灼熱地獄と呼ばれた場所の跡地であり、もともと閻魔たちがこのエリアを管轄するための施設が建っていた。その特異な能力ゆえに地上においては避けられ、地下においても忌み嫌われてしまった一人の妖怪が、地獄のスリム化に際して閻魔が捨て置いていった灼熱地獄管理施設を住み良いように改造して出来たお屋敷こそが、地霊殿と呼ばれるこの館の実体なのだ。  ツタが伸び放題に外壁に絡み、お化け屋敷のごとく暗澹たる雰囲気を醸し出しているのは、庭師も掃除係も雇うことができない呪われた妖怪が孤独に暮らしているから――というわけではなく、実のところ、単にそれがこのお屋敷の主人の趣味だからである。 「……紅い悪魔は。そう。あの脅威は、必ず我々に災厄をもたらすのよ。このお屋敷の中から、私の魂を握りつぶさんとする悪魔の手が伸びている」  歩き続け、地霊殿の全貌がはっきりと見え始めたところで、パルスィはその手足も、尖った耳も、緑色の瞳も――その声までをも震わせながら、そう言い放った。 「んなワケないでしょうに。紅い悪魔とか言うけどサ、それ、あたいのご主人様が放っている妖気か何かと、勘違いしているだけなんじゃアないのかネェ? 確かに、さとり様はちょっと普通の人には耐え難いオーラ、出してるかもだけどサ。それにしたって大げさだヨ、お姉さん」 「……地霊殿の主」パルスィは首を横に振った。「いえ。違うわ、この感覚はそんなものではない。第一、あなたの主人は紅い色をしているのかしら?」 「まァ、そう言われてみれば、そういうわけじゃないンだケド……あァ、でも」  お燐は、主人の忌み嫌われた能力の根源――その『眼』が紅い色をしていることを思い出し、それこそがパルスィの感じている得体の知れない恐怖の原因ではないかと問うてみた。  先の事件の解決後に、地上を訪問する機会が何度かあったのだが、一度だけ、主人が同伴したことがあった。その途中で縦穴の地点を通過した際、パルスィはお燐の主人と顔を合わせている。そうでなくとも、もうだいぶ前のことになるが、同じ旧地獄の要所の管理者として、橋姫が地霊殿に招かれたこともある。  あの恐るべき『眼』は、慣れない者に巨大な恐怖心を植え付けてしまってもおかしくはない。地霊殿の主は、それゆえに、この深奥の地でひっそりと生きてゆかざるをえなくなってしまったのだから。  しかしながら、お燐の問いかけは、あっさりと否定されてしまった。 「……私は。そう。確かに、地霊殿の主のことを知っているけれど、この感覚の原因は、あの人の能力とはまったく異質だわ。ええ。確かに、私は紅い眼を見た。暗闇の中で狂気に踊るような、恐ろしいまでに鮮やかな紅い色をした『二つの』眼をね」  そう言われ、お燐は敬愛する主人の顔を思い浮かべた。そうして、気だるげに半分だけ開いた二つの紫色の瞳を思い出し、そういうことならば違うと納得してしまった。 「……苦しい。そう。胸が苦しいのよ。締め付けられるように」 「うーん。そいつは、恋わずらいじゃないのカナ?」  お燐は、先ほど言わなかったことを今になって指摘してみた。  しかしながら、パルスィは首を横に振って応える。それはそうだろう。橋姫の想い人は別にいるのだし、恋わずらいであるはずもないと、お燐は質問した後で気が付いた。嫉妬狂いの妖怪が、自ら浮気性になるとも考えにくい。 「それじゃあ、きっと病気だヨ。あの土蜘蛛から、変な病気でも貰っちまったに違いないサ」お燐はそう言った後、相手の反応を待つことなく前を向いて断言した。「とにかく、ウチには紅い悪魔なんかいやしないヨ。確かに見た目はあんなだけどサ、そこまで言われると、ひどいバケモノ屋敷だとか言って、露骨に蔑まれているみたいで心外だネ」  実際、そういう風に吹聴されているのだが――そのことについて、お燐は何も言わなかった。実際に中身も見ないで、押し付けがましい悪評をするような者は、わざわざ口に出したくないと思うほどに心底から嫌いだった。  会話しているうち、地霊殿はもう眼前まで迫って来ていた。  それから少しの沈黙が続いていたのだが、 「さて」お屋敷の門扉に差し掛かったところで、お燐は唐突に手押し車を停めて、隣人に向けて鋭い視線を送った。「ご案内はここまでですヨ、お客さん」  それは脅迫の意思表示であったが、パルスィは依然、強い態度を崩さなかった。 「……詮索はしない。そう。あの脅威を食い止めるために、せめて主人と話をさせてほしい」 「お姉さん、そいつが無理な話ってことサ」 「なぜ」 「関係者以外立ち入り禁止さネ。そういうワケで、ご退去願いますヨッと」 「……断るわ」 「断るのはこっちのほうだヨ。さとり様と、われわれペットたち以外の立ち入りは、一切お断りしているンだ。アンタに断る権限はないし、断られる筋合いもないヨ。アンタの杞憂のことなら、さとり様にはあたいが代わりに伝えといてあげるから、今日のところはもう帰ってちょうだいナ」 「……よく解ったわ」パルスィは深くうなずいたが、すぐに首を左右に振った。「いえ。でも、私はあなたの主人と話をしなければならない。人づてに伝えたのでは意味がないわ。この辺りのどこかに潜んでいるかもしれない脅威を、この生々しい感覚を、直接伝える必要がある。そう。あなたの主人なら、私が口を開かずとも、ほんの少し対面するだけで、この大いなる恐怖の感覚をありありと――」 「いい加減にしろッ!」  突如として叫び声が荒野に響き渡り、他のすべての言葉と感情を遮断する。  お燐はいよいよもって、明確な怒気をこめて言い放った。 「地霊殿は、一年前から警戒態勢を厳重にしている。どうして? 侵入者騒ぎがあったからだヨ。地上から狂った紅い吸血鬼がやって来て、お屋敷に入り込んで暴れたのサ。あァ、そうだヨ。アンタが言うように、確かにあいつは『紅い悪魔』って呼び名、そのものの姿をしてた」 「――――」  紅い吸血鬼。  パルスィは息を呑んだ。その理由は、唐突に声を荒げてまくしたてられたから、ということだけではないだろう。 「ついこないだ、巫女のお姉さんと、魔法使いのお姉さんが地上からやって来たケド、あの二人はわざと入れてやったンだ。あの時は、おくうがおかしくなって、地上の者たちの助けが必要だったからネ。あれはあたいの独断だったケド、さとり様も事情を聞いて赦して下さった」  先日、間欠泉と共に地底の怨霊たちが地上の世界へ湧き出すという、原則破りの異変が起きた。  地上の者たちからしてみれば、旧地獄における新都市の成立を認める代わりに、怨霊は鬼たちの手によって封じ込めてもらうことになっていたはずであり、この異変はあまりにも重大な問題であった。そのため、妖怪の賢者が異変を解決するべく、地上の人間を地底へと派遣してきたのである。  地上に怨霊を湧き出させた犯人こそが、他でもない、お燐であった。その特性ゆえに灼熱地獄跡において怨霊の管理を任されていたお燐ならば、行動に移そうと思えば、それらを地上へ向けて解き放つことなどたやすい。  実は、地上に間欠泉が噴き出す原因が、お燐の起こした怨霊の異変とは別に存在していた。その原因を知っていたお燐は、できるだけ多くの者が救われる形で問題が解決されるような方法を考えた。その結果、地上の妖怪たちに地底の異変を知らしめ、助けを求めるために、自らは厳重な処罰を受けることを覚悟で、ルールを破ってわざと怨霊を解き放ったのである。  その異変の際に、一年前の事件で厳重になっていたはずの警備を意図的に緩め、お燐は地上から派遣されてきた人間たちを館の内部に招き入れた。主人にも気付かれたくない理由があったので、やむをえぬ行いであった。 「でも、その他に例外はいっさい認めていない。どうしてもさとり様に会いたいと言うのならば、あたいを介して事前に約束して、それからお屋敷の外で、ということでお願いするヨ。まァ、さとり様は近ごろ忙しくしていらっしゃるから、会えるのは当分先のことになるけどネ」  そこまで言って、お燐はどうにも居たたまれない気持ちになった。主人が忙しくなってしまった原因は、自分の行いにこそあると感じていたからだ。  地上と地下との間に交わされていた厳粛な約束事を、いかなる理由があろうとも破ってしまったお燐の尻拭いのため、地上の妖怪たちや地下の鬼たちに頭を下げて謝罪し、重罰を与えられないように取り計らってくれたのは、他でもない、彼女の敬愛する主人なのだ。あの事件が起こったのが冬のことで、現在はその冬が明けたばかりの春である。未だ数多く残っている諸問題を解決するため――自分のために書斎に籠もって、山積みの書類と向き合っているのだろうと思うと、お燐は主人に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 「そういう事情もあって、部外者を入れるわけにはいかないのヨ。安易に通行を許可して、さとり様の邪魔をしてもらっちゃ困るンだ。お姉さん、解ってちょうだい」お燐はいつしか怒気を振り払い、真剣に懇願していた。「今日はお姉さんと一緒にお散歩できて、とっても楽しかったヨ。また今度、『地獄そば』でも食べに行こうヨ。でもネ、今日のところは、引き返してほしいのサ。そうしてもらわないと――せっかくのいい思い出を台無しにして、お姉さんを叩きのめさなきゃならなくなる」  一切の含みがない、真剣な言葉だったからこそ、決して冗談ではない本気の意思が感じ取れる。  お燐は、緑眼の少女に鋭い爪の切っ先を向けることをためらっていた。それはパルスィが、ふと思い詰めてしまった自分のことを心配してくれたり、何だかんだで遊び相手になってくれたからでもあるし、かつてあの人が語り聞かせてくれたお話に出てきた優しき橋姫、守護神となって救われたその姿の体現とも言うべき存在だからでもある。  それでも、これ以上退去の願い出を断るようならば、お燐は容赦しないだろう。自分のために頭まで下げてくれるような主人こそが、彼女にとって第一に護らなければならない存在であることにほからならない。  だから、お燐の行動は次の返答次第だったし、根本的には穏やかな心を持つ橋姫ならば、きっと理解して立ち退いてくれると思ったのだが―― 「……ごめんなさい」そんな希望的な観測は、皮肉にも、誠実な詫びの言葉によって裏切られた。「ええ。それでも、立ち去ることはできない。私は今すぐに、あなたの主人に会わなければならない。会って、忠告しなければならない」  その言葉を聞いて、お燐は本当に残念だと思った。  一度でも好ましく感じた相手を傷付けなければならないなんて、嫌だなと思った。 「お姉さん。まずはアンタが、あたいの忠告を聞き入れるべきだったネ」  地霊殿門前。  お燐の周囲には、いつしか炎のように揺らめく赤紫色の不気味な影が浮かび上がっていた。  それを受けて、パルスィはその瞳の奥から、狂おしい緑色の炎を燃え上がらせる。  黒猫と橋姫。  極彩色の花咲き乱れ、おぞましき死霊の飛び交う熾烈な争いの火蓋は、こうして切って落とされたのである。      ***  大雨が降りました。  昼間の晴天が嘘のように風が吹き荒れ、雷鳴が轟き、川の水も荒れ狂うほどに恐ろしい嵐の夜でした。  橋の下の家で、黒猫はひっそりと身体を縮めていました。嵐で簡単に吹き飛んでしまいそうなほどには心もとない木の板の家でしたが、強風の吹き抜ける道を避けてつくられていたので、黒猫はずっとそこに居て雨をしのぐことができました。  いつもは穏やかな川の水も荒れ、激しい濁流と化していたのですが、あの人と出会った日もそうだったように、その水が整備された河原にまで溢れ出してくることはありませんでした。  地を揺らすような雷鳴が轟くたびに、黒猫は怯えて身を震わせました。  荒れ狂う川の音は、黒猫の心に寂しさを募らせました。穏やかな川の流れが懐かしく、せせらぎの音のように透きとおったあの人の声を同時に想い起こさせました。  あの人は今ごろ、どこかの暖かい家の中で、雷の音なんて聞かずに幸せな時を過ごしているのだと、そういう想像をすることだけが、ただひとつの救いになりました。  だから、その狂ったような叫び声を聞いた時、黒猫は悪い夢でも見ているかのように困惑し、呆然としてしまいました。  黒猫はその声を聞いた時、雨脚の強いことや、本当の激流の音に混じって聞こえたせいでありましょう、初めこそ荒れ狂う川のような、恐ろしい叫びであるようにしか感じませんでした。しかし、なおも続いて止まぬ絶叫を聞いているうち、不思議と、せせらぎの音に似た声の、大好きなあの人のことが思い出されました。  黒猫はしばし呆然としていましたが、思い切って木の板で組まれた家を抜け出ると、強い雨風に曝されるのにも構わずに、橋の下から飛び出してゆきました。  そうして、橋の上で泣き叫ぶその人の姿を見つけた時、黒猫は再会に対する喜びの感情など、微塵も抱くことはなく――怒りにも悲しみにも似た、何とも言い難い得体の知れない感覚が心のうちに湧き上がってくるのを感じて、更なる困惑に頭のなかを揺さぶられました。  どうして。  幸せに暮らしているはずのあの人が、どうしてあんなにもおぞましい叫び声をあげて泣いているのだろう。  身に付けている服はとても華やかなのに、どうして嵐に曝されて、ずぶ濡れになりながら泣き喚いているのだろう。  いかなる理不尽にも弱音を吐くことはなく、いつも優しくて、穏やかに微笑んでくれたあの人が――どうして、あんな無様な姿になってしまったのだろう。  黒猫には、何ひとつ理解できることがありませんでした。  悪夢のような光景でした。  夢であればいいのにと思いました。  心底恐ろしいものを感じた黒猫は、大好きな人のもとへ駆け寄ることもできず、雨に打たれながら、ただ呆然と眺めているばかりでした。  嵐の轟音の中でも響くような大声で泣き喚いていたその人が、糸の切れた人形のようにとつぜん押し黙った時にも、ただ呆然と眺めているばかりでした。  その人はゆっくりと立ち上がり、おぼつかない足取りで橋のふちに歩み寄りました。  そこで小さく口を動かして、何か言っているのが見えました。  その言葉は雨に打ち落とされて、黒猫のもとへは届きませんでしたが――黒猫には、口の形が見えたわけでもないのに、その人が何を言ったのか解ってしまいました。  ――さよなら。  その時、強い稲光が世界を白一色に染め上げました。その瞬間、黒猫はまるで、この世のすべての音が消えてしまったように錯覚しました。  純白の世界から、薄暗く恐ろしい嵐の色と騒音が戻った時、黒猫はふと我に返り、橋の上に目を走らせました。  雨を呑み込んでざわめく濁流の上にまたがった、よく見慣れた橋の全様。  そこにはもう、大好きなあの人の姿はありませんでした。      ***  スペルカードバトル。  大結界に守られた幻想郷という世界では、妖怪が起こした異変を人間が解決することによって、結界の内側の土地や住人たちのパワーバランスを均衡させるため、魔力や妖力を用いて生み出された弾幕を交わし合う決闘が場所を選ばずに行われている。  さまざまな能力を持つ者たちが繰り出す個性あふれる弾幕の技は『スペルカード』と呼ばれ、巻き込まれないように気を付けてさえいれば、それらを用いた華々しい決闘は、観る者たちを大いに楽しませてくれる。  これは地上の者たちが数年前に定めたばかりの決闘ルールであったが、地上と地下を行き来するようになった一人の気まぐれな鬼の影響によって、これが隔絶されていたはずの地下世界にも伝わり、今や刺激的な遊びの一種として大いに流行していた。  しかし――遊びとしての加減を忘れれば、それは命を懸けた殺し合いに成り変わる。 「……謙虚なる富者への片恨」  橋姫のスペルカード宣言。  円状に広がる小粒の弾に加え、緑色の大玉が一定のリズムをもって拡散する。しかしながらそれは、状況を傍観し、俯瞰して初めて得られる情報である。それらを回避しなければならない当事者にとっては、襲い来る弾幕の圧迫感は単純なものではない。 「……大きなつづらと、小さなつづら。さあ。あなたはどちらを選ぶ?」  お燐は舌打ちして、弾幕の中心点を睨み付けようとした。しかし、そう考えたところで、果たしてどちらの中心点に目を向ければいいのか戸惑ってしまう。  放射状に拡散するパルスィの弾幕の起点は、ひとつではないのだ。  分身。  緑色のオーラが幻影を生み出し、橋姫が二人いるかのような錯覚を招いている。注意深く振る舞っていたはずのお燐の心は、それでも幻影を見せられる程度の干渉を受けてしまっていたのだ。 「なるほどネ……舌切り雀、カ」  そうつぶやいて、手押し車を器用に操りながら、機敏に駆け回り、緑色の弾幕を回避していく。お燐はニヤリと余裕の笑みを浮かべて、二つの弾幕の中心点へ交互に視線をやった。  大きなつづらと、小さなつづら。  どちらを選ぶかなんて、悩むまでもない。 「ぜェんぶいただくに決まってるじゃン!」  お燐は牙を剥き出しにして、手押し車にかぶせてあった布を剥ぎ取る。そうして投げ捨てた白い布が地に落ちないうちに、緑色に光る二つの起点を線で結びつけた、その中間地点に向けて、鋭い爪を引っ掻くように構えた。 「味わうといいヨ……旧地獄の針山の痛みッ!」  贖罪のスペル――旧地獄の針山。  勢いよく振るわれた猫の爪が、かつて地獄に堕ちた亡者たちを苦しめた無数の針の形をとって、周囲の空間を占拠した。そうして放射状に射出された弾幕とともに、手押し車の中から躍り出た怨霊たちが、針の痛みにのたうつように暴れ回りながら、標的へと肉薄してゆく。  ワインレッドの三つ編みが、漆黒の衣装と共に跳ね回り、迫り来る最後の大玉を見送った。それと同時に、高速で撃ち出された針山が、二人の橋姫の身体を刺し貫く。  お燐は不敵な笑みを浮かべたまま、その光景を眺めていた。  だが――背後から冷ややかな声が響いてきたのは、前方の二人の橋姫の表情が苦痛に歪んだかに見えた、その直後のことである。 「……愚かね」  振り返ると、そこには緑色の眼をした少女が立っていて、暗澹たる面持ちでじっとりとこちらを見つめていた。  三人目がいたのだ。 「やるネェ、お姉さん。中くらいのつづらもありました、ってことネ」 「……だから」三人目の橋姫は、お燐の言葉を押し潰した。「そう。愚かだと言っているのよ」  挑発のつもりで余裕の態度を見せたのだが――パルスィの言葉の意味するところにようやく気が付き、お燐は自らのおしゃべりな性格を呪った。  お燐が前へ向き直ると、緑色の光がたちまちに視界を埋め尽くした。 「しまッ――」  背後に気を取られてしまったせいで、お燐は自ら攻撃の手を加えた前方の二つの幻影が霧散し、緑色の大玉を無数に撒き散らしていることに気が付くのに、ワンテンポ遅れてしまったのだ。  大玉の群れは、すでに至近距離へと迫っている。  後方には、いつでも弾幕を繰り出せるように構える、橋姫の姿。  瞬時に視線を巡らすが、右にも左にも、頭上を見ても、逃げ道はどこにもない。  さしずめ、荒れ狂う激流の川。  このままでは、直撃は免れない。  身を投じるか?  あの人のように。  自分も、一緒に。  ――いや。  情けない思考を振り切る。  救われなければなるまい。  記憶している自分が、救われなければ。  いつか、再会できると信じてきたのだ。  濁流に身を投じる?  そんな理不尽なことがあってはならない。  自分が死んでしまっては、意味がないのだ。  人々の誤解と先入観を解かなければならない。  ああ、どうか、優しき者が救われる世界を。  そのために――生きるために。  これ以上、迷っている時間はない。  川の冷たさよりも、心温まる優しさを選びたい。  あの人がくれたような、至上の温もりを。  お燐は跳んだ。  次の瞬間、その眼前へと嫉妬にまみれた緑色の弾幕が肉薄し――      ***  ニャア、ニャア。  怪物のように暴れ狂う濁流を見下ろして、黒猫は鳴きました。  大好きなあの人を呑み込んだ濁流を見下ろして、黒猫には、ただ鳴くことしかできなかったのです。  稲光が染め上げた白の世界と、腹の底まで響き渡るような恐ろしい雷鳴が終わり、ようやく我を取り戻して橋の上に駆け寄った時には、すべてが終わってしまった後だったのです。  明くる朝、黒猫はあの嵐を裂くような絶叫と、あの人が最期に見せた、世界の終わりを見るような光のない眼差しを思い出していました。  どうしてあんなことになったのか、黒猫には初め、少しも思い当たる節がありませんでした。しかし、悲劇の理由は、風の噂がすぐに教えてくれました。  人に見つかると石を投げられるので、具体的な真実まで耳に入れることはできませんでしたが、誰もが皆、あの人の死を悼むことなどなく、「愚かな女が狂って死んだ」と言って蔑んでいました。そうして、自分の大切な人が、ずっと騙されていたのだという事実だけは、はっきりと理解できました。  黒猫は、大切な人を連れ去った、誠実に見えたはずの男を怨みました。  暴力を振るわれても決して挫けることはなく、あんなに美しい声で物語を聞かせてくれた人が、おぞましい絶叫を上げて川に身を投じたなんて、何かの間違いであるとしか思えませんでした。だからこそ、あの人は男に連れ去られた先で、想像もつかないほどに酷いことをされたに違いないと考えました。  思いつくかぎりの残酷な仕打ちを頭のなかに並べ立て、あの人が受けた痛みや苦しみを錯覚するうち、黒猫はいつしか、あの男を引き裂いて殺してやりたいとまで思うようになっていました。  殺意をはらんだ怨恨とともに、黒猫にはもうひとつ、気がかりなことがありました。  あの人の死体は、いつまでたっても、冷たい水底から揚がってくる気配を見せなかったのです。川の水に押し流されて、どこか遠い場所に流れ着いたのかもしれませんが、少なくとも、そのような噂が黒猫の耳に入ることはありませんでした。  怨みの念と、いま一度あの人に会いたいという強い気持ちが、頭のなかでぐちゃぐちゃに混ざり合って、孤独な黒猫を衝き動かしました。それからというもの、黒猫はあの人と出会う前の根無し草に戻り、あの男を見つけ出すために棲み処を転々と変えて生きてゆきました。  ただ、不思議であったことは――ふと気付くと、死体のある場所に身を置いていることでした。  ふと気付くと、飢えに耐えかねて死んだ老人の死体を眺めていました。  ふと気付くと、押入り強盗に斬り殺された子供の死体を眺めていました。  ふと気付くと、莫大な借金を負って首吊り自殺した夫婦の死体を眺めていました。  憎しみの感情に身を委ねてあの男を捜し出すことを決意した黒猫は、無意識のうちにあの人の姿をも同時に追い求め、死体あるところに現れる不気味な存在に成り変わっていたのです。  初めこそ、あの人がいなくなって、自分はいよいよおかしくなってしまったのだと思い、その行動を不気味に感じていた黒猫でしたが、次第にあの人の死体を捜し求めていることを自覚し始め、しまいには自分の意思で死体のもとに現れるようになっていたのでした。  そうして、僅かな期間でその身に死臭を染み付けた黒猫は、いつしか自分の尻尾が二本に増えていることに気が付きました。  人々は死体のもとに現れる不吉な黒猫を忌避し、もはや石を投げつけることすら、誰もが恐れてしなくなりました。しかし、どれだけ忌み嫌われて孤独の世界に置き去りにされようとも、怨恨と死臭を身に付けた黒猫には、もうそれ以外のことを考えられるだけの正常な思考ができなくなっていたので、少しも気にならないのでした。  殺したい、会いたい――二つの強い気持ちに衝き動かされるままに夜道を徘徊するその姿は、不吉を呼び込む化け猫そのものの有り様でした。  そうして、死体のにおいを敏感に嗅ぎ取る鼻をひくつかせ、不気味な鋭い眼をぎらぎらと光らせながら、暗い路地裏を闊歩していたある夜のこと――黒猫はいよいよ、殺したいほどに怨み続けたその男を見つけ出したのです。      ***  緑色の弾幕が眼前に差し迫ったその時――お燐は跳んだ。  後方へ向かって。 「えっ……?」  パルスィは息を呑んだ。お燐は、左右に逃れるでもなく、その場で待ち構えて回避の姿勢をとるでもなく――背後から追い討ちの弾幕を撃ち込まんとしていた、自分のほうへ向かって跳んできたのだから。  取り残された手押し車が、緑色の弾幕に呑まれ、上空へ爆ぜた。だが、お燐はそんなことにも構わず、牙と爪を立てて威嚇し、跳躍した勢いに乗じて相手に襲い掛かろうとする。 「――――ッ!」  標的はなおも困惑していた橋姫であったが、瞬時の判断でその場にしゃがみ込まれ、難なくやり過ごされてしまった。  ――いや。  それで良かった。  それこそが、お燐の狙いであったのだ。  前方から押し寄せてくる、緑色の弾幕。  それらを用いて、挟み撃ちをしようと構えていたはずのパルスィが、新たな弾幕を撃ち放つことをやめてしまったのだ。  そして――次の瞬間。  目と鼻の先まで飛来していたはずの緑色の弾幕の群れは、突如として波が割れるように左右に分かれ、後方へと流れていってしまった。 「……なるほど。ああ。これが、狙いか」  パルスィは跳ぶような動作で体勢を整えつつ、振り返ってお燐の背中を睨み付けた。 「うン。だってネェ、お姉さん、自分まで巻き込まれちゃったら、元も子もないでしょうヨ」お燐はそう言ってから、くるりとターンして、いたずらっぽい笑みを向けてみせた。「だから、お姉さんが後ろで構えているところを、強引に突破するしかないと思ったワケさ」  挟み撃ちを突破しても、そのまま後方へ逃げ切るだけの余裕はなかったとは思う。しかしながら、この場合、パルスィは自らが仕掛けた迫り来る弾幕の罠を操作して、自分に当たらないようにするしかない。 「……私が。もし。分身だったら、どうするつもりだったの?」 「声が聞こえたからネ。お姉さんの声は、後ろから聞こえた。間違うはずもないヨ。結構、好きな声なンだ」  背後から響いてきた声を聞いて、お燐はこれが本体であると確信した。出会った時にはもう少女ではなかった、大好きなあの人とは似ても似つかぬ少女の声ではあったが、よく耳に残るその声の出所を、お燐が間違うはずもなかったのだ。 「……仕切り直しだわ。ええ。してやられたけど、次は今より甘くない」 「いンや。おしまいだヨ」  歯噛みしているパルスィに、お燐はわざと表情を消してそう言った。 「……何を」 「おしまいだヨ」お燐は言葉を重ねて、相手の意思を遮った。「言ったでショ。『全部いただく』って」  言われ、パルスィは周囲に目をやった。そうして初めて、不気味な薄紫色の影が、自分の身体にまとわりついていることに気付いたのである。  妖精の死霊――人間の手によって朽ち果て、もう二度と滅びることのない魂が、橋姫を包囲していた。 「……そうか。ああ。背後を取られたことにも、気付いていたのね。私が声を出すよりも前に……!」 「まァネ。本体かどうか、判断しかねたケド。もしも、お姉さんが声を出してくれなかったら、あたいの負けだったと思うヨ」  そう言って、お燐は「悪いネ」と付け加えた。冗談じみた口調であったが、その言葉は、それは心底からの純粋な感謝の気持ちを含んでいた。  積極的に話すことのあまりない橋姫は、きっと、自分に心を開いてくれていたのだと思う。だからこそ、大事な場面において、余計な言葉を発してしまったのだろう。その想像が、お燐を申し訳ない気持ちにさせた。相手の好意を利用して陥れる形になってしまったことが、とても嫌な感覚を残したのである。 「……シロの灰」  それは、唐突なスペルカード宣言。  妖精の死霊を吹き飛ばし、辺りに極彩色の花が咲く。 「諦めが悪いネ」  そこまでして妄言を伝えて、何の意味があるというのだろうか。お燐にはもはや、理解しようという気持ちが起きなかった。  花咲かじいさんの物語を模して、死んでしまった犬の灰が華やかな弾幕を咲かせる。あっという間に、お燐の視界は橋姫の咲かせた花によって埋め尽くされた。  それは、あまりにも強力なスペルであった。  だが――お燐はもう表情を変えることなく、花咲き乱れる美しい光景を、ただ呆然と見据えているだけであった。  余裕でも、思い上がりでもなく。  すでに、自分の勝利が決定していたからだ。 「死灰復燃」  ただ一言。  その宣言ひとつだけで、荒野に咲き乱れた花は、すべて消滅してしまった。 「――――」  霧散したはずの妖精の死霊が蘇り、花を喰らうようにして取り込んでしまったのだ。  一気に畳み掛けるつもりで、ありったけの力を籠めて撃ち放った弾幕が、あっさりと蹂躙されてゆく。パルスィはその光景を目の当たりにして、驚きと焦りに息を呑むことしかできなかった。 「ダメだヨ、お姉さん。あたいの前で、死骸の灰なんか撒いたら」  パルスィはもう、その言葉を聞いてはいなかっただろう。薄紫色の死霊に再び包囲され、なす術もなくその場に膝をついてしまっていたからだ。 「あ……あ……」  死霊たちが放つ、大小色とりどりの弾幕が、哀れな橋姫に襲い掛かる。  波打つ金色の髪が、ふわりと宙に浮かんだ。もう悲鳴を上げることもできずに、パルスィの身体は空中へと投げ出される。  勝敗は決した。  倒れ伏す敗者の傍らに、勝者は歩み寄る。  途中で、壊れてしまった手押し車の残骸を見つけて、お燐は溜息をついた。  死霊を操る化け猫の、大切な武器であり、仕事と趣味のための道具だ。それを破壊されてしまった。お燐は、少々相手を甘く見ていたのだ。旧地獄の奥地で暴れ回っていた怨霊を、手中に収めて操ることのできるほどの妖怪を相手に、これほどまでの健闘を見せた橋姫の実力は、本当に大したものであった。  無論、とどめを刺すようなつもりは、毛頭ない。遊びではなかったかもしれないが、殺し合いがしたいわけではないのだ。  眠りのように安らかな表情で、パルスィは仰向けに倒れていた。気絶しているのだ。幼い顔立ちの美少女に、お燐は、決して届かない言葉をつぶやいた。 「ごめんヨ」  不当な理由や、納得できない言い掛かりで、地霊殿に部外者を入れるわけにはいかない。先の地上の異変について、主人に迷惑を掛けてしまったこともあり、その気持ちはいっそう強くなっていた。  だが、今日の楽しい思い出をくれたことに対する感謝は、お燐の心の中に揺るぎないものとして根付いている。  だからこそ、申し訳なさを滲ませた微笑が、しぜんと零れ落ちるのであった。  白い布が、近くに落ちていた。手押し車に掛けてあったものだ。お燐はそれを拾い上げると、パルスィの身体の上にそっと掛けてやった。  お燐は、お屋敷の中でいったん身支度を整えてから、パルスィを迎えに来て、旧都まで連れていこうと考えた。地霊殿に入れるわけにはいかないが、旧都にならばゆっくり休ませてやれる場所があるはずだ。胸が苦しい、と言っていたのは、本当に病気なのかもしれないし、さんざ痛めつけておいて言えたことではないかもしれないが、もし病気であるのだとしたら、しかるべき場所でちゃんと静養をとったほうがいい。 「お姉さん。また、遊びに行こうネ」  お燐は最後にそう言って、厳めしくたたずむ門の内側へと歩んでいった。  ――今はもう、護るべきものがある。  初めて大切な人をうしなった時、鳴くことしかできず、悔しい思いをしたけれど。  そんな自分を理解してくれた、優しき主人を護るために、精一杯の努力をしよう。  けれどもその心の奥底では、今もなお、大好きな『あの人』の姿を追っていた。  だから黒猫は、死体を捜し続け、地底を駆けめぐることをやめない。      ***  二本の尻尾を持つ化け猫の前には、憎むべきその男の姿がありました。  バラバラの死体となった、その男の姿が。  手足が千切れ飛び、まるで怪物に噛み千切られたような、惨たらしい有り様でした。  胸も胴も乱暴に断ち切られ、汚い断面から溢れ出た血液が硬い土のうえに広がって、辺りの地面はイチゴを潰したみたいに真っ赤に染め上げられていました。  化け猫は、おぞましいその死体を、冷ややかな眼差しで見つめていました。 「まあ……。あなた……その眼……」  それは、突然のことでした。  聞き慣れぬ声が背後から浮かび上がって、化け猫の頭のなかに響き渡ったのです。 「だから……『凛』というのね……。そう……お凛……素敵な名前……」  ハートの髪飾りと、眼球の形を模した左胸の装飾具が印象的でした。  左肩の上に鴉を乗せた、薄紫色の髪の神秘的な少女でした。  それが、敬愛すべき主人との、忘れもしない出会いの瞬間でした。
第二章
第二章 悪鬼千里を視る  遠い昔、山には鬼が棲んでいました。  鬼は里に住む人間を攫い、人間は山に棲む鬼を退治しに来ました。  人間と鬼との力比べが絶えない、平和な世の中でした。  山の妖怪たちも、平和に暮らしていました。  後から山にやって来た狼たちも、折り合いをつけて平和に暮らしていました。  本当に平和な世の中でした。  だからこそ、狂おしい破綻の訪れを、誰もが想像しえなかったことでしょう。  夜の翳りに、生ぬるい空気が漂っていました。  辺りには、紅いものがたくさん転がっていました。  狼の死骸でした。  死骸の山の中から、少女の嗚咽が聞こえました。  一本角を生やした影が、そちらを見据えました。  全身を血に染め上げた、おぞましいまでに真っ赤な影でした。  それは――狼の群れを皆殺しにして立ちすくむ、恐るべき鬼の姿でした。      *** 「……勇儀さま」  聞き慣れた声に、名を呼ばれた。  星熊勇儀。  長く伸びた明るい緑色の髪を分かつように、額の中心に生えた一本の真っ赤な角。そして、その表面に描かれた黄色い星印がトレードマークの、背の高い女性。  とはいえ――実際のところ、何よりも目を引くのは、リンゴの果実でも詰めているかのように張り出た豊かな胸の膨らみであろう。和の紋様をあしらった半透明の水色の袴に、白くて厚い生地の半袖の上着をサッパリと身に付けている姿は、それだけで大いに活発な雰囲気を感じさせる。  勇儀は旧地獄を仕切る、豪気で酒好きな鬼の一人だ。  名字ではなく下の名前の敬称で呼ばれているのは、堅苦しいのを好まない勇儀自身が、普段から「そうしてくれ」と周囲に言っているためである。本当は『さま』などという敬称も必要ないと感じているのだが、地底の妖怪たちにしてみれば、そういうわけにもいかないのだろう。確かに、たとえ許可されていようとも、目上の者を安易に呼び捨てるなんて、そのほうが居心地悪く、付き合いづらい感じがする。  そんな敬意と親しみの入り混じった呼び名を聞いて、声の主の見当をつけながら、勇儀が振り返ると――そこには思ったとおり、自分よりも頭ひとつぶん背の低い、緑色の眼をした橋姫の姿があった。 「よう、パルか」  勇儀は片手を上げ、切れ長の目を緩く細めて笑う。そうすると、手錠のような輪の形をしたブレスレットが、よく目立って見えた。これは、足首にもつけているものだ。  賑やかな旧都の街並みから外れたこの場所で、早朝から活動している者など、地上と地下をつなぐ縦穴の番人以外にあり得ない。そうでなくとも、ちょっと声を聞くだけで誰だか判断できるくらいには、橋姫はこの鬼にとって古くからの知り合いである。 「……お、おはようございます」 「ああ、おはよう」  パルスィは恥ずかしそうに、胸の前で組んだ手をもじもじさせている。勇儀と話している時は、いつもこうだ。短い付き合いでもなし、そんなに緊張することもなかろうに、と勇儀は思う。 「……今日は。ええと。ど、どのような御用ですか? 縦穴には。ええ。何ら異常はございませんので、ご、ご安心ください」  この調子である。べつだん失礼なことを聞いているわけでもないのに、言葉をつっかえさせて話すのだ。  何か悪いことでもしたかなと考えつつ、勇儀はひとまず質問に応じることにした。  地上と地下を結ぶ道の番人は、たまにそういうことがあるように、鬼が早朝の巡回にやってきたと思っているのかもしれない。しかしながら、この日に関してはそういうわけではなかった。 「違う、違う。今日は仕事で来たんじゃない」  そう言って、頭の後ろへ右手をやりながら、勇儀は背中越しにチラリと頭上を見た。  街ひとつ呑み込んでしまいそうなほどに、巨大な口を開けた洞穴。先の見えない穴は、急勾配をつくりながら上方へ向かって伸びていた。光の一筋も届かない暗黒の道ではあるが――この縦穴をのぼってゆけば、いずれは懐かしき地上に辿り着く。  その洞穴のほうを親指で示しながら、勇儀は当たり前のように言った。 「ちょっくら、向こう側まで行ってこようと思って」 「……えっ?」      ***  遠い昔。  人間たちが過ぎ行く年を数え、移り変わる時代に名をつけて呼ぶようになるよりも前から、その山には鬼が棲んでいました。  鬼は里に住む人間を攫い、人間は山に棲む鬼を退治しに来ました。  争いの絶えない世の中でしたが、鬼たちにとっては有り余る力を散らす娯楽であり、人間たちにとっては英雄を生み出す度胸試しであり――山と里とは『鬼退治』というお祭りごとによって互いの力を均衡させ、時には戦いの後に酒を酌み交わし、好敵手として認め合う、たいへん良き関係を築いていました。  しかし――ある時を境に、鬼たちは、徐々に山を去ってゆくようになりました。  人間たちが、卑劣な暴挙をはたらいたのです。  山と里との鬼退治という平和な関係が続いていた世において、ある時、鬼に対する恐怖を自分の都合だけで取り除こうとする人間が現れ、鬼を一掃することを主張し始めました。常に自分たちこそが崇高な存在であると考え、妖怪を見下し、以前のように鬼に対しても畏れを抱かぬようになりつつあった人間たちは、そうしていよいよ、嘘八百に姑息な罠を並べ立てた、鬼の乱獲を行ったのです。  鬼たちにとって、天狗を使役して戦ったり、真正面から腕っぷしで捻り潰したりすることは簡単でしたが、酒に酔わせて寝込みを襲うなど、さまざまに繰り出される卑怯な手段に対しては、なす術もありませんでした。  やがて鬼たちよりも強くなったと思い込み、人間たちは恐怖心を忘れてゆきました。当の鬼たちは、卑劣な行為と驕りに甘んじる人間たちに対して露骨な怒りを向けることすら馬鹿馬鹿しく、次第に里を見限るようになってゆきました。  やがて、地獄の縮小化の噂を聞きつけた多くの鬼たちが、居心地の悪くなった山を去り、暗い地の底へと姿を消してゆきました。      ***  眩しさに目をすがめる。  地上の光だ。  勇儀はもう百年以上も目にしていなかった、青空に燦然と輝く太陽を見た。  暗闇の風穴を抜け出た先には、バケモノみたいに背の高い竹林の光景が広がっていた。陽の光の角度はまだ浅いが、それが朝であることを示している、という常識を思い出すことにすら、少し時間が掛かった。  パルスィが一緒に行きたいと願い出てきたものだから、勇儀は驚いた。あの消極的な橋姫が、まさかそんなことを言い出すなんて、考えもしなかった。  別にそのことが大きなルール違反だと判断したわけではないが、勇儀はその申し出を丁重に断った。地上と地下とは、先に化け猫と鴉が起こしたとある事件を通じて、前よりも少しだけ近くなっていた。地底を牛耳る鬼が、地上へ行くのに妖怪ひとりを同伴させることくらい、今となっては誰も咎めはしないだろう。  しかしながら、問題は勇儀自身にこそあった。それは、今回の地上への訪問が、公式的な理由に基づくものではないということである。  いくら地上と地下の関係が良好になりつつあるとはいえ、私情で勝手に出入りするようなことは許されていない。いかなる地下妖怪も身勝手に地上へは出られないし、その逆もまた然りである。旧都という華やかな地底の街が成立した時の、それが約束事であり、地上と地下を自由に行き来していいのは、酒と温泉が大好物の人間だけだ。それも、かつて妖怪の山においてそうであったように、鬼に気に入られるほどの強者でなければならない。  そう、妖怪の山。  聳え立つその影は、陽光を遮りながら、竹の隙間を縫った遥か遠くに認められる。  勇儀はまさに、懐かしきかの地にこそ用があるのだ。  だが、それが安易に漏らせぬ私情であったため、パルスィには適当に言いつくろって、地底に残ってもらった。そうせざるを得なかったのだ。 「しッかし……」  地上の側から見ると、崖に穿たれた横穴のようにしか見えない洞窟の入口。その洞穴を飛び出して、いよいよ竹林の土の上に降り立った勇儀の、右手には酒の一升瓶、そして左手には、一本の縄が握られていた。  勇儀の視線は、その縄の下に結び付けられた、大きな桶に向けられている。 「つい、持ってきてしまった……」 「……」  桶の中から、白装束のおかっぱ頭が覗いていた。千歳緑の髪を頭の左右で結んでいることが、大きな瞳をいっそうつぶらで幼いものに見せている。  同伴の申し出を断られて残念そうにしていたパルスィが、餞別にと言って日本酒の一升瓶を譲ってくれた。ただでさえ酒飲みの鬼たちの中でもいっそう酒好きな勇儀がこれを断る理由はなく、縦穴の道中でさっそく栓を開けてラッパ飲みしていた。  愛用の杯を持ってこなかったことを後悔していたところへ、頭上から落っこちてきたのが、この桶――と、その中に入った女の子である。  勇儀は降ってきた桶を難なくキャッチすると、それを持ったまま意気揚々と地上までやって来てしまった。要するに、酔った頭でちょうどいいところに杯が降ってきたと勘違いして、女の子を一人連れてきてしまったのだ。  キスメと呼ばれる釣瓶落としの妖怪は、相手が旧地獄を取り仕切る鬼だろうとも構わずに、通行人の頭をめがけて落下してくる。それは単に幼さゆえの無知に基づく行いであることにすぎないのだが、鬼たちはそれを勝手に「良い度胸だ」と評価して、取り立てて咎めるようなことはしない。この程度の不意討ちを、むざむざ脳天に喰らってしまうような者のほうが悪いと言うのだ。 「どうすッかね……」 「……」  キスメは勇儀を見上げて、ずっとばつが悪そうな顔をしている。いきなり地上の光を浴びたせいでもあるだろうが、その最大の原因が、おかっぱ頭のそこかしこから垂れている水滴にあることは明白だ。桶の中までびしょびしょに濡れて、酒臭い。杯と間違えられたのだから、この悲惨な現状は当然であると言える。 「とりあえず、この辺に置いとくか……」 「っ! っ!」  勇儀の言葉を聞いて、キスメは頭を左右にせわしなく振った。水滴が飛び散って、アルコールのにおいが広がる。 「まあ、そりゃ可哀そうだよな……元はと言えば、私が悪いんだし。すまんね」 「っ」キスメは、もっともだと言わんばかりに厳粛にうなずいた。 「ッてなワケで」 「……?」 「謝ったからもういいよな。置いてッても」 「っ! っ!」  キスメは再び、頭を激しく横に振った。勇儀の左手の先で、桶に結び付けられた縄が蛇のように暴れ回っている。 「うおッ! わーッた、わーッた! 解ったから落ち着け!」 「……」 「そう睨むな……悪かったよ」 「……」 「だから……うん。本当にすまん」 「っ」 「とりあえず、乾かすか?」 「っ」 「そいじゃあ、連れてッちまったほうが早いよな……この際、仕方ないね」  勇儀は久々の地上の空気をゆっくりと味わうこともできず、深い溜息をついた。酒癖が悪いと、こういうこともあるものだ。  右手に酒瓶、左手に桶。  彼方に望める山を目指して、一本角の奇妙な風体の鬼は、竹林を歩き始めた。  歩きながら勇儀は、どうせこんなことになるのであったら、橋姫も連れてきてやったほうが良かったな、と申し訳なく思うのであった。      ***  その一本角の鬼は、他の妖怪たちからはもちろん、仲間の鬼たちからも一目置かれる、『四天王』と呼ばれた存在の一人でした。  杯を片手に、土蜘蛛を従えて山道を闊歩する姿が、誰の目にも印象的でした。土蜘蛛は病を操る妖怪として嫌われていたのに、どうして鬼の四天王と一緒にいることが多いのか、山の妖怪たちは誰もが不思議がりました。しかし、皆が鬼を畏れ敬っていたがゆえに、一本角の鬼の行動に疑問を口にする者は一人としていませんでした。  一本角の鬼は、誰よりも早くから、人間に対して強い不信感を抱いていました。しかしながら、そうであったのにもかかわらず、決して山から立ち去ろうとはしませんでした。  その矛盾した行いの陰には、一人の鬼の存在がありました。  一本角の鬼と同じく『四天王』と呼ばれた鬼の中に、一人だけ、人間を愛してやまない者がいました。  その鬼はずっと以前から、とくべつ人間に肩入れするような態度を取っており、露骨に手加減してしまっては鬼退治の意味がないだろうと、一本角の鬼の反感を買っていました。それでも一本角の鬼は、その時はまだ良かったと思うのでした。  一本角の鬼は、人間が卑劣な暴挙をはたらいた後にも、その鬼が態度を変えようとしなかったので、いよいよ理解に苦しみました。山を去ってゆく鬼たちの中には、なおも人間に肩入れしようとするその鬼のことを蔑み、「裏切り者だ」と言って罵倒する者もいたほどでした。  四天王として確かな実力を備え、山に君臨しているような猛者が、そのような有り様ではいかんだろう――一本角の鬼は、人間びいきの鬼を怒鳴りつけました。それでも、その鬼はいつも笑ってはぐらかすばかりで、人間と関わろうとすることをやめようとはしないのでした。  やがて、一本角の鬼も、変わり者と呼ばれるようになりました。人間びいきの鬼は、他の仲間たちからも見限られつつあったというのに、一本角の鬼だけは、構うことを決してやめなかったのです。同じ四天王として当然のことだ、という言い訳をするのが常でしたが、一本角の鬼は、自分でもどうしてこれほどまでに諦めが悪いのか不思議に感じていました。  一本角の鬼は、人間びいきの鬼を怒鳴りつけているうち、反対に「もう少しだけ、人間の可能性を眺めていようか」という気持ちになってしまうのでした。ミイラとりがミイラとはよく言ったものであり、丸め込まれてしまっているようでどうにも不本意でしたが、それでも、一本角の鬼の心のうちに在る思いは確かなものでした。  その鬼が人間に対する好意を諦めないかぎり、一本角の鬼も山に残り続けると心に決めていました。だからこそ、人間に不信感を抱いていたはずの一本角の鬼は、山を立ち去るという選択を真っ向から拒否していたのです。  それは、ある一つの感情に基づく行いでした。  その感情の正体に最初に気付いたのは、一本角の鬼自身ではなく、彼女がいつも従えている土蜘蛛でした。  本当は、もっと早くから、自分で理解していたのかもしれません。  それでも、一本角の鬼は――そのことを土蜘蛛に指摘された時も、頬を膨らませて、よそよそしく目を逸らすばかりなのでした。  何だか恥ずかしくて、女々しくて。  厳粛な四天王の肩書きを持つ鬼として、認めたくはなかったのでしょう。  それが、恋であるなどとは。      *** 「――腹が減ったッ!」  それは巨大な柳葉刀をたずさえて立ちはだかる白狼天狗を前にしての、図々しさすら遥か後方に置き去りにした、清々しいまでの空腹宣言であった。 「いやいや……いきなり何を言ってるんだろうこの人。っていうかアンタ、今の状況、まったく解ってないッスよね?」 「解ってるよ。山に入ったら、見張りの天狗が飛んできた。そして腹が減った」 「それは、解ってることにはならないと思うッス……」 「だぁーもうッ、解ってないのはお前のほうだろーがッ! やあ、おい、無知蒙昧な若造クン。私を誰だと思っている。フフーン」 「お気楽ハラペコ侵入者」  ズコーッ、という盛大な音が響いた。今時、こんな音を立ててコケられる奴も珍しいだろう。勇儀はしみじみとそう感じ、心の内で自らを褒め称えた。 「私はお気楽じゃねーッ!」 「ちょっとちょっと! そこは最初に否定するトコじゃないでしょう! だいいち、真っ昼間から酒の一升瓶と得体の知れない桶入り娘を持って歩いてるなんて、どっからどう見てもお気楽な酔っ払いか変質者にしか思えないッス!」 「何だとッ! さすがに変質者扱いはひでえな……コレ持ってんのは不可抗力だ! 大いなる意思が我に与えたもうた、得がたき施しだ!」 「言ってる意味が解りませんし、どんな不可抗力がはたらけばそんなにオモシロイ状況が生み出されるのか、サッパリ想像もつかないッス……」 「うむむ。じゃあ、そうだな……三歩譲って、お気楽なのは認めてやるとしよう」 「どうして三歩なんスか……もっと譲って下さいよ……」 「それが私の必殺距離なんだから、仕方ないだろう。まあ、それは置いとけ」 「はあ……」 「よし。いいか、仮にお気楽だとしてもだ――私は断じてハラペコじゃないッ!」 「ええええええええ? いやいやいや、さっき自分で大々的に宣言してたでしょう、誰も聞いてないのに! しかも侵入者ってのは否定しないんスか? 真っ先に否定すべきトコでしょうがッ!」  竹林を出て、森を抜け、湖を横目に、また森を抜け――久々の地上の散歩を楽しみながら、妖怪の山を目指していた勇儀。  途中、森を分かつように流れる川沿いを歩いていたら、岩場に腰掛けて、何やら手遊びのようなことをしている河童を見つけた。声を掛けてみたら、大げさに驚いて、そのまま頭から川に転落してしまった。それはまあ、百年以上も前に地底に潜ってしまったはずの上司が、何の変哲もない真っ昼間にとつぜん姿を現したら、幽霊か何かと勘違いするだろう。いや、山の妖怪たちは普通の幽霊を見ても驚かないかもしれないが、目の前に現れたのが鬼の亡霊とあれば、自分の正気を疑ったかもしれない。  申し訳ないと思う反面、面白くてゲラゲラ笑っていた。勇儀は河童が好きではない。だからといって、べつだん嫌っているわけでもないのだが、人間に肩入れするその気持ちは、勇儀には理解し難いものであった。  水没した河童を無視して、森林の川沿いを進んだ。そうして、右手に酒瓶、左手に桶を吊るした縄を持った一本角の鬼は、妖怪の山の入口とも言うべき、この巨大な滝壺に辿り着いたのである。  周囲に響き渡る地鳴りのような音は、言うまでもなく、首を真上に向けないと見えないくらいの高みから落ちてきた水が、滝壺の水面を叩きつける音である。 「ええい……腹が減って、ぐうの音も出ないッ!」 「ホラやっぱりハラペコなんじゃないッスか! そもそも、誰もそんなことは聞いてないッスよ!」 「ぐう」 「しかも出てるじゃないッスか……ぐうの音……」 「馬鹿め、今のは『音』ではないわ! 声に出して言っただけだッつーの!」 「イヤなんでわざわざ声に出して言ったんスか! ああ、もう、今日は面倒くさい人に当たってしまったッス……」 「ハッハッハ」  頭を抱える白狼天狗を見て、勇儀は豪快に笑う。  実際のところ、状況を理解していないのは、勇儀のほうではない。それはむしろ、山に侵入してきた地底の鬼に対して、畏怖の感情を少しも抱かずに、普段やっている仕事と同じように警告を与えようとしている白狼天狗――犬走椛のほうである。 「……なあ、お前さん、本当に私の顔を知らんのか?」 「そんな奇抜な格好でお散歩するような人、一度見たら絶対に忘れないと思うッス」 「だから、そいつは勘弁してくれ。本当に不可抗力だ。手荷物じゃなくて、私の角を見ろッて」  勇儀は、表面に星印の描かれた、額の真っ赤な一本角を指差して言った。 「……うーん。そう言われてみれば、何となく見覚えがあるような、ないような」  山の警備を務める白狼天狗に対し、勇儀が冗談じみた口調で「無知蒙昧な若造」と言ったことは、本人に自覚があったかどうかはともかく、実に的を射た指摘であった。椛には解らないのだ。「お気楽な侵入者」と称した人物が、かつて、彼女が天狗として働くようになるより以前に、堂々たる豪をもって山に君臨していた存在――力強き鬼の四天王であるということが。  たくましい角を見て、勇儀が鬼だということも解らない。そんなものは、「うしなわれた太古の力」として伝説の中でしか聞き知っていないのに違いない。  ならば――解らせる必要がある。 「おい、ワン公」 「いきなり失礼な人ッスね……」 「お前、ちっとも解ってないようだから、優しいお姉さんが社会の厳しさッつーものを教えてやろう」 「何を言い出すかと思えば……天狗に歯向かう侵入者に、容赦はしないッスよ」  椛は刀の切っ先と同時に、鋭い視線を差し向けてくる。  山の警備隊。天狗の社会においては下っ端にすぎないが、勤勉にして忠実な白狼天狗の、これが本分だ。力を持たない妖怪たちは、この威嚇を受けただけで、すごすごと退散してゆく。 「ああ、だから――」  それを見て、しかし勇儀は、顔色ひとつ変えない。  妖怪の山の頂点に君臨した、豪気な一本角の鬼。  力強き四天王は、いたって真剣な表情で――こう言い放った。 「とりあえずッ! 飯を食わせろッ!」  巨大な滝の水音に勝り、ズコーッ、という盛大な音が響いた。  勇儀は感心して、軽快に口笛を鳴らした。      ***  そんなある時、山に狼の群れがやって来ました。  その狼の群れは、山に移り棲む前の土地では人間たちから崇められ、厳粛に祀られていたほどに名のある首領を掲げていました。しかし、当の人間たちが土地を奪い合って争いを起こした結果、信仰が衰退し、居場所をうしなってしまったのでした。そうして、新しい棲み処を求めて方々を彷徨った末に、鬼たちが君臨するこの妖怪の山に辿り着いたのです。  狼たちは、かつては人々の信仰を集めていたような群れでしたので、何者かの下につくことを好ましく思いませんでした。しかも、狼たちは、新参者であるのにもかかわらず、妖怪の山において、再び人間たちから崇められるようになっていました。  それゆえに、山を牛耳っていた鬼と対立することもしばしばありました。そもそも、二つの勢力が対立していたがゆえに、人間たちが「鬼を噛み殺す狼」として崇め始めたことこそが、新天地において狼の群れが信仰を取り戻すきっかけとなっていたのです。このことは、山に残っていた鬼たちの反感を買い、同時に人間に対する不信感もいっそう募らせました。  そんな折に、動物の心が解るという妖怪が名乗り出てきました。  それは、もっと昔から山に棲んでいた者だったのですが、特に力を持っているとも思われず、それまで注目を浴びることが全くありませんでしたので、その妖怪のことを知っていた者は誰もが皆、意外な能力を知って驚きました。その妖怪は、二つの勢力の仲を上手に取り持って、和解への架け橋になりました。  そうして鬼と狼は、大きないさかいが生まれないように折り合いをつけて、平和な暮らしができるようになりました。  鬼たちの数は減りましたが、新たな仲間たちを加え、それなりに平和な山の暮らしが続くはずでした。      *** 「またハミ出たぞ。やーらけーな、コレ」 「強く握りすぎなんスよ……」 「中身がいっぱい出てくるなぁ」 「わわわっ、垂れてる垂れてる! ホラ、ぼさっとしてないで早く口に入れて!」 「もぐもぐ。……うむ。ウマいッ!」 「そりゃ良かったッスね……」 「ぽいぽいパクパクもぐもぐごっくん」 「ちょおおおおっ! 私の分っ! 私のお弁当っ!」 「ふう。ウマかったぞ、ワン公! ありがとさん!」 「うわあああああん! 私の日々の楽しみがぁー……」  空になったランチボックスを覗き込んで、椛は泣き腫らした。  至極当然の反応である。突然現れた変質者に、楽しみにしていた昼食のサンドイッチをすべて食い尽くされて、涙を流さぬ者がいるとは思えない。  得体の知れない相手に食べ物を分け与える椛も椛なのだが、それは警備役としての剣呑な態度の裏に隠れた、持ち前の半分くらいの優しさなのだろうと、勇儀は勝手に心の内で納得していた。 「善意が裏目に出たな」 「うおおおお自分で言うなこのスカポンタンんんんんん」 「うーん……正直すまんかった。お詫びに、これやるよ」空の酒瓶を差し出す勇儀。 「ひょっとして、私をからかってるんスか?」 「ありゃ。もしかして……お詫びじゃなくて、お礼のほうがよかった?」 「そういう問題じゃなァいッ!」 「ハッハッハ」 「……」  桶の中の少女が、椛を慈しむような目で見ていた。酒臭さは残っていたが、もうすっかり乾いている。悟りの境地に達したかのごとく穏やかな表情は、災難に遭わされた者同士としての、キスメなりの同情の表れであろう。  ごうごうと唸る滝壺の岩場に繰り広げられた小さな悲劇を、しかしその明らかな原因である鬼はただ一笑に付し、最大の被害者が精神的に立ち直ることも待とうとはしなかった。  だから、それは脈絡も前触れもない、唐突な所作であった。  酒瓶と桶を持ったまま、勇儀はふと岩場から立ち上がって、泣いている椛に背を向けたのだ。  そして、一歩。  軽やかに、二歩。  飛ぶように、三歩。  大股で三歩進んだところで立ち止まり、勇儀は振り返る。  振り返ったその顔は――すでに、先ほどまでの明るい様相を呈してはいなかった。 「もらってばかりで悪いんだが、お前さんに聞いておきたいことがある」 「うう……ん?」椛は目元を拭いながら、顔を上げる。 「山に神社が建った、ッてのは本当か?」 「……っ」  勇儀の表情と語調には、刃物のような鋭さが備わっていた。その急激な態度の変化を受けて、椛も素早く居ずまいを正す。 「いや……私が耳にした噂話のあらましをちゃんと言うなら、こうだ。『妖怪の山に、湖ごと神社を持ってきた神様がいる』」 「それは、みんな知ってることッス。どうして今更、そんなこと聞くんスか?」  二年前の秋に妖怪の山を騒がせた大事件のことを知らない者が、この幻想郷にいるはずがない。そういう者がいるとすれば、それは天界とか彼岸とかいったような、天狗の新聞が届かない場所だけである。そして、そういう場所は厳密には幻想郷であるとは言えない場合がほとんどである。  そういう意味で、不可解な質問の内容も手伝ったのだろう。この若い天狗は、自分の目の前に居る者がただのお気楽な酔っ払いではないということを、ようやく実感し始めているようだ。 「私が何者なのか、そろそろ解ったんじゃないのか」 「さあ……」 「鬼だ」  勇儀は語気を強めて言った。  たかが下っ端哨戒天狗が鬼に対して畏敬の念を抱かぬことに怒り、そうしたのではない。むしろ、勇儀としては砕けた会話のほうが好きだった。  ただ単純に、こいつは脅かしておく必要があると思ったのである。平和なのは良いことだが、平和ボケは好きではない。 「鬼……?」椛は、呆然として繰り返した。「そんなもの、信じられると思うッスか? 鬼はもう、この世界にはいないッス。例外が一人いますが、少なくとも、見ず知らずのアンタのことではないッス」 「萃香のことだな」酒の湧く瓢箪を肌身離さず持って歩く、小さな友人の姿を思い浮かべた。「……ハッ。私より先に地底に潜っておきながら、何を思ったんだか知らないが、ひょっこり出て行っちまッた酔狂モンだ。文字通りのな」 「私『より』? 冗談もほどほどにして欲しいッス。新しい神社のことを知らないみたいな物言いといい、まるで、自分も地底に棲んでいる鬼みたいな言い方ッスね。どこぞの妖怪サンだか知りませんけど、満腹になったのなら、下手なハッタリかましてないでさっさと帰ってほしいッス」  椛は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに、肩をすくめて言ってみせた。だが、そうしながらも、こちらの額の辺りに目を向けていることに、勇儀は気付いていた。  この一本角が本物であると、椛は認めたくはないのであろう。  そうだとすれば、下っ端にすぎない己の目の前に居るのは、かつて山の頂点に君臨したといわれる、太古の鬼の四天王であるのだから。 「そうはイカンのだよ、若造」  だが、事実、それは本当のことなのである。  そのことを、しっかりと理解させてやらねばなるまい。鬼は、伝説などではないのだと。鬼は過去の存在にすぎない、もう鬼の脅威が訪れることはないなどと、情けない人間のようなことを吹聴する者が、私は嫌いであると。 「私は、鬼だ。地上の山は、腐りきった人間と手ェつないでヘラヘラ笑って満足しているような、勘違いの平和ボケだらけの土地に成り下がっていると聞く。ふざけんな。私は鬼だ。そんなクソみてェな世の中は、私が叩き直してやる。いいな、若造。だらけきってドロドロにとろけきったテメエの水飴みてェな脳ミソによく焼き付けろ。私は地獄の底から妖怪の山によみがえった、鬼の四天王――星熊勇儀だッ!」 「――――」  鬼。  四天王。  誰もが恐れるその存在。  あまりの凄みに、椛は一切の声を発することが難しい。 「さて、本日私がわざわざ地上に舞い戻って来てやった理由は、そういうことだ」 「り……ゆう?」 「だから、山をな、叩き直してやるッつってんだよ」若い天狗がようやく震え始めたのを無視して、勇儀はまくし立てるように続ける。「ああ、例の、湖ごと移り住んできたッてえ神様のことについてだ。まったくフザけた話だが、本当だとしたら、山の妖怪たちを全員敵に回して、堂々と現れやがったッてことになる。スゲエ神だ、気に入った。神は大昔から、争いを知っている。だから、この山に来ることで争いになって、危険に身を投じることも解ってたハズだ。そんな度胸のある神様のことは、認めてやろう。――しかし、だ」  と、鬼は舞台劇を演ずるかのように、大げさに溜息をついてみせる。  そうしてから、再び怒気を籠めて語り始めた。 「問題は、神社の愉快な巫女さんだ。その神様の力に頼りきって、恐怖も知らずに、奇跡だ何だと豪語している人間がいるッて話じゃねえの。なんだァ? それこそ、フザけてんのかッて話だよなァ!」  辺りの空気を、恐るべき怒りの感情だけが支配する。  鬼の左腕の下で、桶に入った少女が震えていた。  もはや椛の耳には、滝壺の激しい水音さえも届いていないだろう。 「なあ、なあ、お前ら。どうしてそんな、『自分は絶対に安全だ』ッて解りきったようなツラして生きてるクソみてえな人間を、ハイどうぞッて山に受け入れたんだ? なあ、お前ら天狗の親分はよォ、天魔は何をやッてんだ? 私ら鬼に襲われる恐怖も知らない人間がァァァ。我々の誇るべき土地に暮らしていいワケねええええだろォがよおおおおおおおおおおッ!」  腹の底から。  地の底から。  狂気にも似た鬼の怒声が湧き上がり、すべての音を呑み込んだ。 「は……は……」  膝が笑っている。全身がガクガクと震えてしまうのも止めることができずに、椛にはもう、立っているのが精一杯であった。  一陣の風が通り抜け、胸に提げた白毛のペンダントが、フワリと宙に浮いた。  鬼の四天王。  下っ端哨戒白狼天狗。  天と地ほどにも離れた――歴然たる力の差。  あまりに一方的な滝壺の激戦は、そうして幕を開けることとなったのである。      ***  人間たちの大いなる戦乱の世が終わった頃、山の鬼たちの数は、もう両手の指で数え切れるくらいにまで減っていました。  それでも、狼たちを受け入れた山には、緩やかな時が流れていました。  やがて二百年ほど続いた天下泰平の世が終わろうとしていたその当時、山の妖怪たちの世間は恐るべき『鬼殺しの少女』の話題で持ちきりになっていました。  腕一本で鬼を月まで殴り飛ばしたとか、酒の飲み比べ勝負で鬼を酔い潰したとか、里の人間たちや山の天狗たちを中心にさまざまな噂が飛び交いましたが――その正体は、物騒な呼び名とは程遠い、病弱な人間の少女でした。  その少女を攫おうとしたのが、人間に陶酔していたあの鬼なのでした。  情けないことに、例の鬼がその少女の前に現れても、ただ怯えるばかりで、刀を振りかざして鬼退治にやって来るような者はもういませんでした。しかしながら、なんとその少女自身が強い意思をもって鬼に反抗してみせたので、これは驚いたとばかりに世間の話題になったのです。  一本角の鬼も、その少女のことを知っていました。情けない人間のことは嫌っていましたが、その少女に対しては、見上げた根性であることを認め、嫌悪を剥き出しにはしませんでした。  しかし、面白くなかったのは、例の鬼がその少女に対し、特別な思い入れを抱いていることでした。一本角の鬼は、その少女のことを嫌ってはいませんでしたが、愛する者を横取りされたような気がして、何だか落ち着かない気持ちになるのでした。何とも言い知れない初めての感覚の正体が、嫉妬という感情であることに気付くのにも、少しの時間を要しました。  一本角の鬼がみずからの嫉妬心に気付いた時には、鬼殺しの少女はすっかり成長し、大人になっていました。そして、元より身体の弱かったその人は、若くして亡くなりました。死ぬ時まで、豪気に笑っていたといいます。  人間を愛する鬼は、その夜、鬼殺しが遺した少女の声を聞いていました。親譲りの勝気な性格を持つ少女が、幼子のように泣いていました。鬼殺しの娘は、また鬼殺しと畏れられたものでしたが、母親の死には敵いませんでした。  一本角の鬼は、薄暗闇に身をひそめて、二人の会話を静かに聞いていました。嫉妬心は拭いきれませんでしたが、そんなことよりも、自分自身が大切な人をうしなった悲しみに圧し負けそうなのを我慢しながら、新しい鬼殺しの少女を笑って励ましてやることのできる、あの優しき鬼の横顔を愛おしく思う気持ちのほうがずっと強く、一本角の鬼の顔は、しぜんと温かな微笑のかたちに緩むのでした。それは、不吉を呼び込むかのごとき嵐が去った後の、少しだけ欠けた月の夜のことでした。  しかしながら、妖怪の山にほんとうの不吉が訪れ、大いなる災厄がもたらされたのは、その直後のことでした。      *** 「一歩ッ!」  地を割ったような轟音。  否。  それは、本当に地面が砕き割れる音だった。 「――――」  ただ軽快にジャンプして、片方の足で着地しただけなのに、硬い土が陥没し、巨大な怪物の足跡が出来上がる。  土ぼこりの舞い上がるなか、その中心点に、勇儀はケロリとして立っていた。  あれに踏み潰されたら。  もしも直撃を受けたら、どうなってしまうのか。  椛の脳裏をよぎるのは、あまりに恐ろしい想像。  しかし、ただ恐怖に身を震わせて呆然と立ち尽くすことは、椛には許されていない。砕けた土くれが勢いをもって飛び散り、そのまま分厚い弾幕となって白狼天狗に襲い掛かってくるのだ。  機敏に身をひるがえし、巨大な柳葉刀と丸い盾を駆使して、椛は強烈な土の弾幕をやっとのことで振り払う。巨大な滝を背に、逃げ道はない。上方へ向かって飛び上がれば、逃げ切ることのできる可能性がないわけではないが、ここで逃げるわけにはいかない理由もある。 「はぁ。はぁ。はァ……!」  鼓動が速い。湧き上がる恐怖を無理やり制するように、何度も空気を吸い込んだ。  椛は、たとえ鬼であろうとも、山の秩序を乱そうとする侵入者を絶対に通すわけにはいかないのだ。  一方、勇儀は山の秩序を正そうとする行いにおいて、立ちはだかる邪魔者は排除しなければならない。 「ハッハッハァ、どうしたワン公ッ! ちッたあ反撃してみせろや。山の警備が聞いて呆れるわッ! こんなに弛みきったショボい奴が、山を護れるんか?」  ――私に勝てたら、退散してやろう。  両手に抱えた酒瓶と桶は、せめてものハンデだ。そうしなければ、平和ボケした雑魚の天狗があまりにも憐れだと豪語して、勇儀は荷物を持ったままで暴れまわっているのであった。  自分の意見を主張する間もなく、黙って振り回される立場となってしまったキスメとしては、これはたまったものではなく、必死に桶のふちにしがみつきながら、すでに涙目になってぐるぐると頭を揺らしている。  白昼の滝壺を揺るがす鬼の技は、あまりにも強力であった。  四天王奥義――三歩必殺。  大地を踏みしめる、力強き鬼のスペルカード。  三歩進んで、眼前に肉薄した時には、相手の命運は完全に尽き果てる。  焦燥。  あと二歩。  勇儀があと二歩、前進してくるまでに、反撃の糸口を掴まなければならない。 「く……はっ……!」  だが、無情。  椛には、勝ち目がない。  弱点となりうる要素が、この相手には何ひとつ見つからない―― 「言葉も出ねえか。もっと手ごたえあるのを期待してたんだけどなァッ!」  勇儀はそう高らかに笑ってから、ぐっとしゃがみ込んで、構える。  足首につけた錠の鎖が、ジャラリと嫌な音を立てた。 「いくぜェッ?」  ベゴッ。  バネのように、力を溜め込んでからの跳躍。足元の地面の陥没はさらに深まり、前方へ飛び去る鬼の姿を見送る。  そして―― 「二歩おおォォォッ!」  着地。  先にも増して、凄まじい衝撃。  森の木々が、ざわざわと木の葉を揺らす。  遠くのほうで、鳥たちが慌しく飛び去った。  陥没し、砕かれた地面。  迫り来る弾幕。  正面から襲い来る破片は、もはや土くれではなく、巨大な岩石。  避けなければ。避けなければ。  全神経が命の危機を伝えるが、身体が思うように動かない。  それでも、やっとのことで刀と盾を持ち上げて、回避の動作に備える。  しかし――椛は致命的なミスを犯した。  募る恐怖心に耐え切れず、ほんの一瞬だけ、目を泳がせてしまったのだ。 「がはッ!」  宙に浮き上がる、白い体躯。  岩石の一つが、椛の腹を叩いて、そのまま後方へと吹っ飛ばしてゆく。  胃が圧迫され、喉元に熱いものが込み上げてくる。  激痛に揺さぶられる頭のなかに、サンドイッチを食べていなくて良かった、などという場違いな思考がよぎった。  盾は弾かれてしまったが、刀は取り落としていない。  しかし、それで何ができるというのだろう?  一瞬でも隙があれば。  その僅かな隙さえ、突くことができれば。  だが――レベルが違いすぎる。  大いなる力をもって妖怪の山に君臨していた伝説の四天王を前に、つけ入る隙など期待することは馬鹿馬鹿しい幻想であるようにしか思えない。  吹き飛ばされた衝撃のままに、滝壺の水面が近付いた。  白毛のペンダントが激しく揺れている。  椛にはもう、なす術がない――      ***  狼が死にました。  本当にそれだけであったならば、さして問題になるようなことではありませんでした。自然の摂理として、至極当然のことであるように聞こえます。  しかしながら――死んでしまったのが、ただの狼ではなかったので、妖怪の山は大いにざわめきました。  死んだのは、誇り高き群れの頭領でした。  遥か昔から生き続け、人間の信仰を集め、当時はもはや鬼にも近い力を有していたほどの狼が――あまりに不自然な病によって、息絶えてしまったのです。  騒ぎは人間たちのあいだにも広がりました。守り神として祀り上げていた狼が死んでしまったのですから、時代の激変に揺れていた世の中であったことも手伝って、これは大変な事件として取り沙汰されました。  狼の群れには、縄張りの一部にしている水場がありました。頭領は、その泉の水を飲んでから、病にかかりました。その水を飲んだ他の狼たちも、同じように病にかかり、死んでしまったので、何者かが泉に毒を混ぜたのだと騒ぎ立てられました。  ――土蜘蛛の仕業だ。  狼の群れの中から、そんな声が上がりました。  土蜘蛛が泉の水を汚し、我らの頭領を殺したのだという、喉元を噛み千切らんとするばかりの恐ろしい憎しみの声でした。  その一声をきっかけに、元より川を汚すことで、ほかの妖怪たちからも忌み嫌われていた土蜘蛛は、狼たちからは頭領を殺した憎むべき敵として、他の妖怪たちからは平和だった世の中を壊した狼殺しの犯人として、人間たちからは守り神を殺した最悪の妖怪として――忌むべき対象として、あらゆる者たちの怨みを買うようになってしまいました。  病を操る土蜘蛛は、敬愛する一本角の鬼のもとに身を隠していました。一本角の鬼が、かくまうように計らったのです。  一本角の鬼は、土蜘蛛がそんなことをするはずがないと考えていました。泉を汚した犯人は、他人に罪をなすりつけておきながら、どこかで笑っているのだという怒りの感情を煮えたぎらせました。  人間びいきの優しき鬼は、土蜘蛛が悪さをはたらいたのではないという意見に同調しながらも、一本角の鬼をなだめました。それでも怒りが収まることはなく、冤罪を押し付けられた土蜘蛛をかくまい続けることはもちろん、一本角の鬼は、必ず真犯人を見つけ出して、この手でバラバラに引き裂いてやるとまで考えるようになっていました。  そういう事実が狼たちにも知れ渡り、やがて騒ぎは、鬼と狼との争いにまで発展してしまうのでした。優しき鬼が説得する声ももはや耳には入らず、一本角の鬼は、頭領をうしなって暴走する狼たちの群れの中へ、たったひとりで飛び込んでゆきました。      ***  勇儀は、岩石とともに吹き飛ばされた憐れな天狗が、強烈な音を立てて滝壺に沈んでゆくのを眺めていた。 「んー? これで終わり、ッてことはないよな?」  まだ二歩目だ。閉幕には少しばかり早い。  勇儀が吐き捨てる声に呼応するかのように、水面に濡れた白い髪が浮かび上がった。 「ぶはァッ! はぁッ、はぁッ……!」 「おう、気絶しなかったか。まあ、これくらいでやられた気になってもらッちゃ、私としても不本意だからな」  にんまりと笑う勇儀。その手に握られた桶の中で、キスメが気絶していることには気付いていない。  皮肉なことを言ったものだと、勇儀は自ら思う。  まだ戦いが終わったわけではないということを、ささやかに喜んだのもつかの間。  そう、あと一歩。  あと一歩で――もう、終わりなのだ。  酒瓶と桶を、後ろ手に回す。  それから体勢を低くして、滝壺の水面を睨み付ける。  濡れた前髪を額につけて、椛の顔は恐怖に歪んでいた。  浮かび上がってきただけでも、大したものだ。  それだけでも、相手が単なる無知な臆病者ではないと理解できる。  ああ、それでは。  敬意をもって――全力で潰してやろうではないか。 「三歩」  勇儀は踏み込んだ。  怪物の足音が、再び空気を支配する。  弾丸。  三歩目の跳躍スピードは、これまでの比にならない。  弾丸のような、急接近。 「――――」  椛の表情が青くなる。  水の中で、移動が鈍っているだけではないだろう。  もう動けないのだと、勇儀は思う。  勇儀が睨みを利かせるだけで気絶する者もいるというのに、下っ端の天狗にしては、ここまでよく戦ったほうだと思う。  そう思いながら、弾丸は滝壺に迫る。  肉薄。  しかし―― 「……えっ?」  一本角の弾丸は、椛の頭上を素通りした。  呆気に取られた表情を眼下に認めて、勇儀の心は不思議と掻き立てられる。  あと一瞬だけ、待ってほしい。  全力で潰してやると決めたのだ。  そして、三歩目の着地は――  滝をかぶった、崖の壁面に。 「大江山落とし」  ズドォンッ!  強烈な破壊の音が響き渡る。  砂でもなく、土でもなく、岩でもなく。  滝の土壁がズルリと滑り――『崖』そのものが落下してくる。  あまりにも、圧倒的な光景。  あまりにも、圧倒的な力。 「――――」  椛は呆然としていた。  高まりすぎた恐怖心が、涙さえも忘れさせているようであった。  ――それでいい。  勇儀は笑っていた。  全力で『潰して』やると決めたのだ。  勤勉な下っ端哨戒天狗には、褒美に豪快で華々しい死を。  ただし、たったひとつ。  ――どうして、これほどまでに本気になれるのだろう。  勇儀は頭のなかに大きな疑問が浮かび上がるのを感じながら、空中に浮かんだままで、眼前の光景をじっと眺めていた。  そうして、鬼の疑問を覆い隠すかのように、ゆっくりと、ゆっくりと。  壮大な力を誇示ながら、切り崩された崖が、滝壺に向かって落ちてゆく――      ***  夜の翳りに、生ぬるい空気が漂っていました。  辺りには、紅いものがたくさん転がっていました。  泉の水が、同じように紅く染まっていました。  ――土蜘蛛ハ何処ダ。土蜘蛛ヲ出セ。  賢き頭領をうしない、暴走した狼の群れは、無差別に山の妖怪たちを噛み千切り、大惨事を招きました。仲の良かった土蜘蛛は、追われるように地底へ姿を消しました。  あまりにも惨たらしい争いの終着点が、この泉のほとりでした。  狼の頭領を殺した、毒の泉です。  辺りに転がっている、紅いもの――それは、狼の死骸でした。  一本角を生やした影が、立ち尽くしていました。  全身をおぞましい血で真っ赤に染め上げた、恐るべき鬼の姿でした。  この惨状をたったひとりでつくりだした鬼は、笑いも泣きもしませんでした。 「わ、あ。うあ、わああん」  死骸の山の中から、少女の嗚咽が聞こえました。  一本角を生やした影が、そちらを見据えました。  白く細い体躯を包み込む、狼の毛皮と、長い黒髪。  そこには、狼の死骸に寄りすがって泣いている、人間の少女の姿がありました。  鬼は驚き、目を見開きました。殺意だけが渦巻く無機質な世界から、表情というものを取り戻したのです。  狼の頭領が人間の少女を育てているという噂は、聞き知っていました。しかし、実際に目にしたことはありませんでしたし、いくら信仰によって結ばれているからといって、狼が人の子を育てるなどという話は絵空事のようにしか思えませんでした。  一本角の鬼は、少女に歩み寄りました。 「わあ、ぁ。あ……あ……?」  つぶらな瞳が、こちらを見上げました。  その身に纏う美しい狼の毛皮が、死んだ群れの頭領のものであると、一本角の鬼には一目で判りました。  言葉は話せないのでしょう。  黒髪の少女は、開いた口の形をそのまま声にして、しばらく呻いていました。  そんな様子を、一本角の鬼は黙って眺めていました。  すると少女は、ふと立ち上がりました。 「――あああああああああっ!」  勇ましき狼の雄叫びにも似た叫び声を上げながら、少女は鬼のふところへと飛び込んできました。  ドスン、という鈍い音がしましたが、一本角の鬼は微動だにしませんでした。泣きながら自分の腕に歯を立てている少女の顔を、じっと見下ろしていました。  きっと、仲間を護りたかったのでしょう。  仲間の仇をとりたかったのでしょう。  鬼は申し訳ない気持ちになりました。  ――群れの狼たちと同じように、殺してやったほうが良い。  一本角の鬼はそう思い、山をも砕ける腕の拳を強く握り締めました。  しかし、仲間を想って戦うことのできる少女を、殺すことはできませんでした。  圧倒的な力による虐殺の光景を目の当たりにしたばかりであるはずなのに、それでも立ち向かってくる強者の命を、ここで奪ってしまうのはもったいないと感じました。  だから一本角の鬼は、その少女を助けてやることにしました。  首筋に強い衝撃を受けた少女の身体は、力をうしなって腕のなかに倒れてきました。  それが罪滅ぼしになると思ったわけではありません。  この少女が今よりずっと強くなって、復讐のために邂逅する時が来たら、全力で迎え撃つことを決意したのです。  一本角の鬼は、死骸の山に少女を残して、森の中へと姿を消しました。  夜の翳りに、穏やかな風が吹き抜けてゆきました。  眠りのように目を閉じた少女の胸元で、白毛の首飾りが、静かに揺れていました。      ***  地響きが鳴り、水しぶきが舞う。  勇儀は陥没した地面に着地して、降りかかる水滴から目を覆うように、顔の前に右手をかざした。  局地的な雨は、間もなく落ち着きを見せる。  勇儀はコキリと首を鳴らして、崖を見上げた。巨大な滝の姿は前と変わらず、そこにある。ただし、土壁の一部が不自然に大きく抉り取られている。土砂に埋もれた滝壺の上には、小さな虹が浮かんでいた。  酒瓶に口をつけて傾けるが、空であったことを思い出し、ばつが悪そうに顔をしかめた。忘れていたというよりは、ほとんど習性のような所作である。 「そッか」  勇儀は滝に架かる虹を見上げて、小さく息を漏らして笑った。  まるで、誰かに語り掛けるかのように。 「思い出したよ。お前さん、あの時の娘か。どうりで――」  下っ端を相手にして、全身の力が沸き立った。  そうだ、普通ならばあり得ない。勇儀は明らかな弱者と戦う場合、相手が恐怖にすくみ上がった時点で、適当にあしらって置き去りにするのだ。  だが、白狼天狗が相手ならば、話は違った。  白狼天狗は、一本角の鬼にとっての特別な相手だった。  もっと正しく言い表すならば、『犬走椛』こそが、特別な相手だったのだ。  そう――勇儀の首筋に刀の切っ先を突き付けている、この少女こそが。 「はぁ……はぁ……ッ!」  荒い息遣い。  背後に感じる、強い意思。  勇儀はしかし――振り返らない。  振り返らずに、口元にただ笑みを浮かべる。 「早苗サンには……! 指一本たりとも、触れさせないッス……!」  勇儀は振り返らなかったが、その声を聞くよりも前から、もう解っていた。  巨大な柳葉刀を構えた、勇ましき白狼天狗。  いつか全力でぶつかってやると心に誓った――狼に育てられた少女が、そこにいる。  山の妖怪に育てられ、天狗になったのだ。  誰かが拾って面倒を見てくれるように、勇儀が計らった。勇儀自身は、それから少し経った後に山から姿を消している。  狼の死骸に寄りすがって泣いていた少女は勇儀の顔を見ていたが、山の妖怪の社会に溶け込んで以来、人間だった頃の記憶がもう正確ではなくなってしまったのだろう。意図せず人間から妖怪に身を置き換えた者には、そういうことがよくあるものだ。  それでも、二人は再会した。  互いに忘れていても、全力でぶつかることができた。 「早苗。そういう名前か、神社の巫女は」  勇儀は、自身が成敗しようとする人間の名を知った。 「あんなに優しい人を、殺させはしない……ッ!」椛は応えずに、首筋に当てた刀に力を籠めた。「いくらアンタが鬼だからって、そんな傲慢は許さないッス!」 「傲慢? 私が?」 「その通りッス。アンタは、自己中心的だ」 「何を」勇儀は鼻息を漏らす。 「冗談じゃない!」椛は刀だけではなく、鋭い言葉の切っ先にも更に力を籠めた。「『我々の誇るべき土地』? フザけたこと言わないで頂きたいッス。今の山を誇るべきなのは私たちであって、アンタら鬼は関係ないッス」 「それこそ冗談だろう。ここは、鬼が誇る山だ」 「違うッ!」 「何が違う」 「鬼は、もう山には棲んでいないじゃないッスか。鬼は……『我々の誇るべき土地』を放り出して、逃げたじゃないッスか!」 「――――」  勇儀は息を呑んだ。  心のどこかに、自覚があったからかもしれない。 「山の妖怪は皆、早苗さんが大好きッス」人間が好きだ、と椛は語る。「平和に暮らしてるんスよ。それを、思い出したように地上にやって来た鬼が、自分の考えを押し付けて、ぶち壊して――アンタは、本当にそれでいいと思ってるんスか?」  かたや人間を見限り、幻想郷を去った鬼。  かたや人間と関わり続け、今や親密な付き合いをしている妖怪。  鬼には力がある。  だが鬼にはもう、昔のように皆の上に立って、山を動かしてゆく資格はないのだ。 「それに。アンタがうまそうに食ってたあのサンドイッチは、早苗さんが私のことを労って、とくべつに作ってくれたものッス」  サンドイッチ。  勇儀はふと思いついた。  サンドイッチを強く握りすぎると、中身がこぼれ出る。  たとえば――落下してくる巨岩を受け入れた、滝壺の水のように。  着水の瞬間、圧し出される水の流れに合わせて、身体を移動させる。そうすれば、動きづらい水の中にあっても、巨岩の下敷きになることはない。  耐え難い恐怖心の中で、そこまでの判断をしたというのか。 「そッか。私は、最初から負けていたんだな」  恐怖を忘れた人間。  だが、これほどまでに、妖怪に護られている人間。  人間のために、妖怪が必死になれる世の中。  そして、図らずも人間を認めてしまった、己自身。 「ルール違反で負け、ッてことにしようと思ってたんだが」勇儀は振り返る。 「……?」  左手を掲げて、指を閉じたり開いたりしてみせる。その様子を、首をかしげて見つめている椛。勇儀は口を開き、言葉を続けようとしたのだが――次の瞬間。  ――ゴンッ! 「あちゃー……」  鈍い音が鳴り響き、柳葉刀が地面に落ちた。続いて、転倒する白狼天狗。  椛の脳天に直撃した桶の中で、キスメが目を回していた。  酒瓶と桶を持ったまま戦う。首筋に突きつけられた刀などどうにでもなったが、自ら設定したハンデの約束を破ったがゆえに、勇儀は敗北を宣言しようとしていた。  しかし、再会できた嬉しさのあまり、ルールを破ってまでとどめを刺してしまった。気が変わったので、頭上に注意するように言おうと思ったのだが、遅かった。  仰向けに倒れている椛を眺めて、勇儀は本当に申し訳ないと思う。  自分勝手な押し付けはしたくない。  それでは、かつて痛ましい暴挙をはたらいた、忌むべき人間たちと同じである。  人間と解り合える妖怪。  決して壊してはいけない、新しい世界。  勇儀はいま一度振り返って、滝に架かる虹を見上げた。 「あいつの気持ちが、解ったような気がするよ」  穏やかな心の内側で、ひとりの鬼が笑っていた。      ***  一本角の鬼は、泉に毒を混ぜた犯人を突き止めました。  その人間は、バラバラに引き裂かれた死体となって、鬼の眼前に転がっていました。  狼を崇めていたはずの人間が、狼を殺したのだという事実が、一本角の鬼をこれまで感じたことがないほどの憤怒に駆り立てたのです。  それから、いよいよ人間たちに愛想が尽きた一本角の鬼は、仲間たちの後を追うようにして、暗い地下の世界へと姿を消しました。  やがて、妖怪の山には、鬼の姿はひとつもなくなりました。 間章 〈一年前の大図書館〉  フランドール・スカーレット――紅魔館と呼ばれる館の主、その妹の名だ。  紅き悪魔の名を冠する館の主人、可愛らしい少女の姿をした存在――レミリア・スカーレットの正体が、文字通りに「悪魔」と呼ばれるほどの恐るべき吸血鬼であるのと同じく、妹のフランドール・スカーレットも強大な力を有する吸血鬼であった。  ただし、その性質は姉とはまったく異なっていた。レミリアが正常な吸血鬼であるのに対し、フランドールは異常な吸血鬼なのである。  フランは紅魔館から外へ出ることがなかった。許可されていないのだ。狂った吸血鬼をむやみやたらに外界へ放つことは、あまりにも危険だった。そこで監視を命じられたのが、お屋敷の地下――大図書館に住む、紫髪の魔女である。館の主人の友人であるこの博識な魔女だけが、フランの暴走を制御するための術式を知っていて、なおかつそれを扱うことができるだけの実力を兼ね備えていた。  異常な吸血鬼といっても、普段はいたって正常な少女である。と、言うよりも、もう五百年という年月を生きているのにもかかわらず、幼子のように純粋な好奇心でそこいらを跳ね回っている姿こそが、ある意味では異常なのかもしれない。とにかく、平時のフランはいたって無害であり、彼女の管理を任された図書館の魔女も、家事全般と警備をこなしている瀟洒なメイド長も、姉である館の主人も、内なる狂気を秘めたこの吸血鬼が館内を堂々と闊歩することを決して制限してはいない。  フランはそうした正常な顔の水面下で、心のひずみを成長させていく。この吸血鬼は、何らかの外的な刺激を引き金にして、そのひずみが爆発した時に、突発的な大地震もさながらに暴走するのである。そういうわけで、館内をうろつくのは自由だが、余計な刺激を与えて狂気を呼び起こさないようにするために、フランはお屋敷の外に出られないようになっている。  心のひずみとして肥大してゆくフランの狂気は、それ自体がすなわちストレスのようなものであり、発散しなければいずれ自然に爆発してしまう。暴走を事前に食い止めるため、魔女は定期的に子供部屋のような様相を呈した地下室にフランを閉じ込め、内に秘めたる狂気を発散させるようにしていた。しかし、いくら広大な子供部屋であるとはいえ、監禁による圧迫感が更なるストレスを生みかねないと考え、どうせならもっと広い場所で遊ばせてやりたいと、魔女はいつも考えていた。  そして――地底へと姿を消した悪魔の妹は、もう一年以上も戻らない。  これは魔女にとって、想定外の出来事だった。地下室にぽっかりと開いた穴に潜り込んだことまでは解ったのだが、その後の消息が不明なのである。  フランの衣服には、迷子になっても居場所が解るように、魔法によるサーチ機能が施されていた。布きれ一片でも残っていれば、行方を知るための手掛かりになるはずなのだが、その反応までもが消滅してしまっていたのだから、これはたいへんな異常事態として認識せざるを得なくなった。  魔女はその事実をひた隠しにしながら、何事もなかったかのように館での日常を送っていた。怪物ぞろいの館の住人たちにとって、一年という時間はそう長くはない。フランの暴走が収まらず、ずっと地下室に閉じ込めているのだという魔女の偽言を、誰もが信じて疑わずにいた。  図書館の魔女は、以前から地底について独自に調査していた。自ら地底に降りてゆくことも当然考えたが、地下の大都市を恐ろしい鬼が牛耳っていることを知り、怖気づいた。地上と地下の妖怪たちは互いに干渉してはいけない決まりもあるようだし、自身の『魔女』という肩書きが果たして『妖怪』のうちに数えられるのか否か疑問ではあったが、そうでなかったとしても不用意なリスクを冒したくはない。  そんな折に、ひとつの好機が訪れた。地底の妖怪が異変を起こし、地上に干渉してきたのだ。間欠泉と共に怨霊が湧き出るという、前代未聞の事件である。  地下妖怪都市の存在を知っていて、いちはやく異変の出所に気付いていた魔女は、妖怪の賢者に相談を持ちかけた。そうして思惑どおり、地上の人間――巫女と魔法使いが、妖怪の賢者の遣いとして、異変解決のために公式的に地下へ派遣されることになった。  魔女は期待して、魔法使いのサポート役を買って出た。  かくして、怨霊と間欠泉の異変は解決される運びとなった。  しかしながら――魔女は、フランドール・スカーレットの手掛かりを掴めなかった。  その事件をきっかけに、少しだけ地底への敷居は低くなったが、やはり魔女が自ら出向くわけにはいかなかった。  そして、悪魔の妹が失踪してから、いよいよ一年の時が経過してしまったのである。  ――フランは、何処へ行ってしまったのだろうか。  ――今この瞬間にも、誰かの『目』をもてあそんで、笑っているのだろうか。  広大な図書館で分厚い書物のページをめくりながら、魔女は背筋に怖気が走るのを感じていた。
第三章
第三章 地獄覚醒カタルシス  私の母親は、私がまだ小さな雛鳥だった頃に死にました。  私が物心ついたころには、父親はもういなかったので、山中の森の外れにこしらえられた小さな家に、私と母の二羽で暮らしていました。  鴉は捨て置かれた食べ物を漁るので、人間からも妖怪からも忌み嫌われていました。私の父親も、そういう行いを嫌悪されたがゆえに、殺されてしまったといいます。  頭の良い鴉たちは、天狗に取り入って、不自由のない暮らしを約束されているようでした。しかしながら、私はそれほど賢くありませんでしたので、森の外れで目立たぬようにひっそりと生きてゆかざるを得なかったのです。  それでも、そういう境遇に生まれたことで、母親を恨んだことは一度もありませんでした。恵まれた暮らしではありませんでしたが、飢えを感じるほどに貧しくもなく、私と母はそれなりに平和な日々を送っていました。  そんな折に、あの人間の子供がやって来たのです。  そう――あの憎たらしい小僧が。  私は頭が弱く、物覚えもよくないほうですが、世の中のすべてをあざ笑っているかのような、あの歪んだ目のかたちだけは決して忘れることができません。あの日のことだけは、今でも鮮明に思い出すことができます。  あいつは、私の家を見つけると、愉快そうに笑いながら木の棒で叩き落しました。  母は留守でしたので、私は独りぼっちで地に落ちて、どうしようもなくなりました。  そんな私の姿を見つけて、あいつはいっそう口の端を歪めました。そうしたのち、おもむろに太い木の棒を振りかざしました。まったく信じがたく、恐ろしい行いでした。歩みもおぼつかない雛鳥だった私を、遊び半分で叩き殺そうとしたのです。  私が怯えることしかできず、今にも悪しき凶器の餌食になろうとしていたその時、母が飛び込んできて、あいつの目玉にくちばしを突き刺しました。  あいつは悲鳴を上げて、つつかれた目から血と涙の混ざった紅い水を流しながら、虫を払うように棒を振り回しました。母はそれを尻目に、地に落ちた私のもとへ飛び込んでくると、私の身体を血に濡れたくちばしでそっと持ち上げました。  母はつまみ上げた私の身体を、そのまま茂みの中へと放り投げました。  私が母親の姿を見たのは、それが最後でした。  茂みの中で、私は何もできずに震えていました。  鈍い音と、金切り声が続きました。  やがて、すべての音が消え去りました。  雛鳥の私は、茂みから出てゆくことさえできずに、ただ空の色が暗くなってゆくことだけを感じていました。  私に強い力があればいいのに、と思いました。  そうすれば、独りで地に落ちても立ち上がることができたでしょうし、母親は死なずに済んだのかもしれません。  私は小さな声で鳴きました。  私は小さな声で泣きました。  そうすることしかできなかったからです。  そんな私の声に気付いて、拾い上げて下さったのが、敬愛すべきあのお方でした。      *** 「さとり様ぁ! さとり様ぁー!」  地霊殿、玄関ホール。  まだら模様のじゅうたんが敷き詰められた広間は、控えめなシャンデリアの灯りに照らされて、夢の中のようなぼんやりとした空気を漂わせている。  そんな広間に響き渡っているのは、シックな雰囲気にはいささか不釣り合いな、舌足らずの声。 「うにゅーん……おかしいなぁ。さとり様がどこにもいないよー」  緑色の影が、ホールの端から端を行ったり来たりしている。  長い黒髪に覆われた背には、白地の布で覆われた漆黒の翼。翼を覆う布は垂れ幕のようにさがっており、裏地に描かれた模様を明らかにしている。それはまるで、地底では見ることのできない星空を代わりに集めて表現したかのような、神秘的な暗色の図柄であった。  緑色の影――というのも、白いブラウスに、スカートの緑色が映えているためだ。頭の後ろに括り付けたリボンも、同じ緑色をしていた。  少女の名は、レイウジ・ウツホ――霊烏路空という。  名前の音読みをとって、地霊殿の主人や仲間たちからは『おくう』と呼ばれている。  その可愛らしい顔立ちに比べて、白いブラウスを胸から腹にかけて覆っている太陽のような装飾が、あまりにも厳めしい。  華奢な外見に反して、右の足首から先は岩石のようにごつごつとした鉄のかたまりに覆われ、まるで象の足のようになってしまっている。一見いたって普通のブーツを履いているように思える左の足に注目すると、奇妙なことに、二つの小さな球体が円形の軌道を描きながら、足首を囲むようにして旋回していた。  極め付けに、細い右腕の肘の辺りまでを覆う鉄製の籠手が、見る者に何ともちぐはぐな印象を与えてくれる。  そんな格好であったから、右と左では足音も違っていて、玄関ホールには鉄のおもりが着地する鈍い音と、細い足がじゅうたんを踏みつける気の抜けたような小さな音とが、ズシン、ぽすん、と交互に鳴り響いていた。 「さとり様ぁー!」  幼さの目立つ声が、なおも玄関ホールに反響している。  敬愛する主人の名を呼びながら、おくうはうろうろと歩き回ることをやめない。  この右往左往の繰り返しは、朝からずっと続いているものであった。初めのうちはお屋敷じゅうを練り歩いていたので、ずっとこの場所に居たというわけではないが、そうしているとだんだん疲労を隠せなくなってきたので、自分でも気付かぬうちに広くて動きやすいこのホールの範囲内だけを歩き回っていたのである。 「うにゅー……おなかすいたよー……」  お腹が鳴っているので、今が昼時だと思い込んでいるが。  いや、ひょっとしたら、もうとっくにお昼を過ぎてしまったのかもしれない。  おくうには当初、主人に宛てられた手紙を渡すという、ちゃんとした使命があったはずだ。だから、べつに食事を求めて主人の姿を捜していたわけではなかったはずなのだが、あまりの空腹に、今や行動の目的はすっかり入れ替わってしまっていた。 「さとり様ぁ……ぁぁ……うにゅう」  ――ばたん。  敬愛する主人の姿がどこにも見当たらないので、おくうはいよいよ疲労と空腹に耐えかねて、じゅうたんの上に倒れ伏してしまった。  玄関扉がゆっくりと音を立てて開いたのは、その直後のことである。 「ただい……ン?」  うつ伏せになっていたおくうは、その声を聞いて、顔だけを横に向けた。  ワインレッドの髪をした少女が、扉を途中まで開けて凍り付いている。  その姿は、さしずめ救世主のようであった。 「おりん……おかえりー……」 「ちょッ、ちょっと、おくう! 一体どうしちゃったのサ!」  化け猫の少女が、顔色を変えて駆け寄ってくる。  胸が痛くなる病気でももらったのか、はたまた誰かに襲われたのか、お燐に問いただされるが、おくうにはそれに応じられるだけの気力が残されていない。  しかしながら――腹から出る盛大な鳴き声を返答と受け、お燐が深い溜息を吐き出したのは、それからもう間もなくしてのことであった。      ***  さとり様は、鴉の私と言葉を交わすことができました。  私はさとり様の肩に乗って、一緒にお話をしながら方々をめぐるのが大好きでした。私が生まれた山の中はもちろん見て回りましたし、時には人の里にも行きました。  私の気持ちをたいへんよくお解りになってくださる方だというのに、周囲の者たちはどういうわけか、さとり様を避けているようでした。さとり様ご自身も、私と一緒にお散歩するのが大好きでしたが、そういう理由もあってか、他人と関わることがあまり得意ではない方でした。だからこそ、私とお話することで、気を紛らわせていたのだと思います。  気が付くと、数多くの動物たちが、さとり様のもとに集まっていました。それは、山をめぐり、里をめぐっている途中で、私と同じようにさとり様に拾われた者たちでした。さとり様は、人間や妖怪たちから避けられる代わりに、動物たちに愛されているように思いました。そうして、私の周りには次第に家族が増えてゆきました。  私が黒猫のお燐と出会ったのも、そんな折であったように思います。  お燐は、孤独な黒猫でした。さとり様は、私と同じようにお燐の気持ちも理解して、面倒を見るようになっていました。さとり様がお燐に構っているとき、少しばかり妬ましいという思いが湧くこともありましたが、それでも私が新しい家族と仲良くなるまでには、そう時間は掛かりませんでした。  さとり様は、お燐を迎え入れた直後に、妖怪の山を去ることにしました。  私はその時、こいし様が一緒に来られないことを不思議に思い、たずねてみました。  こいし様は、さとり様の妹様です。さとり様よりも活発なお方で、一緒にお散歩をして下さるのはさとり様でしたが、追いかけっこをして遊んで下さるのは、いつも決まってこいし様なのでした。山高帽をかぶった、可愛らしいお方でした。  しかし、私がこいし様のことをたずねても、さとり様は寂しそうなお顔をするばかりで、何も教えていただけませんでした。さとり様が縦穴を通って地下へおりてきた時にも、地底の奥のお屋敷に住むことになった時にも、こいし様のお姿はどこにも見当たりませんでした。  私は、皆と一緒に地霊殿で暮らすうちに、こいし様のことを忘れてゆきました。さとり様が、地底にできた都市の鬼たちから偉大なお役目を受けたので、私たちはお手伝い役のペットとして従事するようになっていました。  お燐にはもともと素質があったので、いちばん最後に家族の一員に加わったのにもかかわらず、怨霊たちを操る妖怪として、さとり様の地底でのお役目に早くから貢献していました。ただの鴉にすぎなかった私にも、次第に妖怪としての能力が芽生えてゆきましたが、それも熱を少しだけ操れる程度でしかなく、お燐のように大きな活躍ができずに苛立っていました。  そんな折、館の中でこいし様のお姿を見かけることが何度かありました。こいし様のことをほとんど忘れてしまっていた私は、そのお姿を地霊殿で見かけるなどとは思ってもいませんでしたので、大いに驚きました。  ですが、地霊殿にお姿を現したこいし様は、話し掛けても活き活きとした返事を下さるようなお方ではなくなっていました。  こいし様は、むしろ以前よりもずっと明るくお話しになるのですが、以前のように私の考えていることをお解りにはなっていないようでしたし、およそ感情というものが読み取れない異様なまでの明るさに、私はただ不気味な感覚を受けるばかりなのでした。そうしてこいし様は、ふらふらと、何の前触れもなく現れては消え、まるで水に浮かぶ泡のような存在になってしまったのです。  私は館の中でこいし様のお姿を見かけるたび、さとり様にご報告して、お変わりになってしまった理由をたずねたのですが、さとり様はやはり何も教えてはくれませんでした。  その頃には、私は灼熱地獄跡の管理という大役を与えられていたので、もうしばらくすると、こいし様のこともすっかり気にならなくなっていました。こいし様のことは大好きでしたし、以前のような活き活きとした明るさを取り戻してほしいとも感じていたのですが、私はもう、それどころではなくなっていたのかもしれません。  自分の能力がそれほど大きなものではないことを自覚していたので、さとり様のお役に立てていないのではないかと、苦しく思う気持ちでいっぱいだったのです。  私にもっと力があればいいのに、と強く思い続けました。  地霊殿での悶々たる日常は、しかし何事もなく続いてゆきました。      *** 「ごちそうさまー!」  元気な声が、ダイニングルームに響き渡った。  おくうの満面の笑みを対面で眺めつつ、お燐は深い溜息をついた。 「はァ……。それで? 一体どういうワケで、自宅の玄関で行き倒れてたのカナ?」  おくうは地獄鴉である。  旧地獄の遺産である、灼熱のエネルギーを制御しているので、そういう風に呼ばれている。実のところ、地霊殿に来たばかりの頃は少しばかり熱を操ることができるくらいで、仕事の内容のほとんどは仲間の鴉たちと協力して天窓を開放して温度を下げたり、お燐が持ってきた死体を薪として火力を強めたり、といったような雑用的なものであった。  それは今でもあまり変わらないのだが、この日、担当の職場を離れて屋敷内をうろついていたのは、個人的に仕事がオフであったためだ。灼熱を調整する地獄鴉としてではなく、地霊殿に飼われるペットとしての日常を謳歌していたのであった。  ただし、何もすることがなくて暇だからと、家の中を彷徨っていたわけではない。 「あっ、そうだ!」おくうは自分がすべきであったことを思い出し、手をポンと叩いた。「さとり様に、ご用があったんだ!」 「忘れてたンだネ……」冷ややかな目で突っ込むお燐。 「おなかすいてたからさー。でも、思い出したよ!」 「どんな用事?」 「えっとね、うんと」おくうは首をかしげた。「……なんだっけ?」  ズコーッ、という盛大な音とともに、食卓が激しく揺れた。 「あっ! そうだ、お手紙とどいたんだ。さとり様に」 「お手紙?」お燐は引っくり返った椅子を立て直しながら、問い返した。 「うん」おくうは大きく頷いた。「お燐、朝からお出かけしてたでしょ?」 「まあネ。深夜から出てたケド」 「お燐がいない間に、郵便屋さんが来たの。さとり様宛てのお手紙だよ」 「ははァ、なるほど。それを、おくうが受け取ったンだネ?」 「うん。それで、さとり様にお渡ししようと思ったんだけどさー」  屋敷内のどこにも、主人の姿は見当たらない。  地霊殿で働いている他のペットたちにも聞いてみたが、誰ひとり心当たりのある者はいなかった。  おくうと最も親しく、このマイペースな地獄鴉のストッパー役にもなっているお燐は、たまたま留守にしていた。  そういうわけで、屋敷内の誰もが止められぬままに、おくうは目的を果たすまで屋敷内をずっと彷徨い続けることになったのである。そうは言っても、空腹に耐え切れず、その目的は途中ですり替わってしまったのだが。 「で、その手紙はどこにあるのサ」 「えーと……」自分の衣服のあちこちをしばらく探ったのち、おくうは呆然とした顔で言った。「なくした」 「なくすなッ!」  届けられた手紙を直接受け取って、お腹が鳴り始めた頃に持っていたことまでは覚えている。しかし、その後で手紙をどこにやったのか、ということまでは覚えていないのだ。 「わわわどうしよう」 「今さら焦り始めたヨ。まったく……」お燐はそう言って、もう何度目かも解らない溜息をついた。「差出人の名前は? 覚えてないカナ?」 「覚えてない」 「やっぱりネ……」  それから、どうして主人の姿が見当たらないのか、という話になった。 「昨日の夜から、お姿を見ていないよ」 「書斎に籠もってらっしゃるンだろう」 「いなかったよ」 「エッ」驚いて、上身をのけぞらせるお燐。「勝手に、部屋の扉開けたの?」 「声は掛けたけど。お返事なかったから、開けた。ご病気だったら大変だから」 「なるほど……そういう気は、回るんだよネェ」感慨深げにうなずくお燐。 「?」おくうは首をかしげた。 「あたいが留守にしている間に、お出掛けになったンじゃないかネ? おくうが忘れてるだけでサ」 「うにゅー、そんなことないよう。お燐、ひどいなー」 「あァ、ごめん、ごめんヨ」お燐は心底申し訳なさそうな顔になった。「可能性として、確認したかっただけサ。おくうがそう言うンだったら、それで間違いないネ」 「あっ! そうだ。ひとつ気になったことがあった」 「何?」 「机の上にさー、紙がたくさん散らかしてあったんだ」おくうは両の手首を振って、ばらばら、という状態を表現した。  最初は、メモか何か書いて、出しっぱなしにしてあるのかと思った。それが隙間風か何かのいたずらで、床にまで散らばってしまったのだろうと。しかし、窓は締め切ってあったし、机の周辺以外に荒れている箇所は見当たらない。  おくうは、紙に書かれていることを勝手に覗いてしまうのはよくないと感じたが、散らかしたままにしておくのもよくないと考えて、内容を見ないように気を付けながら片付けることにした。 「それでも、書いてあることが、ちょっとだけ見えちゃって。私、文字の読み書きは苦手だから、よく解らなかったんだけど……日記みたいだったな。日付が書いてあったし。これって、おかしいと思わない?」 「うーん……確かに、そいつは妙だネェ」  二人とも、自分たちの主人が日記をつけていることは知っていたが、それと同時に、ものを散らかしたまま部屋を空けるような人物ではないこともよく理解している。そして少なくとも、地霊殿に従事しているペットたちの中には、勝手に主人の部屋に上がりこんで、書類を散らかすようないたずら者はいない。 「あと、そうだ。インクのつぼが開けっ放しになってた」  筆の先も乾いておらず、そのまま投げ出されていたため、何枚かの紙が汚れていたことも思い出した。 「なるほど」お燐は言葉を咀嚼するようにうなずいた。「おくう。ってことは、つまりだヨ。さとり様は、部屋に居たんじゃないかネェ?」 「書斎に? それはないよ」さほど広くはない部屋の落ち着いた内装を思い浮かべながら、おくうは言った。「私、もちろん失礼のない程度にだけどさ、部屋じゅう捜してみたんだよ。それでも、見当たらなかった」 「だったら、どこかに隠れてたンだ。おくうが来たから」 「どうして?」おくうは声のトーンを高めて驚いた。 「解らない。さとり様は、あたいたちに何か隠し事をしているのかもしれない」  おくうには、そのように語るお燐の表情から、血の気が引いていくさまがはっきりと見て取れた。そして、その理由もすぐに察することができた。  お燐はおそらく、あのことを懸念しているのだろう。  今より一年前に地霊殿を襲った、恐るべき侵入者――『紅い悪魔』のことを。 「まさか」信じ難い、と言うよりも、信じたくない。「さとり様は、私たちの目の前で、あいつの服の残骸を散らしてみせたじゃない」 「でも、あたいたちは、服しか見ていない。さとり様は、吸血鬼の死体を灼熱地獄跡に放り込んだとおっしゃっていたケド、その瞬間を目撃していた者は?」  おくうは息を呑んだ。  誰か一人でも、それを見ていた者か、そういう行動を察していた者がいれば、話は別だ。しかし、灼熱地獄跡での仕事を任されているおくうが、主人のそういう行いを目撃したり、同じ場所で働く仲間たちから「そんなことがあった」という話を聞いたりしたことは、一度もないのだ。  もちろん、そういった疑問は以前からお燐に指摘されていた部分ではあったが、お燐が心配性しすぎなのだと言って、誤魔化していた。本当は、自分の心のなかにもわだかまっていたことであったし、主人の不可解な失踪現場を目の当たりにした後となれば、話は違ってくる。 「いま一度、確認する必要があるネ。さとり様は、間違いなく書斎にいる。今から二人で、行ってみようじゃないカ」  それからお燐は、「お姉さんには、もう少し外で待っていてもらおう」と申し訳なさそうに付け加えた。  そうして、おくうが頷こうとした時である。  ――ズゥゥゥゥン。  不可解な爆発音。  屋敷全体が地震のように大きく揺れた。 「……ッ?」お燐は目を見開きながら、音のした方向を見ている。 「――――」  おくうもそちらへ目を向けた。館の一階、主人の書斎へと続く通路だ。 「さとり様ッ!」 「さとり様ぁっ!」  間もなくして、二人は必死の形相で駆け出した。      ***  その恐るべき侵入者は、私たちの日常に唐突に割り込んできました。  金色の髪に、紅い服。病的なまでに白い肌――そして何よりも、紅い眼をギラギラと光らせた、不気味な姿が印象的でした。  分厚い玄関扉を無造作に破壊して侵入してきたそいつは、裂けそうなほどに口を歪めて笑っていました。そうすると、鋭い牙が剥き出しになって、ひと目で私の心に植え付けられた恐怖心はいっそう掻き立てられました。 「オネエサマ? オネエサマ? アソビマショ、アソビマショ!」  そういう意味の解らないことを何度も繰り返し叫びながら、そいつは笑った顔のままで暴れ回りました。放たれる紅い弾幕が頑丈な壁をいとも簡単に叩き崩し、右手に握った漆黒の剣を炎のように燃え上がらせたかと思うと、太い支柱があっさりと切り崩されていました。  私は、他のペットたちと一緒になって戦いましたが、情けないことに、いちばん初めに吹き飛ばされて、気を失ってしまいました。意識を失うまでの刹那に、どういうわけか、こいし様のお姿が見えたような気がしたことを覚えています。  私が目を覚ますと、すべてが終わっていました。  地霊殿は、ほとんど倒壊寸前にまで至りました。崩れ落ちた屋根が地に覆いかぶさり、切り倒された柱が別の部屋の内装を巻き込んで叩き割り――それは悪夢か、ともすればこの世の終わりの光景のようにさえ思いました。  動ける者たちが、私のように傷ついて倒れた者の看護をしてくれました。お燐は、紅い悪魔が猛威を振るっていたさなかに、さとり様から旧都に行って助けを呼んでくるように指示されていたので、傷ひとつなく無事でした。お燐が応援を連れて戻って来た時にはもう、騒ぎは鎮められていたそうですが、さとり様ご自身もご無事でいらっしゃいました。  ベッドの横に立っている二人の姿を見て、私は「よかったねえ」と言って笑ったのですが、そうしたら、お燐に泣きながら叱られました。  もっと自分の身を心配しろ、と言うのです。  自分のことなんか、どうでもいいのに。  私は、周りのみんなが幸せであることが、いちばん大事なことであると思います。  もし私が死んでしまっても、お燐が拾ってくれるから幸せだな、ということならば考えていましたが、さとり様に注意されたので、それは言わないことにしました。  さとり様は、どんなことでもお見通しです。      ***  二人が書斎に駆けつけるまでにも、お屋敷の中に何度か轟音が響き渡った。  書斎の前には、すでに騒ぎを聞きつけた者が数名寄り集まっていたが、皆が扉を開けるのをためらっていた。皆、怯えきっている。主人の言いつけを守って、部屋に入ろうとしない者もいるのだろう。おくうには、その行いを責めることができない。 「さとり様っ!」  集っていた者たちの間を割って、おくうは真っ先に書斎へと飛び込んだ。  しかし――そこには主人の姿どころか、その人柄によく合った、落ち着いた部屋の光景すら存在しなかった。開いた扉の先には、ただ荒涼たる旧地獄の薄闇ばかりが広がっていた。漆塗りのデスクは木片と化し、ぶち抜かれた壁の瓦礫に埋もれている。 「ひどい……」  頭の中で、焦りと怒りと悲しみが混濁した。  主人はどこへ行ったのだろう。  無事なのだろうか?  一体、何が起きたのだろう―― 「おくう、こっち来てみナ」  後から入ってきたお燐が、鋭い声音で呼んだ。  お燐は、六角柱の形をした長い棒を持っていた。二の腕の三倍はあろう黄金色の金属棒は、おくうの持ち物である。すっかり忘れていたことだったが、片付けをしたときに、書斎に置きっ放しにしてあったのだ。  おくうは感謝しながら、見る者に不可解な印象を与えるこの金属棒を受け取った。そうして、片側に空いた穴から、籠手をはめた右腕を差し入れる。ガチャリという硬質な音がして、黄金色の棒は、肘のところでぴったりと止まった。  それが今の地獄鴉の、完成された本来の姿なのだ。  しかしながら、お燐が呼んだ理由は、どうやら金属棒を手渡すためではないらしい。 「見てみなヨ、これ」  部屋の奥の壁は破壊し尽くされているが、側面の壁はまだ辛うじて原型を留めている。お燐が示すほうを見ると、大きな本棚が転倒して、その先に階段のようなものが続いていた。 「隠し通路だネ」 「さとり様は、この先に?」 「……居てくれたら、いいんだケド」  二人は壁に手をつきながら、暗い階段を下りていった。下方から届く薄明かりを頼りに、危うい足取りで進む。その結果、やがて広大な空間に行き着いた。  まるで、子供部屋のような地下室だった。  このお屋敷の大広間と同じくらいの空間に、さまざまの玩具が置かれ、壁や天井などは、主人の趣味とはまるで正反対の豪奢な装飾によって華やかに彩られていた。しかしながら、それらはすべて巨大な怪物の爪痕によって引き裂かれ、凄惨な様相を呈している。  扉の残骸、ストロベリーソースみたいな色の破片を踏みつけて、おくうは部屋じゅうを見渡してみたが、そこには何者の姿も見当たらない。 「何をするための部屋だろう」 「少なくとも、ご自分のためにこしらえた遊園地ではないだろうネ」  部屋の中心には、ベッドや食器の残骸もある。  ――一体、誰がこの部屋で暮らしていたのだ?  そういう疑問を浮かべて、まず思い当たる姿は、ひとつしかない。 「紅い悪魔……」おくうはハッとして、つぶやいた。「さとり様は、ここで紅い悪魔を飼っていた……?」 「そんなこと、あるワケがない……」  そう言いながらも、お燐は内心、可能性を否定しきれないようであった。  おくうが改めて部屋の中を見回していると、ふと階段のほうから、あわただしい足音が響いてきた。二人は振り返って、主人か、もしくはこの惨状をつくりだした犯人かと疑い、身構える。  しかしながら――そこに現れたのは、見張り役の少女であった。誰ひとり悪さをはたらこうとして近寄ることのないお屋敷であったが、紅い悪魔の事件以来、地霊殿の上階には申し訳程度に見張り役が設置されている。  ペットたちのまとめ役は別にいるのだが、お燐は群を抜いて有能であったため、他の者たちよりもある程度は上の立場に在る。何かあったのかとお燐が聞くと、見張り役の少女は息を切らしながら、重大な発見を報告したのであった。  ――さとり様が飛行して、旧都のほうへと向かっていった。      ***  紅い悪魔の襲来から、少しの日が経ちました。  旧都の妖怪たちは、さとり様のことを不気味がって近付こうとはしませんでしたが、 鬼たちが協力してくれたお陰で、地霊殿はすぐに復興しました。  怪我が治ってから、私はお燐と二人で大広間に呼び出されました。  大広間は昔、地霊殿が地霊殿ではなかった頃に、閻魔さまの裁判に使われていた部屋だといいます。白い壁に囲まれた薄暗いその部屋で、私たちはさとり様のお話をうかがっていました。  ――吸血鬼は、始末しました。  さとり様は、忘れもしないあの紅い衣服の断片を散らして、そうおっしゃいました。  紅い悪魔は、さとり様のお力によって滅び去ったのです。  お燐はその時から、本当に脅威は去ったのかという心配をしているようでした。しかし、私はそれよりも、もっと苦しい思いを抱いていました。  私に、もっと力があれば。  私に力があれば、地霊殿を壊されることもなかったろうに。  私に力があれば、他のみんなを護ることができたろうに。  私に力があれば、さとり様が危ない目に遭うこともなかったろうに。  どれだけ努力しても、私の力は強くなりません。  もっと、力が欲しいのに。  ああ、どうか私に。  みんなを護れるくらいの、強い力を下さい。  神様、どうかお願いです――      ***  見張り役の報告を受けてすぐに、おくうは地霊殿を飛び出した。  ――さとり様に会わなければならない。会って、何が起きているのか聞かなければ。  おくうの後を追って、お燐が飛んでくる。二人はそうして旧都へ急ぐさなか、その信じがたい光景の片鱗を、すでにその目に映していた。  遠目に見た旧都が、いつもよりも不思議と明るいような気がしたのだ。  なんだか騒がしい音や、悲鳴のような声まで聞こえてくる。  そうして、近付くにつれ次第に明らかになってきた光景は、今や二人の眼前に確かなものとして広がっていた。 「何だよ、これ……」  おくうは我が目を疑った。  旧都が。  旧地獄の大都市が――炎上している。  温泉街のような、薄明かりに揺れる賑やかな街並みが崩れ落ち、瓦礫の山と化している。街灯りとして妖怪たちを穏やかな気持ちにさせてくれた提灯は、向かいの屋根同士を結びつける紐ごと燃え上がって、不本意な明るさを放っていた。  鬼たちが、声を荒げて街の住人たちを避難させている。崩壊の中心地が警備の整った繁華街であったことが逆に幸いし、見たところ逃げ遅れた者や大きな怪我を負っている者はいないが、このままでは被害はさらに拡大してゆくだろう。  本当に、ひどい有り様であった。 「許せない……」  腹の底から怒りが湧き上がるのを感じた。  旧地獄に移り住んで以来、昔のように主人と一緒に散歩することがなくなっていたので、おくうは寂しかった。そんな気持ちを察してか、忌避の視線の対象になることを解っていながら、主人のほうから「お出かけしましょう」と誘ってくれた時があった。賑やかな街並みを歩いたことを思い出していた。お燐も一緒にいて、地獄焼きを買ってもらって、三人で並んで食べたのだ。  無理はして欲しくなかったが、主人が自分から街へ出て行くことは、周囲の理解を得ることへの足がかりになると思ったので、おくうはとても嬉しい気持ちになった。  おくうは、同じ地上を追われた者として、いつか街の妖怪たちが主人のことを受け入れてくれる日がくると、信じてやまなかったのである。  ――さとり様はこんなにもお優しいのだから、いつか皆も解ってくれるに違いない。  だから、主人を忌み嫌っている旧都の妖怪たちを、おくうが責めたり嫌ったりするようなことは、ほとんどなかった。  そんな妖怪たちの暮らす旧都が、燃えている。  思い出と親しみに包まれた地底の都市が、悲鳴を上げている。  おくうが怒りに顔を歪めるのも、至極当然のことであった。 「……さとり様? そうだ、さとり様はッ?」  ふと、肝心の主人の姿が見当たらないことで、心配の気持ちが膨れ上がる。 「おくう!」お燐が呼ぶ声を受け、振り返った。「あたいは、西のほうを当たってみる! だからおくうは、反対側を頼むヨ!」  おくうがうなずいて応えるのも見ないうちに、お燐は炎上する街並みへと姿を消した。主人を心配して、お燐も必死なのだ。きっと、同じ思いを抱いているに違いない。  その時――遠くのほうから、ひときわ大きな地響きが聞こえてきた。  そちらを見やると、何か得体の知れない紅い光が閃くところが目に入った。大通りの東側、住宅街になっているエリアだ。お燐に指示されたのも、同じ方向。  おくうは怒りと悲しみに揺れる気持ちのかたわらで、異様な胸騒ぎを感じていた。  そうして、何か得体の知れない力に引き付けられるように、おくうは不気味な紅い光を目指して飛んでゆく。  その右肘の先で、六角柱の形をした金属棒が、炎を映して煌いていた。      ***  ある日、神様が舞い降りて来ました。  私の祈りが届いたのです。  私は大いなる意思の声を聞きました。  ――貴方には、究極の力を得る資格があります。  次の瞬間、私は光に包まれていました。  右腕と右足に、焼け付くような痛みを感じたことをよく覚えています。  激痛から目が覚めると、私はもう非力な地獄鴉ではなくなっていました。  神様は、私に強い力を宿して下さったのです。  私は太陽の力を持つ三本足の烏に生まれ変わったのです。  憎たらしい小僧になど負けません。  恐ろしい悪魔さえも圧倒できる力に違いありません。  そう思うと、胸の中心に沸き立つような熱さを感じました。  私は神様から授かった力の想像以上に強いことを面白がって、それからずっと、灼熱地獄の跡地でその力を使い続けていました。  私が太陽の力を試していると、お燐がやって来ました。この力をお燐に見せたら、きっと羨ましがるに違いないと考えていた私は、胸を張って自慢しました。  けれどもお燐は、生まれ変わった私の姿を見て、顔を青くして言いました。  ――その力は、さとり様に見せてはいけない。  おかしなことを言うなあ、と私は思いました。  この力さえあれば、さとり様をお護りすることができるのに。  この力さえあれば、さとり様や、旧都に暮らす者たちを地底に追いやった、地上の連中に復讐することができるのに。  旧地獄の灼熱の火力が上がってゆくのを知っていましたが、私はもうそんなことは気にしませんでした。  このまま熱を上げて、地上を灼熱地獄に変えてやるのです。  この太陽の力さえあれば、もうどんなことだってできるに違いないのです――      *** 「さとり様ぁーっ!」  息を切らしながら、おくうは呼び掛ける。  燃え上がる街並みの上空に、その姿は在った。 「ご無事でよかった!」おくうは安堵の笑みを浮かべた。「ずっと捜していました。ああ、そうだ! 先ほど、このあたりで紅い光が閃くのを見ました。ここは危険です、避難しましょう!」  よく見慣れた、水色の服を着た後ろ姿に向けて、おくうは語りかける。  しかし、返事はない。主と思しき影は、何も言わずに炎上する街を見下ろしている。 「さとり様……?」  おかしい。  炎の明かりが下から照り付けているせいで、頭の部分がよく見えないが――左側の髪だけが長い。おくうの主人は、薄紫色の短い髪の持ち主だ。初めは炎を反射している関係でそう見えるのかと思ったが、どうもあの髪は金色に輝いているらしい。  背中には羽根のようなものが生えている。虹色にも近い、八色の水晶が並んでいた。  加えて、右手に握られた黒い棒状のもの。先端が、悪魔の尾ように丸く尖った形をしている。おくうの主人は、あんな不可解なものを持ち歩く趣味はない。  しかし、服装だけを見れば、確かに敬愛すべき主の姿をしているのだ。あの水色の上着の肩にとまって、散歩しながらお話したことをよく覚えている。 「さとり様? お燐も心配しています、早く避難を――」  言いかけた言葉は、喉元で停止してしまった。  爆心地の宙に浮かんでいるその影が、ゆっくりと振り返ったのだ。 「アハッ」  紅い瞳。  裂けそうなくらい歪んだ口。 「――――」  おくうは息を呑んだ。  主人の服を身にまとった――紅い悪魔がそこに居る。  理解できない。  何が起こっている?  あれは、大好きな主人の服だ。  独りぼっちになってしまった私に優しくして下さった、大好きな主人の服だ。  まさか。  まさかまさかまさか。  冷たい汗が頬を伝う。  暑さなど慣れっこであるはずの地獄鴉が、汗を垂らして凍りついている。 「……さとり様、は?」そして、恐る恐る、口を開く。「さとり様を、どこへやった?」  状況から行き着く想像はひとつしかない。  だが、まさか。  そんなはずはないのだ。  そんなことがあってはならないのだ! 「アハッ?」  混濁する思考を突き破って、紅い悪魔が首をかしげた。  そして――心の底から愉快そうに、無邪気な口調でこう言った。 「コワレチャッタ」  そ。  ん。  な。 「オニンギョウ、コワレチャッタ」  何、を。言って。  こいつは。  壊れ? た?  そ、な。ばか、な。 「デモ、アタラシイオニンギョウ、キタ。オネエサマ、アリガトウ! オネエサマ、ダァイスキ! アハッ。ハッ。ケキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャ!」  涎を垂らして甲高い奇声を上げる、紅い瞳の狂った少女。  だが――おくうの耳には、すでに一切の音が届いていない。 「……返せ」 「アハッ?」  目玉が飛び出しそうなほどにまぶたを開いて、紅い悪魔がこちらを見ている。  だが――おくうの心の中には、すでに恐怖を感じられるだけの余裕がない。 「さとり様を、返せ」  激情は、静かに爆発した。  おくうの目には、もう何も映らない。  おくうの耳には、もう何も聞こえない。  おくうの心には、もう何も感じられない。  頭上に、漆黒の球体が出現した。  それは、徐々に白い光を放ち始める。  球体を中心として、光が肥大化してゆく。  ヤタガラスの力は、太陽の力だ。  それは――人類が求めた究極の力。  核融合。  衛星をまとう左足は、分解の足。  岩石のような右足は、融合の足。  そして、右腕を覆う黄金色の六角柱は、第三の足――制御棒。  それは、山の神より授かった力。  霊烏路空は三本足の烏となって、究極の核融合の力を操ることができる。  しかし、その力はひとたび使い方を誤れば、大惨事を引き起こす。  光の膨張は続く。真っ白な光球は、すでに身の丈の五倍ほどに膨れ上がっていた。  これは、あまりにも危険な状況である。  無我の境地において、力が暴走しているのだ。  おくうは何も考えていない。怒りも悲しみも苦しみも憎しみもすべて通り越して、頭の中は真っ白に塗り潰されてしまっていた。  紅い悪魔のことなど、すでに考えてはいない。  暴走した感情だけが、無意識の波に乗って外へ押し流されている。  光の膨張は止まらない。例えば地霊殿くらいの建物ならば、もう跡形もなく消し去ることができるだろう。  止める者はいない。  光は、遥か遠方まで届いている。鬼たちを中心に多くの者たちが街を壊した犯人を必死に捜しているため、異変を見つけた誰かがこちらへと向かっているだろうが、この場にはまだ、激情に駆られた末に自分を見失ってしまった地獄鴉と、自身をも呑み込まんとしている危機を面白そうに眺める紅い悪魔の姿しかない。  このままでは、あの光はやがて街一つ呑み込めるまでに膨れ上がってしまうだろう。  そうなれば、地下の世界だけではなく、それを地盤の下に収めている地上の世界までもが崩壊し、破滅してしまうことになる。  誰かが、止めなければならない。  だが、おくうにはもう、何も見えてはいない。  何も見えない、何者の姿もない、ただ真っ白な無意識の世界だけが、そこにある。  そう――そのはずだった。  ――おくう。  声。  真っ白な世界の中に、声が響き渡っている。  ――おくう。ねえ、おくう。  おくうの耳には、一切の音が届いていないはずだ。  それなのに、その声はまるで、脳に直接ささやきかけているかのように、頭の中に不思議な浮遊感をともなって反響していた。  ――ほら。今度は、おくうが追いかける番なんだよ。  菜の花色のスモックブラウス。  黒い山高帽をかぶった、可愛らしい姿。  その少女は、真っ白な『無』の世界に立って、当たり前のように笑っていた。 「こいし様……?」  敬愛する主人の面影。妹なのだから、よく似ていて当然だ。  主人とは違う、ぱっちりと開いた大きな目が魅力的だった。  いつも一緒に追いかけっこをして遊んでくれた、大好きな少女がそこに居た。  ――さあ、おくう、かかってきなさい。私の逃げ足は、一流なんだよ。  まったく、おかしなことを言う人だ。それでは、自慢になっているのか、卑屈になっているのか、いまひとつ判然としないではないか。  おくうの顔から、しぜんと笑みがこぼれる。 「わあ、こいし様ったら。私の捕り物のほうが、一流ですよーだ」  ――ちょっと、ちょっと。おくう、それはねえ、矛盾って言うんだよ。 「あっ、そうかぁ!」  ――あはは。おくうは、昔っからそんな感じだね。 「うにゅー。あいにく鳥頭なので、忘れっぽいのは勘弁してくださいよう」  ――ごめん、ごめん。それじゃ、盾と矛、どっちが強いかハッキリさせなきゃだね。 「いいですよー。覚悟してください!」  真っ白な世界で、二人は笑っていた。  頭の上に膨らんでいる、光の球が邪魔だなと感じた。  そのように思ったのではなく、ただ無意識の中でそう感じただけだ。だから、次の瞬間にはもう、右腕を振るって、重たい球を上のほうに向かって投げ捨てていた。  そしておくうは、菜の花色の少女を追いかけてゆく。  失われてしまったはずの、大好きな人の、大好きな姿を追いかけてゆく。  このまま、ずうっと夢みたいに過ごせたらいいのに、という気持ちになった。  背中に熱く鋭い衝撃が走ったことさえ、おくうにはちっとも気にならなかった。      ***  巫女と魔法使いがやって来ました。  その人間たちは、地上からやって来たかと思うと、間欠泉がどうこうと言って、私が力を使うことを咎めたのです。  私は、その人間たちと戦いました。  地底の最深部まで潜って来られるということは、相当な実力者であるのに違いありません。そんな人間たちを駆逐することによって、私が持っている究極の力の恐ろしさを、地上の者たちに知らしめるきっかけになるはずでした。  けれども、私は巫女と魔法使いに敗北してしまいました。  こんなに強い力なのに、どうして敵わないのか、不思議でなりませんでした。  私は結局、弱いままなのかと、苦しみました。  究極の力を手に入れても、誰の役にも立つことはできないのだろうかと。  しかし、さとり様は、すべての行いを赦した上で、私にこうおっしゃいました。  ――ありがとう。  私は何もできなかったのに。  むしろ迷惑さえ掛けてしまったというのに、さとり様はそう言って、ただ静かに微笑んでくださったのです。  私がいちばん護りたかったものが、そこには在りました。  私は、自分を見失っていたことに気が付きました。愚かな自分が、ただ強い力を手に入れるだけでは、何ひとつ護るもことはできないのだということを理解しました。  私は、自分のことなどどうでもいいという考えが、大きな間違いであることに気が付きました。自分の心がうしなわれてしまった時に、私の大切な人たちはとても悲しい思いをするのだということを理解しました。  皆を護ろうという気持ちは、皆を護ろうとする私の行いとは矛盾していたのです。  さとり様も、お燐も、他の地霊殿のみんなも、私の身体を心配してくれました。  私ばかりが苦しむことなど、誰ひとり望んではいなかったのです。  そうして、私が幸せだと、みんなも幸せなのだということに、私はようやく気付きました。  その時、私は初めて、誰かを護るための本当の力を手に入れることができたのだと思いました。      *** 「おくうッ!」  お燐が駆けつけた時には、光はもうすっかり消え去っていた。  見上げると、頭上には巨大な穴が開いており、遥か上方へ向かって光の道が続いている。お燐はこの場所に向かう途中、光の球が天井を突き破って穴を開ける瞬間を見ていた。まだ地響きの音が聞こえる。光は消えず、今なお地上を目指しているのだ。  それは壮大であると同時に、あまりにも異様な光景であった。  光の球の正体が、おくうの放った弾幕であることは解っていた。だからこそ、お燐は慌てて駆けつけたのだが――いかに核融合の力といえども、地上と地下を隔てる分厚く硬い土壁を、綺麗な円形の穴を開けて突き抜けてしまうようなことがあるとは、到底思えない。  ――もともと誰かが穴を開けていて、それを隠すために柔らかい土で埋め合わせていたのではないか。  そんな風に考えてしまうくらい、ぽっかりと綺麗に開けられた穴であった。  しかしながら、爆心地に辿り着いた途端、お燐にはもうそんなことを考えられるだけの余裕はなくなってしまった。  天井に開いた穴と、炎上する建物とのあいだの空中で、紅い悪魔が笑っていた。  ――さとり様の服を着ている。どうして?  困惑が、さらなる混沌によって掻き乱される。  お燐よりも先に現場に到着していた妖怪たちが、ことごとく傷を負い、倒れ伏している。負傷者の中には、絶対的な力を有しているはずの鬼の姿まで見受けられた。 「おくう、しっかりして! 死んじゃダメだヨ、おくうッ!」  お燐が発見した時、おくうは背中から大量の血を流して倒れていた。  うつ伏せになった顔を覗き込んでも、少しも反応を示す様子はない。意識をうしなっているだけであることは、すぐに解った。しかし同時に、死者に深い関わりのある能力を持つお燐には、このままではいずれ命を落としてしまうことが、予感ではない確かな現実として理解できてしまった。 「オニンギョウ。ゼンブ、コワレチャッタ。ツマンナイ。オネエサマ、モット、オニンギョウチョウダイ。コワレナイオニンギョウ、チョウダイ。アハッ。クキキ。クケ。クケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケ」  上空から、甲高い笑い声が響き渡ってくる。  お燐は、激情に顔を歪めた。  射殺すような鋭い眼差しと、牙を剥き出しにした、獲物を狩る獣の表情だ。  地に倒れ伏したおくうの顔は、不思議なことに、穏やかに微笑んでいた。そのことがいっそう、お燐の怒りを掻き立てる。  こんなに優しい子が、どうして傷付かなければならないのか、理解できなかった。  そういう思いに揺れるさなか、気が付いたらもう、お燐は空中へと飛び出していた。 「アハッ」  紅い悪魔が、右手に握った黒い棒を振りかざした。すると、それは炎の燃え上がるような紅色の光を放って、巨大な剣に姿を変えた。  お燐は、怒りに任せて猛スピードで接近している。それゆえに、あまりにも強大な紅色の狂気を目の当たりにして、ふと我に返った時には、もう歯止めは利かなかった。 「――――」  眼前に、紅色の凶刃が迫る。  回避できない。  武器を持たない現状、相手の攻撃を強引に打ち破る手段もない。  ああ、これまでか。  ふと、地に伏して微笑んでいる、愛すべき親友の顔を思い浮かべた。  おくうは、誰かを護る夢を見ているのだろうか。  それとも、誰かと一緒に遊ぶ夢を見ているのだろうか――      ***  大切なお話をひとつ、忘れていました。  本来ならば途中に挟むべきだったのですが、いくら私が鳥頭でも、このお話をうっかり欠かしてしまうことは許されませんので、ここに後付けさせて頂きます。  それは――お燐と私が、初めて出会った日のことです。  その日、こいし様が出掛けたきりお戻りにならないので、さとり様はひどくご心配になって、いよいよ捜しに出掛けることにしました。  さとり様おひとりでは心配でしたので、私は空からこいし様を捜すお手伝いをしました。しかしながら、その成果は芳しくないものでありました。思えばその日から、地霊殿でお変わりになったお姿を見掛けるまで、私はこいし様のお姿を見ていません。  私がお燐と出会ったのは、そんな折の出来事でした。  血の泉が広がっていて、辺りには生臭いにおいが漂っていました。  飛び回るのに疲れていた私は、さとり様の肩の上から、その光景を眺めていました。  それは、バラバラに引き裂かれた人間の男の死体でした。  五体はすべて汚く切断されて飛散し、血に濡れた顔面は辛うじて原型を留めている程度でしたが、私は左目の潰れたその顔を忘れているはずもありませんでした。  すでに大きく成長した身ではありましたが、くちばしでつつかれて使い物にならなくなった左目にも、何もかもをあざ笑うように歪んだ右目のかたちにも、私の母親を残酷に殴り殺した、あの憎たらしい小僧の面影がしっかりと残っていたのです。  黒猫は、何とも言い表し難い静かな表情で、その憎き男の死体をじっと眺めていました。後から考えると、お燐は死体に引き寄せられてやって来たのだと思います。  さとり様は私の時と同じように、人々から蔑まれていた孤独な黒猫を拾って、家族の一員として温かく迎え入れました。  誰があの男を殺したのかという事実については、あれから百年以上の時が過ぎ去った今でも、犯人以外の誰にも知られていないということになっています。  ですが、そのように長いあいだ隠され続けている真実さえも、さとり様はとっくのとうにお見通しであったのかもしれません。
第四章
第四章 インビジブルハート  今はもう打ち捨てられて、原型をとどめてはいないでしょうが、妖怪の山の麓の森には、かつて小さな藁葺き屋根の家が建っていました。  私は初め、その家に妹と二人きりで暮らしていました。  ある時、由緒正しき博麗神社の神主さまによって家のそばに分社が建てられたので、私たちは人間に恐れられることの多い妖怪の身ではありましたが、いつも神様の力に護られているように感じながら、平和な日々を送っていました。  と、言うのも、私たち姉妹は、生まれ持った能力を隠して、ひっそりと生きてゆかざるを得なかったのです。そんな私たちのかたわらにも、神様がいるのだと考えると、気持ちが安らかになるのでした。  私たち姉妹は、相手が人間であろうと動物であろうと、あるいは妖怪であろうとも、その「心を読むことができる」という能力を有していました。あなたはこれを聞いて、とても便利な力であるように思っていますが、それはとんでもない間違いなのです。  私たち姉妹の力は、あまりに強く、意識的に制御する必要がありました。それは無意識であると言うよりは、精神とは関係なく常に動き続けている心臓のような、身体的な機能として備わっている能力だったのです。読みたくもない心を読んでしまうことは、苦痛でしかありませんでした。  強すぎる力を抑えるために、私は血の滲むような努力をしました。読みたくもない心を読んでしまうことは、自分にとっても、また相手にとっても嫌なことです。心を読む側にとっては苦痛であり、読まれる側にとっては不気味なことでしかないのです。  そういう意味でも、私は神様に護られているような気持ちを大切に抱き続けていたのかもしれません。博麗の分社をじっと見つめていても、神様の心だけは読むことができなかったからです。      ***  古明地さとり。  地底の深奥で灼熱地獄の跡地を管理している、地霊殿と呼ばれる館の主だ。  そんな肩書きに相反して、さとりは柔らかいパーマのかかった薄紫色の髪に、水色のスモックブラウスを着た可愛らしい少女の姿をしている。色白な高い鼻の両脇に浮かぶ眠たそうな目は、そういう部分だけを選りすぐって観察すれば、「のんびりとした美少女」というイメージが与えられるかもしれない。  しかしながら――アクセサリーを考慮するだけで、話は大きく違ってくる。  左胸の前にじっとりと浮かんでいる、目玉の形をした紅い装飾具のようなものが、全体の美的な印象を暗澹たる不気味さによって塗り潰してしまっているのだ。紅い目玉からは血管のようなチューブが伸びており、そのカラーを途中で黄色に置き換えながら、カチューシャや両腕の袖、首元に取り付けられたハート型のブローチに接続している。その様子がまるで点滴を打っているかのようにも見え、肌の白いことも手伝って、陰鬱で不健康そうな雰囲気を感じさせるのだ。 「さあ……待たせたわね……」  さとりは、その部屋の真紅の扉をゆっくりと引いて開けると、その扉が開く音と同じくらい静かな声で呼び掛けた。その声はまるで、ほの暗い水底からぼんやりと浮き上がってくるかのように、広大な部屋の中で控えめに反響した。  奇妙なことに、さとり自身が醸し出している暗澹たる雰囲気と、たった今さとりが居る部屋の雰囲気とは、あまりにも対照的で掛け離れていた。  煌びやかなシャンデリアに、真っ赤なじゅうたん、クマのぬいぐるみ、着せ替え人形、天蓋つきのベッド――夢いっぱいの子供部屋を、そのまま図書館大の空間にまで拡げたような、ともすれば悪趣味な光景。  さとりの書斎の本棚の裏には、隠し通路がある。これは、この建物が灼熱地獄の施設であった頃につくられた、非公式的な拷問部屋への入口であった。そしてこの部屋こそが、その拷問部屋を改造してつくった秘密の地下室なのだ。  さとりは両手で鉄製のトレイを抱えながら、部屋の真ん中に置かれた小さな円卓へと歩み寄る。  その影は、円卓の席にちょこんと座って、無邪気に着せ替え人形で遊んでいた。  水色のスモックブラウスに、白薔薇模様のスカート。古明地さとりと、まるで同じ服装をしている少女が、そこに居た。  しかし、同じ服を着ているせいで、異なる部分がかえって目立つ。左側だけが長い金色の髪と、背中から生えた二本の黒い木の枝のようなもの。その枝の途中には、クリスマスツリーの飾りみたいに、八色の水晶が吊り下がっている。  そして、何よりも特徴的なのは――ルビーのような紅い瞳。 「お夕飯の時間よ……」 「わぁい!」金色の髪の少女は、さとりの声を聞きつけて目を輝かせている。「ねえ、まりさ、おゆうはんだって! いっしょにたべよ!」  紅い瞳の少女は、それまで遊んでいた人形を隣の椅子の上にそっと座らせてやった。  さとりは円卓まで辿り着くと、おもむろに少女の向かいの席に着いた。いかんせん、子供用のおもちゃの椅子なので、座り心地がよろしくないのは我慢するしかない。 「さとりさま、きょうのおゆうはんは、なぁに?」丸い瞳が、こちらを見つめている。 「シチューよ……」 「おにくはいってる?」 「ええ……もちろん。あなたのために……牛肉をたっぷり……」 「やったあ! さとりさま、ありがとう!」 「ふふ……」  そうして、円卓の上にはスプーンとフォーク、湯気を立てるビーフシチューに、バターを添えたパンの皿、そして血のように紅い色をしたワインのグラスが並べられた。さとり自身の夕食は、すでに済ませてある。これは「夜食だ」と嘘をついて、料理人に特別に作らせたものだ。  この秘密の晩餐は、さとりが自分で用意することもあるのだが、先に述べたとおり他人に嘘をついて作らせている場合のほうが多いため、近ごろ屋敷内のペットたちの間では「さとり様がお太りになられてしまうのではないか」という心配の声が上がっている。主人を想う気持ちは嬉しいし、涙ぐましくさえもあるのだが、こういう乙女のプライベートな事情に関しては、はっきり言って余計なお世話である。  ペットたちの誤解をときたいのはやまやまであるが、この部屋のことは何としても隠し続けなければならない。手をつけていなかった頃の状態であったならば、面白くて秘密にしていただけだったので、まだ知られても良かったのだが、紅い瞳の少女の生活空間と成り変わっている現状、この部屋のことが明るみに出てしまうのはまずい。  なぜならば、この少女こそが、今より一年前に地霊殿を襲った『紅い悪魔』――フランドール・スカーレットなのだから。 「フラン……」 「はぁい!」  紅い悪魔と呼ばれていた少女は、シチューで口の周りが汚れているのも気にせず、元気に返事をする。 「良い子ね……」さとりは虚空を仰ぎ、煌びやかなシャンデリアを見ている。「いったい何が……あなたを……変えてしまったのかしら」 「さとりさま? わたしは、わたしだよ?」 「そうだったわね……。ふふ……本当に……良い子……」  さとりは、目の前に在る無垢な紅い瞳こそが、この少女の本来の姿であると信じてやまない。何かが、フランの心を狂わせてしまったに違いないのだ。そう考えると、壊れてしまった自分の妹の笑顔が、フランの表情に重なった。 「さとりさま」 「?」 「わたし、おねえさまにあいたいよ」  フランには姉がいるということを、さとりはすでに知っていた。ますます、自分の妹にそっくりな境遇である。  それこそが、地霊殿を半壊させた紅い悪魔を地下に隠し、面倒を見ている理由である。きっかけこそ抽象的な感覚によるものであったが、あの事件から一年の時が経過した今となっては、この純真な少女と会話することは、日々の楽しみにさえ成り変わっている。  そうして、フランの心の、もっと奥深いところを探ってゆくのだ。  打ち捨てられていたこの地下室も、時間を掛けて少しずつ、フランの地上での生活環境に似せていった。そのほうが、『何か』を思い出しやすいと考えたからだ。さとりはその『何か』の全貌を明らかにするために、もっと記憶の深いところまで潜って潜って、サルベージしようとしているのだ。 「ねえ、さとりさま。わたし、いつになったら、おねえさまにあえるのかなぁ」  頬を膨らませながら、フランは寂しそうな顔をしていた。 「もうすぐ」さとりは、小さくうなずいた。「もうすぐ……会えるわ……」  けれどもそれは、フランに対する返答ではなく、あくまで自分に言い聞かせるための言葉であった。  この一年間で、フランドール・スカーレットに対する理解は大いに深まった。  じきに、眠っている記憶へと辿り着けるはずなのだ。  そして、もうすぐ会えるに違いないのだ。  もうすぐ、フランの心の奥に在る、その『何か』に――      *** 《第一二二季・弥生○×日》  地霊殿に、紅い悪魔がやって来た。  悪魔はお屋敷の中で暴力のかぎりを尽くした。そのため、この日記帳も、危うく瓦礫に埋もれて行方知れずとなってしまうところであった。  優秀なペットたちが倒れ伏してゆくさまを見て、私は大いに焦燥した。私は敵の正体を把握するため早急に紅い悪魔の心を視たが、その途端、言い知れぬ恐怖に襲われ、手も足も出なくなってしまったのである。その瞬間、私は心の眼を逸らしてしまった。そうしなければ、あまりにも危険だと判断したためである。  心を覗いた僅かな間にはっきりと理解したのは、細い片腕一本で支柱を薙ぎ倒せる紅い悪魔の力の正体が、物体が持つ最も脆い『目』の部分を手の平の内に移動させ、握りつぶして破壊してしまうという、恐るべきものであるということ。それゆえに、無防備に曝け出してある私の心の眼は、非常に相性が悪いと判断したのだ。私にとっての、あれは天敵とも言うべき存在であろう。  紅い悪魔には敵わないと判断した私は、お燐に旧都へ出向いて応援を呼ぶように指示したのだが、その時にはもうほとんどのペットたちが猛威の前に倒れ、危機は私自身に迫ってきていた。心を視た時に感じた、今にも眼球を握りつぶされそうなおぞましい感覚が、なまじ単なる錯覚ではないことが解っていたため、込み上がってくる恐怖心は生まれてこのかた経験したことがないほどに巨大なものであった。  そうしていよいよ、私が紅い悪魔と対峙せざるをえなくなった。私と悪魔との間にはだいぶ距離があったけれど、あの時、私は確かに心の眼を握られていた。同時に、たとえ話ではなく、心臓を圧迫される感覚を受けたので、今にもこの命が失われようとしているのではないかという想像があまりにも現実的なとして頭の中に浮かび上がり、本当に恐ろしい思いをした。  そんな時、私の妹が現れて、私を救ってくれたのだ。『目』を掌握するという紅い悪魔の力では、壊れてしまった私の妹には敵わない。皮肉なことだと思いつつも、私は妹に対して心の底から感謝したのだが、悪魔を叩きのめした後、その姿は影のように何処かへ消えてしまった。  今日の一件で、お屋敷の半分以上の規模が崩壊してしまったが、後からお燐が呼んできた鬼たちが復興に力添えしてくれると言うので、地霊殿は近いうちに元の姿を取り戻すだろう。  それよりも、私にはずっと気がかりなことがある。ペットたちは皆、負傷はあれども命は無事であったのだが、おくうが深い傷を負って目を覚まさないので、私はとても心配しているのだ。  おくうが戦っている姿を見ていた私は、その気持ちもよく知っている。おくうは凶刃に倒れるその瞬間まで、私の身の安全を心配してくれていた。おくうは、自分よりも周りの皆を大切に想うことができる、私の大切なパートナーの一人だ。だからこそ、独りで突っ走って、無理をしてしまうことも多い。  早くよくなってほしいと切に願う。      ***  私たち姉妹は、左の胸に宿した『第三の眼』、すなわち『心の眼』を通じて、他人の心を読むことができます。ですが、この眼は常に開いているため、制御することが非常に難しかったのです。  あなたは今、力を制するために並々ならぬ苦労を要するくらいならば、いっそ第三の眼を閉じてしまえばいいのではないかと考えていますが、そういうわけにもいきません。心の眼を閉じてしまうことは、自分の心を捨ててしまうことに等しいのです。第三の眼を開いている私には、他人の心の声がノイズのように頭のなかで喚き散らして、頭がおかしくなるかと思ったことも何度かありましたが、眼を閉じて自ら廃人になる道を選ぶくらいならば、どれほど辛くとも、力を制することができるように努力し続けるほうが、よっぽど生きている心地がするように思いました。  努力を続けるうち、私はある程度、力を制御できるようになりました。しかしながら、無邪気な妹は相変わらず力を制することが苦手でしたので、よく人里に遊びに行かせて、「他人の心を読む」という私たちにとってはある種の自然現象的な行為に慣れ親しむことができるように計らいました。  そのことが大きな過ちにつながってしまうなどとは、当時の私が知るよしもありません。私には他人の心を読むことはできても、未来に起こる出来事を確定的に読み取って、予言するようなことはできないからです。      *** 「はぁ……! はぁ……! はぁッ」  さとりは地上へと続く縦穴の道を駆け抜けていた。  無論、地に足をつけて走れる環境ではない。つまり、空中を飛行しているのだが、それでも体力を消耗することには変わりはなかった。  しかしながら、普段から激しい運動に縁のない生活をしていることもそうなのだが、実際のところ、さとりが息を切らしている最大の理由は、募りに募った凄まじいまでの焦燥感にこそある。  背後の、どこか遠くのほうから、重々しい地響きの音が聞こえてくる。さとりは地の底から耳に届くその音が、いかなる意味をもって鳴り響いているのかということをよく知っている。  ――フランドール・スカーレットが暴走した。  旧都は現在、前代未聞の危機に見舞われている。  さとりは、触れてはならぬものに触れてしまったのだ。  ペットたちには秘密にしてあったはずだが、このことは今頃、もはや周知の事実となっているだろう。さとりは地下室から書斎に出て資料を確認していた昼頃、誰かが書斎の前までやって来たので、慌てて机の上を散らかしたままで隠し通路に飛び込んでしまったことを、大きな失敗だと思っていた。しかし、もはやそのような些末な所作で隠しきれるような問題ではなくなってしまった。  フランが暴走を始めた際、非常用の通路を用いて辛くも地霊殿から逃げ出したさとりは、自分と同じ服を着た少女が旧都へと飛び去ってゆくところを見つけた。そうして、その姿を必死の思いで追いかけたが、止めることまではできなかった。  あれは、さとりのお気に入りの服だった。さとりには地上にいた頃、人間の里で出会った紫色のドレスを着た美女に、水色のスモックブラウスを「よく似合う」と言って褒めてもらった思い出がある。だからそれは、生まれて初めて家族以外の者に心から褒めてもらった、お気に入りの服なのであった。  その人にはもう二度と会うことはなかったのだが――だからこそ、さとりは同じものを何着も持っていて、そのうちのひとつをフランに着せてやった。  フランは、すぐに気に入ってくれた。可愛いお洋服だと言って、はじけるように笑った、あの素敵な表情を思い出した。  ――あの純粋な瞳の奥に、あんなにも恐ろしいトラウマを抱えていたなんて。  さとりは信じ難い記憶を覗き込んでしまったのだ。そして、それこそが、触れてはならぬ最大の禁忌であった。さとりが禁忌に触れてしまった結果、そのことが引き金となり、フランの心のひずみが爆発してしまったのである。  フランはすでに、一年前に地霊殿を襲った悪魔の姿に戻っていた。それどころではなく、あの時の脅威を遥かに上回るほどの、恐るべき狂気が目覚めてしまったのだ。  唯一の救いは、フランの能力が、『図書館の魔女』によって抑制されているということである。無差別に人を殺すことができないように、複雑な術式を用いた魔法で心にストッパーが掛けられていたのだ。そして、一年前もそうであったように、その心のタガはきわめて頑丈なものであったので、今も決して外されることなく、真に最悪の状況を招くことを防いでくれている。 「はぁ……はぁッ!」  ペットたちや、旧都の皆が心配である。  さとりは地上に出て、一刻も早く『図書館の魔女』に会わなければならない。  フランの心の中に、頻繁に登場する人物の一人だ。魔女は先に述べたような形で、魔法によってフランの心を制御する役割を担っているらしい。さとりはこれまでにも、その魔女が用いる術式を真似て、フランを地下室に住まわせるために役立てていた。  しかし、今回ばかりは、記憶の断片から読み取った情報だけでは足りない。あれほどまでの狂気を止めるには、正しい情報と専門的な力が必要となる。『図書館の魔女』と呼ばれるその人物ならば、暴走したフランを止めることができるはずなのだ。  そのためには、『紅魔館』という場所に行かなければならない。記憶に読み取った、フランの姉を主とするお屋敷だ。思えば、一年前にフランが地霊殿に迷い込んで来たのも、狂気に支配される感情の中で、自分が暮らしているお屋敷に似た環境に惹き付けられ、勘違いしてしまったからなのかもしれない。  さとりは、紅魔館の場所を知らない。さとりが地上で暮らしていた頃には、そんな名前のお屋敷は存在しなかったからである。地上に出たら、まずは地理的な情報を入手しなければならない。  さとりは息を切らしながら、暗闇の風穴を駆け抜けてゆく。  焦る気持ちばかりが先行していた。  自身が冷静な判断力を失っていることに、さとりはまだ気付いていない。      *** 《第一二二季・弥生○△日》  私は隠された広大な地下室で、紅い悪魔を飼うことにした。皆、悪魔は滅びたと思っているようだが、それは大きな間違いである。そもそも、『悪魔』というのが間違った表現であるので、私はこれから親しみを籠めて『フラン』と呼ぶことにする。『フランドール・スカーレット』というのが、この少女の名前だからだ。  この紅い少女の能力は、物体の『目』を手の平に移動させ、その手を強く握るだけで対象物を破壊してしまうという恐るべきものであったが、それほど強大な能力をもって暴れまわっていたのにもかかわらず、フランにいなされたペットたちの中には、眼球をつぶされて命を落としてしまったような者は、まったく見当たらなかった。それがどういうわけなのかは、今後明らかにしていく必要があるだろう。  しかし私は、フランの力に深い興味を抱いていたわけではない。初めてフランの心を視た時に脳裏をふとかすめた、何とも言い知れぬ哀しい感覚が、私の探究心を掻き立てると同時に、何か良心にささやいていったような気がしたのだ。  その感覚と関係があるのかは解らないが、驚いたことに、この少女は実はたいへん純粋な心の持ち主であった。私の妹に敗れて気を失っていたフランは、目を覚ますと、まるで子供のような舌足らずの言葉で私に語りかけ、狂ったように牙を剥き出しにして暴れていた、あの恐るべき悪魔の面影を欠片も想い起こさせないのである。  私は、心の眼を奪われないように気を付けながら、フランの心の中をよく探ってみた。そうすると、驚くべき事実が浮上してきたのである。  誰もが予想したとおり、フランドール・スカーレットは地上から地下へと迷い込んできた妖怪であった。その正体は、『吸血鬼』と呼ばれる、本来は遠く離れた異国の地に生息しているはずの『鬼』だったのである。鬼であるというならば、小さな体躯から激しい暴力が繰り出されることにも、大いに納得がいく。  私はもう少しで、あの奇妙なまでに哀しい感覚の正体に辿り着けそうであったが、これ以上の深入りは危険であると判断し、調査の続きは日を改めて行うことにした。  どうせ使い道のなかった陰気な地下室は、この少女に譲ることにしよう。そうなると、フランのために、少しずつ環境を整えてゆく必要がある。  忙しくなりそうだ。      ***  心を読めるということが、悪いことばかりというわけでもありませんでした。私たち姉妹の能力は、細緻な言語表現を持たない動物たちには好感を抱かせるようです。気が付くと、藁葺き屋根の家には動物たちが集い、私の暮らしは以前よりもずっと賑やかで楽しいものになっていました。  私はしかし、夜毎に酒を酌み交わしては愉快に騒いでいる妖怪たちが羨ましくて仕方がありませんでした。ですので、こっそりと妹を連れて宴席に混ざっては、またこっそりと姿を消すということを繰り返していました。能力のことを知られたくなかったとはいえ、かえって不審な思いを抱かせてしまうこともしばしばありましたが、誰からも好かれることのない代わりに嫌われることもなく、それなりに楽しい時間を過ごしていました。  しかし、私は大きな失敗を犯してしまったのです。  あれは、妖怪の山に狼たちがやって来た時のことでした。  妖怪の山は、力強き鬼たちの手によって管理されていたのですが、神格化された狼の群れがやって来たことで、その勢力図にひずみが生じてしまいました。  いがみ合いのきっかけは、流れるような白毛を持つ狼の群れの頭領にありました。その美しき狼が、鬼たちが見限りつつあった里の人間たちから、『大神さま』と称え崇められるようになるまでには、そう長い時間を要しませんでした。これによって、狼たちは「図々しい新参者」と言われて鬼たちの顰蹙を買ってしまい、反対に、鬼たちは「態度ばかりが大きい古参」と言われて狼たちの苛立ちを募らせ、争いにこそ発展しなかったものの、明確な対立の構図が出来上がってしまったのです。  宴席の隅に座すことを繰り返すうちに、自分の能力を活かして皆に認められたいという思いを抱くようになっていた私は、これを好機と見て、鬼たちの前に名乗り出ました。狼たちの心を読むことができる私ならば、円滑な交流の橋渡しになって、いがみ合いをなくすことができると確信していたのです。  そうして思惑通り、鬼と狼との関係は、親密とはいかないまでも良い方向へ傾いてゆく運びとなりました。しかしながら、私が判断を誤っていたのは、他ならぬ私自身に関することでした。  私は、心を読む能力が皆を助ける形で明るみに出すことによって、周囲に好印象を与えられると思っていました。ですが、それはあまりにも甘すぎる考えでした。宴席に集っていた妖怪たちは皆、今まで心を読めることを隠していたことを不気味がって、私を避けるようになってしまったのです。  考えてみれば、当然のことです。今までずっと心を見透かしていたことを打ち明けるという行為が、良い印象を与えられるはずもありません。酒に酔いしれるままに周囲から受け入れられたと勘違いして、浮かれた気持ちに委ねられた愚かな判断でした。  私たち姉妹は山の妖怪たちから忌み嫌われ、以前よりもずっと肩身の狭い暮らしをせざるを得なくなりました。妹まで巻き込んでしまった事実は、私の心を大いに痛めつけました。  とはいえ私は、妖怪たちから忌避される代わりに、狼たちに好かれるようになっていました。これまでに仲良くなった動物たちも変わらず共に在ったので、それほど寂しい思いをすることもありませんでした。  しかし、もう二度と欲をかいて失敗することのないように、今の暮らしがずっと続いていけばいいと感じていたある日、大きな事件が起こりました。狼たちの水場に毒が混入され、群れの頭領として人間たちからも神格化されていた『大神さま』が死んでしまったのです。  私には『大神さま』と親しい交流があったので、悔しい気持ちと、犯人を怨む気持ちは、頭領をうしなった群れの狼たちほどではないにせよ、それなりに強い思いとして心のうちにわだかまっていました。  私は初め、狼たちが叫んでいるのと同じように、病を操る土蜘蛛のことを疑っていました。しかしながら、妹と二人で人間の里を歩いている時に――ふとした偶然から、私は泉に毒を投げ入れた、本当の犯人を見つけ出してしまったのです。      ***  縦穴は、地上にある竹林の外れにつながっている。  ひとたび奥へ踏み込もうとすれば、二度と外へは出ることができないというこの竹林であったが、さとりはそういうことをよく知っていたので、先の怨霊と間欠泉の一件で地上の神社を訪問した際にも、不用意に迷い込んでしまうようなことはなかった。  そして――その妖怪に遭遇したのは、傾きつつある太陽を眺めている余裕もなく、紅魔館の在り処を探すために竹林から飛び出そうとした、その時のことである。 「あなたは、誰ですか?」  薄紫色のロングヘアーに、紺色のブレザー。  フランドールとは異質の、赤い瞳。  真っ直ぐに梳かれた頭の上で、大きな兎の耳を揺らしている少女。  鈴仙・優曇華院・イナバという異様に長い名前が視えた。  さとりが地上に居た頃は、こんな妖怪は居なかったはずだ。心に浮かび上がった『月の兎』という言葉が気になったが、今はこの少女にのんびり構っている暇はない。  しかし、急を要しているさとりにとって、この偶然の出会いがまたとない好機であることも事実だ。さとりは息を切らしたまま、相手の質問を無視して言い放った。 「パチュリー・ノーレッジの居場所を……教えなさい……!」  さとりの問い掛けは、相手の返答を待つものではない。  眠たげな両目をカッと見開き、同時に左の胸に在る『第三の眼』の力を相手の心の奥へと侵入させる。  ひとたび質問を投げかけるだけで、相手はその答えを頭のなかに思い描く。それゆえにさとりは、心という広大な海からひとつひとつ記憶を拾い上げて探るという気の遠くなるような作業を行わずとも、知りたい情報をすぐに獲得することができる。さとりの前で隠し事をしようとする相手は、隠し事をするために「ナントカのことについては黙っていよう」と考えることが逆に災いして、一瞬で見通されてしまうのだ。  そのはずなのに。 「失礼な方ですね。『あなたは誰ですか』と聞いているんです」  赤い瞳がこちらを見ている。  ゾワリと撫ぜられるような感覚が、背筋を走った。 「あ……れ……?」  待て。  これはおかしい。 「私のほうから名乗るべきでしょうか。しかしこの場合、自分のほうから先に名乗らないという判断が、失礼に値するものであるとは思えません。出会い頭にそんな脅迫まがいの視線を向けながら、いきなり私の知人のプライバシーを侵害するような質問を繰り出すことこそ、失礼きわまりない行為であると私は考えます」  そうだ――心が読めない。  相手は今まさに、『パチュリー・ノーレッジの居場所』を頭のなかに思い描いているはずなのに、その情報を読み取ることができない。  しかし兎の少女――鈴仙はいたって冷静な口調で話しながら、むしろ最初に見た時よりも鋭い視線をこちらへと向けている。  射抜くような赤い瞳だ。 「残念ながら、あなたの詳密なプロフィールを私が納得いくまで開示し、あなたがパチュリーさんに危険をもたらす存在でないことを完全に証明しきれぬうちは、私はあなたに対して何ひとつの情報を与えることができません」  やはり、心が読めない。  先ほどまでは、ある程度の情報が読み取れていたはずなのに。  月の兎。狂気の瞳。師匠。薬。永遠亭。  ――待てよ。 「狂気の……瞳……?」 「えっ……? 今、何と言ったのですか?」  鈴仙は驚きに目を見開いている。  大きな赤い瞳が、いっそう強い力をともなった。  なるほど、そういうことか。  そうであるとすれば、この少女は―― 「天敵……! 厄介な……ッ!」  冷たい汗が頬を伝う。  面倒なことになった。  さとりの左胸に在る剥き出しの『第三の眼』に対して――例えば『目』を握り潰すフランドールの能力、そしてこの『相手の狂気を誘う赤い瞳』――同じ『目』に関わる能力は、必要以上に効果を発揮してしまう。  第三の眼――さとりの心の眼はすでに狂わされ、相手の心を読むことができなくなってしまっていたのだ。 「何を言っているのですか?」鈴仙は極めて丁寧な口調で言いながらも、鋭い視線で睨み付けることをやめてはいない。「なぜ、私の能力を知っているのですか? あなたとは初対面のはずです。いったい誰から聞いたのですか?」  焦燥感が、さらに募る。  先を急がなければならないのに。  自分はこんなにも必死なのに、状況をわきまえない慇懃無礼な口調が苛立たしい。  旧都の皆が。  地霊殿のペットたちが。  そして――フランドール・スカーレットが、危険な状態に在るのだ。  そうだ、これは天が与えた罰なのかもしれない。触れてはならぬ他人の記憶の深奥を覗き込んでしまった、その報いであるに違いない。  神様の心は読めなかったが、ちゃんと自分の行いを見ていたのだ。  だとしたら、これは自分にとっての試練だ。突破しなければなるまい。  狂気の瞳を打ち破り、魔女の居場所を聞き出さなければならないのだ。  忌み嫌われた妖怪の、それが心に導き出した答えであった。 「あなたの心に……聞いたのよ……!」      *** 《第一二三季・弥生○×日》  私がフランドールに出会ってから、今日で一年が経った。  フランは相変わらず、素直な良い子だ。スプーンを一生懸命に動かして、ビーフシチューを美味しそうに食べる。私は、あの事件の時に受けた恐ろしい印象が、初めから夢であったのではないかとさえ思うようになった。ペットたちと一緒に遊ばせてやれないのは、とても寂しいことであると思う。  フランはこのところ、元の家で暮らしている、姉や魔女のことを気に掛けることが多くなった。お燐とおくうが起こした事件がきっかけで、むしろ地上との距離は以前よりも少しだけ縮まったように思う。だから、フランを家族に会わせてやりたいという気持ちもあるが、そういうわけにもいかない。  良心は痛むが、むしろ、これは望んでいたことなのだ。誰かを懐かしむ気持ちは、過去に隠された記憶の扉へとつながってゆく。そうすれば、最初にフランの心を視た時に感じた、不可解な哀しみの正体を掴めるはずなのだ。そして私は、確実にその扉の前に近付きつつある。  きっと、もうすぐだ。      ***  竹林に、白色の銃弾が舞う。 「マインドシェイカー」  円形に展開した銃弾の群れは、白薔薇模様のスカートをかすめて、後方へ飛び去る。しかしながら、前方にはすでに次の波が待ち構えているため、一瞬たりとも気を抜くことは許されない。 「くっ……!」  心が読めないのならば、弾幕を読めばいい。  だが、それは容易なことではない。その弾幕の密度はあまりにも高く、撃ち出されるテンポは途絶えることを知らない。しかも、さとりの目には、相手の弾幕が時おり影のようにぶれて見えるのだ。  狂気を操る月の兎――鈴仙・優曇華院・イナバ。  自らスペルカードバトルを仕掛けたさとりであったが、狂気の瞳の幻惑に陥った状態では、追い詰められるのは時間の問題であった。 「カローラビジョン」  赤い瞳がぼんやりと不気味な光を放ちながら、辺りの空気を支配する。  白い銃弾の向こう側から、視覚化された音波のように、光のリングが何重にもかさなって迫り来る。  さとりは遮蔽物を探すが、竹の幹では弾幕を防ぐことができない。むしろ、辺りに群生している竹こそが、回避のための動作を難しいものにしている。  前屈みに飛び上がるようにしてリングをくぐり抜け、かわしきったのも束の間――容赦のない弾幕のラッシュが襲い掛かってきた。 「マインドストッパー」  生神停止。 「パラレルクロス」  平行交差。 「ディスカーダー」  喪心創痍。 「テレメスメリズム」  そして――月兎遠隔催眠術。  次々に繰り出される銃弾、閃光、そして狂気。  さとりは苦しみながらも、宙に浮かぶシャボン玉のような動きで弾幕を避けていく。 「はぁ……はぁ……!」  もはや体力は限界に近い。地霊殿を抜け出し、旧都へ飛び去るフランに遅れをとらぬ速度で飛行して、そのまま休むことなく縦穴を必死の思いで駆け上がってきたのだ。このまま防戦一方の状態が長引けば、いずれ命運は尽き果ててしまうだろう。  その時、ふと、鈴仙が攻撃の手を止めた。  ズシィィィィィン。  遠くのほうから、不可解な地響きの音が聞こえてくる。 「何ですか……あれは……?」  さとりの二つの目にも、それはしっかりと映っていた。  遠方に、光の球。  太陽にも似た巨大な光の球が、地上の土を突き破って現れ、天空に向かって飛び上がって行ったのだ。 「おくう……?」  さとりは、あの光に心当たりがある。  前の冬に起きた異変の際に、ペットの鴉が身に付けてしまった究極の力だ。  地底では今、何が起こっているのだろうか。  あの純粋な紅き少女は、どれほどまでの破壊をもたらしてしまったのだろうか―― 「今日の幻想郷は、何やら不穏ですね。昼過ぎに、山で大規模な土砂崩れがあったばかりだというのに……今の光は、いったい何なんでしょう」鈴仙はそう言って、さとりに鋭い視線を向け直す。「仕事を済ませて竹林に戻ってきてみれば、怪しいやつが彷徨っているし」  どうして、これほどまでに冷静でいられるのだろうか。  地下では、とても恐ろしいことが起こっているというのに。  そう思うと、目の前の少女が、冷酷無比な外道にすら見えてくる。  焦燥に揺れていたはずのさとりの心に、怒りの感情が湧き立った。  それは、自分に対する怒りでもある。  災厄の原因をつくった自分が、いかなる理由があろうとも、安全なところに逃げおおせてしまっている現状。こんなことが、許されるはずはない。 「パチュリー・ノーレッジに……会わせなさい……!」 「それはできない」 「なぜ……!」 「パチュリーさんは我々の診察を受けている大切な患者さまです。師匠の薬でも完全には治らない、とくべつな病気を患っている。そんな人に、出会い頭に脅迫まがいの言葉を投げつけてくるような、不審な者を会わせるわけにはいきません」  この兎耳の少女が、『永遠亭』と呼ばれるお屋敷に住む『薬剤師』の弟子であるらしいことは、最初に心を覗いた時に視えたので、理解している。パチュリー・ノーレッジは病気だと言ったが、その重さはいかほどのものなのだろう。  だが、今はそういうことを気にしている場合ではない。これは緊急事態なのだ。 「地底では……大変なことが起こっている……! それを……止めることができるのは……『紅魔館』という館に住む……『図書館の魔女』だけなのに……!」 「地底?」鈴仙は、さとりの言葉を一笑に切り伏せた。「馬鹿馬鹿しい。そんな話が信じられるか」  さとりは煮えたぎる感情を押し込めながら、必死に訴え続ける。 「あなたは……知らないかもしれない。けれど地下には……大きな都市があって……たくさんの妖怪たちが暮らしている。その都市が今……たいへんな脅威に……曝されているのよ……!」  鈴仙は、さとりの言葉を黙って聞いている。しかし、赤い瞳が放つ鋭い視線は、少しも動じることがない。 「旧都のことならば、知っている」鈴仙は、表情を変えずに言った。 「……! だったら――」 「幻想郷の地下に妖怪都市があることは、冬の事件を通じて知っています」さとりの言葉を遮って、鈴仙は強い口調で話す。「竹林に棲む兎たちは、もっと以前からそういう噂をしていました。竹林の外れにある洞穴が、恐ろしい妖怪たちが蠢く地底の都につながっていると。ええ、そうです。忌み嫌われた連中を封じ込めた都市であると聞きました」  不穏なものを感じた。  鈴仙は、「忌み嫌われた」という部分だけを、強調して話すのだ。 「地面の下で何が起こっているのか知りませんが――」  そして案の定、淡々と紡がれる鈴仙の言葉は、鉄のように重い残酷な意思のかたまりとなって、さとりの頭の中に鈍い音を反響させた。 「そんな都は、滅びてしまったほうがいいんじゃあないでしょうか」 「――――」  ブチリ。  頭の中で、何かが千切れる音がした。  さとりは、地底においても嫌われ者であったが、それでも皆のことが大好きだった。  地上を去ってから、地底の深奥に半ば追いやられるような形で住み、灼熱地獄跡の管理を任された。しかし、そのような面倒な務めをご丁寧に果たさずとも、逆に灼熱のエネルギーを利用して反旗を翻すこともできたはずだ。それをしないのは、夜毎に酒を酌み交わして騒ぐ、かつての山の妖怪たちの笑顔を知っているためであった。  皆から嫌われてはいたが、旧地獄の灼熱を管理することで、地底の平和のいしずえとなり、自分も皆と共に在るのだという実感が湧いた。ただそれだけで、嬉しい気持ちになれたのだ。  同じ理由で、さとりは地上の者を怨んだこともない。  お燐の請け売りではあるが、いつか地上の者たちが、地下に追いやられてしまった善き者たちのことをちゃんと理解して、救いがもたらされる日が来る――そういう想像をするのが、さとりは大好きだった。  そんな空想の世界においても、さとりは自分だけは明るい地上に戻ることはなく、そのままずっと地底の深奥にひっそりと生き続けて、平和な世界を陰からそっと支えていた。こういう想像をするのは、おくうの影響を受けているからなのかもしれない。  皆が平和に暮らす世界が、大好きだった。  それなのに。 「どうして……そんなことが……言えるの……ッ?」  静かに、だが、確かな思いを籠めて。  強い口調で問う。  返答を待つことはない。  大好きな人たちの笑顔を、簡単な言葉で切って捨てるような権利は、神様だって持っているはずがないのだから。 「……想起」  スペルカード宣言。  反撃しなければならない。  戦う理由はもはや、単なる人捜しだけではなくなっていた。  しかし、手加減ができるかどうかも危うい。万が一にでも殺してしまっては意味がないし、気絶させてしまっても、心の声を聞くことができなくなってしまう。  だが――溢れんばかりの激情に、歯止めを利かせることはできない。  ポツリ。  ポツリポツリポツリ。  空中に現れた、無数の暗色の弾。  細長い丸薬のような形をした弾は、少しずつその数を増してゆく。 「これは……!」  鈴仙は驚愕を隠せずにいた。この光景には、よく見覚えがあったからだろう。  古明地さとりは、『第三の眼』によって覗き込んだ相手の記憶の中にある弾幕を引き出し、再現することができる。さとりは、自分の心の眼が惑わされるより前に、鈴仙の心の中に在る『師匠』の弾幕を読み取っていたのだ。 「なぜ、あなたが師匠の技をッ!」  さとりは応えない。  暗色の弾幕が、夕暮れの竹林を闇に埋め尽くしていた。  すべては愛すべき者たちの、誇りのために。  沈着な地霊殿の主は、誰にも見せることのなかった激しい怒気をはらんだ弾幕を、静かな宣言のもとに解き放つ―― 「天文密葬法」      *** 《第一二四季・卯月□△日》  私は大変なものを視てしまった。  私は、初めてフランの心を覗いた時に視た、あの不可解な哀しみの正体を知ったのだ。フランの心の奥に隠されていた、おぞましい記憶に手を触れてしまったのだ。私は大いに納得した。純粋で幼い少女が、悪魔のように暴れ狂ってしまうのも当然だ。私には恐ろしくて、具体的なことはひとつも書き表すことができない。  しかし、ここで尻込みしているわけにはいかない。ようやく、哀しい感覚の正体を掴むことができたのだ。心の深いところまで入り込める私ならば、あの凄惨な記憶を消し去り、フランドール・スカーレットの狂気を取り除くことができるかもしれない。私はフランを助けたい。ルビーのように美しい紅色の瞳を持つ少女を、できることなら狂気の渦から救い出してやりたいのだ。フランはとても良い子だ。お人形遊びが大好きな少女に、歪みきった残酷な記憶は必要ない。  今晩は地下室で過ごそう。早くあの狂気を消し去ってやらねばなるまい。あの記憶に触れるのは恐ろしいことだが、フランはもっと辛い思いをしているのに違いないのだ。私はどれだけ恐ろしい怪物的な真実に直面しても、いたいけな吸血鬼の子供を救うために戦わなければならない。  フランは、妹によく似ているのだ。      ***  地べたに這いつくばる者は、敗者  それを見下ろしている者は、勝者。  夕闇をたたえる竹林の入口で、古明地さとりは――地に倒れ伏していた。 「インビジブルフルムーン」勝者は、静かに言い放つ。「黙って見ているだけだと思いましたか?」  真実の月――地下妖怪を敗者たらしめた、月の兎のスペルカード。  それは、さとりが弾幕を撃ち放とうとした刹那のことであった。さとりの眼前、何も存在しなかったはずの空間から、突如として白い銃弾の群れが飛び出したのだ。 「あなたに幻覚を見せました。いえ……幻覚によって『見えないようにした』と言ったほうが、より正確でありましょう」  さとりは憤激した時点で、目隠しをされてしまっていたのだ。感情のほころびによって、心は幻惑に陥りやすくなってしまう。ましてや、心の眼を無防備に曝け出しているさとりにとって、その効果は想像以上に絶大なものであった。  ほぼゼロ距離に展開していた弾幕を避けられるはずもなく、さとりは無数の攻撃を無防備な身体に受けて、あっけなく弾き飛ばされてしまった。 「何故あなたが、師匠の技を使えるのかは知りませんが……私は、命までは取ろうとは思っていません。その代わり、今後いっさい竹林には近付かないで下さい。それから、パチュリーさんにも注意を促しておきます。もしも今後、左の胸に気味の悪い目玉のブローチをつけた妖怪が紅魔館を訪れようものならば、魔女はもちろん、吸血鬼やナイフ使いが、そいつを熱烈に歓迎してくれることでしょう」  鈴仙は、どうやら気を失っているらしい敗者を前に、自分が言いたいことだけを機械的に述べつくした。  すべてを一方的に告げたのち、「では」と短く言ってその場を立ち去ろうとする。  そうして――右の足を踏み出したのだが。  その動きが、ピタリと停止する。  地に伏したさとりが腕を伸ばし、左の足を強い力で掴んでいたからだ。 「まっ、て……」  鈴仙は表情を変えなかったが、内心では大いに驚嘆していた。あれだけのダメージを全身に受けて、まだ動くことができるとは考えもしなかったからだ。 「魔女、に……会わ、せ、て……」  満身創痍の身体から繰り出される、精一杯のか細い声。  乱れた呼吸も、言葉を話すことを難しくしている。 「諦めの悪い」  鈴仙は睨むように、無様な敗者の姿を見下ろした。そうした後、左足を蹴り出すように振って、さとりの腕を振り払おうとする。  だが、さとりの身体が少しだけ地面を滑って、土ぼこりを上げるだけだ。その腕はびくともせず、決して外れることはない。  それどころか、さとりは必死に身を起こし、いっそう強く左脚にすがりついてきた。 「私、は……きら、われ、て、も……いい」  虫の囁くような声が、鈴仙の耳に届いた。  さとりの身体が小刻みに震えているので、気になって、もう一度だけその表情を見た。そうして、鈴仙はハッとして息を呑む。 「だか……ら」  目が合った。  起こされた半身の左胸から、目玉の形をしたアクセサリーが覗いている。  鈴仙は、頭の中に電流の走るような、鋭い感覚を受けた。 「フラン、を……みん、な、を……たす、け、て……」  今にも摩滅してしまいそうな、消え入りそうなほどにかすれた声であったので、この時さとりが何を喋っているのかは、鈴仙にはよく解らなかった。  どういうわけか、思考が混濁している。気付かぬうちに、何かされたのだろうか。  ただ――渦巻く思考の中で、ひとつだけ、はっきりと認識できている事実。 「おね……が……い……」  顔面をくしゃくしゃにして泣き腫らす、土にまみれた少女の顔が、そこには在った。  沈黙。  動物たちに好かれるはずの地霊殿の主に、理解を示さなかった月の兎。  鈴仙は、表情を変えずに見下ろしている。  頭の中に浮かび上がったさまざまのことを、よく吟味しているのだ。  目を閉じる。  そうして鈴仙は、おもむろに、ブレザーの胸ポケットに手を差し入れた。 「第一印象は大切です。少しは態度に気を遣うべきでしょう。だから、嫌われる」  鈴仙は目を閉じたままそう言って、小さく肩をすくめる。  それから、ポケットから取り出した一本の糸を、まっすぐに垂らした。その先端には、中心に穴の開いた小銭が括り付けられている。 「残念ながら、私は――」  言い終わらぬうちに、狂気の瞳が見開かれた。  兎の瞳が赤い光を放ち、ぼんやりと輝いている。  その輝きに合わせて、小銭の振り子がゆっくりと左右に揺れた。  振り子が五度目の起点を過ぎた頃には、傷付いた妖怪はもう眠ってしまっていた。 「紅魔館の所在を、教えるわけにはいきません」  鈴仙の左脚から、締め付けるような腕の力が抜けてゆく。  眠る地下妖怪の頬を、最後の一筋の涙が伝い落ちた。      ***  その日の朝、私は意気揚々と外へ遊びに出て行った妹の後ろ姿を、日常と同じように見送っていました。後から思えば、あの楽しそうに揺れていた背中こそが、私が見た最後の『壊れてしまう前の妹の姿』でありました。それなのに、外へ出てゆく妹を引き留めようとか、或いはその姿をもっとよく目に焼き付けておこうとかいう考えを、当時の私には少しも思いつくことができなかったのが、ただ悔やまれる限りです。  私はその晩、妹が藁葺き屋根の家に帰って来ないことを心配して、ペットの鴉を連れて捜しに出掛けました。人里に行っているということは知っていたので、不用意に心の声を聞いてしまわないように気をつけながら、私はしらみつぶしに歩き回って妹の姿を捜しました。  そうして私の記憶は、孤独な黒猫との出会いの場面に至るのです。  その黒猫は、ほんの十年ばかし死体を求めて彷徨う内に、尻尾がふたつに分かれて妖怪と化していました。私がそのとき連れていた鴉は、その当時でもう四十年ほど生き続けていたのですが、長寿であることを除けば、まだ妖怪らしい特別な外見や能力を備えてはいませんでした。そのほうが普通のことですから、あの黒猫には元より妖怪としてのたぐいまれなる素質があったのでしょう。  私が死体を求めて彷徨っていた黒猫に出会うことができた理由は、眼前に広がるピンク色の肉片と、鮮やかな真紅の光景を思い描けば容易に想像がつくことでしょう。  そこにはバラバラに裂かれ死体と成り果てた、ある男の死体が転がっていました。  私のペットの鴉も、その場に居た黒猫も、おぞましい死体と成り果てた初老の男に強い怨みの念を抱いていたことは、私には偶然ではないように思えました。  かく言う私自身が、その男に激しい憎しみの感情を抱いていたからです。  山の狼をたった一人の鬼が皆殺しにすることになってしまった、あの恐るべき争いの発端は、病を操る土蜘蛛などではありませんでした。バラバラに引き裂かれ、冷たい土の上に無様に転がる死体となったその男こそが、狼たちが水場として利用していた泉の中に猛毒を投げ入れ、『大神さま』と呼ばれ人々から崇められていた群れの頭領――私とも親しく言葉を交わして下さった神の獣を殺した本当の犯人なのでした。  怨むべき残虐非道なあの男が、同じくらい残酷な方法で命を落とす瞬間を目撃していた者は、その行為の当事者以外にはありません。  当時の私には、仕方のないことだったのだと、割り切るしかありませんでした。  愛するペットたちを連れて、私が地上を去ったのは、その事件の直後のことです。 間章 〈夕刻の山〉 「なんだぁ? ありゃあ」  勇儀は高い岩場の上で、背伸びしながら遠方を眺めていた。  地面を突き破って、巨大な白い光の球が夕空へと舞い上がって行く。勇儀のとなりに腰を下ろしていた椛の目には、その光景が誰よりも鮮明に映っていた。 「うわあ、大変だ! 紅魔館が!」  犬走椛は、水の入った酒瓶を片手に、指を差して大声を上げた。脳天に強い衝撃を受けて気絶していた白狼天狗は、騒ぎ立てられるほどの元気を、もうすっかり取り戻していたのである。  今より少し前、椛が目を覚ますと、頭の上に冷たく重い感触があった。手で触れてみると、冷水入りの酒瓶に布を巻いたものが頭のてっぺんに結び付けられていたのだ。  気を失っていた椛の面倒を、気を失わせた張本人である勇儀が見ていた。椛が回復するまでに、大規模な崖崩れの様子を聞きつけてやってきた山の妖怪たちは、鬼の威厳で追い払われたらしい。その話を聞いた時、職務を全うするためにやって来たのに鬼に会ってしまうなんてひどい災難だと思ったか、今の上司の指示に従うべきか昔の上司の機嫌をうかがうべきかというせめぎ合いにさぞ困惑したことだろうと、椛は追い払われた妖怪たちに同情して溜息をついた。  椛の脳天に図らずも強烈な一撃をかますこととなってしまったおかっぱ頭の桶入り少女は、迷惑を掛けてしまった白狼天狗の横でずっと申し訳なさそうな表情をしていた。しかし、遠方において不可解な白い光が地響きをともなって打ち上げられた今、キスメも椛と同様に驚愕の表情を浮かべてそちらを眺めていた。 「コウマカン? 何だそりゃ」勇儀は椛の顔を見て、疑問符を浮かべる。 「吸血鬼のお嬢サマが住んでる館ッス!」 「へぇ、昔はそんなのいなかったぞ。で、そいつがどうかしたんか?」 「今の光っ! 紅魔館をぶっ壊していったんス!」  千里先まで見通すことができる眼――いわゆる『千里眼』を持つ椛には、先ほどの白い光の球が紅魔館の真下から浮かび上がり、お屋敷を半壊させて空へ昇って行く様子がしっかりと見えていた。 「目がいいな、ワン公。光が地下から出てきたッてのは、私にも解ったが……」勇儀は遠くを見ながら、眉をひそめた。「嫌な予感がする。むしろ、嫌な予感しかしない」 「姉サン。地下には、あんなに大きな力を持つ妖怪がいるんスか?」  椛はどういうわけか「改心した」と話した勇儀を信用し、敬意をもって呼び掛けた。 「確かに、腕っぷしに自信のある奴はたくさんいッけど……大玉ひとつで地面を突き破る、だって? そんな奴は、いるはずが――」そこまで言って、勇儀は椛のほうへ顔を向けた。「いや……いる。最近、力をつけた奴が。地霊殿の鴉だ」 「からす?」 「ああ。ただの鴉だったんだが、急にすげえ力を手に入れちまったとか。だけど、今はもう身勝手に暴れるような奴じゃあない。そのはずなんだが……」  勇儀は再び黙り込む。何か不穏なことを懸念しているようであった。  椛はよく目を凝らして、湖のほとりに建てられた館を見ていた。紅屋根の巨大な洋館は、その外観の半分ほどをうしなって、フォークで切り取られたチーズケーキのような形に成り果てている。館の内部まで覗くことはできないし、煙や瓦礫が邪魔になっていることもあって、紅魔館の住人たちの安否までは確認できない。 「ワン公、ちょっと頼みがある」ふと、勇儀は思いついたように言った。 「? 何スか?」 「お前、その中に入れ」  そう言って、勇儀が指差したのは、緑色のおかっぱ頭の少女。 「……っ?」  勇儀が示したのは、首を傾げている桶入り娘であった。 「中って? え? 中って? どういうことですか?」嫌な予感しかしない。 「まあ、いいから。そのまんまの意味だよ。ほれ、入った入った」 「うわわわわ! ちょっと!」椛は肩を叩かれ、そのまま桶の中に押し込まれた。 「っ!」キスメが驚いて、窮屈そうな顔をしている。  尻から押し込められたので、脱出しようにも上手くいかない。椛は桶の持ち主に一言謝ってから、その目を勇儀に向けて抗議した。 「いったい何なんスか、姉サン!」 「いや、要するにだ」勇儀は腕組みをして、仰々しく頷きながら言う。「あの光が出てきたところに行って、何があったのか、詳しい事情を確認してきてほしい」 「……えっ?」何か嫌な予感がする。 「紅魔館って言ったよな」 「はぁ」 「私が、そっちに投げ飛ばしてやるから。多分そのほうが早いし」 「……」  ひとたびの沈黙。  投げ飛ばすって、どういうことだ?  ふと気付くと、勇儀はキスメの桶にくくりつけられた縄を掴んでいる。 「ちょオオオッ?」椛の思考は、あまりにも馬鹿げている結論に至った。「このまま、私を投げるつもりッスか?」 「あン? そーだけど」 「そーなのかー……って、何当たり前のように言ってるんスかッ!」 「お前はあっちから穴に潜って、地底で何が起こっているのかッてことも確認してくれ。地下に行くことは、私が許可する。私は向こうの森を抜けて、竹林を目指す。そして縦穴から地下に潜って、別方面から状況を調査していく。挟み撃ちの形になるな」 「いやいや意味わかんないッスから! 落ち着いて考えてみて下さいよッ。ここから紅魔館まで、どんだけ距離があると思ってるんスか!」 「心配すんな! 風はあんまり吹いてないし、コントロールには自信がある」 「そうッスか。それなら安心……って、根本的にはそういう問題じゃないッスよ!」 「お前ノリツッコミ好きだなー」 「ええ、いつも文サンに振り回されてますから……って、話を逸らさないで下さい! そもそも、桶ごと投げるなんて発想、常識外れにも程があるッス!」 「エッヘン! いいだろー、型破りな感じが」 「褒めてないッスからッ! 型破りすぎて恐ろしいんスよッ!」 「まあ、まあ。意外と何とかなるッて」勇儀はそう言って、椛が握っていた水入りの酒瓶を奪い取る。「それじゃ、投げるよ」 「だから、人の話を――わわわわわやめてやめて止めて止めてえええええええッ!」  ブオン。  言うが早いか、勇儀は縄の端を掴んだまま身体を回転させ、桶を振り回し始めた。  ブオンブオン。  持ち前の鬼の腕力に加え、遠心力を用いて投げ飛ばすつもりなのだ。  ブオンブオンブオン。 「っ! っ! っ……」  ブオンブオンブオンブオン。  勢いに耐えられなかったのか、キスメは目を回して気絶してしまった。  ブオンブオンブオンブオンブオン。 「やあああああああめえええええええええてえええええええええ」  ブオンブオンブオンブオンブオオオオオオオオオオオオオオオオ―― 「とうっ」  パッ。  その一瞬だけ、時が停止するのを感じた。 「あああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ……――――」  椛の悲鳴が遠ざかってゆく。  憐れな白狼天狗は、もうすぐ訪れる夜空の一番星になろうとしていた。
第五章
第五章 旧地獄に至る病  ――土蜘蛛ハ何処ダ。  通り過ぎてゆく足音。隔てるものは板一枚きり。  ――土蜘蛛ヲ捜シ出セ。  狼たちの足音。恐ろしい唸り声。  ――見ツケテ殺セ。土蜘蛛ヲ噛ミ殺セ。  地の底から毒水のように湧き上がってくる声。  そして同時に、病のように心を蝕んでゆく思い。  土蜘蛛は苦しみました。  どうして?  どうして、私がこんな目に。  私はただ、病を操るこの力で、皆を――      ***  黒谷ヤマメは、いつも縦穴の中にいる。  つまり、旧地獄側の入口に住んで、縦穴を見張っている橋姫よりも地上に近い位置で活動しているということなのだが、旧都の鬼であり、かつて四天王として名を馳せた星熊勇儀に気に入られているため、ヤマメには特別にそういうことが許されていた。だからと言って、やすやすと地上に出て行くことが許されているわけではないのだが、場所が場所であるため、この土蜘蛛は地上のことに誰よりも敏感であった。  先の冬、地上に怨霊と間欠泉が湧き出た際、異変を解決するために地下にやってきた巫女と魔法使いの前にいち早く立ちはだかったのも、「病を操る」という恐るべき能力を有するこの土蜘蛛である。  ヤマメはその能力の恐ろしさゆえに、地上においては人間からも妖怪からも忌み嫌われていた。友人はおらず、縁あって勇儀と共に行動をすることが多かったのだが、旧地獄に来てからもそれは変わらなかった。  しかし旧地獄に来てからは、鬼たちの中心となって旧都を取り仕切る勇儀が誤解のないように計らってくれたため、似たような境遇の者たちが多かったことや、その能力が周囲に影響を与えることがなかったこともあり、ヤマメは今やすっかり明るい性格になって、皆から好かれるアイドル的な存在として慕われていた。  土蜘蛛というものだから、不気味な想像をされてしまいがちなのだが、その外見は濃い土色のオーバーオールスカートをゆったりと身に付け、金色の髪を頭のてっぺんでお団子みたいに結んだ、とても可愛らしい少女である。 「キスメちゃーん!」  いつも縦穴で活動しているヤマメであったが、そこに住んでいるというわけではなく、寝食は旧都の家で行っている。そんな土蜘蛛は、この日の早朝も、いつもと同じように縦穴に遊びに来て、仲の良い友人の姿を捜していた。 「キスメちゃーん! どこにいるのー!」  主に頭上を見上げて捜していたが、桶に入った緑色のおかっぱ頭は、どこにも見当たらない。蜘蛛の糸と釣瓶落としは、『桶を吊るすもの』という意味において非常に相性が良いので、いつも「洞窟の中に張り巡らした糸の道に、キスメの桶を引っ掛けて一緒に滑り回る」という若干スリルのある遊びをして騒いでいる。  しかし、今日に限っては頭上から落ちてくるはずの桶がどこにも見当たらない。無害だからということで、キスメは縦穴の中で暮らしているはずなのだが―― 「うぃー……ひっく」  どこからともなく、唸り声のような奇妙な音が響いてきたのは、ヤマメが首を傾げていたちょうどその時である。 「洞窟の中で酒がウマいッ!」  早朝から酔っ払っている者がいるらしい。  ヤマメは呆れて、溜息を漏らしそうになる。しかし、その声によく聞き覚えがあることに気付くやいなや、もはや溜息さえも吐き出せる気がしなくなった。 「またお酒飲んで……勇儀さま……」  前方に、白い服を着た影。  四天王と呼ばれる鬼が、ふらふらと不安定な飛び方で、出口のほうに向かっている。  勇儀が縦穴に来ていることは知っていた。縦穴の入口で、橋姫から聞いたのだ。ヤマメは地上に行くわけではないと知られているので、軽い挨拶程度で通してもらえる。  しかし、橋姫にもらったばかりであるはずの酒を、もう開けて飲んでいるとは。 「まったく……しょうがない人だわ、本当に」  ようやっと出てきた溜息を振り払って、ヤマメはもう一度目を凝らしてみた。そうして初めて、勇儀がその手に酒瓶以外の何かを握っていることに気が付いたのだ。 「キ……キスメちゃんっ?」  捜していた少女の姿が、酔っ払いの手の中にあった。何を思ったのか、勇儀は桶に結び付けられた縄の部分を握ったまま、危うい雰囲気と酒臭さを漂わせながら飛び続けている。 「さぁーかぁーずーきーをかーたーてにーっと。ハッハッハ」  勇儀は楽しそうに歌いながら、地上の方向へと去ってゆく。悪質な酔っ払いに積極的に話し掛けるなどという行為は勇気ではなく無謀であると判断したヤマメは、キスメの身を案じつつ、黙ってその後ろ姿を見送ることしかできなかった。  遊び相手を奪われてしまったヤマメは、仕方なく元来た道を戻って、今日という日を旧都で過ごすことに決めた。  後から思えば、あの旧地獄において最も力強き鬼を、この時点で地底に引き留めておくべきであったのかもしれない。      ***  遠い昔のお話です。  山には、天狗や河童を始めとする、さまざまな妖怪たちが暮らしていました。  土蜘蛛は河童たちが川で遊んでいるのを、いつも木陰から見ていました。自分も仲間に加わりたいという思いを抱きながらも、恥ずかしがって、なかなか表に出て行くことができずにいたのです。  ある時、いよいよ勇気を出して河童たちの中に飛び込んでいくと、糸を出して面白おかしい芸のできる土蜘蛛は、大いに歓迎を受けました。それからというもの、河童たちと一緒に川遊びをして過ごす、楽しい時間が続きました。  しかしながら、そんな明るい日々にも、すぐに終わりがやって来ました。土蜘蛛と共に遊んでいた河童たちが、ひとり残らず病を患って寝込んでしまったのです。さほど重い病気ではありませんでしたが、土蜘蛛が遊び仲間に加わった時期から、川の水質が悪くなっていることに気が付いている者がいました。  土蜘蛛は、意図せぬうちに『病のもと』を水に流し、川を汚してしまったのです。  一緒に笑っていたはずの河童たちは、こぞって土蜘蛛を責め立て、あっという間に仲間内から追い出してしまいました。病を操って川を汚す妖怪の話はたちまち山じゅうに広まり、その噂は川の水を伝っていった『病のもと』と共に人間の里にまで及びました。当時は鬼退治の英雄を輩出し、血気盛んであった里の人間たちからは、「土蜘蛛討伐」の声まで上がるほどでした。  こうして土蜘蛛は、非常に肩身の狭い暮らしを余儀なくされてしまいました。  理不尽な言い掛かりに曝されるばかりの、納得し難い苦節の日々が続きました。      ***  縦穴の遊び相手を見失って以来、ヤマメはずっと、自分の住み家でぼんやりとしていた。何事もない日常が過ぎてゆくはずだったのだ。  だからこそ、夕刻になり、唐突にその光景を目の当たりにして、夢か幻かと疑ってしまったのも無理のない話である。  ――旧都が燃えている。  ヤマメは未曾有の危機にいち早く気が付き、困惑を振り払って行動を起こした。 「大変です! 皆さんっ!」  家からいちばん近い鬼の詰所に駆けつけ、危機を知らせた。旧都を管理するという役割において、皆を護るということも担っている頼もしい鬼たちは、すでに救助活動や戦闘に臨む態勢を整えていたが、ヤマメは荒っぽくも優しい言葉で感謝された。  警鐘が鳴り響き、住人たちに避難を促している。ヤマメ自身も、避難ルートの確保に協力するために駆け出そうとした。しかしながら、ちょうどその時に、詰所に残って現状把握に努めていた鬼たちの会話が耳に入り、足を止めたのである。 「勇儀さんはどこだ」 「今朝、出掛けたきり戻ってきていねえな!」 「何ッ? この大変な時に、お気楽な方だなァ!」  その鬼の台詞は決して嫌味ではなく、非常時においても自由に振る舞っている勇儀の余裕を称えるかのような物言いだった。 「おい、土蜘蛛!」 「? は、はいっ!」唐突に呼びつけられ、ヤマメは背筋をピンと伸ばした。 「おめえ、勇儀さんがどこ行ったか、知ってるか?」  立ち聞きを咎められるのかと思ったが、違った。  ヤマメは地上の山に棲んでいた頃、勇儀と行動を共にすることが多かった。その身を旧地獄に移してからも、以前のようにいつも一緒にいるというわけではないが、親しい付き合いを続けている。だからこそ、勇儀の行方を聞かれることは、ヤマメにとっては至って不思議なことではなかった。 「知っていたら、すぐに呼んできてほしいんだが――」  そして――親しいこととは関係ないが、ヤマメは偶然にも勇儀の行方を知っている。  ヤマメはすぐさま、縦穴を目指して飛び出した。 「ちょっと」 「?」  その時、不意に誰かに呼ばれたような気がして、振り返った。  しかし、背後には何者の姿も見当たらなかったので、ヤマメは素早く気持ちを切り換え、駆け出していった。  炎上する街並み。  灼熱地獄のような暑い空気の中を駆け抜ける。  ふと、何か紅いものが、遠くの空中で閃くのが見えた。 「あれは……?」  ――何か、とんでもないことが起こっている。  未曾有の危機。  地上へ急がなければならない。  今の旧都には、星熊勇儀の力が必要なのだ。      ***  土蜘蛛は、森の茂みに隠れて怯えていました。  人間たちが、土蜘蛛退治をうたって山に乗り込んで来たのです。  刀を振りかざす人間たちは、土蜘蛛を嫌う妖怪たちから密かに助言を与えられていたこともあり、すぐに獲物の姿を暴き出しました。そうして、太い木の幹を背にした可哀そうな土蜘蛛は、いよいよ鋭い刃の切っ先に追い詰められてしまったのです。  土蜘蛛は、意図的に川を汚したのではないのだと叫びました。しかし、人間たちは聞く耳を持ちません。刀を握る手に、よりいっそうの力を籠めるばかりです。  ――どうして私が、こんな目に遭わなければならないのだろう。  ――ただ、みんなと仲良く遊びたかっただけなのに。  ――こんな身体、望んで持っているわけじゃないのに。  めまぐるしく暴れまわる思考の中で、土蜘蛛は自分が泣いているのか怒っているのか、もうはっきりと判らなくなっていました。  戦い方を知らぬ土蜘蛛は、それでも人間に立ち向かいました。そうしなければ、もう生きてゆくことができないからです。病をばらまいて皆の生活を脅かす妖怪、などという悪名を貼り付けられたまま、むざむざ殺されるのは絶対に嫌だと思いました。  しかし、鬼退治を行えるほどに鍛錬された人間たちを前にして、力の差はあまりにも歴然としていました。健闘も虚しく、今にも振り下ろされようとしている刃に、その身を斬り捨てられる痛みを想像しました。  覚悟などできるはずもありません。  そんな理不尽なことを、認めるわけにはいきませんでした。  土蜘蛛は、自分には悪意などないということを訴え続けました。  虚しく消えてゆくだけだと解っていても、本当の気持ちを叫び続けました。  その声が、天に届いたのかもしれません。  土蜘蛛の前に、一本角の鬼が立っていました。      ***  地上へ出ると、懐かしい空にはすでに夜の薄闇が舞い降りていた。  途中でもの凄い地響きの音を聞いたが、理由は解らない。少なくとも、その原因に見当をつけようとしてみたところで、恐ろしい想像しか湧いてこない。  ヤマメには、久々に見た星空に感慨を抱いている余裕もなかった。  勇儀の行き先の手掛かりを探っていかねばならない。  縦穴から出てすぐ、竹林の外へ向かって駆け出した。この複雑な竹林の奥地に迷い込むと、簡単には出られなくなってしまうことをヤマメは知っている。  途中、兎の耳をつけた少女が、水色の服を着た人を背負って必死の形相で走り去ってゆくところを見た。背後から見ていただけだが、兎の耳はともかく、あの水色の服のほうには何となく見覚えがある。果たして、誰だったろうか。  気にはなったが、深く考えている場合ではないので、余計な思考を振り払って走り出す。遠くに山が見える。地下に身を置いた自分が顔を出すのは怖いが、山の妖怪たちなら、何か知っているかもしれない。あるいは、先の事件で異変解決のために地下にやってきた、博麗神社の巫女に尋ねるという手段もある。  どちらにせよ、この地点から目指すべき方向は同じだ。竹林を抜け、その先の森へ。  すると――ヤマメは暗闇の中にぼんやりとたたずむ、薄明かりの空間に出た。  美しい泉だ。 「ごほっ、ごほっ」  誰かが苦しげに咳き込んでいるのが聞こえる。  その音の聞こえたほうを見やると、泉のほとりにしゃがみ込んでいる小さな影があった。青緑色の短い髪をしたその人は、少年とも少女とも言いつかぬ容姿をしている。 「誰?」  なぜだか知らないが、ヤマメは引き寄せられるように声を掛けてしまった。勇儀の手掛かりを聞き出せるかもしれない、と思ったのだろうか。自分でもよく解らない。  青緑色の髪をした人が、こちらを見た。白い衣装の上に黒いマントを羽織り、頭には二本の触覚のようなものが生えている。 「きみのほうこそ……ごほっ……どこの人だろう。この辺りでは見ない顔だ」  口調からは、訝しげな態度は感じられない。幼さの中に不思議と鋭いものを感じさせる眼差しからは、ただ「そうするのが礼儀なのでは」という、疑念でも押し付けでもない至って直線的な指摘の意思だけしか読み取ることができない。 「ご、ごめんなさい。黒谷ヤマメ、私は」 「クロダニ? やっぱり、聞かない名だ。妖怪だね。感覚で解る」 「は……はいっ」 「私も妖怪。名前は、リグル・ナイトバグ」  なぜ素直に返事をしてしまったのか、ヤマメにはどうしても理解できない。最初にこの相手を見た時から、何か捻じ伏せられるような強い感覚が胸の内を支配している。  もっと、警戒すべきなのに。  ヤマメはハッとして、何かを振り払うように首を振った。ここで時間を食っているわけにはいかない。本来の目的を果たさなければならないのだ。 「お尋ねしたいことがあります、ちょっと」 「?」 「人捜しをしています。あなたは見かけませんでしたか、星熊勇儀という方を」 「どんな人?」 「真っ赤な角を生やしている方です、額の真ん中に」両手をかざして角の形をつくる。 「そういう人は、見ていないな」  リグルが首を横に振るのを見て、ヤマメはひどく残念な気持ちになった。胸の内には、まだ不思議な感覚がわだかまっている。 「解りました。ありがとう」  それから簡潔にそう言って、再び駆け出そうとしたのだが―― 「待って。ヤマメという人」  名を呼ばれ、ドキリとした。  しかし急いでいることもあり、一刻も早くこの場を立ち去りたかったヤマメは、複雑な面持ちで振り返る。  リグルに話し掛けられることについては悪い気はしなかったが、ヤマメは、この泉の風景が嫌いだった。過去のトラウマを思い出させるからだ。  狼の死。  無実の罪。 「私でよければ、お手伝いできるかもしれない」  危うく混濁しそうになる思考を、リグルの声が遮った。口調から受ける印象がどこか冷めているため、親切な提案をされたのだということに、ヤマメはすぐに気付くことができなかった。 「今日の幻想郷は不穏だ。山で不自然な土砂崩れが起きたそうだし、ついさっき、不気味な白い光が空へ向かって飛んで行ったばかり……ごほっ」 「大丈夫ですか?」リグルが咳き込むので、ヤマメは心配して声を掛けた。 「ちょっと、風邪ぎみで。とにかく、きみひとりだと危なっかしい。この辺りの地理にも、詳しくなさそうだし。心もとないだろう」 「えっと……助かります。でも、捜すのは、どのようにしてですか?」 「私なら、きっときみの役に立てる」リグルは歩み寄ってきて、言った。「私は、蟲を操る妖怪です」  その時、ゾワリ、という背筋をなぞられるような感覚が走った。  蟲を操る妖怪。  地上に近い縦穴で過ごすことの多いヤマメは、その噂を聞いたことがあった。 「私は蛍の妖怪だけれど、『虫』と名の付くものならば何でも味方につけることができる。でも蟲たちの中には、毒を持つ者や、外見だけで不快な感覚を植え付けてしまう者もいる。慣れない相手だと、気分を害してしまうこともよくあるんだ」  胸の内にわだかまる、奇妙な感覚の正体。  土蜘蛛は――リグルの言う、『虫』と名の付くものであることに他ならない。 「それでも私は、蟲たちに対する偏見をなくそうと思っていて……この力を皆のために役立てられるように、努力しているんだ」 「――――」  その言葉が、すべての引き金となった。  役立てられるように?  何を言っているのだ。  地上でのんびり暮らしているくせに、何をぬけぬけと。  本当に忌み嫌われたこともないくせに、どうしてそんなことが言えるのか。  そうだ――蟲の王を気取って、誰かのためになろうとか抜かしている妖怪。  こいつの話を、私は知っている。  地底に封じられた我らにとって、開け放たれた地上こそ温室。  このような理不尽を、許すわけにはいかない。  このような不条理を、認めるわけにはいかない。 「? どうした……ごほっ。げほっ! ごほっ!」  気安く私に話し掛けるな。  温室育ちの地上の妖怪風情が。  苦しみを知らしめてやらねばなるまい。  必ずや、私と同じ苦しみを味わわせてやらねばなるまい。 「げほっ、げほっ! ごほっ! 何、だ、これ。急に、咳が……ごほっ!」  そうだ、苦しめ。もっと苦しめ。  甘ったれた戯言をぬかす妖怪に、現実を知らしめる。  そしてもう二度と、減らず口の叩けぬようにしてやろう。  王様気取りの愚かな地上の妖怪に、私の苦しみを教えてやろう。  私が抱かざるをえなかった憎しみの大きさを教えてやるのだ。  そして、理不尽にも地上を追われた、この私の―― 「井の中の窮屈さを知らぬ地上の妖怪――思い知るがいい、この私の悲しみをッ!」  ――美しい泉。  ――己の力を前向きに役立てようとする姿。  二つの要素が交わり合い、心によみがえりかけていたトラウマのタガが、ついに外れてしまった。 「フィルドミアズマ」  触れる者を病に侵す、地獄の瘴気が放たれる。  その時――土蜘蛛の瞳は、不気味な緑色の光を放っていた。      ***  ――気に入った!  土蜘蛛が自分の夢について語った時、一本角の鬼は豪快に笑って、そう言いました。  一本角の鬼は、圧倒的な力をもって、土蜘蛛を窮地から救い出してくれました。しかし、泣きながら感謝する土蜘蛛に対し、鬼は首を傾げるばかりでした。  実は、一本角の鬼は土蜘蛛を助けるつもりでやって来たわけではなかったのです。酔っ払って気分がいい時に、何やら騒がしくしている連中がいたから適当に殴り飛ばしただけだ、という話を聞いたとき、土蜘蛛は拍子抜けして笑ってしまいました。  いずれにせよ、命を救われたことには変わりありません。土蜘蛛は一本角の鬼を尊敬し、いつも付き添って歩くようになりました。一本角の鬼も特に咎めようとはせず、一緒に酒を飲む相手に事欠かないと言って、むしろ喜んでいました。そういうことを至極当然のように言い散らすので、下戸の土蜘蛛が顔を青くしてしまうのは仕方のないことでした。  土蜘蛛は、皆から慕われている鬼をかたわらで見ていて、いつしか自分も病を操る力を皆の役に立てたいと考えるようになっていました。そうすれば、意図的に川を汚すような悪人だという誤解も解け、また皆と仲良く過ごせるようになるはずだと思いました。  そんな気持ちを話すと、一本角の鬼は豪快に笑って褒めてくれました。自分から生易しくはない道を選択する度胸と、どれほど叩きのめされてもまだ皆の役に立ちたいと思うことができる優しさを評価してくれたのです。  自分が優しくされることに慣れていなかった土蜘蛛は、一本角の鬼のことをどんどん好きになってゆきました。尊敬という気持ちが、愛情に変化してゆくのを自覚していたのです。  だからこそ土蜘蛛は、『四天王』とまで呼ばれた力強き一本角の鬼が、とある別の鬼に恋心を抱いていることにも、早いうちから気付いていました。山に君臨する鬼と、その下につく妖怪、という身分の違いはありましたが、親しく冗談を交わし合えるほどに仲良くなっていた土蜘蛛は、ある時に思い切ってそのことを指摘してみました。すると一本角の鬼は、酒に酔って火照っているのとは違った態度で頬を赤らめ、普段は絶対に見せない恥ずかしげな表情を浮かべながら慌てて否定するので、これはもう図星であるのに違いないと、土蜘蛛はいたずらっぽい笑みを浮かべるのでした。  土蜘蛛自身は、恋心を抱きながらも、一本角の鬼の気持ちを尊重して、この想いは打ち明けずにいようと心に決めていました。一本角の鬼の笑顔を、ずっと見守り続ける立場にいられるだけでも、幸せな気持ちでした。  穏やかな日々に終焉をもたらした、あの陰惨な事件が起こるまでは。      ***  瘴符――フィルドミアズマ。  病原菌に満たされた空間で、蛍の妖怪が地に膝をついて悶えている。 「げほっ、ごほッ! え……? げほっ」 「どうして、って顔をしているわね。あなた」深い色だったはずの瞳を不気味なほどに明るい緑色に光らせ、ヤマメは不敵な笑みを浮かべていた。「病を操る土蜘蛛……そう、私は捕食する者。善人気取りの甘っちょろい蛍をね」  リグルは胸の前で拳を握り、苦しんでいる。肺がやられているのだ。もともと風邪を引いていたらしいが、もはやその程度の症状では済まされない。 「げほっ……がはッ!」  うめき声とともに、リグルの口元が紅く染まる。  吐血。  土蜘蛛の操るウィルスならば、虫一匹を死に至らしめることなど、あまりに容易い。 「温室育ちの愉快な蛍さん。妬ましいわ……妬ましいかぎりだわ! こんな綺麗な水辺に棲めるなんてねえッ!」  ヤマメは両目を見開いて笑っている。  緑色の瞳。  ――ああ、妬ましい。妬ましい。  ――私は忌み嫌われたのに、あいつは地上で呑気に生きている。  ――あいつを苦しめろ、もっと苦しめるのだ。  苦しめろ、という強迫観念。  心を支配している、底なし沼のような嫉妬心。  ヤマメはその不自然さに気付いていない。  本来の目的を見失っていることにも、まったく気付かない。  トラウマのタガが外れ、それに気付けるような判断力をすでに失っているのだ。 「ぐっ……!」  リグルは全身を震わせながら立ち上がって、この場から飛び去ろうとした。ひとまず攻撃の範囲外に出て、身の安全を確保しようと思ったのだろう。  しかし。 「キャプチャーウェブ」  放射。  泉のほとりに蜘蛛の糸が広がって、リグルの身体を包み込む。 「逃げられると思った?」両の手に網の端を握ったまま、ヤマメは鼻息を漏らして言った。「愚かね、地上の妖怪は。これだから」 「なる……ほど。げほッ……きみも、『虫』か」  蜘蛛の糸によって、口元を押さえたまま身動きがとれなくなったリグルは、しかし苦しそうに咳き込む時以外は表情を変えずに、こちらへとまっすぐに目を向けている。 「だったら、どうなの?」ヤマメは不敵な笑みに怒りの感情を混ぜた。「操れると思っているの? 私のことも。まさか、ね」 「……」リグルは応えない。 「言葉も出ないか、出せないか。一緒にしてくれるなよ、そこいらの『虫』と! 私を操れるはずがないっ! お前ごときがッ!」 「……ちが、う」 「何が違う」怒涛のように溢れ出る言葉。「もっと苦しめばいいんだ。私の苦しみを知ればいい。お前みたいに楽して生きてきた、温室育ちの妖怪とは違うんだ、私は! 蟲たちに対する偏見? みんなの役に立てるだって? 甘ったれたことぬかしてんじゃないよ! ……私だってッ! 私だって、本当は、この力を使って――!」  それは、最悪の記憶だった。  ヤマメが地上を追われるようにして去ることになった、そのきっかけ。  平和な日々を破綻させた、ある男の非情な行為。  狼の足音が聞こえる。  狼の唸り声が聞こえる。  ――土蜘蛛ハ何処ダ。  ――土蜘蛛ヲ捜シ出セ。      ***  山には狼の群れが棲んでいました。  あるとき妖怪の山に移り棲んで来た、人間たちから『大神さま』と崇められ、守り神として祀られるほどの、由緒正しき頭首を据えた誇り高き群れでした。  事の発端は、その狼の頭領が死んでしまったことにありました。  狼たちがいつも水飲み場として利用している泉に、何者かが毒を投げ込んだのです。  群れの狼たちは、病を操る土蜘蛛の噂を知っていました。今は山の四天王として有名な一本角の鬼と共にいるので、誰も咎めようとはしないが、昔は川を汚して河童たちを困らせる悪党だったと騒ぎ立て始めました。狼たちは、土蜘蛛が鬼のもとで増長して、再び悪さをはたらいたのだと言い出したのです。  一本角の鬼は、土蜘蛛を信じて、隠れ家にかくまってくれました。  息を殺し、においを消して、泣きそうになるのをぐっと我慢しながら身をひそめ続けることは、並大抵の精神力ではかないませんでした。  ――土蜘蛛ハ何処ダ。  通り過ぎてゆく足音。隔てるものは板一枚きり。  ――土蜘蛛ヲ捜シ出セ。  狼たちの足音。恐ろしい唸り声。  ――見ツケテ殺セ。土蜘蛛ヲ噛ミ殺セ。  地の底から毒水のように湧き上がってくる声。  そして同時に、病のように心を蝕んでゆく思い。  土蜘蛛は、頭がおかしくなりそうなくらいに悶え苦しみました。  どうして?  どうして、私がこんな目に。  私はただ、病を操るこの力で、皆を助けたいだけなのに。  病を操る力を使って、病気になってしまった人たちから『病のもと』を取り除くことができるように、努力しているのに。  一本角の鬼といつも一緒にいたのは、特訓のためでもあったのです。能力を鍛えて、病気を振り撒くだけではなく、取り除くこともできるようになればいいと。そうして、皆を救うことができればいいと。  だからこそ一本角の鬼は、生易しい努力では達成しえない目標に向かって頑張ることのできる、強い意思を持った土蜘蛛を認めて可愛がっていたのでした。  しかし、現実はあまりにも残酷でした。  人間も。  妖怪も。  狼たちも。  血の滲むような努力を見ようともせず、誰もが土蜘蛛を罵りました。  狼たちの山狩りは続き、やがて暴動にまで発展してしまいました。平和であったはずの山は、妖怪たちと狼たちとが争う、悲惨な戦場に成り変わってしまいました。  自分には、誰かを救うことなんて、できないのだ。  自分には、誰かを苦しませることしか、できないのだ。  土蜘蛛にはもう、誰かのために力を活かすことなど、考えられませんでした。  苦悩と悲しみに明け暮れた末、土蜘蛛は、逃げるようにして山を去りました。  泉に毒を投げ込んだ者を怨みながら、罵詈雑言に押し出される背中を小さく丸めて、何処とも知れぬ場所へと消えてゆくのでした。      *** 「……」 「どうした? 解っただろう。お前がどれだけ甘いのか。かつて私がやろうとしたことを、のうのうと地上で喚き散らしているなんて、認めるわけにはいかないんだ……お前みたいな甘っちょろい奴がッ!」  いかなる思いで、地底に身を移したのか。  リグルは黙って、口元を押さえたままの姿勢で、ヤマメの話を聞いていた。  いや――実のところ、先ほどから表情ひとつ変えず、こちらの話を聞いているのかどうかも解らない。そのことが、ヤマメの苛立ちをさらに募らせる。 「げほっ」 「フン……『虫の息』だわね」  夜の薄闇に、咳の音だけが響いている。  まだ苦しみ足りないのかと、激情に身を委ねたヤマメが更なる病の弾幕をばら撒こうとしたその時、リグルの口からようやく声が漏れ出した。 「きみは」咳き込みながらも、言葉を続ける。「きみは、憐れだ」 「――――」  ヤマメの怒りの琴線が揺れ、網を握る手に力が籠もった。 「何を……言い出すかと思えば。同情される筋合いはないッ! ただ、苦しみだけ知ればいいのよ、お前はッ!」 「だから、憐れだと……げほっ。言っている。本当、は……聞いて、欲しかったんだ」 「ふざけるなッ!」  その目に宿った緑の色が、いっそう強い光を放った。  聞いて欲しかった?  私が?  こんな奴に?  地上の妖怪風情に?  そんなはずはない。  そんなはずはないのだ。  私はそんなに甘くはないッ! 「減らず口は直らないようね? 本当に、死んでしまうほどに苦しまなければッ!」  射出。  何もないはずの空中に粘着し、周囲の景観を支配する糸。  それらは複雑に絡み合って、直線的な図形を描き上げてゆく。 「猛毒『十三星座』――思い知れ、地獄の苦しみをッ!」  スペルカード宣言の叫びと同時に、星座の形に展開していた蜘蛛の糸が破裂した。  その糸の内側から、生ける者の肉体を蝕み、止まぬ痛みと苦しみによって壮絶な死をもたらす、恐るべき病原菌が大量に放出される。  しかし――網に捕えられているはずの蛍は、表情を変えることなく言った。 「だから、憐れだと言っているんだ」  その言葉を合図に、リグルの背後から蒼白い光がじわりと湧き出してきた。  ヤマメは初め、蛍の仲間を呼んだのかと思った。リグルは口を押さえたまま身動きが取れない状況だが、それでも「蟲を操る」ことはできるはずだ。  無論、そんなことなどヤマメは計算済みである。そもそも、『病』という圧倒的な力の前では、細やかな方策や打算など必要ないのだ。 「無駄な足掻きだわ!」  驚いたことに、その蒼白い光は蛍ではなく、蝶の形をしていた。光る羽根を持つ蝶の群れが、リグルの周囲に召喚されたのだ。  しかしながら、その神秘的な輝きもすぐに失われるであろうと想像し、ヤマメは嘲笑を崩さなかった。土蜘蛛の力の前には、いかなる人間も妖怪も、その身を侵され倒れ伏す。ましてや一寸の五分にしか満たない蟲の魂など、たちまちに病に蝕まれて朽ち果ててしまうのだ。 「まだ気付かないか」  リグルはしかし、毅然とした態度で言い放った。  ――そう、『毅然とした態度で』。 「な……ッ? 咳は? なぜ、苦しんでいない? 病はどうしたッ!」  ヤマメは息を呑み、目を大きく見張った。  蜘蛛の糸によって身動きが取れず、病原菌を吸って咳き込んでいたはずの蛍の妖怪は――膝をついたままの姿勢ではあるが、まったく苦しむことなく言葉を話している。 「治ったよ。ウサギさんに感謝だ」  困惑するヤマメに対し、リグルは、さも当然のことであるかのように言った。  治った?  あいつは、何もできなかったはずだ。  蛍の妖怪などが、私の撒いた病原菌の抗体を持っているはずがない。  あいつは口元に手を当てていただけではないか!  そう、口元に、手を―― 「まさか」  ヤマメはひとつの推測に辿り着く。  しかし、そんなものが用意できるはずがない。  出来たとして、森に棲む蛍の妖怪などが、そんなものを持っているはずがない。  まだ見ぬ病原菌に打ち克つだけの『薬』を、リグル・ナイトバグが所持しているなどということはありえないのだ。 「竹林があるだろう」リグルは笑いもせず、誇りもせず、ただ淡々とした口調で語り出した。「馬鹿馬鹿しい話だと思うかもしれないけど、竹林の中にお屋敷があってね。薬剤師が住んでいるんだ。月からやって来た、もう何億年も生きている人だ」  蒼白い光をまといながら、リグルは語った。  汚れてしまった泉の水を飲んで、風邪のような症状に悩まされていたこと。  薬のにおいが嫌だからといって、薬剤師に診てもらうのをためらっていたこと。  今日の朝、意を決して診察してもらうと、「蟲に薬といえば、殺虫剤になってしまうから」と指摘され、自身が薬嫌いな理由が解ったこと。  そうして、「ならば『殺虫剤の逆』を作れば、それすなわち蟲にとっての『万能薬』となる」と言われ、用意できたら届けるので少し待ってほしいと言われたこと。  日が暮れ始めた頃、リグルにとっての目覚めの時間に、薬剤師の遣いの『月の兎』が泉にやって来て、完成した『万能薬』を手渡してくれたこと―― 「そん……な……」 「僕は、薬を口に含んだ。一応、毎日飲むように渡されているから、まだ量はある。残念だけど、そういうことなんだ。だから、僕にはもうきみの力は効かない。万病に効くと言って、天才薬剤師が保証するんだ。間違いないよ」  窮地に追い込んだはずの相手。  冷静な口調が、逆に言葉を心の奥深くまで突き刺してくる。 「そんな。どうして。地上の、妖怪なんかに――」  私が、負けるはずがない。  苦しみに耐え抜いて生きてきた私が。  地底に追いやられても、明るく頑張って生きてきた私が。  生ぬるい、地上の蛍などに。 「負けるはずないのにッ!」  更なる病の猛攻。  病原菌の密度が高まって、辺りに漂う蒼白い光を振り落とそうとする。あの光は蝶なのだから、病に侵され地に堕ちるのも時間の問題なのだ。  ――そのはずなのに。 「バタフライストーム――ボルボレッタ」  スペルカード宣言。  蒼白い光を放ちながら、蝶たちが辺りを埋め尽くすように羽ばたいている。  蝶は、堕ちない。  それどころか、いっそう勢いを増して飛び回り始めた。 「なぜ……? なぜ、病を受け付けないの? その蝶はッ!」  蝶の羽根から、蒼白い鱗粉が舞っている。  辺りは鱗粉の光に支配され、まるで雪のように神秘的な光景をつくり出した。  瘴気にあふれた空間でも、元気に飛び回るその姿。  たくましく優雅なこの昆虫に名を付けて呼ぶとすれば――さしずめ、不死の蝶。 「蝶の鱗粉に、『万能薬』を混ぜてみたんだ」リグルはなおも、何ら感慨を見せずに淡々とした口調で言った。「ごめんよ。きみにはもう、勝ち目はないと思う」 「あ……うぐ、あ。は」  顔面を引っかくようにしながら、ヤマメはその場に崩れ落ちた。  散布された薬によって、泉の周りに漂っていた瘴気が消えてゆく。  やがて蝶たちも何処かへ飛び去り、蒼白い光に包まれていた泉には、静かな夜の闇が舞い戻ってきた。  完敗だ。  膝をつき、前のめりになって地を見ている。  ヤマメは戦意を喪失していた。  その証拠に、瞳に宿った緑色の不気味な光はまだ残っているが、リグルを捕まえていた蜘蛛の糸の網は、すでにその形をうしなっている。 「うぐ、あ。なん、で。わた、し」  嗚咽。  下へ向かって垂れた金色の前髪が、緩やかな夜風に揺らめいている。  ふと、前方で足音がした。  地に伏したヤマメの影を、新たな影が覆い隠す。  土蜘蛛は顔を上げて、そこにいるはずの蛍の顔を見た。 「ごめんよ」  リグルは、何だか申し訳なさそうな表情をして、こちらを見下ろしていた。先ほどまでの無表情と比べると、ずっと血の通った妖怪らしく感じられる。 「なに、が」ヤマメはすすり泣くような声で言って、精一杯睨み付けた。 「地底のことは、知っている。冬に温泉が湧いて、みんな騒いでいたから」  リグルは、『みんな』というところだけ、笑って話した。  その当時、蛍は冬眠していたけれど、あまりに騒がしいので目を覚ました。温泉ではしゃいでいた友人たちから、巫女と魔法使いが地下に潜った話を聞いたのだという。 「僕は、きみを傷付けてしまったんだよね」リグルはまた申し訳なさそうに眉根を寄せて、話を続けた。「僕みたいな、地上で綺麗な空気を吸って、透き通った水を飲んで、明るい太陽の光や、優しい月の光を浴びて、ぬくぬくと生きている妖怪に、生半可な気持ちで『誰かのため』だとか『偏見をなくす』だとか、言われたくなかったんだよね。きみは、僕なんかよりずっと、苦しい思いをしていたのに。それがどれだけ辛くて厳しいことか、何も知らずに言われるのが、嫌だったんだよね」  ヤマメは涙も拭かず、ただ鼻をすすりながら、その言葉を聞いていた。  リグルは、すべてを理解していたのだ。  戦いの中で、その苦しみを理解しようとしていたからこそ、咳き込んで苦しくてもずっと表情を変えずに、黙ってヤマメのことを見ていたのだ。  本当は、もっと早くから『万能薬』を使うこともできたはずなのに、リグルはそうしなかった。血を吐く場面もあったというのに、それでも『万能薬』を使わなかった理由は――自分が何か悪いことをしたのだと自覚し、謝ろうと思い、ヤマメの気持ちをしっかりと理解するためだったのだ。 「だから」リグルは膝をついて、目の高さを合わせた。「本当に、申し訳ない」 「わかった、よう、な、くち、を、きく、なっ……!」  ヤマメはもう、何を考えていいのか解らなかった。  ただ、地上の妖怪に謝られているという事実に困惑し、受け入れられず、撥ね退けるような態度を取っているだけなのだ。 「ああ……そうだね。僕は、『解ったようなつもりになっているだけ』なのかもしれない」リグルは残念そうに小さく首を振ってから――驚いたことに、それまで一片たりとも見せようとはしなかった、強い意思の籠もった眼差しを向けてきた。「でも、これだけは言わせてもらおう。僕はきみのような肩身の狭い境遇に陥ったことはなかったし、それゆえの苦しみを体験したことだってない。それでも、誰かのためになりたいという気持ちは同じだ。独りよがりなのかもしれないけれど、偏見をなくそうという気持ちだって、『そうなればいいな』とか、ただ待っているだけじゃない、精一杯の努力によって示しているんだ。そのことだけは、否定しないでほしい」  頭の中を貫きそうなほどに、強い視線と確かな言葉。  リグルの話を聞いて、ヤマメは気付いた。それを否定してしまったら、自分の気持ちを知ろうともせずに、自分の努力に見向きもせずに、罵詈雑言を浴びせかけた者たちと同じではないか。それは間違っていると感じたはずなのに、自分自身がそうなってしまっては、本末転倒ではないか。 「……うっ。あ」ヤマメの口から、再び嗚咽が漏れる。 「ごめんよ……少し、強く言い過ぎちゃったかな」 「ちが。ちが、う」 「?」 「ちが、う、の」  リグルは不思議そうな顔で、こちらを覗き込んでいる。  言うべきことは解っていた。  その眼に宿った緑色の光は、もうほとんど消えつつある。 「いわ、せ、て」そうしてヤマメは居住まいを正し、できるだけはっきりとした発音になるよう舌に力を籠めて、こう言ったのだ。「ごめん、な、さい」  ヤマメは、ひどく申し訳ないことをしてしまったと感じていた。  何かを成し遂げようとする思いは、同じなのに。  そこに自分の苦しみを押し付けて、甘っちょろいなどと決め付ける行為は、それこそが間違っている。 「いいんだ。解ってくれれば」リグルはにっこりと笑った。「僕も悪かったんだ」  ヤマメは、心臓が跳ねるような思いがした。冷めた印象だった蛍が、こんなにも優しい笑顔を向けてくれるなんて、とても嬉しいことのように感じられた。 「そんな、こと、ないよ。出会った、ばかり、なんだ、から」 「そうかな。そう言ってくれると、ありがたいかも」  蛍の妖怪は、ぼんやりと綺麗な光を灯すように、また笑った。  リグルの姿を初めて見た時の、胸の内にわだかまっていた奇妙な感覚を思い出した。ひょっとすると、あれは、リグルが蟲を操る妖怪であることとは、何ら関係のない気持ちであったのかもしれない。ヤマメは、そう気付き始めていた。 「ヤマメ」  名を呼ばれ、また心臓が跳ねた。 「は、い」 「えっと……ヤマメ、で、いいかな」  呼び捨てで大丈夫か、という意味だと解り、ヤマメはこくりと頷いた。 「僕が、きみを受け入れてあげるよ」 「えっ……?」  リグルの眼差しは、いたって真剣なものであった。  私を、受け入れる?  それは、どういう意味だろう。  まさか、それって。  もしかして。  でも、そんな、まさか――  その言葉の意味を理解するのには、少しの時間を要した。  だからヤマメの頬は、遅れて桃色に染まってゆく。 「僕らの志は、同じだ。そしてきみは、多くの人たちから誤解を受けている。だから、僕がきみと一緒に、みんなの間違いを直していってあげる。そのために、いちばん最初に、僕がきみのことを受け入れよう」  蛍は、優しい声で話した。  ヤマメの心臓が、ドクン、ドクンと高鳴ってゆく。  そういえば、リグルの一人称は、いつしか「私」から「僕」というものに変わっている。ヤマメにはそのことが、深い親しみの表れであるように感じられた。 「それに、どうやら僕は、きみに惚れてしまったらしいから」  まるで、何でもないことみたいに。  しかし確かな想いを眼差しに載せて、リグルはそう言った。  そうして、蛍は――土蜘蛛を、強く抱き締めた。 「――――」  心臓が止まってしまうかと思った。  いつも仲良く接してくれる地底の妖怪たちでさえ、ヤマメに直接触れることだけはためらうのに。  それなのに、同じ志を持つ蛍は、出会ったばかりで――しかも、土蜘蛛の病毒をその身に受けておきながら、優しく触れてくれた。  胸の鼓動と一緒に、頭の中が熱くなるのを感じた。 「もう、寂しくないよ」 「う、あ。えぐっ。ひぁ」  リグルの吐息が、耳元をそっとなぜた。  これまで感じたことのないぬくもりが、衣服の上から肌に伝わった。  こんなに嬉しい気持ちは、本当に初めてだった。 「ふぁ、あ――うわあああああん!」  堰を切ったように、泣き叫んだ。  涙がたくさん出た。  顔をくしゃくしゃにして泣いた。  心が、とても温かかった。  ヤマメは、今にも飛び去ってしまった蝶たちがまた戻ってきて、自分のいる世界が穏やかな光に包まれてゆくのではないかと思った。  潤んだ瞳に、不気味な緑色の光はもう少しも宿ってはいなかった。      ***  無実の罪を着せられ、居場所をうしなってしまった土蜘蛛は、しばらく地上を彷徨ったのち、地底に存在する地獄の跡地へと辿り着きました。  土蜘蛛よりも先に山を下りて、この打ち捨てられた土地に暮らしていた鬼たちは、大いに歓迎してくれました。慣れない地下での生活でしたが、土蜘蛛は次第に打ち解けてゆき、洞窟で一緒に遊ぶ友達も出来ました。  そんな折、あの一本角の鬼が地底にやって来たので、土蜘蛛は大いに驚きました。  一本角の鬼は、恋心を捨てきれずに地上に残っていたはずでした。そのことについて詮索するのは失礼だと思ったので、土蜘蛛は何も言いませんでしたが、一本角の鬼の幸せが叶わなかったのだと思うと、とても哀しい気持ちになりました。  一本角の鬼は、他の鬼たちと同様、地上の人間たちを見限って地底へと移ってきたのですが、何がそういう決断へと導いてしまったのか、土蜘蛛は当たり障りのない程度に聞いてみることにしました。  そうして、一本角の鬼の口から、泉に毒を投げ入れた男の話が語られたのです。      ***  美しい泉のほとりに腰掛けて、二人は肩を寄せ合っていた。 「いつからだったか、地上の妖怪が妬ましくて仕方がなかったの。私は」 「それで、八つ当たりしたんだ」 「もう。しないでよ、そういう言い方。まあ、そうなんだけど……考えもしなくてね、まさか、穴が開くなんて」 「そんなに簡単に穴が開いたら、今ごろ幻想郷の大地は蜂の巣みたいになってるね」 「ええ。とても分厚いのよ、地上と地下の間の地層は。それなのに、穴が開いてしまったの、私が土を腐らせただけで」  ヤマメが話しているのは、一年前のことについてだ。  ある時から、急に地上の妖怪たちに対する嫉妬心が膨れ上がり始め、上にいる連中を攻撃してやるというイメージから、地底の天井に八つ当たりするようになった。嫉妬心に火がついた理由については心当たりがあるが、それがいかに外的な要因によるものであったとしても、ヤマメは地上と地下を隔てる地層を病気にして削るということを、場所を変えながら幾日も行ったのだ。これは地上の者たちに干渉しないということについての明らかなルール違反であり、このことが鬼たちに知れたら、ヤマメは間違いなく処罰されてしまうだろう。しかし、場所を転々として行っていたことや、丑の刻に神社の境内で藁人形を打ち付けるかのようなあまりの不気味さに、誰も通報することがなかったので、運良く発覚は免れていた。  そんなことを繰り返していたある日、突然、地底の天井に穴が開いてしまったのだ。そんなことが起こるとは想像もしていなかったヤマメは、大いに焦り、慌ててその穴を塞ごうとした。 「その時だわ、私があれを見たのは」 「あれ、とは何だい」 「……『紅い悪魔』よ」  地上から、紅い二つの眼を持つ不気味な影が舞い降りてきたのだ。その影は、不可解な笑みを残して、どこかへ消えてしまった。  そしてヤマメは、今日、炎上する旧都の上空に紅い閃光が走るのを見た。  本当は、ヤマメは自分のことをもっとたくさん話したかったし、リグルの話も聞きたかった。しかし、緑色の強迫観念から正気を取り戻したヤマメは、今はそういうことをしている場合ではないのだということをよく理解していた。  地底の都市は、前代未聞の危機に見舞われているのだ。  ヤマメは何かに焚きつけられるようにぼんやりとしていた記憶を整理していくうち、旧都に災厄をもたらしたのは、あの『紅い悪魔』であるに違いないと思い至った。 「だから、地上に来ている勇儀さまを見つけなければならないの、私は。ひょっとしたら、もうお気付きになっているかもしれないのだけれど。地下に戻って」 「いや、念には念を入れるべきだ。協力するよ。蟲たちに捜してもらえば、すぐに見つかるはずだ」 「リグル……ありがとう」  そうして、ふとした偶然から出会った大切な人に感謝し、ヤマメが少し頬を紅潮させた――その時のことである。 「捜す必要はないんだなぁ、これがッ!」  背後の森から、威勢のいい叫び声が響き渡った。  二人が振り返ると、森の暗闇の中から、額に一本角を生やした大きな影が現れた。 「ヒュウ。お二人さん、おアツいねェ。若いモンはそうでなくッちゃ。結構、結構」  口笛を吹き鳴らし、手首の錠を握った酒瓶にカツリとぶつけながら、こちらへと歩み寄ってくる背の高い人物。 「勇儀さま!」  木々の隙間から顔を出したその姿は、紛れもなく、ヤマメの捜し人――星熊勇儀その人であった。  なんと幸運なことであろうか。気の遠くなるような捜索の必要がなくなった。  四天王の星熊勇儀がいれば百人力だ。これで、旧都は救われたも同然――  しかし、勇儀は酒瓶のフタを親指で弾き飛ばすと、その眼をギロリと鋭く光らせた。 「咎人の外さぬ枷」  唐突な所作。  薙ぎ払うように振るわれた酒瓶の口から大量の水が飛び出し、ヤマメに向かって勢いよく猛進する。 「えっ……?」  それがスペルカード宣言であるということに気付いた時には、もう遅かった。  輪の形に広がった液体は、ヤマメの身体をすり抜けることなく、そのまま彼女を後方へと弾き飛ばした。無抵抗な肉体は、小石が撥ねるように泉のうえを滑ってゆく。  勇儀が腕を振るうと、水面に落ちかけていたヤマメの身体がフワリと浮き上がり、猛スピードで陸地へと引き戻された。 「――くはッ!」  空中から地面に叩きつけられ、ヤマメの口からうめき声が漏れる。  何が起きたのか理解するのに、少しの時間を要した。  液体のリングが両腕の上からヤマメの身体を拘束しており、縄のように伸びて酒瓶の口へとつながれている。勇儀が酒瓶を持っていないほうの手でその口を切り払うと、液体の縄は千切れて、ヤマメを拘束するリングだけが残された。 「勇儀……さま……?」  ヤマメは地に這いつくばったままで、不可解にも唐突な襲撃を仕掛けてきた、敬愛する人物の顔を見上げた。  鬼のような形相。  否。  恐るべき鬼の形相をたたえた、四天王の姿がそこに在った。 「何だ、アンタは!」  突然の出来事にしばし呆然としていたリグルであったが、状況を理解するなり態度を改め、勇ましい声を上げた。 「鬼だよ」  勇儀は、当然のようにそう言った。 「そんなことは知っている! ヤマメが捜していたんだ。地底の都市の秩序を守る、星熊勇儀という名の鬼。アンタがそうだ」 「いかにも」 「それなのに、なぜ――」 「だから、そのためだ」勇儀はリグルの問い掛けを遮り、先んじて言った。「『地底の都市の秩序を守るため』だ」 「何を言っているんだ! 地底の都市が、大変なことになっている。アンタがどこに居たのかは知らないが、さっき、不気味な光が飛び出すところも見ていたはずだ!」 「……」 「ヤマメは、異変を解決できるアンタを捜していたんだよ! それをどうして、そんな風に、無理やり拘束する必要がある? 何を誤解しているのか知らないが、ヤマメは皆のために動いていただけだ。悪人は地下にいるんだ!」 「違うね」必死に紡がれたリグルの言葉が、あっさりと一蹴される。 「……ッ! 何が違うんだ?」 「解らないのか? 呑気な蛍だ」勇儀はそう言って、つま先でヤマメの頭を蹴るように小突いた。「こいつは、ルールを破った大罪人だ。地底の天井を突き破って、無理やり地上に干渉しようとした、頭のイカレた妖怪だ」 「――――」  ヤマメは息を呑んだ。  すべて、聞かれていたのだ。  正気ではなかったとはいえ、地底の天井に穴を開けてしまった事実を。 「縦穴から地下に戻ろうと思ったんだが、なぜか土蜘蛛が地上に居て――面白そうなことをやっているから、傍から眺めていたらコレだ。残念だよ、ヤマメ。お前のせいで、ワン公との挟み撃ちの計画も、破綻しちまった」  ヤマメが受けた衝撃は、あまりにも巨大であった。  あれほどまでに優しく、ずっと昔から慕っていた勇儀に、罪人呼ばわりされ、けなされるという現実は、ヤマメにとっては耐え難い重苦であることに他ならない。 「そして、私は鬼だ。私には責任がある。旧都の秩序を守る責任がな。罪を犯した者をしかるべき場所に連行して、キッチリとけじめをつけてもらわなくッちゃならん」 「待て、ヤマメは――」 「黙れ。雑魚の蟲ごときが」  ――ゾォン。  聞こえるはずのない擬音とともに、周囲の空気が凍りつき、急激に重みを増した。  怒れる鬼は、牙を剥き出しにして、蛍を睨み付けている。  圧倒的な力。  リグルの膝が、ガクガクと震えていた。 「やめ、ろ」  しかし――決して退こうとはしない。 「ほう」勇儀の口元が、少しだけ緩んだ。「鬼だと知って、歯向かうか」 「ヤマメ、を、放せ」 「できない」 「ヤマメを放せッ!」  震える声が、確かな意思を籠めた叫びに変化した。  その叫びに応えるように、どこからともなく、小さな蟲たちが寄り集まってくる。  威圧感に屈することなく、それを撥ね退けるかのように、辺りに充満する羽音。  蠢符――ナイトバグトルネード。  次の瞬間、無数の蟲たちが黒い霧を生み出し、嵐のように鬼のもとへ襲い掛かった。  蟲たちは、勇儀の立ち姿をたちまち丸呑みにしてゆく。 「……?」  しかし――黒い霧が鬼に喰らいつく感触は、少しもない。 「遅いな」  声。  力強き鬼は、ほんの一瞬でリグルの背後に回っていた。  頭上に酒瓶を振りかざし、初めからそこに居たとでも言うかのように。 「――――」  ガシャァンッ!  甲高い音と共に、振り下ろされた酒瓶が砕け散った。 「リグルッ!」  ヤマメは地に伏したまま、芋虫のように這って泉のほうへ近付こうとする。しかし、そんな必死の思いも果たされることなく、リグルはがくんと膝をついて崩れ落ちた。  泉に立っている者は、圧倒的な力を有する鬼だけとなる。  静寂。  割れて下半分がなくなった酒瓶を握ったまま、気絶した蛍の傍らに、鬼はゆっくりとしゃがみ込んだ。 「……ッ! 勇儀さま、やめて!」  割れた酒瓶で、リグルの喉元を掻き切るつもりなのだ――そう思ったヤマメは、叫び声を上げて懇願した。  しかし、勇儀の手の動作は、決して気絶しているリグルの首元には近付かない。  ヤマメは泣きそうになりながら、その不可解な作業を見ていた。勇儀は酒瓶の破片の切っ先を使って、土の上に文字を書き記しているのだ。  ――『地獄の三丁目』。  この場所が、リグルにとっての地獄だとでも言うのだろうか。豹変した勇儀の恐ろしい行いに、ヤマメは背筋が凍りつくのを感じていた。  小さなメッセージを書き終えた勇儀は、酒瓶の残骸をその傍らに放り捨てると、ヤマメの襟元を掴んで無理やりに立ち上がらせた。  優しき鬼の姿はない。  何を聞いても、勇儀は応えてくれないような気がした。  肩をせっつかれるように、無言で地底へと連行されてゆく。  前へ前へと歩かされながら、何度も振り返るが――地上での良き理解者となってくれた愛しい蛍の妖怪は、地に伏して動かず、口を利くこともない。  ヤマメにはもう泣くことしかできず、これから下されることになる処罰の恐ろしさを想像して身を震わせることも忘れ、その心はただ、暗黒の色をした寂しい思いにじわりじわりと塗り潰されてゆくのであった。      ***  一本角の鬼は、泉に毒を混ぜた『狼殺し』の犯人について語りました。  土蜘蛛に冤罪を押し付けた者の正体は、他人の心が読めるという妖怪が人間の里を歩いていた時に、偶然あばかれたのだと言います。  その男はもう死んでしまったよと、一本角の鬼は教えてくれました。その男の行いに、いよいよ人間というものをまったく信用できなくなった一本角の鬼は、大切な恋心を捨ててまで薄暗い地底へとやって来たのです。  しかしながら、土蜘蛛にとって、一本角の鬼に教えられるまでもなく、そのようなことは『解りきった事実』として心のうちに根付いていました。  非情な行いに加え、他人に理不尽な罪を着せるような悪逆きわまりない人間は、バラバラに引き裂かれ、惨たらしく殺されて当然なのだ――土蜘蛛は頭の中で黒々とした納得の感情を強調し、歪んだ意思を反芻させました。  しかし、そんな狂おしい感情も、地底の者たちと共に明るく過ごしてゆくうちに、土蜘蛛の心の奥深くへと追いやられ、遠い過去へと置き去りにされてゆくのでした。
第六章
第六章 緑眼のメモリー  優しい少女でした。  春のように穏やかに笑う少女でした。  その少女はやがて、美しい女性になりました。  変わらずに、優しい心を抱き続ける女性になりました。  どれだけ傷付けられても、どれだけ苦しめられても、笑って朝を迎えました。  彼女は優しく在りつづけることで、いつか救われる日が来ると信じていました。  強い女性でした。  それでも――彼女に救いは訪れませんでした。  それどころか、あまりにも残酷な仕打ちが、彼女の心を引き破りました。  彼女は、狂ったように死にました。  悪意に満ち溢れた人間の卑劣な行いが、優しき女性を無残な死に至らしめたのです。  泥臭くけがらわしく、あまりにおぞましい思考が、彼女を殺してしまったのです。      *** 「ちょっくら、向こう側まで行ってこようと思って」 「……えっ?」  豪気な鬼は、地上へと続いている縦穴の入口のほうを示しながら、当たり前のようにそう言った。  水橋パルスィは、地上と地下をつなぐ縦穴の番人である。  しなやかに波打つ金色の髪に、尖った耳が特徴的な美少女――と言えば聞こえはいいが、この少女が緑色の眼を持つ『嫉妬狂いの橋姫』であることを忘れてはならない。 「――悪いけど、パルを連れて行くわけにはいかないよ」 「……勇儀さま。その。なぜですか?」 「んー。その、何だ。ちょっとね、プライベートな事情で」 「……私は。えっと。勇儀さまと、プライベートなお時間を……共に……その……」 「ん? 何だって?」 「……いえ。その。ごめんなさい。ええ。何でも御座いません」  この日の朝、パルスィは一本角の鬼――星熊勇儀と共に地上へ行こうとしたが、断られてしまった。せめてもの餞別にと、先日手に入れた日本酒を差し出したところ、とても喜んでもらえたので、パルスィはだいぶ気分が良くなった。  と、言うのも、パルスィは、昨晩から胸の中にわだかまっていた嫌な感覚を、ずっと解消できずにいたからだ。  心臓をじかに握り締められているかのような、生々しい苦痛。胸騒ぎ。  思い起こされるのは、一年前、旧都の外れで遭遇した、あの不気味な二つの紅い瞳のことだった。血の滲むような紅色と目が合った時、こちらの眼球を握り締められ、そのまま心臓を潰されてしまいそうな恐怖を覚えた。パルスィが『紅い悪魔』と呼ぶその得体の知れないものが、果たしてどこへ飛び去ったのかは解らなかった。  そして昨晩、一年前のあの瞬間と同じ感覚が、まるで不穏な未来の到来を告げるかのように、急に胸のうちによみがえってきたのである。きっと、どこかに身を潜めていた『紅い悪魔』が、何か恐るべき行為に臨もうとしているのに違いないと考え、パルスィは何度も身震いしていた。  そういう気持ちが、朝に縦穴を訪れてきた鬼と会話したことで、いくらか和らいだのである。  パルスィは勇儀を慕っている。それはもう、単なる尊敬の念ではなく、胸の高鳴りをともなった恋慕であるということも自覚している。勇儀に『紅い悪魔』のことを伝えられなかったのは、いかなる恐怖心さえも「それどころではない」と言って無視することができるくらいに、深い愛情を抱いているためであった。  そういう意味では、パルスィは純情で可愛らしい『恋する乙女』なのだが――その愛情の深さゆえに、土蜘蛛がやって来た時には、どうしても面倒なことになってしまうのである。 「おはよう。橋姫さん」  土蜘蛛が訪問してきたのは、勇儀が縦穴に入っていった直後のことである。  黒谷ヤマメは、日常を縦穴で過ごすことを好んでいる。縦穴の番人よりも地上に近い場所に出入りすることが許可されているのは、ヤマメが勇儀と親しく、強い信頼を得ているためだ。  パルスィ自身も、そういう意味では縦穴に出入りすることは自由なのだが、勇儀との関係はヤマメのそれと比較するとあまりにも浅い。 「……勇儀さまが。ええ。地上へ向かわれたわ」 「地上へ? 勇儀さまが?」パルスィの言葉を受けて、ヤマメは驚いた顔をした。 「……まさか。ああ。あなたは、その後を追って来たのかしら? 勇儀さま、土蜘蛛にはお供を許可するなんて。妬ましいわ……」 「ちょ、ちょっと! 橋姫さん、誤解だって、それ」  パルスィは昔、地上に暮らしていた頃に、橋を渡る人間たちを脅かす嫉妬の妖怪として、悪名を轟かせていたことがあった。ある時、悪しき者を捜し出すために山から里へと下りてきた一本角の鬼に出くわし、橋姫はその前に立ちはだかった。  ――その力が妬ましい。皆から慕われるその力が妬ましい。  パルスィはそう言って勇儀に挑みかかったのだが、赤子の手を捻るようにあっさりと叩きのめされてしまった。しかし勇儀は、四天王とまで呼ばれる鬼に真正面から立ち向かう度胸を評価し、地上を去る時、人間たちから忌み嫌われて居場所をなくしていたパルスィを拾って地下に連れてゆき、新しい土地で暮らすことができるように計らってくれたのだ。  パルスィがそんな勇儀の姿に惚れ込むまでには、そう時間は掛からなかった。しかし同時に、昔から一本角の鬼を慕い続けていて、いつも親しげに言葉を交わしている土蜘蛛の存在は、あまりにも大きな意味を持ちすぎていた。 「……妬ましい。ああ、本当に妬ましいわ」  嫉妬を操る妖怪の瞳が、緑色の光を強く放っている。  パルスィは、勇儀と仲が良いヤマメに、強い嫉妬心を抱いているのだ。それゆえにパルスィは、以前からずっと、知らず知らずのうちに、ヤマメの嫉妬心を必要以上に刺激してしまっていた。刺激する側が特に意識していないのだから、パルスィが勇儀に恋心を抱いていることは誰の目にも明らかな事実であったが、自分が想像以上に大きな影響を受けてしまっていることに、ヤマメは気付いてはいなかった。  この日の朝は、勇儀が訪ねてきたばかりであったということもあり、勘違いであるとはいえ、ヤマメに対する嫉妬心の加熱はいつも以上の様相を呈していた。  しかし――そんなことなど、まだ些末な問題にすぎなかった。  妬むべき土蜘蛛が縦穴に入ってゆくのを見送った後で、パルスィはその心に忘れかけていた『紅い悪魔』の恐怖が再び胸を締め付けるのを感じ始めたのである。 「やあ、お姉さん。お勤めご苦労さまーネ」  そんな折にやって来たのが、死体蒐集家の黒猫――火焔猫燐だった。  お燐はいつも通り、地上の人間の死体が転がってきていないか見に来たのだが、そのような物騒なことは頻繁に起こるものではない。地上は平和なのだろう。妬ましい、とパルスィは思うが、地下は地下でそれなりに平和なのだと理解しているから、口には出さない。  今のパルスィは、迷い込んできた地上の者に対しても危険を忠告してくれる、縦穴の優しき守り神なのだ。どれだけ忌み嫌われた過去があろうとも、橋の上で鬼に叩きのめされたあの時から、その心は優しさをたたえた揺るぎないものとなっていた。それに、薄暗く不気味な印象を抱かれがちな地下の都市が平和な場所ではないなどと決め付けて、勇儀とともにやって来たこの最後の土地を、自分から悪いイメージで塗り固めるような行いはしたくないと考えるのである。  パルスィは、旧地獄の奥地にたたずむ地霊殿という館に住んでいるお燐ならば、例の『紅い悪魔』について何か知っているかもしれないと考えた。そうでなくとも、眼球と心臓を同時に握りつぶされてしまいそうな嫌な感覚の出所が、地霊殿の方向に在ったのである。  そうしてパルスィは、頭の中を支配する異常なまでの恐怖心の正体を探るため、お燐の後をついてゆくことにしたのだ。  パルスィの感覚に間違いはなかった。  そして皮肉なことに、心のうちに湧き起こる破滅的な未来の予感さえも、やがて現実のものとなってしまったのである。      ***  その美しい少女は、路傍に暮らしていました。  あどけない顔を泥で汚し、小さな手を垢まみれにした黒髪の少女は、あまりに唐突に暗闇に打ち捨てられてしまった、最たる不幸のみなしごでありました。以前の暮らしは、着せ替え人形の夢のように華やかなものであったはずでしたが、気が付くともうすべてが破綻していて、その少女は息の詰まるような禍々しい暗黒の渦に呑み込まれてしまっていたのです。明るい思い出には、冷たい檻と潮のにおいと波の音、見知らぬ土地に投げ捨てられた記憶によって、消しようのない終止符が打ち込まれていました。  生き方を知らないまま路傍に放り出された少女は、精一杯頭を使って、食糧や寝泊りを工夫しました。鴉のようにゴミを漁り、野良猫のように草むらで眠る、ただ明日の朝の光を拝むことだけが楽しみの、貧困きわまりない生活が続きました。  少女は、道端に投げ捨てられていた本を拾って読みました。そうして、異世界のようなこの土地において、賢い少女は、自分の力で言葉を覚えたのです。ある一冊の薄汚れた本の中に、「優しく真面目に在れば、いつか必ず救われる」ということが書いてあったのが、少女の目には光を放つ希望の言葉として映りました。その教えは、以来ずっと心に抱き続けて揺らぐことのない、少女の強い生き様になったのでした。  しかし、糧と寝床を求めて徘徊する貧しい少女の姿を見て、人々は不気味に思い、決して近付こうとはしませんでした。ただし、色を好んだ卑しい身分の男たちだけは、見目麗しく整った顔立ちを見逃そうとはせず、ただでさえ心もとない身ぐるみを強引に剥ぎ取って散らかし、少女の身体を痛ましい暴力によって蹂躙しました。事が終わった後は、いつも壊れた人形のように路傍に放り捨てられ、下腹部に残った生ぬるい感触ばかりが皮肉にも生きていることの証となって、吐き気とともに虚ろな目から涙を溢れさせるのでした。  しかし少女は、それほどまでの苦しみを身体に刻まれても、誰かに怨みの念を抱くようなことはありませんでした。辛いときには、優しく在り続けることで必ず救われるのだという言葉を、心の中で何度も繰り返して、自分を勇気づけていました。  幼い少女にとっては耐え難いはずの地獄の日々が続きましたが、それでも決して挫けることなく生きていました。      ***  眩しい光を受けて、パルスィは目を覚ました。  太陽の光ではない。分厚い地層の下に広がる、ここは旧地獄と呼ばれる地の深奥だ。  何かが焦げるようなにおいが、やけに鼻についた。  ぐっと手をついて上半身を起こすと、胸の辺りが少し痛んだ。それから、自分の身体の上に白い布が掛けられていることに気付く。見覚えのある感覚に記憶を辿ってみると、これはお燐が手押し車に掛けていた布だとすぐに解った。  ――そうだ、お燐。  パルスィはお燐と戦い、敗北したのだ。気絶して、門前に倒れ伏していた。  あれから、どれほどの時間が経ってしまったのだろう。例の『紅い悪魔』が、近くに身を潜めているかもしれない。その事実を知らせなければ。パルスィは慌てて立ち上がると、その眼前にたたずんでいるお屋敷を見上げた。  そして、息を呑む。 「――――」  地霊殿が、煙を上げていた。  外観は整っている。どこが壊れているというわけではないのだが、何か大変なことがあったことを明らかに理解させる、不審な煙が上がっているのだ。住人たちの騒がしくざわめいている声も、事件のにおいをはっきりと裏付けていた。  旧地獄の深奥の荒野に、不穏な空気が漂っている。お屋敷に駆け出すよりも前に、背後のほうから妙に明るい光が届いているのが気になって、パルスィは振り返った。  視線の先、遠くのほうに、華々しく輝く旧都の街が在る。  しかし――この明るさは異常だ。  地響きのような音も聞こえる。  パルスィは急いで地霊殿の門扉をくぐり、扉を叩く間も惜しんで玄関から中に入ると、エプロンドレスを身につけた、給仕係の少女を見つけて尋ねた。 「ちょっと……ええ、あなた。これは一体、何が起こっているの?」 「大変なんです! 何者かが暴れて、さとり様の書斎を壊したんです!」 「何ですって……」パルスィは胸が締め付けられるような苦しみを感じた。「そいつは。そう。紅い瞳を持ったバケモノではなかった?」 「解りません……誰も見ていないんです! 犯人は、あっという間に姿を消してしまったようなので……」  しかし、書斎が破壊された直後に、地霊殿の主が旧都のほうへ飛んで行くところを見張り番が目撃している。二人のペットが、その後を追って旧都へ向かったらしいのだが、「さとり様が二人いるのを見た」などという不可解な証言もあるらしく、事のあらましはいまひとつ判然としない。  しかしながら、旧都で何かが起こっているということだけは、はっきりした。  遠目に見た旧都は、不自然なほどに明るい光を放っていた。地霊殿の主も、そちらへ向かったという話であるし、何よりも――胸のうちにわだかまる感覚の針が、旧都の方向を示している。  紅い悪魔に眼球を握られ、脈打つ心臓までをもその手中に収められているかのような感覚は、すでに昨晩の比ではない。全身から嫌な汗が流れ出てしまうほどに、その苦しみは膨れ上がっていた。  ――災厄をもたらす紅い悪魔が、旧都にいる。  そう思い至った時にはもう、パルスィは勢いよく駆け出していた。      ***  少女は成長しました。  しかし、肉体的に成長してしまったことが、少女に大きな悲しみをもたらしました。  少女はある時、お腹のあたりに奇妙なわだかまりを感じていました。吐き気を催す日々が続き、それが目に見えるような形となって現れるまで、少女はその違和感の正体に気付くことができませんでした。  少女は、赤子を孕んでしまったのです。  成長したことで、少女の身体は子種を受け入れる準備を整えてしまっていたのです。  時間を経るにつれ、お腹がふっくらと膨れてゆき、自分のなかに小さき者が居るのだという実感が湧きました。痛ましい暴力によって生まれた、誰の子とも知れぬ新しい命を、少女は憎もうとはしませんでした。優しき少女は、誰かに怨みを抱くことなどまったくありませんでした。  やがて少女は、子を産み落としました。  可愛らしい女の子でした。  少女は赤子を抱き締め、涙を流しました。  激しい痛みと孤独の苦しみに耐え抜きながら、力いっぱい産んだ子でした。  しかしながら――少女には、赤ん坊を育ててゆくだけの力がありませんでした。  これより後、もう少し大人になって、もっとたくさんの知恵をつけた頃であれば違ったのでしょうが、この当時の少女は、自分の寝食すらままならない日々を必死に生き抜いていたので、赤ん坊をすくすくと成長させてやるだけの余裕は一片もありませんでした。  少女の近くに居れば、危険が伴うことも解っていました。  卑しい男たちはお腹の膨らみを意にも介さず少女に暴力をはたらきました。そんな少女の姿を見て、人々は「けがらわしい娘」と言って罵り、石を投げつけてくる者もありました。優しき少女は、自分が痛めつけられることには耐えられましたが、自分の娘を巻き込んでしまうのには耐えることができませんでした。  しかし、赤ん坊を引き取ってくれるような者はいません。  少女は迷い苦しみながら、いよいよ哀しい決断をしました。  妖怪の山に出向き、赤子を置いて立ち去ったのです。  その少女は、山には『大神さま』と呼ばれる偉大な狼がいて、人々を災厄から護って下さるというお話を知っていました。だから、きっと『大神さま』が自分の娘のことも助けて下さると少女は思いました。  そう思い込んだだけなのです。  少女は強い罪悪感に苛まれ、その心は深く抉られるように傷つきました。  自分はこれからずっと、罪を背負って生きていくのだと思いました。  もう幸福にはなれないだろうとさえ思いました。  それでも、優しく在り続けることだけは、決してやめようとはしませんでした。  せめてそのことが、自分が産み落として山に捨てた、無力な赤子への償いになればと考えたのです。  その行いの意味こそ変わりましたが、少女はなおも優しい心を抱き続け、やがて美しくもたくましく生きる大人の女性へと姿を変えてゆきました。  彼女の生活は決して良くはなりませんでしたが、自分の寝食に余裕が持てるようになるくらいに、生きるための知恵をたくさんつけてゆきました。  そんな時に――あの手が、ゆるやかに差し伸べられたのです。  あの『救い』という名の小奇麗な手袋に隠された、おぞましい悪魔の腕が。      ***  信じ難い光景だった。  パルスィが急いで駆けつけると――旧都の街並みが、炎上しているではないか。  飛行したまま、辺りを俯瞰する。街の外側、比較的郊外に位置づけられる辺りは、まだ無事の様相を呈しているが、中心の繁華街――旧地獄街道と呼ばれる区域においては、至るところから炎が上がり、轟音と悲鳴が聞こえてくる。ドーナツの真ん中だけがぽっかりと抉られているように、地理的にも住人たちの生活という意味においても『旧都の中心』となっている街並みが、ことごとく崩壊してしまっているのだ。  パルスィは、灼熱地獄に来てしまったのかと目を疑った。  多くの鬼たちが消火活動に励み、住人たちを安全な場所へと誘導しているが、それでも対処しきれない事態なのだろうか。  だとすれば――紅い悪魔。  やはり、ひとたび目が合っただけで究極の恐怖を心に植え付けてきたあの不気味な存在こそが、この惨状をつくりだした原因であるのに違いない。  パルスィはそう確信して、怒りを覚えた。  忌み嫌われた自分を、寛大に受け入れてくれる都。  勇儀が連れてきてくれた、最後の土地。  薄暗い地下に、ぼんやりと灯りをともして力強くたたずむ、賑やかで平和な街。  ――私たちの、旧都が。  これは、あまりに許し難い行いだ。  相手がいかに得体の知れない存在であろうとも、絶対に打ち砕かなければならない。  心の内側で疼き続ける恐怖に敢然と立ち向かい、パルスィは拳を握り締めた。  そして、視界の印象が急変したのは、ちょうどその時のことだった。  突如、街を焦がす炎のオレンジ色とは異質な、まばゆい光が後方から照りつけた。 「……?」  不自然なライトアップを受けて振り返ると、遠方に光の球のようなものが浮かんでいるのが目に入った。懐かしき太陽のごとく燦然と輝いている光の球は、ありとあらゆるエネルギーを吸収してゆくように、どんどん膨張して大きくなっている。  それよりも、パルスィには強く感じられることがあった。  実際に視認できたわけではない。  しかし、あの光の近くで、何か紅いものが蠢いているような錯覚。 「――――」  ぬめりとした指が、緑色の眼球にじかに触れる。  同時に、心臓を撫でられるような、気持ちの悪い感覚を受ける。  それらは錯覚なのだと理解しようとしても、本能がそれを許さない。  あまりにも圧倒的な現実感。  そうして得られた、確かな事実。  あの光の正体は解らないが――あそこに、紅い悪魔がいる。  パルスィは宙を翔けた。  燃え上がる街並みの上を、橋姫は飛ぶ。  目指すのは、光の球。  否。  紅い悪魔。  自分に打ち倒せるのか。  自分に止められるのか。  もはや、そういう問題ではない。  打ち倒さなければならない。  必ず止めなければならない。  地上と地下の入口で、行き交うものを見守る橋姫。  水橋パルスィは――旧都を護らなければならない。  地上を追われた者たちが、平和に暮らす都を。  嫉妬狂いの橋姫に与えられた、大切な最後の居場所を。  救われるべきものを護るために、橋姫は宙を翔ける。  その時、前方で膨れ上がっていた白い光が、風船のように舞い上がった。  光の球は、地底の天井にめり込み、土を削りながら上へ上へとのぼってゆく。  内臓を揺さぶられるような地響きが、辺りを支配した。  眼下ではなお、街並みが炎を上げている。  何か、とんでもないことが起こっている。  一年前に見た、おぞましい影。  紅い悪魔。  ふと頭のなかをよぎった恐怖心に、眼球が疼く。  胸がズキリと痛んだ。  だが、そんなことを気にしている場合ではない。  急げ。  急げ。  もっと速く。  もたもたしてはいられない。  紅い悪魔は、次にどんな恐ろしいことをしでかすか解らない。  急がなければならない。  止めなければならない。  自分が、旧都を救わなければならない――      ***  その男は、この辺りで医者をやっていると話しました。  その言葉を裏付けるように、小奇麗な洋服を着た、身なりのいい男でした。  周囲から不気味がられ、忌み嫌われていた彼女に近付き、垢まみれなのも気にすることなく優しい微笑みを向けてくれました。そうして、あなたの美しさと健気さに心打たれた、自分には資産があるから一緒に暮らそうとまで言ってくれたのです。  初めのうちは疑わしく思っていましたが、その男が何度も訪問してくる中で、そのたいへん誠実な態度に心を打たれ、いよいよ惚れ込んでしまった彼女は、夜風にさらされる暮らしに別れを告げることに決めました。  幸福な時間がやって来ました。  彼女は、『春』という名を与えられました。微笑みに春のようなあたたかさを感じるからと言って、「おはる」と呼ぶよう皆に言い広めました。医師の男がそうして広めてくれたおかげで、挨拶すれば誰もが小さく笑って応えるようになり、彼女は人々の自分に対する印象がだいぶ変わったように思いました。  その男は、まだ西洋の文化をほとんど受け入れていなかった里において唯一、湖のほとりに豪奢な洋館を建てて暮らしていました。かつてはこの土地の藩主お抱えの医師を代々務めていたという、由緒正しき大金持ちの家の生まれでした。男は、父の代までは大きいばかりで積み木のように古臭い家に暮らしていたが、それを今の華やかなお屋敷に建て直しのだと言いました。これからは西洋の文化を積極的に取り入れ、建築にも医学にも新しい技術をどんどん役立ててゆく時代なのだと謳っては、甘い香りを漂わせるティーカップを優雅に傾けるのが、その男の常日頃の姿でした。  おはると呼ばれるようになった彼女は、初めは戸惑っていましたが、ひと月もすると西洋風の豊かな暮らしにもすっかり慣れて、音を立てることなくスープの皿を綺麗に空けて、ステーキ肉の上には純銀製のフォークとナイフをゆるやかに運ぶことのできる、高潔で美しい淑女になっていました。そういったことに素早く適応できる賢さを、男はよく褒め称えてくれました。  おはるは、もう報われることがないと思っていた自分の優しさを、ちゃんと見ている者がいたのだと喜びました。  医師の男は、おはるの話をよく聞いてくれました。「優しく真面目に在れば、いつか必ず救われる」という、ずっと胸の中で大切に続けてきた考えを話した時も、強く頷いて、賞賛してくれました。  幸せな日々が続きました。  このままずっと、穏やかに暮らしてゆけるのだと思いました。  おはるは決して高慢になることはなく、優しい女性のままで在り続けました。  そうしなければ、今にも幸せが消えてしまうような気がしたからです。  しかし――何が間違っていたのでしょう。  初めから決まりきっていたことのように、破滅の時はやって来ました。  下卑た笑いと、最悪の不幸を引き連れて。      ***  ――旧都を救わなければ。  強い思いに駆られながら、パルスィは宙を翔けた。  災厄をもたらした元凶は、いよいよ繁華街を外れ、住宅街にまで踏み入ったらしい。  この辺りには、獣のような暮らしに嫌気が差した者たちの住居が立ち並んでいるだけで、普段は生活のための必要最低限の光が灯っている程度であり、さして華やかな雰囲気はない。  しかし家々は、今は燃え上がる炎によって、不本意な明るさをたたえながら陽炎の中にゆらめいている。  目下には、傷ついた妖怪たちが倒れており、動ける者が肩を貸して避難させていた。被害を受けた者の中に、力強き鬼の姿もあったので、パルスィはこれが尋常な事態ではないことを改めて理解し、身を引き締めた。  そうして――いま少しばかり飛行した先に、いよいよその姿は現れた。 「紅い……悪魔……!」  先ほどの白い光が開けた、天井の大穴の真下。  きらめく水晶のような羽根を背負った、ごく小さな影が見える。  ただ見つめているだけで、パルスィの心には、その眼球を抉り取られるような強い感覚が走った。  遠目だが、確信できる。  あれは間違いなく、一年前、自分の心におぞましいまでの恐怖を植えつけた存在。  旧都に災厄をもたらす脅威――紅い悪魔。 「……?」  しかし、どうにも様子がおかしい。  恐怖に耐えながらよく観察してみると、記憶に残る紅色とは、まったく違う服装をしていることに気が付いた。  そう、確か、あの水色の服は、地霊殿の主のものではなかったか。 「クケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケ」  気味の悪い高笑い。  まだこちらには気付いていないようだが、その声は距離など意に介さず、はっきりと聞こえてきた。  パルスィは悪魔の上げる奇声に圧されるように、空中で思わず足を止めてしまう。ここまで必死に飛んで来て、一気に近付けるだけの勇気を持てない自分自身を、頭の中で罵った。  そうして、不意に、不気味な高笑いの陰に、別の悲鳴のような叫び声が混じっているのに気が付いた。  宙に浮かぶ紅い悪魔の下方を見やると、その足元の地面の上に、影が二つ。  紅い悪魔の真下。明らかに危険な位置である。  パルスィはその黒衣に見覚えがあったので、驚きに目を見開いた。 「お燐……?」  ワインレッドの三つ編みを持つ、黒猫の少女――お燐が泣き叫んでいる。  お燐の足元には、翼を持った影が見える。あれは確か、お燐と同じ地霊殿の地獄鴉だ。よく目を凝らすと、背中から血を流して倒れていることが解った。  そして賢い橋姫は、刹那のうちに頭を回転させて、ひとつの推測に思い至った。  まさか、と思う。  地霊殿の主は、屋敷のどこかに潜んでいた悪魔を追いかけて、旧都へ飛んで来た。そして勇敢に立ち向かったが、無情にも帰らぬ人となってしまった。 「ケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケ」  あいつはその死体から服だけを剥ぎ取って、ふざけて着ているのだ。  追跡してきた二人のペットたちは、それを見て激怒し、主人の仇を討つために立ち向かった。しかし、主人に負けないくらい勇敢なその行為も虚しく、地獄鴉は恐るべき魔手にかかり、倒れてしまった。  パルスィはそういう想像をして――緑色の瞳が、一気に冷めてゆくのを感じた。  緑は嫉妬の色である。  嫉妬狂いの橋姫が、その緑眼に不気味な光を少しも宿らせることなく、恐るべき悪魔と対峙するということは、拳銃を持った相手に素手で挑みかかる行為に等しい。  しかし――妬ましい感情が、あっという間に退いてしまったのだ。  少し前に改めて湧き起こった、思わず足を止めてしまうほどの恐怖心さえも、すでに至極どうでもいい感覚に成り下がっている。  だって、あの悪魔は。 「……妬ましくない。ええ。ちっとも妬ましくないわ……!」  お燐は、地霊殿を護ると言っていた。  主人を護るために、自分の前に立ちはだかったのだ。  あれは正しい行いだった。  あの時は敵対する立場に在ったが、パルスィは最初から納得していた。いくら紅い悪魔の危機を知らせるためだとはいえ、目玉がうずくから、などという不可解な理由で部外者を通すわけにはいかない事情があったのだ。  その結果が、これだ。  パルスィは、「だからあのとき通してくれれば良かったのに」などとは思わない。お燐は、自分の大切なものを護るために戦ったのだ。  それなのに。  あんなに強い絆を持った地霊殿の仲間たちから、その宝物を奪い取るなんて。  他人の大切なものを奪い取って、簡単に斬り捨てて――自分は高みで笑っている。  そんな卑劣な行いの、どこに嫉妬できるような要素があろうか?  そしてあいつは、忌み嫌われた自分にとっての最後の土地で、好き勝手に暴れまわっている。  ――絶対に、許すわけにはいかない。  パルスィの心には、そういう強い思いが湧き起こっている。  しかし、それでは紅い悪魔には敵わない。  橋姫の力の根源は、嫉妬である。  それが失われてしまった今、勝算はゼロに等しい。  だが、戦うと心に決めた以上、パルスィはなけなしの弾幕で攻めてゆくしかない。  パルスィの怒りに、わずかな迷いが滲む。  その刹那。 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」  お燐が地面から飛び出し、空気を切り裂くような咆哮を上げた。  涙を滲ませた目を鋭く光らせ、もの凄い形相で紅い悪魔に肉薄してゆく。  激怒の雄叫び。  武器もないのに、不恰好に爪を振りかざして突進してゆくその様は、一瞬前までの自分と同じである。  紅い悪魔との間にある、歴然たる力量の差は理解しているはずだ。  いくら怨霊を操る程度の能力を有していても、身ひとつで敵うような相手ではない。  しかし――大切な主人や仲間を目の前で奪われ、耐えられなかったのだろう。  仲間を想う気持ちが勇気になり、力に変わる。  だが、皮肉な話だ。  自分は、誰かを妬む気持ちがなければ、強く戦うことができない。  パルスィは、心の内で自虐する。  そして、思うのだ。 「……妬ましい」  パルスィはもう、翔け出している。  妬ましい。  なんと妬ましいことだろう。  命を懸けて戦えるほどの勇気。  命を賭して護れるほどの信頼。  あれほどまでに固く結ばれた――美しい絆。  自分には、そんなものがあったろうか?  妬ましい。妬ましくて仕方がない。  ならば。  この妬ましさを、剣に変えて。  誰かを護れる、誇りに変えて。  嗚呼、素晴らしき地霊殿の家族に捧げよう。 「グリーンアイドモンスター」  緑色の眼をした怪物。  芋虫のようにうごめく、恐るべきモンスターが、泡立つように空中に生まれ出る。  パルスィは、緑色の怪物の頭に乗って猛進した。  紅い悪魔はすでに、紅色に輝く巨大な刀剣を振りかざしている。  お燐はその眼前で息を呑み、絶望の表情をつくっている。怒りに任せて無我夢中で突進したため、その勢いを殺せなかったのだ。  このままでは、お燐の身体は真っ二つにされてしまう。  パルスィは肉薄する。  討つべきは、憎むべき敵。  妬むべきは、護るべき仲間。  妬ましきは、地霊殿の黒猫。  護るべき黒猫に、私は精一杯の嫉妬の力を見せつけてやるのだ。  紅い悪魔が、攻撃の手を止める。  高笑いの顔と、目が合った。  こちらに気付いたようだが、もう遅い。  紅い悪魔が、開いた左手を向けてくる。  緑色の眼球を、ギュウと握り締められるような感覚。  近付く距離。  一寸ごとに膨れ上がる、これまで以上の痛み。苦しみ。  それでも、構わない。  構うものかっ。  このまま――突破するッ! 「ゲキャアアアアッ!」  紅い悪魔が奇声を上げた。  その頬を殴り抜くように、緑色の眼をした怪物が蹂躙する。  猛烈な衝撃。  紅い悪魔は、吹き飛ばされてゆく。  だが――悪魔の、左手。紅い刀剣を持つ手と反対のその手は、後方へと投げ出されながらも、グッと固く握り締められた。  その意味を、パルスィが知るよしもなく。  パリィン。 「――――」  激痛。  頭の中で、何かが割れる音がした。  同時に、緑色の弾幕が砕け散る。  嫉妬の眼が、握り潰されたのだ。  紅い悪魔の能力は、すべての物体が有する脆い部分――『目』をその手の内側に移動させ、握り潰すことによる『破壊』である。橋姫にとって、嫉妬心の象徴である『緑眼』とは、魂そのものと言えるほどの深い意味を持つ。だからこそ、一目見た時から、パルスィの心はずっと恐怖の根源に結び付けられていたのだ。  しかし、パルスィはその事実を知らない。  自分の魂の一部が破壊されてしまったことに気付かない。  理解できるのはただ、糸の切れたように、仰向けに堕ちてゆく感覚。  思考が薄らいでゆく。  山高帽をかぶった少女の姿が、ぼんやりと目に映った。  離れたところから、こちらを見つめている。  天の遣いだろうか。  魂の崩壊とは、すなわち肉体の死を意味する。  空っぽになりそうな頭の中で、パルスィは何となく、死が近いことを理解していた。 「……してッ! なん、で……――」  黒猫が、何かを叫んでいる。  だが、聞き取れない。  意識が途切れ途切れになっている。  橋姫は、そちらへ顔を向けた。  黒猫が叫んでいる。  懐かしい感じがした。  ああ、そうだ。  どうして、忘れていたんだろう。  あなたは、鳴いているの?  あなたは、泣いているの?  そう、泣いているのね。  ずうっと、待っていてくれたんだね。  寂しかったよね。  嫌な思いをしたよね。  ――ごめんね。  私も、苦しかった。  きっと私は、罰を受けたんだ。  私だけが、幸せになろうとしたから。  たくさん苦しい思いをした。  たくさん悲しい思いをした。  でも、それが宿命なんだ。  もう誰からも、嫌われるしかないんだって。  だから私は、諦めてしまった。  生きることまで、諦めてしまった。  そう――あなたが、待っていてくれたのに。  本当に、ごめんね。  でも、私は帰ってきたよ。  遅くなったけど、また会えて良かった。  ほら、もう泣かないで。  私の可愛い子、膝の上にお座り。  そうしたら、物語を聞かせてあげるよ。  さあ、こっちへおいで―― 「お凛」  優しき少女は、そっと手を差し伸べる。  懐かしい名を口にして、橋姫は眠るようにまぶたを閉じた。      ***  医師の男と共に暮らすようになってから、数年の時が過ぎました。  無理をして新しい環境に身を置いたせいか、おはるは時おり身体を壊しましたが、医師の助けもあって、そういう時でもすぐに元気を取り戻しました。  おはるは男の言いつけをよく守り、華やかなお屋敷の中で幸福な暮らしを続けていたのですが――ある時、ふとしたことから、その約束を破ってしまいました。  それが、幸福の終焉でした。  恐ろしい、嵐の夜のことでした。  ――夜中に研究している時には、気が散るので、私の部屋には近付かないように。  そう言いつけられていたのですが、その夜ばかりはいつもに増して体調が優れず、外では嵐のひどいことも手伝って、おはるはひどく寂しい気持ちに苛まれました。そうして、お屋敷で働く従者たちに悟られぬように気を付けながら、いよいよ愛する男の部屋の前までやって来てしまったのです。  後から考えてみれば、そんなふうに簡単に失われてしまう幸せは、わざと壊れてしまうように、初めから仕組まれていたものであったようにしか思えませんでした。  部屋の中から――嬌声が聞こえました。  おはるは背筋を凍りつかせて、しばらく扉の前でじっとしていました。  ――まさか。  ――医学の研究をしているはずなのに。  ――どういうこと?  ――誰?  ――女?  ――どうして?  気が付くと、部屋の扉を思い切り押し開けていました。  そこに在ったのは、想像した通りの光景です。  裸になって抱き合う男女が、ベッドの上で驚いたようにこちらを見つめていました。  おはるは、思いつくかぎりの疑問を並べ立てて、投げつけてゆきました。  何をしているの。  それは、誰。  どうして。  そんな。  堰を切ったように溢れ出る言葉はいつしか、汚らしい罵詈雑言に変わっていました。  誰に対しても文句ひとつ言わなかった優しき心を、緑色の苔が蝕んだのです。  嘘つき。  裏切り者。  その女は。  ふざけるな。  妬ましい。  妬ましい!  男女は、笑っていました。  その表情が、おはるの心を強く圧迫しました。  そうして、医師の男は言ったのです。  ――お前みたいな女に、私が惚れるわけがなかろう。  ズキリと、頭が痛みました。  これは夢だ、と思いました。  しかし、男は歪んだ口を閉じようとはしませんでした。  ――まったく、うぬぼれもはなはだしい。  ――橋の下で春を売る、醜い豚め。  ――だからお前は『春』なのだ、この間抜けが。  ――皆、そのことを知っているぞ。  ――だからお前は笑われているんだ、それに気付かぬとはおめでたい奴。  言葉ばかりが津波のように耳に押し寄せ、頭で汲み取るまでに時間が掛かりました。  何を言っているんだろう。  気持ち悪い。  解らない。  理解したくない。  これは、夢?  現実?  そんな。  私は。  ずっと。  騙されて。  うそよ。  ああ。  そんな。  どうして。  ――お前はねえ、  やめて。  それ以上は。  聞きたくない。  おねがい。  もう、  やめ、  ――薬の実験台に、ちょうど良かったのだ。  ああ。  あああああ。  あああああああ。  ――だから、飼っておいてやったのだよ。  あああああああああああ。  ああああああああああああああああああ。  ああああああああああああああああああああああああああああ、  ――この雌豚が。  ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――  おはるは、嵐の中へ飛び出していました。  ――馬鹿な女。  最後に、医師と抱き合っていた女の高い声が、そう言って笑うのが聞こえました。  あの男は、おはるの毎日の食事に新しく開発した薬を混ぜて、効果を試していたのです。健康な者に薬を投与することになるので、その目的のほとんどが、副作用や、麻酔効果を確認するためのものでした。また、あえて健康な被験者を用意することで、薬を誤って投与してしまった場合の危険性を判断するという意味もありました。  おはるが頻繁に体調を崩していたのも、すべてそのことが原因でした。それなのにあの男は、自分で料理に毒を混ぜておきながら、おはるが気分の悪いことを訴えるといけしゃあしゃあと治療薬を手渡し、悪魔のような歪んだ笑みを心配の色をした墨汁で塗り固めて、ずっと隠していたのです。  おはるが挨拶すると、皆が小さく笑うのも、あの男がすべて言いふらした上で内緒の約束をしていたためでした。きっと、皆が声を潜めて、おはるの耳にだけは伝わらないようにしながら、こんなふうに吹聴していたのに違いありません。  ――お医者さまに飼われている雌豚だ。  ――穢らわしい春売りの『春』だ。  吐き気がしました。  頭の中で、何かがぐるぐると暴れていました。  おはるは、我を忘れて駆けました。  自分でもわけのわからないことを叫びながら、嵐の夜道を駆け抜けました。  雨風を受け、黒髪を垂らした凄まじい形相は、恐ろしい鬼のようでありました。  優しい少女の面影は、もうどこにもありませんでした。  ただ無我夢中で走り続けて、やがて橋の上に辿り着きました。  怪物のように暴れ狂う川を見下ろしましたが、もう何の感慨も抱きませんでした。  そこが、医師の男に連れられてゆく前、可愛らしい黒猫とともに暮らしていた場所なのだということにも、まったく気が付いていませんでした。  ただ無意識に、その場所に辿り着いただけなのでしょう。  おはるは嵐を突き破って、橋の上で絶叫しました。  ぐちゃぐちゃの泥まみれになっても、ただ叫び続けました。  あの男の顔が、頭の中で笑っていました。  左目に眼帯をつけた、気持ちの悪い笑顔でした。  馬鹿な女、という言葉が反響していました。  一体、何が悪かったのでしょう。  ひとつだけ、思い当たることがありました。  かつて山に捨ててしまった、赤子の呪いなのかもしれない。  あの子のことを忘れていたから、自分は罰を受けたのかもしれないと、思いました。  ――優しく真面目に在れば、いつか必ず救われる。  優しく在り続けた少女は、もうその行い意味をすっかり見失っていました。  そんなもの、嘘っぱちだと思いました。  どうして、私がこんな目に。  どうして、あんな奴らが幸せに。  優しくもないのに、あんなに簡単に幸せを手に入れられるなんて。  妬ましい。  どうして。  私は、こんなに頑張ったのに。  あの男は。  ずるい。  卑怯者。  あんな外道が、幸せになれるなんて。  解らない。  ああ、妬ましい。  妬ましい、妬ましい。  本当に、本当に妬ましい――      ***  お燐は、ひどく困惑していた。  初めは、どうして助けに来てくれたのかと思った。  橋姫の怒りは、旧都の惨状に向けられているものかと思った。  だからこそ、紅い悪魔を打ち倒しに来たのだと。  確かに、それがパルスィの本来の目的だったのだが――緑眼が破壊された今、たとえ後付けであろうとも、その行為の意味は大きく変化していた。  水橋パルスィは、緑眼が象徴する『嫉妬心』そのものを破壊されてしまった。そして、嫉妬狂いの妖怪に変ずる前の、人間の姿を取り戻したのだ。  そう。  その人はまるで、窮地に陥った黒猫を、勇敢に助けに来てくれたかのようであった。 「お姉さんッ!」  お燐は叫んでいた。  それは、口の上手いお燐が、いつも好んで誰にでも用いている呼び方だった。  だが、これは違う。  目の前で紅い悪魔に立ち向かって行き、打ち破られてしまった少女は、お燐にとってはもう単なる『お姉さん』ではなくなっていた。  パルスィは――『お凛』と言った。  発音は同じだが、ふっくらとした唇から漏れたその名の文字が、はっきりと判った。  それは、旧地獄に来てから、新たに主人から与えられた妖怪としての名ではない。  もっと昔に、大好きな『あの人』がくれた、初めての名前であった。  ――ずっと、苦しかったろうにさ。  ――お前は、強い子だね。  ――凛々しい眼をしている。綺麗な眼だ。  ――ようし、今日からお前の名は、『凛』だ。  ――気に入った? ふふ、お凛は良い子だねぇ。  そうだ。  大好きな『お姉さん』がくれた名前だ。  お燐は落下してゆくパルスィの身体を抱えて、ゆっくりと地面に着地した。  金色の髪が、艶やかな黒に変化してゆく。  そうするともう、そこには懐かしい面影がはっきりと浮かび上がっていた。 「お姉さんッ! お姉さんッ!」  溢れ出る涙を、止めることができない。  ずっと、捜していたのだ。  死んでしまったはずの、大好きな『あの人』を。  大好きな『あの人』の死体を、もう百年以上も捜し続けてきた。  そして、捜し続けたその人は――今、自分の腕の中にいる。 「ごめんヨ……あたい、ちっとも気付かなかった。妖怪になっていたなんて、考えもしなかった。こんなに近くにいてくれたのに、ぜんぜん気付かないで……あたいは、なんて大馬鹿者なンだヨ……ッ!」  黒髪の少女は、安らかに目を閉じたまま、応えることはない。  まだ意識の喪失だけで済んでいるが、黒猫には死相がはっきりと見えている。  お燐はパルスィの手をそっと握りながら、自らを責め立てた。  記憶に残る『あの人』が、大人の女性だったからかもしれない。  記憶に残る『あの人』が、黒い髪の持ち主だったからかもしれない。  だからといって、外見の違いなどという些末な理由で気付くことができなかった、自分があまりに愚かしい。  ただ、見た目を無視しても、お燐が判らなかったのは仕方のないことであろう。  パルスィが人間だった頃の記憶はもう、地霊殿の主が少し覗いた程度では解らないくらい、すっかり『嫉妬』という名の緑色の深い森の奥に埋もれてしまっていたのだ。  それを見出すことなど出来るはずもなかったのだが、それでも、お燐は悔しかった。 「ごめん、ごめんヨ、あたいがお姉さんの言うこと聞いてたら、こんなひどいことにはならなかったンだ……! あの時、さとり様に会わせてあげられれば――」  その時、不意に、握っていた手に力が籠もったのを感じた。  それは本当に僅かな力で、ともすれば、気のせいだったのかもしれない。  しかし、お燐には少女の訴えが、確かに聞こえたような気がしたのだ。  ――それは、言わなくていい。  お燐が地霊殿に入れてやっていたとしても、さとりの姿は見当たらなかったのだから、会わせることはできなかっただろう。  だが、そういうことではない。  パルスィは、お燐が襲われるところを見ていたはずだ。  旧都を護って紅い悪魔に立ち向かうつもりであったのなら、お燐がやられてしまった後でも構わなかったはずだ。  だから、救ってくれたのだ。  門前で酷い目に遭わせてしまったはずの自分を、命を賭して救ってくれたのだ。  この場所に飛び込んできた理由がなんであれ、お燐が門前に立ちはだかったことの意味をパルスィはちゃんと理解していたからこそ、今こうして、助けてくれたのだ。  お燐は、細い手を強く握り返した。その行いは、あくまで一方的ではない。  賢い女性の、女神のような優しさは、ずっと消えずに残っていたのだ。  嬉しかった。  本当に、再会できたのだという、あたたかな実感が湧いた。  大好きな人は、物語の橋姫になったのだ。  地上と地下の橋渡しをして、皆を見守り続ける、縦穴の守り神になったのだ。  人々が言い伝えていた橋姫の伝説と、『あの人』が話した救われるべき橋姫の物語が、そのまま死者の魂を突き動かし、呼び起こせるだけの思念へと成り変わって、優しき女性のうしなわれてしまった少女の過去を水底からよみがえらせたのだ。  しかし――お燐には、素直に喜ぶことが許されていない。  ようやく会えた大好きな人の命の灯火は、今にも消えそうな頼りなさをもって、風前に揺らめいている。 「嫌、だ、ヨ……」  やっと会えたのに。  やっと、気が付くことができたのに。  もうお別れだなんて。  ずっと死体を捜していたけれど、これは違う。  目の前で死んでほしいなんて、望んでいるはずもない。  それなのに。 「嫌だヨ、お姉さんッ! どうして……こんなッ!」  橋姫は救われていた。  しかし、こんな形で、優しき者をうしなってしまうなんて。  黒猫には、耐え難い苦痛だった。  それでも、涙を流し続けることしかできない。  自分の力では、怨霊を動かすことしかできない。  大好きな人が、死んでしまった後でなければ、何もできないのだ。  それでは、救われていない。  生前に報われなかった者が、怨霊となってしまうのだから。  黒猫は、自らの皮肉な力を恨んだ。  そして、どうにもできない苦悩に、図々しく割り込んでくる声。 「アハッ」  悪魔の笑い。  荒い呼吸の音。  紅い瞳が、目の前に在った。  あんなに激しく叩き飛ばされたのに、もう持ち直したらしい。  お燐には、絶望を感じて顔を青くすることさえできない。  ただ、子供みたいに、涙をいっぱい流すことしかできない。  おくうがやられた。  大好きな人も倒れた。  そして、さとり様も、おそらくは―― 「オニンギョウ、ノ、クセ、ニ」  現実はひどく惨たらしい。  自分よりも、他人を大切にし続けた鴉も。  救われるべき者を、救おうとした黒猫も。  誰よりも強く、優しく在り続けた橋姫も。  すべてを破壊する紅い悪魔の狂気には敵わず、飽きられた玩具のように駆逐される。 「モウ、イラナイ。コワレチャエ。ケ。クケケ。ケキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャッ!」  炎のような光を携え、紅い悪魔が笑い狂った。  お燐は泣きながら、その光景を眺めている。  紅い剣を乱暴に振りかざし、恐るべき悪魔が迫る。  それでも、もう動けない。  自分には何も出来ないということが、解ってしまったのだから。  黒猫と橋姫の優しい絆さえ。  地霊殿の家族の固い絆さえ。  あの悪魔の前では、一笑に付せられ、いとも簡単に蹂躙されてしまうのだ。 「ごめ、ん、な、さい」  お燐は、涙の流れ出るのに合わせて、謝罪の言葉を漏らした。  誰に対して謝りたかったのかは、自分でも解らなかった。  敬愛する主人に対してなのかもしれない。  仲間想いの鴉に対してなのかもしれない。  愛すべき橋姫に対してなのかもしれない。  あるいは――そのすべてに対してなのかもしれない。  紅き刀剣が、黒猫の顔に影を落とした。  旧都を護ろうとした者たちは、皆やられてしまった。  誰かを救おうとした者たちは、皆倒れてしまった。 「アハッ」  悪魔が再び笑った。  駆けつけた者は、鬼たちまでがすべて倒れた。  もはや、絆を信じて助けに来る者はない。  もうおしまいだ、と思った。 「こらこら、勝手に決め付けないで欲しいな」  だから、お燐は初め、それが幻聴であると思った。 「まだ、私がいるんだよ?」  聞き覚えのあるその声に、ひとりの少女の姿を思い浮かべた。  あり得ないことだ。  あの少女は、こんな風に、明るく話し掛けてくれるはずがないのだ。  お燐は主人に拾われるのが遅かったので、明るかった頃のその少女の姿を知らない。  泡のように浮き出て、泡のように消えてゆく。  壊れてしまったその姿を、ほんの僅かばかりしか、見たことがないのに。  ――信じられない。  紅い悪魔が、笑っている。  だが、お燐には気にならない。  紅い剣が、振り下ろされる。  それよりも、もっと驚くべきことが起こったのだ。  凶刃が、脳天を叩き割ろうと迫り来る。  黒猫の涙が、紅い光を照り返して輝いた――その刹那。 「弾幕パラノイア」  山高帽をかぶった少女が、フワリと宙に躍り出た。      ***  嵐の中で、狂ったように叫び続けました。  橋の上で、獣のように叫び続けました。  やがて、おはるは疲れ果て、もう色々なことを考えるのさえまともにできなくなって、絶望的な衝動に後押しされるように、橋のふちにゆるりと立ちました。  ただひとつ、あの悪魔のような男だけは、バラバラに引き裂いて殺してやりたいと強く思いながら、おはるは呆然と立ち尽くしていました。  目下では、大雨によって水かさの増した川の濁流が、餌食を求めてうごめく怪物のように暴れ狂っていました。  おはると呼ばれた美しい人は――すべてを諦めてしまった優しき人は、誰に向けたものというわけでもなく、ただ小さな声でポツリと言いました。 「さよなら」  それが、最期の言葉でした。  その時、強い稲光が世界を白一色に染め上げました。  怒りと悲しみが、いっせいに溢れ出したかのような、神々しき光でした。  純白の世界から、薄暗く恐ろしい嵐の色と騒音が戻った時、橋の上にはもう何者の姿も存在せず、ただ激しい雨の打ちつける音と、暗く濁った激流の音だけが、夜の世界を喰らい尽くさんとするばかりに鳴り続けていました。  ――ニャア、ニャア。  橋の上で、黒猫が鳴いていました。  雨水が漆黒の毛を伝い、涙のように滴っていました。  彼女は、狂ったように死にました。  悪意に満ち溢れた人間の卑劣な行いが、優しき女性を無残な死に至らしめたのです。  泥臭くけがらわしく、あまりにおぞましい思考が、彼女を殺してしまったのです。  天が泣き叫ぶ、狂おしい夜でした。  激しくも、あまりに寂しい夜でした。  けれども、夜が明けた後に、うしなわれた命を悼むものはなく――人々の口から放たれるのは、不穏な噂と、愚かな女に対する罵倒のみでありました。  そして、この日を境に、橋の上には緑色の眼をした少女の妖怪が現れ、川を渡ろうとする者の命を脅かすようになったといいます。 間章 〈夜の地下室〉  図書館の魔女――パチュリー・ノーレッジは、ひどく狼狽していた。  突如、地下室に開いた巨大な穴から光の球が飛び出してきたかと思うと、そのまま天井を強引に突き破り、空高くへと舞い上がって行ったのだ。お陰で、紅魔館と呼ばれる紅屋根のお屋敷は、見るも無残な半壊状態となってしまった。  吸血鬼の妹――フランドール・スカーレットが行方不明になっているという、一年間隠し続けてきた事実も、家人たちにすっかり知れ渡ってしまった。パチュリーはフランの姉である館の主人に、親友として軽く毒づかれた程度で済んだものの、事態は相当に深刻な様相を呈している。  一年前、ある事情から白黒の魔法使いが大浴場の壁を強引に破壊してしまったことがあったのだが、それ以来、パチュリーは紅魔館の建材に施した魔法的な補強をいっそう抜かりのないものにしていた。そうであるのにもかかわらず、あの光の球は、あっさりと天井を突き破って空に消えていったのだ。  巨大な光の球。  あれほどのエネルギーの根源を、パチュリーはひとつしか知らない。  あれは間違いなく、前の冬に間欠泉の異変を起こした張本人、ヤタガラスを呑み込んだ地獄の鴉が手に入れた、究極のエネルギーである。  もはや地下室は、その上階の部屋や、てっぺんの屋根までをもまとめて失ってしまい、陽が沈んだばかりの薄暗い空の下に曝されている。家人たちは、大きな怪我をした者がいないという幸運を喜ぶ暇もなく、平和な日常に唐突に訪れた災害の後片付けや、異変のにおいを嗅ぎ付けてぞろぞろと集まってきた野次馬たちを追っ払う作業に忙しい。  パチュリーは、なおも薄気味悪い大口を開けてたたずんでいる巨大な穴のふちに独り立ち尽くして、焦燥していた。  相当に深いと思われるこの穴の下では、今まさに、何かとんでもないことが起こっているのだという想像が容易につく。  それはもしや、一年前に地底に姿を消したフランが原因なのではないだろうか?  もしもフランが地底で暴走しているのだとすれば、恐ろしい鬼たちによる魔女への責任追及は必至であろう。パチュリーは物体の『目』の部分を握り潰すだけでその全体を破壊してしまうという恐るべき能力に対し、人間や妖怪たちにとって視力として機能している『眼球』そのものを破壊することがないように、フランの心に絶対的に堅固な制御魔法をかけてある。『眼球』を能力によって破壊されることは、すなわち死を意味するのだが、フランにはもう能力を用いた無差別な殺戮は決してできない。  とはいえ、あの『悪魔の妹』が本気で暴れ狂えば、「死者ゼロ」という比較的平穏な結果を望むことはあまりにも難しい。魔剣『レーヴァテイン』によって繰り出される圧倒的な暴力は、果たして力強き鬼たちが束になっても止めることができるかどうか解らない。パチュリーは洗練された魔法使いであり、悪魔と呼ばれる者に対してきわめて相性が良い『魔法』というイレギュラーな力を用いていたからこそ、フランの暴走を制御することができていたのだ。幻想郷最強の存在と謳われていても、基本的に腕っぷしを武器とする鬼たちでは、フランの狂気を押さえ込むことは難しいだろう。  それに、パチュリーの術式では、『眼球』という具体的な人体のパーツに対する破壊を制御するのが精一杯だった。もしも、視力の源とは別の意味を持つ『目』を有している者がフランと対峙すれば、それは容易に破壊をもたらされてしまうため、あまりにも危険な行為であると言える。 「……」  フランドールの狂気を制御できるのも、もたらされた破壊を『創造』という魔法によって打ち負かすことができるのも、パチュリー・ノーレッジのみである。  しかし、パチュリー自身が勝手に地底に行くことはできない。もしそれが可能であるならば、とっくに自らフランを捜しに赴いていたことだろう。非常事態に乗じて、というのでは弱すぎる。何か正当な理由さえあればいいのだが、焦りすぎているせいか、広大な図書館に生きる知識の泉がろくな言い訳も思いつかない。  パチュリーは天井の穴から空を見上げて、溜息をついた。手も足も出ないというのは、まさにこのことだろう。  明るさをごく僅かに残した空にはもう、いくつもの星が見えている。 「……?」  パチュリーは、訪れたばかりの夜の空気に、何か違和感を抱いた。  風に乗って、何か奇妙な音が聞こえてくる。 「ぁぁぁぁぁぁぁああああああああああ」  何の音だろう。  声のようにも聞こえる。  それにしても、段々とこちらに近付いてきているような――? 「いいいいいいいやあああああああああああああああああああああ」 「――――」  上空に、白い影。  それは、真剣さをたたえて怜悧に組み動かされる思考も、瞬き始めた星空への少しの感慨すらもぶち壊しにした、あまりに図々しくこの場に似つかわしくない悲鳴であった。 「わあああああ危ない危ない危ない危ないよけてええええええええええええッ!」 「きゃあっ!」  ――ズシィンッ!  パチュリーはとっさに飛び退いて、尻餅をつきながら、空から落下してきた白いかたまりを避けた。あまりに唐突な出来事に、地底から光の球が飛び出してきた時と同じくらい、何が何だか解らない。 「っ! っ! っ……――」  パチュリーは地面にお尻をついたまま正面を向いていたので、偶然にもその瞬間を目撃していた。地下室の真ん中に開いていた大穴の中に、桶のような形をしたものが落ちてゆくところを。  それから首だけを回して鈍い衝撃音のしたほうを見やると、そこには白い短髪に六角帽をかぶった少女が、四つん這いになって倒れ伏していた。  白毛の少女はガバッと顔だけ上げると、赤く腫れ上がった額をさすりながら、ギャーギャーと喚き出した。 「あンの馬鹿鬼ッ! 馬鹿力鬼ッ! 強引にもほどがあるッス! ぷはあああ死ぬかと思った生きてて良かったあああああああ!」  そう叫んでいたのも束の間――上空から巨大な刀が回転しながら落ちてきて、白毛の少女のかたわらの地面にグサリと突き刺さった。危うく直撃といったところである。 「ぎゃあああああああふざけんなああああああああッ! っていうかコントロールすげええええええけどふざけんなああああああああッ!」  そこまで喚き散らしたのち、白毛の少女はハッとして、周囲をきょろきょろと見回し始めた。そうして、尻餅をついているパチュリーの姿を見つけ、首の動きを止める。 「ちょいと、そこの紫色の髪のお方」 「な……何かしら」状況を把握できず、つい言葉を詰まらせてしまう。 「桶子ちゃん、見なかったスか?」 「……オケコ、ちゃん?」 「いや、名前は知らないんスけど、桶に入ってるから桶子ちゃんでいいかなって……やっぱり、桶美ちゃんのほうが良かったッスかね?」 「は、はあ? 知らないわよ……でも、桶の行方なら知っているわ」 「本当ッスか!」 「ええ」うなずいてから、パチュリーは大穴を指差した。「綺麗に落ちていったわよ」 「そうッスか。なるほど、穴に落ちたんスね。ご親切に教えて頂きありが……って、うわあああああああああああッ!」  少女は叫びながら、這うようにして穴のふちまで移動した。そうして下のほうを覗き込むのだが、そこにはただ深い暗闇が広がっているだけだということを知っているパチュリーは、黙って首を左右に振っていた。 「ああっ、桶子ちゃん! 短い付き合いだったけど、健気な良い子だった! 不運にも姉サンに振り回されてしまった者同士の絆、もっと深め合いたかったッス……!」  言い終わるや否や、白毛の少女は穴に向かって正座し、合掌をしていた。  ここまでテンション高く振る舞い続け、前置きの長いノリツッコミができるような少女は、パチュリーの知り合いにはいない。しかし、この白毛の外見と六角帽には心当たりがあった。 「あなた、白狼天狗ね? 山の警備隊の」 「はい、そうッスけど……って、うわ! そういえば、アンタ誰ッスか!」 「リアクション遅いわよ……。だいいち、他人の家に勝手に上がり込んでおいて、それはないでしょう。しかも、空から――」  パチュリーは、この犬走椛という名の白狼天狗から、事のあらましを聞き出した。  星熊勇儀という名の鬼が、地底から妖怪の山にやって来たこと。  光の球が空へ舞い上がっていくのを見たこと。  勇儀に「様子を見てこい」と言われ、桶に詰め込まれて放り投げられたこと。 「それは、災難だったわね……」 「同情してくれて嬉しい限りッス」椛は目に涙を溜めて仰々しくうなずいている。 「紅魔館のみんなは無事よ。紅魔館は無事ではないけれど」 「それは良かったッス……いや、良くないのかな……?」椛は首を傾げたり縦に振ったり、せわしなく表情を変えた。「しかし……これからが本当の地獄ッス」 「……? どういうことかしら」 「勇儀の姉サンには、地下におりて、何が起こっているのか確認してこいとも言われてるんス。独りで地底に乗り込まなければならないと思うと、どんなおっかないバケモノが飛び出すかも解らないし、どうにも怖い感じが……」  椛の話を聞いて、パチュリーの頭の中には閃くものがった。  椛は、地底の鬼から正式な許可を受けている。  これは、魔女が地底に潜る理由になるのではないか。 「いえ……足りない」 「? 何がッスか?」 「何でもないわ。こっちの話――」  付き添いなどという言い訳が通用するとは思えない。  そうでなければ、間欠泉の異変の時に、地下へと派遣した人間に地上から連絡を取るという形で、間接的な協力に甘んじる必要はなかった。  好機と思われたが、やはり椛の行動に便乗するわけにはいかなさそうだ。  だが、こうして立ち往生している間にも、フランドールは地底で猛威を振るっているのかもしれない。風穴はゴウゴウという不気味な口笛を鳴らしているのみで、地底にうごめくものの片鱗を何ひとつ理解させようとはしてくれないが、この穴の下では、確実に良くないことが起こっているのだ。 「それじゃあ、私は行ってくるッス。もたもたしていて遅れたら、後で姉サンに何されるか解ったモンじゃない」  椛は立ち上がって、地面に突き刺さっていた巨大な刀に手を掛けた。  パチュリーは、再び空を仰ぐ。  頭上にはいつしか、半分の月が輝いていた。  半壊した紅魔館を夜空に投影したかのようである。  面白くない冗談だ、とパチュリーは思った。  雲もないのに、月が翳ったような気がした。  そう、半分の月が影に隠れて―― 「ん……?」 「どうしたんスか」 「えっと……兎……?」パチュリーは首を傾げている。 「ウサギ?」 「……はあ」椛の疑問を無視して、パチュリーは溜息をついた。「今夜は、空からの来客が多いわね」 「何を言って――ぶへあっ!」  言い切れぬうちに、椛は顔面に衝撃を受けて、地面に倒れ伏した。  白狼天狗を蹴り飛ばした、細長い影。 「うわ、ごめんなさい。下をよく見ずに飛んできたので、踏んづけてしまいました」  空から現れた少女は、申し訳なさそうに言った。  月明かりを照り返す、薄紫色の長い髪。  椛が立っていた場所に、兎の耳を生やした少女が立っている。 「こんばんは」 「あなたは――」その姿を見て、パチュリーは言う。「レイセン・ウドンコ・イナバ」 「ちょ……誰がうどん粉ですかっ!」兎の少女は顔を真っ赤にして叫んだ。「私には鈴仙・優曇華院・イナバという由緒正しくない不本意な名前がちゃんとあるんですからね! ただでさえ師匠と姫様にふざけて付けられたしょうもない名前だというのに、これ以上変なアレンジを加えないで頂きたいです!」 「そこまで自分の名前に自虐的になれる人も初めて見たわ……」パチュリーは心からの憐れみの目を向ける。「で、そのウドンコさんは、昼過ぎにも薬を持って来てくれたはずだけど。今度は何の用かしら?」 「だからうどん粉じゃないって言ってるでしょう! ええい、私だって本当なら、今頃はおうちで晩御飯の支度をしているところなんですよ。でも、呑気にお米を炊いてる場合じゃなくなったんです! パチュリーさん、この人が、あなたに会いたいと!」  鈴仙はそう言って、肩を横向きに突き出した。  何かを背負っていることには気付いていたが、その背には、鈴仙と同じく薄紫色の髪をした少女の姿があった。しかし、こちらはロングのストレートヘアではなく、パーマのかかった短い髪の持ち主である。顔や服に土がついて、やけにボロボロなのが気になるが、まぶたを閉じているのは、どうやら眠っているだけらしい。 「まさか」  パチュリーは驚愕した。  間欠泉の異変の際、パチュリーは地底へ派遣した人間と通信するために、妖怪の賢者の力を借りて作った特別な魔法具を持たせた。鈴仙の背中で眠っているのは、その魔法具越しに見た『地霊殿』という館の主――『古明地さとり』と名乗った、あの心を読む妖怪ではないか。  地底の深奥に住むはずの妖怪が、どうして月の兎に背負われているのだろう。  鈴仙は、近くにあった壊れたソファーの上に安全そうな部分を見つけて、さとりの身体をそっと座らせた。 「パチュリーさんは、この方をご存知ですか?」 「……ええ。直接会ったのは、初めてだけれど」 「それでは、私がこれから述べる単語はすべてお解りになっていると判断しても構いませんね。『旧都』『地霊殿』『古明地さとり』『第三の眼』――」  鈴仙が並べ立てた単語を聞いて、パチュリーは深くうなずいた。 「それでは、話は早い。あまり時間がないので、さとりさんの人となりについては省略して、私がここに来た理由を簡潔に説明します」  鈴仙は、森の泉に棲む蛍の妖怪に薬を届け終えた帰りに、竹林の入口付近で古明地さとりに遭遇した。そして、いきなり「パチュリー・ノーレッジに会わせろ」と言い寄られたのだという。  しかしながら、初対面だった鈴仙は、さとりの挙動と言動があまりにも怪しかったため、歯車の食い違いから、スペルカードバトルを行うことになってしまった。『狂気の瞳』を駆使してさとりを打ち負かした鈴仙が、その場を立ち去ろうとしたところ、驚いたことに子供のように泣きつかれ――そうして初めて、すべてを理解するに至ったのだ。 「さとりさんは、『第三の眼』を使って、私の心の中に自分の記憶を再現したんです。私は、心を読んだり、他人の記憶を再現したりできる能力について、その時に初めて知ったのですが、どうやら私の『狂気の瞳』はさとりさんにとって相性が悪かったようですね」  しかし、さとりは鈴仙の脚にすがりつきながら、残った力を振り絞って自分の記憶を再現してみせた。その時はすでに戦闘が終わった後で、鈴仙の戦意が失われていたお陰でもあったのかもしれないが、地霊殿の主としての威厳を放り捨ててまで涙を流していたさとりは、『狂気の瞳』によるシャッターをかいくぐれるほどに必死の思いだったのだろう。 「私は、さとりさんがフランドール・スカーレットに抱いている願いも知りました」 「えっ……?」パチュリーはフランの名を聞いて、息を呑んだ。 「フランちゃんは一年前、『地霊殿』を『紅魔館』と間違えて迷い込んできてしまったようですが、それ以来、さとりさんがずっとかくまっていたんです」  鈴仙はそこで、パチュリーに不穏な視線を投げかけた。フランの失踪をパチュリーがずっと隠していたことについて、問い質したいのだろう。  しかし、話をこじれさせないための配慮か、鈴仙はその点には言及せずに続けた。 「そうしなければ、皆がフランちゃんのことを誤解するので、ずっと隠していたんです。でも、平和な日常にとつぜん侵入してきて、家の中で大暴れした者に対して、誰も良い顔をできるはずがない。さとりさんだけが、フランちゃんが本当は良い子であるということに気付いて、家族にも見つからないように秘密の地下室にかくまって面倒を見ていたんです。そして、それを『視て』しまった」 「まさか……妹様の、トラウマを?」 「そうです」語る鈴仙も、話を聞くパチュリーも、二人とも顔を青くしていた。「『第三の眼』を持つさとりさんには、他人のトラウマを引き出して、操ることができる。さとりさんは、フランちゃんが過去に抱いていた恐るべきトラウマを見出して、それを取り除こうとしたんです。そうすれば、フランちゃんが発作的に暴走してしまうことも、なくすことができると思った。さとりさんは、とても優しい人です」  パチュリーは想像した。  ある日突然、迷い込んできた少女。  家の中で暴れ回り、散々な状況を生み出した憎むべき少女。  その心にほんの僅かな真実を見出した程度で、それをかくまって面倒を見る。  普通ならば、引き裂いて殺してしまってもいいくらいなのに、それどころか、優しく接し続けて、救いの手を差し伸べようとまでした。  簡単にできることではない。  少なくとも、自分には到底できることではないとパチュリーは思う。  ――誤解を受けて非難されることが、どれだけ辛いことか。  それをよく理解している地下妖怪だからこそ、なせる所業であったのかもしれない。 「……なるほど。つまりあなたは、そんな優しい人を勘違いして、ボロボロになるまでぶちのめしたわけね」パチュリーはわざとらしく毒づいてみせた。 「それは、言わないで下さい」鈴仙は泣きそうな顔になった。「状況が、状況でしたから。さとりさんには、本当に申し訳ないと思っています。目が覚めたら、言葉ばかりではなく、ちゃんとした形でお詫びするつもりです」 「ええ、そうするべきだわ。まったく、月の兎は自分勝手ね」 「はあ……それ、師匠にも、よく言われます」鈴仙はそう言って頭を掻いてから、改まった口調で付け足した。「ですが、誤解しないで下さい。自分勝手な月の兎は、私だけですから」  すべてを理解した鈴仙は、さとりを背負って、急ぎ足で紅魔館まで飛んできた。催眠術をかけたのは、眠っていたほうが傷や疲れが癒えると思ったからだ。『第三の眼』を持つ妖怪にとっては相当に深い眠りになったはずなので、鈴仙は宣言どおり紅魔館の『所在』を教えることなく、さとりをここまで運んで来たというわけだ。  紅魔館に到着すると、表では光の球を見て集まった野次馬をメイドたちが退けて、ちょっとした騒ぎになっていた。しかし急を要する事態を抱えていたので、元より紅魔館には薬の配達人としてコネがあった鈴仙は、「パチュリーに届け忘れた薬がある」などと適当に嘘をついて入れてもらったのだ。 「空から降りてきたのは、どうして?」 「えっ? だって、そのほうがカッコイイじゃないですか」 「……」  本当に自分勝手な兎だとパチュリーは思う。そのお陰で、憐れな白狼天狗は顔面にとんでもない被害をこうむって、床の上で伸びてしまっているというのに。  紅魔館は、慣れない者には迷路のように複雑なお屋敷である。実際のところ鈴仙は、パチュリーが『屋根に開いた大穴の真下』に居ると聞き知ったうえで、屋根の上から飛び降りて来たほうが手っ取り早いと判断したのだろう。 「とにかく、あなたの話を聞くかぎりでは――」  さとりの記憶によって、フランドールが地底で暴走していることは確定的となった。  そして、地霊殿の主は『パチュリー・ノーレッジ』に助けを求めてやって来たのだ。 「私が地底に出向く、正当な理由ができたわ」  少なくとも、さとりに呼ばれて地底へ行くのであれば、もしも後から責任を追及されることになっても、さとりに押し付けて言い逃れることができる。フランについては、元よりその潜在能力が未知数であったし、他に制御できる者がいなかったのだから、「ちゃんと面倒を見ていた結果だ」とさえ主張すれば、パチュリーに責任を押し付けようとする者はいないだろう。  これこそが、この紫髪の少女が『魔女』と呼ばれるゆえんであった。鈴仙に対して自分勝手だということを指摘したが、実のところパチュリー自身も、他人のことは言えないのである。図書館の魔女は、自分で制作した月面行きのロケットへの搭乗を拒否するほどには、大いに自分勝手なのだ。 「だって、痛い目みるのは嫌じゃない?」 「? 何がですか?」 「独り言よ」パチュリーは、フッと息を漏らして笑った。「ま、今回ばかりは痛い目に遭いに行きましょう。それくらいには、私にも責任がある」  パチュリーは、壊れたテーブルの上に積み上げられた分厚い書物の中から、紅い表紙の一冊を選んで拾い上げた。『図書館の魔女』が扱う魔法の源――魔導書である。 「それじゃあ、行きましょうか。兎さん」 「えっ……?」鈴仙は、キョトンとして言った。「私も、行くんですか?」 「巡り合わせよ。もしも私が怪我をした時に、あなたに居てもらえると安心だわ。妹様を止められる『図書館の魔女』が必要だと言うのだから、どうとでも言い繕える」 「はあ。しかし、私は――」 「そこで眠っている人の望みを、叶えてあげるべきではなくて?」  鈴仙は息を呑み、ソファの上でまぶたを閉じているボロボロの少女に目を向ける。  そうしてすぐ、真っ赤な瞳のなかに確かな意思を宿して、強くうなずいた。 「ちょっと、待つッス……」  不意の声に視線をやると、大刀を杖にして、白狼天狗が立ち上がるところであった。 「勝手に蹴り飛ばしておいて、私のことを忘れてもらっちゃ困るッス……! 元より四天王の命を受けた身。地底に行くなら、私もお供させて欲しいッス」  犬走椛は、巨大な柳葉刀を片手に、口元に笑みをたたえた。 「兎と狼。地底には、鬼が出るか、蛇が出るか……まあ、頼もしくはあるわね」  パチュリーは魔導書を抱えて、暗闇を孕む大穴のふちに立った。  鈴仙と椛は、魔女にならって、その両隣に並ぶ。 「では、参りましょう。地霊殿の主の、大いなる優しさを称えて――」  三人は互いに視線を合わせて、乾杯のように頷きあう。  そして、次の瞬間――三つの影が、怪物の口へと飛び込んだ。
第七章
第七章 サブタレイニアンジョーカー  私は、その子のことをずっと見ていました。  私は、その子が大人になるまで、ずっと見ていました。  その子のことを見ていると、頭の中が熱くなりました。  その子のことを見ていると、胸が苦しくなりました。  私は女の子だけれど、その子のことがずっと好きでした。  女の子同士で好きになるのは、おかしなことかなと思いました。  お姉ちゃんは私の想いを知っていて、おかしなことじゃないよと言ってくれました。  私は気持ちがあったかくなるのを感じました。  だけど私は、その子に話しかけることができませんでした。  その子はいろんなことで苦しんでいたのに、助けてあげることもできませんでした。  恥ずかしくて、いつまでも話しかけることができませんでした。  恐ろしくて、いつまでも助けることができませんでした。  その子はやがて、私の知らないところへ行ってしまいました。  そうして結局、その子は私の知らないときに死んでしまいました。  私は、声を上げて泣きました。  いっぱい、いっぱい泣きました。  お姉ちゃんやおくうが、私のことを励ましてくれました。  いっぱい、いっぱい励ましてくれました。  みんなのおかげで、私は元気を取り戻すことができました。  私はあの子のことをずっと思い出にとっておこうと考えました。  そして、あんなふうに優しい子に、また会えるといいなと思いました。  だけど、私は視てしまったのです。  あの男の汚い心の中を。  あの男が、私の大好きな女の子を殺して、何とも思わないで歩いているのを。  それどころか、あの子のことを馬鹿にして、くしゃくしゃにして。  汚い唾を吐き散らかして、あの男はあの子の気持ちを踏みにじっていたのです。  私には、どうしても許すことができませんでした。  どす黒い憎しみの煙が、頭の中を支配してゆくのを感じていました。  あの子がどんな気持ちで死んでいったか、解らせてやりたい。  あの子が耐え抜いてきた苦しみと、同じ目に遭わせてやりたい。  私は、憎しみの感情をどんどん膨らませてゆきました。  その時から、私にはもう、何も考えることができなくなっていたのかもしれません。      ***  菜の花色のリボンを巻いた、半球型の黒い山高帽。  同じく菜の花色をした、袖口の黒い砂目柄のスモックブラウス。  白薔薇模様のスカートに、漆黒のショートブーツ。  そして何よりも目を引くのは――左胸に取り付けた、濃藍色の丸い装飾具。  閉じた眼球のような形をしたそれは、左右に伸びたチューブを伝って、まるで縄跳びをする人のように少女の身体の外周を包みながら、両足首につけたピンク色のブローチへと接続されている。  ふわりとパーマのかかった白緑色の髪が可愛らしく、見る者に浮遊感を与える。  だが――それは、あくまで想像の話だ。  なぜなら、古明地こいしの姿を視認できる者は、ほとんど存在しないからである。  地霊殿の主、さとりの妹であるこいしは、姉と同じく左胸に『第三の眼』を有しており、かつてはその眼を通じて他人の心を読むことが可能であった。  しかし、ある時を境に、こいしは『第三の眼』を閉じてしまったのだ。  この姉妹にとって、『第三の眼』とはすなわち、自分自身の『心の眼』を意味する。そのまぶたを閉ざしてしまうということは、自らの心を閉塞させてしまう行為に等しい。古明地こいしは、自らの心を持たない無意識の存在に成り変わってしまったのだ。それはある種、精神の崩壊とも言うべき、狂おしい選択である。  己の心を喪失した代わりに手に入れたのは、『誰にも悟られない』というあまりに寂しい特質であった。鼻先をかすめながら音を立てて通過しようとも、無意識に行動するこいしの存在に気付く者はない。  この特質によって、天狗たちが厳重に監視を務めている山の警備をするりと通り抜け、その先に在る神社でひと悶着起こしたことがあった。間欠泉の異変の元凶、地獄鴉に太陽の力を勝手に与えた神様に文句を言うため、由緒正しき博麗の巫女が山の神社に殴り込んでいったのだが、その折に偶然その場に居合わせたのが、無意識に漂っていたこいしであった。地底にも潜り、恐るべき究極の力による異変を解決したという博麗の巫女に深い興味を抱いたこいしは、『第三の眼』のまぶたを緩めたが、結局はその時も心を開くには至らなかった。  日々を変わらず無意識に過ごしてきたこいしは、この日もまた、旧都をふらふらと彷徨っていた。黒猫と橋姫が『地獄焼き』を食べようと話しているのを見て、自分も食べたいという欲求につき動かされるままに、店主が差し出した串を勝手に一本取り上げて、どこへ向かうでもなく風に揺らめくように歩き続けた。  やがて、歩くのにも疲れて、こいしはお気に入りの場所にやって来た。街の警備を担当している鬼たちの詰所に、見張り用の高台が設置されている。旧都の街並みを一望できるその高台は、こいしの一番のお気に入りの場所だった。当然、そこには見張り番の鬼が立っているのだが、周囲の者たちは、こいしの身体を無意識に避けて行動するようになっているので、不意にぶつかって気付かれる心配もない。  そうして、高台の上でのんびりと昼寝をしていた時だった。  危機感という名の無意識が大きく波打つのを感じて――無論、心は閉ざしたままであるが――こいしは、ふと目を覚ました。  元より何かが起こりそうな胸騒ぎは感じていたのだが、湧き起こる好奇心のほうが危機感に勝っていたので、こいしは「早いうちから安全な場所に隠れてしまおう」という気持ちになることはなかった。  そして案の定――旧都が燃え始めた。  高台の上から、こいしはぼんやりとその光景を眺めていた。  警鐘が鳴り、遠くからは悲鳴のような声が聞こえた。  紅い。  地底の薄暗さを押し退けて、鮮やかに燃え上がる炎。  下方から幽霊のように照らし出された、地上との境界となっている天井の土。  こいしは何も考えずに、じっと眺め続けた。  きれいだな、という感慨はあったかもしれないが、はっきりとした自覚もない。  足元を見下ろすと、詰所の中から警備の鬼たちがあわただしく飛び出してゆく。 「……?」  その騒ぎの中に、こいしの興味を惹く者が混じっていた。  白薔薇模様のスカートを膨らませながら、こいしは高台の上からふわりと飛び降りる。そうして、鬼の詰所の中から駆け出してきた、濃い土色の服を着た金色の髪の少女に、後ろから声を掛けた。 「ちょっと」  こいしは、気になったのだ。その少女は、何らかの無意識的な衝動に駆られている。それは、きわめて強い緑色のマイナス感情であったが、まだ芽生えかけであったので、こいしには珍しく、その少女に注意を促してあげようと思ったのだ。ただし、こいしがそう思ったのも、あくまで衝動的な感覚によるものであったのだが。 「?」  しかし、金髪を頭の上でお団子みたいに結んだその少女は、振り返った後に少しだけ首を傾げ、すぐに前を向き直して飛び去ってしまった。やはり、こいしの姿には気付くことができなかったらしい。  だが、そんなことさえも、こいしにとっては些末な問題にすぎず――問題にすらならない、と言うのが正しいのかもしれないが――次の瞬間には、もうすっかりその少女に対する興味は失われていた。  その直後、こいしは遠くの空中に、不気味な紅い閃光が生まれるのを見た。  同時に、無意識の絵の具に塗り潰された心にも、紅い色の閃光が走る。  ずっと胸の内側を刺激していた強い好奇心の針が、そちらの方向を指し示していた。  そうして、こいしは動き出す。  山高帽をかぶった少女は、抑制しきれぬ衝動に駆られるままに、紅い光のひらめくほうへ、ゆらり、ゆらりと飛んで行く。  大いなる災厄の爆心地へ向かって――ただ、無意識に。      ***  私には力がありませんでした。  道端の小石くらいしか持ち上げられる力がないから、『こいし』と呼ばれています。  お姉ちゃんが言うには、私にはまあるくて小さな石みたいに可愛らしいままでいてほしい、という意味だそうです。  私はとっても嬉しかったのですが、私にはそういう力だけではなくて、自分の能力を抑えつける力もなかったので、弱々しい自分がちょっぴり嫌になる時がありました。  お姉ちゃんは、そんな私の気持ちを悟って、できるだけ人間の里へ遊びに行くように言いました。人間たちが大勢暮らしている里へ下りて行って、たくさんの心を視れば、自分の『心の眼』を制御することなんか嫌でもできるようになるそうです。  私は里に紛れて、いろんな人の心を読みました。  人間は、すぐに嘘をつくし、わがままだったり、よくないことを考えたりもするので、私はなんだか嫌な気持ちになりました。でも、そういうことと同じくらいに面白い発見もたくさんあったので、自分の『心の眼』を面白いことだけに向けられるように頑張りました。お姉ちゃんも、それでいいのよと言ってくれました。  そうしているうちに、少しずつではありましたが、自分の能力を制御できる力が身に付いていくような気がしました。  私は人間の里に行くほかには、おくうと一緒によく追いかけっこして遊びました。おくうは可愛い鴉で、とっても良い子です。人間にお母さんを奪われた、かわいそうな鴉でしたが、みんなのことを大切にできる強い子でした。  私がおくうとばかり遊んでいたのは、お姉ちゃんに心を読む力のことを内緒にするように言われていたからです。人間の里へ行っても、誰かに話しかけることはできなかったし、妖怪の山にいても、他の妖怪たちと一緒におしゃべりすることはちっともありませんでした。  私はお姉ちゃんみたいにしっかりしていないので、もし誰かと一緒におはなししていて、うっかり心を読める能力のことがばれてしまったらと考えると、怖くて仕方がありませんでした。私はお姉ちゃんの心も読めるので、「心を読める能力のことが知れ渡ったらどうなるか」ということをお姉ちゃんが想像しているのを視て、とても恐ろしい気持ちになったのです。みんなから嫌われて寂しい妖怪になるのは、とても怖いことでした。  お姉ちゃんは私と違ってしっかりしているので、妖怪たちの宴の席にも参加して、一緒にお酒を飲んでいました。私のこともときどき連れていってくれましたが、そういう時、私は必ず誰ともおはなししないで帰りました。  私はいつしか、ひどく臆病な性格になっていました。誰かから話しかけられても、怖くて言葉を返すことができず、ただ黙って、逃げるようにその場を立ち去るのがいつものことでした。周りの人は、私のことを人見知りとか、恥ずかしがりやさんとか、そういうふうに思っているようでしたが、本当のところは、自分の秘密をうっかり他人に漏らして、嫌われてしまうことが怖いだけの臆病者なのでした。  そういう性格が、会話だけではなく、ほかのいろいろなことにまで影響してしまうようになりました。人間の心のなかを眺めているのは面白かったけれど、すっかり臆病者になってしまっていたせいで、もともと心に抱いていた「嫌だなぁ」という気持ちも前よりずっと大きくなっていました。  おくうがそうであったように、私とお姉ちゃんの心を読む能力は、言葉を持たない動物たちにはとても気に入ってもらえました。  ある時、山に狼の群れが移り棲んできて、鬼たちと揉め事を引き起こしました。お姉ちゃんは、積極的に狼たちの心を読み伝えて、鬼との仲を取り持ちました。自分の力をみんなに受け入れてもらえるように、山の平和に役立てようとしたのです。  しかし、最初にお姉ちゃんが考えていたとおり、心を読める力を知ったみんなが、私たちのことを忌み嫌うようになってしまいました。  動物以外の者たちに対する臆病な気持ちは、いっそう膨れ上がりました。  そうして、心を読めることでどんどん小さくなっていった私が、人里に下りてゆくことをもうやめてしまおうかと考え始めた頃――あの優しい子に出会ったのでした。      ***  眼下には、炎上する街並み。  前方には、巨大な光の球。  地獄鴉が、究極の力を放とうとしている。  こいしはその一部始終を、少し離れたところから、ぼんやりと眺めていた。  好奇心を無性に掻き立てられる光景であった。  こいしが紅い閃光の見えた地点に到着すると、地霊殿にいるはずの地獄鴉のおくうが、水色のスモックブラウス――姉の服を着た謎の少女と対峙していたのだ。  あの紅い瞳の少女は、どこかで見たことがある。例えば、黒い木の枝にグラデーションの水晶を吊るしたような、背中のパーツ――そういえば、一年前に地霊殿を襲った『紅い悪魔』が、ああいう奇怪な形の羽根を背負っていたはずだ。  あれは確か、姉に危害を加えようとしたので、高まる危機感という衝動のままに、こいし自身の手によって打ち倒されたはずである。しかし、その後どうなったのかは知らない。さとりの危機が去った直後にはもう、こいしはふらりと姿を消してしまったためである。  それが今、旧都の上空で地獄鴉と向かい合っている。  これは一体、どういうことなのだろう。 「キャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャ!」  紅い悪魔が、狂ったように笑っている。  あれは、無意識ではない。無意識であれば、とっくにこいしの存在に気付いているはずなのだ。何かを意識する心そのものが、狂っているということなのだろう。  そしておそらく、旧都にこのような惨状をもたらしたのも、あの紅い悪魔である。  好奇心が疼く。  同時に、左胸に在る藍色の『第三の眼』のまぶたも、僅かに疼いていた。  そんな折に、おくうが頭上に巨大な光の球をつくり出したのだ。  心を閉ざし、壊れてしまったこいしにとって、これほどまでに面白い状況はない。  だが――別の無意識の感覚が、こいしを促す。 「……おくう」  どうして呼び掛けたのかは、解らない。  それは、一年前に姉を救った時と同じ感覚による行いだったが、こいしにはそういうはっきりとした自覚がない。  すなわち、危機感。 「ねえ、おくう」  こいしは呼び続けていた。  虚無の心に、語りかけるように。  懐かしい記憶を、ふと思い描くように。 「こいし様……?」  おくうは、こいしの姿に気が付いた。  いくら心を閉ざしてしまったとはいえ、自分から呼び掛ければ相手は気付く。  しかし、現状は違った。  究極の力の体現である光の球体を、我を失うほどの怒りのままに爆発的に膨張させてゆくという、その行為。  おくうも無意識であったからこそ、こいしの存在に気付くことができたのだ。  こいしは、真っ白な無意識の世界で、おくうと対話していた。 「さあ、おくう。こっちにおいで」  昔、一緒に山を駆け回った鴉。  友人とも呼ぶべき地獄鴉が、目の前で危険な力を衝動のままに爆発させている。  ――このままでは、おくうが危ない。  光の球と同じくらいに膨れ上がっていた危機感が、こいしの空っぽの頭の中で「おくうを救わなければ」と強く訴えたのである。  こいしは、おくうの怒りの衝動を忘れさせようとしたのだ。  古明地こいしは『第三の眼』を閉ざし、誰にも悟られなくなったことによって、『無意識を操る』という隠された能力に目覚めていた。  それはまるで、森の奥深くで華やかに咲き乱れた薔薇のように、こいしの明るい心の陰にひっそりと眠っていた絶大な力である。  こいしはその力を使って、おくうを危険から遠ざけようとしている。  心の中から、危険なものを取り除こうとしているのだ。  おくうは、元気よく笑って、こちらへ向かって飛んで来る。  無意識のままに。  光の球は成長を止め、上方へと投げ出された。  無意識のままに。  何もかもが明るく輝いていた山の景色の中を、二人は仲良く駆けている。  それもまた、無意識のままに。  巨大な白い光が、そのまま地底の天井を突き破って、上へ上へとのぼってゆく。  そして。 「待って下さい! こいしさ――」  おくうは。  眼前で。  笑って。  停止。  前進も、言葉も。  凍りついたような、突然の停止。  追いかけっこの夢を見ていた。  かつて一緒に、山を駆けた夢を。  その笑顔が、下のほうへ。  下へ、下へ。  画面の下方へ、消えてゆく。  フェードアウト。  落下という、認識。  おくうは、笑っていた。  画面から消えてゆく、最後の瞬間まで。  いつまでも、いつまでも。  追いかけっこの夢を見ていた。  そして――代わりに現れたのは。 「アハッ」  歪んだ瞳。  裂けそうな口。  紅い悪魔の、狂った笑顔。  炎のように激しい光を放つ、紅い剣。 「お、く、う……?」  呼び掛ける相手は、もう目の前にはいない。  助けたかった相手は、もう視界には存在しない。  もう少しで手が届きそうだった、黒髪の少女は――あまりにも無残な姿で、地面に倒れ伏していた。  地獄鴉は、斬り捨てられたのだ。  翼の生えた背中から血を流して、ぴくりとも動かない。  紅い悪魔は、楽しそうに笑っている。  こいしは、怖かった。  怖いと思った。  臆病な自分が、戻ってきたのだ。  嫌われるのが怖くて、誰にも話しかけられなかった自分の姿が。  しかし、紅い悪魔には、まだ気付かれてはいない。  紅い剣を、下方に向けて突き出している。  おくうにとどめを刺そうとしているのだ。  危機感が募る。  危機感が囁く。  危機感が警告する。  しかし――こいしは、怖かった。  怖くて、何もできなかった。  おくうを助けなければならない。  でも、怖い。  動けない。  紅い悪魔は、剣に力を籠めている。  今にも急降下して、背中を刺し貫こうとする視線。  怖い。  無意識に干渉する力が、揺らいでいる。  だめだ。  何もできない。  このままでは、おくうが殺されてしまう――  そう強く思いかけた時、紅い悪魔が、ふと視線を横にずらした。 「アハッ?」  こいしもその動きに合わせて、そちらを見やる。そしてすぐさま、頭の中に、安堵の気持ちが湧き上がってくるのを感じた。  旧都の鬼たちが、怒りの形相で駆けつけてきたのだ。 「オニンギョウ。イッパイ」  紅い悪魔は、もうすっかりおくうに対する興味を失ったようだ。  臆病者のこいしは、その様子を黙って眺めていた。  だが、植えつけられた恐怖心が消え去ることはない。  怖くて、他のことを気にする余裕がない。  だからこいしは、先ほどから、自分が何かをはっきりと感じたり、思ったりしていることにも、まだ気付いていない。  その左胸では、濃藍色のまぶたが、ひそやかに疼いている――      ***  私は、もう他人の心を読むことなんかうんざりだと思いながらも、その日は何か良いことがあるような気がして、いつものように里へ遊びに行っていました。  その子の心は、初めて会ったその日に視た時から、ずっとずっと優しい形をうしなわずに保ち続けていました。  その可愛らしい少女は、小さな身体でとても貧しい暮らしをしていました。  食べ物を拾い集めて、やっと生きているような女の子でしたが、その心の中を覗いてみると、私の頭の中はたちまちにびりりと痺れるような感覚で塗り潰されました。  その子は、誰に対しても、自分の境遇に対してさえ文句ひとつ言わず、優しく在り続けようとする、とても強い心の持ち主だったのです。私は、強い意思を持っている人ならば、それまでにも何度か見たことがありましたが、ここまで曇りなく、真面目に生きようとする健気で美しい心は、その子以外には見たことがありませんでした。  まるで道端に落ちたまあるい小石のようだと思い、勝手な妄想ではありましたが、私はどこか自分とのつながりを感じて、胸を高鳴らせました。いくら痩せ細っていても、私にはその子の身体を持ち上げられそうにはなかったのですが、心をそのまま映し出したみたいに綺麗な顔立ちが印象的でした。  私はその少女のことが気になって、それから毎日様子を見に行くようになりました。  その子は、人々から疎ましく思われ、汚いと罵られて、あまりにもひどい扱いを受けていました。だけど、私だけは、その子の心のほうが周りの連中なんかよりもずっと綺麗なのだということを知っていました。  私は、その子のことをずっと見ていました。  けれども、怖くて話しかけることはできませんでした。  私はすっかり臆病者だったからです。今までも同じような理由で誰かと話すことを避けてきましたが、その子に嫌われるのだけは、何よりも本当に嫌なことでした。  それでも、その子のお陰で、人間の心を視ることから逃げようという気持ちが、すっかりなくなっていました。こんなに綺麗な心が存在するのなら、もっと我慢して色んな心を視てみよう、と思いました。その子みたいに優しい心の持ち主は他にいませんでしたが、少なくとも、その子のお陰で他人から忌み嫌われるような能力を有していることについての不安はやわらいだし、自分は臆病だけれどなんとか頑張ってみようかなという気持ちになることができました。  その子のことを見ていると、頭の中が熱くなりました。  その子のことを見ていると、胸が苦しくなりました。  そうして私は、自分が恋をしているのだということに気が付きました。  女の子同士で好きになるのは、おかしなことかなと思いました。  お姉ちゃんは私の想いを知っていて、おかしなことじゃないよと言ってくれました。  私は女の子だけれど、その子のことがずっと好きでした。  私はその子のことを考えていると、胸の高鳴りや苦しみと同時に、気持ちがあったかくなるのを感じました。  それでも私は、その子に話しかけることができませんでした。  臆病な私は、その子のことをただずっと見ていました。  私は、その子が大人になるまで、ずっと見ていました。  見ているだけで幸せな気持ちになれたので、それで構わないとさえ思っていました。      *** 「アハッ」  目の前で、力強き鬼たちが薙ぎ倒されてゆくのを見ていた。  こいしは、怖くて何もできなかった。  ただじっと、宙に浮かび続けて、狂気による圧倒の光景を眺めていただけであった。 「――しっかりして! 死んじゃダメだヨ、おくうッ!」  後から駆けつけた黒猫の少女が、地に倒れ伏した鴉の傍で泣いている。  こいしは、怖くて何もできなかった。  ただじっと、宙に浮かび続けて、鴉の背から流れ出る血を眺めていただけであった。  黒猫が、紅い悪魔を睨みつけ、飛び込んでいった。  そんな激情に空気の揺らぐ場面すらも、こいしにとっては、ただ目の前でそういう動作が行われているという、単なる映像的な認識にしかならない。  こいしはいつしか、無意識の殻に閉じこもってしまったのだ。  紅い悪魔に恐怖心を抱くことで、まぶたが緩んでいくのが、また怖かった。  恐怖心が、こいしの心を大きく揺るがした。  閉ざされた心の扉には冷たい鎖がぐるぐると巻きつけられ、いっそう厳重な錠がかけられてしまった。  こいしには、見ていることしかできない。  傍観という選択をすることしかできない。  黒猫が、紅い悪魔に接近する。  だが、恐るべき凶刃は、すでに鋭い牙を剥いて待ち構えている。  今度は、危機感さえも湧かない。  助けたいという衝動がない。  誰かのことを想うためには、心を固く閉ざしすぎてしまった。  こいしの心を開くことのできる人物は、たった一人しかいない。  たった一人――かつて本気で恋した、人間の少女。  貧しい生活の中で、清い心を抱き続けた、優しき黒髪の乙女。  あの少女だけが、こいしの心を救うことができる。  だが、その恋心は。  もうずっと昔に、終わってしまったものである。  こいしの『心の眼』に、寂しい結末を迎えてしまったものである。  その恋心は――今はもう、欠片も残されずに消えてしまっているはずだった。  そして。  傍観。  肉薄。  窮地。  紅き刃が、黒猫を死に至らしめようとした――その時。  こいしの視界に、緑色の光が飛び込んできた。  金色の髪に、尖った耳を持つ少女。  橋姫が操る巨大な弾幕の怪物が、紅い悪魔を力強く吹き飛ばしたのだ。  ――パリィン。  しかし、同時に砕け散る弾幕。  いや。  砕け散ったのは、心を封じていた鎖だったのかもしれない。 「どうしてッ! なんで、助けに――」  黒猫が困惑している。  その思いにつられるかのように、こいしも戸惑っていた。  ――まさか。  ――この少女は。  金色の髪が、漆黒に変わる。  そうして、懐かしい面影を取り戻す。  黒猫が、黒髪の少女を抱えて泣いている。  ――そんなはずはない。  ――だって、あれはもう百年も昔のことで。  だが、視覚が訴えている。  これは現実なのだと。  そして、心は訴えている。  あの少女たちを、救わなければならないのだと。  黒猫が泣いている。  紅き凶刃は、容赦のない高笑いと共に、弱き者の魂を滅ぼさんとして再びその頭上に振りかざされた。  黒猫は、諦めかけていた。  その心が、はっきりと視えた。  まったく、冗談ではない。  勝手に諦めないでほしい。  あなたを助ける地霊殿の家族は、まだ、ここに居るのだから。  迫る刃。  ふわりと、躍り出るその姿。 「弾幕パラノイア」  濃藍色の眼が、大きく見開かれている。  恋する臆病者は――百年の時を経て、己の心を取り戻した。      ***  その子は、たくさんの痛みを経験しました。  その子は、たくさんの苦しみを背負いました。  私は、その子が赤ん坊を山に置いてゆくところも、見ていました。  私は、その子が泣いているのに合わせて、涙を流して見ていました。  そうして、とても大きな罪悪感まで抱きながら、その子は必死に生き続けました。  女神のように優しく、真面目に在り続けました。  臆病な私は少しも助けてあげることも、話しかけることさえもできませんでしたが、それでも胸の高鳴りを抑えきれずに、陰からずっと見守っていました。  私には力がなかったので、山の狼の頭領に、赤ん坊の面倒を見て欲しいと頭を下げてお願いしました。『大神さま』は、私のお願いを喜んで聞き入れて下さいました。  やがて、私が想いを寄せ続けていた女の子は、大人の女性になりました。  その子は変わらずに、ずっと強くて美しい心の持ち主でした。  けれども、私の中その子の記憶は、橋の下に木の板の家をつくって、黒猫と仲良く暮らしていたところで終わっています。  もどかしい気持ちを抱え込んで、長いあいだ頭を悩ませすぎたせいか、私は熱を出して寝込んでしまったことがありました。  そうして、人間の里へ遊びに行けない日々が続きました。  ようやく身体がよくなって、私はさっそく、久しぶりにあの子に会えると思い、意気揚々と橋の下まで足を運びました。  すると、そこにはもうあの美しい人の姿はなくて、黒猫だけが寂しそうに暮らしているのみでした。  あの子は、私の知らないうちにいなくなってしまったのです。  あの子は、私の知らないところへ行ってしまったのです。  私は、とても悲しい気持ちになりました。  黒猫の心は、あの子はどこかで幸せにしているのだということを教えてくれました。  それでも、あの子がいつか帰ってきてくれるような気がして、私は天気のいい日はいつも橋の下の家を眺めに行きました。  私はいつまでもあの子の姿に執着して、忘れられずにいたのです。  だから、あの子が死んでしまったという事実を知った時には、私はあまりにも耐え難い悲しみの嵐に襲われました。      ***  炸裂する光景。  忍者が使うクナイの形をした弾が、紅い悪魔をぐるりと取り囲んでいる。身動きを封じているのだ。  相手の逃げ道を封じたこいしは、追い討ちをかけるように蒼白い弾幕を撃ち放った。 「こいし……様……?」  背後で、お燐が驚いたような声を漏らした 「お燐」 「……? は、はいっ!」 「そっか。お燐のことを、こうして呼ぶのは初めてなんだね」こいしは、視線だけを向けて語りかける。「私は、お燐のこと、お姉ちゃんより前から知ってるんだけどね」 「えっ……?」  お燐が首を傾げると同時に、前方で蒼白い弾幕がはじけ飛ぶ。こいしが意図した現象ではない。 「残念だけど、積もる話は後にしよっか」こいしは前へ向き直り、背中で告げた。「おくうと、その子を頼んだよ」  辺りには、土煙が立ち込めている。  少しずつ晴れてゆく視界に――紅い悪魔の姿が現れた。  自らの弾幕で壁をつくり、その身をガードしていたのだ。  その目は、口元は、何事もなかったかのように、ただ笑っている。 「アハッ」  水色の服を着た悪魔。  どうして、姉の服を着ているのか。  左胸の瞳が、相手の姿をじっと見つめている。  その心を、こいしはすでに覗いていた。  古明地こいしは、「助けたい」という明確な意思と、もう消えてなくなっていたはずの恋心の化石に後押しされて、『心の眼』を開いたのだ。それによって、姿を隠すことは叶わなくなったが、『心を読む』ことと『無意識を操る』ことが同時にできるようになった。  よみがえったこいしの心の中に、情報が津波のように流れ込んでくる。  フランドール・スカーレット。  吸血鬼。  破壊の力。  さとりが面倒を見ていたこと。  恐るべきトラウマ。  狂気の裏に隠された、純粋さという名の真実――  こいしは、一瞬のうちにすべてを悟った。 「カゴメカゴメ」  紅い悪魔――フランドールが、楽しげに言葉を漏らす。  同時に、その身を包み込むようにガードしていた紅い弾幕が、一気に膨れ上がった。  こいしの後方では、お燐が傷ついた者たちをかばっている。  ――この場所では、まずい。  それは、刹那の判断。  否。  もはやそれは意識による判断ではなく、コンマで区切られたごく僅かな時間の中における、条件反射的な行動であった。  すなわち、無意識の弾幕。  上空に、青や緑の明るい弾幕が生み出される。  弾幕は曲線を描くようにかたまって動き回り、左右対称の図形を作り出していた。  その形は、さまざまなものに見える。  あるいは、可愛い黒猫。  あるいは、一本角の鬼。  あるいは、飛翔する鴉。  あるいは、優しげな瞳。  あるいは、八本足の蟲。  あるいは、人を繋ぐ橋。  そして、あるいは――恋心を象徴するかのような、美しいハートの形。 「? ア? キャ?」  色々なものに形を変えて見える不思議な弾幕は、相手の心を惹きつける。  フランの意識はいつしかこの図形へと向けられ、放たれた弾幕は、すべて上空へと消えていった。  それはさながら、弾幕によって展開される精神分析テストのように。 「さあ、こっちだよ!」  こいしは明るい声を上げて、宙に飛び上がった。  仲の良い鴉を呼びつけたように、紅い悪魔と呼ばれた少女を誘っているのだ。  こいしは、フランドールを打ち倒そうなどとは考えていなかった。  相手の心を覗いた時に、焚きつけられていたのだ。  ――お姉ちゃんがやろうとしたことを、私がやらなければ。  フランがさとりの服を着ているのを見て、危機感を抱かなかったのは、さとりが殺されたわけではないという事実を何となく理解していたからかもしれない。  そして、それだけではなく――最初から、狂気の裏側に隠された純粋さに気付いていたからなのかもしれない。  本能的に理解していたのだろう。  旧都は炎に包まれているが、誰も悪くはないのだ。  狂気に囚われてしまったフランも。  狂気を取り除こうとしたさとりも。  誰かのために狂気に挑んでいった、お燐とおくう、そしてパルスィも。  皆の気持ちが、尊重されなければならない。  皆を救わなければならないという気持ちが、こいしの心に強く宿っていた。 「アハ。オニンギョウ。アハハッ!」  フランは左手を開いて、こちらへ向かって飛び掛ってくる。  あれは、『目』を握り潰そうとしているのだ。  一年前、フランが地霊殿を襲った時には、こいしは『心の眼』を閉じていたからこそ勝つことができた。『目』を持たない無意識は、姿を隠しながら、紅い悪魔を静かに叩きのめした。  だが、今は違う。心は開かれ、同時に『第三の眼』も見開かれてしまった。  これは圧倒的に不利な状況であるはずだ。『嫉妬心』そのものを打ち砕かれ、魂のバランスを崩してしまった水橋パルスィのように、もしも『第三の眼』を破壊されてしまえば、こいしにとって、それはすなわち心の破滅を意味する。  心の閉塞は無意識への転向だが、心の破滅は――そのまま、死につながるのだ。 「ほら、こっちだよ! 私の『目』はここにあるんだよ!」  しかし、こいしは心の眼を塞ごうとはしない。  決して逃げようとはしない。  それどころか、相手を積極的に誘導している。  相手の心に、より深く干渉するために。  相手のトラウマを破壊して、暴走してしまった狂気を鎮めるために。  姉がやろうとしたことを、妹の自分が成功させるのだ。  そこには、もうかつての臆病者の姿はない。  古明地こいしは、百年ぶりに心を開いただけではなく、本来の臆病な性格すら克服しようとしていた。自分の目の前で、恐るべき紅い悪魔に果敢に挑んでいった三人の勇気が、こいしを変えたのだ。 「アハッ。オニンギョウ。コワレチャエ!」  フランはこいしに接近しながら、狂気に染まった左手を握り締めた。  その内側に『目』を移動させ、すべてを破壊することのできる悪魔の手のひらを。  ――しかし。 「コワ、レ……? ア? エッ?」  フランの左手が、何度も空を掴む。  グーとパーを繰り返すが、何も起こらない。  こいしの心は、決して壊れない。 「ほら、フランちゃん! どうしたのかなっ?」  その理由が、こいしには解っていた。  フランの心を覗いた時に、緑色に固められている部分があるのを見た。  自らの手中に移動させて砕いた嫉妬心の破片が、フランの心にこびりついて、破壊の能力の発動を妨害しているのだ。  そのことに気付いていたからこそ、こいしは安心して『第三の眼』をさらけ出し、フランの心を深く探ることができた。  捨て身でぶつかっていった橋姫の強い想いは、しっかりと受け継がれている。 「オニンギョウノ。クセニ……」フランは空中で止まって、鋭い牙で歯噛みした。 「私は、お人形じゃないんだよ。古明地こいし、っていう名前があるんだから」 「オニンギョウ、ウルサイ。オネエサマ、オネエサマ! オニンギョウ、ウルサイ!」 「だから、私はお人形じゃないって言ってるんだよ。うーん、でも、『小石』よりは可愛いような気もするね。そう考えると、お人形でもいいような気がしてきたんだよ」 「アアアアアアアアアアアアアアアアアアウルサイウルサイウルサイコワレロコワレロコワレロコワレロコワレロオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」  フランは紅色に輝く魔剣を振りかざして、猛突進してきた。  その瞳には、子供のように涙を溜めている。  こいしには、その心の訴えが、はっきりと聞こえた。  ――お姉さま。  ――お姉さま、どこにいるの?  今のこいしには、相手の無意識まで理解できる。  フランはこの辺りに姉の気配を感じて、飛び出してきたのだ。  おそらく、頭上に開いた穴の向こう側に、フランの姉が居るのだろう。  ただ姉に会いたいと強く思うままに、その気配を察知して、ここまでやって来た。  その気持ちが、おぞましい過去の記憶によって刺激され、いつしか歪んだ狂気に成り変わってしまったのだ。  やはりフランは、無意識に暴れているのではなく、意識そのものが狂気に侵されてしまっている。 「それでも、お姉ちゃんのことを想ってる。あなたのお姉ちゃんも、優しいんだね」  先ほど覗いたばかりの、フランの記憶を思い返した。  さとりと一緒に過ごした、一年間の記憶だ。  とても、あたたかい思い出だった。  こんな純粋な子が、どうして狂わなければならないのか、解らなかった。  このままでは、狂気のままに暴走を続けてしまうか、捕まって悪者扱いされてしまうか、そのどちらかしかあり得ない。  それでは、忌み嫌われ、地底に追いやられてしまった仲間たちの二の舞である。  同じ過ちを繰り返してはいけないのだ。  少なくとも、こいしが大好きな姉は、そういう考えを抱いてフランに接していた。 「サブタレイニアンローズ」  辺りに、青い薔薇の花が咲き乱れる。  深層心理にはたらきかける、古明地こいしのスペルカード。  救いの意思は、もはや無意識にも共有されている。  それは、優しき姉、黒猫と鴉――そして想いを寄せ続けた少女の意思でもあった。  青く展開する弾幕は、さしずめ、無意識の花園。  薔薇の花は、まるで注射針のように、狂気を鎮めるための棘を張り巡らす。  猛進していたフランは、突如咲き乱れた薔薇を避けることができない。  そして――こいしの眼前で、少女の額に一輪の薔薇が突き刺さった。  確かに、突き刺さったのだが。 「フォーオブアカインド」  声。  耳元に。  吐息が頬に当たる。  こいしは、背筋に怖気が走るのを感じた。 「……はは。そっか」  前方で、薔薇に貫かれた影が砕け散る。  チラリと横を見やると、フランの形をした影がもうひとつ、煙のように消滅してゆくところであった。その近辺にだけ、青い薔薇の弾幕が咲いていない。  分身を盾にして道をつくり、背後に回ったのだ。  しかし、分身にも『狂気』という名の強い意識が宿っていたので、こいしには相手の仕掛けた罠を見抜くことができなかった。 「んあっ!」  フランは腋に手を回して、こいしの左胸を鷲掴みにした。 「コワレチャウ? ネエ、コワレチャウノ?」 「んくっ……あはぁっ!」  左手の指をぐりぐりと動かして、フランはこいしの『第三の眼』をもてあそぶ。  こいしは頬を上気させて、顔面に汗を滲ませた。 「ケケッ!」 「や、め……んあぁ!」  心臓をくすぐられるような感覚に、思わず湿った吐息と甘美な声が漏れ出す。  いくら破壊の能力が封じられていようとも、直接『心の眼』を握り潰されてしまえば、それでおしまいである。心を読むという強い力に伴う、最大の弱点であった。 「ホラホラホラア! コワレル、コワレチャウヨオオオ。ギュウウウウウウウウウウ」 「い、あ! ああっ! ああああ! ああああああああああッ!」  フランドールが、眼球を握る力を強めてゆく。  下方から、黒猫の叫び声が聞こえてくる。  苦痛の中で、どうにか視線を向ける。  お燐は、助けに来ようとしてくれたらしい。  だが、立ち上がった直後にフランの影に邪魔され、立ち往生してしまっていた。  フォーオブアカインド――三体目の分身が、まだ消えずに残っていたのだ。  身悶えするような激痛が、全身を駆け巡る。  このまま眼を握り潰されてしまえば、こいしは死んでしまうのだ。  しかし、身動きが取れない。  逃れることができない。  ――せっかく、勇気を出すことができたのに。  ――お姉ちゃんの意思を継いで、頑張ろうと思ったのに。  もう、おしまいなのだろうか。  脳裏に、灰色の感情がよぎる。  諦め。  諦め?  錆び付いた心の中に、薄紫色の少女が立っていた。  姉だ。  大好きな、姉。  微笑んでいる。  首を傾げて。  諦める?  本当に?  本当に、それでいいの?  ――いや。  それではだめだ。  それでは、何も変わらない。  簡単に諦めてしまったら、心を閉ざしてしまった時と、何も変わらない。  こいしは、強い意思を取り戻そうとする。  しかし、今の窮地を心の変化だけで脱することはできない。  手も足も出ない現状は変わらないのだ。  現実は時に残酷である。 「ホーラ! コワレチャエエエエエエエエエエエエエエエッ!」 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」  しかし――現実は残酷であるのと同じくらい、優しい一面も兼ね備えている。  例えばそれは、空から舞い降りてくる天使のように。  ――ガゴォォォンッ!  旧都に鳴り響く警鐘にも勝るほどの、盛大な音。  その大音響と同時に、こいしの左胸から、締め付けるような力が消え去った。 「ガ……ハァッ?」  紅い悪魔と呼ばれた少女が、目を回しながら、仰向けに落下していく。自分の身に何が降りかかったのか、まったく理解できないといった表情だ。 「……?」  同じく困惑していたこいしは、ひとたび間を置いてから、ようやく事態を把握する。  こいしにとっての幸運は――壮麗な天使の姿よりも、ずっと質素な形をしていた。  左右に結われた、緑色のおかっぱ頭。  空から降ってきた桶入り娘が、フランの脳天をぶち抜いたのだ。      ***  あの子が死んでしまったことを知ったのは、嵐の去った翌朝のことでした。  人々は口々にあの子のことを罵り、死を哀れみ悼む者は誰ひとりいませんでした。  あの子が、貧しくてみすぼらしい格好をしているというだけで穢らわしいと決め付けて、優しく真面目な心を称える者はひとりもいなかったのです。  守り神になって救われる橋姫の物語が大好きだったあの子が、ちっとも救われていませんでした。  あまりにひどいと思いました。  私は、声を上げて泣きました。  いっぱい、いっぱい泣きました。  お姉ちゃんやおくうが、私のことを励ましてくれました。  いっぱい、いっぱい励ましてくれました。  励まされて。  励まされて。  私は、少しずつではありましたが、前を向いて歩くことを思い出してゆきました。  自分が、お姉ちゃんや、おくうや、狼たちにまで愛されていることを知りました。  やがて、みんなのおかげで、私は元気を取り戻すことができました。  私はあの子のことをずっと思い出にとっておこうと考えました。  そして、あんなふうに優しい子に、また会えるといいなと思いました。  力のことで忌み嫌われても、前向きに、前向きに、うしなわれてしまった恋心を宝物のように大事にしながら、けれど明るく元気な姿で生きてゆこうと決めました。  優しいあの子が、そうしていたように。  だけど――私は視てしまったのです。  狼の頭領が病気で亡くなり、群れの者たちが病を操る土蜘蛛を捜して騒ぎ立てていた頃のことです。私は山の者たちの心が暗闇に塗り潰されていくのを憂えて、気分転換に人間の里へ遊びに行くことが多くなっていました。  人間たちは皆、里の守り神として崇めていた『大神さま』の死を悼み、悲しみに明け暮れていました。中には、以前にあの子のことを罵っていた人々もいましたが、それでも、私もお姉ちゃんも大好きだった『大神さま』のことを慕ってくれるのはとても嬉しいことでした。  復讐心や怨みの念が渦巻くどす黒い空気に染まった山の中にいるよりも、哀しくもあたたかな信仰心に満ち溢れた人間の里にいるほうが、ずっと明るい気持ちになれました。  私はある日、たまには一緒にお散歩しようと言って、お姉ちゃんを人間の里に誘いました。お姉ちゃんは、鬼たちとの仲介役として私よりも『大神さま』とのつながりが深かったので、藁葺き屋根のおうちでずっとしょんぼりしていました。だから私は、お姉ちゃんに元気になってもらいたくて、お散歩に誘ったのです。  そうして久しぶりに、お姉ちゃんと一緒にお散歩していた時のことでした。  私は偶然にも、あの男を見つけてしまったのです。  人々の心を覗いていくうえで、聞き知ってはいました。あの子を連れ去った男がいるということも、その男があの子にひどいことをしたのだということも。  だけど、そいつの心を視た時に、私は怒りとも憎しみとも悲しみとも言い知れぬ感情に駆られ、激しい吐き気を催しました。  そいつは、いちばんの当事者のくせに、あの子が死んだことにちっとも責任を感じていないどころか、あの子を卑下したり罵詈雑言を並べ立てたりして、悪魔のように笑っていたのです。  あの子が勝手に死んだことで自分の印象が少しだけ悪くなっただとか、あの子がいなくなったせいで薬の実験台を見つけなければならないだとか、その男の心にはそういうことを思い浮かべて笑った記憶が見出されるばかりでなく、私の大好きなあの子とは関係のない分野においてにも、悪辣で卑猥で傲慢なことばかり考えていました。  私はもうひとつ、あまりにもえげつない記憶を見つけてしまいました。  女をはべらせながら、「里には伝統だの信仰だのと古臭い人間ばかりだ、西洋の新しい技術をもってすれば、神すらたやすく殺せるのだ」と豪語して、泉に毒薬を投げ込んだ記憶が、はっきりと私の眼に映りました。狼殺しの犯人は、病を操る土蜘蛛などではありませんでした。『大神さま』は、こんな腐りきった男の自分勝手な行いのせいで亡くなったのです。あの男のせいで、頭領を失った狼の群れは暴走し、鬼の制裁を受けなければならなくなり、滅びの結末に至ってしまったのです。  私は胃の中身が熱くなるのを抑えきれず、道端に吐き戻してしまいました。  お姉ちゃんもそいつの心を覗いて、とても怒っていました。  あんなに怒ったお姉ちゃんの姿を、私はほかに見たことがありません。なぜならば、あの左目に眼帯をつけた男は、『大神さま』を殺しただけでなく、子供の頃におくうの母親を棒で叩き殺した張本人でもあったからです。  私は、大好きだったあの子と、『大神さま』と山の平和、幼かったおくうの平穏をすべて奪い取ったあの男が、憎くて憎くて仕方がありませんでした。  私たちがあの男の穢らわしい心を覗き、真実を知った日――狼たちが暴走してひどい騒ぎを起こし、鬼の制裁を受けて全滅してしまいました。もう少し早く知っていれば、また山のみんなが平和に暮らすことができたかもしれないのに。そう思うと、悲しみや寂しさよりも、ただでさえ私の心の大半を占めていたあの男に対する憎しみが、いっそう膨れ上がるのを感じました。  お姉ちゃんもあの男に対して、私と同じくらいの憎しみを抱いていたはずなのですが、制裁を下した一本角の鬼に『大神さま』を殺した本当の犯人を教えただけで、ただじっと我慢して、憂えるような目をしているだけでした。お姉ちゃんは、その時にはもう、憂鬱に支配されてしまった地上を立ち去り、旧地獄と呼ばれる土地へ移り住むことを考え始めていました。  私ばかりが憎しみに駆られ、もどかしく、どす黒い気持ちをどんどん成長させてゆきました。お姉ちゃんはそんな私を見て、「もうすぐ地底に引っ越す、そうしたらどんなにひどいこともいつか忘れることができるから、それまでこらえるように」と言ったのですが、私にはむしろ、あの子や『大神さま』を殺した男のことを何事もなかったかのように忘れてしまわなければならないということが、どうしても納得できませんでした。  後から思えば、あれはお姉ちゃんの優しさだったのです。小石のように可愛らしい少女のままでいてほしいという、お姉ちゃんの切なる願いだったのです。  私はその時はもう、すっかり泥沼のような怨みや憎しみの感情にとりつかれていたので、そんなお姉ちゃんの気持ちにはちっとも気付くことができませんでした。  もしもあの時、お姉ちゃんの思いやりに気付いていたら、私は自分の心を失うこともなかったのかもしれません。      ***  転機。  こいしのもとに、驚くべき幸運が訪れた。  どういうわけだか知らないが、頭上に開いた大穴の向こう側から桶が降ってきて、フランの頭に思い切り直撃したのだ。宙へ投げ出されたフランが今にも意識を失おうとしていることが、こいしにはハッキリと解る。  ――あの子を狂気の渦から救い出さなければ。  こいしは決心を強く固めた。  フランの純粋な心は、トラウマによって植え付けられた意識的な狂気に押しやられ、無意識の領域に幽閉されてしまっている。気を失いかけている今ならば、こいしは確実に狂気を退けて、フランの本来の無垢な心に到達することができる。  姉のさとりには触れられなかった領域に、こいしは触れることができる。  それは、こいしの勇気であり、優しさであった。  皆が決死の覚悟でつないだバトンを引き継いで、旧都の危機も、フランドール・スカーレットの狂気も、もうすべておしまいにするのだ。  だが――そう簡単には、いかないようだ。紅い悪魔の狂気は、一筋縄ではいなすことができない。 「……っ!」  投げ出されたフランの身体を中心に、渦状に展開する紅い弾幕。  重ねられた何枚もの壁。隙間なく円形に整列している障壁の途中には、時おり穴の開いている箇所が見受けられる。  禁忌――恋の迷路。  円の外側、こいしの浮いている位置がスタート。  円の中心、下方へ落下してゆくフランの肉体がゴール。  意識の飛ぶ寸前に、フランは空中に巨大な迷路を作り出したのだ。暴走した狂気によって勝手に展開された迷路は、術者が気を失った程度で消えるものではないらしい。  そして、フランと共に地面に向かって降下してゆくこの巨大な迷路は、旧都の上空に覆いかぶさるように展開している。  時間内にクリアしなければ、まだ被害を受けていないエリアさえも包括しながら、まとめて吹き飛ばされてしまうことは間違いない。 「『恋の迷路』……もしかして、私へのあてつけかな?」  あんなに近くに見えていたのに、あまりにも遠い距離。  あんなに近くで見守っていたのに、話しかけられなかった、臆病な自分。  かつてこいしがゴールに到達できなかった迷路が、今、目の前に展開している。  だが、今のこいしは、昔とは違う。 「残念だけど、フランちゃん。もう怯えて見ているだけの、臆病な私じゃないんだよ」こいしは迷路の入口に、光り輝く眼差しを向けた。「あなたのもとに、必ず辿り着いてみせるんだからねっ!」  古明地こいしは、もう迷わない。  皆がくれた勇気を握り締めて、この惨事を必ず終わらせるのだ。  誰ひとり悪者のいない、この馬鹿みたいな大騒ぎを。 「恋の埋火」  ハートの矢。  淡い恋の形をした大きな矢に乗って、こいしは迷路の中に飛び込んでゆく。  復燃する恋心が、迷路の中心を目指して進んでゆく。  紅い通路。  壁に激突する。  痛い。  だが、進む。  この程度の痛みなど、些末。  狂気に溺れることは、もっと苦しいはずだ。  そうして見つけた、壁の穴。  くぐり抜ける。  旋回して、さらに奥へ。  再び現れる、紅い壁。  複雑な迷路。  先の見えないもどかしさ。  気の遠くなるようなまわり道。  だが、耐える。  耐えることも、また、恋。  何度も、壁にぶち当たる。  しかし、それもまた、恋。  進んで、  進んで、  曲がって、  進む。  奥へ、奥へ。  進むことをやめない。  そうして、ゴールに辿り着くのだ。  傷つき、苦しみながらも。  胸の痛みに、悶えながらも。  想いの矢は、前進する。  射止めるべき者を目指して。  想いの矢は、直進する。  救うべき者を目指して。  想いの矢は、驀進する。  皆の幸福を目指して。  奥へ、奥へ。  さらに奥へ。  待っていてね。  必ず、到達する。  壁の穴が、狭くなる。  それでも、進む。  隙間を縫って、もっと奥へ。  中心に見えた、光。  待っていてね。  もうすぐ、到着する。  お姉ちゃん。  お燐。  おくう。  そして――私の大好きだった人。  ほら、見てよ。  私は、こんなにも。  前へ。  前へ。  強いハートで、前進できる。  紅い迷路を、進んでゆける。  苦い恋路を、進んでゆける。  ――見えた。  ひときわ紅い光。  もう、諦めない。  もう、怯えない。  必ず、救い出す。  そう決めたのだ。  だから、私は―― 「迎えに来たよ」  菜の花色の少女が言った。  真っ白な世界。  何もない世界。 「あなたは、だあれ?」  紅い服の少女が言った。  さっきまで、水色の服を着ていたはずなのに。  やっぱり、これは夢なのだ。  だとしたら、こんなに寂しい夢から、この子を早く救い出してやらなければ。  菜の花色の少女は、語りかける。  紅い服の少女は、首を傾げて、それに応える。 「私は、こいし」 「こいし?」 「うん」 「こいが、しんじゃうの?」 「あはは。そのとおりかも」 「わたし、フラン」 「フラン」 「うん。フランドール・スカーレット」 「かっこいい名前だね」 「えー。かわいいのが、いいな」 「そっか、ごめん」 「いいのよ、かっこいいでも、わたし」 「そうなの?」 「うん。でも、さびしいのは、きらい」 「そうだね。私も、嫌い」 「ここは、さびしいよう」 「もう、大丈夫だよ」 「どうして?」 「私が、迎えに来た」 「こいしが、ここからだしてくれるの?」 「そうだよ」 「うれしい」 「それは良かった」 「う」 「どうしたの?」 「あ」 「平気?」 「う、ん。ちょっと」 「?」 「ずうっと、さびしかったの」 「うん」 「だから、なんか」 「うん」 「わたし、ないてる」 「うん」 「ごめん、ね」 「泣いても、いいんだよ」 「う、あ」 「ほら。私が、ぎゅうってしてあげる」 「う、ん」 「あったかいね」 「うん」 「寂しかったね」 「うん」 「もう、大丈夫だよ」 「うん――」  真っ白な世界で、二人の少女が抱き合っている。  夢みたいに。  恋みたいに。  ハートの形で、強く抱き締め合っている。  菜の花色の少女は、天使のように優しく微笑んでいた。  紅い服の少女は、涙を流しながら、小さな声で呟いた。 「ありがとう」      ***  私はその日の朝、人間の里へ遊びに行くと言って、家を出ました。  お姉ちゃんは、私の後ろ姿をただ見送っていたので、ちっとも気付いていなかったようです。とんでもない憎悪の感情を抱いて、私が出かけてゆくのだということに。  私の憎しみはもはや、お姉ちゃんにすら悟られないほどの無意識に成り変わっていたのでしょう。  私は人里におりて、あの男を捜しました。  殺してやるという衝動に後押しされながら、幽霊のように彷徨って、左目に眼帯をつけた男の姿を捜し続けました。  日も暮れ始めた頃、私はようやく、薄暗い路地であの男を見つけました。  あいつはその時も、ひどく悪辣なことばかり考えていました。誰かに見つかってはいけないような危険な薬の取引を行うために、人通りのない道を歩いていたのです。  私は猫背になって歩くその男の前に、不意に立ちはだかりました。  ぶつかりそうになったくらいのことで、そいつは汚い言葉を並べ立てて文句を言ってきました。魚の腐ったようなにおいのする唾を吐き散らして怒鳴る反面、あろうことか、そいつは心の内では私の身体を使った金儲けの算段を組み立て始めていました。  私は、おくうの母親を殺したことについて、問い質しました。  そいつは、へらへら笑いながら、たかが鴉の一羽を殺したくらいだ、いちいちそんなつまらないことは覚えていないと言いました。  私は、『大神さま』を殺したことについて、問い質しました。  そいつは、自慢げに鼻を鳴らしながら、神をも殺すことのできる西洋医学の素晴らしさと、薬学にも秀でている己の能力を自慢しました。  私は、大好きなあの子を死に追いやったことについて、問い質しました。  そうしたら、  そいつは、  そいつは、  そいつは、  ――穢らわしい雌豚のことなど思い出させるな。気色の悪い娘だ。  言い、まし、た。  私には、もう、  何も、考えることが、  できな、くて。  気が付いたら、狂ったような、悲鳴、が。  えっと……ごめん、なさい。  だいじょうぶ、です。  ちゃんと、おはなしできます。  深呼吸、します。  すう、はあ。  すう、はあ。  はい、ありがとうございます。  落ち着きました。  もう大丈夫です。それでは、続けましょう。  ええ……すでに、お解りのとおりです。  私が、その男を殺したんです。  両手の爪を一枚一枚はぎとって指を一本ずつ折り曲げて両腕を肩のところから引きちぎって傷口に指を突っ込んで血管を引っ張り出して神経を引っ掻き回して両脚にも同じことをしてまだ肉のこびりついている骨を叩き折ってその骨の先端で腹を裂いてピンク色の内臓をえぐりとってぐちゃぐちゃになるまで踏み潰して――  醜く腐りきった心にはお似合いな、バラバラのおぞましい姿に変えてやったんです。  あの子がどんな気持ちで死んでいったのか、しっかりと解らせるために。  それでも、すべては、無意識の行為でした。  だから、すべては、私がはっきりと自覚しないうちに終わっていました。  少なくとも、そいつの肉をズタズタに引きちぎっている最中、私が何も感じていなかったことだけは確かです。      ***  上空を覆い尽くしていた紅い弾幕が砕け散り、煙となって消えてゆく。  お燐は地に足をつけて、まさに旧都の上に降り注がんとしていた破滅の未来が、まるで夢の中の出来事であったかのように消滅してゆく荘厳な光景を見上げていた。  すべての紅い霧が晴れた時、その中心にたたずむ二つの影が目に入った。  お燐は驚愕した。  古明地こいしと、あの『紅い悪魔』と呼ばれた少女が、抱き合っているのだ。  紅い悪魔はどうやら気を失っているらしいが、倒れ伏した橋姫と地獄鴉をかばうことに必死であったお燐には、いったい何が起こったのかさっぱり解らない。窮地に陥ったこいしを助けようとした時、穴の上から何かが降ってきたところまでは、見えていたのだが――  抱き合ったまま動かない二人の姿を、お燐はしばし呆然として眺めていた。 「いたわ、あそこよ!」  しばらくすると、突然、上空から聞き慣れぬ声が響いてきた。  紫色の髪をした少女が、兎と狼を引き連れて降りてきたのだ。  困惑したまま、警戒すべきかどうか判断もつけられずに眺めていると、兎の少女が真っ先にこちらへ飛来してきた。残りの二人は、こいしのいるほうへ駆けつけて行き、何か話し始めていた。 「大丈夫ですか、黒猫さん」兎の耳を生やした少女が、お燐に語りかける。 「は……はあ」 「怪我人を助けに来ました」兎の少女は、整然とした口調で自己紹介をした。「私は、鈴仙・優曇華院・イナバ。うどん粉ではありませんのであしからず。背中に重症を負った鴉がいるはずです。ああ、そちらの方ですね。それではただちに、応急処置を」 「ちょ……ちょっと、アンタ」あまりにもてきぱきとした物言いに、お燐は思わず疑問を投げかけた。「いま来たばっかりで、どうして、そんなこと知っているのサ」 「降りてくる途中で、ずっと見ていたからです」  背中でそう言いながら、鈴仙はおくうの傍まで駆け寄ると、どこからともなく包帯や薬の瓶を取り出し始めた。  お燐が首を傾げていると、こいしと話をしていた紫髪の少女が、分厚い本を抱えてこちらへ歩み寄ってきた。 「お久しぶりね、黒猫さん」 「エッ?」  言われ、お燐はいっそう首を傾げた。どこか主人にも似た落ち着いた雰囲気を漂わせている少女だが、過去にこのような紫色の髪の人に会った覚えはない。 「無理もないわ、『一方的に』お久しぶりだもの。私はパチュリー・ノーレッジ」 「? ?」 「ところで」お燐の疑問をよそに、パチュリーは話を切り換えた。「『妹様に心を壊されてしまった橋姫』というのは、そこに倒れている黒髪の人で間違いないわね」 「は……はい」妹様、という言葉がよく解らなかったが、お燐はうなずいた。 「そう。じゃあ、早いうちに修復するわ」  修復、とはどういう意味だろう。お燐には理解できないことが多すぎる。  向こう側を見やると、こいしはもう抱き締めることはやめていたが、なおもフランの身体を支えるように抱きかかえて座っている。その近くには、桶と一緒に緑色のおかっぱ頭の少女が転がっていた。  こいしのかたわらで軽く言葉を交わしていた白毛の少女が、周囲をぐるりと眺め回したのち、桶入り娘を拾ってこちらへ駆けてきた。おかっぱ頭は、桶の中で目を回して気絶している。 「魔女サン、見た目ほど深刻な状況ってワケじゃなさそうッス」狼の少女は、お燐のほうへ軽く会釈しながら、パチュリーの背中に話しかけた。「壊れている建物は多いし、怪我人もいるッスけど、その鴉サンよりひどい傷を負っている人はいません」 「そう。『見渡し』ご苦労さま」  パチュリーは、仰向けに倒れているパルスィの額に手を当てたまま、チラと振り返ることもせずに話した。  それから、白髪の少女が、『犬走椛』と自己紹介する。 「状況は、降りてくる途中で把握済みッス。とは言っても、最初は紅い弾幕が邪魔して、下のほうまでよく見えなかったスけど」  椛は、千里眼を持つ白狼天狗なのだという。 「そういうこと。うちの犬は、鼻よりも目のほうが利くのよ」 「ちょおおッ! なんスかそのひどい言い方? 私、犬じゃないし! しかも、私はいつから魔女サンのペットになったんスか!」 「細かいことは気にしない」パチュリーは本のページに視線を落としたまま、静かな口調で言う。「あなたは兎さんを手伝いなさい。持ち合わせの道具だけじゃ、足りないでしょうから」 「あっ……はい! 了解ッス!」  直前まで喚き散らしていたはずなのに、パチュリーの命令を受けるなり、椛は桶を抱えたまますぐに駆けて行った。その姿は、本当に犬のようである。 「何か仕事を与えられるのが嬉しいのよ」初めて微笑みを浮かべながら、パチュリーは独り言のように語った。「ちなみに、いま与えた仕事は、兎さんのために医療道具を運んでくるパシリ」  やっぱり犬だ。  お燐は思わず笑ってしまった。いつの間にか、安心感を抱いていたのだろう。現れてすぐ、誰かを助けようと迅速な行動を見せてくれたことが、信頼できるという意識につながっていた。 「魔女さんとやら。あの兎さんは、お医者さまなんですカイ?」  お燐は、紫色の後ろ頭に尋ねた。 「あら。何も聞いていないの?」 「えっと。名前だけ聞いたネ」  確か、ウドンコとか、なんとか。 「そう……本当に、自分勝手な兎さんね」そう言って、溜息をつく。「あれは、私の知識でさえかすむくらいの天才薬剤師、『月の頭脳』の下で働いている兎よ」 「『月の頭脳』?」 「まあ、とにかく凄い人ってことよ。もう何億年生きているのか知らないけれど、医学、薬学、カウンセリングまで、治療に関することなら何でもお任せあれってトコね。兎さん自身はあくまで見習いだけど、溶けた妖精の羽根とか、イレギュラーなものまで治せるくらいには優秀だから、信用してもらって大丈夫」  そして、パチュリー・ノーレッジは、『紅い悪魔』を知り尽くした魔女だという。  つまるところパチュリーは、水橋パルスィの壊れてしまった嫉妬心を魔法によって修復することのできる、ただ一人の存在なのだ。  パルスィの額に手をかざして、何か小さく呪文を唱える。すると、パチュリーの手のひらから、ぼんやりと光が生じた。  お燐は黙って、魔女による心の修復作業を眺めている。 「あなたの主人は、上で眠っているわ」ふと、パチュリーが口を開いた。 「さとり様が?」  敬愛する主人の話題が出たので、お燐は驚く。 「誤解しないでね。『眠っている』というのは、そのままの意味よ。妹様――あなたたちが『紅い悪魔』と呼んでいるあの子が、あなたの主人と同じ服を着ているから、勘違いしていたでしょう」  その通りだった。  お燐は、水色のスモックブラウスを『紅い悪魔』が着ていたので、主人が何かよくない目に遭わされたのだという想像をして、悲しい気持ちになっていたのだが。 「さとり様は、ご無事なんですカ?」 「ええ。無事……よ。まあ、ね」  そう言って、パチュリーは兎の少女のほうを一瞥した。それがどういう意味の合図なのかは、お燐にはよく解らない。 「事情は、あの『こいし』という子にすべて聞いたわ。あの子は、妹様を止めるために戦ってくれたそうね。感謝しなくちゃ」魔女はそう言って振り返ると、初めてお燐の顔を正面から見た。「それから、あなたたちにも」  その真剣な表情に、お燐は何か温かいものを感じた。  先ほどから胸のうちに芽生えていた奇妙な信頼感は、疑う余地のないものとなった。 「そういうわけだから、黒猫さん。もう心配ないわ。お疲れさま」  この場は、地上から降りてきたこの人たちに任せていい。  そう思った瞬間、お燐は全身から一気に力が抜けてゆくのを感じた。  旧都の火は鎮まりつつある。  紅色の狂気が、少しずつ薄らいでゆくように。  お燐にはまだ解らないことがたくさんあったが、ひとまずのところは、今できることをやろうと思った。傷ついた地獄鴉や、橋姫を癒す手伝いをさせてもらおう。  黒猫は振り返って、爆心地の中心点をいま一度だけ見つめ直す。  山高帽をかぶった少女が、悪魔と呼ばれた少女の髪をそっと撫でつけていた。      ***  あの男をバラバラにして殺す時に、私は無意識の力に目覚めたのです。  道端の小石しか持ち上げられない私が、人間の身体を素手で引き裂くことができたのも、きっとそのお陰でしょう。  火事場の馬鹿力、という言葉をご存知ですね。  人間は本来、もの凄い力を有していますが、普段は身体に支障が出ないように、無意識によって抑制されています。しかし、いざ緊急時になると、その制御が外れて、本来持ちうる百パーセントの力が発揮されるのです。  私は妖怪ですが、私の身体もそれと同じ原理によって動いています。  つまり私は、無意識を操る能力を手に入れたことによって、いつでも百パーセントの力を発揮できるようになったのです。  お姉ちゃんは、私を捜しに来て、後からバラバラになった男の死体を見つけたそうです。その死体は、お姉ちゃん自身も、お燐も、おくうも、一本角の鬼も、土蜘蛛も、嫉妬と怨みの念に駆られて死んでいったあの子も、皆が望んでいたはずのものでした。  けれどもお姉ちゃんは、死体を一目見た時から、私が犯人だということに気付いていたのだと思います。だからこそ、私がつくった死体を見つけた直後に、地底へ行く決意を固めたのでしょう。  心を読む能力を忌避し、妹である私の心を壊した地上の世界には、もう住むことはできないと思ったのでしょう。  私はというと、結局、あの男にはあの子の苦しみを理解させることができず、しばし呆然としていました。  死の間際にあの男の心に浮かんでいた思いは、恐怖以外には命乞いばかりでした。  最期まで、自分のことしか考えることのない、最低な男でした。  元より嫌われることが嫌いな臆病者であったことと、あの女の子みたいに優しい心を探し求めている最中に、あまりにも醜悪な正反対の心を覗いてしまったことで、私はもう本当に心を読むということが嫌になってしまいました。  あの男を殺した直後から、私はもう誰にも姿を認められることのない、無意識の存在に成り変わっていたのです。  私はその後、ぼんやりと地上を彷徨い歩きました。しばらくの間、ずっと血まみれのままでいましたが、誰ひとり気付くことはありませんでした。  それから、お姉ちゃんが地底へ行くという話を聞きつけて、ただ無意識に、その後を追って地上を去ったのです。以来私は、滅多なことでは誰にも気付かれることなく、何らかの具体的な考えを抱くこともなく――地霊殿というお屋敷の中で、百年以上もひっそりと暮らし続けてきました。  私は、故意を殺し、意思を亡くした、無意識の幽霊となったのです。  だって、それが私の名前でしたから。
エピローグ
【エピローグ】 「――私が……地上を去ったのは……その事件の……直後のことです。これで……おしまい。こんな感じで……良かったかしら……」 「ええ、素晴らしいわ。ありがとう」  紫髪の少女が手を差し出して、水色の服を着た少女と握手をした。  紅魔大図書館。  吸血鬼の館の地下に存在する広大な空間は、数日前の『謎の光』の被害には巻き込まれず、変わりのない姿を留めていた。自分の部屋を消し炭にされた館の主人は文句を垂れていたが、いかに図書館の魔女といえどもこのような事態を予測することはできなかったのだし、仕方があるまい。紅魔館の主人のために魔女ができることは、「運命はあなたの分野でしょう」と指摘して、肩をすくめてみせることくらいである。  奇しくも災厄を回避した大図書館において、パチュリー・ノーレッジと古明地さとりは、木製の長テーブルの隣同士の席に腰掛け、身体を斜めに向けて対談している。  紙の上に羽根ペンを走らせていたパチュリーは、顔を上げてから言った。 「いい本が書けそうだわ」 「それは……良かった……」  二人は笑顔でうなずき合う。  パチュリーは、地底の妖怪たちに向けられた誤解を解くために、真実の姿を描き出した本をつくろうと提案した。さとりはこれを快く承諾し、協力してくれることになったのである。パチュリーがさとりの話を真摯な気持ちで聞いていたことと、さとりの話がパチュリーの心を打つ内容であったことから、二人は早くも意気投合した。  しかし、二人が関わりを持つようになった本当の理由は、別のところにある。  パチュリー・ノーレッジと古明地さとりは、数日前に地底に巻き起こった『旧都崩壊事件』の、隠れた共犯者なのだ。  古明地さとりは、フランドール・スカーレットを狂気に至らしめたトラウマを取り除き、救いの手を差し伸べようとした結果、暴走に至らしめてしまった張本人である。  そして――パチュリー・ノーレッジは、実は最初からフランを地底に放つことを考えていた、文字通りの『魔女』なのであった。  一年前、フランが行方不明になるその日まで、パチュリーは「地底には縮小された地獄の跡地が存在する」という事実だけを頼りに、フランのストレス解消のために広い『遊び場』があればいいと考え、初めから地底に穴を開けて解き放とうとしていたのだ。そうすることで、地震のようにたびたび爆発してしまう『心のひずみ』をなくし、少しでも無邪気な姿でいてほしいと考えた。  パチュリーは、地底に向けて穴を開けるための行動を積極的に示していたわけではない。しかし、フランの狂気が爆発した際に、わざわざ『地下室』を選んで閉じ込めていたのは、地底に近い場所のほうが、いつか進出することになるかもしれない『遊び場』の環境に近付け、順応させることができると考えたためであったし、フランが脱走しないように張っているはずであった魔法結界を、実は床の部分だけわざと軽いものにしており、勝手に穴を開けて地底への道を開いてくれればいいという希望的観測まで抱いていたのだ。  結果、下側からのアプローチではあったが、当初のパチュリーの希望どおりに地下室の床に穴が開き、フランは好奇心のままに地底へと降りていってしまった。しかし、それはパチュリーが「地底には忌み嫌われた妖怪たちが暮らす都市があり、鬼たちが管轄している」という情報を知った直後のことであり、フランが帰ってこないということまでは想定していなかったために、図書館の魔女はひどく狼狽する羽目になってしまったのである。  二人は、フランに幸福を与えようとした共犯者なのであった。  そして今は、フランの暴走を秘密にしている共犯者でもある。  旧都には、多数の怪我人が出たが、奇跡的に死者はひとりも出なかった。理由は、警備の鬼たちの活躍もそうであったが、フランが最も盛大に暴れていた『大穴の下』のエリアが、怨霊たちが生活している地域であったためだ。初めから死んでいる者たちは、これ以上死にようがない、というわけである。  それでも、甚大な被害が生み出されたため、鬼たちによる厳しい責任の追及からは逃れられない。暴走していた張本人だと判れば、フランの命は危ういだろう。  だから二人は、誰も『紅い悪魔』など見ていないという事実をでっちあげたのだ。 「ところで……どうして、妹様はあなたの服を着ていたのかしら」 「それは、あなたが……フランの服に……逆探知の魔法を……かけていたから。だから……見つからないように……服だけを破いて……灼熱地獄に放り捨てた」 「まあ、そんなとこだろうと思っていたわ。だけど、いま私が聞きたいのは、そういうことではないの」 「……?」 「どうして、あなたが着ていたのと同じ服を、フランも同時に着ていたのかってこと」 「ああ……それは……」さとりは恥ずかしそうに、顔を赤らめた。「昔……ある人に褒めてもらって……お気に入りの服だったから……たくさん持っているの……」 「ふむ。その話は初耳だわ。確かに、似合っているわね」 「ありがとう……。でも、あの方は……今……どこにいるのでしょう……。紫色のドレスを着た……素敵な方……」 「何ですって?」パチュリーは眉をひそめて、問いかけた。「そいつは、八雲紫という名前ではなかった?」 「いえ……違うわ。似ているけれど……違う人。名前は……何と言ったかしら……?」  パチュリー・ノーレッジは首を傾げて考えたのち、脳裏をよぎった信じ難い名前を振り払った。  さとりは宙を見てぼうっとしているが、今、自分が心に思い浮かべた名前を視ただろうか。だとしたら、何も反応しないので、間違いであると判断していいだろう。その名前が出てくることだけは、絶対にあり得ないのだ。 「とにかく、あなたがお気に入りの服をたくさん持っていてくれたお陰で、言い逃れるための良い口実ができたわ」  誰も『紅い悪魔』など見ていない。『水色の悪魔』ならば多くの人が目撃したかもしれないが、薄暗い上空で暴れまわる狂気の姿には、純真無垢なフランドール・スカーレットという名の少女を特定する要素はなかったのだ。  二人は示し合わせて、『紅い悪魔』の姿を知る人物を口止めするように計らった。  ここまで協力の姿勢をとることができるのは、フランを救いたいという純粋な気持ちはもちろんのこと、互いに恩もあるためである。  地霊殿の者たちが、力を合わせてフランを狂気から救い出す形になったこと。  反対に、魔女が率いた地上の者たちが、傷ついた地霊殿の仲間を救ってくれたこと。  だからこそ、パチュリーは恩返しとして、地底への誤解をなくすための本を出そうという提案をしたし、さとりは恩返しのために、その提案を快く受け入れたのだ。 「さてと。次は、あなたの妹さんにお話を伺いたいところね」 「そうね……」さとりは心配げな顔で、下を向いた。「だけど……大丈夫かしら……」  古明地こいしは、フランとの戦いを通じて、百年ほど前に閉じてしまった『第三の眼』のまぶたを開き、かつての明るい姿を取り戻していた。  さとりの懸念は、過去の記憶を辿ることによって、こいしが再び心を閉ざしてしまうのではないかということにある。誰にも悟られず、誰にも嫌われず――しかし、誰にも好かれることもない、あのような寂しい姿には、もう戻ってほしくはないのだ。 「橋姫の記憶は、こいしちゃんしか知らないでしょうから、是非とも話を聞いておきたいところなのだけれど。まあ、無理にとは言わないわ」 「ありがとう……」さとりは顔を上げて、微笑んだ。「あの子次第だわ……。帰ってきたら……大丈夫かどうか……聞いてみましょう」 「そうね。帰ってくるまで、待つとしましょう」  そして、広大な図書館に、ペンを走らせる音が響き渡る。  パチュリーは、書き上げようとしている本のタイトルを、すでに決めてある。地底に起きたあの盛大な馬鹿騒ぎの模様をイメージして、二つの言語を混同させたアンバランスな名を付けた。  この本のことが天狗の新聞によって公表されたあかつきには、地上と地下は今よりもっと近くなるだろう。  優しき共犯者たちは、明るい未来を想像して、穏やかな微笑みを浮かべていた。      *** 「じゃじゃーん」 「うわー! お燐、その手紙! どこで見つけたの?」 「おくうの制御棒に入ってたんだヨ、この鳥頭ッ!」 「イテッ! あっ、そうか! そういえば、ずうっと持って歩いてたから、なくさないように腕の中に入れたままにしてあったんだー」 「……はあ。まったく、しょうもない鴉だわサ」  地底の深奥――地霊殿の一室。  黒猫と鴉が、無邪気に言葉を交わしている。  おくうは包帯を巻いてベッドに横たわっている身であり、お燐は心配して部屋を訪れた見舞い客のはずである。だが、黒猫が鳥頭に容赦なくゲンコツをかまして肩をすくめている風景は、騒がしくも平穏な日常の光景と変わりないものであった。 「……あなたたち。そう。静かにしなさい、まったく」  となりのベッドで、緑色の眼をした少女が不満げな声を上げた。 「ッはぁーい! お姉さん、ごめんにゃさぁい! お姉さんお姉さんお姉さん」  おくうのベッドから飛び移ってきたお燐は、そのまま布団に顔を埋めて、ぐりぐりと頬ずりをした。 「……ちょ。ちょっと、お燐。うわわわ。だ、だから、何であなたは。急に、そんな風になっちゃったのよ。その。猫かぶったみたいな」 「かぶってないモン、猫だモーン! にゃはァー」 「きゃあっ! な、何なのよ! もう!」  黒猫は、いよいよ橋姫の身体に抱きついてしまった。  水橋パルスィは、魔女の力によって魂の修復に成功し、一命を取り留めた。しかしながら、身体の傷を癒すのと同じで、しばらく療養する必要が生じたのだ。  パルスィを地霊殿で休ませているのは、お燐のたっての希望である。  嫉妬心を取り戻した橋姫は、髪の色も金色に戻っており、魂をつなぎとめる代わりに人間だった頃の記憶を再び埋もれさせてしまった。それでも、大好きな人に再会できたことが、お燐には嬉しくて仕方がなったのだ。  お燐は、パルスィの鼻先まで顔を近付けて、ニコニコ笑っている。 「ネーェ、お姉さん」 「……な。何よ」 「もっかい、名前呼んで」 「名前?」 「うん、うん」 「……お燐」 「はあーいッ! おねえさーん! お燐はここにいますニャー! ぎゅううううう」 「わわわわわわ! ねえ、ちょっと、変なトコ触らないで!」 「うにゃー」 「……ああ。まったく、もう。何がなんだか解らないわ……」  パルスィの記憶は、さとりやこいしにも引き出すことはできない。特に、こいしはそれを試みようと努力したのだが、それでも優しい少女の記憶をサルベージすることは不可能であった。危うい積み木の山から一片を抜き出すように、魂のバランスが崩れてしまうことが解ったのだ。  お燐は、それでも良かった。  水橋パルスィが、旧都や地霊殿の仲間たちを護ろうとして『紅い悪魔』に立ち向かったことは知っている。いかに嫉妬狂いであろうとも、濁流に呑まれて死んでしまったはずの人が、今もなお優しい心を持って、橋姫の姿となって救われているのだ。お燐には、それ以上のものを求める気にはなれなかった。  それに、心なしか、パルスィは以前よりも明るくなったような気がするのだ。  もう昔に戻ることはできないのかもしれないが、新しい幸福を掴むことができた。  そういう意味では、あの『紅い悪魔』に――フランドール・スカーレットという名の少女に、感謝すべきなのかもしれないとさえ思う。 「ちょっとー。お燐ばっかり、ずるいよー」  となりのベッドから、不満の声が上がった。  チラと見やると、おくうは自分宛てのものではないということを忘れて、手紙の封を開けている最中であった。しかし、幸せの絶頂にあるお燐には、もはやどうでもいいことであるようにしか思えず、指摘しようという意思すら湧かない。 「じゃあ、おくうにも、お姉さんに抱きついていい権利を与えよう!」  お燐は鼻を鳴らして、口を尖らせているおくうにウィンクを送った。 「わかったー! 私もー!」 「……ちょっ! ねえ。待ちなさい! なんであなたに決定権があるのよ!」  パルスィが怒鳴っているのをよそに、おくうは勢いよくダイブしてきた。 「うにゅー」 「きゃああっ! 苦しい、苦しい! ……と、いうか。そう。あなた、怪我治ってないでしょう! 静かに寝ていなさいよ!」 「やだー。お燐ばっかりずるいしー」 「こら、おくう! それ以上近づくことは許さないヨ! お姉さんのくちびるは、あたいのものなんだからネ! こいし様ごめんなさい!」 「わわわ痛い痛い痛い。ねえ。ちょっと、もう勘弁して――ん?」  幸福な苦しみの声を上げていたパルスィの前に、ふと一枚の紙切れが落ちてきた。  抱きつく二人を両側へ追いやりながら拾い上げると、それは、おくうが放り投げた手紙であることが解った。本来は、地霊殿の主人に宛てられた手紙である。  その手紙には、このようなことが書かれていた。 『近いうち、旧都で親睦会を行いたいので、よろしければ都合の良い日にちを教えて下さい。いい加減、地霊殿のことを誤解している連中が多すぎるので、たまにはみんなで盛大に飲み明かして、親睦を深められたらいいなと思っています。――星熊勇儀』 「……勇儀、さま?」  パルスィは食い入るように、手紙の文面を見つめている。 「うわ、こりゃまずいヨ、おくう。一本角の鬼だ。勝手に開けたら、叱られるヨ」 「あっ、そうだった! これ、私の手紙じゃないんだ!」 「いンや、さとり様ならお許し下さることだろうサ。でも、ちゃんと持ち主の手に渡らなかったことがバレたら、鬼さんにきっつーいお仕置きされるかもネェ」 「ええー、そんなぁー! 怖いよー、お燐、どうしよう!」 「サァ、どうだかネ。お姉さんは、どう思う?」  しかし、パルスィはお燐の問い掛けに応じない。手紙を開いたまま、じっと固まっていたかと思いきや――その身体を、ぷるぷると小刻みに震わせ始めた。 「ありゃ。お姉さん?」 「……私は。ええ。こんな手紙、もらってない」  前髪で隠れていた両目が、なんだか緑色の光を放ち始めた。  両側で手紙を覗き込んでいた二人が、ちょっぴり怖いなあと思い、そっと離れようとした時には、もう遅い。 「妬ましい。妬ましいわ……! あなたたち、なんて妬ましいのかしら!」  ――がしっ。 「わ。お姉さん?」 「うにゅ?」  両腕で、首をガッチリと挟み込まれる二人。 「妬ましい……! 妬ましいあなたたちは、こ、う、し、て、く、れ、る」  ぎりぎり。ぎりぎり。 「お、お姉さんッ? 痛い痛い痛いっ! やめてやめて首が折れる折れる折れる」 「うにゅううううう! 苦しいっ、苦しい! 傷口が開いちゃうよおおおおおお」 「勇儀さまっ! ああっ、どうして? 私にも招待状を下さいっ! 私も勇儀さまと親睦を深めたいのですっ! ああ、勇儀さまあああああああああああああああ――」  療養用のベッドが並べられた、地霊殿の一室。  黒猫と鴉と橋姫は、三者三様、まるでサンドイッチみたいになって、明るい悲鳴のハーモニーを奏でていた。      *** 「さぁて、被告人さんのお通りだよッと」  一本角の鬼が、地面に押し込むように土蜘蛛を座らせた。  勇儀は畳の上にあぐらをかいて、頬杖をついて対面する。  二人の周りでは、旧都の復興作業に疲れた鬼や妖怪たちが、冷たい飲み物を飲んだり、足を伸ばしたりして休憩している。 「もちっと、粛々と進めたかったんだがな。ちゃんとした場を用意できなかった。むさ苦しいトコだが、勘弁してくれよ。みんな、まだ色々と忙しいんだ」  ここは、鬼の詰所だ。  星熊勇儀は例の騒ぎが終わってからの数日間、周囲の状況が落ち着くまで、黒谷ヤマメを地下牢に幽閉していた。 「別に解放してやりたくて、出してやったワケじゃない。解ってるな?」 「勇儀、さま……」ヤマメが泣きそうな声を上げた。  勇儀には、知らないことがいくつもある。  パチュリー・ノーレッジが意図的に地下室を作っていたせいで、たまたま地盤が緩くなっていたこと。  旧都を破滅の危機から救ったとされる地霊殿の仲間たち――その主人こそが、『紅い悪魔』の暴走に一枚噛んでいたという事実。  そもそも『紅い悪魔』という、実際に自分が見たわけではない得体の知れない存在と、今回の大事件とを結びつけることのできる具体的な証拠を、勇儀は持っていない。 「なあ、ヤマメ。お前は、けじめをつけなきゃならん」  勇儀は壁際に置いてあった酒の瓶に手を伸ばしながら、ヤマメを追及する。しかし、ぼんやりとしか見えてこない事件の全容を前に、その心はもどかしく揺らいでいた。 「お前は、勝手に地上に干渉しようとした。しかも、旧都の天井に大穴を開けてだ。落盤の危険もあったし、何より、そのせいで変な奴の侵入を許しちまッた」 「それは……でも……正気じゃなくって、私……」 「ンなこたぁ知っている。土を腐らせて穴を開けるなんて、正気の沙汰じゃあない」 「ち……違います! そういうことでは――」 「黙れよ」  強く睨み付ける勇儀。  ただ、どことなく威圧感が足りない。  周囲の者たちをことごとく痺れさせるような恐怖が、不足している。  ここが休憩所になっているから、わざと控えめにしているというわけではない。  勇儀は実のところ、こんなことをしている場合ではないのに、と思っている。  内心では、もっと下らないことばかりを考えているのだ。  勇儀は、旧都の復興作業をさっさと終わらせて、近いうちに決行するつもりであった、地霊殿の連中との親睦会の予定を立てたくて仕方がない。旧都を救ってくれた恩もあるし、何より酒が飲みたくて仕方がないのだ。  何気なく酒瓶を手に取ったのも、そのせいであろう。しかし、杯が見当たらないので、かえって手持ち無沙汰になってしまった。 「黙って、待てよ」 「……?」  ヤマメは怯えながら、首をかしげている。  そう――勇儀は、待っているだけなのだ。  それなのに、『あいつ』が来ない。  せっかく、なけなしの舞台を用意してやったというのに。  そろそろ、現れてもいい頃だろう―― 「ああ……やっと来たか」  土蜘蛛はかつて、自分に罪を押し付けた男に、「死んで当然だ」と言った。  だとしたら、強引に罪を問い質そうとしている星熊勇儀は、「死んで当然」。  そして、地上において本当の理解者を得られた土蜘蛛は、「幸せになって当然」だ。  一本角の鬼にとって、土蜘蛛は愛弟子のような存在であった。  嫌われて、疎まれて。  それでも、誰かの役に立とうとして。  最後には、いわれのない罪で地底に追いやられた。  そんな奴に、これ以上の罪を押し付けるわけにはいかない。  ずっと面倒を見てきた、愛弟子の幸福を願ってやるのが、鬼の生き様。 「ヤマメを返してもらう」  勇儀の眼前で、黒のマントを翻し、威風堂々たたずむ人の影。 「リグル……!」  蛍の妖怪が、一本角の鬼を見下ろしていた。 「ンー? なぁに言ってんだ?」勇儀はあぐらをかいたままで、楽しそうに笑っていた。「ヤマメは、お前のモンじゃ、ねェよ?」  詰所の畳の上で休んでいた者たちは、何か面白そうなことが始まったぞとざわめき立ち、好奇の視線を浴びせている。  そんな軽はずみな空気を無視して、リグルは力強く言い放った。 「だったら、僕のものにさせてもらう」  見物していた者たちが、口笛を鳴らしてはやし立てる。  言い放った者の背後で、土蜘蛛が頬を赤らめていた。 「ほう」勇儀は笑みの形を崩さずに、ゆっくりと手をついて立ち上がる。「面白い。それで? こうやって、正面から来たってことは、覚悟は出来てるワケだよな?」  勇儀は睨みを利かせて、リグルの眼前に顔を寄せる。背の高い鬼が立ち上がると、見上げる側と見下ろす側の立場があっという間に逆転してしまった。  腰を下ろしたままのヤマメが、不安げな目を向けている。  ヒントは与えていたのだ。  それなのに、ヤマメが牢屋に入れられている時にこっそりと忍び込もうとはしなかった、その根性は見上げたものだと思う。  だが――リグルの返答はその行動に反し、勇儀が想像していたものとは違っていた。 「いや」  あっさりと。  否定。  力ずくで奪い取ってゆくものだと思っていた勇儀は、拍子抜けしてしまった。 「僕は、あなたに、見せつけに来ただけです。奪い去るところを」リグルは表情を変えずに、淡々と話した。「あんなわざとらしいことをされて、こそこそ出てきたのでは、ゴキブリだとか何とか言って罵られても文句は言えないでしょう」  もっともだ、と勇儀は思った。  思ってから、自分が相手のペースに呑まれてしまっていることに気付く。 「……じゃあ、どうするワケ?」  勇儀は気を取り直し、言葉に鋭さを含ませて投げつけた。  だが、今さら気持ちを引き戻したところで、もう遅かった。 「逃げるに決まっています。堂々とね」  閃光。  白くなる視界。  詰所の中が、悲鳴で溢れかえる。  言うが早いか、リグルは蛍の力で目くらましを仕掛けてきた。  長話をするつもりなど、毛頭なかったのだ。 「くそッ……!」  勇儀は舌打ちをして、反射的に目を覆ってしまった腕を下ろす。  チカチカと点滅する視界をまばたきで整えると――もうそこには、蛍の姿も、土蜘蛛の姿も残されてはいなかった。  何事かと騒ぎ立てて、詰所の入口にまで野次馬が押し寄せてくる。 「あーあ……やられたね、チクショウ」  勇儀は頭を掻きながら、畳の上にどっかりと腰を下ろした。  うつむく顔が怒りのような感情を漂わせ、空気を緊張させる。  周囲の者たちが、恐るべき四天王の姿を、固唾を飲んで見つめていた。  しかし―― 「ああ、そうよ。『飛んで火に入る夏の虫』とは、このことよオ! ハッハッハ!」  勇儀はふと顔を上げると、爆発したように盛大に笑い飛ばしてみせた。  詰所には、胸を撫で下ろしている者もいるが、一緒になって笑っている者もいる。  初めから、ヤマメを本気で追及するつもりなどなかった。  鬼として、四天王として――旧都を護る者として、裁きを下そうとする体だけを取りつくろっていたのだ。 「まったく。やってくれたなァ、蛍よ」  そして、勇儀はリグルを試そうとした。  ずっと面倒を見続けてきた土蜘蛛を、委ねるに足る肝っ玉の持ち主かどうか試すために、幽閉先のヒントを伝えてわざと待ち構えていたのだ。  しかし、ここまで鮮やかに掻っ攫われるとは思ってもみなかった。  正面から現れて、大勢の者たちに見せ付けて――正々堂々と、逃げていった。  拳で語り合うほうが好ましいと思う勇儀であったが、こればかりは、天晴れだと思うしかない。 「おい、みんな! 見ていただろう!」勇儀は腰を下ろしたままで、周囲に呼びかける。「今のは、地上の蛍だ! 私が通行を許可した。私から、ヤマメを奪いに来るかどうかの、度胸試しだった。そして、どうだ! 私は、見事に負けちまッた!」  詰所に居合わせた者たちも、光を見て駆けつけた野次馬たちも、盛大に騒ぎ立てた。  忌み嫌われたはずの土蜘蛛が、遂に地上の者に受け入れられたということなのだ。  地底ではいつも明るく、皆の人気者だった黒谷ヤマメの幸福を、称えぬ者などいるはずがなかった。 「あの蛍といい、ワン公といい……いま一度、地上の連中を見直す必要がありそうだ」  勇儀はそうつぶやいた後で、サンドイッチはウマかったしな、と小さく漏らした。  地上には、あの白狼天狗がそうしたように、妖怪に護られるだけの人間がいる。  それほどの信頼があり、平和がある。  それは鬼にとっての『争い』という名の平和とは違うのかもしれないが、地底のトップに位置する者が、そんな主張を押し付けるように掲げて構えて、自分勝手に人間たちを疎んでいるようでは、自分たちはともかく、いつまでたっても、理不尽にも地上を追いやられた妖怪たちが報われない。  そして、地上には、あの蛍のように、地底の者を真摯に受け入れようとする心を持つ者がいるのだ。  ――面白い。  地上と地下は、もっと歩み寄ってみたほうが、ずっと楽しいかもしれない。  勇儀はそう思いながら、手に取った酒瓶の栓を開け――さっきの騒ぎに乗じて、ちょうどいいところに転がってきたらしい、大きな桶の中に思い切り酒を注いだ。  杯がないのだから、もうこの際だし桶でもいいかと、よく確認もせずに引っ張ってきたのだが―― 「っ! っ!」 「……ん?」  気が付くと、桶の中から飛び出た緑色のおかっぱ頭から、大量の酒が滴っていた。 「っ! っ!」 「んおおおっ! まァたお前さんだったか! すまん、すまん!」  キスメは初めこそ怒ったような表情をしていたが、勇儀が笑いながら謝罪する様子を見て、もうすっかり呆れた顔になっていた。  桶入り娘も、傷ついた旧都の復興に協力しようとして、この場にいたのだろう。  勇儀はもう一度だけキスメに謝ると、思い切って酒瓶に口をつけ、ラッパ飲みした。  忌み嫌われた者たちの幸せを願うため――今はまず、壊れてしまったものを直してゆかなければならない。  勇儀はそういう決意を改めて心に宿しながら、周囲のはやし立てる声や、驚いたような視線さえ一緒くたにして飲み込むように、一気に酒瓶を傾けて空にした。  それから、機嫌よくキスメの頭をわしゃわしゃと掻き回しながら、もう一本の酒瓶を探す。桶入り娘は、口をとがらせて一本角の鬼を見上げていた。 「ハッハッハ!」  場所は、旧都の三丁目。  詰所が大きな酒屋に隣接しているので、飲みたい時に飲みたい酒が手に入る。そのため、この辺りを管轄している鬼たちは、他の区域の者たちから羨ましがられていた。  災厄を受けてなお賑わう、このしたたかな下町の商店街に――豪気な鬼の高笑いが、地上まで突き抜けてゆきそうな勢いで響き渡っていた。      *** 「――ま、自業自得だったと反省するしかないッスね」 「うう……解ってます……私は悪い兎です……」  川辺の木陰で、四つの影が言葉を交わしている。  兎の耳を生やした少女と、白毛の狼みたいな少女。  そして――幼い二人が、仲良くトランプで遊んでいた。 「さあ、次はフランちゃんの番だよ」 「はーい。えーっと、うんと……」  山高帽をかぶった少女が、手持ちのカードを前に掲げて、ニコニコ笑っている。  一方、紅い服を着た金髪の少女は、眉根を寄せて、伸ばした手を宙に泳がせていた。 「……ねえ、こいし」 「うん? どうしたの?」 「『4』のカードちょうだい」 「あはは、だめだめ。それは、ルール違反なんだよ」 「えー。だったら、わたしたちも『キョウハンシャ』すればいいのに」 「お姉ちゃんたちのこと? もう、それは内緒なんだよ」 「あっ、そーだった」 「あはは。おくうみたいなこと言うのね、フランちゃん」  フランがカード選びに熟考し、こいしが微笑んでいる横で、鈴仙と椛はまた別の会話を繰り広げていた。 「しっかし、あの二人に脅されるなんて、可哀そうすぎる境遇ッス」 「うう……仕方ないんです……私が悪い兎だから……」  鈴仙は、パチュリーとさとりの両者から「フランとこいしが山へ遊びに行きたいと言うので、付き添って面倒を見てやってくれ」とお願いされた身である。  実のところ、さとりを傷付けたことで負い目を感じている鈴仙にとって、それは拒否権なしの命令に等しい。さとりは女神のような表情で赦してくれたので、その本意は不明ながらひとまず安心したが、少なくとも、パチュリーは間違いなく意図的に鈴仙の失態を脅迫に利用している。さすがは『魔女』だ、としか言いようがない。 「まあ、そこまで卑屈になることもないと思うッスけど……」  少なくとも、今の鈴仙は、さとりの優しさを最もよく知る人物である。鈴仙は、勘違いから攻撃してしまったお詫びとして、地霊殿を始めとする地底の者たちの誤解をなくすために、さとりに視させてもらった優しい気持ちを地上の世界で積極的に広めていくつもりであった。 「かく言う私も、いつまた勇儀の姉サンに脅されるか解ったモンじゃないので――」  一方、椛は深々と溜息をつく。  例の『挟み撃ち作戦』失敗の後、桶のことについてさんざん文句を言ってやったのだが、逆にぶっ飛ばされたあげくに「私の勝ちだ敗者は何でも言うことを聞くというルールを今私が決めたヨシそれじゃあ過去のことは忘れろ過去のこと思っちゃダメイェイイェイェ!」とか何とかもはや意味不明な主張を一方的に言いつけられ、しまいには「ハッハッハ」と笑い飛ばされて、すべてをなかったことにされてしまった。  勇儀は、自分の考えを地上の人間たちに押し付けるようなことはもう二度としないとか言っていたが、全然変わっていないような気がする。  まあ、気の置けない者として扱ってくれているということなのかもしれないが、酔っ払いの鬼にこき使われるような羽目になるのは、はっきり言って大迷惑以外の何ものでもなかった。 「そういうわけで、私たち……似たり寄ったりッスよ、実際……」 「うう……我ら運命共同体ぃぃぃ!」 「ああ……我ら運命共同体ぃぃぃ!」  ひしっ。  抱き合う二人。  今ここに、奇妙な形をした友情の花が咲いた。  可哀そうな二人組であったが、彼女たちが、地上と地下の距離をぐっと近づけたことは確かである。  鈴仙・優曇華院・イナバは、地下妖怪の心を地上に広めていく。  犬走椛は、地上の者たちのたくましさを地底の鬼に強く伝えた。  そして、数日前の事件を通じて、ぐっと近付いた者たちが、ここにはもう二人。 「ウヌゥ……もしかして、こいし、ジョーカーもってる……?」 「ううん、大丈夫だよ。だって、ババは椛ちゃんが持ってるんだもの」  そう言って、こいしは美しいんだか何だか解らない友情のオブジェを指差した。  ジョーカーの行き先は、心を覗いて知り得たわけではない。横で抱き合っている兎と狼の手札が、丸見えになっていたのだ。 「あ。ほんとうだ」 「ほらね」 「うん。じゃあ、こいしのカードはあんしんしてひけるね」 「そうそう、心配ないよ。どれでも好きなの選んじゃえばいいんだよ」  次の瞬間、フランは『4』のカードを引き当て、大喜びした。  固く閉ざされていた心の扉を開いた古明地こいし。  狂気の渦から脱したフランドール・スカーレット。  地上と地下の、二人の妹たちは、もう決して断たれることのない絆で結ばれている。 「つぎは、れーせんのばんだよ」  フランがそちらへ手札を向けるのを眺めながら、こいしは竹製のランチボックスからサンドイッチをひとつ掴み出して、おいしそうにくわえた。  ランチボックスは、鈴仙がみんなで食べられるように持ってきたものと、三人が山に遊びに来ると聞いた椛が、知り合いの巫女に頼んで特別に作ってもらったものがあるので、ちょっとしたサンドイッチ・パーティーのようにもなっている。  やっぱりババ抜きは二人でやるものではないですね、と鈴仙はしみじみ呟きながら、フランの手札を一枚抜き取った。 「あれ?」  そうして、片方の眉を吊り上げる。  手札の向こう側では、引き抜いたジョーカーの道化師と同じ顔で、紅い服を着た少女がいたずらっぽく笑っていた。  椛の手札を知っていた鈴仙は、呆れたように肩をすくめていたけれど、紛れ込んできた二人目の道化師を追い出そうとはしなかった。  フランが手札に細工するところを見ていたこいしは、そのかたわらで可笑しさを味わうように、サンドイッチをゆっくりと咀嚼している。  ――もしかしたら、次の順番で、二枚のジョーカーが出会うかもしれない。  そう考えるだけで、こいしの心に幸せな気持ちがこみ上げてくる。  サンドイッチを、もう一口。  次の一口の前に、その食べかけを宙にかざして、ちょっぴり強く握ってみた。  上と下の、ふたつのパンがくっついて、仲良しになるのが嬉しかった。